Tag Archives: 限界集落

天空の里山 again “屏風”紀行(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、天空の里山 again “屏風”紀行をお届け致します。

編集者時代の下記の記事も併せて御覧賜れば幸甚です。

>>>>天空の里山紀行(2)屏風集落”

アップダウンの激しい町道屏風線を歩くこと約30分。ようやく景色が開けて、屏風の集落に到着。当初は気温も低く曇天の極みであった天候も、徐々に好転してきました。

屏風集落(1)

驚きのファーストインプレッション。最初の訪問から約四半世紀が経過していたのですが、当時の縁(よすが)をほぼ留めていました。「時が止まったよう」とは正しくこのこと。

かつて採薪・薪炭が主要産業であった様子も、令和に至っても十分過ぎる程伝わる情景が保たれていたのには誠に喜ばしく感じました。

集落の中心を通る道を歩いていると、明らかに通常のアサガオとは大きさの異なる、でもアサガオに似た見慣れぬ花を集落のあちこちで発見。

チョウセンアサガオ

おまけにハリセンボンの赤ちゃんのような種子もゴロゴロ。あとで調べましたら、チョウセンアサガオという名の外来植物でした。

インド原産で副交感神経に作用する毒性を持つこの植物。江戸時代に鎮痛薬の原料としてもたらされ、その後本州以南全域に帰化・野生化したようです。

なぜこのような山奥に自生しているのか。ここで薬種の産業が起こされたとは聞き及んでいませんので真相は不明です。

まずはともあれ、『知らないものには触らない』という普段の教訓だけは活かせたようです(笑)。

屏風集落(2)

集落はこの道を境界として、両側に住宅が点在しています。

無住集落ですから少なからず荒廃した箇所は認められますが、多賀・彦根周辺の廃村の中では比較的状態よく保たれています。

前回はこの界隈を訪れなかったのですが、恐らくその当時とそう大きく変わっていないと推察します。今でも人が出てきても何ら不思議はありません。

円徳寺

集落の中心部に位置する屏風唯一の寺院・円徳寺(えんとくじ)。

浄土真宗本願寺派の寺院で、創建は江戸時代初期の寛永4(1627)年。もとは彦根藩領の平田村(現在の彦根市平田町)に在する妙法山明照寺(みょうほうざん めんしょうじ)下にあった道場でした。しかし明照寺は円徳寺開山当時、まだ北面に隣接する集落の後谷にあったのです。

因みに小生も明照寺さんとは少なからず御縁がございます。

明治2(1869)年に集落を襲った大火によって円徳寺は全焼。その後再建されましたが、現在の堂宇は近年改修されたものと考えられます。

屏風地蔵尊

寺院の直ぐ西側に鎮座する地蔵堂。

円徳寺もそうですが、無住集落となった後でもかつての住民や檀家によって今なお大切に守られていることが窺えます。

明治の大火の際に全ての資料が焼失しているため、この集落の起源は全く解りません。ただ地名は中世から存在していることが確認されていることから、『落武者』や『隠棲貴族』の隠れ里ではないかとは容易に想像出来ます。

小生的には地蔵堂に合祀されている大黒天の存在がとても気になります。

屏風集落(3)

この道を進むと、東面の集落・甲頭倉(こうずくら)や旧芹谷村の役場や学校へと繋がります。当然のことながら自動車は通行出来ません。

実は屏風集落には興味深い謎が存在します。

それは他の集落に比して、①瓦屋根の家屋が多い②焼杉板で土壁が補強されている➂土台の石垣が強固で高いという特徴があるのです。

この周囲の山村の中でも規模が小さいにも関わらず、石灰鉱山という“昭和のゴールドラッシュ”というバブルがあったにせよ、寺院や家々の現状を見ても、そもそもここはとても裕福な村であったのではないかと思えます。

屏風集落からの湖東平野眺望

もう1つの謎。それはこの眺望にあります。

ここは集落の集団墓地がある高台。ここからは芹川渓谷を通して湖東平野への視界が開けるという、とても珍しい地形なのです。

また屏風は標高約400mの高地なのですが、他の集落の大半が山や川に貼り付く、または山の頂に位置するりに対し、ここだけは集落が小さな盆地になって外界から隔絶しているという特徴もあります。

ロマンティックに考えれば、中央を追われた人々が外界からの隔絶が必要であるものの、かつての栄華が忘れられず、過去に想いを馳せることが出来るこの地に居を構えた。

或いはこの高台を哨戒拠点とし、集落を守り且つ有事に打って出るための小規模な要塞都市であった。

兎も角、色々と考えを巡らせることが出来る場所であることは間違いないようです。

糸切餅ひしや

様々な可能性に愉しみを持ちながら、山を下りて参りました。

そして多賀を訪れたら必ずここに立ち寄っています。現在糸切餅を全て手作りで提供されている唯一の老舗、ひしやさんです。コロナ禍の影響でエクスパーサ多賀(下り線)から撤退されましたが、今でも細々とその素朴な味わいを守っておられます。

多賀は「変わって欲しくないものが変わらず残る町」として、小生の心を癒してくれています。

【取材協力】 MT TRADING

#屏風 #チョウセンアサガオ #円徳寺 #地蔵尊 #湖東平野 #糸切餅 #ひしや #限界集落 #過疎 #多賀

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


天空の里山 again “屏風”紀行(中篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、天空の里山 again “屏風”紀行をお届け致します。

編集者時代の下記の記事も併せて御覧賜れば幸甚です。

>>>>天空の里山紀行(2)屏風集落”

ここで進路を180度回頭。桃原口を後にし、県道239号(水谷彦根線)との交点を目指して県道17号(多賀醒井線)をひたすら西進。

1.6kmも走れば合流出来る筈なのですが・・・行けども行けども中継点には到達せず、何やら見たような景色に再び出逢うことに。

多賀町役場 後谷出張所(平成15年当時)
多賀町役場 後谷出張所(平成15年当時)

交点の角地にはこの写真の建物があるので、これを視覚的目標としていたのですが・・・「芹谷ダムが実現していたらこの辺りの景観も大きく変化していただろうなぁ」などと景色を眺めながら運転していたためか、何と交点を通過し3kmもオーバーしていたことが発覚。皆様、「漫然運転」にはくれぐれもご注意を!

実はこの建物、旧芹谷村・旧脇ヶ畑村が多賀町に併合後、この地域の町民の行政サービス提供のために整備されたものなのです。然し急速な人口減少に伴い、業務縮小の一環として平成に入り程なくして閉鎖されてしまいました。

多賀町役場 後谷出張所跡
多賀町役場 後谷出張所跡

平成16(2004)年3月。当時本格的にスタートした芹谷ダムの整備事業の影響で芹谷分校と共に解体されたと風の噂には聞いていたのですが・・・まさかここまで周囲の光景が変わっていようとは思いもしませんでした。

20年の時代の移ろいで、益々人の営みの痕跡が薄らぎ、再び静かな自然へ還ろうとしています。

20分程のタイムロスを喫しましたが、即座に計画を練り直し、再びもと来た道を戻ります。何せ山間部での活動に於ける想定外のタイムロスは「命取り」ですから・・・。

スバル プレオバン
スバル プレオ バン (初代)

編集者時代の取材に使用していた愛機はカローラバンでした。軽量で汎用性の高い車輛でしたが、如何せん馬力もトルクも低く山岳路には全くと言っていい程不向きでした(当然と言えば当然ですが・・・)。

今回は当時もお世話になったMT TRADINGさんのご協力で、「小型・軽量・高トルク」の三拍子に加え、「高旋回性・低燃費・充実装備」を兼ね備えたスバル・プレオ バンを借用。以前の取材に比して、高いアドバンテージを得ることが出来ました。写真の車輛がそれですが、とても初年度登録から数えて20年・走行約11万kmのロートルとは思えぬ素晴らしい性能を発揮!!見事タイムロスをカバーしてくれました。

スバルがこのような素晴らしい技術力を持ち備えながら、軽自動車の自主開発から撤退したことは実に惜しいことです。

後谷・屏風分岐点
後谷・屏風分岐点

県道239号(水谷彦根線)に進入したのも束の間、約200mを走行して、ここから多賀町の町道水谷後谷線に入り、ここからドライビングテクニックを問われる山間の酷道に入ります。

「暗い・狭い・滑りやすい」に加え、「落石多数・対向箇所少・悪路盤」な約2.5kmを何とか駆け抜けると、町道後谷線と屏風線の分岐点に到着。

ここは以前と全く変わらぬ風景。少しホッとしました。因みに水谷は“すいだに”、後谷は“うしろだに”と読みます。

多賀町道屏風線起点
多賀町道屏風線起点

分岐点からヘアピンぎみに町道屏風線に進入して、おっと急ブレーキ!!!!!。

以前には存在しなかったチェーンによるバリケードが設置されているではありませんか。当時は東隣の集落である甲頭倉(こうずくら)に設置されていましたが、まさかここもとは・・・。

限界集落や過疎、廃村が昭和末期からの社会問題として取り上げられ出した頃からの弊害であった私有地並びに無住家屋への不法侵入。それに伴う窃盗や破壊活動が今でも行われている現実をこのような形で突き付けられようとは・・・日本人として実に嘆かわしいことです。

プレオを邪魔にならない場所に駐車し、装備を整え、ここからは徒歩で屏風集落へ向かうことと致しました。

屏風集落口
屏風集落口

集落まであと僅か550mの行程だったのですが・・・当日肌寒い天候であったのにも関わらず、全身から汗は噴き出すは、息は上がるは、眼は眩むはで、何と30分も要することに。自動車なら僅か3分で到着する距離なのですが・・・普段の運動不足を痛感。文明の利器に頼り切った生活に溺れている現実に反省しきりです(苦笑)。

集落まではずっと上り坂だと思っていたのですが、途中から下り坂に。徒歩で向かったことで、ここがとても小規模の盆地であったことに気付くことが出来ました。まさに鈍足の奇蹟!

そしてようやくあの懐かしの情景に、約20年振りの対面を果たすこととなるのです。

【取材協力】 MT TRADING

#屏風 #後谷出張所 #屏風線 #後谷線 #水谷後谷線 #スバル #プレオ #限界集落 #過疎 #多賀

【後篇に続く】

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


天空の里山 again “屏風”紀行(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

フジテレビのバラエティ番組『何だコレ!ミステリー』での現地紹介を契機として、爆発的に好評を博した『天空の里山紀行』シリーズ。

小生はかつてとある情報誌の編集兼法人営業を務めていた頃。滋賀の限界集落の特集を提案し、その取材にあたっていました。彦根や多賀の山奥に初めて赴いて、あれからもう23年の月日が経過しました(あの頃は仕事が楽しかった~)。

当初は県内全域の限界集落を取材する予定でしたが、様々な制約があり結局は実現しませんでした。また誌面での紹介が叶った村落も、限られた時間の中での取材で満足に見分出来なかったのもまた事実でした。

あれから約四半世紀の歳月が流れ、その様々な『縛り』も解け、くだらないモチベーションへの固執にも価値を見出さなくなった(笑)今、ふと我が子に『昭和の栄枯盛衰の実状』を見せてやりたいと思いました。編集者時代にじっくりと取材が叶わず、でも未だ印象に残る場所を再び訪れようと思い立ちました。

今回は多賀町北部に位置する村落・屏風(びょうぶ)を再び訪れ、3回に渡りその紀行をお届け致したいと存じます。なお編集者時代の記事も併せて御覧賜れば幸甚です。

>>>>天空の里山紀行(2)屏風集落”

まずは県道17号(多賀醒井線)を国道306号の交点からひたすら東進。因みに平成5(1993)年に当時の建設省から主要地方道に指定されますが、未だに霊仙山系越えの部分は未供用で車輛の通り抜けは不可能となっています。

屏風岩

国道306号の交点から4km余り。ここから集落の名称の由来ともなっている屏風岩(びょうぶいわ)を眺めることが出来ます。

標高差約50m、幅約200m、傾斜角約100度。滋賀・京都周辺では唯一の石灰岩の岩場で、中級者のクライマーには人気のスポットとか。ただ石灰質ということもあり、崩落の危険性をはらんでいるのは今も変わりないようです。

さてここからもと来た県道を300m程度戻ると、大量の盛土が置かれた広場に出逢います。

多賀小学校 芹谷分校跡

ここはかつて分校があった場所。平成16(2004)年3月に解体されるまで、僻地学校の雰囲気をよく留めていた建築物として名の知れた多賀小学校 芹谷(せりだに)分校がありました。

多賀小学校 芹谷分校(平成12年当時)

勿論、屏風集落に住まう子供たちもかつてはこの学校に通っていました。

平成2(1990)年には総児童数が7名にまで減少し、平成5(1993)年3月本校への統合に伴い閉校。子供たちの声が聞かれぬようになった後も、春には桜が咲き乱れ、いつでも子供たちを迎えられるような光景を私たちに魅せてくれていました。

11年待ち続けた校舎。然し終ぞその願いは叶いませんでした。

下ノ地蔵尊

今となってはこの下ノ地蔵尊だけが、この芹谷の歴史を知る唯一の生き証人といっても過言ではないでしょう。跡地には分校を偲ぶ石碑も案内板も一切なく、寂しい限りです。

さらにここから戻ること300m。建設会社の資材置場と僅かばかりの空地があります。

多賀小学校 後谷分校跡

ここはかつて芹谷分校の前身である多賀小学校 後谷(うしろだに)分校があった場所です。

驚きなのはこの猫の額の如く狭隘な土地に、昭和16(1941)年11月に発足した多賀町以前に存在した芹谷村の村役場(合併後は多賀町後谷支所)や駐在所も併設されていたことです。

この分校の歴史は古く、明治10(1877)年創立。明治22(1889)に発足した芹谷村の小学校に。明治42(1909)年に校舎が全焼し、翌年新校舎が落成。残念ながらそれまでの資料が全て焼失してしまったとか。

そして昭和16(1941)年には総児童数が141名を数えました。このような土地ですから運動場はなく、資料には「甲頭倉川原にて運動会開催」との記述もあり、芹川の河原をグラウンド代りにしていたようです。

桃原口の芹川

またこの周辺は桃原口(もばらぐち)と呼ばれ、芹川対岸の山地にあり『多賀牛蒡』の一大産地であった集落・桃原に車輛通行可能な道路が整備されるまで、芹川で分断された芹谷村内の人流の交点となっていたようです。

更に桃原には大東亜戦争後、冬季にスキー場も整備されたので、生活そして交易やレジャーで多くの人の行き交う姿が見られたように推察致します。

昭和33(1958)年のとある夜のこと。屏風岩近辺の裏山から重量100kgにも及ぶ大規模な落石が発生し校舎を直撃。幸いにも人的被害はなく、建物への被害も部分的なものに留めました。しかし学校関係者並びに保護者の被った心理的衝撃は殊の外大きく、繰り返し裏山の岩石の除去作業が行われました。然し根本的な解決には至らないということで、昭和37(1962)年12月に名称も変更されて現在の場所へ移転新築されました。

本校からは少し遠くなったものの、落石のリスクも軽減され、新たなスタートを迎えることとなった芹谷分校ですが、待っていたのは急速な過疎化の波であったなどと、当時は知る由も無かったでしょう。

さてここから、屏風集落の本丸へと舵を切ります。

【取材協力】 MT TRADING

#屏風 #屏風岩 #芹谷分校 #芹谷村 #芹川 #後谷分校 #多賀牛蒡 #限界集落 #過疎 #多賀

【中篇に続く】

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!