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嗚呼!平家終焉之地“平宗盛公胴塚”の伝説(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やアニメ『平家物語』の好調にかこつけて(?)お届けして参りました源氏や平家に纏わるお話のシリーズも最終回。今回は実質的な平家終焉の地となった平宗盛公胴塚についてのお話を致したいと存じます。

さて今回は野洲市は旧野洲町エリアを訪れております。その前に平宗盛(たいらのむねもり)の人物像に迫りたいと思います。

宗盛は平安時代末期の武将・公卿で平清盛の三男。異母兄の長男・重盛(しげもり)は文武に優れ、平家一門にも朝廷にも人望が厚く後継者として期待されていました。しかし清盛と後白河法皇の対立に有効な手立てを取ることが出来ず、その心労が祟ってか父に先立ち病没。同じく異母兄の二男・基盛(もともり)は武功も多く平家一門の有力者の一人と目されていましたが、24歳の若さで早世(一説には宇治川を騎馬で渡河する際に藤原頼長の怨霊に祟られ溺死したとも)。

平 宗盛

有能な二人の兄を早くに失い、父・清盛亡き後、平家一門を統べる立場となった宗盛。何かとコンプレックスも抱えていたでしょうが、父ほどのカリスマ性を持ち備えていなかったことから、その後の平家の衰亡を招いた張本人・・・と一般的には評価されています。

平家滅亡を決定的なものとした壇ノ浦合戦では、名立たる平家方の諸将入水を果たす中、宗盛は死に切れず泳ぎ回っていたところを長子の清宗とともに源氏方に引き上げられ虜囚の身となります。

元暦2(1185)年4月26日、宗盛・清宗親子は一旦他の虜囚とともに帰京。大路を引き回された後、義経に連行されて鎌倉に向かいます。6月7日、鎌倉に到着した宗盛は敗軍の将として頼朝の前に引き出されます。頼朝は勝者として御簾の中から宗盛を眺め、比企能員に自らの言葉を伝えさせたといいます(この時、宗盛を連行した義経が戦勝報告どころか鎌倉入府をも許されず、頼朝との確執が決定的だったことは有名なお話です)。

鏡神社

6月9日、宗盛・清宗親子は再び義経に伴われ京へ送還されることとなり、鎌倉を出立します。

そして6月21日。近江國・鏡の宿(かがみのしゅく/現在の蒲生郡竜王町鏡にあった東山道の宿駅)に差し掛かります。ここで義経が元服を果たし、この鏡神社で源氏再興を祈願し、平家打倒の狼煙が上がった地の1つであること。そして自らの生命の灯火にタイムリミットが迫っていようとは、宗盛はよもや考えていなかったでしょう。

旧東山道 篠原駅跡

蒲生郡竜王町と野洲市の境界地点で国道8号に並行して、かつての東山道/中山道が残っています。

この辺りには鏡の宿が整備される前に、篠原駅(しのはらえき)という駅家(えきか/うまや・・・古代の五畿七道に整備された宿場・検問所の前身)が設けられていました。

平安時代末期までは篠原駅には15頭の馬が配備され宿場と共に栄えていましたが、鏡の宿が整備されると、鎌倉時代に入り急速に衰退したといいます。

街道沿いとはいえこのうら寂しい山の麓で、義経の配下の橘 公長(たちばなのきみなが)によって宗盛は刀の露と消えました。享年39歳。平家一門を率いていた人物にしては余りにも若く、そしてあっけない最期でした。

因みに宗盛の斬首を手掛けた橘 公長という武士ですが、何の因果か実はかつて平家の家人でした。このため世の人々はそのことを忘れておらず、その変わり身に多くの批判を浴びせたといいいます。

平宗盛公胴塚 案内板

『平家物語』の記述によると、宗盛は鎌倉での処刑を免れて京に戻され、頼朝・義経の父・義朝が殺害された尾張國(現在の愛知県)の内海でも何事もなく通過したことから、生き永らえることを信じて疑わなかった節があります。また清宗のことをとても気に掛け、共に斬首となって首を晒されても遺体だけは一緒に葬って欲しいと懇願したともいわれています。

さて義経が何故この地で宗盛の処刑に踏み切ったのか。このことについて記述のある文献は見当たりません。

①義経が元服を果たし源氏再興を祈念したこの地で平家に引導を渡すことに意味があった。②宗盛を京に戻すよう命じた頼朝への当て付け。➂意外と短絡的に実行した・・・と色々理由は推測出来るのですが、今となっては知る由もありません。

次回は宗盛の最期の地を漫ろ歩きたいと存じます。。

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野洲市観光協会

・滋賀県野洲市小篠原2100−1
【TEL】 077-587-3710

【後篇へ続く】

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清盛に寵愛された白拍子姉妹 “妓王・妓女”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

前回に引き続き、平清盛に寵愛された白拍子(しらびょうし)の姉妹、妓王・妓女(ぎおう・ぎじょ)の伝説をお届け致します。今回は彼女たちの出身地である旧野洲町エリアに伝わるエピソードを巡ります。

さて白拍子としての妓王が清盛の寵愛を一身に集めていた頃のこと。

干ばつに苦しんでいる郷里の村人を救うために、妓王が清盛に治水改良を請願しました。

祇王井川(行事神社付近)

承安4(1174)年に竣工した灌漑用水・祇王井川(ぎおういがわ)が現在でも残っています。

工事は困難を極めましたが、野洲川から野田浦(現在の野洲市野田)まで三里(約12km)に渡り水路が整備されました。

これで野洲郡の十か村に及ぶ村人が水不足解消の恩恵に与り、近江國内でも有数の穀倉地帯へと発展を遂げました。このことは今でも妓王の恩沢(おんたく)として語り継がれています。

野洲市三上の野洲川沿いにある新興住宅地。

祇王井川水源地跡

七間場(しちけんば)地区の自治会館敷地内に祇王井川水源地跡の碑があり、竣工当初はここを水源としていたようです。

ちなみにこちらの地名は、かつて“近江太郎”と呼ばれる暴れ川であった野洲川の堤防を護る役目を、一人当たり七間(約12.7274m)割り当てられたことに由来するのだそうです。

史蹟 妓王井川

こちらは野洲市野洲の四ツ家(よつや)地区にある“史蹟 妓王井川”の碑です。現在、妓王井川を示す唯一の道標となっています。

戦後野洲の穀倉地帯は琵琶湖からの引水によるパイプラインで農業用水が供給されるようになり、妓王井川の役割や様相も大きく変化してしまいました。

それでも今に至り、野洲の人々に様々な恩恵を与え続けています。

妓王寺

最後にご紹介するのは、野洲市中北にあります浄土宗・宝池山妓王寺(ぎおうじ)です。

この寺院は妓王井川が整備された翌年の承安5(1175)年。

何れ妓王たちの“終の棲家(ついのすみか)”となるべく、清盛が建立させた宝聚寺(ほうじゅじ)が前身とされています。

また一説には、妓王たちが辿った末路を哀れに思い、また灌漑用水を整備してもらった恩義に報いるため、村人たちによって建立されたとも伝えられています。

江戸時代に大津の膳所藩によって編纂された地誌『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』によりますと、「妓王妓女佛御前刀自の四女墓あり、四女の木像あり」と記述されています。

妓王・妓女・佛御前・刀自 墓

その記述通り、ここ妓王寺には4人の墓が祀られ、4人の木像が安置されています。残念ながら墓石は存在するもののどれが誰のものであるかという特定は出来ない状態にあり、また木像も原則非公開となっています。

妓王寺は代々尼僧によってお守りされてきたのですが、平成16(2004)年に最後のご住職が亡くなられ、後継者も無く以降は地元自治会役員の持ち回りでお世話をされています。

また毎年8月下旬(25日頃)には、妓王井川の恩恵に与ったかつての村々の人々が参集し、現在も法要を営んでおられます。

それにしましても、かつての“恋敵”同士が共に祀られているなど現代では考えられませんよね。

初めて妓王寺の取材に訪れたのは今からもう12年前の平成22年のこと。当時の中北自治会会長・永原一豊さんに無理をお願いして、代理として奥様に立ち合い戴きましたことは今でも鮮明に記憶しております。

その際、こんなエピソードを語っていただきました。

妓王・妓女は“祇王・祇女”とも表記され、京都の祇王寺は後者になっています。どちらが正しいという訳ではなく、当時は文字を読み書き出来る階層が限られており、お話も口伝(くでん)によるところが大きいので、このようなことになったのではと仰っておられました。

妓女・妓王・佛御前・刀自 木像

またニューヨークの大学の女性の先生が、平家物語の研究でわざわざ来訪されたのには流石に驚かれたそうです。

あと妓王寺は京都の祇王寺に比べて知名度に雲泥の差があり、また無住寺ということもあってなかなか観光資源として活かし切れずにいるとか。当時公開されていた大河ドラマ『平清盛』を契機に注目されることをとても期待しておられました。

今回の源平ムーブメントが少しでも追い風となって欲しいですね。

なお妓王寺のある中北集落は、自動車での進入が非常に困難な隘路となっております。また妓王寺の見学には事前予約が必要となりますので、詳しくは下記までお問い合わせください。

祇王井川の流路【参考資料:野洲市観光物産協会】
祇王井川の流路【参考資料:野洲市観光物産協会】

因みに・・・妓王井川の流路、総延長約12kmを巡る旅もまた一興です。但し、健脚に自信のある方に限ります(笑)。当時重機もGPSも無かった時代に人海戦術で整備された土木事業に想いを馳せてみては如何でしょうか。

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野洲市観光物産協会 (野洲市役所環境経済部商工観光課)

・滋賀県野洲市小篠原2100番地1
・TEL. 077-587-3710
・受付日/平日のみ
・受付時間/8:30~17:15

妓王寺

・滋賀県野洲市中北90

祇王井川水源地跡

・滋賀県野洲市三上2170−3

【おしまい】

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清盛に寵愛された白拍子姉妹 “妓王・妓女”の伝説(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にかこつけて、引き続き源氏や平家に纏わるお話をお届け致します。今回は野洲市は旧野洲町エリアを訪れておりますが、その前に平清盛に寵愛された白拍子(しらびょうし)の姉妹、妓王・妓女(ぎおう・ぎじょ)の人物像に迫りたいと思います。

ではまず「白拍子とは何か?」からご説明を。

白拍子とは平安時代末期から鎌倉時代に掛けて、“今様(いまよう)“”朗詠(ろうえい)”と呼ばれる歌曲を歌いながら舞を踊る男装の遊女や子どものことを指します。

白拍子(静御前) 葛飾北斎 筆

白拍子で最もメジャーな人物と言えば、やはり源義経の愛妾(あいしょう/お気に入りの妾)・静御前(しずかごぜん)でしょう。

因みによく勘違いされることが多いのですが、静御前は義経の“妻”ではなく、“愛人”でございます。

さて今回のお話の一端を担う平清盛ですが、その母親の素性については諸説あるものの、歴史上“不詳”とされております。

平 清盛

平成24(2012)年に放送された大河ドラマ『平清盛』では、「清盛は白河法皇の御落胤(ごらくいん/父親に認知されない私生子)で、母親は法皇の愛妾であった白拍子(舞子)」という設定となっておりました。清盛と白拍子とは、何かと因縁があるようですね。

では本題に戻りましょう。

京都・奥嵯峨にございます祇王寺(ぎおうじ)の『祇王寺縁起』によりますと、妓王は仁平3(1153)年に野洲郡江部庄(現在の野洲市永原・北・中北地区)で、北面の武士で江部の庄司でもあった橘次郎時長(たちばなじろうときなが)と母・刀自(とじ)の娘として誕生します(一説には“江部九郎時久”が父親とも)。

妓王屋敷跡

野洲市中北には、かつて妓王たち家族が住んでいたとされる屋敷跡が残っています。

その2年後には妹の妓女が生まれます。しかし程なくして妓王4歳・妓女2歳の時、父・時長が保元の乱で戦死してしまいます。

妓王16歳の時、母・刀自は2人の娘を連れて京の都に上ります。白拍子となった彼女は、その美貌と艶やかな舞でたちまち都でも一目置かれる存在となります。

その評判が時の権力者であった平清盛の眼に止まり、妓王は絶大なる寵愛を受けます。またそのお陰もあって、妓女や刀自も何不自由ない暮らしを送ることが出来ました。

それから3年後。佛御前(ほとけごぜん)という若い白拍子が都で評判となります。彼女は清盛の御前で舞を踊ることを望みますが、妓王が寵愛を集めていたため一旦は追い払われます。

しかし妓王の取り計らいにより、清盛の御前に出る機会を得ます。すると清盛は佛御前の舞にすっかり魅了され、何と妓王を直ちに放逐してしまうのです。

妓王21歳の時。

祇王寺(往生院)

時の権力者の余りの仕打ちに妓王は自害を決意し、妹の妓女もそれに同調しますが、母の刀自がこれを思い止まらせ、奥嵯峨にある往生院(おうじょういん/現在の祇王寺)に身を隠し、出家して念仏を唱える日々を送りました。

この事実を知った佛御前は恩義ある妓王の身の上をはかなみ、清盛に無断で自らも出家。同じく往生院に入り、妓王・妓女・刀自とともに余生を過ごしたと言います。

次回の後篇では、妓王・妓女の出身地である旧野洲町エリアに伝わる彼女たちのエピソードを巡ります。

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野洲市観光物産協会 (野洲市役所環境経済部商工観光課)

・滋賀県野洲市小篠原2100番地1
・TEL. 077-587-3710
・受付日/平日のみ
・受付時間/8:30~17:15

妓王屋敷跡

・滋賀県野洲市中北90

【後篇へ続く】

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