Tag Archives: 鎌倉殿の13人

嗚呼!平家終焉之地“平宗盛公胴塚”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、嗚呼!平家終焉之地“平宗盛公胴塚”の伝説をお届け致します。

前篇の最後に掲載した写真の案内板は、丁度野洲市(野洲町エリア)と蒲生郡竜王町の境界辺りの国道8号沿いにひっそりと佇んでいます。最近になって赤いのぼりが併設されるようになり辛うじて目立つようになりましたが、何度も近くを通ってもここを訪れる人を見掛けたことはありません。

案内板のある場所には軽自動車が1台程度駐車可能なスペースがあります。そこから山の麓の小道を進みます。本当にうら寂しい場所です。100m程(とぼとぼ)歩くと少し視界が拡がります。

平宗盛公胴塚

ここに平宗盛公胴塚があります。石塔が2つありますが、左側は後年供養のために掘られたと思しき石仏で、胴塚は右側の小さな岩石です。「墓標」というより「目印」にしか見えません。昔から『勝てば官軍負ければ賊軍』とはよく申しますが、一時とはいえ平家の頭目として君臨した人物の扱いとしては、余りにも惨めで残酷です。敗者の扱いというのは往々にしてこのようなものなのでしょうね。

胴塚の正面には小さな池があります。かつては名所の1つとしてその名が知られていました。

木曾路名所図会 巻1 乾 “大篠原”

江戸時代後期の文化2(1805)年に発行された木曾路名所図会(きそじめいしょずえ)。岐阻路名所図会とも称し、中山道沿道の名所を網羅した、今風に言えば旅のガイドブックです。

このガイドブックの「大篠原」という記事に、平宗盛公胴塚とこの池のことが記載されています。その名も「首洗池」と・・・

蛙不鳴池

今となってはただの用水池にしか見えませんが、宗盛が長子・清宗の身を案じながら斬首に処せられ、この地で胴体を埋葬。首はこの池で浄められた後、元暦2(1185)年6月23日に京の六条河原に到着し、検非違使の平知康らによって受け取られ、獄門の前に晒されたと言われています。

首を浄めた池と隣接していた西方の大きな池も、この出来事以降蛙が鳴かなくなったことから、蛙不鳴池(かわずなかずのいけ)と呼ばれています。

蛙不鳴池及び首洗い池含め、かつては横巾165m✕縦巾220mの大きな池で、近世までは景勝地然としていました。近年までその形容を止めていましたが、平成10(1998)年頃の造成工事で蛙不鳴池は形状を大きく棄損し、首洗い池に至っては池そのものが失われてしまいました。

首洗い池(復元)

令和3(2021)年6月20日。地元・大篠原自治会、野洲市、有志企業・団体による首洗い池復元事業が立ち上げられ、先人の悲願であった首洗い池の復元が叶いました。往時の姿そのものとまではいきませんが、地元の皆さんの郷土に対する熱意をひしひしと感じました。

さてこの平宗盛処刑事件ですが、文献によって微妙に内容が異なります。

『平家物語』では6月21日に宗盛・清宗親子は篠原宿で処刑され、胴体は一緒に埋葬された。『源平盛衰記』では6月22日に宗盛・清宗親子は勢多(現在の大津市瀬田)で処刑された。さらに『吾妻鏡』では6月21日に宗盛が篠原宿で、同日清宗が近江国野路口(現在の草津市野路)で処刑されたと記述されています。

因みに草津市野路5丁目には遠藤家邸宅の中庭に平清宗の胴体を埋葬したと伝わる清宗塚が存在しますので、史実は『吾妻鏡』の記述にありそうな気もします。今回清宗塚を訪問出来ませんでしたので、またの機会を得られればと思います。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では平家を滅ぼし天下を手中に収めた源氏ですが、その後様々な疑心暗鬼が渦巻き、縁者や仲間が次々と姿を消しています。そう考えると滅亡した平家の方が一門の結束力は強かったように思います。

そのような平家を統べていた宗盛を、父・清盛に遠く及ばないにしても、改めて評価し直しても良いのではないでしょうか。

#平宗盛 #源義経 #平家物語 #鎌倉殿の13人 #平清宗 #平宗盛公胴塚 #首洗い池 #蛙不鳴池 #清宗塚 #源平盛衰記 #吾妻鏡 #東山道 #平家終焉之地

野洲市観光協会

・滋賀県野洲市小篠原2100−1
【TEL】 077-587-3710

平宗盛公胴塚

・滋賀県野洲市大篠原86

清宗塚

・滋賀県草津市野路5丁目2−21

【おしまい】

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嗚呼!平家終焉之地“平宗盛公胴塚”の伝説(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やアニメ『平家物語』の好調にかこつけて(?)お届けして参りました源氏や平家に纏わるお話のシリーズも最終回。今回は実質的な平家終焉の地となった平宗盛公胴塚についてのお話を致したいと存じます。

さて今回は野洲市は旧野洲町エリアを訪れております。その前に平宗盛(たいらのむねもり)の人物像に迫りたいと思います。

宗盛は平安時代末期の武将・公卿で平清盛の三男。異母兄の長男・重盛(しげもり)は文武に優れ、平家一門にも朝廷にも人望が厚く後継者として期待されていました。しかし清盛と後白河法皇の対立に有効な手立てを取ることが出来ず、その心労が祟ってか父に先立ち病没。同じく異母兄の二男・基盛(もともり)は武功も多く平家一門の有力者の一人と目されていましたが、24歳の若さで早世(一説には宇治川を騎馬で渡河する際に藤原頼長の怨霊に祟られ溺死したとも)。

平 宗盛

有能な二人の兄を早くに失い、父・清盛亡き後、平家一門を統べる立場となった宗盛。何かとコンプレックスも抱えていたでしょうが、父ほどのカリスマ性を持ち備えていなかったことから、その後の平家の衰亡を招いた張本人・・・と一般的には評価されています。

平家滅亡を決定的なものとした壇ノ浦合戦では、名立たる平家方の諸将入水を果たす中、宗盛は死に切れず泳ぎ回っていたところを長子の清宗とともに源氏方に引き上げられ虜囚の身となります。

元暦2(1185)年4月26日、宗盛・清宗親子は一旦他の虜囚とともに帰京。大路を引き回された後、義経に連行されて鎌倉に向かいます。6月7日、鎌倉に到着した宗盛は敗軍の将として頼朝の前に引き出されます。頼朝は勝者として御簾の中から宗盛を眺め、比企能員に自らの言葉を伝えさせたといいます(この時、宗盛を連行した義経が戦勝報告どころか鎌倉入府をも許されず、頼朝との確執が決定的だったことは有名なお話です)。

鏡神社

6月9日、宗盛・清宗親子は再び義経に伴われ京へ送還されることとなり、鎌倉を出立します。

そして6月21日。近江國・鏡の宿(かがみのしゅく/現在の蒲生郡竜王町鏡にあった東山道の宿駅)に差し掛かります。ここで義経が元服を果たし、この鏡神社で源氏再興を祈願し、平家打倒の狼煙が上がった地の1つであること。そして自らの生命の灯火にタイムリミットが迫っていようとは、宗盛はよもや考えていなかったでしょう。

旧東山道 篠原駅跡

蒲生郡竜王町と野洲市の境界地点で国道8号に並行して、かつての東山道/中山道が残っています。

この辺りには鏡の宿が整備される前に、篠原駅(しのはらえき)という駅家(えきか/うまや・・・古代の五畿七道に整備された宿場・検問所の前身)が設けられていました。

平安時代末期までは篠原駅には15頭の馬が配備され宿場と共に栄えていましたが、鏡の宿が整備されると、鎌倉時代に入り急速に衰退したといいます。

街道沿いとはいえこのうら寂しい山の麓で、義経の配下の橘 公長(たちばなのきみなが)によって宗盛は刀の露と消えました。享年39歳。平家一門を率いていた人物にしては余りにも若く、そしてあっけない最期でした。

因みに宗盛の斬首を手掛けた橘 公長という武士ですが、何の因果か実はかつて平家の家人でした。このため世の人々はそのことを忘れておらず、その変わり身に多くの批判を浴びせたといいいます。

平宗盛公胴塚 案内板

『平家物語』の記述によると、宗盛は鎌倉での処刑を免れて京に戻され、頼朝・義経の父・義朝が殺害された尾張國(現在の愛知県)の内海でも何事もなく通過したことから、生き永らえることを信じて疑わなかった節があります。また清宗のことをとても気に掛け、共に斬首となって首を晒されても遺体だけは一緒に葬って欲しいと懇願したともいわれています。

さて義経が何故この地で宗盛の処刑に踏み切ったのか。このことについて記述のある文献は見当たりません。

①義経が元服を果たし源氏再興を祈念したこの地で平家に引導を渡すことに意味があった。②宗盛を京に戻すよう命じた頼朝への当て付け。➂意外と短絡的に実行した・・・と色々理由は推測出来るのですが、今となっては知る由もありません。

次回は宗盛の最期の地を漫ろ歩きたいと存じます。。

#平宗盛 #源義経 #平家物語 #鎌倉殿の13人 #平清宗 #平宗盛公胴塚 #橘 公長 #斬首 #源頼朝 #平清盛 #平重盛 #平基盛 #鏡神社 #鏡の宿 #篠原駅 #東山道 #平家終焉之地

野洲市観光協会

・滋賀県野洲市小篠原2100−1
【TEL】 077-587-3710

【後篇へ続く】

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清盛に寵愛された白拍子姉妹 “妓王・妓女”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

前回に引き続き、平清盛に寵愛された白拍子(しらびょうし)の姉妹、妓王・妓女(ぎおう・ぎじょ)の伝説をお届け致します。今回は彼女たちの出身地である旧野洲町エリアに伝わるエピソードを巡ります。

さて白拍子としての妓王が清盛の寵愛を一身に集めていた頃のこと。

干ばつに苦しんでいる郷里の村人を救うために、妓王が清盛に治水改良を請願しました。

祇王井川(行事神社付近)

承安4(1174)年に竣工した灌漑用水・祇王井川(ぎおういがわ)が現在でも残っています。

工事は困難を極めましたが、野洲川から野田浦(現在の野洲市野田)まで三里(約12km)に渡り水路が整備されました。

これで野洲郡の十か村に及ぶ村人が水不足解消の恩恵に与り、近江國内でも有数の穀倉地帯へと発展を遂げました。このことは今でも妓王の恩沢(おんたく)として語り継がれています。

野洲市三上の野洲川沿いにある新興住宅地。

祇王井川水源地跡

七間場(しちけんば)地区の自治会館敷地内に祇王井川水源地跡の碑があり、竣工当初はここを水源としていたようです。

ちなみにこちらの地名は、かつて“近江太郎”と呼ばれる暴れ川であった野洲川の堤防を護る役目を、一人当たり七間(約12.7274m)割り当てられたことに由来するのだそうです。

史蹟 妓王井川

こちらは野洲市野洲の四ツ家(よつや)地区にある“史蹟 妓王井川”の碑です。現在、妓王井川を示す唯一の道標となっています。

戦後野洲の穀倉地帯は琵琶湖からの引水によるパイプラインで農業用水が供給されるようになり、妓王井川の役割や様相も大きく変化してしまいました。

それでも今に至り、野洲の人々に様々な恩恵を与え続けています。

妓王寺

最後にご紹介するのは、野洲市中北にあります浄土宗・宝池山妓王寺(ぎおうじ)です。

この寺院は妓王井川が整備された翌年の承安5(1175)年。

何れ妓王たちの“終の棲家(ついのすみか)”となるべく、清盛が建立させた宝聚寺(ほうじゅじ)が前身とされています。

また一説には、妓王たちが辿った末路を哀れに思い、また灌漑用水を整備してもらった恩義に報いるため、村人たちによって建立されたとも伝えられています。

江戸時代に大津の膳所藩によって編纂された地誌『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』によりますと、「妓王妓女佛御前刀自の四女墓あり、四女の木像あり」と記述されています。

妓王・妓女・佛御前・刀自 墓

その記述通り、ここ妓王寺には4人の墓が祀られ、4人の木像が安置されています。残念ながら墓石は存在するもののどれが誰のものであるかという特定は出来ない状態にあり、また木像も原則非公開となっています。

妓王寺は代々尼僧によってお守りされてきたのですが、平成16(2004)年に最後のご住職が亡くなられ、後継者も無く以降は地元自治会役員の持ち回りでお世話をされています。

また毎年8月下旬(25日頃)には、妓王井川の恩恵に与ったかつての村々の人々が参集し、現在も法要を営んでおられます。

それにしましても、かつての“恋敵”同士が共に祀られているなど現代では考えられませんよね。

初めて妓王寺の取材に訪れたのは今からもう12年前の平成22年のこと。当時の中北自治会会長・永原一豊さんに無理をお願いして、代理として奥様に立ち合い戴きましたことは今でも鮮明に記憶しております。

その際、こんなエピソードを語っていただきました。

妓王・妓女は“祇王・祇女”とも表記され、京都の祇王寺は後者になっています。どちらが正しいという訳ではなく、当時は文字を読み書き出来る階層が限られており、お話も口伝(くでん)によるところが大きいので、このようなことになったのではと仰っておられました。

妓女・妓王・佛御前・刀自 木像

またニューヨークの大学の女性の先生が、平家物語の研究でわざわざ来訪されたのには流石に驚かれたそうです。

あと妓王寺は京都の祇王寺に比べて知名度に雲泥の差があり、また無住寺ということもあってなかなか観光資源として活かし切れずにいるとか。当時公開されていた大河ドラマ『平清盛』を契機に注目されることをとても期待しておられました。

今回の源平ムーブメントが少しでも追い風となって欲しいですね。

なお妓王寺のある中北集落は、自動車での進入が非常に困難な隘路となっております。また妓王寺の見学には事前予約が必要となりますので、詳しくは下記までお問い合わせください。

祇王井川の流路【参考資料:野洲市観光物産協会】
祇王井川の流路【参考資料:野洲市観光物産協会】

因みに・・・妓王井川の流路、総延長約12kmを巡る旅もまた一興です。但し、健脚に自信のある方に限ります(笑)。当時重機もGPSも無かった時代に人海戦術で整備された土木事業に想いを馳せてみては如何でしょうか。

#妓王 #妓女 #刀自 #佛御前 #白拍子 #鎌倉殿の13人 #妓王寺 #妓王井川 #祇王井川 #平清盛 #平家物語 #近江輿地志略 #祇王井川水源地跡

野洲市観光物産協会 (野洲市役所環境経済部商工観光課)

・滋賀県野洲市小篠原2100番地1
・TEL. 077-587-3710
・受付日/平日のみ
・受付時間/8:30~17:15

妓王寺

・滋賀県野洲市中北90

祇王井川水源地跡

・滋賀県野洲市三上2170−3

【おしまい】

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清盛に寵愛された白拍子姉妹 “妓王・妓女”の伝説(前篇)

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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にかこつけて、引き続き源氏や平家に纏わるお話をお届け致します。今回は野洲市は旧野洲町エリアを訪れておりますが、その前に平清盛に寵愛された白拍子(しらびょうし)の姉妹、妓王・妓女(ぎおう・ぎじょ)の人物像に迫りたいと思います。

ではまず「白拍子とは何か?」からご説明を。

白拍子とは平安時代末期から鎌倉時代に掛けて、“今様(いまよう)“”朗詠(ろうえい)”と呼ばれる歌曲を歌いながら舞を踊る男装の遊女や子どものことを指します。

白拍子(静御前) 葛飾北斎 筆

白拍子で最もメジャーな人物と言えば、やはり源義経の愛妾(あいしょう/お気に入りの妾)・静御前(しずかごぜん)でしょう。

因みによく勘違いされることが多いのですが、静御前は義経の“妻”ではなく、“愛人”でございます。

さて今回のお話の一端を担う平清盛ですが、その母親の素性については諸説あるものの、歴史上“不詳”とされております。

平 清盛

平成24(2012)年に放送された大河ドラマ『平清盛』では、「清盛は白河法皇の御落胤(ごらくいん/父親に認知されない私生子)で、母親は法皇の愛妾であった白拍子(舞子)」という設定となっておりました。清盛と白拍子とは、何かと因縁があるようですね。

では本題に戻りましょう。

京都・奥嵯峨にございます祇王寺(ぎおうじ)の『祇王寺縁起』によりますと、妓王は仁平3(1153)年に野洲郡江部庄(現在の野洲市永原・北・中北地区)で、北面の武士で江部の庄司でもあった橘次郎時長(たちばなじろうときなが)と母・刀自(とじ)の娘として誕生します(一説には“江部九郎時久”が父親とも)。

妓王屋敷跡

野洲市中北には、かつて妓王たち家族が住んでいたとされる屋敷跡が残っています。

その2年後には妹の妓女が生まれます。しかし程なくして妓王4歳・妓女2歳の時、父・時長が保元の乱で戦死してしまいます。

妓王16歳の時、母・刀自は2人の娘を連れて京の都に上ります。白拍子となった彼女は、その美貌と艶やかな舞でたちまち都でも一目置かれる存在となります。

その評判が時の権力者であった平清盛の眼に止まり、妓王は絶大なる寵愛を受けます。またそのお陰もあって、妓女や刀自も何不自由ない暮らしを送ることが出来ました。

それから3年後。佛御前(ほとけごぜん)という若い白拍子が都で評判となります。彼女は清盛の御前で舞を踊ることを望みますが、妓王が寵愛を集めていたため一旦は追い払われます。

しかし妓王の取り計らいにより、清盛の御前に出る機会を得ます。すると清盛は佛御前の舞にすっかり魅了され、何と妓王を直ちに放逐してしまうのです。

妓王21歳の時。

祇王寺(往生院)

時の権力者の余りの仕打ちに妓王は自害を決意し、妹の妓女もそれに同調しますが、母の刀自がこれを思い止まらせ、奥嵯峨にある往生院(おうじょういん/現在の祇王寺)に身を隠し、出家して念仏を唱える日々を送りました。

この事実を知った佛御前は恩義ある妓王の身の上をはかなみ、清盛に無断で自らも出家。同じく往生院に入り、妓王・妓女・刀自とともに余生を過ごしたと言います。

次回の後篇では、妓王・妓女の出身地である旧野洲町エリアに伝わる彼女たちのエピソードを巡ります。

#妓王 #妓女 #刀自 #白拍子 #静御前 #鎌倉殿の13人 #今様 #朗詠 #平清盛 #平家物語 #橘次郎時長 #妓王屋敷跡 #祇王寺 #往生院 #祇王寺縁起 #江部九郎時久

野洲市観光物産協会 (野洲市役所環境経済部商工観光課)

・滋賀県野洲市小篠原2100番地1
・TEL. 077-587-3710
・受付日/平日のみ
・受付時間/8:30~17:15

妓王屋敷跡

・滋賀県野洲市中北90

【後篇へ続く】

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史実は鏡の宿にあり!“源義経元服”の伝説

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三谷幸喜プロデュース・大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やアニメ『平家物語』で俄かに注目を集めている源平の闘争事件を応援するために、今回はこの出来事と因縁浅からぬ源義経の元服についてのお話を致したいと存じます。

さて今回は蒲生郡竜王町を訪れております。

元服(げんぷく)とは今でいう成人式のことです。特に武家では、烏帽子(えぼし/平安期から近代までの和装礼装時に成人男性が着装する帽子)を烏帽子親(元服に於ける後見人で通常は2名で執り行う)から戴冠してもらい、それまでの幼名から元服名に改名するという儀式があります。

源義経

義経は平治元(1159)年、源義朝(みなもとのよしとも)の九男としてこの世に生を受けました。幼名は皆さんご存知、牛若丸です。

しかし翌年、平治の乱の謀反人として父が敗死。まだ乳呑児であった牛若丸は、母の常盤御前(ときわごぜん)が敵将・平清盛に身を任せて助命嘆願したことから、生き延びることが出来ました。

牛若丸11歳の時。継父の一条長成(いちじょうながなり)からの出家の勧めもあり、鞍馬寺に預けられ、名も遮那王(しゃなおう)と改めます。そして自身が源氏の嫡流であることを知ると、独自に剣術の修業に励むようになります。そして承安4(1174)3月3日早暁、16歳の遮那王はついに出家を拒絶し鞍馬寺を出奔。

金売吉次(かねうりきちじ/奥州産出の金を京で商うことを生業としていた商人)と堀頼重(ほりよりしげ/源光重の三男で約1年に渡り自領にて義経を保護)の手助けを受け、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼るべく、一路奥州・平泉を目指します。

京を出て、まずは鏡の宿(かがみのしゅく/現在の蒲生郡竜王町鏡にあった東山道の宿駅)に宿泊します。一行は宿駅の長で長者でもあった澤弥傳(さわやでん)の屋敷&旅籠の「白木屋」に泊まることとなりました。

江戸時代以降は中山道の宿場として指定されず衰退しましたが、当時は遊女も多くとても繁盛していました。

熊坂長範【芳年武者无類】

しかしあろうことかその夜、大盗賊・熊坂長範(くまさかちょうはん)が白木屋に押入ろうとします。これをいち早く察知した遮那王が盗賊たちを追い払い、弥傳から大いに歓待されることとなります(このお話は他にも「美濃青墓宿説(幸若舞『烏帽子折』より)」「美濃赤坂宿説(謡曲『烏帽子折』『熊坂』より)」が存在します)。

白木屋跡

白木屋は戦後まで昔ながらの屋敷が残っていましたが、昭和30(1955)年の台風で倒壊し、現在はその跡に石碑が残るのみです。

さて表で早飛脚の話し声に耳を傾けますと、鞍馬よりの追手か平家の侍たちかが、稚児姿(ちごすがた/寺院で召し使われている子どもの姿)の者を探しているとのこと。このままでは捕まってしまうと考えた遮那王は、烏帽子親の無いまま元服することを決意します。

宿駅の烏帽子屋五郎太夫(えぼしやごろうだゆう)のところで烏帽子を調度し、鏡池の岩清水で前髪を落としました。そして鞍馬の毘沙門天と氏神の八幡菩薩を烏帽子親とし、太刀と脇差をそれに見立てて元服を執り行いました。

ここで遮那王は名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と改め、源氏の武将となり平氏打倒を誓うのです。

松の木に烏帽子を掛けた後、鏡神社に源氏の再興と武運長久を祈願しました。

鏡神社と義経烏帽子掛けの松

その義経烏帽子掛けの松が鏡神社境内の入り口に今も残っています。残念ながらこちらも明治6(1873)年10月3日の台風で折損してしまい、現在は幹株を残すのみです。

翌朝白木屋を出立する際に、義経はあらためて元服した姿を鏡池の水鏡に映します。

そして決意も新たに奥州へと旅立つのでした。

義経元服池

前述の鏡池は現在義経元服池と呼ばれ、道の駅「竜王かがみの里」の正面にあります。裏山の石清水が滲み出して生まれた池で、水道が整備されるまでは近隣住民の生活用水として利用されていました。

国道整備の際に若干の移動を余儀なくされ、昔ながらの面影はやや薄れましたが、今でも水をたたえ神秘的な様相を呈しています。

今回の記事では詳しく触れませんが、この鏡の宿は義経元服の地であり、また義経自らの手で平家にピリオドを打った地でもあります。偶然の出来事だとは思いますが、私がこの事実を知った時「何という因縁だろう」と痛感しました。

最後にこのようなお話で締め括りたいと思います。平成17(2005)年にNHKで、滝沢秀明さん主演の大河ドラマ『義経』が放送されたのですが、何と元服の地を巡ってこんな騒動があったのです。

大河ドラマ『義経』(1)
大河ドラマ『義経』

実は義経元服の地については諸説あるのですが、史実としては平治物語(へいじものがたり/平治の乱の顛末を描いた軍記物語)に記述のある鏡の宿説が最も有力視されています。

しかし作品では全く説の存在しない尾張國・内海庄(うつみしょう/現在の愛知県南セントレア市)を採用したのです。内海庄は義経の父・義朝最期の地であるためストーリーに躍動感を与えたかったというのがNHK側の見解ですが、地元・竜王町は猛反発したそうです。

後に10月16日放送の本編後に義経ゆかりの地を紹介する「義経紀行」で採り上げられることにはなり一段落しましたが、どちらかと言えば平家終焉の地としての解説がメインでした。果たして町民が切望していた内容であったか否かは定かではありません。

今も昔も大河ドラマは地域活性の起爆剤と捉えられていますから、竜王町民が浴びせられた冷や水に対する気持ちは十二分に理解出来ます。史実をとるか、視聴率獲得のための脚色をとるか・・・やっぱり“史実”は曲げちゃあいかんでしょうね。

鏡の宿は現在国道8号が縦断し、頻繁にクルマが行き来しています。当時の面影はほとんど失われてしまいましたが、宿場町であった雰囲気はそこはかとなく残っています。

ご散策の際は道の駅・竜王かがみの里を拠点とされるのが大変便利です。但し交通量が非常に多いので、くれぐれも事故には遭われませんようご注意ください。

ちなみに・・・道の駅・竜王かがみの里では、2010年9月にこんなイメージキャラクターが誕生しました。

近江うし丸

その名も何と『近江うし丸』君です!義経の幼名である“牛若丸”と滋賀の名産“近江牛”をコラボレートしたそうです。

鏡の里元服式(1)
鏡の里元服式

なお例年のこの時期、竜王町鏡の鏡神社並びに道の駅「竜王かがみの里」にて、古式ゆかしき中世の成人式を再現した鏡の里元服式が開催されています。

今年は3月19日に開催の予定でしたが、コロナ禍の影響で残念ながら中止となりました。来年こそは再開して貰いたいですね。

なおこの行事は事前予約制ですが、一般の方も参加可能です。イベントの詳細は下記の竜王町観光協会へのリンクで確認が出来ますので、興味のある方は次回開催に向けて是非御覧ください。

さて今回の大河ドラマの菅田将暉さん版『義経』。どのような活躍を見せてくれるのか楽しみですね。

#平家物語 #源義経 #牛若丸 #鎌倉殿の13人 #金売吉次 #堀頼重 #澤弥傳 #熊坂長範 #白木屋 #元服 #義経烏帽子掛けの松 #鏡神社 #義経元服池 #鏡の宿 #近江うし丸 #鏡の里元服式

鏡神社

・滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289
【TEL】 0748-58-0959

竜王町観光協会

・滋賀県蒲生郡竜王町小口3
【TEL】 0748-58-3715

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『鎌倉殿の13人』時代のワンフォアオール“比夜叉御前”の伝説

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今冬の滋賀、特に北部・西部は本当に近年稀に見る大雪に悩まされています。自宅周辺では最高積雪が1mを越え、それらが大地に還る前に次の寒気が次々と訪れるため、生活全般疲弊の嵐です。ですが小生は仕事で南部に出向くため、その労苦が職場の人間になかなか理解されないのが頭痛のタネ。いい加減リモートで仕事をさせてもらえたらとつくづく思う今日此頃です。

さて今回は米原市は旧山東町エリアを訪れています。

下の写真の如何にもワカサギ釣りが出来そうに水面の凍った池をご存知でしょうか。そう、 旧山東町にある池と言えば・・・

さて今回のお話の舞台となるこの池の名前は・・・?

正解は三島池(みしまいけ)です(因みに薄氷ですので、くれぐれも池には足を踏み入れられませんように!)。

ここで本題に入る前に、お話の舞台となりますこの池に関する豆知識を少々。三島池は米原市池下にあり、別名“比夜叉池(ひやしゃいけ)”とも呼ばれます。

周囲は約910m。 面積37,603㎡、水深は80cm(雨季は120cm)で、南北に長い楕円形をしています。

また農林水産省が全国に存在する約21万ヶ所のため池から、平成22(2010)年3月11日に選定したため池百選の1つに選ばれました。

さらに文化庁が認定した日本遺産にも、 平成27(2015)年4月24日に『琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産』の一部(伊吹山西麓地域)として登録されています。

今から約880年前の平安時代末期。時の領主であった佐々木秀義(ささきひでよし/源頼朝挙兵に尽力した近江源氏の祖)によって、姉川の伏流水を利用して灌漑用貯水池、つまり農業用水確保のために人工的に造成された池と言われています。

池の周囲には桜・柳・紅葉などが植樹され、霊峰・伊吹山を背景とする景勝地として(特に写真愛好家の中では)全国的にも有名なスポットです。

三島池の水鳥

また水質は清冷で多くの生物が生息し、マガモ・カイツブリ・バン・オシドリ・オナガガモ・ホシハジロ・キンクロハジロ・ミコアイサ・サギといった多くの水鳥や野鳥が飛来します。

特に地元中学校の科学クラブによる2年間の観察の結果、「マガモ自然繁殖の南限地」であることが判明し、昭和34(1959)年には滋賀県の天然記念物に指定され、この地の存在は学術的にも高く評価されています。

ではここからが本題です。

その年は例年になく日照りが続き、農業に欠かせない池の水が涸れてしまいました。領主の佐々木秀義は、池に水の無いことを心配して祈祷師に占ってもらいました。すると「1人の女を池の中に沈めて水神に祈れば、水が絶えることは無くなるであろう」とのお告げが出ます。

早速秀義は人柱となる女を領内から募りますが、喜んで申し出る者など誰一人としてありはしません。沢山恩賞を出すとも触れましたが、反応は皆無でした。

むしろ領民に中では「誰が人柱になるのか?」という疑心暗鬼と不安が錯綜するばかり・・・。

三島神社から望む夏の三島池【滋賀県提供】

ある日のこと。

秀義の乳母である比夜叉御前(ひやしゃごぜん)が機(はた)織りをしている時、偶然外で村人がこの人柱の話をしているのを聞いてしまいます。

そして、その日の夜。比夜叉御前は織った機を抱えたまま池の畔に向かい、人知れず僅かに水の残る池に身を投じました。

翌朝、池は溢れんばかりの水を湛えていました。歓喜に沸く村人たちとは対照的に、事の真相を知った秀義はとても嘆き悲しみ、比夜叉御前をこの池の水神として祀りました。

それ以来、この池の水は如何に酷い干ばつに襲われても、水が涸れることは無いそうです。また雨の降る夜には池の底から機織りの音が聞こえてくると言います。

三島神社

池の西岸に鎮座する三島神社の鳥居横に、ひっそりと石塔が建立されています。

因みにこの神社は、寿永3(1184)年に先述の秀義が伊豆國(現在の静岡県)の三嶋大社の主祭神・ 三嶋大明神をこの地に勧請したことが創祀とされています。

秀義が源頼朝に仕えていた頃、常日頃から三嶋大明神を信仰し、源氏の繁栄を願って100日間三嶋神社に籠りました。結願(けちがん)は成就し、秀義は自身の領するこの地に三嶋大明神を勧請。佐々木氏の氏神としたと伝えられています。

比夜叉女墓

これが比夜叉女墓(ひやしゃひめはか)であると伝えられています。

なお現在の姿は地元有志によって整備されたもので、昭和61(1986)年には供養塔が建立されています。

比夜叉御前の墓には松が植えられ、それが機織松(“はたおりまつ”または比夜叉松)と呼ばれ現在でも大切に守られています。

機織松

比夜叉御前にまつわるこんな古い歌が今でも残っています。

名にも似ず 心やさしき たをやめの
誓も深く みつる池水

夜叉(鬼神)という名前に似ても似つかぬ心やさしい女のお陰で、お告げの通りこれまで池の水は涸れずに満ちている。

比夜叉御前が護った池は、現在水鳥たちの楽園と人々の憩いの場になっています。

加えて、ナゼだか野良猫たちの穴場にもなっていますが・・・

ノラの日向ぼっこ

水鳥さんたちとケンカにならないことを願います(^^)

今回の記事編集に写真をご提供いただきました滋賀県庁広報課様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

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