Category Archives: 滋賀の昔話

『番町皿屋敷』は本当に“怪談噺”だったのか⁉

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は酷暑に於ける一服の清涼剤と致しまして、『怪談・番町皿屋敷』定説に一石を投じる真説(!?)についてお話を致したいと存じます。

 

毎度のことながらこの時期ともなりますと、やれ「怪談」だの「ホラー」だの「ミステリー」だの「心霊」だのをネタにしたTV番組や関連本が世間を賑わしますが・・・最近はそうでもないようで。

 

この種のネタの需要にも“時代の変遷”というものがあるのでしょうか(?_?)

 

それはさておき、皆さん『怪談・番町皿屋敷』はよくご存知ですよね?知らない良い子のために、話の概要をお“さら”いしてみましょう!

 

私たちがよく耳にする「お菊の亡霊が夜な夜な1ま~い、2ま~い・・・最終的になぜか18枚も皿を数えてしまう」というお話ですが、これはこの怪談噺をベースにした『お菊の皿(または皿屋敷)』という古典落語の演目なのです。

 

『皿屋敷』という怪談は日本各地で伝えられており、どこが“本家本元”の話であるのかは不明ですが、概ね「番町皿屋敷 (東京説)」と「播州皿屋敷(兵庫説)」の何れかの話の流れを汲むとされています。

 

お話の概要としましては、

●屋敷の主人が秘蔵する皿のセットのうち一枚を奉公人の娘が割ってしまう。
  またはその娘に恨みを持つ何者かによって皿が隠されてしまう。
●娘はその責任を問われ責め殺される、または娘が自殺する。
●夜な夜な娘の亡霊が現れて、恨めしげに皿を数える。
●娘の祟りによって屋敷の一家に様々な災厄が振りかかり、
  やがて没落してゆく。

というものです。思い出されましたでしょうか。

 

しかしこの皿屋敷の黄金律を覆す説が滋賀には伝えられているのです。それが彦根・長久寺(ちょうきゅうじ)のお菊伝説なのです。

 

今回は長久寺の檀家の方々のご協力を得て取材を敢行。以下は長久寺からご提供頂いた資料をもとに記述致します。

 

時は寛文4(1664)年、彦根藩3代当主・井伊直澄(いいなおずみ)の御代。井伊家で旗奉行を務める重臣・孕石(はらみいし)家には政之進という世継ぎがおり、孕石家に侍女“お菊”とは相思相愛の仲であった。

 

しかし政之進には亡き両親が取り決めた許嫁がおり、また後見人である叔母が結婚をせき立てるため、足軽の出で身分の異なるお菊は心中穏やかではなかった。

 

お菊は思案余って政之進の本心を確かめようと、孕石家に代々伝わる家宝の「白磁浜紋様皿10枚」のうちの1枚を故意に割ってしまった。

 

最初は単なる過失であると思い強く咎めなかった政之進であったが、お菊を糾問するうちにその真相を知り、自分の心を疑われたことを大層口惜しがった。政之進はお菊の面前で、残りの皿9枚を刀の柄頭(つかがしら)で打ち割り、お菊に対する自分の誠の心をかかる仕打ちで試そうとした心根に憤激し、武士の意地が立たぬとその場でお菊を手討ちにした。

 

その後、政之進はお菊を殺害してしまったことを後悔して出家し供養の旅を生涯続けるが、駿河で寂しく亡くなり孕石家(本家)は断絶した。

 

如何ですか、これまでの定説とは全く異なる内容であることがご理解頂けるかと存じます。

 

この伝説は1916(大正5)年、岡本綺堂によって戯曲(演劇上演のために執筆された脚本)化され、1963(昭和38)年には市川雷蔵主演により『手討』というタイトルで映画化されました。

 

実はこのお話には“後日談” があります。

 

手討ちにされたお菊の遺体と割られた皿は実家に引き渡されます。悲運の死を遂げた娘を哀れに思い、お菊の母親が割れた皿を継ぎ合わせて、橋向町(彦根市)にあった長久寺の末寺“養春院”に奉納しました。

 

その後明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく/仏教寺院・仏像・経巻を破毀し僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃する運動)により養春院が廃寺となったため、止む無く長久寺に移されることとなったのです。

 

現在でもそのお菊の皿は長久寺(彦根市後三条町)に安置されており、毎年8月9日の「千日法会」と8月10日の「地蔵会」の2日に限り、一般に公開されています。

 

なお当初は9枚あったのですが、大正期に行われた市内での展示で3枚を紛失し、現存するのは6枚だけとのことです。また国内各地の「お菊伝説」の中でも、“皿”が現存するのはここが唯一なのだそうです。

 

ちなみにこのお菊の皿こと、孕石家の家宝であった白磁浜紋様皿

 

これには確固たる由来がありまして、もともとは彦根藩の初代藩主である井伊直政が、関ヶ原合戦での戦功により徳川家康から拝領したものなのだとか。

 

その後、大坂夏の陣で戦死した政之進の祖父である“孕石源右衛門泰時”の武功を称え、2代藩主・井伊直孝から孕石家に与えられた由緒正しき歴史の証言者なのです。

 

またお菊の墓も長久寺に安置されています。荒廃していた養春院跡から長久寺の無縁塔へ移され、同じく毎年「千日法会」の際に供養が行われています。かれこれもう350年程前に造られた墓石ですが、お菊の法名である「江月妙心」が今でもハッキリと読み取れます。

 

さらにこの事件に接し、彦根藩の彦根屋敷並びに江戸の三屋敷に務める292人の奥方女中が法要を営んだという記録である「奥方供養寄進帳」も長久寺に安置されています(こちらは非公開)。

 

これらの話をまとめますと、冒頭私はお菊“伝説”と申し上げましたが、どうやら「史実」の可能性が非常に高いと感じます。

 

この“悲恋物語”は事件当時、特に江戸の街で支持されたとも伝えられていますので、これを元ネタとして“怪談・番町皿屋敷”が生まれたのかも知れません。

 

2009年3月に放送されたテレビ東京系番組『新説!?日本ミステリー』の中で紹介された際には一躍注目を集めましたが、現在はお菊の心根に共感した女性がちらほら参拝に訪れる程度と聞きます。かつて大河ドラマ『龍馬伝』で一躍世の女性達の共感を呼んだ清運寺(山梨県甲府市)にある千葉佐那(ちばさな)の墓は、番組終了と共にまるで水を打ったかの如く静まり返ってしまいました。“流行り廃れ”に乗っかった参拝は、願わくはご遠慮いただきたいものです。

 

今回の取材にとても親切にご協力頂きました長久寺の檀家の方々に、この場を借り改めて厚く御礼申し上げる次第です。

 

普門山 常心院 長久寺

・滋賀県彦根市後三条町59
【TEL】0749-22-0914

 

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オタマジャクシの語源は“お多賀さん”にあり!?

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

いつの間にか梅雨に突入しましたね。亜熱帯のような豪雨、凄まじい湿気、寒暖差の激しさ・・・どうか皆様『気象病』にくれぐれもご注意ください。

 

 

さて今回はオタマジャクシの語源にスポットを当てたいと思います。オタマジャクシ…そう、カエルさんの子どもです。

 

「何でオタマジャクシを“オタマジャクシ”と呼ぶのか?」なんて、普通考えませんよねぇ。

 

そんなニッチなネタに拘るのが、“偏屈者”の私の真骨頂であります(^^)

 

 

オタマジャクシを見ていて「何かに似ているなぁ」と思ったことはございませんでしょうか?そう、調理器具のおたまにそっくりです。いえいえ、形状と言葉の“こじつけ”をしようというのではないのです。

 

「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」

 

地元多賀町では有名な俗謡(ぞくよう/民衆の間で歌われる歌謡)で崇敬を集める、通称“お多賀さん”こと多賀大社

 

日本国土の創造主である伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の二神が祀られています。

 

その多賀大社には、古くから縁起物として名高いお多賀杓子(おたがしゃくし)というものがあります。

 

 

遡ること今から約1290年前(奈良時代)。時の帝、元正天皇(げんしょうてんのう/奈良の大仏建立を推進した聖武天皇の伯母)」が病に伏せっておりました。

 

 

多賀社の神官たちは平癒を祈念して、強飯(こわめし/もち米で炊いた御飯)を炊き、更にシデの木で作った杓子を添えて献上しました。

 

 

すると帝はたちどころに病床から回復されたとか。

 

 

そのことから、霊験あらたかな無病長寿の縁起物として信仰を集めるようになったと伝えられています。

 

 

この“お多賀杓子”こそが、私たちが炊飯器から御飯を装(よそ)う際に使用するしゃもじ(杓文字)の原型であるとされています。

 

 

ここで驚きの事実を1つ。実はお多賀杓子が語源となったものは、オタマジャクシのみならず、“しゃもじ”や“おたま”もなのです。

 

 

もともと柄の先に皿形の部分が付いた調理道具のことを、全て杓子(しゃくし)と呼んでおりました。

 

 

それが縁起物の“お多賀杓子”が全国へ広まり時代を経て、御飯を装う道具をしゃもじ(杓文字)、汁物を装う道具をお玉杓子と呼称するようになったと考えられています。

 

 

その後、お玉杓子だけは「玉杓子」や「お玉」と略されるようになります。

 

 

オタマジャクシの語源は、この湾曲した柄と食べ物を装うことが可能な窪みを持った円形の先端部から構成される独特の形状を持つお多賀杓子から飛躍的な連想の働きが発生し、形状的相似からカエルの幼生の呼称につながったとされています。

 

 

“たま”“玉”“タマ”と書いている私自身混乱してしまいそうです。まぁ簡単に申しますと、“オタマジャクシ”も“しゃもじ”も“おたま”も、み~んな似た形の“お多賀杓子”から名前を貰った…ということであります。

 

 

さて今日の夕飯はこの“おたま”で、“カニ玉”でも作りますか!(^^)

 

 

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NHK大津放送局共同企画“彦根城に行政代執行?された寺”(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

本放送はお楽しみいただけましたでしょうか?
このブログはあんな感じの人間がつらつらと綴っております(^^)
今後ともご愛顧くださいますようお願い申し上げます<(_ _)>

 

 

ネタバレした滋賀エリアの皆様には「いまさら」感もございますが、もう暫くお付き合いくださいませ(関西エリアの皆様にはつまらない「国会中継」に化けてしまったことをお詫び申し上げます)。
さてはて、この彦根寺の運命やいかに・・・???

 

 

ご心配には及びません。流石は徳川四天王の誉れ高き名将、譜代中の譜代の家柄の「井伊家」。病弱であった直政の長男・直継に代り彦根藩第2代藩主となった次男・直孝(なおたか)は、彦根山にあった寺社全てを城下に移築して保護します。

 

 

芸能の神としても有名なこちらの彦根市京町に鎮座する千代神社もその1つです(当時は佐和山付近に移築されました)。

 

 

井伊家の前任地である上野國(こうずけのくに/現在の群馬県)は安中にあり、直孝と縁深き関係にあった北野寺に因み、彦根山彦根寺は名を金亀山北野寺と改めます。しかも彦根藩の祈願寺として維持管理の費用は幕末まで全て藩が負担し、手厚く保護されました。1795年に起こった彦根の大火で全焼しますが、第13代藩主・直中(なおなか)によって再建されます。

 

 

かつての彦根寺(現・北野寺)は現在、彦根市馬場1丁目のカインズホームセンター東隣にひっそりとたたずんでいます。以前はもっと広大な寺院で、南隣にある北野天満宮と一体となって一大「参詣スポット」を形成していたのですが、明治時代の「神仏分離令」により縮小された今の姿になってしまったとのこと。

 

 

藩の庇護のみで支えられていただけに明治以降はバックボーンを失い、かつての隆盛は見る影もありません。

 

 

残念ながら歴史書に記述のある高さ約6cmの金の亀に乗った観音は行方不明となってしまいましたが、北野寺には現在でも“金の亀に乗った観音さん”が安置されています(こちらはかなりのビッグサイズ!)。

 

 

御本尊は完全な秘仏で、寺に変事があった時に限られた関係者のみが拝謁を許されるのだと、ご住職の野路井邦充さんに伺いました(先代住職で野路井さんのお父上は生前一度も拝謁する機会を得られなかったそうです)。

 

 

でもその代わりに、こちらでは御本尊に瓜二つ(らしい)の前立仏(まえだちぶつ/平常公開されない秘仏の厨子の前に身代りとして安置され礼拝者にその尊容を偲ばせる仏像)がいらっしゃいますので、そのよすがを伺うことが出来ます。

 

 

本来なら前立仏も毎月18日の法要時のみの公開なのですが、今回特別に拝観させていただきました。私たちが連想する亀ではなく、むしろ古代中国の方角神で北の守護神である玄武(げんぶ)に近い印象です。

 

 

この北野寺はこんな街中にあって、実は修験道(山岳信仰)や密教と深い関わりがあるのです。境内には役小角(えんのおづぬ/飛鳥時代から奈良時代にかけての呪術者)を祀る堂があり、室町時代初期の作とされる“木造役ノ行者倚像”が安置されています。

 

 

また名の由来ともなった上野國・北野寺が、真言宗豊山派(ぶざんは)の総本山・長谷寺(はせでら/奈良県桜井市)と深い関係にあったことから、天台宗のお膝元である滋賀にあって非常に珍しい真言宗寺院なのです。よってここには立派な護摩壇(ごまだん/護摩を焚く炉を据える壇)が備えられています。ただ役行者が祀られている場所に護摩壇があるのは極めて稀で、修験と密教が融合した実に興味深いスポットでもあります。現在でも毎年8月に修験の護摩供が行われています。

 

 

さて前回、移転前の彦根寺を偲ぶものはな~んにも残っていないと申しましたが、実はほんのちょっぴり残っているのです(^^)v

 

 

彦根城の南側正面にある大手門口近くにある地蔵堂。ここは彦根城が築城される際に、山のあちこちにあったお地蔵さんを一箇所に集めて祀ってあるのです。

 

 

これが彦根山(金亀山)が巡礼の地であったことを物語る唯一の痕跡と言っても過言ではないでしょう。

 

 

 

築城の際、地蔵尊を始めとする石像が石垣造営に活用されることは決して珍しくありませんでしたが、彦根藩がそのセオリーに反して敢えてこのように合祀したことに、井伊家の信仰心の高さを伺わせます。

 

 

ちなみにこの地蔵堂には願い石というものがあります。京都の伏見稲荷大社にある「おもかる石」と同じようなもので、「願いが叶うと軽く、願いが叶わないと重く感じる」モノです。

 

 

願い石は3つありますが、これまで多くの人々の願いを見届けてきたせいか、表面はとてもツルツルテカテカです!

 

 

伏見のお稲荷さんのように参詣者でごった返していませんから、お忙しさに対しての“精度”的には狙い目?・・・かもしれませんね。

 

 

さ~て、キャスターの田中さんは軽く感じられたのでしょうか?それとも・・・(笑)。

 

 

もう1つ、彦根市城町には連着町の腹痛石というものがあります。

 

 

かつてここは連着町(れんじゃくまち)と呼ばれ、巡礼に訪れた多くの人々が彦根山に登る前にここで連着(荷物を背負うための道具)を解き、道端の石に腰掛けて休んでいたようです。

 

 

彦根山が巡礼の地であった記憶が次第に薄れ、露頭の腰掛け石も次々と失われていったことから、代々の古老たちが平安時代から存在する唯一のメモリアルとして残すため、いつしかこの石を腹痛石と呼び、触ると腹が痛くなるといい伝え残してきたものです。

 

 

額面通り伝説に倣えば「触っても腹は痛くならない」ハズですが・・・保証は致しません(>_<)

 

 

そしてこちらは補足。北野寺と同じ金亀山の山号を持つ寺院がもう1箇所あります。それが彦根市栄町にある聞光寺(もんこうじ)です。

 

 

正確な位置は不明ですが、かつて彦根城築城前は彦根山にあり、門甲寺と称する天台宗の寺院でした(現在は浄土真宗)。 なお聞光寺には平安時代のものとされる扁額(へんがく/寺社等の建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される看板)が伝えられています。

 

 

彦根城の観音台や地蔵堂、北野寺や腹痛石もメインの観光ルートからは外れますが、「国宝・彦根城築城400年祭」「井伊直弼と開国150年祭」が終わり、“ひこにゃんブーム”も一段落した今、「彦根の黒歴史めぐり」をするのも結構オツなもんですよ(^^)v

 

 

現代の「行政代執行」とは “月とスッポン”のお話でございました<(_ _)>

僅か5分の放送では伝え切れなかったエピソードを2週に渡りご紹介いたしました。TVと比較していかがでしたでしょうか?関西エリア以外の方にはご覧いただけなかった映像を、機会がございましたらこちらで公開したいと考えております。

 

 

さてさて今回も最後に街角風景を1つ。

 

 

キャスターの田中さんから「人気ブロガーが教える彦根の“ツウ”な楽しみ方の締めに相応しいスポットを!」との突然の要請に悩んだ挙句、1つのお店を選びました。

 

 

こちらは創業1954(昭和29)年にして彦根の洋菓子店の先駆け。50年以上に渡り彦根市民に、お菓子で夢を与え続けてくれる老舗、三中井(みなかい)です。

 

 

私が幼少の頃、生クリームでしかもホールのケーキを販売していたのはこのお店が唯一の存在で、毎年誕生日にここのバースデーケーキを買ってもらえるのが嬉しくてたまりませんでした(^^)v

 

 

特にオリンピアという名のロールケーキ(1,575円)は絶品で、あっさり味の生クリーム・しっとりしたシュークレープ・てんこ盛りのピーチのコラボレーションは、子供からご年配まで幅広い層に受け入れられるテイストとなっています。

 

 

今回三中井さんには突然の取材の申し出にも快く受け入れていただきました。むしろお店のスタッフの方と、昔のケーキ談義に花が咲いたほどです(^^)

 

 

そして本当に本当の最後にご紹介したいことを1つ 。

 

 

今回の取材に全面協力いただいた北野寺のご住職、野路井さん。実は真言密教の寺院のご住職のイメージとはかけ離れた特技をお持ちなんです。

 

 

こちらの写真のペーパークラフト、実は野路井さん即興のお手製なんです。しかも取材に同行した娘にこんなにたくさん作ってくださいました。

 

 

なお現在野路井さんがコンセプトにされているのは「気持ち悪い生物」なんだそうです(笑)。驚いたのは、今回取材いただいたNHK大津放送局の『おうみ探検隊』に既にご出演済みの大先輩なのです!

 

 

『おうみ探検隊』の出演者が偶然にもコラボしたのは初めてのことだったようです(^^)

 

 

今回の番組制作並びに取材協力いただきましたNHK大津放送局/大阪放送局の関係者の皆さん、キャスターの田中美紗貴さん、カメラマンさん、音声さん、ドライバーさん、北野寺住職の野路井邦充さん、彦根城管理事務所の皆さん、三中井のスタッフの皆さん、そして全面協力してくれた家族のみんな。この場を借りまして厚く御礼申し上げます、本当に有難うございました。

 

彦根城
・滋賀県彦根市金亀町1‐1
・TEL.0749-22-2742(彦根城管理事務所)
・営業時間/8:30~17:00・年中無休
・入場料/大人600円・小中学生200円

北野寺
・滋賀県彦根市馬場1丁目3-7
・TEL. 0749-22-5630

三中井
・滋賀県彦根市本町1丁目6-28
・営業時間/9:00~19:00・不定休
・TEL. 0749-22-5953

 

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NHK大津放送局共同企画“彦根城に行政代執行?された寺”(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回はNHK放送記念企画といたしまして、2回シリーズでお届けいたします。なおオンエア予定は以下の通りです。何の因果か思いっ切りAKB選抜総選挙とバッティング(笑)ですが、是非!・・・いや出来れば・・・いやいやお時間の許す範囲でご覧くださいまし<(_ _)>

 

 【滋賀ローカル】
おうみ発610 「おうみ探検隊」
2012年6月6日(水) 18:10〜19:00内の5分枠

【関西ローカル】
ぐるっと関西おひるまえ
2012年6月11日(月) 11:30〜12:00内の5分枠

※放送の編成の都合により変更される場合あり。

 

さて唐突ですが、皆さん自分の住んでいる街の“地名の由来”ってご存知ですか?

 

 

これって突き詰めていくと実に奥が深いんです。昔誰かに「水と関係のある地名の場所に家を建てるな!」なんて言われたことがあるのですが…私いま「水」にゆかりのある地名の場所にしっかり住んでいます(>_<)

 

 

さて滋賀の観光名所の代表格である彦根城

 

 

この城がある“彦根”という地名は「彦根城が出来たから」なんて思っておられる方も多いのではないでしょうか。

 

 

答えは「残念~×××!」

 

 

正解はコチラ。

 

 

神代の時代、活津彦根命(いくつひこねのみこと/アマテラスとスサノヲによって生み出された五男三女神のうちの四男)がこの地(現在の彦根山)に降り立ち、祀られたことに由来するのです。

 

現在でも彦根市後三条町には、この彦根の名の由来となった活津彦根命を祀る彦根神社が鎮座しております。

 

 

どのような経緯でこの地に祀られているのかは不明ですが、彦根の名のルーツを今に守り伝えています。

 

 

その神様が降臨された彦根山に、今から約400年前「彦根城」は築城されたのですが、実は何もないタダの山に建てられたワケではないのです。

 

 

関ヶ原合戦の後領主として近江國(滋賀)にお国入りした井伊直政(いいなおまさ)は、一旦かつての西軍大将・石田三成の居城であった佐和山城に入城します。

 

 

しかし戦国期さながらのこの山城はとても使い勝手が悪かったため、新たな城の築城を検討することとなりました。

 

 

直政は磯山(彦根市・米原市の琵琶湖岸境界)を最有力候補としていましたが、戦傷が癒えずに志半ばで死去。後継者である直政の長男・直継(なおつぐ)は幼少であったため、家老の木俣守勝(きまたもりかつ/木俣家は以後井伊家の筆頭家老の家柄となる)が徳川家康と協議して、彦根山に築城することを決定します。

 

 

築城ケテ~イ!”となったはいいのですが、困ったことが1つ。山頂近くにあった由緒正しき古刹、金亀山彦根寺(こんきさんひこねじ)の存在です。

 

 

彦根寺(一説には彦根西寺とも)は奈良時代、元正天皇(げんしょうてんのう/奈良の大仏建立を推進した聖武天皇の伯母)の勅願により、中臣鎌足(なかとみのかまたり/藤原氏の祖)の孫で近江国の国司(こくし/国から派遣された地方行政官)だった藤原房前(ふじわらのふささき)によって、720年に建立されました。

 

 

この寺では、高さ一寸八分(約5.45cm)の金の亀に乗った聖観世音菩薩像を本尊として安置したと伝えられており、当初彦根山であった山号を後に金亀山(こんきさん)に改称しています。彦根城が別称金亀城と呼ばれるのは、ここに由来するのです。

 

 

当時この観音様は霊験あらたかなことで大変有名で、各地から参拝者が絶えなかったそうです。

 

 

平安時代後期の歴史書「扶桑略記(ふそうりゃくき)」によりますと、摂津国(現在の大阪府北中部と兵庫県南東部)に突然両眼を失明してしまった徳満(「とくみつ」ぢゃないよ…)という若い僧がおりました。

 

 

何とか視力を回復したいと京都・鞍馬寺に参詣しますが、ご利益を得ることが出来ませんでした。

 

 

今度は大和國(奈良県)の長谷寺に籠って祈念します。するとある晩、夢の中に老僧が表れて「近江國は彦根寺に参るがよい」と告げられます。

 

 

早速夢のお告げに従いこの彦根寺に辿り着きました。

 

 

そして一心不乱に3日間祈願したところ、明け方に蝋燭の火がぼんやりと見え始め、暫くしてクッキリと眼が見えるようになったのだそうです。

 

その他にも、平安時代には難聴寸前だった関白・藤原師道(ふじわらのもろみち)も祈願によってご利益を得たと伝えられています。

 

そんな奇跡のスピリチュアルエピソードが京で広まり、皇族や貴族からの厚い信仰を受けるのです。

 

 

ちなみにこちらの2点のイラストは、取材用にNHK大津放送局のキャスター・田中美紗貴さんが描いてくださいました。何故か取材クルーには不評で「編集でカットされるかも!?」との恐れから、ブログで公開させていただいております(^^)v

 

 

さて、その肝心の彦根寺。現在はどうなっているのでしょうか?

 

 

彦根城・西の丸の北隣に観音台(かんのんだい)と呼ばれる場所があります。

 

 

彦根藩時代はここに出郭(でくるわ:合戦の際に人質を閉じ込めておく場所)が設置されていました。

 

 

そこがかつての彦根寺の跡であったと伝えられています。

 

 

な~んにも残っていません。

 

 

ここに平安時代屈指のパワースポットがあったとか、彦根の地の原点とも言うべき産土神(うぶすながみ:土地を守護する神)が祀られていたというよすがは全くありません。

 

 

ただ今でもそこから眼下に広がる琵琶湖の眺望は絶景!

 

古人もさぞかしここからの眺めに心癒されたことでしょう。

 

 

 

また彦根城の太鼓門櫓(重要文化財)の門はかつての彦根寺の山門を移築したものであったと考えられていました。

 

 

門柱に残る釘穴は納札(おさめふだ)を打ち付けた痕であったとか、参拝者が着物の上に羽織る「おいずり」を掛けたものであったと言われていました。

 

 

昭和31~32年に実施された解体修理工事での建築部材調査で、残念ながら寺の山門で無かったことが判明しました。しかしこの釘穴の正体は、未だミステリーなままです。

 

 

さらに現在県道2号線となり、彦根市街では通称“ベルロード通り”と称する道路は、かつて巡礼街道と呼ばれていました。

 

当時は特に京からの参詣者で沿道は大変賑わっていたそうです。

 

巡礼街道の名称は40歳代以上の土着の市民なら存知しているのですが、その由来については殆ど認知されていません。

 

 

お恥ずかしながら、私の両親も全く知りませんでした(>_<)

 

 

沖縄の普〇間基地のように「最低でも県外」ってなワケにはいきません。かの“第六天魔王”織田信長なら、躊躇することなく「なぎ倒せ!焼き払え!」だったでしょう。

 

 

さてこの由緒正しき寺の運命やいかに・・・???

続きは後篇で・・・あ、でも今日の放送でネタバレしちゃうんだよなぁ(>_<)

 

 

前篇の締め括りに、今回の取材で見つけた街角の風景をひとつ。

 

 

とある地蔵堂での貼り紙。

 

「お地蔵様を、連絡もなく勝手に置かないようにして下さい(世話方)」

 

 

捨て子、捨て犬、捨て猫なんて言葉は聞いたことかありますが・・・捨て地蔵?なんてことがあるんですねぇ。

 

 

仏さんを置き去りにするとは・・・ホント世知辛い世の中になったものです(T_T)

 

 

それでは次週をお楽しみに!

 

 

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