Category Archives: 滋賀の伝説

園城寺夜話(9)“千団子の伝説”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>  

 

今回の園城寺夜話は千団子(せんだんご)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

護法善神堂園城寺境内の東側中央付近に護法善神堂(ごほうぜんしんどう)と呼ばれる小さなお堂があります。ここには園城寺の守護神である鬼子母神(きしもじん)が祀られています。

 

メインの観光ルートから外れているためか、普段はとてもひっそりとしており、人気もありません。

 

何故鬼子母神がここに祀られているのかと申しますと、開祖・円珍(智証大師)が8歳の頃、突如として目前に鬼子母神が姿を現し、「仏法とあなたを護ってあげましょう」と告げられます。

 

その後、唐に修業へ赴いた際にも遭遇したため、園城寺創建の際一堂を建て祀ったことに由来します。護法善神、つまり法(仏法)を護る善き神、すなわち守護神なのであります。

 

護法善神立像(鬼子母神)鬼子母神は一般に女性の安産を叶え、また子供の健やかな成長を見守る女神として信仰されています。しかしその名の一部にある「鬼」の文字が表すように、本来の姿は信仰のイメージとは真逆の存在であったのです。

 

昔々、今から約2600前のこと。北インドの建陀羅国(けんだらこく/ガンダーラのこと)に半支迦薬叉(はんしかやしゃ/バーンチカとも)という武将がおりました。

 

その妻は大夜叉女で、自らは千人(一説には五百人または1万人とも)の子の母親でありながら、常に人間の子を捕えては食べてしまうため、多くの人々から恐怖と憎悪の念を一身に浴びていました。

 

この狂気の沙汰を見かねた釈迦は、人々とこの女を共に救済するため、彼女が最も溺愛していた末子・ピンガーラを隠します。女は半狂乱となり、世界中を七日七晩探し回りますが、見つけることは出来ません。憔悴し切った女は、助けを求め釈迦に縋ります。

 

すると釈迦は「お前は我が子が千人も居ながら、たった1人姿を消しただけで狂ったように探し回っている。ましてや人間は2人や3人しか子を持たぬのに、これを奪われれば親の悲しみは如何ばかりであろう」と女に説きました。女は深く懺悔して、これまでの罪亡ぼしに仏法を守護し、子供のない人には子供を授け、病気を癒し、一切の障碍から子供を守ることを誓いました。釈迦はピンガーラを女のもとに返し、柘榴(ざくろ)を食物とすることを教えたと伝えられています。

 

千団子祭【HN.風来さん 提供】毎年5月中旬(16~17日)、護法善神堂では千団子祭が執り行われます。千の団子は千人の子の供養のため、そして鬼子母神への供養として柘榴が供えられます。

 

祭礼当日は子供の無事成長にちなみ、植木市・苗市が開かれます。

 

また堂前の放生池では、生きとし生きるもの全ての生命を慈しむ放生会(ほうしょうえ)が執り行われ、子供の無事成長の願いを込めて、その子の名前と年齢を亀の甲羅に書いて池に放します。

 

この時ばかりは普段閑散とした境内も、多くの参詣者で賑わいます。

 

今回の記事作成に際し、資料をご提供頂きましたHN.風来さん、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

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園城寺夜話(8)“弁慶の引摺鐘の伝説”

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今回の園城寺夜話は弁慶の引摺鐘(べんけいのひきずりがね)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 霊鐘堂金堂の西山手に霊鐘堂(れいしょうどう)と呼ばれるお堂があります。

 

ここには弁慶の引摺鐘と呼ばれる銅鐘が奉安されています。

 

無銘ですが奈良時代の作と言われ、国の重要文化財に指定されています。

 

弁慶とは皆さんご存知、源義経の忠臣・武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)のことです。

 

武蔵坊弁慶その昔、同じ天台宗の寺院であった延暦寺と園城寺はとても仲が悪く、何かにつけ争いが絶えませんでした。

 

当時延暦寺で乱暴者として名の知れていた弁慶は、園城寺で散々暴れまわった後、あろうことかこの銅鐘を奪い取り、引き摺りながら延暦寺の大講堂まで運び上げてしまいます。

 

弁慶が早速この鐘を撞きますが、何と「イノー、イノー(関西弁で“帰りたい、帰りたい”)」と響くのです。

 

「そんなに園城寺に帰りたいのか!」と怒った弁慶は、園城寺目掛けて鐘を谷底へ投げ捨ててしまいます。

 

弁慶の引摺鐘この銅鐘の乳(ち/梵鐘特有のイボ状の突起)の擦り切れや傷痕・破目(はめ/割れ)は、その際の痕跡であると伝えられています。

 

またこの鐘は寺に変事がある際、その前兆として不可思議な現象が生じるのだとか。

 

良くないことが起こる時には鐘が汗を掻いて撞いても鳴らず、また良いことが起こる時には自然に鳴るのだそうです。

 

京都の将軍塚と似たエピソードですね(^^)

 

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園城寺夜話(7)“くじ山の伝説”

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今回の園城寺夜話はくじ山の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

如意ヶ嶽(くじ山)子山カントリークラブの裏手、皇子山総合運動公園より西方に望む位置に標高472mの如意ヶ嶽(にょいがたけ)があります。

 

この山はもともと園城寺の寺領で、昔から山笹(クマザサ)が沢山自生していました。

 

 

同じく園城寺の寺領で隣接する南滋賀村と藤尾村ではこの山笹を水田の肥料に活用していましたが、いつも互いの取り分が原因で争いが絶えませんでした。

 

この状況に困り果てた園城寺は仲裁に入り、6月は藤尾村、後の11ヶ月は南滋賀村に伐採の権利を与えることに決めます。

 

山笹(クマザサ)しかし南滋賀村は繁茂期である6月を藤尾村に譲らねばならないことに猛反発。事態は一向に収拾する気配を見せません。

 

この状況にとうとう堪忍袋の緒が切れた園城寺は、伐採権を2村とも剥奪すると言い出します。

 

流石に伐採権を取り上げられてはかなわないと、互いに解決策を協議。

 

結果、くじによって伐採の権利を決め、それ以来この山のことをくじ山と呼ぶそうになったそうです。

 

さて、滋賀側から見たこの山は、これといった特徴のないどこにでもある容姿の山。

 

大文字山の送り火でも京都側ではその様相を一変させます。

 

そうこの山は五山の送り火で有名な大文字山なのです。

 

正確には如意ヶ嶽の西側支峰にあたりますが、同じ山でこうも趣が変わる山も珍しいと思います。

 

かつては京と大津を繋ぐ経路の1つとして重要な拠点として機能していましたが、現在はハイキングコースとして活用されています。

 

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園城寺夜話(6)“ねずみの宮の伝説”

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今回の園城寺夜話はねずみの宮の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

十八明神社(ねずみの宮)四季を通じて園城寺きっての観光スポットである観音堂。そこへと通じる石段に差し掛かる参道から少し外れた場所に十八明神(じゅうはちみょうじん)と呼ばれる小さな祠が祀られています。

 

本来は伽藍(がらん/僧侶が集まり修行する清浄な場所)を守護する神様なのですが、 一般には「ねずみの宮さん」と呼ばれ親しまれています。

 

平安時代中期、白河天皇(第72代天皇/1053~1129)の御代のこと。

 

『新形三十六怪撰』三井寺頼豪阿闍利悪念鼠と変ずる図(月岡芳年)園城寺に頼豪(らいごう/1002~1084)という阿闍梨(あじゃり/弟子たちの規範となり法を教授する学徳に秀でた高僧)がおりました。

 

承保元(1074)年。当時修法の効験で知られていた頼豪に、白河天皇の皇子降誕を祈誓するよう朝廷より勅命が下りました。

 

まもなく祈祷の験あって、待望の長男・敦文(あつふみ)親王が誕生。

 

その報奨として念願の戒壇(かいだん/仏教において守るべき道徳規範や規則を授ける場所)道場建立の勅許を得ました。

 

ところが比叡山の横暴な強訴により勅許が取り消されてしまい、頼豪はこれに激怒。百日の行に入り、髭も剃らず、爪も切らず、断食して護摩を焚き続け、遂には護摩壇の炎に骨を焼いてしまい、とうとう二十一日(三十七日との説もあり)目にして命果ててしまいました。

 

ネズミの大群(イメージ)するとその怨念が鉄の牙・石の身体を持つ八万四千のネズミとなって比叡山へ押し寄せ、堂塔や仏像経巻を喰い荒らしました。

 

比叡山では一山の大徳が神通力をもって大猫となり、ネズミを喰い殺してようやく収まったといいます。以来、大きなネズミを「頼豪鼠」と呼ぶようになったそうです。

 

このお話は『平家物語』『太平記』にも所載されており、それぞれにストーリーが微妙に異なります。

 

またこの社はこの時のネズミの霊を祀っているため、北の比叡山の方向を睨んで建っているのだとも伝えられています。

 

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園城寺夜話(5)“天狗杉の伝説”

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今回の園城寺夜話は天狗杉(てんぐすぎ)の伝説についてご紹介したいと存じます。


太郎坊の天狗天狗と言えば京都の鞍馬寺を連想される方が多いかと思いますが、滋賀でも天狗にまつわるお話は各地に残っています。
また「天狗杉」と呼ばれる木も県内に点在しており、小生が確認出来たものだけでも、大津にはここ園城寺、そして比叡山に3箇所、石山寺、さらに長浜は木之本町田部の観音堂にもあります。

 

それだけ京都に負けじ劣らじ天狗との縁は深いのです。

 

さてお話を園城寺に戻しましょう。

 

金堂の南正面東側。そこに園城寺の天狗杉があります。

 

園城寺天狗杉根回り約7.5m、目通り周囲約4.0m、全高約20mのこの巨大な杉は地上間もないところで二股に分かれ、主幹先端部分は数度の落雷によって枯れた状態になっています。

 

しかし他の部分は健在で良く枝葉が茂り、全体的に端正な樹勢を現在でも保っております。昭和51(1976)年3月には大津市より、指定文化財と天然記念物に選定されています。

 

室町時代初期、相模坊道了(さがみぼうどうりょう)という僧が勧学院の書院で密教の修行をしていました。

 

ある夜のこと。同郷出身の了庵慧明(りょうあんえみょう)が相模國(現在の神奈川県)で最乗寺(さいじょうじ)を開創したことを聞き及ぶと、突如として天狗となり、書院の窓から飛び出しこの杉の上に止まります。 そして早暁に東の空に向かって飛び去りました。

 

最乗寺 御真殿【HN.珍念さん 提供】何とはるか小田原まで飛び、最乗寺に馳せ参じたと伝えられています。 その後了庵のもとで土木事業に従事し、五百人力を発揮しました。験徳著しく村人から慕われ、今も同寺の御真殿に祀られています。

 

また道了が修行していた勧学院には「天狗の間」があり、現在も遺徳を偲び最乗寺より参詣者が訪れています。

 

今回の記事作成に際し、資料をご提供頂きましたHN.珍念さん、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

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園城寺夜話(4)“村雲橋の伝説”

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今回の園城寺夜話は天台寺門宗の宗祖・圓珍(智証大師)にまつわる村雲橋(むらくもばし)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

圓珍(智証大師)まずはこれまでもちょこちょこ名前の出てきた宗祖・圓珍(えんちん)について簡単にご紹介致します。

 

最澄(伝教大師)が日本で開いた天台宗の僧で、讃岐國(現在の香川県)の出身。あの真言宗の宗祖・空海(弘法大師)の甥とも言われています。

 

平安時代初期に唐(中国)へ留学僧として海を渡ったことから、入唐八家(にっとうはっけ/最澄・空海を始めとする代表的な唐への留学僧)の1人に列しています。

 

わずか14歳で比叡山に入り、初代天台座主(てんだいざす/延暦寺の住職)・義真(ぎしん)に師事。853年、唐に留学し、天台山(天台宗の聖地)で天台宗の教義を本格的に学びます。その後、かつて空海が留学した長安(ちょうあん/唐の都で現在の西安市)にある青龍寺で密教を学び、およそ5年間の留学生活を終えて帰国します。

 

帰国後再び比叡山に戻りますが、868年、第5代天台座主に就任。859年、朝廷の許可を得て園城寺を再興し、ここを天台密教の道場として整備しました。これが現在の園城寺の始まりです。圓珍の死後、教義の違いから延暦寺と園城寺は一気に宗教的対立を迎え、朝廷の政治的な思惑も複雑に絡み、天台宗は約700年間の長きに渡り混迷の時代を歩むこととなるのです。

 

さて何処にでも存在することなのですが、開祖・宗祖にまつわる伝説というものは定番でございます。ここで圓珍ゆかりの代表的なお話を1つ。

 

村雲橋金堂から観音堂に向かう参道の途中、勧学院の美しい石垣の築地堀の手前に村雲橋(むらくもばし)と呼ばれる小さな石橋があります。

 

橋の下の川はとても小さいのですが、常に美しい水が流れています。

 

ある日のこと。圓珍がこの橋を渡ろうとした時、ふと西の空を見遣り大変驚きました。

 

かつて唐の長安で学んだ青龍寺が火事に遭っていることを察知したのです。 圓珍は早速真言を唱え、橋上から閼伽水を撒くと、橋の下から一条の雲が湧き起り、 西に向かって飛び去りました。その光景をその場にいた弟子たちはあっけにとられて、ただただ見とれていたそうです。

 

青龍寺(中国・西安)【西安觀光 提供】それから幾日か経ち、青龍寺より園城寺へ鎮火の礼状が送られてきました。

 

「当寺が火災に遭った際、大層お助け頂きました。お陰で重要な仏典が全て焼損することを免れました。厚く御礼申し上げます」と。

 

 

弟子たちは改めて圓珍の神変摩訶不思議な力に感動し、以来この橋を“ムラカリタツクモの橋”、村雲橋と称して、その徳をいつまでも忘れぬようにしたと伝えています。

 

今回の記事作成に際し、資料をご提供頂きました西安觀光様、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

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園城寺夜話(2)“閼伽井の伝説”

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今回の園城寺夜話は、閼伽井(あかい)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

園城寺金堂前回の内容と少し重複致しますが何卒ご容赦下さいませ。

 

園城寺のそもそものルーツは飛鳥時代後期に大津京を造営した天智天皇の孫にあたる大友与多王(おおとものよたのおおきみ)が、父・大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うため、資材を投げ打ち建立したものと伝えられています。

 

その園城寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井(みい)の寺と呼ばれ、それが転じて三井寺と呼ばれるようになったとされています。

 

園城寺閼伽井屋一般的な寺院での本堂にあたる金堂(こんどう)。その西隣に三井寺の名の由来となった井戸の閼伽井屋(あかいのや)があります。

 

建屋が金堂と僅か数メートルしか離れていないので、残念ながら正面からの撮影が不可能となっています。何故こんなにも隣接して金堂が建造されているのかは皆目謎です。

 

ちなみに閼伽(あか)とは仏教において仏前などに供養される水のことで、天台寺門宗の宗祖である円珍(智証大師)によって三部灌頂が奉修されたので、閼伽井と呼ばれるようになりました。

 

現在でもコンコンと湧き出る井戸の水は、園城寺の様々な営みに供されています。

 

閼伽井

現在の建屋は後に豊臣秀吉の正室・北政所(おね)の命により建立されたもので、もともとは石庭の一部でした。

 

園城寺は大友与多王の邸跡に建立されたのではとの説もあり、閼伽井を中心とする石庭はそもそも大友氏邸の庭園とされ、現存する日本最古の石庭ではないかとも考えられています。

 

さてこの園城寺界隈には、この他にも霊泉と呼ばれる井戸の伝説が残っています。    

 

練貫井園城寺大門より南東へ約300m。琵琶湖疏水に程近い場所に大練寺(だいれんじ)があります。ここに練貫井(れんがんのい)があります。

 

かつてここには大津京があり、この井戸の水で練った衣を宮中に献上し、その衣を天智天皇が着用されていたことからその名が付いたとされています。

 

また天智天皇が行幸されたと言われる古道がこの練貫井の前を通っていて、豊臣秀吉が京の聚楽第から毎日この井戸の水を汲みに来て、点茶(てんちゃ/抹茶をたてること)に用いたとの言い伝えも残っています。

 

園城寺の閼伽井、逢坂関の走井と並び大津三名水の1つに列せられる程の名水でしたが、明治20(1887)年、琵琶湖疏水の掘削工事で水脈が断たれ、残念ながら現在はその跡しか残っていません。

 

もう1つ。

 

金殿井園城寺から北方へ約3km、近江神宮の裏山手に宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)があります。

 

 

ここの境内に金殿井(かねどののい)があります。

 

大津京遷都直後、天智天皇が重い病気を患われます。当時天皇の側近の1人(右大臣)で中臣(藤原)鎌足の従兄弟でもあった中臣金(なかとみのかね/?~672年)は、夢で「都の西方にある大木の根本から湧き出る清水を汲んで献上せよ」とのお告げを受けます。

 

早速山中に分け入り泉を発見、この水を献上するとたちどころに平癒されたとか。

 

以降疾病に霊験あらたかな霊泉として守られてきましたが、宇佐八幡宮の創建(1065年)に際し、御神水として一般に公開。特に難病諸病に効果が顕著であると、次第に広くその効が伝えられました。 現在毎年8月上旬に霊泉祭が行なわれ、土用の日にこの水を頂くと特に効験があると言われています。

 

水都とも呼ばれる滋賀に相応しい、“水”にまつわるお話でした(^^)

 

泉涌山 大練寺 (練貫井)

・滋賀県大津市三井寺町9−3
【TEL】 077-522-0318

宇佐八幡宮 (金殿井)

・滋賀県大津市錦織1-15
【TEL】 077-522-6812

 

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きぬがさやま夜話外伝“シガイの森”の伝説

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先々週、後藤奇壹の湖國浪漫風土記・淡海鏡で完結しました「きぬがさやま夜話」シリーズですが、最終章の桑實寺(くわのみでら)の記事に関する取材の延長線上で奇妙な情報を入手しましたので、今回はそのお話を致したいと存じます。

 

ここで桑實寺に関する織田信長にまつわるエピソードを、もう一度おさらい致します。

 

桑實寺山門

1582(天正9)年4月10日。信長は少数の小姓衆を従えて、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)に参詣します。

 

安土城に詰める女房衆(にょうぼうしゅう/主君の身の回りの世話をする女性)は、遠路であるから途中の羽柴秀吉の長浜城に宿泊し、今日は帰城しないと考え自由に過ごしておりました。

 

ある者は城の二の丸に出掛け、ある者は桑實寺の薬師参りに出掛けていました。しかし大方の予想に反し、信長は異例の速さで安土城に戻ります。城内は大騒ぎとなり、この状況に激怒した信長は、怠けていた者を残らず縛り上げさせました。

 

桑實寺に出掛けていた者たちは信長の罰を恐れて、寺の長老に助けを請いました。長老は「慈悲をもってお助けを」と懇願しますが、かえって信長の逆鱗に触れ、女房衆とそれを擁護した高僧たちを処刑したのです。

 

以上が『信長公記(しんちょうこうき)』に所載されている桑實寺事件(竹生島事件とも)の概要です。前回の記事でこのお話は桑實寺の当時の寺伝にその出来事の記載がないことから、昨今は“いささか歪曲された内容”ではないかとの意見もあると申し上げました。

 

その後色々と調べを進めていると、女房衆と高僧たちを処刑したと伝えられる場所が存在するとの情報を得たのです。

 

新開の森近江八幡市安土町常楽寺(じょうらくじ)。県道2号西側に拡がる広大な田園地帯に、極めて不自然な存在感を示す森がポツンと存在します。

 

桑實寺から西に約3km、安土城から南西に約2kmの場所に位置する周囲約240m(敷地面積約3,200㎡)のこの小さな森は、新開の森(しんがいのもり)と地元では呼ばれています。

 

何故ここだけ残されたかと申しますと、この森の樹木を伐採すると“祟り”があるとの噂があるからなのだと言われています。

 

今宮天満宮神社御旅所一見ただの雑木林ですが、ここから南に約700m先にある今宮天満宮神社(近江八幡市浅小井町)の御旅所(おたびしょ/神社の祭礼において祭神が巡幸の途中で休憩または宿泊地或いは目的地)に指定されています。

 

森の南側に参道らしきものは存在しますが、昼間でも薄暗く、お世辞にも整備されているようには見受けられません。

 

実は先の桑實寺事件での女房衆と高僧たちの処刑がここで断行され、遺骸を埋められたという説があるのです。神域の聖地で俄かに信じ難いことなのですが、それにはこのような裏付けがあるのです。

 

この森の西側に小さな祠がひっそりと佇んでいます。その祠の傍らには建部紹智(たけべしょうち)・大脇傳助(おおわきでんすけ)殉教碑と書かれた碑があります。

 

安土城築城から2年後の天正7(1579)年の5月中旬のこと。安土城下で法華宗と浄土宗との間である騒動が勃発しました。当時城下で浄土宗の長老が説法をしていたところ、法華宗の信徒である建部紹智と大脇傳介が議論を吹っ掛け、これが引き金となり両宗派の僧侶が問答合戦を執り行うことになってしまいます。

建部紹智・大脇傳助殉教碑城下がこの噂で騒然となり、当初信長は事態の収拾を両宗派に命じますが法華宗側が承知せず、遂に全面対決の騒動にまで発展してしまうのです。

町外れにある浄土宗・浄厳院(じょうごんいん)を論議の場とし、信長は審判者と警護の兵を派遣しました。両宗派より各々4名の僧侶が臨席して進められましたが、法華宗側が返答に詰まった時点で浄土宗側の勝利が言い渡されます。

この結果に接し、たちまち法華宗の僧侶や信徒達は逃げ散りましたが、織田信澄らがによってことごとく捕えられ、宗論の記録は信長の下へ届けられました。

早速信長は浄厳院へ出向き、両当事者を召し出します。そして浄土宗側に恩賞を与え、騒動の張本人である大脇傳介と、その師であり宗論にも臨席していた妙国寺普伝(みょうこくじふでん)を即刻斬首。またもう1人の騒動の張本人である建部紹智を大坂・堺で捕縛。連行の上これも斬首。法華宗側には今後他宗を誹謗しないとの誓約書を提出させて騒動は終結しました。

 

これが世にいう安土宗論(あづちしゅうろん/安土問答とも)です。その騒動の起因となった者たちの処刑が、この地で執行されたといいます。このお話も桑實寺事件同様、『信長公記』に所載されている一篇ですので、どこまでが真実でどこまでが虚飾なのかは定かではありません。

 

いつしかこの森はシガイの森と呼ばれるようになり、現在県内でも有数の心霊スポットと知られています。確かに霊感の全くない小生ですら、周囲の空気に禍々しさを感じました(決して興味本位で訪問しないでください)。

 

信じるか信じないかは、アナタ次第です!

 

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衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説・後篇

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衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説・後篇をお届け致します。

 

木之本地蔵院が創建されてから約140年後のこと。

 

浄信寺本堂弘仁3(812)年。全国修行行脚の途上、空海(弘法大師)がこの地を訪れました。

 

早速木之本のお地蔵さんを参詣したのですが、長い年月を経て著しく荒廃した姿に接し、大変心を痛めました。

 

そしてこの地蔵院の修復を申し出るのです。

 

この時空海は、閻魔王(えんまおう)と具生神(ぐしょうじん/人の善悪を記録して死後に閻魔王への報告を担う二神)を安置し、紺紙金泥(こんしこんでい/紺色に染色した紙に金粉をニカワに溶いた絵具で書いたもの)の地蔵本願経一部三巻を献納しました。

 

すると、ある夜のこと。空海は不思議な夢を見ます。

 

『堂前の湖に龍が棲んでおり人々に害をなしているのでこれを救え』とのお告げを受けるのです。

 

早速空海は湖の畔に立ち祈祷を行いました。すると湖から龍が表れて、

 

『私はこの湖に棲む龍で(しず)と申します。今後人々に危害を加えませんので、どうかお討ちにならずにお助け下さい』と懇願しました。

 

そこで空海はここでの修法(壇を設けて行う加持祈禱)に参列するようにと申し付けます。龍は童女に姿を変え、修法に参列しました。

 

伊香具神社龍の大変神妙且つ真剣な態度に感心した空海は、懲らしめずに伊香具神社(いかぐじんじゃ)の守護神として祀ることにしました。

 

長浜市木之本町大音(おおと)にある伊香具神社の祭神は伊香津臣命(いかつおみのみこと)ですが、『近江国風土記』に記載されている余呉湖の羽衣伝説に登場する天女・伊香刀美(いかとみ)と同一であるとされています。

 

余呉湖の龍神は「天女」であったのかも知れませんね。


また童女・賤にちなんで、伊香具神社の後ろの山を賤ヶ岳(しずがたけ)と名付けたと言い伝えられています。

 

賤ヶ岳空海と龍神との出来事から約770年後の戦国時代のこと。

 

木之本地蔵院は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって本陣が置かれ、戦火により焼失。賤ヶ岳一帯も柴田勝家との激しい戦い(賤ヶ岳合戦)が繰り広げられ死屍累々の地と化したのは、実に因果なことです。

 

アーカイブスサイト後藤奇壹の湖國浪漫風土記・淡海鏡も是非ご覧ください!

 

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衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説・前篇

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今回は、日本三大地蔵の1つに列せられ、県内でも眼病・延命息災のお地蔵様としても名高い、木之本地蔵(きのもとじぞう)にまつわるお話を、2回に渡りお届け致したいと存じます。

 

木之本地蔵大縁日(地蔵坂)JR北陸線・木ノ本駅を下車して直ぐに、とても長い石畳の坂道に出逢います。通称・地蔵坂と呼ばれるこの坂道の先に遠く見える寺院に、木之本地蔵はおはします。

 

しかし、本来はこの坂道のスタート地点が寺院の入口。現在の門前町はもともとの参道に発展したものなのです。

 

(上写真は例年8月22~25日に勤修される木之本地蔵大縁日での地蔵坂の光景)

 

7世紀後半、飛鳥時代も終盤を迎えつつある頃。摂津國・難波浦(現在の大阪府)に、金色に輝く1体の仏像が流れ着きました。時を同じくして天武天皇(てんむてんのう/第40代天皇)はこの仏像の霊夢をご覧になり、「この御仏こそ龍樹(龍樹/2世紀のインドの高僧で日本では八宗の祖と言われる)菩薩が御作りになられた霊験あらたかなものである」として、すぐさま漂流の地に伽藍の建立を命じます。これが金光寺の起源であるとされています。

 

しかし帝はこの御仏を仏法の縁の深い場所でより多くの民衆の拠り所となって欲しいとの想いから、皇紀1335(675)年に薬師寺の開祖・祚蓮(それん)へ縁の深い地を探すよう勅命を出しました。早速祚蓮はこの尊像を奉持して、諸国行脚の旅に出ます。

 

木之本地蔵院(浄信寺)祚蓮は北国街道を下った時のこと、丁度柳の大木があったのでその下に尊像を下ろし、しばし休息をとりました。そして再び出発しようとしたのですが、尊像はその場から全く動かすことが出来ず、何と前にも増して金光を放ちました。

 

周囲は一面光明に包まれ、病に伏せる者はたちまち治癒し、災難に見舞われし者は立ちどころに難が消除しました。


祚蓮は「誠に地蔵菩薩は不可思議の霊像である。この光こそ衆生(民衆)の救済、諸難諸病を遁れ願い成就する光だ、この地こそ地蔵菩薩の有縁の地であるから、ここに安置して人々の暮らしを幸福へと導きたい」と語り、この地に伽藍の建設が始まります。これが木之本地蔵の草創と伝えられています。

 

この地での御縁を結んだ柳の木の下での出来事に因み、柳本山金光善寺と号して一寺を建立しました。後にこの地は「柳の本(やなぎのもと)」と呼ばれ、これが転じて「木之本(きのもと)」になったといいます。

 

さて、参拝される皆さんは「木之本のお地蔵さん」と親しげに話されるのですが、意外にも寺院の正式名称は余り知られていません。木之本地蔵院とも呼ばれますが、これは通称なのです。

 

昌泰元(898)年、醍醐天皇の勅旨により菅原道真が参拝。これを機会として長祈山浄信寺(ちょうきざんじょうしんじ)と改号されました。よって浄信寺が正しい名前になります。


木之本地蔵菩薩大銅像様々なエピソードに彩られた本尊の木造地蔵菩薩立像(但し現存するものは鎌倉期の作)は国指定重要文化財で、秘仏のため一般公開されていません。

 

そこでより多くの人々にお地蔵様のご加護を受けて貰いたいとの想いから、明治24(1891)年から27年にかけて、本尊のお写しとして約3倍の大きさに建立されたのが、日本最大の地蔵菩薩銅像であり浄信寺のシンボル的存在の木之本地蔵菩薩大銅像です。

 

造営当時は県内はもとより、愛知や岐阜や福井からも銅鏡を集め、それらを溶かして造られたのだとか。

 

また大東亜戦争中は軍需省より厳しい供出命令を受けましたが、「地蔵菩薩は信仰の対象である」として三十世住職其阿上人学樹足下はそれを拒否しました。真言宗阿闍梨・班目日仏や東條英機の妻である東条勝子などの援助もあって供出を免れました。

 

あの東京・渋谷駅前のハチ公銅像ですら、反対運動も空しく戦時中のどさくさに紛れて供出されてしまったのですから、木之本のお地蔵さんのパワーはスゴいですね。

 

最後に、木之本のお地蔵さんは眼病快癒にご利益があることでも有名です。

 

境内を見渡すと、無数の「蛙の陶器」が置かれていることに気づきます。

 

でもよ~~~く見ると、蛙の何かが違います。何と全ての蛙が片眼をつむっているのです(ウインクしている訳ではございません)。

 

身代わり蛙その昔、浄信寺の庭園には沢山の蛙が棲んでいました。連日、木之本のお地蔵さんには眼病を患った多くの参拝者が訪れます。蛙たちはその姿に接し大変心を痛め、「全ての人々の大切な眼が、お地蔵様の御加護を戴けますように」「全ての人々が健康な生活を営むことが出来ますように」と自ら身代わりの願を掛け、片方の眼をつむり暮らすようになったと言われています。

 


これが現在、身代わり蛙と呼ばれて眼病快癒の願掛けに用いられているのです。

 

地元の方々にとって木之本のお地蔵さんは日々の暮らしと密接に繋がっており、現在でも老若男女を問わず、門前を通る際に必ずお辞儀をしていく光景がとても印象的であり、日本人としての誇らしさを感じるのです。

 

(衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説 後篇もお楽しみに・・・)

 

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