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湖國寂静紀行“歴史に翻弄された聖地・鶴翼山”(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

日本がコロナパンデミックに陥り早1年半。政治は決定的且つ抜本的な対策を打ち出せず、小生の予想通り感染は鎮静化どころか爆発的拡大の一途。おまけに次々と出現する変異株というに進化を遂げて、制圧の目途も立たぬ始末です。市民は氾濫する情報と頻発される“要請という名の自主規制”に翻弄されて、疲労困憊且つ疑心暗鬼に苛まれています。

感染拡大の要因はイベントでも飲食店でも酒でもありません。私たち1人1人が他者を思い遣り、自己の満足に奢らず如何に倫理的に行動出来るか。いま誠の日本人の心を持つ者か否かを試されています。

さて今回は近江八幡市の旧近江八幡市エリアを訪れております。

皆さんは鶴翼山(かくよくざん)と呼ばれる山をご存知ですか?どちらかと言えば、通称の八幡山(はちまんやま)の方が馴染み深いかも知れません。では何故、鶴翼山と呼ばれるのでしょうか。

鶴翼山(八幡山)全景【Google Earth】

今はこんなに便利なツールがあるんですよね。上写真は東側から見た鶴翼山(八幡山)の全景です。

かつては法華峯、比牟禮山(東麓にある日牟禮八幡宮に由来する)とも呼ばれていました。「鶴が翼を拡げている姿に山容が似ている」から命名されたとのことですが、これは決して上空からのものではありません。現在は高層階の建物が増えてきたため確認し辛いのですが、鶴翼山から東方に約3~4km離れた辺り(JR琵琶湖線・近江八幡駅~安土駅中間点辺り)から眺める山容がそれ。山頂を基点として両方の翼。南方にある日杉山を頭に見立てると、まさに飛翔する鶴の姿に見えたのです。

国土地理院の地形図にも記載されている正式名称なのに余り定着していないこの鶴翼山の名称。明治時代の書物や資料には鶴翼山の記載が散見されますが、本来の命名の経緯は判然としません。ここからは飽くまでも小生の仮説ですが、恐らく地域振興や神仏分離など何らかの理由で明治以降に鶴翼山の名称が与えられたのではと推察致します。

日牟禮八幡宮

さてまずはこの短い旅の安全を祈願して、鶴翼山東麓に鎮座御座す日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)に参拝。

日牟禮八幡宮は第13代天皇・成務(せいむ)天皇が高穴穂宮(たかあなほのみや:古代に滋賀県大津市穴太地区に存在したと伝承される皇居)にて即位した131年に、武内宿禰に命じてこの地に大国主神を祀ったのが草創とされています。

平安時代中期の正暦2(991)年。第66代天皇・一条天皇の勅願により宇佐八幡宮を勧請し、山頂に上の八幡宮を造営。この時に現在の御祭神である第15代天皇・応神天皇が神格化された八幡神、所謂誉田別尊(ほんたわけのみこと)が祀られています。また平安時代後期の寛弘2(1005)年には遥拝社として現在の地に下の社が建立されました。

しかし、天正13(1585)年に豊臣秀次が八幡山城を築城するため上の八幡宮を下の社に合祀。さらに日杉山へ遷座することになっていましたが、天正18(1590)年に秀次が領地替えにより居城を尾張國・清洲城に移したため、現在の地に落ち着きました。よって日牟禮八幡宮は鶴翼山とは因縁浅からぬ関係にあるのです。

でも色々とお話致しましたが、男衆が異粧華美な姿で神輿同士を取っ組み合いさせる祭事、左義長まつりが最も有名ですよね。

八幡山ロープウェー

いよいよ山頂を目指します。 日牟禮八幡宮から登山道が整備されていますが、所要時間は約30~40分。自然を堪能しつつ山歩きをしたいという方にはおススメですが、今年の夏は特に暑いうえにマスク着用で呼吸も苦しい・・・ここはひとつ、八幡山ロープウェーを利用したいと思います。

日牟禮八幡宮楼門から徒歩1分にも満たない場所に山麓側の公園前駅があります。昭和37(1962)年11月23日に開業した 八幡山ロープウェーは、全長543m、高低差157m。現役の県内索道(ロープウェイ)線としては最も古い歴史を誇ります。

近江八幡市街遠景

運行は15分間隔、山頂側の八幡城址駅までの所要時間約10分。搬器から眺める近江八幡市街は、八幡山城の城主として秀次が君臨した僅か5年の間に整備された城下町が基礎となったもの。

京都のように碁盤の目の街並みは、戦乱の世が終わりを迎えようとしていたことが窺い知れます。また街並みと共に東方に拡がる湖東平野の情景も愉しめます。

ここで小生が以前から抱いていた疑問を1つ。県内でも他に景勝地が多く存在し、特にこれといったアミューズメントも存在しないこの山に、何故親会社の近江鉄道が高度成長期の真っ只中とはいえロープウェイを建設したのか?

実は当時、観光都市建設を目指していた近江八幡市。県が計画していた安土城復元が文部省文化財保護委員会からの横槍で実現不可能となったことを受け、鶴翼山に山上遊園地の建設や八幡山城の再興で一大アミューズメントパークを整備しようと計画していたのです。ここに民間として参画したのが、かつて西武鉄道の親会社であった国土計画。後程触れますが、山頂の瑞龍寺門跡を京都より移築したのもその一環でした。

結局実現したのは瑞龍寺門跡の移築のみ。言わば八幡山ロープウェーはその「兵どもが夢のあと」の名残なのです。

村雲御所 瑞龍寺門跡 山門

八幡城址駅を降り、山中の遊歩道をそのまま10分程歩きますと、樹林の中に立派な山門に辿り着きます。

ここが村雲御所瑞龍寺門跡(むらくもごしょずいりゅうじもんぜき)です。

カエデの木々に囲まれているので紅葉シーズンの散策が余りにも有名ですが、夏は夏で爽やかな緑の情景にも大変趣があります。

因みに村雲御所とは、最初に京都嵯峨の村雲の地で天皇家の勅願所として開創したことに由来するもの。門跡とは皇族や公家、及びその流れを汲む人物が代々住職を務める特定の寺院のことを指します。

村雲御所 瑞龍寺門跡 本堂

秀次の実母であり、豊臣秀吉の姉でもあった(とも:後に出家して日秀尼)は、高野山で蟄居の末自害した秀次並びに三条河原で処刑されたその妻子の菩提を弔うため、以前から帰依していた日蓮宗による寺院創建を模索していました。

文禄5(1596)年。この話が時の帝、第107代天皇・後陽成天皇の耳に達し、現在の京都・二尊院の北辺に寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1,000石を下賜され、そして菊紋の使用と紫衣の着用が認められて、慶長1(1596)年に開創が叶います。

以後瑞龍寺は日蓮宗で唯一の門跡寺院及び勅願所となり、皇女や公家の娘を迎え、代々尼僧が貫主を務めました。

江戸幕府3代将軍・徳川家光により二条城内の殿舎一宇を客殿として寄進され荘厳を窮めますが、天明8(1788)年の大火により全焼。その後、第9世貫主・日尊尼が晋山(しんざん:新たに住職となる者が初めてその寺に入寺すること)し、寺地を嵯峨から西陣(現在の堀川今出川付近)に移転。28年掛けて諸堂宇を再建し、見事に復興を果たします。このことから日尊尼は村雲御所中興の祖と仰がれています。

村雲御所 瑞龍寺門跡 堂内

明治4(1871)年に門跡制度は廃止されますが、明治9(1876)年から下賜金が支給。明治21(1888)年には「御由緒寺院」として門跡寺院同様の待遇となり、皇室からの庇護を受けられるようになりました。しかし大東亜戦争終結後補助制度は廃止。檀家を持たない瑞龍寺は、たちまち経済的窮地に立たされます。

また昭和29(1954)年頃に表面化した日蓮宗側との寺院経営に対する軋轢で寺院は荒れ放題に。昭和35(1960)年には日蓮宗久遠寺派からの恩恵無しとの理由で離脱を表明(後に宗派と和解)。直後に瑞龍寺財産の不当処分が発覚し、貫主罷免問題にまで発展。台所事情は益々逼迫し、負債は膨らむばかり。挙句管財人の管理下に入り、宗教法人による処分広告が出される凋落振り。日秀尼ゆかりの門跡寺院は、まさに風前の灯火でした。

そこで当時、滋賀県選出の衆議院議員で西武鉄道グループの創業者でもあった堤康次郎に、 第11世貫主・日浄尼が斡旋と調整を嘆願。観光都市を目指していた近江八幡市は、観光の起爆剤として秀次の母・ 日秀尼ゆかりの瑞龍寺を受け入れることを企図。鶴翼山市有地の一部(八幡山城本丸跡周辺)を寺地として提供することに。民間として観光都市計画に参画していた西武鉄道グループは、瑞龍寺の負債負担と京都からの移築(本堂・玄関・山門・庫裏)に尽力。

これにより、八幡山ロープウェー開業と同日に、鶴翼山への移築を果たしました(但し日浄尼は完成を見ることなく遷化 )。

村雲御所 瑞龍寺門跡 妙法の庭

復元竣工後も約3年の間、貫主不在の時代が続きました。 昭和40(1965)年9月に襲来した台風22・23号により本堂に甚大な被害を被り、再び荒廃が進みます。同年 に晋山した第12世貫主・日英尼は、家庭の不幸から出家に追い込まれた身上を鑑み、生涯瑞龍寺の再興に尽力することとなります。

上写真の妙法の庭は戦時中に八幡防空監視哨が設置されていた場所で、戦後破却され瓦礫の山と化していました。瑞龍寺移築後もその状況は変わりませんでしたが、日英尼が長い年月を掛けて瓦礫を撤去し整備したものです。拝観当日は再整備が行われていました。

小生の父は生前、昭和43(1968)年6月23日に斎行された日英尼晋山式に動員された時の事を、「近江八幡駅には赤い絨毯が敷かれていた。まるで天皇陛下の行幸か大名行列かのような御行列だった。」と振り返っていたのを記憶しています。

また日英尼晋山の折、養女となって執事長を務め、昭和63(1988)年に晋山した第13世貫主・日凰尼は、 日英尼とともに瑞龍寺の再興に尽くし、かつてのタカラジェンヌ・桜 緋紗子(さくらひさこ)の知名度もあって、来訪者の人生相談に親身に応じ、その名を知られました。

村雲御所 瑞龍寺門跡 あかり展(宮御殿『雲の間』)

開創以来代々尼僧が貫主を務めてきた瑞龍寺でしたが、平成23(2011)年に晋山した第15世・日英上人から、男僧が後継を担うこととなりました。その日英上人も令和1(2019)年に遷化され、再び貫主の座が空白となっておりましたが、此度執事長を務められていた詫間殊光氏が、来春新たな貫主に晋山されることが決定しました。

これまでイベントらしいイベントを行ってこなかった瑞龍寺ですが、昨年から『和』をモチーフとした催事を近江鉄道と共催。去る4月29日から5月30日に本堂の宮御殿『雲の間』にて行われた滋賀初のあかり展は好評を博し、6月27日まで開催延長されました。

村雲御所 瑞龍寺門跡 風&和傘 和の競演

詫間執事長は今春より老朽化する建造物等の再整備に着手されています。本堂の外壁や廊下の床板の磨き直し、長年放置されていた家具や雑貨及び瓦礫等、計5トンの不用品を処分。また京都の絵師・木村英輝氏に回廊の壁画制作を依頼。妙法の庭は枯山水とし、能舞台が設けられました。7月15日にはこの能舞台のこけら落としの雅楽演奏が行われました。

現在、屏風と和傘による「和の競演」が8月31日まで、木村英輝氏の四季屏風展が10月31日まで開催されています。詫間執事長は今後とも整備を継続し、人々の安らぎやエネルギーを得られる場となればと意欲を見せておられます。

今年で開創425年、鶴翼山への移築から来年で60年。歴史に翻弄された門跡寺院は、この節目でどのような進化を遂げるのか見届けたいものですね。

今回の記事作成にあたり、近江八幡市総合政策部文化観光課文化財保護グループの才本さんには多大なるご協力を賜りました。この場を借り厚く御礼申し上げます。

【取材協力・資料提供】 近江八幡市総合政策部文化観光課/八幡山ロープウェー

#鶴翼山 #八幡山 #近江八幡市 #ロープウェイ #村雲御所  #瑞龍寺門跡  #日牟礼八幡宮

村雲御所 瑞龍寺門跡

・滋賀県近江八幡市宮内町19−9
【TEL】  0748-32-3323
【拝観時間】 9:00~16:10
【拝観料】  500円 ※特別展により10月31日まで600円

八幡山ロープウェー

・滋賀県近江八幡市宮内町257
【TEL】  0748-32-0303
【営業時間】 9:00~17:00 ※上り最終16:30
【料 金】  おとな・・・ (片道)500円/(往復)890円 ※12歳以上
       こども・・・ (片道)250円/(往復)450円 ※ 6歳以上12歳未満
 ※2022年1月25日~2月10日は設備更新工事のため運休となります。

【後篇へ続く】

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