「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
今年に入り、何となく運気が上向いてきたかなと喜んでいたのも束の間、遂ぞあの新型流行性感冒に罹患してしまいました(泣)。これまで十分感染対策には留意してきたつもりでしたが、ここまでくると感染経路すら思い当たりません。
ワクチンも4回接種済ですが、飽くまでも『感染抑止』ではなく『重症化予防』のためですし、これだけ市中感染が日常化していれば致し方ないのかも知れません。
どうやらこの春にも5類に分類される見込みとか。各種支援体制も廃止・軽減されることも想定されるならば、ある意味今のうちの罹患は“不幸中の幸い”と考えられるのかも。何はともあれ皆様、「色々な意味」でお気を付けください。

さて何時もの戯言はこれくらいにして、今回は久方振りに大津市を訪れています。
もともと滋賀自体が古より国内屈指の交通の要衝だったのですが、特に大津は東海道が横断するうえに、北は越前國(現・福井県)より北國街道(西近江路)。南は京・伏見より大津街道。そして琵琶湖の湖上舟運の最大拠点・大津湊を擁する一大インターセクションでした。
戦国時代より街は急速に発展し、江戸時代には東海道53番目の宿場町・大津宿が整備されます。最盛期には百ヶ町、人口約1万8千人の一大都市にまで成長。これは東海道沿道の宿場町としては最大の規模を誇りました。
その物流の拠点として栄華を極めていた街の様相は、当時『大津百町』と表現されました。今回はその『大津百町』にひっそりと佇む伝説を探しに漫歩(そぞろあるく)ことと致しました。
なお大津市は今現在に至っても都市整備や宅地開発の新陳代謝が激しいため、現況が取材時より大幅に変化している可能性があります。その点は予めご了承ください(取材もこの点が最大の苦労なのです)。

日本赤十字社大津赤十字病院の正面玄関前から南下すること約50m。住宅地の一角に忽然と大きな欅(けやき)の老木に出逢います。
地元では犬塚の欅(いぬづかのけやき)と呼ばれ親しまれています。この老木、枯死している訳ではございません。春から夏に掛けて今でも青々とした緑樹の姿を見せてくれます。
推定樹齢600年のこの欅は、昭和40(1965)年5月6日に大津市の天然記念物に指定されています。

時は室町時代中期、文明年間(1469~1487)の頃のこと。本願寺(浄土真宗)中興の祖にして本願寺第8世宗主(門主とも)であった蓮如(れんにょ)は、他宗門からの迫害を受け京より逃れ、他力本願の念仏の教えを広めるため、当時この近辺に居を構えていました。
これを伝え聞いた近隣在郷の多くの善男善女が蓮如の下を訪れ、その教えに触れ次々と信者となっていきました。
しかしその人気振りを快く思わぬ人々がいました。比叡山に本山を擁する天台宗の僧侶たちです。浄土真宗の信者が日の出の勢いの如く増えていくのに対し、天台宗の信者は風前の灯火如き有様。己たちの足元を顧みずこの状況に怒りを覚え、その果てに蓮如の殺害計画を企てるまでに至ります。
さて、蓮如には日頃我が子のように可愛がっていた1匹の犬がおりました。

或る日のこと。どうしたことかその犬が、この日に限って蓮如に用意された食膳の傍を一向に離れようとしません。それどころか、蓮如の袖をくわえて食膳から引き離そうとします。蓮如にはその動作が何を意味するのか、全く理解出来ませんでした。
「おかしなことをするものだ」と蓮如が箸を取ろうとしたその時、突然その犬が食膳をひっくり返してその御飯を食べてしまいました。
するとその犬はたちまち悶え苦しみ、何と血を吐いて死んでしまったのです。蓮如はそこで初めて、その犬が食膳に毒が盛られていることを知らせようとしていたことに気付くのです。
蓮如は自責の念に駆られ、自身の身代りになった犬を自宅近くの藪にねんごろに葬りました。そして埋めた墓の傍に欅の木を植えたと伝えられます。また犬塚の碑はそのエピソードを聞いた信者によって、犬の忠誠を偲んで建立されたと言われています。
忠犬の墓が建立された頃にあったとされる藪も、今は痕跡すら残っていません。また安全と保全のためと思しき柵も設置されています。いまや周囲の風景から浮いた存在・・・いや埋もれた存在となりつつあります。
もし『徒然草』の作者・卜部兼好(吉田兼好)が今の世に甦ったら、こう言うに違いありません。“この柵 無からましかばと 覚えしか”とね(笑)。
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【次回、大津百町漫歩(2)をお愉しみに・・・】

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