「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
引き続き、歴史に翻弄された聖地・鶴翼山をお届け致します。
かつては「八幡山ロープウェーで山頂を訪れたら村雲御所瑞龍寺門跡の拝観」くらいしか登頂目的がありませんでした。昨今は八幡山城跡がある程度修復され、遊歩道も散策しやすく整備されたので、手軽にハイキングが愉しめるようになっています。
瑞龍寺門跡を出たら、山頂部を反時計回りに散策します。所要時間は約30分です。

その前に、琵琶湖側の麓より望む鶴翼山の姿を御覧ください。実は観光ガイドやパンフレット等で紹介されている姿は、八幡山ロープウェーのある東方から撮影した 寫眞ばかりなのです。
その理由は、それ以外の角度からでは山頂部にある瑞龍寺門跡の屋根が辛うじて見えるだけで、これといった特徴がないからなのです。
平成17(2005)年4月から活動を開始された八幡山の景観を良くする会によって、鶴翼山の森林の保全や縦走路の整備が進められます。そして 平成29(2017)年から着手された「石垣見える化プロジェクト」によって、鬱蒼とした雑木や竹林で覆われていた八幡山城の西の丸跡と出丸跡の石垣が露わとなりました。
兵庫の竹田城や岐阜の岩村城には遠く及びませんが、その情景から自身で勝手に『滋賀のマチュピチュ』などと称しております(笑)。最近小生はこの角度からの鶴翼山を大層気に入っております。

八幡山城は放射状連郭式山城と山麓居館の複合体。戦国期に代表される籠城戦を意識した山城と、主に江戸期以降に見られるような城下町に近接して政務の拠点を置くものの、2つの性質を持つ時代の過渡的な城郭でした。
もともと八幡山城は、紀州攻略並びに四国征伐で武功を立て近江国の蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の5郡を与えられ43万石の大名となった豊臣秀次のために豊臣秀吉が指揮して造営した城で、安土城と類似した立地に整備されました。
秀次は天正13(1585)年に入城しますが、天正18(1590)年に領地替えにより居城を尾張國・清洲城に移します。その後京極高次が2万8千石で入城しますが、文禄4(1595)年に秀次が謀反の嫌疑で切腹を命ぜられると、京極高次は大津城へ移封。関白時代に秀次が政務の拠点としていた聚楽第と共に、秀吉の命で居館を中心に徹底的に破壊されました。八幡山城は僅か10年で廃城となったのです。
その後八幡山城は荒廃を窮め、更に昭和28(1953)年の台風13号による天守台を含む本丸石垣の崩壊。昭和37(1962)年の本丸跡への瑞龍寺門跡移築。昭和42(1967)年の集中豪雨による本丸跡から居館跡に掛けての大規模な土砂崩落と様々な厄災に苛まれ、関白まで上り詰めた武将の居城跡とは思えぬ様相を呈しています。
まさしく『兵どもが夢のあと』・・・ですね。

さて本題の散策に戻ることに致しましょう。
瑞龍寺門跡本堂から東へ約20m。境内に正一位 金生稲荷大明神(しょういちいきんしょういなりだいみょうじん)が鎮座御座します。
瑞龍寺門跡移築と同時に遷座した神社で、少なくとも10年前までは他の多くの稲荷社同様朱塗りの鳥居と本殿だったのですが、何時の頃からかキンキラキンに衣替えしています。
因みにこの装いが示す通り金運上昇にご利益が戴けることを思惟しているようなのですが、本来主祭神である宇迦乃御魂命(ウカノミタマノミコト)は五穀豊穣を司る農業紳ですのでお間違えなく。

瑞龍寺門跡移築の山門を出て本丸跡石垣に沿って歩くと北の丸跡に出ます。
この城の北辺の守りであり、沖島・奥津島山(長命寺山~津田山~伊崎山)方面を監視する役割を担っていたと思われます。
寫眞に映る田園は築城当時内湖であったため、合戦時先述の対岸の山間に敵が布陣した場合、これらを牽制することとなっていたでしょう。

北の丸跡を後にし、西の丸跡に向かう散策路の中間点。瑞龍寺門跡本堂の丁度真裏に小さな祠があります。
水とのかかわりの深い滋賀は、県内各地で水を司る神・龍神にまつわる伝説や信仰の足跡が多数存在します。鶴翼山も例に漏れず、大杉龍神が古くから山の守護神として祀られていました。
しかし長年の信仰の中で痕跡を残すのみとなったことを憂い、第12世貫主・日英尼の発起によって“大杉秀雲龍神”の御神体を新たに彫像。日蓮宗大荒行堂での百箇日に渡る勧請(かんじょう:神仏の来臨や神託を祈願すること)成満の後、昭和62(1987)年4月、ここに龍神堂が建立されました。
築城に際し強行された日牟礼八幡宮の合祀や急迫された曲輪の整備。その後鶴翼山及びそれにかかわる者にもたらされた様々な厄災。この400年に渡る怨嗟の歴史に終止符を打つには龍神の怒りを鎮める他ない。 日英尼だけはそのことに気付いておられていたのかも知れません。

西の丸跡。八幡山城で最も眺望の開けた場所です。
配置的には城主の縁者(妻子など)たちが詰める場所であったと考えられます。
写真のサイズが他と異なるのは、眺望が通常のワンショットで収まらず、止む無くパノラマ撮影に切り替えたためです。
空と平野と山と湖がほぼ同比率で、鶴翼山随一の眺望が堪能出来るのはここ。訪問時は是非とも晴天に恵まれたいものです。

西の丸跡から少し南側に突出した地に出丸跡があります。ここは観光ルートとして整備が未だ十分に進んでいませんので、積極的な散策はお勧めしません。ただそれだけに 『兵どもが夢のあと』感は、他の何処よりも堪能出来るとも言えます。
出丸は山頂部の曲輪の中では小規模の城の如く、完全に独立した配置となっているという特徴を備えています。また麓の城主や家臣団の居館と直結していたことから、有事の際は先ずここへ退避して、戦闘態勢を整えたのではと推察します。
ここからは眼下に見える日杉山の山容が、手に取るように確認できます。写真では確認し辛いのですが、この山の麓には、国内でも現存例の少ないホフマン窯の1つ、旧中川煉瓦製造所ホフマン窯(登録有形文化財)があります。

本来は最初にご紹介すべきでしたが、ここは八幡山ロープウェー・八幡城址駅下車後直ぐの瑞龍寺門跡参道沿いに祀られている村雲お願い地蔵尊です 。
周囲にも実に多くの地蔵菩薩が安置されているのですが、その多くが瑞龍寺門跡移築後に水子供養のため祀られたとされています 。
通常は自由拝観なのですが、現在はコロナ禍に於ける感染予防対策のため、屋外からの参拝に制限されています。

山頂部散策もいよいよ終盤。最後に二の丸跡を訪れました。
曲輪としては本丸に次ぐ敷地面積を誇ります。八幡山城の正面にもあたるため、合戦となればここが主戦場となったやも知れません。ただこれまで見てきた限りでは、山城の縄張りとしては些か構造が単純で、果たして城攻めを受けて実際に何処まで持ち堪えられたのだろうかとの疑念も残ります。
これまでの発掘調査に於いては、廃城となった安土城の資材も活用して急ピッチで築城された可能性があるともされています。当時秀吉が秀次をどのように評価していたのかとも繋がっていくような気もします。
ここからの眺望は他とは異なる趣があります。左手に琵琶湖最大の内湖・西の湖。中央の小高い山は安土城跡。そしてその右手の山には、信長が天下布武を実現するまで永きに渡り南近江の守護大名として君臨してきた佐々木(六角)氏の居城・観音寺城跡があります。
こう見てみますと、中世の時の権力者たちが如何にこの周辺を重要視していたかが窺えます。滋賀中央部の素晴らしい眺望を愉しむだけでも十分ですが、時の権力者の気分でもって戦略的見地で眺めてみるのもまた一興ではないでしょうか。

最後の最後に1つ、前回訪問時に見掛けなかったあるオブジェについてご紹介します。
これらのオブジェが歴史に翻弄された地に相応しいか否かはさておき、地域振興の一環でしょうか、鶴翼山(八幡山ロープウェー)は『恋人の聖地』サテライトに認定されています。
恋人の聖地は、特定非営利活動法人地域活性化支援センターが主催する「恋人の聖地プロジェクト」により選定された観光スポットで、「全国の観光地域からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポット」に相応しい、自然に囲まれた場所や夜景の綺麗な場所、記念品がリリースされる場所などが選定されています。因みにサテライトとは、 プロジェクトの主旨に賛同する企業・団体が管理する場所のうち、「恋人の聖地」として相応しいと判断されたスポットを指すとのこと。
滋賀では他にも、びわ湖バレイ/奥琵琶湖 / 名神高速道路大津サービスエリア。サテライトに草津市立水生植物公園みずの森 / 琵琶湖汽船の外輪船ミシガン・客船ビアンカが認定されています。特に後者の2箇所は「恋人の聖地 地域活性化大賞」を受賞しています。
ここは平成26(2014)年に認定を受けたのですが、八幡山ロープウェーの上り最終便がイベント時を除いて16時30分ですし、市街の夜景を見るために暗闇の登山道を走破するリスクも冒せません。散策当日出くわした観光客の何人かがこのオブジェに接し、「何だコレ?」と呟いていたのも耳にしたことから、知名度の観点からもなかなか厳しいものがあります。
ですので「新たな鶴翼山の歴史」を見出すためにも、インスタ映え(?)するこれらオブジェを探してみるというのも、更に一興ではないでしょうか。何卒ご検討くださいませ。
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【おしまい】

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