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近江源氏と大蛇の因縁“渡合淵”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、近江源氏と大蛇の因縁“渡合淵”の伝説をお届け致します。

敦実親王によって渡合橋に棲まう大蛇が征討され、平和がもたらされた奥津島地区。しかし物語はこれで終わりではなかったのです・・・。

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渡合淵(長命寺川)

あれから約350年後の鎌倉時代中期。亀山天皇(第90代天皇・1249~1305)の御代の頃のこと。

文永7(1271)年7月。再びこの渡合淵(わたらいふち)に大蛇が出現し、夜毎人畜に甚大な被害を与えているという知らせが寄せられました。

当時鎌倉幕府の御家人にして近江國守護であった佐々木頼綱(ささきよりつな・1242~1311/近江源氏庶流佐々木氏本家六角氏2代当主・六角頼綱とも呼ばれる)は、この報を受け早速征討に向かいますが、神出鬼没にして変幻自在に姿形を変え、討伐は困難を窮めました。

沙沙貴神社

そこで頼綱は佐々木氏の氏神にして近江源氏の始祖を祀る沙沙貴神社(近江八幡市)に参詣し、この大蛇についてお伺いを立てました。

するとこの大蛇は、かつて日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が退治した伊吹山の荒神・白猪の怨念の化身であるとのお告げを賜ったのです。

早速頼綱は家伝の征矢(そや/戦場で使う矢)を用い、再び征討に赴きます。そして見事大蛇を討ち果たしました。

退治された大蛇の魂も祀られることになったのですが、今回は渡合橋の袂にある百々神社ではありませんでした。では、いったい何処に???

日吉神社(井口大明神)

渡合橋から北北東へ移動すること約50km。長浜市は旧高月町エリアに参りました。こちらの井口(いのくち)集落に日吉神社が鎮座御座します。

こちらの創祀に纏わる伝承に依れば、『文永七年七月近江国蒲生郡渡江淵に大蛇現れ夜毎人蓄を害する事甚だしく、国主佐佐木頼綱これを聞き、その害を除かんとしたが、大蛇変幻出没常にその姿を変じて計り難く、東条経方と共にその大蛇を家伝の征矢にて射殺し、其の霊を国中の井がしらに祀らせた伝承あり、これを当社井口大明神と号せしむ』とあります。

つまりこの地を始めとして、全国の井頭・井口の名で大蛇は祀られたというのです。またこちらはかつて井口大明神の総本社として、水神信仰の崇敬を集めたとも言われています。

でも何故ここに祀られたのでしょうか?ポイントは前述の伝承内にある東条経方(とうじょうつねかた) という人物の記述にあります。

この人物は近江源氏佐々木氏の流れを汲む武将で、この辺りの領主でした。今回の頼綱の討伐軍に従軍し、手柄を上げています。後に頼綱の命により近江國の旱魃(かんばつ/長期間の水不足のこと)対策に貢献し、これを契機として井口姓を名乗ります。子孫は高時川水系の井堰(いせき/川の水をせき止める場所)を統括管理し、戦国時代に湖北地方を領した浅井氏に於いて、湖北四家と呼ばれた重臣団の1つに列しました。つまり水利にノウハウの高い家柄であったことが窺えます。

飽くまでも推論ではありますが、経方は自身の領地にも程近い伊吹山に所縁を持つこの大蛇の魂を、水利を司る神として引き受けたのではないかと思われます。

因みにここを日吉神社と称するのは、中世ここが比叡山延暦寺の所領である荘園(冨永荘)で、延暦寺の守護神である坂本の日吉大社後分霊を奉祀していたことに由来するとされています。

さて井口大明神は何処に?

井ノ神社

日吉神社境内、本殿の東隣に井ノ神社が鎮座御座します。 現在井口大明神は、日吉神社の境内社として祀られています。

かつて高時川流域の村々には「餅の井の懸越し(かけごし)」という水利の取り決めがありました。通常上流に位置する集落ほど川上に井堰を設けるのが厳然たる慣行でした。しかし浅井氏2代の久政が自身の権力基盤強化のために、下流の集落に川上の井堰の権利を認めるという前代未聞の取り決めを、井口氏に突き付けました。

この難題に井口氏は「餅の井落とし」という旱魃時にはこの条件取り決めをフリーとし、下流に無条件で水を流すという交換条件でもって承諾。加えて浅井氏との関係をさらに強固にすることでこの難局を乗り越えました。

以降この井落としを決行する際は、下流の各井堰の役員が井頭である井口集落において会合し、井落としの決行を決
議。そして作業を執り行う農民達は各井堰役員の統率のもと井ノ神社に参拝。その後服装を整え隊伍を組んで井落としに臨みました。

滋賀県が井口付近の全6井堰を統合する合同井堰建設事業の第一弾として、コンクリート構造の合同井堰が1942(昭和 17)年に完成したことにより、永年受け継がれてきた旧6井堰中4井堰が撤去。水利権をめぐる慣習の大部分が改革されるとともに、井堰間の水利紛争も飛躍的に改善されました。

これによりこの井落としの慣習はも、実質的に終止符を打つこととなりました。

渡合淵で猛威を振るった伊吹の荒ぶる神の怨念は、湖北の水利の護り神となって、約700年に渡りこの地に君臨しました。

同じ場所で同じような災厄が何度も繰り返されるのは実に珍しく、何故渡合淵がそのような地縁であったのか。今となっては知る由もありませんが、それでも共に鎮護の礎となったのは幸いです。

【参考文献】 江姫の故郷・高時川に学ぶ先人達の水利用~水への感謝と自然への畏れ~(独立行政法人水資源機構 丹生ダム建設所 編)

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沙沙貴神社

・滋賀県近江八幡市安土町常楽寺1
【TEL】0748-46-3564

日吉神社井ノ神社

・滋賀県長浜市高月町井口122
【TEL】0749-85-4351

【おしまい】

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近江源氏と大蛇の因縁“渡合淵”の伝説(前篇)

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性懲りもなく、また近江八幡市に舞い戻って参りました。以降当面訪れる予定はございませんので、何卒ご容赦を(笑)。

極端な解釈ですが・・・恐らく滋賀の大半のドライバーなら、或いはビワイチした人なら一度は通ったことがあるであろう場所に纏わるお話です。

近江八幡市の八幡(鶴翼)山系の北端、島町と北津田町の境界辺り。ここに琵琶湖と西の湖を結ぶ長命寺川が流れています。

渡合淵(長命寺川)

以前は今より半分の川幅で、かつて八幡山北麓に拡がっていた津田内湖の東部に注いでいましたが、周辺内湖の干拓事業のために放水路として活用するため、現在の姿となりました。

川と申しましても流れは緩慢で、時折航行する観光船やバスボート、または滋賀県立八幡商業高等学校ボート部の競技用ボートがさざ波を立てるのみで、至って静かな水面を呈しています。

しかしこの場所。一昔前は渡合淵(わたらいふち)と呼ばれ、それはそれは周辺の人々から大変怖れられていた難所だったのです。

渡合橋(渡合堰)

湖岸道路と県道26号(大津守山近江八幡線/通称:浜街道)が交差する地点に、長命寺川の水門(渡合堰)と一体となった渡合橋(わたらいばし)があります。

もともとの橋は約50m西側に架橋されていましたが、昭和38(1963)年に大中之湖地区国営琵琶湖干拓建設事業により、西の湖の水位を保持して周辺の広大な農地に供給する用水の確保を行う目的で水門が設置され、その管理橋も兼ねて現在の場所に架け替えられました。

平成6(1994)年には水門橋がリニューアルされ、今に至ります。

平安時代中期、宇多天皇(第15代天皇・867~931)の御代の頃のこと。当時長命寺山に連なる姨綺耶山系(いきやさんけい)周辺は奥津島と呼ばれる島で、渡合橋は舟を使わずに内地と連絡する唯一の手段でした。

しかしこの橋の下には一匹の大蛇が棲み、悪事を働いては往来する人々を悩まし、周辺の村人も大変困っていました。

ある日のこと。この橋の近くに住む一人暮らしの老人のあばら家に、一人の高貴な人物が立ち寄りました。その者の名は敦実親王(あつみしんのう・893~967 )。敦実親王は宇多天皇の第8皇子で、近江源氏の祖。早世の多かった宇多天皇の皇子の中で唯一長命を保ち、常に坂家宝剣(ばんけのほうけん/天皇家に相伝される朝廷守護の宝剣)を帯剣し、また和歌・管弦・音曲・蹴鞠にも通じ、内外から重んじられた才人でした。

皇子はこの老人から大蛇の退治を懇願されました。これを聞き入れ、当時小脇郷(おわきごう/現・東近江市旧八日市エリア)で勢力を誇っていた渡来人・狛の長者(こまのちょうじゃ)とともに佐佐木大明神(沙沙貴神社)に願を掛け、渡合の大蛇退治に挑み見事討ち果たします。

百々神社

その後、村人たちは大蛇の魂を橋の袂に祀り、百々神社(ももじんじゃ/通称:道祖さん)と命名しました。以来百々神社は風邪や喘息の全快などにご利益があるとされています。またこの神社の名を紙に書いて貼っておくと蛇除けになるとも言われ、今でも大切に祀られています。但し、百々神社の前を死人が通ると祟りが起きるとも言われています。

因みに当初は百々を『どど』と呼んでいました。しかし戦国時代に織田信長が安土城を築城した際、家臣たちの通用口として、また山中に建立された摠見寺の参道として設けられた城門(百々橋口)の前に百々橋(どどばし)が架橋されることを知るや否や、時の権力者に忖度して『もも』に改称。以降織豊政権崩壊後も、元に戻されることは無かったそうです。

現在は対岸にある大嶋神社奥津嶋神社(おおしまじんじゃ・おきつしまじんじゃ)の境内社となり、奥津島地区の守護神として人々を見守っています。

めでたしめでたし・・・と言いたいところですが、この物語はこれで終わりではなかったのです・・・

【参考文献】 水辺の記憶-近江八幡市・島学区の民俗誌-(近江八幡市市史編纂室 編)

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百々神社

・滋賀県近江八幡市北津田町2

【後篇へ続く】

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