Category Archives: 滋賀の伝説

【即位礼正殿の儀特別企画】帝を魅了した禁断の果実“むべ”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今回は即位礼正殿の儀を目前にした特別企画と致しまして、帝を魅了した禁断の果実むべについてのお話を致したいと存じます。

決して “ベム”ではございません。今回は小ネタの類(妖怪人間モノ)ではありませんのでご安心を(^^)

さて、近江八幡界隈の湖岸道路、長命寺川に並走する辺りで、このような看板を見かけたことはありませんか?『むべ狩り』・・・“むべ”を狩る??そもそも “むべ” とは何ぞや???

むべ狩り

“むべ”とは植物の名前です。

別名「トキワアケビ(常盤通草)」とも呼ばれ、その他「ウベアケビ」「ムベアケビ」「本アケビ」「カラスアケビ」などとも呼ばれます。 「エビカヅラ」との異名もありますが、これは全く異なる植物になります。

むべ

かいつまんで申しますと「アケビ」の仲間です。“アケビ”と言われましても現代っ子には馴染みがほとんど無いと思いますが、ご年配の方々にはその名を聞いて懐かしさが込み上げてくるのではないでしょうか。

植生は蔦(つた)のように他の木に絡まって上に伸びます。5月頃に白色または淡紅色の花が咲き、10月後半から11月初旬頃に果実が実ります。実は長さ8cm程度の楕円形で、熟すると紫色になり、内部には乳白色の粘りのある甘い果肉と黒い種子があります。

さて、その果実に何故むべという名が付いたのか。その理由は今から約1340年前に遡ります。

都が大津に遷された頃のこと。ある日、時の帝・天智天皇(てんじてんのう)は蒲生野で遊猟していた際、奥島(現在の近江八幡市島町・北津田町付近)に立ち寄ります。

天智天皇

そこで珍しく長寿で男の子を8人も育てた老夫婦に出逢います。天皇がその老夫婦に「おまえたちの長生きの秘訣は何か?」と尋ねますと、老夫婦は「此処にはこのような珍しい果物があるのです」と天皇にその実を差し出したのです。

すると天皇はその実を見て、「むべなるかな(如何にももっともなことであるな)。このような霊力のある果物は毎年朝廷へ献上するように」と命じたそうです。

以後この果実は“むべ”と呼ばれ、この地域では毎年11月に朝廷へ献上するようになり、その代りに朝廷や幕府からの賦役(ふえき/農民が領主から課せられた労働と地代)を免除されたり、献上道中帯刀の恩典(ムベを献上する道中に限り貴族や武士でなくとも一行は刀を携帯してもよい特権)を受けたりしたそうです。

しかしこの特権に危機が訪れたこともありました。室町時代末期、幕府や地頭が財政に困り新税を課そうとしたのです。

これに対し奥島では、むべの供御人(くごにん/朝廷に属し天皇や皇族に山海の特産物といった飲食物や各種手工芸品などを貢納した人々のこと)が免除の前例を願い出たので許されたそうです。

大嶋奥津嶋神社

その後“応仁の乱”で世情が混乱し、一旦献上が中絶されてしまいますが、江戸時代に入り前例に倣って再開されました。献上行列の「むべ御用」には、十六八重表菊(菊の御紋)の役符、御紋入り提灯まで下付され、特別待遇されたそうです。

1878(明治11)年に明治天皇が北陸に巡幸された折、当時の滋賀縣令(けんれい/現在の知事)・籠手田安定(こてだやすさだ)がむべを献上し、

籠手田安定歌碑

大君に ささけしむべは 古き代のためしをしたふ

のまこころ

という歌を詠んでおり、現在大嶋奥津嶋神社の境内にその歌碑が建立されています。

むべの献上は1982(昭和57)年まで続けられましたが、伝説の老夫婦の縁戚と呼ばれ代々供御人を務めた家が転居してしまったため途絶してしまいます。

しかし大嶋奥津嶋神社の宮司・深井武臣氏を中心とした有志の方々の尽力により、2002(平成16)年より再開されました。

因みにむべ献上のルーツともなった天智天皇を祭神として祀る近江神宮(大津市)にも、1940(昭和15)年の創祀以来、毎年献上されています。

琵琶湖より奥島地区を望む

以前はこの地域一帯に沢山のむべが生い茂っていたそうです。一時期天然記念物にも指定され、近江八幡国民休暇村を通る旧湖周道路沿いに「むべの碑」が設置されていましたが、現在は撤去され存在しません。

近江八幡運動公園近くの津田内湖干拓地には町おこしの一環として「むべ棚農園」が造成されています。

毎年この時期になると“むべ狩り”が行われます。小生も皆さんに“露地栽培物のむべ”をご覧いただこうと現地に赴いたのですが、今年は酷暑の影響か11月初旬から開始とのことでした。

その後近隣の北津田町内を通っていましたら「むべに親しむ郷づくり」運動で、1995(平成7)年より始められた露地栽培のむべ棚を見つけましたので写真(記事前半部掲載)に収めてきました。地元ではムベを使ったお酒やお菓子も作られていますので、興味のある方は是非訪れてみてください。

なお、むべ狩りは事前予約制になっておりますので、詳しくは下記リンクの情報でご確認ください。

津田内湖畑作営農組合“むべ狩り”

さて来る10月22日には令和の天皇陛下が 正式に即位したことを日本国の内外に宣明する儀式『即位礼正殿の儀 』 が執り行われます。陛下にはこの霊験あらたかなむべを召し上がっていただき、末永くご活躍頂きたいものです。早速皇室に献上してもらいたいですね (^^)

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歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説(後篇)

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前回に引き続き、歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説の後篇をお届け致します。

さて古(いにしえ)の御代より、一級の景勝地として名を馳せてきた水茎の岡でしたが、中世に入るとその立地条件からキナ臭い様相を呈してきます。

琵琶湖岸に迫り出した立地が天然の要害として適地であったことから、南北朝時代に入ると南近江の守護大名・六角氏の湖上警備の拠点として城砦が築かれました。

室町時代後期の永正5(1508)年8月。現在の近江八幡にあたる地域を治めていた土豪であり六角氏の被官(ひかん/守護大名に従属する独立した領主)でもあった九里信隆(くのりのぶたか)によって、本格的な城郭が整備されます。

水茎岡山城跡

これが水茎岡山城(すいけいおかやまじょう)です。また尾山を中心に縄張り(なわばり/城郭の配置・構成)が敷かれたことから、別名・尾山城とも呼ばれました。

時を同じくして、室町幕府第11代将軍・足利義澄(あしかがよしずみ)は、クーデターによって将軍職(10代)を追われた従兄弟の義尹(よしただ)が、周防國(現在の山口県)の戦国大名・大内義興の後ろ盾を得て勢力を再び拡大。上洛を企図していることを知り、保身のため逃亡を企てます。

義澄は自身の計らいで守護職に復帰した義父の六角高頼を頼りますが、後に信隆のもとへと逃れます。信隆は城内に御所を用意して義澄を迎え入れ、家臣・領民ぐるみで奉迎し、生涯不変の忠誠を尽しました。

義澄逃亡の後、将軍職に復した義尹改め義稙(よしたね)を何とか排すべく、京へ義澄派の軍勢を送り込んだり、義稙の暗殺を謀ったりしましたが、ことごとく失敗。

水茎岡山城合戦【NHK時代劇『塚原卜伝』より】

永正7(1510)年3月には義稙より義澄追討の命を受けた7千(一説には2万)の軍勢が水茎岡山城を包囲しました。城を守る手勢は僅か5百。多勢に無勢と思われましたが、地の利を活かした戦いが功を奏し、3千の敵を殲滅。大勝利を収めます。 これが世にいう水茎岡山城合戦 です。

翌年3月には待望の嫡男・亀王丸が生誕。そして再起を図るべく京への反攻の狼煙を上げた8月14日の朝、義澄は突然の病を得て亡くなります。享年30歳。余りにも早すぎる死でした(暗殺との説もあり、また亀王丸生誕並びに義澄逝去は現在の高島市朽木町との説もあります)。

義澄逝去の後、六角氏と九里氏は険悪な状態となり、永正11(1514)年に信隆は高頼により謀殺。六角氏はかつて敵対していた義稙への帰順を意志を表明するのです。信隆亡き後は嫡男の浄椿(じょうちん)が継ぎ、六角氏との抗争を繰り広げます。浄椿も父に違わぬ名将で、永正12(1515)年9月の六角氏による大攻勢を見事に撃退しています。

しかし長きに渡る六角氏との戦いにも、遂に終止符が打たれます。

名勝水茎岡碑

永正17(1520)年7月。浄椿は高頼より家督を継いだ次男の定頼(さだより/嫡男の氏綱は早逝)率いる軍勢による奇襲を受け、40日間籠城戦を展開しますが、数百人の餓死者を出し落城。浄椿は辛くも落ち延びます。

そして大永元(1521)年12月。義澄の遺児、亀王丸が12代将軍(義晴/よしはる)に就任したという知らせを聞いた浄椿は、己が使命を全うしたと悟り自害。実質的に九里氏は滅亡しました。13年に渡る水茎の岡を巡る激動の歴史は、静かに幕を閉じたのです。

ちなみにこの尾山の麓にある「水茎の岡」の碑から登山道がありますが、途中からかなり険しい道程となっており、また如何せん「中世の城」跡ですから土塁と堅堀中心の遺構となります。「ちょっと寄り道」といった探訪にはおススメ出来ませんのでご注意を!

なお頭山に存在した本丸の遺構は独立行政法人水資源機構による造成工事で、義澄の御所跡と想定される遺構は湖周道路の整備で残念ながら失われてしまいました。好景気の時代の開発は、実に節操がないものです(ー_ー)!!

最後に全く異なるエピソードを1つご紹介致しましょう。

水茎の岡全域は、近江八幡市牧町(まきちょう)に属します。

このという地名ですが、その昔、天智天皇がここに牧場を整備したのでその名が付いたと伝えられています。湖に島が浮かび、草原に馬たちが戯れている・・・そんな光景を想像してみると、やはりこの地は一級の景勝地であったに違いない・・・そう感じます。

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歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説(前篇)

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今回は水茎の岡(みずくきのおか)の伝説について、前後篇に渡ってご紹介したいと存じます。

近江八幡市西部の琵琶湖畔に岡山と呼ばれる小高い山があります。湖畔沿いにある山は、原則隧道(トンネル)貫通・開削・迂回で整備されている湖周道路にあって唯一「山越え」を強いられる箇所ですので、何となくご記憶があるかと存じます。

岡山

この岡山はパッと見た目は1つの山なのですが、琵琶湖畔に隣接する西端の頭山(左側)、最も高い中心部の尾山(標高187.7m)、東端の小山の3つの峰で構成されています。

かつては水茎内湖(すいけいないこ)の中にあり、四方を湖水で囲まれた小島でしたが、大東亜戦争後の干拓事業により現在の姿になったようです。

岡山はかつて水茎の岡と呼ばれていました。古くは飛鳥~奈良時代に編纂された萬葉集から、平安時代に編纂された古今並びに新古今和歌集に、この地を題材とした歌が四十有余残されています。ではその一部をご紹介しましょう。

水茎の岡 万葉歌碑

“秋風の 日にけに吹けば 水茎の 岡の木の葉も 色づきにけり” (萬葉集)

“雁がねの 寒く鳴きしゆ 水茎の 岡の葛葉は 色づきにけり” (萬葉集)

“水茎の 岡の葛葉も 色づきて 今朝うら悲し 秋の初風” (新古今和歌集)

この地は天皇・公卿・法師・文人・墨客達がこぞって歌の題材としており、当時は文芸史上随一の名勝であったことが窺われます。ちなみに2番目の歌は、岡山を山越えする湖周道路沿いに歌碑が建立されています。

またここが名勝であったことを裏付ける、そして水茎の岡の名のルーツとなった有名なエピソードがあります。

巨勢金岡

平安時代前期。日本画独自の様式を追求・深化させ、大和絵の様式を確立させた功労者とされる宮廷画家で巨勢金岡(こせのかなおか)という人物がおりました。時の権力者の恩寵を受け活躍し、また歌人としても才を発揮し、菅原道真などの知識人とも親交を結ぶ、所謂「世渡り上手さん」でした。

寛平年間(890年代)のこと。金岡は風景画を描くために、この地を訪れました。

いざ絵を描こうとしますが、余りの絶景雄大さに圧倒されてしまいます。そして遂には絵を描くことを諦めてしまい、水茎、即ち筆を折ってしまいました。このことからこの地を水茎の岡筆ヶ崎と呼ぶようになったと伝えられています(ただこの出来事以前に編纂された萬葉集には既に「水茎の岡」の名があることから、年代的に少し疑問が残ります)。

ちなみにこの金岡。これだけの功績の持ち主でありながら、現在本人の作品は何1つ残っていないとのこと。摩訶不思議なことです。

藤ヶ崎龍神

頭山の突端には藤ヶ崎神社があり、龍神様が祀られています。藤ヶ崎の名は恐らく、筆ヶ崎が転じたものと推察されます。滋賀は龍神信仰やアミニズム(自然崇拝)の対象としての磐座(いわくら)が県内各所に点在しています。

藤ヶ崎神社の由緒は定かではありませんが、その昔日野町にある綿向山に住まう龍神様が、竹生島の龍神様のもとへ足繁く通ったなどというお話もあることから、そのルート上に関連する信仰の一環であったのかも知れません(なお最近鳥居が重厚な石造りから朱塗りの鳥居へと変わりました)。

岡山からの琵琶湖の眺望

秋から冬にかけての夕景が特に美しく、頭山と尾山の2つの峰が湖面に影を落とす情景が、他に例を見ぬ美しさだったという水茎の岡。

現在の風景を眺めても、小生にはこれといって感動が沸き起こってきません。干拓の影響でその美しさが失われてしまったのか、それとも小生の感性の問題なのか・・・。

ただ古の人々にとって「特別な場所」であったことは、今でも仄かに感じ取ることが出来ます。

(歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説・後篇もお楽しみに・・・)

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知られざるお多賀さんパワースポット! “飯盛木”の伝説

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今回はお多賀さん(多賀大社)にゆかりの深い、知られざる隠れパワースポット!飯盛木についてのお話をいたしたいと存じます。

さて、 6月26日更新記事の“オタマジャクシ”の語源は“お多賀さん”にあった!で、“お多賀杓子”の謂われは「元正天皇の病気平癒を祈念して多賀社の神官たちが強飯とシデの木で作った杓子を献上した」ことによるとお話し致しました。

多賀大社本殿

その元祖“お多賀杓子”の末裔が現在でも残っている!(と伝えられている)のですがご存知でしょうか?

そもそも伝説の核心に迫る(?)前に、シデという植物とは何ぞや? という点から紐解いて参りましょう。

“シデ”はカバノキ科クマシデ属の落葉樹の総称で、日本ではクマシデを始め5種の植生が認められています。木は比較的小さく、アイアン・ウッド(鉄の木)と形容される程材質はかなり硬いとされています。そのため木材としてはほとんど利用されていませんが、切断台や工具の柄、また車軸やフローリングにも使われることがあるそうです。

紙垂

シデの名称の由来は、紙垂(しで/四手とも書き、しめ縄や玉串などにつけて垂らす特殊な断ち方をして折った紙のこと)にこの木の花の付き方が似ているからとされています。

さて肝心要の元祖“お多賀杓子”の末裔ですが、多賀大社から西へ約1kmの地点、キリンビール滋賀工場近くの田園のド真ん中にポツンとあります。名前を飯盛木(いもろぎ/いいもりぎ)と申します。「“”を“”るための“”」・・・そのまんまですね(^^)

この飯盛木ですが、半径100m以内に2本存在し、東は“(おとこ)飯盛木”、西は“(おんな)飯盛木”と称します。樹高約15m、幹周約6~10mの大樹で、見るからに長い年月を感じさせます。共に滋賀県指定自然記念物と多賀町指定天然記念物となっております。

男飯盛木

この木の伝説の原点は「杓子を作った際の残り木」とも「献上した杓子が払い下げられたもの」とも言い、はっきりしません。兎も角それを地に差したところ、根付いてここまで成長したとのことなのです。ちなみに“男飯盛木”が最初の木で、その枝を分けて差したのが“女飯盛木”とのこと。

ただ1つ、解せぬことがあるのです。

この木の案内板には「多賀大社のケヤキ(飯盛木)」「樹齢300年以上」と書かれているのです。 ん?・・・ケヤキ?・・・確か言い伝えではシデだったような・・・。 ん?・・・樹齢300年以上?・・・以上は以上だけど、伝説の通りであれば1000年は越えているハズなのですが・・・。

まぁ縁起モノのことですから、これ以上の詮索は止めておきましょう(^^)

女飯盛木

兎にも角にも貴重な自然遺産であることには間違いありません。ただ何となく“男飯盛木”の方が“女飯盛木”よりも元気がないように感じます。ご神木とはいえ、これも“世の流れ”ってヤツなのでしょうか(>_<)

この木の近隣には工場や民家が迫ってきていますが、辛うじて周囲だけは田園風景を保っています。飯盛木の近くに居ると、何やらとても落ち着く気がします。多賀大社にご参拝の折には、是非こちらにもお立ち寄りいただいて、神様のご加護&自然のパワーを感じ取ってください。

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【令和改元記念企画】国家恒久安寧の願い“さざれ石”の伝説

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今回はさざれ石についてのお話をいたしたいと存じます。さざれ石?・・・どこかで聞いた覚えがありますよね。

そう、日本の国歌『君が代』の一節に登場します。この時期この歌に関する論議の機会も多いのではないでしょうか。でもこのさざれ石って、実際にどのようなモノなのか?ご存知の方は少ないかもしれません(教科書にも流石に写真付きで紹介されてはいませんしね)。

さざれ石は「細石」とも表記され、小さな石の欠片(かけら)の集まりが炭酸カルシウム(CaCO3)などにより埋められ、1つの大きな石の塊に変化したもので、石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)と呼ばれます。石灰岩が雨水で溶け、石灰質の作用により小石がコンクリート状に凝結して生成されます。

う~ん、言葉では解りにくいですね。写真で見ていただいた方が早いです(笑)。こんな感じで小石が固まったようなモノです。何とこの石、伊吹山(滋賀・岐阜の県境付近)で主要に産出する非常に珍しい鉱物なのです。

さざれ石

さて、公式に『君が代』は「題しらず、読人しらず」の歌で、古今和歌集に収録されている短歌の1つとなっています。しかし小生のネタ帳にはこう記されております。

平安時代前期、文徳(もんとく)天皇の第一皇子に惟喬(これたか)親王(844~897)という人がおりました。聡明な人柄で知られ父・文徳天皇からの覚えめでたい親王は、このまま皇太子となり皇統を継いでいくことを周囲から嘱望されていました。

惟喬親王

しかし時の権力者で藤原北家全盛の礎を築いた藤原良房(ふじわらのよしふさ)が文徳天皇の女御(にょうご/側室の前身)として送り込んだ娘が懐妊し、惟仁(これひと)親王を出産。文徳天皇は良房に気兼ねして惟仁親王を皇太子とするものの、成人するまでは惟喬親王に皇位を譲ることを画策します。

しかし志半ばで崩御。良房の横やりも入り、惟仁親王は僅か生後9ヶ月で清和天皇として即位します。 その後の惟喬親王は数々の朝廷の要職を歴任するものの、皇族としては“蚊帳の外的存在”であることは否めず、後に出家し隠棲します。

惟喬親王は木地師(きじし/ろくろを用いて椀や盆などの木工品を加工・製造する職人)としての才にも秀でていたとされ、技術を伝授したという伝説は日本各地に残っています。

その最も有名な伝説の地が、東近江市君ヶ畑町です。“木地師発祥の地”とされ、現在でも木地師の伝統が受け継がれています。

木地

なおこの地には親王を祀った大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)や墓所、住居跡も残っています。

さて随分と長い前置きとなりましたが・・・ この惟喬親王の配下に殊原左衛門(ことはらさえもん)という、椀木地に携わる人物がおりました。左衛門は仕事柄、美濃國春日村(現在の岐阜県揖斐川町春日)と君ヶ畑、そして京都を頻繁に行き来しておりました。

ある日左衛門は旅の途中、伊吹山系の川で綺麗なさざれ石を見つけ、それを歌に詠みました。

伊吹山

わが君は 千代に八千代に さざれ石の いわをとなりて こけのむすまで

左衛門はこの歌に、見つけたさざれ石を添えて朝廷に献上しました。

後にこの歌は古今和歌集に採用され、また左衛門は歌の才を認められて、朝廷より藤原朝臣石位左衛門(ふじわらのあそんいしいさえもん)の名を授けられました。

歌詞中のさざれ石は文字通り細かい石や小石の意味で、小石が巌(いわお/岩)となって、さらにその上に苔が生えるまでの過程が、非常に長い歳月を表現するための比喩として用いられています。

そしてこの歌は一部改編され、1880(明治13)年に国歌『君が代』の原歌として採用されるのです。

君が代

『君が代』は“国歌にしては古臭い”だの“一部の政治家が(ポリシー?でもって)歌わない”だの“天皇制の讃美だ!”などと何かと論争のタネになっていますが、小生は純粋に日本という國の恒久安寧を願ったこの歌を守り続けたいな・・・と思っています。

前回の記事で「令和の世が全ての人々にとって幸福を享受できる時代であって欲しい 」と述べましたが、改元して1か月余り。凶悪な事件、目を覆いたくなるような事故、「これが日本人の所作か?」と疑いたくなるような行動・言動・行為の話題ばかりで辟易しております。

1日も早く、『令和』の名に相応しい穏やかな日々が訪れて欲しい・・・小生の願いは、皆さんと同じであると思いたいです。

このさざれ石ですが、産出地に近い岐阜県揖斐川町春日にある「さざれ石公園」を始め、意外にも多くの各地の神社に鎮座もしくは奉納されています。今回掲載した写真は多賀大社に鎮座しているものです。鉱物としてはとても興味深い造形をしておりますので、『君が代』での経緯はともかく、是非見分してみてください。

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【令和改元記念企画】長生長壽の金字塔“長命寺”の伝説(前篇)

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本日から元号が“令和”と改元されました。このタイミングに相応しいお話はないものかと色々思案しておりましたら、職場のご利用者様の世間話にヒントを得ることが出来ました。天皇家(皇室)ともゆかりの深いこの地のエピソードをご紹介致したいと存じます。

今回は滋賀の中央部、琵琶湖東岸の近江八幡市に佇む長命寺山にございます姨綺耶山 長命寺(いきやさん ちょうめいじ)についてお話を致したいと存じます。

長命寺・・・何ともご利益が解りやすいですね(笑)。その名の通り、長寿・長命にご利益のある寺院です。琵琶湖岸にあって比較的標高のある山がとても特異に感じますが、戦国時代以前のこの一帯は奥島(おくしま)と呼ばれる琵琶湖最大の島でした。

姨綺耶山 長命寺

昨今規模の大きな寺院は、何処とも「拝観料(一部では志納料とも)」を徴収されるのですが、ここは今も昔も自由拝観。「不思議だなぁ?」と思いつつ入山しましたが、その理由はすぐに解りました。

何と“お遍路さん”を送迎するマイクロバスやマイカーで山麓駐車場はごった返しています。

それもそのハズ、ここは西国三十三箇所第31番札所。寺院の維持管理に見合う参拝者が定常的に訪れているのです(それでも素晴らしい!)。

長命寺参道

麓から登れば死ぬ思いで808段の階段をクリアせねばなりませんが、中腹まで通じる林道(大型車通行不可)を利用すれば残り130段程で到達できます。林道には慌ただしくお遍路さんをピストン輸送するタクシーで一杯!普段から運動不足の私は残り130段でもかなりキツく・・・軽々と登られる年配のお遍路さんに優しくお声掛けいただく始末でございました(苦笑)。

ではここからが本題でございます。長命寺の由来は、今から約1900年前のこと。

大和朝廷初期に大臣として仕え国政を補佐したと伝えられる伝説的人物・武内宿禰(たけのうちのすくね)が、この地で長寿を祈願したのが始まりなのだとか、

武内宿禰
武内宿禰

その後、宿禰は300歳を超えて生きたのだそうです。

「マジかいな?」というツッコミはご容赦を。あくまでも“伝説”ですので。

その宿禰が長寿を祈願したと伝えられるのが、本堂裏にある六処権現影向石(ろくしょごんげんようこうせき/別名:祈願石)と呼ばれる巨大な石の上であったとされています。

六処権現影向石

何となく“松茸”にも似た形ですが、幾歳月の風雨に耐え、絶妙のバランスで鎮座しています。この自然がもたらす奇跡も、 武内宿禰 が成せる霊験なのかも知れません。

今回はこの辺で。次回は長命寺命名の起源と、更なる“長寿”エピソードをご紹介致します。

長命寺

滋賀県近江八幡市長命寺町157番地
【TEL】0748-33-0031

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これぞ征夷大将軍の真の力!“鬼の首塚”の伝説

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もうすぐ“節分”。節分に欠かせない存在なのが、そう“鬼”ですよね。今回は節分に因みまして、“鬼の首塚”のお話をいたしたいと存じます。

昔々、平安時代の初期に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)という武官がおりました。

坂上田村麻呂

田村麻呂は武芸・軍略に優れ、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に二度任官。

後代に様々な伝説を生み、“稀代の名将”“ 毘沙門天の化身”とも称され、文才に長けた菅原道真と共に平安期に於ける文武の象徴的存在でした。

「征夷大将軍はそんな昔からあったの?」「○○幕府の将軍のことじゃないの?」などと仰る方もいらっしゃるのではないでしょうか。

鎌倉幕府以降の将軍職に付与されていた“征夷大将軍”は、武家の頭領としての象徴的官職として「武士の自治」を事実上朝廷に認めさせるための形式的なものでした。

本来は朝廷より蝦夷(えぞ/当時の東北地方以北)征伐を命じられた軍隊の指揮官に与えられた重責ある官職だったのです。

さて今から1220年前の延暦10(791)年のこと。伊勢國(現在の三重県)・鈴鹿山で大嶽丸(おおたけまる)という鬼神が悪事の限りを尽くし、その影響で周辺の往来が途絶えてしまいました。このことを憂慮した桓武天皇(かんむてんのう/第50代天皇で後に平安京を造営)は、田村麻呂に大嶽丸の討伐を命じます。

早速田村麻呂は京都の清水寺で鬼神の討伐成功を祈願しました。

清水寺

すると観世音菩薩から霊感(お告げ)を得ましたので、今度は善勝寺(ぜんしょうじ)に籠ります。

お告げに従い7日間の祈りを捧げた田村麻呂は、勇躍して3万余の兵を従え鈴鹿山に向かいました。

しかし神通力を操る大嶽丸は山を暗雲で隠し、暴風雨・雷・火の粉などで討伐隊を苦しめます。 攻めあぐねた田村麻呂は、毘沙門天と千手観世音菩薩に祈りました。

するとある晩、夢の中に1人の老人が現れ、「この山に住む鈴鹿御前の助力を得よ」と告げられます。 田村麻呂は3万余の兵を都に帰還させ、単身鈴鹿御前を探しに鈴鹿山に入ります。

大嶽丸と鈴鹿御前

鈴鹿山に分け入った田村麻呂は、そこでこの世のものとは思えぬ絶世の美女に出逢います。

それこそが鈴鹿山に住む天女で、かねてより大嶽丸に求婚を迫られているという鈴鹿御前(すずかごぜん)でした。

鈴鹿御前は自らが囮となって大嶽丸に完全なる防御を与えている3本の宝剣を奪取し、田村麻呂に討たせるという策を講じます。

大嶽丸は鈴鹿御前の計略に堕ち、田村麻呂は見事その首を刎ねることに成功します。その後、田村麻呂と鈴鹿御前は夫婦となりました。

持ち帰った大嶽丸の首は善勝寺に埋めました。

その善勝寺は東近江市佐野町の猪子山(いのこやま)中腹にあります。

善勝寺

創建当初は釈善寺と号していましたが、田村麻呂の東征勝利に因んで改称したのだそうです。

善勝寺には次のような御詠歌が残っています。

鬼にさえ 善く勝つ寺ときくからに なほたのまるる 人ののちのよ

善勝寺の境内奥地にある墓地の中に、2m四方もある一際目立つ巨石があります。これが大嶽丸の首を埋めたという“鬼の首塚”です。

鬼の首塚

討伐時の戦利品も埋められていると伝えられており、かつて村人がその北面の崖を掘ったところ古墳のような構造になっていて、約3m下には石垣のようなものもあったそうです。

鬼の首塚のあるこの一帯、何やらまがまがしい空気で包まれているような雰囲気を感じます。あながち“単なる御伽噺(おとぎばなし)” ではないような気もします。

なお田村麻呂が7日間籠ったというこの善勝寺。

実際はこの寺の境内ではなく、厳密には“奥の院”と呼ばれる場所であったとか…。

北向岩屋十一面観音

その“奥の院”と称される猪子山頂には、北向岩屋十一面観音(きたむきじゅういちめんかんのん)が祀られています。

この観音堂の奥にある岩屋には、高さ55cm程の石像の十一面観音が安置されています。

ここに籠って田村麻呂は祈願したと伝えられています。

十一面観音石像

またこちらの十一面観音は合掌する手に数珠を掛けており、全国的にも大変珍しいお姿をされています。

災厄消除と災害防除に御利益があるといわれており、毎年7月17日には千日会法要が盛大に勤行され、京阪神や中京方面からの多くの参拝者で賑わいます。

さらに毎月17日にも、近在の信者が多数参拝に訪れます。

ちなみに琵琶湖の絶景or夜景をご覧になりたい方にもおススメです。

奥の院からの眺望(1)

西は長命寺山(ちょうめいじやま)・八幡山から、北は遥か竹生島(ちくぶしま)まで。

そして滋賀のアルプス(?)ともいうべき雄大な比良(ひら)山系を正面に望むことが出来ます。

噂では地元のカップルが夜景を楽しむスポットにもなっている…らしいですよ(*^_^*)

奥の院からの眺望(2)

なお、猪子山を訪れる際にご注意いただきたいことがございます。

急傾斜の細いヘアピンカーブの連続ですので、クルマで訪れるにはそれなりの運転テクニックが必要です。

また徒歩での訪問なら、それなりの体力を要します(クルマで訪問しましても、駐車場から頂上までは約300mの階段参道を登らねばなりません)。

また夜間の来訪はシーズンを問わず様々な危険要素を伴いますので、細心の注意を払い自己の責任のもとでトライしてください。くれぐれもご無理をなさいませんように。

最後に豆知識。

因縁浅からぬ鈴鹿山(鈴鹿峠)の近く、甲賀市土山町北土山には坂上田村麻呂を祭神として祀っている田村神社があります。

田村神社

開運厄除・交通安全・家内安全・八方除けにとてもご利益があるとされ、滋賀を始めとして中京圏からも連日多くの参拝者が訪れています。

特に毎年2月17~19日には厄除大祭・田村まつりが催され、開運厄除を願う人々で賑わいます。先日も妻の本厄除のご祈祷をお願いしてきたところです(^^)

参拝後は、神社と国道1号を隔てた向かい側にある道の駅・あいの土山での休憩をおススメします。特にフードコートで供されるうどんは、お味もなかなかにとてもリーズナブル!あとは1回400円でやりたい放題(?)の抹茶ソフトクリームにも是非チャレンジしてください(^^)

それでは早速…鬼は~そと♪ 福は~うち♪(^^)

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ヒトリハミナノタメニ“比夜叉御前”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今回は多くの人々を助けるために犠牲となった悲劇の女性、比夜叉御前(ひやしゃごぜん)についてのお話をいたしたいと存じます。

冬の三島池

本題に入る前に、このお話の舞台となります三島池に関する豆知識を少々…。

別名“比夜叉池”とも呼ばれ、米原市池下(旧・坂田郡山東町エリア)にあります。

周囲は約910m。 面積37,603㎡、水深は80cm(雨季は120cm)で、南北に長い楕円形をしています。

今から約880年前の平安時代末期。時の領主であった佐々木秀義(ささきひでよし/源頼朝挙兵に尽力した近江源氏の祖)によって、姉川の伏流水を利用して灌漑用貯水池、つまり農業用水確保のために人工的に造成された池と言われています。

池の周囲には桜・柳・紅葉などが植樹され、霊峰・伊吹山を背景とする景勝地として(特に写真愛好家の中では)全国的にも有名なスポットです。

三島池の水鳥

また水質は清冷で多くの生物が生息し、マガモ・カイツブリ・バン・オシドリ・オナガガモ・ホシハジロ・キンクロハジロ・ミコアイサ・サギといった多くの水鳥や野鳥が飛来します。

特に地元中学校の科学クラブによる2年間の観察の結果、「マガモ自然繁殖の南限地」であることが判明し、昭和34(1959)年には滋賀県の天然記念物に指定され、この地の存在は学術的にも高く評価されています。

ではここからが本題です。

その年は例年になく日照りが続き、農業に欠かせない池の水が涸れてしまいました。領主の佐々木秀義は、池に水の無いことを心配して祈祷師に占ってもらいました。すると「1人の女を池の中に沈めて水神に祈れば、水が絶えることは無くなるであろう」とのお告げが出ます。

早速秀義は人柱となる女を領内から募りますが、喜んで申し出る者など誰一人としてありはしません。沢山恩賞を出すとも触れましたが、反応は皆無でした。

むしろ領内では「誰が人柱になるのか?」という疑心暗鬼と不安が蔓延するばかり…。

三島神社から望む夏の三島池【滋賀県提供】

ある日のこと。

秀義の乳母である比夜叉御前が機織りをしている時、偶然外で村人がこの人柱の話をしているのを聞いてしまいます。

そして、その日の夜。比夜叉御前は織った機を抱えたまま池の畔に向かい、人知れず僅かに水の残る池に身を投じました。

翌朝、池は溢れんばかりの水を湛えていました。歓喜に沸く村人たちとは対照的に、事の真相を知った秀義はとても嘆き悲しみ、比夜叉御前をこの池の水神として祀りました。

それ以来、この池の水は如何に酷い干ばつに襲われても、水が涸れることは無いそうです。また雨の降る夜には池の底から機織りの音が聞こえてくると言います。

三島神社

池の西岸に鎮座する三島神社の鳥居横に、ひっそりと石塔が建立されています。
ちなみにこの神社は、佐々木氏の氏神とされています。

これが“比夜叉女墓(ひやしゃひめはか)”であると伝えられています。

比夜叉女墓

なお現在の姿は地元有志によって整備されたもので、昭和61(1986)年には供養塔が建立されています。

そして比夜叉御前の墓には松が植えられ、それが機織松(“はたおりまつ”または比夜叉松)と呼ばれ現在でも大切に守られています。

機織松

なお、比夜叉御前にまつわるこんな古い歌が今でも残っています。

名にも似ず 心やさしき たをやめの
誓も深く みつる池水

夜叉(鬼神)という名前に似ても似つかぬ心やさしい女のお陰で、お告げの通りこれまで池の水は涸れずに満ちている。

比夜叉御前が護った池は、現在水鳥たちの楽園と人々の憩いの場になっています。

ナゼだか野良猫たちの穴場にもなっていますが…(>_<)

ノラの日向ぼっこ

水鳥さんたちとケンカにならないことを願います(^^)

今回の記事編集に写真をご提供いただきました滋賀県庁広報課様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

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遷座1300年!モノノフの聖地“兵主大社”の伝説

「湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は旧中主(ちゅうず)町の中心部、野洲(やす)市五条にございます兵主大社(ひょうずたいしゃ)についてお話をいたしたいと存じます。

 

武神・軍神である「兵主神(ひょうずのかみ)」を祀る神社は全国に約50社ありますが、延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう/927年に編纂された全国の神社及びその社格の一覧)に記載されるのは19社。

 

そのうち名神大社(みょうじんたいしゃ/神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神を祀る神社)の社格を戴くのは僅か3社のみで、兵主大社はその1社に列する由緒正しき神社です。

 

中世には「兵主」を「つわものぬし」と読むことにより武士の厚い信仰を得、その縁あって源頼朝・足利氏・徳川氏らに関連する文化財を多数所蔵しています。また京都の苔寺を彷彿とさせる国指定名勝の庭園もあります。

 

この神社の縁起にはこのような伝説があります。

 

「兵主大明神縁起」によりますと、大己貴命(おおなむちのみこと/一般には出雲神話「因幡の白ウサギ」に登場する大国主で知られる)が718年に不動明王の姿を借りて、琵琶湖の対岸・穴太(あのう)より八ッ崎(やつがさきき/現在の旧野洲川北流河口・マイアミあやめ浜西端)に上陸し、この地に鎮座されたのが起源と伝えられています。

 

その昔、兵主大明神(大己貴命)が穴太を発たれる際のこと。大明神は白蛇に姿を変え、大亀の背中に乗って琵琶湖を渡り八ッ崎に上陸。

 

そこから鹿が護り運び、この五条の地に遷座されました。

 

この伝承を顕彰するために、明治時代末期に“亀塚”“鹿塚”が建立されました。

 

現在亀塚は野洲市野田の田地に、鹿塚は兵主大社の庭園内にあります。

 

因みに兵主大社の神紋は「亀の甲羅に鹿の角」の文様です(是非境内で探してみてください)。

 

さらに「兵主大明神縁起」にはこのようなお話も残されています。

 

平安時代末期、源頼朝がまだ若かりし頃。琵琶湖上に於いて暴風雨に遭い、乗っていた船が方向を見失って八ッ崎に辿り着きました。

 

船人たちは困り果てて神に祈りました。頼朝が「何という神に祈るのか?」と尋ねると、船人たちは「昔、白蛇の姿をして大亀に乗り湖を渡った兵主大明神に祈っています」と答えました。

 

すると祈願の甲斐あって暴風雨は収まり、無事湖上を渡ることが出来ました。後に頼朝は鎌倉幕府を開き、天下を治めることに成功します。頼朝はかつての神の加護に感謝して、兵主大社の社殿を造営し、宝物を寄進したとされています。

 

以来、源氏・足利氏・徳川氏と代々幕府を開いた武家から手厚い庇護を受け続けました。

 

さて兵主大社と何かと関わりの深い「八ッ崎」の地ですが、こちらでは御鎮座故実の神迎えを八ッ崎神事として毎年12月上旬に兵主大社によって執り行われています。

 

長きに渡り密儀(みつぎ/特別の資格を持つ者だけが参加できる秘密の儀式)とされてきたのですが、近年は一般に公開されていますので、興味のある方は訪れてみてはいかがでしょうか。

 

なお平成30(2018)年5月には、『兵主大社と八ヶ崎神事』が文化庁所管の日本遺産、「琵琶湖とその水辺景観―祈りと暮らしの水遺産」の一部として追加認定されました。

 

遷座1300年記念 兵主大社展また現在、野洲市歴史民俗博物館では、開館30周年特別展「遷座1300年記念 兵主大社展―琵琶湖を渡って来た神さま―」を開催しております。

 

兵主大社をより深く知る絶好の機会ですので、是非こちらもお立ち寄りください。

 

兵主大社では近隣の今回取材にご協力いただきました兵主大社様、野田/五条地区の皆さん。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

 

兵主大社

滋賀県野洲市五条566番地
TEL:077-589-2072
庭園/収蔵庫入場時間:13:00~16:00
庭園拝観:500円(4/15~7/15・9/15~12/15)
収蔵庫見学:500円 ※要予約

 

野洲市歴史民俗博物館

滋賀県滋賀県野洲市辻町57番地1
TEL:077-587-4410
開館時間:午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
入館料/大人200円・学生150円・小中学生100円
休館日/月曜日(祝日の場合は翌火曜日)
※「遷座1300年記念 兵主大社展」の企画展示は12月2日まで。

 

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源平合戦の隠れた猛将“平景清”が辿りし執念の道(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回も源平合戦悲運の猛将、平景清が辿った足跡についてお話をいたしたいと存じます。

 

袈裟切地蔵

 

近江八幡市安土町上豊浦のJR琵琶湖線の東側にある集落の一角に、首のないお地蔵様が祀られています。

 

景清が桑實寺に参拝の折、そのお地蔵様は景清の真意を探るため容姿端麗な女に化けて誘惑を試みました。

 

しかし景清は動じないどころか「さては妖怪の化身め!」と腰の太刀でその女を一刀両断、袈裟切りにしてしまいました。

 

以来、お地蔵様は「私の首を見付けた者は幸福になる」と言いつつ、未だにその首を探しているのだそうです。

 

景清身丈石(景清の背比べ石)

 

桑實寺の庭園の一角にあります。

 

武具を付けた景清が、身をもたせて休んだ石と伝えられています。

 

ちなみにこの身丈石、実は2代目なのだとか。

 

本来の身丈石は現在庭園内の池の石橋になっているそうです。

 

 

景清目洗い井戸

 

こちらも桑實寺の庭園の一角にあります。

 

景清が百日参りを行った際、眼病を患っていた目を清めたとされる井戸です。

 

今はすっかり枯れてしまったようです。

 

 

 

景清眼洗い井戸

 

こちらは所変わって彦根市芹川町、雨壺山(あまつぼやま/通称:平田山)の麓の公営団地の裏手にあります。

 

戦がもとで負傷した目が悪化し、旅の途中で目を清めるための名水を求めます。そして雨壺山の麓までやって来た時、小魚が群れ遊ぶ美しい水の小川がありました。

 

その小川を辿っていくと、五尺(約150cm)程の大きさの井戸から水がコンコンと湧き出ています。景清がその井戸の水で目を洗うと、体中の疲れが取れ爽快な気分になりました。さらに何度も目を洗うと、次第に痛みも治まってきました。

 

景清は近くに小屋を建て、しばらくこの地に逗留することにしました。その後毎日目を洗ったお陰ですっかりと回復し、また旅を続けたと伝えられています。昭和の高度成長期頃までは原形を留めていたそうですが、現在はコンクリートで整備されこのような姿となってしましました。

 

景清の晩年はかなり不遇であったと伝えられていますが、それ故に贔屓する人々も多かったようで、後の時代には「浄瑠璃」や「歌舞伎」、はたまた「古典落語」の世界でしばしば彼の波乱に満ちた人生が題材として採り上げられています。

 

それにしましても、源平合戦(屋島の戦い)では源氏方の無粋な行為に対して勇猛果敢に攻め立て、また壇ノ浦の戦いから敗走を続けるも平家の再興を願い、何と源頼朝の暗殺の機会を37回も狙ったという 忠臣中の忠臣なのですが、いくら資料に乏しい人物とはいえ現代人の彼に対する評価が余りにも低いと感じるのは私だけでしょうか。

 

さて最後に話題は180度回頭いたしまして・・・

 

まさかナムコが源平討魔伝というアーケードゲーム(後に様々な家庭用ゲーム機へコンシュマー化)の題材に、景清を抜擢していたとは知りませんでした。

 

これがそのゲームに登場する景清なのだそうです。う~ん、これじゃまるでカブキロックスですよねぇ(苦笑)。

 

 

今回は取材範囲がかなり広域に渡り、またとてもマイナーな題材であるため、情報収集に大変苦労しました。しかし多くの方々のお力添えにより、こうして纏め上げることが出来、感無量でございます。

 

情報提供いただきました彦根市芹川町の北川さん、近江八幡市安土町上豊浦の糠さん。情報収集にご協力いただきました彦根市・伊藤仏壇のスタッフの皆さん、安土観光案内所のスタッフの皆さん。また取材に全面協力いただきました旅庵寺の小嶋安寿様、桑實寺の北川住職様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。本当に有難うございました。

 

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