Category Archives: 滋賀の伝説

大津百町漫歩(1)“犬塚の欅”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今年に入り、何となく運気が上向いてきたかなと喜んでいたのも束の間、遂ぞあの新型流行性感冒に罹患してしまいました(泣)。これまで十分感染対策には留意してきたつもりでしたが、ここまでくると感染経路すら思い当たりません。

ワクチンも4回接種済ですが、飽くまでも『感染抑止』ではなく『重症化予防』のためですし、これだけ市中感染が日常化していれば致し方ないのかも知れません。

どうやらこの春にも5類に分類される見込みとか。各種支援体制も廃止・軽減されることも想定されるならば、ある意味今のうちの罹患は“不幸中の幸い”と考えられるのかも。何はともあれ皆様、「色々な意味」でお気を付けください。

大津宿【東海道五十三次】

さて何時もの戯言はこれくらいにして、今回は久方振りに大津市を訪れています。

もともと滋賀自体が古より国内屈指の交通の要衝だったのですが、特に大津は東海道が横断するうえに、北は越前國(現・福井県)より北國街道(西近江路)。南は京・伏見より大津街道。そして琵琶湖の湖上舟運の最大拠点・大津湊を擁する一大インターセクションでした。

戦国時代より街は急速に発展し、江戸時代には東海道53番目の宿場町・大津宿が整備されます。最盛期には百ヶ町、人口約1万8千人の一大都市にまで成長。これは東海道沿道の宿場町としては最大の規模を誇りました。

その物流の拠点として栄華を極めていた街の様相は、当時大津百町と表現されました。今回はその『大津百町』にひっそりと佇む伝説を探しに漫歩(そぞろあるく)ことと致しました。

なお大津市は今現在に至っても都市整備や宅地開発の新陳代謝が激しいため、現況が取材時より大幅に変化している可能性があります。その点は予めご了承ください(取材もこの点が最大の苦労なのです)。

犬塚の欅

日本赤十字社大津赤十字病院の正面玄関前から南下すること約50m。住宅地の一角に忽然と大きな欅(けやき)の老木に出逢います。

地元では犬塚の欅(いぬづかのけやき)と呼ばれ親しまれています。この老木、枯死している訳ではございません。春から夏に掛けて今でも青々とした緑樹の姿を見せてくれます。

推定樹齢600年のこの欅は、昭和40(1965)年5月6日に大津市の天然記念物に指定されています。

蓮如

時は室町時代中期、文明年間(1469~1487)の頃のこと。本願寺(浄土真宗)中興の祖にして本願寺第8世宗主(門主とも)であった蓮如(れんにょ)は、他宗門からの迫害を受け京より逃れ、他力本願の念仏の教えを広めるため、当時この近辺に居を構えていました。

これを伝え聞いた近隣在郷の多くの善男善女が蓮如の下を訪れ、その教えに触れ次々と信者となっていきました。

しかしその人気振りを快く思わぬ人々がいました。比叡山に本山を擁する天台宗の僧侶たちです。浄土真宗の信者が日の出の勢いの如く増えていくのに対し、天台宗の信者は風前の灯火如き有様。己たちの足元を顧みずこの状況に怒りを覚え、その果てに蓮如の殺害計画を企てるまでに至ります。

さて、蓮如には日頃我が子のように可愛がっていた1匹の犬がおりました。

犬塚

或る日のこと。どうしたことかその犬が、この日に限って蓮如に用意された食膳の傍を一向に離れようとしません。それどころか、蓮如の袖をくわえて食膳から引き離そうとします。蓮如にはその動作が何を意味するのか、全く理解出来ませんでした。

「おかしなことをするものだ」と蓮如が箸を取ろうとしたその時、突然その犬が食膳をひっくり返してその御飯を食べてしまいました。

するとその犬はたちまち悶え苦しみ、何と血を吐いて死んでしまったのです。蓮如はそこで初めて、その犬が食膳に毒が盛られていることを知らせようとしていたことに気付くのです。

蓮如は自責の念に駆られ、自身の身代りになった犬を自宅近くの藪にねんごろに葬りました。そして埋めた墓の傍に欅の木を植えたと伝えられます。また犬塚の碑はそのエピソードを聞いた信者によって、犬の忠誠を偲んで建立されたと言われています。

忠犬の墓が建立された頃にあったとされる藪も、今は痕跡すら残っていません。また安全と保全のためと思しき柵も設置されています。いまや周囲の風景から浮いた存在・・・いや埋もれた存在となりつつあります。

もし『徒然草』の作者・卜部兼好(吉田兼好)が今の世に甦ったら、こう言うに違いありません。“この柵 無からましかばと 覚えしか”とね(笑)。

#大津百町 #大津宿 #犬塚  #犬塚の欅 #大津赤十字病院 #蓮如 #東海道  #吉田兼好 #徒然草  #忠犬

【次回、大津百町漫歩(2)をお愉しみに・・・】

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悲哀と怨嗟・もう1つの羽衣天女“おこぼ”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

ようやく暑さも収まって参りましたね。とはいえ例年とはまた違った形で、台風や地震を始めとした自然災害が、日本はもとより、世界中で発生しています。実に辛いことです。

さて前回の木之本地蔵の巻で余呉湖の天女に触れましたので、普通ならこの流れでご紹介すべきなのですが、諸般の都合により現地調査が実現しておりませんので何卒ご容赦くださいませ。その代わりと言っては何ですが、別の天女伝説をご案内致したく存じます。

今回は地元の方の記憶も乏しいものになりつつある知られざる悲劇の羽衣天女(はごろもてんにょ)、おこぼについてのお話をいたしたいと存じます。

皆さん、羽衣伝説という昔ばなしを覚えておられますか?因みにツナの缶詰の某企業の伝説のことではありませんよ(^^)

天女(イメージ1)

羽衣によって天から降りてきた天女。そしてその天女に恋する男。そして悲しい別れの結末・・・おおまかに申し上げるとそのような内容です。

昔ばなしの羽衣伝説で最も有名なのが、静岡県静岡市清水区にあります三保の松原(みほのまつばら)。

また文献に残されている羽衣伝説は2つ。『近江國風土記(おうみのくにふどき)』に記載されている滋賀県長浜市にある余呉湖(よごこ)と、『丹後國風土記(たんごのくにふどき)』に記載されている京都府京丹後市にある磯砂山(いさなごさん)です。

実は一般的に知られている「男と結婚し子供を儲けるが、後に羽衣を見つけて天に帰ってしまう」というストーリーは、滋賀の余呉湖に伝わるお話がベースとなっているのです。

それならなおのこと、その有名どころを今回ご紹介すべきところなのですが・・・つくづくタイミングの悪い事です。

天女(イメージ2)

ちなみに天女の写真やイラストを探していたのですが・・・現代の天女のイメージはこんな感じなんですね(苦笑)。

では本題に戻ります。

今から約千年前、愛知川(えちがわ)のほとりに小椋郷(おぐらごう/現在の東近江市小倉町付近と推定)と呼ばれる地域がありました。

陰暦の7月6日(現在の8月上旬)のこと。この郷の領主であった鯰江犀之介友貞(なまずえさいのすけともさだ)は近くの池へ魚釣りに出掛けました。

すると池では何とも美しい女が水浴していて、傍らの松の枝には薄物の衣が掛けられ芳香を放っているではないですか。友貞はその女に声を掛けましたが、女は黙ったまま返事をしません。友貞はこの美しい女の姿に酔い、どうしてもこらえ切れなくて、何と衣を奪って帰ってしまいます。

女は衣を返してくれるよう泣いて訴えますが、友貞は「知らぬ存ぜぬ」を通し続け、返そうとはしませんでした。

天女(イメージ3)

それから程なくして女は友貞の妻となり、おこぼと呼ばれるようになりました。「衣を返せば逃げるかもしれない」と考えた友貞は、衣を隠したままにしていました。

7年の歳月が流れ、二人の間に6人の子供が出来ました。末の子の乳母は衣の隠し場所を知っていました。7年も経っているというのに夫に隠れてすすり泣く哀れなおこぼの姿を見る度に、乳母の胸は痛みます。

ねんねんころり、ねんころり

熟寝(うまい)する子は賢(さか)しい子

賢しい子にはお宝あげる

お宝屋根の破風(はふ)のなか

乳母は子守唄に歌い込んで衣のありかを教えました。

当時この地方では結婚して7年目の七夕の夜に、親類縁者を招いて酒宴を張る習慣がありました。友貞も習慣通り酒宴を開き、容色の衰えぬ妻をかたわらにして幸福の絶頂にありました。しかし突然、妻は鈴を振るような美しい声で歌を詠みました。

かりそめに なきしふすまの 七とせに 妹のかたみの たねおばのこす

友貞はハッとして傍らを振り返ると、何といままでそこにいた妻の姿がありません。妻は天の川を背に衣をまとい、中空に舞っているではありませんか。

「やっぱり天女だったのか」・・・友貞と6人の子ども達の嘆きは、居並ぶ人たちの涙を誘いました。

おこぼが水浴していたこの池は、それ以来誰言うことなくおこぼと呼ばれるようになりました。

おこぼ池跡

おこぼ池は現在の東近江市妹(いもと)町の田園地帯にありました。

しかし残念ながら昭和50年代に実施された土地改良に伴う圃場整備で埋め立てられてしまい、当時の面影はありません。

また出自の時期は不明ですが、藤原氏の流れを汲む鯰江(なまずえ)は古くからこの地域一帯を支配していたと言われています。

鯰江城跡

室町時代には現在の東近江市鯰江町に鯰江を築き、近江源氏で南近江の守護大名である六角氏と縁戚・主従関係になります。

しかし後に佐久間盛政・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家を中心とする織田信長の軍勢に攻められ落城。一族は各地に離散し、没落しました。

この事実が『おこぼの約500年を掛けての怨念』が成せる業であったとは、余り考えたくないですね(>_<)

今回の記事にあたり情報をご提供いただきました東近江観光協会様、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

#おこぼ #天女 #羽衣伝説 #小椋郷 #鯰江犀之介友貞 #おこぼ池 #鯰江氏 #六角氏 #鯰江城

鯰江城跡

・滋賀県長浜東近江市鯰江町1296番地

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衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説・後篇

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引き続き、衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説をお届け致します。このコロナ禍の影響を受け3年振りに開催された木之本地蔵大縁日も無事終わり、これから湖國は徐々に秋の装いを呈していきます。

さて木之本地蔵院が創建されてから約140年後のこと。

弘仁3(812)年。全国修行行脚の途上、空海(弘法大師)がこの地を訪れました。

浄信寺 地蔵院

早速木之本のお地蔵さんを参詣したのですが、長い年月を経て著しく荒廃した姿に接し、大変心を痛めました。

そしてこの地蔵院の修復を申し出るのです。

この時空海は、閻魔王(えんまおう)と具生神(ぐしょうじん/人の善悪を記録して死後に閻魔王への報告を担う二神)を安置し、紺紙金泥(こんしこんでい/紺色に染色した紙に金粉をニカワに溶いた絵具で書いたもの)の地蔵本願経一部三巻を献納しました。

すると、ある夜のこと。空海は不思議な夢を見ます。

『堂前の湖に龍が棲んでおり人々に害をなしているのでこれを救え』とのお告げを受けるのです。

早速空海は湖の畔に立ち祈祷を行いました。すると湖から龍が表れて、

『私はこの湖に棲む龍で(しず)と申します。今後人々に危害を加えませんので、どうかお討ちにならずにお助けください』と懇願しました。

そこで空海はここでの修法(ずほう/壇を設けて行う加持祈禱)に参列するようにと申し付けます。龍は童女に姿を変え、修法に参列しました。

伊香具神社

龍の大変神妙且つ真剣な態度に感心した空海は、懲らしめずに伊香具神社(いかぐじんじゃ)の守護神として祀ることにしました。

長浜市木之本町大音(おおと)にある伊香具神社の祭神は伊香津臣命(いかつおみのみこと)ですが、『近江国風土記』に記載されている余呉湖の羽衣伝説に登場する天女・伊香刀美(いかとみ)と同一であるとされています。

余呉湖の龍神は「天女」であったのかも知れませんね。

賤ヶ岳


また童女・賤にちなんで、伊香具神社の後ろの山を賤ヶ岳(しずがたけ)と名付けたと言い伝えられています。

空海と龍神との出来事から約770年後の戦国時代のこと。

木之本地蔵院は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって本陣が置かれ、戦火により焼失。賤ヶ岳一帯も柴田勝家との激しい戦い(賤ヶ岳合戦)が繰り広げられ死屍累々の地と化したのは、実に因果なことです。

#木之本地蔵 #空海 #地蔵本願経 #伊香具神社 #近江風土記 #賤ヶ岳 #羽柴秀吉 #賤ヶ岳合戦

木之本地蔵院(長祈山 浄信寺)

・滋賀県長浜市木之本町木之本944番地
【TEL】0749-82-2106

伊香具神社

・滋賀県長浜市木之本町大音688番地
【TEL】0749-82-5554

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衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説・前篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

久々の更新、ご無沙汰致しております。大変ご心配をお掛け致しました。尋常じゃない暑さも去ることながら、史上最悪のコロナ禍の現況、幾分かの体調不振、お盆の準備や法要の対応等々・・・なかなかの『御用繁多』な日々でございました。

今回は、日本三大地蔵の1つに列せられ、県内でも眼病・延命息災のお地蔵様としても名高い、木之本地蔵(きのもとじぞう)にまつわるお話を、2回に渡りお届け致したいと存じます。

JR北陸線・木ノ本駅を下車して直ぐに、とても長い石畳の坂道に出逢います。通称・地蔵坂と呼ばれるこの坂道の先に遠く見える寺院に、木之本地蔵は御座します。

しかし、本来はこの坂道のスタート地点が寺院の入口。現在の門前町はもともとの参道に発展したものなのです。

木之本地蔵大縁日(地蔵坂)

写真は例年8月22~25日に勤修される木之本地蔵大縁日での地蔵坂の光景。新型コロナウイルスの市中感染が過去最大級の状況下、今年も明日から疫病平癒を願って開催されます。

7世紀後半、飛鳥時代も終盤を迎えつつある頃。摂津國・難波浦(現在の大阪府)に、金色に輝く1体の仏像が流れ着きました。時を同じくして天武天皇(てんむてんのう/第40代天皇)はこの仏像の霊夢をご覧になり、「この御仏こそ龍樹(龍樹/2世紀のインドの高僧で日本では八宗の祖と言われる)菩薩が御作りになられた霊験あらたかなものである」として、すぐさま漂流の地に伽藍の建立を命じます。これが金光寺の起源であるとされています。

しかし帝はこの御仏を仏法の縁の深い場所でより多くの民衆の拠り所となって欲しいとの想いから、皇紀1335(675)年に薬師寺の開祖・祚蓮(それん)へ縁の深い地を探すよう勅命を出しました。早速祚蓮はこの尊像を奉持して、諸国行脚の旅に出ます。

祚蓮は北国街道を下った時のこと、丁度柳の大木があったのでその下に尊像を下ろし、しばし休息をとりました。そして再び出発しようとしたのですが、尊像はその場から全く動かすことが出来ず、何と前にも増して金光を放ちました。

木之本地蔵院

周囲は一面光明に包まれ、病に伏せる者はたちまち治癒し、災難に見舞われし者は立ちどころに難が消除しました。


祚蓮は「誠に地蔵菩薩は不可思議の霊像である。この光こそ衆生(民衆)の救済、諸難諸病を遁れ願い成就する光だ、この地こそ地蔵菩薩の有縁の地であるから、ここに安置して人々の暮らしを幸福へと導きたい」と語り、この地に伽藍の建設が始まります。これが木之本地蔵の草創と伝えられています。

この地での御縁を結んだ柳の木の下での出来事に因み、柳本山 金光善寺と号して一寺を建立しました。後にこの地は「柳の本(やなぎのもと)」と呼ばれ、これが転じて「木之本(きのもと)」になったといいます。

さて、参拝される皆さんは「木之本のお地蔵さん」と親しげに話されるのですが、意外にも寺院の正式名称は余り知られていません。木之本地蔵院とも呼ばれますが、これは通称なのです。

昌泰元(898)年、醍醐天皇の勅旨により菅原道真が参拝。これを機会として長祈山 浄信寺(ちょうきざんじょうしんじ)と改号されました。よって浄信寺が正しい名前になります。


様々なエピソードに彩られた本尊の木造地蔵菩薩立像(但し現存するものは鎌倉期の作)は国指定重要文化財で、秘仏のため一般公開されていません。

木之本地蔵菩薩大銅像

そこでより多くの人々にお地蔵様のご加護を受けて貰いたいとの想いから、明治24(1891)年から27年にかけて、本尊のお写しとして約3倍の大きさに建立されたのが、日本最大の地蔵菩薩銅像であり浄信寺のシンボル的存在の木之本地蔵菩薩大銅像です。

造営当時は県内はもとより、愛知や岐阜や福井からも銅鏡を集め、それらを溶かして造られたのだとか。

また大東亜戦争中は軍需省より厳しい供出命令を受けましたが、「地蔵菩薩は信仰の対象である」として三十世住職其阿上人学樹足下はそれを拒否しました。真言宗阿闍梨・班目日仏や東條英機の妻である東条勝子などの援助もあって供出を免れました。

あの東京・渋谷駅前のハチ公銅像ですら、反対運動も空しく戦時中のどさくさに紛れて供出されてしまったのですから、木之本のお地蔵さんのパワーはスゴいですね。

最後に、木之本のお地蔵さんは眼病快癒にご利益があることでも有名です。

境内を見渡すと、無数の蛙の陶器が置かれていることに気づきます。

でもよ~~~く見ると、蛙の何かが違います。何と全ての蛙が片眼をつむっているのです(ウインクしている訳ではございません)。

身代わり蛙

その昔、浄信寺の庭園には沢山の蛙が棲んでいました。連日、木之本のお地蔵さんには眼病を患った多くの参拝者が訪れます。蛙たちはその姿に接し大変心を痛め、「全ての人々の大切な眼が、お地蔵様の御加護を戴けますように」「全ての人々が健康な生活を営むことが出来ますように」と自ら身代わりの願を掛け、片方の眼をつむり暮らすようになったと言われています。


これが現在、身代わり蛙と呼ばれて眼病快癒の願掛けに用いられているのです。

地元の方々にとって木之本のお地蔵さんは日々の暮らしと密接に繋がっており、現在でも老若男女を問わず、門前を通る際に必ずお辞儀をしていく光景がとても印象的であり、日本人としての誇らしさを感じるのです。

#木之本地蔵 #浄信寺 #地蔵坂 #木之本地蔵大縁日 #眼病 #身代わり蛙 #祚蓮 #時宗

木之本地蔵院(長祈山 浄信寺)

・滋賀県長浜市木之本町木之本944番地
【TEL】0749-82-2106

木之本地蔵大縁日(ふるさと夏まつり)

【開催期間】2022年8月22日(月)~25日(木)
【開催時間】午前9時~午後9時(22日は午後5時~)
【会  場】木之本地蔵院境内・北国街道および地蔵坂
【お問合先】0749-82-5900(ふるさと夏まつり実行委員会)

木之本大花火大会

【開催期間】2022年8月25日(木)
【開催時間】午後8時より20分程度(雨天延期)
【会  場】木之本スポーツ広場 木之本グラウンド

【後篇に続く】

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織姫・彦星お伽噺は史実なのか!? “近江七夕伝説”後篇

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引き続き、織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)の七夕伝説は史実だった(かも知れない)というお話について、今回はその真相に迫りたいと存じます。

蛭子(世継)神社

天野川を隔てて朝妻筑摩の対岸、世継にある蛭子(ひるこ)神社ここには世継神社縁起之叟(よつぎじんじゃえんぎのこと)という文献が伝えられています。これは昭和62(1987)年に旧近江町役場による調査で発見された古文書です。

それによりますと、彦星は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう/第21代天皇)の第四皇子、星河稚宮皇子(ほしのかわのわかみやおうじ)。

織姫は仁賢天皇(にんけんてんのう/第24代天皇)の第二皇女の朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)のことであるとしています。

叔父と姪の間柄にあった二人は天野川を隔てて仏道の修行を積んでいたが、いつしか恋に落ちた、しかし逢うこともままならず、悲しい恋に終わった・・・とのこと。

法勝寺跡

ちなみにこのお話が残る蛭子神社は、延暦年間(奈良時代末期~平安時代初期)に奈良・興福寺の仁秀僧正(にんしゅうそうじょう)が、この地に興福寺南都別院として法勝寺(ほうしょうじ)を造営する際に共に建てられました。

法勝寺は現在の米原市高溝(たかみぞ)付近に建立され、明治時代まではこの辺りに法性寺という地名が残っていました(JR坂田駅の前身は“法性寺駅”でした)。

なお近江国坂田郡誌によると星河稚宮皇子と朝嬬皇女の悲恋物語を“七夕伝説”になぞらえて広めたのはどうもこの仁秀のようで、かねてよりこの二人のことを信奉しており、法勝寺建立の際この地に守護神として祀ったようです。

史実!とは申しましたがなにやら胡散臭さも・・・まぁ古墳時代の(実在の真偽も不明瞭な)人物のお話ですし、昔の偉いお坊さんは意外にもロマンチストだった・・・ということでしょうか

七夕塚

さて蛭子神社の境内には朝嬬皇女の墓と称する自然石があり、別名七夕塚(七夕石)とも吾佐嬬石(あさづまいし)とも呼ばれています。

かつては境内にひっそりと鎮座していたこの石も、1996(平成8)年に世継神社縁起之叟が発見されてマスコミの注目を浴びたことでキレイに整備され、これを契機に旧暦7月に朝妻神社と合同で七夕祭も再開させたそうです。

伝説継承をミッションとする小生としては、こういう「流行り」に乗っかった動きは些か複雑な心境ではありますが・・・

彦星塚

そしてこちらは対岸の朝妻神社境内にある星河稚宮皇子の墓と伝えられる彦星塚・・・と言いたいところですが、実はよく解らないのです。

境内には塚が2つあり、一般的には写真右の宝篋印塔(ほうきょういんとう/墓塔・供養塔等に使われる仏塔の一種)の方だと言われています。おまけに両方とも鎌倉時代後期に造立されたと推定されているため、ますます塚としての信憑性も怪しく・・・。

それにしましても、メモリアルのその後の整備の扱いが男女でこんなにも格差があるとは・・・今の時代をも象徴しているのでしょうか、一抹の悲哀を禁じ得ません

朝妻神社

この七夕伝説の他にも、奈良時代にこの地を朝妻王(あさづまのおおきみ/天武天皇の曾孫)が支配し、彦星塚は朝妻王の王廟、七夕塚は王女の墓であるとの説もあります。

さて令和3(2021)年8月、この伝説の根拠となる世継神社縁起之叟が江戸時代の研究者の著作(椿井文書/つばいもんじょ)で偽文書である可能性が高いと指摘される事件がありました。地元には衝撃が走りましたが、それでも地域に伝わる貴重な史料に変わりないと次世代を担う子供達への伝説継承に注力するとのこと。

の「信じるか信じないかは貴方次第です」的な世継神社縁起之叟から、最後にこの一説をご紹介致します。

七月一日から七日間、男性は姫宮に、女性は彦星宮にお祈りし、七日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び合わせて川に流すと、二人は結ばれる・・・云々

恋に悩む女子は彦星塚に、男子は七夕塚に。

さぁ恋に悩む草食男子・肉食女子の皆さん、いにしえの習いに従い祈念すべし!・・・と声高に叫びたいところですが、6月14日に内閣府が公表した『令和4年版男女共同参画白書』の結果を見てみれば、どれだけ興味を引くのかな?・・・と暗澹たる気持ちに苛まれる今日此頃です。

#七夕 #天の川 #織姫 #彦星 #蛭子神社 #世継神社縁起之叟 #七夕塚 #朝妻神社 #彦星塚 #朝妻神社 #朝妻王 #椿井文書 #男女共同参画白書

蛭子(世継)神社/七夕塚

・滋賀県米原市世継842

法勝寺跡

・滋賀県米原市高溝

朝妻神社/彦星塚

・滋賀県米原市朝妻筑摩1293

【おしまい】

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織姫・彦星お伽噺は史実なのか!? “近江七夕伝説”前篇

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明日は七夕ですよね。皆さんはコロナの終息の他に何をお願いされますか?

さて今回は織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)の七夕伝説は史実だった(かも知れない)というお話をいたしたいと存じます。ではまず、ストーリーのおさらいから・・・

七夕伝説

むか~し昔、天の川の近くに天の神様が住んでおりました。

天の神様には一人娘がいて、名を織姫といいました。織姫は機(はた)を織って、神様たちの着物を仕立てていました。

織姫はやがて年頃となり、天の神様は娘に婿を迎えようと考えます。色々検討した結果、天の川の岸で天の牛を飼っている彦星という若者に白羽の矢を当てました。

彦星

彦星は素晴らしい男でしたし、織姫もとても美しい娘でした。二人は互いを一目見ただけで好意を抱き、すぐに結婚しました。

それはそれは毎日が楽しい日々でした。でも次第に二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになります。すると天の神様のもとへ、皆が不満の声を上げるようになりました。

「織姫が仕事をしないので、皆の着物がボロボロです」「彦星が世話をしないので、牛が皆病気になってしまいます」と。

織姫

天の神様は激怒して、「二人は天の川の東西に別れて暮らすがよい」と織姫と彦星を別れ別れにしたのです。

織姫があまりにも悲嘆にくれているのを見兼ねて、天の神様は「年に一度、7月7日の夜だけ彦星と会ってもよろしい」と言いました。

それから年に一度逢える日だけを楽しみにして、織姫は一所懸命機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出すようになりました。そして7月7日の夜にだけ、織姫は天の川を渡って彦星のもとへ逢いにいくようになったのです。 

こんなお話でしたよね、思い出して戴けましたでしょうか。

このおとぎ話、一般的には中国の民話が日本に伝わったものだといわれています。でもこと滋賀では、史実から生まれた民話ということになっているのです!(ちょっと言い過ぎかな・・・)

天野川

さて今回は米原市は旧米原町/旧近江町エリアを訪れております。

米原市を東西に横断し琵琶湖に注ぐ天野川(あまのがわ)。かつては朝妻川とも呼ばれていました。この川の名前だけでも、十分“七夕伝説”に相応しいですよね

その河口の南岸に朝妻筑摩(あさづまちくま)、北岸に世継(よつぎ)という集落があります。

朝妻湊址

さて朝妻筑摩にはかつて、朝妻湊という湖北地方屈指の湖上交通の要衝がありました。

その歴史は古く、奈良時代にはこの付近に大善府御厨(たいぜんふみくりや/朝廷の台所)が設置されていました。

北近江・美濃/飛騨國(現在の岐阜県)・信濃國(現在の長野県)から、朝廷に献上するための租税や物産・木材等を都に搬出するための拠点として、江戸時代初期に廃止となるまで大変賑わいました。

木曽義仲や織田信長も、都に向かうためここから船に乗ったと伝えられています。

また「朝妻千軒」とも言われ、当時は千軒以上の家屋が軒を連ねていたと伝えられています。今は往時の賑わいのよすがを知る術はなく、周囲はひっそりと静まり返っています。

朝妻湊址全景

なお平家の落人の女が春を売って生計を立て、船上で一晩だけ妻になったからこの地が“朝妻”と名付けられたとも伝えられていますが、真偽の程は定かではありません。

織姫・彦星七夕伝説は史実であったか否か・・・後篇にてその真相に迫ります!

#七夕 #天の川 #織姫 #彦星 #天野川 #朝妻湊 #朝妻千軒

朝妻湊址

・滋賀県米原市朝妻筑摩

【後篇に続く】

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嗚呼!平家終焉之地“平宗盛公胴塚”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、嗚呼!平家終焉之地“平宗盛公胴塚”の伝説をお届け致します。

前篇の最後に掲載した写真の案内板は、丁度野洲市(野洲町エリア)と蒲生郡竜王町の境界辺りの国道8号沿いにひっそりと佇んでいます。最近になって赤いのぼりが併設されるようになり辛うじて目立つようになりましたが、何度も近くを通ってもここを訪れる人を見掛けたことはありません。

案内板のある場所には軽自動車が1台程度駐車可能なスペースがあります。そこから山の麓の小道を進みます。本当にうら寂しい場所です。100m程(とぼとぼ)歩くと少し視界が拡がります。

平宗盛公胴塚

ここに平宗盛公胴塚があります。石塔が2つありますが、左側は後年供養のために掘られたと思しき石仏で、胴塚は右側の小さな岩石です。「墓標」というより「目印」にしか見えません。昔から『勝てば官軍負ければ賊軍』とはよく申しますが、一時とはいえ平家の頭目として君臨した人物の扱いとしては、余りにも惨めで残酷です。敗者の扱いというのは往々にしてこのようなものなのでしょうね。

胴塚の正面には小さな池があります。かつては名所の1つとしてその名が知られていました。

木曾路名所図会 巻1 乾 “大篠原”

江戸時代後期の文化2(1805)年に発行された木曾路名所図会(きそじめいしょずえ)。岐阻路名所図会とも称し、中山道沿道の名所を網羅した、今風に言えば旅のガイドブックです。

このガイドブックの「大篠原」という記事に、平宗盛公胴塚とこの池のことが記載されています。その名も「首洗池」と・・・

蛙不鳴池

今となってはただの用水池にしか見えませんが、宗盛が長子・清宗の身を案じながら斬首に処せられ、この地で胴体を埋葬。首はこの池で浄められた後、元暦2(1185)年6月23日に京の六条河原に到着し、検非違使の平知康らによって受け取られ、獄門の前に晒されたと言われています。

首を浄めた池と隣接していた西方の大きな池も、この出来事以降蛙が鳴かなくなったことから、蛙不鳴池(かわずなかずのいけ)と呼ばれています。

蛙不鳴池及び首洗い池含め、かつては横巾165m✕縦巾220mの大きな池で、近世までは景勝地然としていました。近年までその形容を止めていましたが、平成10(1998)年頃の造成工事で蛙不鳴池は形状を大きく棄損し、首洗い池に至っては池そのものが失われてしまいました。

首洗い池(復元)

令和3(2021)年6月20日。地元・大篠原自治会、野洲市、有志企業・団体による首洗い池復元事業が立ち上げられ、先人の悲願であった首洗い池の復元が叶いました。往時の姿そのものとまではいきませんが、地元の皆さんの郷土に対する熱意をひしひしと感じました。

さてこの平宗盛処刑事件ですが、文献によって微妙に内容が異なります。

『平家物語』では6月21日に宗盛・清宗親子は篠原宿で処刑され、胴体は一緒に埋葬された。『源平盛衰記』では6月22日に宗盛・清宗親子は勢多(現在の大津市瀬田)で処刑された。さらに『吾妻鏡』では6月21日に宗盛が篠原宿で、同日清宗が近江国野路口(現在の草津市野路)で処刑されたと記述されています。

因みに草津市野路5丁目には遠藤家邸宅の中庭に平清宗の胴体を埋葬したと伝わる清宗塚が存在しますので、史実は『吾妻鏡』の記述にありそうな気もします。今回清宗塚を訪問出来ませんでしたので、またの機会を得られればと思います。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では平家を滅ぼし天下を手中に収めた源氏ですが、その後様々な疑心暗鬼が渦巻き、縁者や仲間が次々と姿を消しています。そう考えると滅亡した平家の方が一門の結束力は強かったように思います。

そのような平家を統べていた宗盛を、父・清盛に遠く及ばないにしても、改めて評価し直しても良いのではないでしょうか。

#平宗盛 #源義経 #平家物語 #鎌倉殿の13人 #平清宗 #平宗盛公胴塚 #首洗い池 #蛙不鳴池 #清宗塚 #源平盛衰記 #吾妻鏡 #東山道 #平家終焉之地

野洲市観光協会

・滋賀県野洲市小篠原2100−1
【TEL】 077-587-3710

平宗盛公胴塚

・滋賀県野洲市大篠原86

清宗塚

・滋賀県草津市野路5丁目2−21

【おしまい】

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嗚呼!平家終焉之地“平宗盛公胴塚”の伝説(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やアニメ『平家物語』の好調にかこつけて(?)お届けして参りました源氏や平家に纏わるお話のシリーズも最終回。今回は実質的な平家終焉の地となった平宗盛公胴塚についてのお話を致したいと存じます。

さて今回は野洲市は旧野洲町エリアを訪れております。その前に平宗盛(たいらのむねもり)の人物像に迫りたいと思います。

宗盛は平安時代末期の武将・公卿で平清盛の三男。異母兄の長男・重盛(しげもり)は文武に優れ、平家一門にも朝廷にも人望が厚く後継者として期待されていました。しかし清盛と後白河法皇の対立に有効な手立てを取ることが出来ず、その心労が祟ってか父に先立ち病没。同じく異母兄の二男・基盛(もともり)は武功も多く平家一門の有力者の一人と目されていましたが、24歳の若さで早世(一説には宇治川を騎馬で渡河する際に藤原頼長の怨霊に祟られ溺死したとも)。

平 宗盛

有能な二人の兄を早くに失い、父・清盛亡き後、平家一門を統べる立場となった宗盛。何かとコンプレックスも抱えていたでしょうが、父ほどのカリスマ性を持ち備えていなかったことから、その後の平家の衰亡を招いた張本人・・・と一般的には評価されています。

平家滅亡を決定的なものとした壇ノ浦合戦では、名立たる平家方の諸将入水を果たす中、宗盛は死に切れず泳ぎ回っていたところを長子の清宗とともに源氏方に引き上げられ虜囚の身となります。

元暦2(1185)年4月26日、宗盛・清宗親子は一旦他の虜囚とともに帰京。大路を引き回された後、義経に連行されて鎌倉に向かいます。6月7日、鎌倉に到着した宗盛は敗軍の将として頼朝の前に引き出されます。頼朝は勝者として御簾の中から宗盛を眺め、比企能員に自らの言葉を伝えさせたといいます(この時、宗盛を連行した義経が戦勝報告どころか鎌倉入府をも許されず、頼朝との確執が決定的だったことは有名なお話です)。

鏡神社

6月9日、宗盛・清宗親子は再び義経に伴われ京へ送還されることとなり、鎌倉を出立します。

そして6月21日。近江國・鏡の宿(かがみのしゅく/現在の蒲生郡竜王町鏡にあった東山道の宿駅)に差し掛かります。ここで義経が元服を果たし、この鏡神社で源氏再興を祈願し、平家打倒の狼煙が上がった地の1つであること。そして自らの生命の灯火にタイムリミットが迫っていようとは、宗盛はよもや考えていなかったでしょう。

旧東山道 篠原駅跡

蒲生郡竜王町と野洲市の境界地点で国道8号に並行して、かつての東山道/中山道が残っています。

この辺りには鏡の宿が整備される前に、篠原駅(しのはらえき)という駅家(えきか/うまや・・・古代の五畿七道に整備された宿場・検問所の前身)が設けられていました。

平安時代末期までは篠原駅には15頭の馬が配備され宿場と共に栄えていましたが、鏡の宿が整備されると、鎌倉時代に入り急速に衰退したといいます。

街道沿いとはいえこのうら寂しい山の麓で、義経の配下の橘 公長(たちばなのきみなが)によって宗盛は刀の露と消えました。享年39歳。平家一門を率いていた人物にしては余りにも若く、そしてあっけない最期でした。

因みに宗盛の斬首を手掛けた橘 公長という武士ですが、何の因果か実はかつて平家の家人でした。このため世の人々はそのことを忘れておらず、その変わり身に多くの批判を浴びせたといいいます。

平宗盛公胴塚 案内板

『平家物語』の記述によると、宗盛は鎌倉での処刑を免れて京に戻され、頼朝・義経の父・義朝が殺害された尾張國(現在の愛知県)の内海でも何事もなく通過したことから、生き永らえることを信じて疑わなかった節があります。また清宗のことをとても気に掛け、共に斬首となって首を晒されても遺体だけは一緒に葬って欲しいと懇願したともいわれています。

さて義経が何故この地で宗盛の処刑に踏み切ったのか。このことについて記述のある文献は見当たりません。

①義経が元服を果たし源氏再興を祈念したこの地で平家に引導を渡すことに意味があった。②宗盛を京に戻すよう命じた頼朝への当て付け。➂意外と短絡的に実行した・・・と色々理由は推測出来るのですが、今となっては知る由もありません。

次回は宗盛の最期の地を漫ろ歩きたいと存じます。。

#平宗盛 #源義経 #平家物語 #鎌倉殿の13人 #平清宗 #平宗盛公胴塚 #橘 公長 #斬首 #源頼朝 #平清盛 #平重盛 #平基盛 #鏡神社 #鏡の宿 #篠原駅 #東山道 #平家終焉之地

野洲市観光協会

・滋賀県野洲市小篠原2100−1
【TEL】 077-587-3710

【後篇へ続く】

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清盛に寵愛された白拍子姉妹 “妓王・妓女”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

前回に引き続き、平清盛に寵愛された白拍子(しらびょうし)の姉妹、妓王・妓女(ぎおう・ぎじょ)の伝説をお届け致します。今回は彼女たちの出身地である旧野洲町エリアに伝わるエピソードを巡ります。

さて白拍子としての妓王が清盛の寵愛を一身に集めていた頃のこと。

干ばつに苦しんでいる郷里の村人を救うために、妓王が清盛に治水改良を請願しました。

祇王井川(行事神社付近)

承安4(1174)年に竣工した灌漑用水・祇王井川(ぎおういがわ)が現在でも残っています。

工事は困難を極めましたが、野洲川から野田浦(現在の野洲市野田)まで三里(約12km)に渡り水路が整備されました。

これで野洲郡の十か村に及ぶ村人が水不足解消の恩恵に与り、近江國内でも有数の穀倉地帯へと発展を遂げました。このことは今でも妓王の恩沢(おんたく)として語り継がれています。

野洲市三上の野洲川沿いにある新興住宅地。

祇王井川水源地跡

七間場(しちけんば)地区の自治会館敷地内に祇王井川水源地跡の碑があり、竣工当初はここを水源としていたようです。

ちなみにこちらの地名は、かつて“近江太郎”と呼ばれる暴れ川であった野洲川の堤防を護る役目を、一人当たり七間(約12.7274m)割り当てられたことに由来するのだそうです。

史蹟 妓王井川

こちらは野洲市野洲の四ツ家(よつや)地区にある“史蹟 妓王井川”の碑です。現在、妓王井川を示す唯一の道標となっています。

戦後野洲の穀倉地帯は琵琶湖からの引水によるパイプラインで農業用水が供給されるようになり、妓王井川の役割や様相も大きく変化してしまいました。

それでも今に至り、野洲の人々に様々な恩恵を与え続けています。

妓王寺

最後にご紹介するのは、野洲市中北にあります浄土宗・宝池山妓王寺(ぎおうじ)です。

この寺院は妓王井川が整備された翌年の承安5(1175)年。

何れ妓王たちの“終の棲家(ついのすみか)”となるべく、清盛が建立させた宝聚寺(ほうじゅじ)が前身とされています。

また一説には、妓王たちが辿った末路を哀れに思い、また灌漑用水を整備してもらった恩義に報いるため、村人たちによって建立されたとも伝えられています。

江戸時代に大津の膳所藩によって編纂された地誌『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』によりますと、「妓王妓女佛御前刀自の四女墓あり、四女の木像あり」と記述されています。

妓王・妓女・佛御前・刀自 墓

その記述通り、ここ妓王寺には4人の墓が祀られ、4人の木像が安置されています。残念ながら墓石は存在するもののどれが誰のものであるかという特定は出来ない状態にあり、また木像も原則非公開となっています。

妓王寺は代々尼僧によってお守りされてきたのですが、平成16(2004)年に最後のご住職が亡くなられ、後継者も無く以降は地元自治会役員の持ち回りでお世話をされています。

また毎年8月下旬(25日頃)には、妓王井川の恩恵に与ったかつての村々の人々が参集し、現在も法要を営んでおられます。

それにしましても、かつての“恋敵”同士が共に祀られているなど現代では考えられませんよね。

初めて妓王寺の取材に訪れたのは今からもう12年前の平成22年のこと。当時の中北自治会会長・永原一豊さんに無理をお願いして、代理として奥様に立ち合い戴きましたことは今でも鮮明に記憶しております。

その際、こんなエピソードを語っていただきました。

妓王・妓女は“祇王・祇女”とも表記され、京都の祇王寺は後者になっています。どちらが正しいという訳ではなく、当時は文字を読み書き出来る階層が限られており、お話も口伝(くでん)によるところが大きいので、このようなことになったのではと仰っておられました。

妓女・妓王・佛御前・刀自 木像

またニューヨークの大学の女性の先生が、平家物語の研究でわざわざ来訪されたのには流石に驚かれたそうです。

あと妓王寺は京都の祇王寺に比べて知名度に雲泥の差があり、また無住寺ということもあってなかなか観光資源として活かし切れずにいるとか。当時公開されていた大河ドラマ『平清盛』を契機に注目されることをとても期待しておられました。

今回の源平ムーブメントが少しでも追い風となって欲しいですね。

なお妓王寺のある中北集落は、自動車での進入が非常に困難な隘路となっております。また妓王寺の見学には事前予約が必要となりますので、詳しくは下記までお問い合わせください。

祇王井川の流路【参考資料:野洲市観光物産協会】
祇王井川の流路【参考資料:野洲市観光物産協会】

因みに・・・妓王井川の流路、総延長約12kmを巡る旅もまた一興です。但し、健脚に自信のある方に限ります(笑)。当時重機もGPSも無かった時代に人海戦術で整備された土木事業に想いを馳せてみては如何でしょうか。

#妓王 #妓女 #刀自 #佛御前 #白拍子 #鎌倉殿の13人 #妓王寺 #妓王井川 #祇王井川 #平清盛 #平家物語 #近江輿地志略 #祇王井川水源地跡

野洲市観光物産協会 (野洲市役所環境経済部商工観光課)

・滋賀県野洲市小篠原2100番地1
・TEL. 077-587-3710
・受付日/平日のみ
・受付時間/8:30~17:15

妓王寺

・滋賀県野洲市中北90

祇王井川水源地跡

・滋賀県野洲市三上2170−3

【おしまい】

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清盛に寵愛された白拍子姉妹 “妓王・妓女”の伝説(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にかこつけて、引き続き源氏や平家に纏わるお話をお届け致します。今回は野洲市は旧野洲町エリアを訪れておりますが、その前に平清盛に寵愛された白拍子(しらびょうし)の姉妹、妓王・妓女(ぎおう・ぎじょ)の人物像に迫りたいと思います。

ではまず「白拍子とは何か?」からご説明を。

白拍子とは平安時代末期から鎌倉時代に掛けて、“今様(いまよう)“”朗詠(ろうえい)”と呼ばれる歌曲を歌いながら舞を踊る男装の遊女や子どものことを指します。

白拍子(静御前) 葛飾北斎 筆

白拍子で最もメジャーな人物と言えば、やはり源義経の愛妾(あいしょう/お気に入りの妾)・静御前(しずかごぜん)でしょう。

因みによく勘違いされることが多いのですが、静御前は義経の“妻”ではなく、“愛人”でございます。

さて今回のお話の一端を担う平清盛ですが、その母親の素性については諸説あるものの、歴史上“不詳”とされております。

平 清盛

平成24(2012)年に放送された大河ドラマ『平清盛』では、「清盛は白河法皇の御落胤(ごらくいん/父親に認知されない私生子)で、母親は法皇の愛妾であった白拍子(舞子)」という設定となっておりました。清盛と白拍子とは、何かと因縁があるようですね。

では本題に戻りましょう。

京都・奥嵯峨にございます祇王寺(ぎおうじ)の『祇王寺縁起』によりますと、妓王は仁平3(1153)年に野洲郡江部庄(現在の野洲市永原・北・中北地区)で、北面の武士で江部の庄司でもあった橘次郎時長(たちばなじろうときなが)と母・刀自(とじ)の娘として誕生します(一説には“江部九郎時久”が父親とも)。

妓王屋敷跡

野洲市中北には、かつて妓王たち家族が住んでいたとされる屋敷跡が残っています。

その2年後には妹の妓女が生まれます。しかし程なくして妓王4歳・妓女2歳の時、父・時長が保元の乱で戦死してしまいます。

妓王16歳の時、母・刀自は2人の娘を連れて京の都に上ります。白拍子となった彼女は、その美貌と艶やかな舞でたちまち都でも一目置かれる存在となります。

その評判が時の権力者であった平清盛の眼に止まり、妓王は絶大なる寵愛を受けます。またそのお陰もあって、妓女や刀自も何不自由ない暮らしを送ることが出来ました。

それから3年後。佛御前(ほとけごぜん)という若い白拍子が都で評判となります。彼女は清盛の御前で舞を踊ることを望みますが、妓王が寵愛を集めていたため一旦は追い払われます。

しかし妓王の取り計らいにより、清盛の御前に出る機会を得ます。すると清盛は佛御前の舞にすっかり魅了され、何と妓王を直ちに放逐してしまうのです。

妓王21歳の時。

祇王寺(往生院)

時の権力者の余りの仕打ちに妓王は自害を決意し、妹の妓女もそれに同調しますが、母の刀自がこれを思い止まらせ、奥嵯峨にある往生院(おうじょういん/現在の祇王寺)に身を隠し、出家して念仏を唱える日々を送りました。

この事実を知った佛御前は恩義ある妓王の身の上をはかなみ、清盛に無断で自らも出家。同じく往生院に入り、妓王・妓女・刀自とともに余生を過ごしたと言います。

次回の後篇では、妓王・妓女の出身地である旧野洲町エリアに伝わる彼女たちのエピソードを巡ります。

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野洲市観光物産協会 (野洲市役所環境経済部商工観光課)

・滋賀県野洲市小篠原2100番地1
・TEL. 077-587-3710
・受付日/平日のみ
・受付時間/8:30~17:15

妓王屋敷跡

・滋賀県野洲市中北90

【後篇へ続く】

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