Category Archives: 滋賀の伝説

アマビエより最強!?“元三大師”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、アマビエより最強!?“元三大師”の伝説をお届け致します。

最澄(伝教大師)が開いた天台宗の総本山・比叡山延暦寺には、多くの日本仏教界のカリスマ的人物が修行に訪れています。浄土宗の開祖・法然、臨済宗の開祖・栄西、曹洞宗の開祖・道元、浄土真宗の開祖・親鸞、日蓮宗の開祖・日蓮と卒業生は錚々たるメンバーです。

しかし開祖の最澄を除き、全て近江國(滋賀県)外の出身者ばかり。まぁそれだけ当時の仏教界に於いて、延暦寺は絶対的な存在にあったということの裏打ちなのですが・・・。

さて今回は長浜市の旧虎姫町エリアを訪れております。

元三大師御産湯井

天台宗中興の祖・良源、実は北近江の出身なのです。良源は延喜12(912)年、近江國浅井郡三河村(現在の滋賀県長浜市三川)で、湖北の豪族・木津(こづ)頼重の子として誕生しました。

幼名は観音丸(日吉丸とも)と称し、その際産湯を使ったと伝えられる井戸が元三大師御産湯井として今でも遺っています。

かつては毎年8月7日にこの産湯井で元三大師御水替行事(井戸さらえ)が行われていました。井戸から浮き上がる籾(もみ)の数や色艶によって1年の作況が占われていました。

因みに良源の誕生には異説が伝わっています。

月子姫墓

比叡山開創1200年を記念し、1987(昭和62)年に比叡山宗教サミットを主催した第253世天台座主・山田恵諦(やまだえたい)氏の著書『元三大師』にはこのような記述があります(一部要約)。

良源の生母は月子姫(つきこひめ)といい、もとは湖北の豪族・物部氏の娘でした。月子が12歳の時に宇多天皇(うだてんのう/第59代天皇で後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にあたる)が竹生島に行幸あそばされ、その際に接待の役を務めました。このことが縁となり、16歳で宮中に出仕するようになりました。そこで月子は天皇の寵愛を一身に受け、程なくして懐妊しました。良源は所謂御落胤という訳です。

出産のため里帰りし、木津頼重の屋敷に身を寄せました。観世音菩薩を祀る大吉寺(平安時代前期に浅井長政の祖先が比叡山と協力して開山された長浜市野瀬町にある天台宗の霊場)に安産祈願を行います。そして無事男子を出産。観世音菩薩に祈願して生まれた子ということで、観音丸と呼ばれたと云われています。飽くまでも諸説あるお話の1つですが、比叡山での修行の道のりは決して順風満帆とは言えぬものの、その後外戚関係を結んだ天皇家や藤原氏の後ろ盾を得て、大器晩成の活躍を遂げたことを考えると、あながち「ウソ」とも断定出来ません。

暇乞いの橋

良源が第18世天台座主に就任した頃、三河村に居る母・月子は病に臥せっていました。この報を聞き付け直ぐさま母の元へと帰りますが、看病の最中に朝廷より法華八講(ほっけはっこう/法華経八巻を八座に分け、通常1日に朝夕二座講じて4日間で完了する法会のこと)の勅命が下り、直ちに京へ戻らねばならなくなります。

良源は別れを悲しむ母のため、等身大の身代りの木像を刻んで、それを枕元に置き帰路につきます。病床の母を案じ、涙を流しながら三河村を後にしようとしたその時、木像が急に動き出し、村外れの小橋まで良源を見送りました。その後本人に代って母の看病を続けたと云います。

この小橋は暇乞い(いとまごい)の橋と呼ばれ、現在でも三川集落の西端にある七縄川(しちなわがわ)に掛かっています。

栄光山 玉泉寺

981(天元4)年、良源70歳の時。僧としての最高位である大僧正に任ぜられます。日本史上最初に大僧正の称号を与えられたのは、奈良時代の745(天平17)年に聖武天皇号令の下、東大寺造営や数々の社会事業に大きく貢献した行基(ぎょうき)。それ以来実に236年振り、2人目就任の快挙でした。これを機に良源は、生まれ故郷の三河村に栄光山 玉泉(ぎょくせん)を開創します。

しかし1570(元亀元)年の姉川合戦に端を発する兵火によって焼失。なお現在の本堂は江戸時代中期の1780(安永9)年に彦根藩12代藩主・井伊直幸の寄進により7建て替えられたもので、本堂小屋組に「安永九年庚子年五月 彦根御寄附木」と墨書された木が見られます。

元三大師加持水井

境内には書院・鐘楼・庫裏の他に、良源が祈祷を行う際に使われたと伝わる元三大師加持水井も残っています。なお前述した産湯井の元三大師御水替行事は、そもそも本堂の仏壇に供える閼伽水(あかみず/仏前などに供養される水のこと)を1年分、瓶に汲んでおくために行われたのが始まりだそうです。

本尊は木造慈恵大師坐像で、国の重要文化財に指定されています。秘仏のため50~60年に一度の御開帳となり、直近では昨年2020(令和3)年。良源の御誕生日である9月3日に、150名限定の完全予約制で特別拝観が行われました。ですから次回は・・・無理っぽいですね(苦笑)。

因みにこの御本尊様は、良源を村外れまで見送ったあの木像と伝えられています。しかし肝心の仏像が鎌倉時代作とされているので、そこはファンタジーと捉えてください。

若い頃から苦労を重ね、大器晩成の典型で晩年に様々な功績を上げ、多くの人々を救った良源。その強烈な個性はそのまま畏敬の念となって人々に敬われました。入滅後もまるで真言宗の開祖・空海の如く、「比叡山を守護するため、浄土へ往かず山に留まった」など多くの霊験談や説話に彩られ、次第に良源自身が開祖・最澄を凌ぐほどの信仰対象となりました。

今まさに疫病蔓延の時代ですが、このようなスーパーマンが滋賀にも存在したことを知る契機として戴ければ幸甚です。なお我が家では野洲・兵主大社とこちらの玉泉寺より病魔退散の護符を授与戴いた御蔭を以て、家族一同元気に過ごしております(笑)。

栄光山 玉泉寺

・滋賀県長浜市三川町945
【TEL】  0749-73-2723
 ◎元三大師御産湯井・・・玉泉寺門前より西方約30m
 ◎月子姫墓・・・玉泉寺門前より西方集落内約80m
 ◎暇乞いの橋・・・玉泉寺より西方約570m(県道275号三川月ヶ瀬線 三川口橋北入ル)
 ◎元三大師加持水井・・・玉泉寺境内

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アマビエより最強!?“元三大師”の伝説(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

コロナパンデミックも2年目に突入。もともと予想はしていましたが、日本を始め世界的にも昨年に比して更に悪化の感染状況。この状況は少なくともあと3~4年は続くと思われます。こと日本に限って言えば、島国であれば迅速な対応で、ある程度抑え込めた筈の水際対策。飽くまでも“国民の良心と要請”に頼らざるを得ない、危機管理が希薄で有事に脆弱な政治と法治体制。早過ぎるワクチン開発・承認と、これを巡る外交戦略のお粗末さ。大東亜戦争終結後、経済の発展のみを訴求し、人として国家としての有り様を真正面から議論することを置き去りにしてきた。その75年に渡る『平和ボケ』の代償を、今我々は突き付けられているように感じます。

申し訳ございません、お話を元に戻します。昨年、国民の“病魔退散”への切なる願いから、アニメ『鬼滅の刃』や妖怪・アマビエが爆発的なブームとなりました。でも滋賀には滋賀で、アマビエに負けないインパクトとパワーを持ち備えたスペシャリスト(?)が存在することをご存知でしょうか?

次の写真をご覧ください。このキャラクターを民家の軒先や玄関などで見掛けたことはございませんか?

角大師

これは角大師(つのだいし)と呼ばれるもので、平安時代中期より当時の京都や滋賀を中心に「悪魔降伏・病魔退散」といった魔除けの信仰対象として流布していました。

この角大師にはこのような云われがあります。

比叡山

むかしむかし比叡山に、とある高僧がおりました。その僧は大変容姿が美しく、都の貴族に招かれて祈祷に赴く度に、しばしば若い女官から誘惑を受けていました。

「このままでは仏道を外れ、魔道に落ちかねない」・・・そう考えた僧は、自ら鬼の姿となって魔道から逃れようとしたそうです。

また疫病が蔓延していた永観2(984)年の或る時こと。この僧が書斎で書物を読んでいると、何処からともなく疫病神が姿を現しました。そしてその疫病神はこう申しました。

「我は疫病神である。貴方は今厄に当たっておられる。よって世の流行病に侵されねばならない因縁にある。怖れながらお身体をお借りしに参りました」と。するとその僧は「因縁ならば是非もない。兎も角汝の申す通りと致そう」と左手の小指を差し出しました。

すると疫病神は小指から僧の身体に乗り移ります。程なくして全身に悪寒と激痛が襲い、加えて高熱を発し、実に堪え難い苦しみを感じました。因縁とはいえ流石にこの状態に困り果てた僧は、精神を集中し、法力と祈祷でもって疫病神を退散させました。するとたちまち元の身体へと戻ったのです。

疫病の苦痛を身を以って知った僧は、「疫病をもたらす魔物の力は侮れない。病に苦しむ民を1日も早く救済せねば」と発心。すぐさま弟子に全身大の鏡を用意させ、その前で静かに祈祷を始めました。

すると僧を映していた鏡に変化が現れ、最後には恐ろしい鬼の姿が出現しました。弟子は鏡に映った降魔の姿を描き写し、その絵を版木に彫り起こしました。そしてその版木で御札を刷り、僧自ら開眼の加持を行いました。

「この護符(ごふ/お守り札のこと)を人々に配り、戸口(とぐち/建物の出入口のこと)に貼り付ければ、邪悪な魔物は近寄ることが出来ない。よって病はもとより、あらゆる厄災から守られるであろう」と弟子達に示しました。その後この御札は角大師護符と呼ばれ、新年を迎えるにあたって戸口に貼ると家人は疫病に罹患せず、また病人も全快し、更にあらゆる厄災から逃れられたと伝えられています。

さて疫病や厄災という世の全ての病巣を、一旦自らの身体に取り込み、法力でもって抗体を作り、角大師というワクチンを開発した悪魔退散のスペシャリストとは・・・

良源(元三大師)

平安時代中期の天台宗の僧。比叡山延暦寺の中興の祖にして、何と日本のおみくじの創始者でもある慈恵大師・良源(じえだいし・りょうげん)その人です。良源は元三大師(がんざんだいし)とも呼ばれ、現在ではこちらの呼称がポピュラーになっています。因みに“元三”の名は、良源が正月三日に入滅したことに由来します。

良源は12歳(15歳とも)で比叡山に登り、西塔宝幢院の理仙大徳に師事。17歳で受戒(仏教に帰依する証として戒律を受持すること)。55歳で第18世天台座主に就任しました。就任後は比叡山の伽藍の復興、天台教学の興隆、山内の規律の維持、僧兵暴徒化の抑制に貢献し、天皇家や摂関家の篤い帰依を受けました。

この角大師の護符のエピソードは、良源が亡くなる前年のもの。 疫病神を受け入れてしまったことが寿命を縮めてしまった要因であったかどうかは定かではありませんが、当時としては超高齢にあっても凄まじいパワーと能力の持ち主であったことは否めない事実です。そんなスーパーマンが編み出した護符ですから、ご利益に与れない訳がありません。

角大師護符

角大師護符は良源の御廟(墓所)がある比叡山延暦寺・横川(よかわ)地区にある元三大師堂を始め、京都市内にある良源や延暦寺に所縁のある寺院(大原三千院・真正極楽寺真如堂・蘆山寺・法住寺)で、現在でも授与されています。

なお授与所により微妙に角大師のお姿が異なりますので、護符の違いを愉しむのもまた一興かと存じます。

そして昨年になって新たに角大師護符授与を再開された寺院があります。そこは比叡山匹敵する程の良源所縁の場所で、小生もこちらで護符を授与戴きました(上記写真は拙宅の戸口です)。次回はその所縁の地をそぞろ歩きたいと存じます。

【後篇へ続く】

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近江鬼滅夜話“安吉橋”の伝説

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前回に引き続き“近江鬼滅夜話”をお届け致します。今回は近江八幡市の旧近江八幡市エリアを訪れております。

旧近江八幡市の中心部から南部へ延び、蒲生郡竜王町とを結ぶ県道14号近江八幡竜王線が通じています。1993(平成5)年に当時の建設省から主要地方道に指定され、湖南市や甲賀市への短絡ルートとして毎日多くの車輛が行き交っています。

今回訪れましたのはその県道14号の近江八幡市倉橋部(くらはしべ)町と竜王町弓削(ゆげ)との境界に位置する日野川。

安吉橋親柱

ここに安吉橋(あぎばし)という橋が架かっています。

古くは安義橋と称したのですが、何時の頃からか現在の表記となったようです。

安吉橋(昭和40年代)

かつてはこのような、如何にも伝説に彩られた趣のある橋でした。

平安時代には「安義橋」の存在が文献に認められることから、ここは随分昔から生活路として機能していたことが伺えます。

その安吉橋にはこのような伝説が語り継がれています。

時は平安時代。多くの人の往来があったこの道である奇妙な噂が立ちました。「安義橋で鬼が出没し、そこを通ると生きて帰れない」と。この話により、めっきり人通りが減ってしまいました。

或る時、近江国守に仕える若者たちが館でこの噂を話題にしていました。すると安義橋近くに住まい、いつもふざけた強がりを言う男が「よし!館で一番の馬があれば儂が渡ってやる!」と豪語。周囲は囃し立てます。言い出した男はもう後に引けなくなりました。しぶしぶ男は近江国守の馬を借りて、その尻に油を塗り、橋を目指しました。

夕闇迫る頃、男は橋のたもとに差し掛かります。当然人影は見えません。男は恐る恐る橋を渡り始めると、橋の中ほどで一人の女が立っているのを見掛けます。

「これは鬼の化身に違いない」と感じた男は、咄嗟に女の横を通り過ぎました。すると女は何かを口にしながら男の後をついてきます。

男が振り返ると、そこには身の丈は九尺で青緑の巨体。手の指は三本、長く伸びた爪は五寸。そして一つ目で真っ赤な顔の鬼が、凄まじい形相で立っていました。

鬼は何度も男の乗る馬を捕まえようとしますが、尻に油が塗ってあったために捕まえることが出来ません。鬼は「これで逃れられたと思うな」と捨て台詞を吐いてふっと消えました。

すぐさま男は館に逃げ戻り、国守に事の顛末を話しました。国守は男にその馬を褒美として与えました。しかしその後、男の家では奇妙な出来事が起こり続けます。

気味が悪い男は祈祷師に占ってもらいました。すると祈祷師は「鬼の祟りが乗り移っているので物忌み(定められた期間にある種の日常的な行為を控えて穢れを避けること)をするように」と告げられました。

物忌みを行っていた日の夕方、奥州(おうしゅう/現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県の地域)にいた弟が、従者を伴って突然男のもとを訪れました。当初は物忌みを理由に面会を拒みました。しかし母の死を知らせにに来たというので対面することにしました。

しばらくして、男の部屋から激しい喧嘩の物音が聞こえてきます。これに驚いた男の妻が駆けつけると、兄弟で上になり下になりの取っ組み合いを行っています。やがて弟が上になるや否や、男の首を食いちぎってしまいました。

そして満足げな笑みを浮かべ、ふっと消えてしまいました。その表情はまさしく男が安義橋で遭遇した鬼の顔そのものであったそうです。また弟とその従者も、その場で骸骨と化したといいます。

この話を聞いた周囲の人々は「つまらぬ強がりで生命を落とすとは愚かなことだ」と笑ったといいます。それ以来、安義橋に鬼が出没するという話が更に広まったのです。

安吉橋地蔵

その後、様々な加持祈祷でもって鬼が封じ込められ、それ以降出没しなくなったたそうです。このお話は『今昔物語集』巻二十七に、「近江国安義橋鬼人噉喰語(近江国ノ安義橋ノ鬼、人ヲ喰ラフ話)」として所載されています。

今となっては人々の記憶から消えつつあるこのお話も、橋のたもとに御座しますかなり年季の入ったお地蔵様が全ての成り行きを静かに見守っている・・・そのように感じます。

安吉橋(現在)

今も昔も交通の要衝であった安吉橋。増大する交通量に老朽化が進行し、2006(平成18)年3月に架け替えられ、益々伝説の地としての様相は薄まってしまいました。

最後に逸話を一つ。このお話をベースとして、1984(昭和59)年に『アギ/鬼神の怒り』という映画が製作されました。当時空前のムーヴメントを席巻したスプラッター・ホラー・ブームに乗った作品ですが、余りにも内容がマイナー過ぎて人々の記憶に残ることは殆どありませんでした。

また2001(平成13)年には夢枕獏の伝奇ホラー物語集『ものいふ髑髏』にもこのエピソードが所載されましたが、これも特段ムーヴメントを生むには至りませんでした。世が世なら“聖地巡礼”で盛り上がった!・・・かも知れません。

今回のお話。“鬼滅”とタイトルが付いていますが、“鬼を滅した”ではなく、“鬼に滅せられた”エヒソードでした。この男には“館で一番の馬”てはなく、全集中の呼吸と“日輪刀”が必要でしたね(笑)。

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近江鬼滅夜話“鬼の首塚”の伝説

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久し振りに「滋賀の伝説」をお届け致します。今回は東近江市の旧能登川町エリアを訪れております。

昔々、平安時代の初期。朝廷に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)という武官がおりました。

坂上田村麻呂

田村麻呂は武芸・軍略に優れ、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に二度も任官されるほどの人物でした。小生も日本の歴史上征夷大将軍を冠した数多の人物の中で、最もその官職に相応しい人物であると考えております。

後代に様々な伝説を生み、“稀代の名将”“ 毘沙門天の化身”とも称され、文才に長けた菅原道真と共に平安期に於ける文武の双璧の一角を成す象徴的な存在でした。

「征夷大将軍ってそんな昔からあったの?」「○○幕府の将軍のことじゃないの?」などと仰る方もいらっしゃるのではないでしょうか?

実は鎌倉幕府以降の将軍職に付与されていた“征夷大将軍”は、武家の頭領としての象徴的官職として「武士の自治」を事実上朝廷に認めさせるための形式的なものでした。

本来は朝廷より蝦夷(えぞ/当時の東北地方以北)征伐を命じられた軍隊の総司令官に与えられた重責ある官職だったのです。

さて今から1220年前の延暦10(791)年のこと。伊勢國(現在の三重県)・鈴鹿山で大嶽丸(おおたけまる)という鬼神が悪事の限りを尽くし、その影響で周辺の往来が途絶えてしまいました。このことを憂慮した桓武天皇(かんむてんのう/第50代天皇で後に平安京を造営)は、田村麻呂に大嶽丸の討伐を命じます。

早速田村麻呂は京都の清水寺で鬼神の討伐成功を祈願しました。

清水寺

すると観世音菩薩から霊感(お告げ)を得ましたので、今度は善勝寺(ぜんしょうじ)に籠ります。

お告げに従い7日間の祈りを捧げた田村麻呂は、勇躍して3万余の兵を従え鈴鹿山に向かいました。

しかし不可思議な神通力を自在に操る大嶽丸は山を暗雲で隠し、暴風雨・雷・火の粉などで討伐隊を苦しめます。 窮地に追い込まれた田村麻呂は、毘沙門天と千手観世音菩薩に祈りました。

するとある晩、夢の中に1人の老人が現れ、「この山に住む鈴鹿御前の助力を得よ」と告げられます。 田村麻呂は3万余の兵を都に帰還させ、単身鈴鹿御前を探しに鈴鹿山に入ります。

大嶽丸と鈴鹿御前

鈴鹿山に分け入った田村麻呂は、そこでこの世のものとは思えぬ絶世の美女に出逢います。

それこそが鈴鹿山に住む天女で、かねてより大嶽丸に求婚を迫られているという鈴鹿御前(すずかごぜん)でした。

鈴鹿御前は自らが囮となって大嶽丸に完全なる防御を与えている3本の宝剣を奪取し、田村麻呂に討たせるという策を講じます。

大嶽丸は鈴鹿御前の計略に堕ち、田村麻呂は見事その首を刎ねることに成功します。その後、田村麻呂と鈴鹿御前は夫婦となりました。

持ち帰った大嶽丸の首は善勝寺に埋めました。その善勝寺は東近江市佐野町の猪子山(いのこやま)中腹にあります。

善勝寺

善勝寺は創建当初、釈善寺と号していました。しかし田村麻呂の東征勝利に因んで改称したのだそうです。

善勝寺には次のような御詠歌が残っています。

鬼にさえ 善く勝つ寺ときくからに なほたのまるる 人ののちのよ

善勝寺の境内奥地にある墓地の中に、2m四方もある一際目立つ巨石があります。これが大嶽丸の首を埋めたという鬼の首塚です。

鬼の首塚

討伐時の戦利品も埋められていると伝えられており、かつて村人がその北面の崖を掘ったところ古墳のような構造になっていて、約3m下には石垣のようなものもあったそうです。

鬼の首塚のあるこの一帯、何やらまがまがしい空気で包まれているような雰囲気を感じます。あながち“単なる御伽噺(おとぎばなし)” ではないような気もします。

なお田村麻呂が7日間籠ったというこの善勝寺。

実際はこの寺の境内ではなく、厳密には奥の院と呼ばれる場所であったとか・・・。

北向岩屋十一面観音

その“奥の院”と称される猪子山頂には、北向岩屋十一面観音(きたむきじゅういちめんかんのん)が祀られています。

この観音堂の奥にある岩屋には、高さ55cm程の石像の十一面観音が安置されています。

ここに籠って田村麻呂は祈願したと伝えられています。

十一面観音石像

こちらの十一面観音は合掌する手に数珠を掛けており、全国的にも大変珍しいお姿をされています。

災厄消除と災害防除に御利益があるといわれており、毎年7月17日には千日会法要が盛大に勤行され、京阪神や中京方面からの多くの参拝者で賑わいます。

さらに毎月17日にも、近在の信者が多数参拝に訪れます。

ちなみに琵琶湖の絶景or夜景をご覧になりたい方にもおススメです。

奥の院からの眺望(1)

西は長命寺山(ちょうめいじやま)・八幡山から、北は遥か竹生島(ちくぶしま)までのパノラマが堪能出来ます。

そして滋賀のアルプス(?)ともいうべき雄大な比良(ひら)山系を正面に望むことが出来ます。

噂では地元のカップルが夜景を楽しむデートスポットにもなっている・・・らしいですよ(*^_^*)

奥の院からの眺望(2)

なお、猪子山を訪れる際にご注意いただきたいことがございます。

登山道は急傾斜の細いヘアピンカーブの連続ですので、クルマで訪れるにはそれなりの運転テクニックが必要です。

また徒歩での訪問なら、それなりの体力を要します(クルマで訪問しましても、中腹の駐車場から頂上までは約300mの階段参道を登らねばなりません)。

また夜間の来訪はシーズンを問わず様々な危険要素を伴いますので、細心の注意を払い自己の責任のもとで訪問してください。くれぐれもご無理をなさいませんように。

最後に豆知識。

因縁浅からぬ鈴鹿山(鈴鹿峠)の近く、甲賀市土山町北土山には坂上田村麻呂を祭神として祀っている田村神社があります。

田村神社

開運厄除・交通安全・家内安全・八方除けにとてもご利益があるとされ、滋賀を始めとして中京圏からも連日多くの参拝者が訪れています。

特に毎年2月17~19日には厄除大祭・田村まつりが催され、開運厄除を願う人々で賑わいます。小生も定期的に参拝しております。

参拝後は、神社と国道1号を隔てた向かい側にある道の駅・あいの土山での休憩をおススメします。特にフードコートで供されるうどんは、お味もなかなかにとてもリーズナブル!あとは1回400円(税別)でやりたい放題(?)の抹茶ソフトクリームにも是非チャレンジしてください(^^)

さて奈良県にある柳生の里には柳生一刀石と称する巨石があります。その容貌がアニメ『鬼滅の刃』で主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)が狭霧山(さぎりやま)での修行で大岩切りという最終課題を与えられたというエヒソードを彷彿させると、現在聖地として多くのファンが訪れています。

善勝寺の鬼の首塚も負けじ劣らじの巨石ですので、ここに刀で切り裂いた痕さえあれば、ひょっとしたら・・・と思うのは小生だけでしょうか(笑)。

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湖國忠犬物語(後篇) “小石丸”の伝説

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さて今回は、人間と古来深い繋がりを持つ犬、それも忠犬と呼ばれる選ばれし犬に纏わるお話の3回シリーズ最終幕をお届け致したく存じます。

先日お届け致しました小白丸のお話ですが、何と実は似て非なるお話・・・すなわち異説が存在するのです。

犬上神社(大瀧神社境内社)

ここは中篇でご紹介致しました小白丸勇戦の地に鎮座まします大瀧神社。その境内社に犬上(いぬかみ)神社があります。御祭神は稲依別王(イナヨリワケノミコ)。滋賀では伊吹山の白猪征伐で有名な、彼の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の第一皇子にあたります。

大瀧神社の縁起によると、その昔稲依別王という若くて強い人物がこの辺りを治めていました。稲依別王は小石丸(こいしまる)という、これまた強くて賢い犬を大事にしていました。狩猟の度に必ず獲物を捕らえることから、小石丸の評判は近隣に知れ渡っていました。

ある時、稲依別王は村人が「川の上流に大蛇が棲みつき、また一人淵の近くで姿を消した」と訴えて、毎日恐怖に慄いていることを耳にしました。そこで早速小石丸を連れて、大蛇退治に出掛けました。

小石丸絵馬

ところが七日七晩も山中を探し回ったが、大蛇はおろか虫けら一匹出てきません。疲れ果てた稲依別王は、川沿いにある松の大木の根もとで眠りこけてしまいました。

するとその夜に限って、小石丸が激しく吠えたてました。稲依別王は何とか小石丸をなだめようとしますが、一向に泣き止もうとしません。立腹した稲依別王は腰の刀を抜くや否や、小石丸の首を刎ねてしまいました。

大蛇ヶ淵(犬上川)

すると小石丸の首は凄まじい勢いで宙を飛び、松の梢に消えました。しばらくして、ヒヒの頭とも思しきお化け大蛇が、淵へと落ちていきました。その喉元には小石丸の首が、しっかりと喰らいついていました。

何と小石丸は大蛇が松の梢から稲依別王を狙っていたことを察知し、主人に窮地を知らせるために吠えたてていたのです。

稲依別王は自身の短慮を恥じ、小石丸に心から詫びました。そして小さな祠を作って、小石丸を祀りました。それが大瀧神社境内社の犬上神社と伝えられています。

犬胴松(犬胴塚)

松の大木の近くには小石丸の胴体を埋め、ねんごろに葬りました。それが現在の犬胴塚と伝えられています。

犬上神社元社(小石丸祠)

そして小石丸の首を埋めたのが、犬胴塚より川の対岸にある現在の犬上神社元社(小石丸祠)と伝えられています。

この悲しくも凄惨な事件の舞台となった地は現在大蛇ヶ淵と呼ばれ、晩秋には紅葉の大変美しい景勝地となっています。かつてはその名に恥じぬ大瀑布でしたが、日本で最初の本格的農業用コンクリートダム・犬上ダムが上流に昭和21(1946)年12月に竣工したため、残念ながら放流時を除き、その激流ぶりを垣間見ることは出来なくなってしまいました。

その後、稲依別王は穀物神として信奉され、近江の地が穀倉地帯として発展していくうえでの拠り所となりました。

・・・と何時もならここでお話は“メデタシメデタシ”となるのですが、実はこのお話にも異説・・・即ち異説の異説が存在するのです。

お話のスジはほぼ同じですのでここでは省略致しますが、小石丸の飼い主が異なります。

『近江與地志略』に因りますと、飼い主の名は犬上君(いぬかみのきみ)。この人物、前述の稲依別王の末裔とされています。

犬上君は古代、現在の彦根市や犬上郡を中心に勢力を誇っていた豪族で、滋賀県下で墳丘の規模第2位を誇り、平成23(2011)年に国の史跡に指定された荒神山古墳(彦根市)の被葬者では?とも言われています。

子孫の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)は小野妹子に次ぐ副使として遣隋使に参加し、後に遣唐使最初の大使も務めています。また御田鍬の子・犬上白麻呂(いぬかみのしろまろ)も遣高句麗使に任ぜられるなど、犬上氏が如何に古代日本に於いて重責を担っていたかが伺い知れます、

犬上君御館址傳説地

さて犬上君は現在の犬上郡豊郷町八目(はちめ)に居を構えていたと伝えられています。

犬上君は根っからの犬好きで、沢山の猟犬を飼っていたそうです。自身の短慮ゆえの結果とはいえ、小石丸を失った悲しみは深く、首を持ち帰り居館近くにねんごろに葬りました。

犬上神社(豊郷町八目)

それが。八目に鎮座まします犬上神社であると伝えられています。犬上神社の御祭神は、こちらも稲依別王。犬上君は特に農政に尽力し、実り豊かで肥沃な土地へと発展していきました。このことからこの地は「稲王(いなきみ)」と呼ばれ、後に「いねかみ」「いぬかみ」と訛って現在の地名になったと言われています(諸説あり)。

3回シリーズでお届けした湖國の忠犬物語ですが、蓋を開けてみれば「全ては繋がっている」という妙な結論となりました。どのお話が本筋なのかは定かではありませんが、ヒトとワンコの絆は古(いにしえ)より愛おしい程に強く結ばれていることだけは事実なようです。

大瀧神社(瀧之宮)/犬上神社・元宮犬胴塚大蛇ヶ淵

 滋賀県犬上郡多賀町大字富之尾1585
【TEL】0749-49-0004

犬上神社

 滋賀県犬上郡豊郷町大字八目41
【TEL】0749-35-8114(豊郷町観光協会)

犬上君御館址傳説地(犬上の君屋敷跡公園)

 滋賀県犬上郡豊郷町大字八目138
【TEL】0749-35-8114(豊郷町観光協会)

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湖國忠犬物語(中篇) “小白丸”の伝説

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さて今回は、人間と古来深い繋がりを持つ犬、それも忠犬と呼ばれる選ばれし犬に纏わるお話の3回シリーズ第2幕をお届け致したく存じます。

舞台は長浜から大きく南下致しまして、湖東エリアは犬上郡多賀町を訪れております。

その昔、この地に小白丸というとても利口な犬を連れた猟師がおりました。

瀧之宮(大瀧神社)

或る時、猟のため山に分け入り、瀧之宮(現在の大瀧神社)の辺りに差し掛かりました。

そして川沿いの岩陰(一説には木陰)で昼食を摂ると、そのままウトウトと寝てしまいました。

しばらくすると突然小白丸が狂気の如く吠え出しました。

小白丸(イメージ)

猟師は驚いて目を覚まし、身を起こして周囲を見回しました。しかし日差しは暖かく川音はのどかで、何ら変わったところはありません。

再び横になろうとしますが、小白丸は途端にけたたましく吠え立てます。

余りのしつこさに憤慨した猟師は、思わず山刀を抜き、何と小白丸の首を刎ねてしまいます。

すると小白丸の首は血煙を曳きながら宙に跳び上がり、猟師の頭上にある木の茂みへ と消えていきました。

大蛇の淵(犬上川)

すぐさま茂みから凄まじい音とともに、1匹の大蛇が現れました。何と小白丸の首は大蛇の喉元にしっかりと喰らいついていました。大蛇は苦しみのた打ち回り、やがて眼下の淵へと落ちていきました。

小白丸は自らの生命を賭して、猟師の危機を救ったのです。

犬胴塚

深い後悔と自責の念に駆られながら、猟師は小白丸の胴体を瀧之社の傍に葬り、目印に松の木を植えました。 やがて目印の松は大木となり犬胴松と呼ばれていましたが、今は枯れてしまい、幹の根元だけが残っています。

因みにこの小白丸。実は前回の記事で紹介した忠犬・目検枷(めたてかい)の子なのだそうです。血は争えないと申しましょうか、忠犬の子は忠犬と申しましょうか・・・最期も同じく壮絶であったというのは、何とも悲しいお話ですね。

大瀧神社(瀧之宮)

 滋賀県犬上郡多賀町大字富之尾1585
【TEL】0749-49-0004

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湖國忠犬物語(前篇) “目検枷”の伝説

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さて未だ先の見えないこのコロナ・パンデミックの渦中、巣ごもりライフ・スタイルの影響からか、現在空前のペットブームが巻き起こっていると聞き及びました。先日久し振りにとあるホームセンターのペットコーナーを覗いてみたのですが、販売価格が軒並み従前の1.5~2倍近くに跳ね上がっており、この感染症不況下に驚きを隠せませんでした。ある意味需給バランス下での健全な市場の反応とも言えるのでしょうが、『生命の価値』とは一体何なのだろうと違和感すら覚えた次第です。

さて今回は、その人間と古来深い繋がりを持つ犬、それも忠犬と呼ばれる選ばれし犬に纏わるお話を3回シリーズでお届け致したく存じます。

忠犬といえば言わずと知れた東京・渋谷駅前のハチ公があまりにも有名なのですが、滋賀にもそれに負けじ劣らじの犬がいたのですよ。

平方天満宮

前回、旧長浜市の豊國神社を訪れました。そこから旧北國街道を南へ約1.7km。琵琶湖に程近く、長浜大佛も仰ぎ見る位置に平方天満宮(ひらかたてんまんぐう)があります。

因みに天満宮の縁起に依れば、かつてここは犬神明神と称していたのですが、江戸時代に加賀國(現在の石川県)・金沢藩主の前田候(どの藩主かは不明)が道中往来の際、藩主の奨めにより菅原道真公を祭神として天満宮と改めたとのこと。どういう経緯でそのようになったのかは定かではありませんが、お殿様の気まぐれ(?)にも困ったものですね。

境内の北側に目を遣りますと、緑色の古めかしい案内板が視界に入ります。

犬塚案内板

犬塚と大きく表記されています。どうやらここが伝説由来の地のようです。

『平方名犬物語』に依ると、その昔、平方天満宮には毎年近隣の村から、1人ずつ娘を人身御供(ひとみごくう/人間を神への生贄とすること)に差し出すという風習がありました。

ある年のこと。村にとても豪気な男がいて、人身御供の輿を神前に置いて、いったい何者がこれを求めるのか見届けてやろうと、近くの大木に身を隠していました。

やがて夜も更け三日月も影を薄くした頃、社殿裏の湖岸が俄かに波立って、しばらくすると得体の知れぬ怪物が出現しました。怪物は暗闇の境内を何やらぶつぶつと言いながら通っていきます。どうやら「平方のメッキに言うな」とつぶやいていたようです。男は「メッキ」というものが、怪物の忌み嫌う対象であることを知ります。

目検枷(イメージ)

男は「平方のメッキ」とは何かを調べたところ、それは野瀬の長者の愛犬のことであることが判明します。愛犬の名は目検枷(メタテカイ)と言いました(文献により目見解とも)。名前の由来は解りませんが、漢字単体で見ると如何にも邪に立ち向かう雰囲気があります。

翌年の人身御供の日に男は長者から目検枷を借り受けると、神殿の陰で怪物を待ち伏せしました。やがて怪物が現れると、男は目検枷とともにものすごい勢いで飛び掛かり、見事怪物を仕留めました。

しかし目検枷も大きな傷を負い、男に看取られて息を引き取りました。この怪物は川獺(かわうそ)だったとも、猿であったとも言います。ともあれ怪物の死体には、激しい闘いを物語るかのように目検枷の鋭い歯の痕が幾つも残されていたそうです。

犬塚(目検枷墓)

この目検枷を葬ったのが、平方天満宮にある犬塚だと伝えられています。なお石柱で垣を巡らし、その中央に置かれた目検枷の墓とされる小さな石に触れ、その手で歯の痛むところを撫でると、その痛みが止まると言われています。たちまち歯医者さんに掛かれない方は、是非ご利益にあやかってみては如何でしょうか(笑)。

平方天満宮

 滋賀県長浜市平方町662

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秀吉と清正とのキズナアイ“虎石”の伝説

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引き続き「滋賀の伝説」を辿る旅にお付き合いください。今回は長浜市の旧長浜市エリアを訪れております。

長浜城

タイトルに“キズナアイ”と表記致しましたが、今回のお話と某バーチャルアイドルとは一切関連はございません。またおもむろに長浜城の写真を掲載致しましたが、今回お城には訪問致しません・・・が、全く関連がないという訳でもございません。さてさて・・・

今回訪れましたのはJR長浜駅東口から北に約200m。

豊國神社
豊國神社

閑静な住宅やビル群の中に豊國神社(ほうこくじんじゃ)があります。

名称から察せられるように、ここは神号『豊国大明神』を下賜された豊臣秀吉を主祭神としています。その他にも秀吉の家臣である加藤清正、木村重成。さらに事代主神(ことしろぬしのかみ、恵比寿神の別称)もお祀りしています。

羽柴(豊臣)秀吉
羽柴(豊臣)秀吉

秀吉が初めて城持ち大名となった地・長浜で崇敬を集めているということは、治世を敷いていた頃より如何に秀吉が庶民に慕われ愛されていたかが窺い知れます。

その豊國神社の境内にある瓢箪池の畔の築山の上に、注連縄があしらわれた大きな花崗岩が1つ、ポツンと鎮座しています。

虎石
虎石

これが今回のお話の題材である虎石(とらいし)です。

時は戦国時代。天正1(1573)年、小谷城の浅井長政を攻め滅ぼした羽柴(豊臣)秀吉は、その功により浅井氏の旧領である北近江三郡(伊香・浅井・坂田)を信長から与えられます。そして当時『今濱(いまはま)』と呼ばれていた地を『長濱(ながはま)』と改め、ここに居城を築きます。

築城の際、秀吉は庭園用に多くの珍しい形の庭石を探させていました。その中でも秀吉が幼少の頃より寵愛し、家臣団の中でも屈指の猛将であった加藤清正が献上した庭石を殊の外気に入り、この石を清正の幼名に因んで、虎之助の石虎の石虎石と呼んで大切にしていたといいます。

長浜御坊大通寺【滋賀県提供】
長浜別院大通寺【滋賀県提供】

秀吉が長濱の地を治めて30年。時代は目まぐるしく変化を遂げます。秀吉は天下統一を成し遂げますが60歳で逝去。その後天下分け目の戦い、関ケ原合戦を経て徳川家康が天下を取ります。

その間長浜城も例外ではなく、秀吉の後、堀秀政、柴田勝豊、山内一豊、内藤信成、内藤信正と城主が変わり、信正が摂津高槻藩へ移封となったのを最後に廃城となりました。当然虎石の存在が追憶の彼方に消えていくのも、想像に難くありません。

ただ彦根城築城の際に廃城となった長浜城から多くの資材が運び出されましたが、虎石だけは秀吉の寵愛が別格であったため、祟りを恐れて敢えて旧城内に残しておいたそうです。

さて湖北の中心道場であった総坊(そうぼう)を前身とし、徳川家康より浄土真宗の総本山・本願寺からの分立を許された後、旧長浜城内から現在の地へ長浜別院大通寺(ながはまべついんだいつうじ)が移転造営されることとなった時のこと。

東宝に望む伊吹山を借景とすることから名付けられた書院の東庭、含山軒庭園(がんざんけんていえん、国指定名勝の枯山水庭園)が築造されることになり、旧長浜城内から虎石も運び出されました。

大通寺含山軒庭園
大通寺含山軒庭園

するとこの石が大通寺の御連枝(ごれんし/貴人の兄弟を指した敬称)である智明院尼の夢枕に三日三晩立ち、「いのう、いのう(「帰りたい」の方言)」と泣き続けたのだとか。調べてみるとこの石は秀吉が寵愛した虎石であることが判明し、不憫に思った智明院尼は再び旧城内へ戻したのだそうです。

めでたし、めでたし・・・と普通はここでお終いなのですが、どうやらこのお話にはウラがあるようなのです。

長浜の船町に、イソップ寓話『羊飼いと狼』に登場するオオカミ少年ばりのお調子者の男がおりました。街中で怒鳴りながら大ぼらを吹いては、人が騒ぐ姿を見て面白がっていました。

或る時何を血迷ったか、この男大通寺にある虎石をもとの場所に戻そうと思いつきます。このことを周囲の者に話しますが、まともに取り合ってもらえる筈もありません。

すると突然逢う人逢う人に、「虎石が大通寺の御連枝様の夢枕に夜な夜な立っては、もとの地に戻りたいと訴えて御連枝様を大層困らせている」と、如何にも当事者の如く連日触れ回ります。

そのお陰か、この話は町中の噂となり、俄かに移転の検討が持ち上がり、とうとうもとの旧城内(豊國神社)へ戻されることが実現した・・・らしいのです。

果たしてどちらの『伝説』が“真説”なのでしょうか。どちらにせよ『伝説』の時点でウソもマコトも無いのでしょうけどね(笑)。

豊國神社

滋賀県長浜市南呉服町6番地37
【TEL】0749-62-4838

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幻の聖き清流“野路の玉川”の伝説

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引き続き草津の旧東海道をそぞろ歩いております。

さて皆さん。六玉川(むたまがわ)というものをご存知でしょうか?

本来“美しい”を意味する接頭語「玉」を川に付したもので、『玉川』は特に清らかな川を示すための称号でした。全国津々浦々に玉川と称する川が存在しましたが、その中でも取り分け六つの玉川が歌枕(和歌に詠み込まれる名所旧跡)にも起用され、高い知名度を誇っておりました。

六玉川は、皆さんご存知の武蔵國・調布(たづくり)の玉川(東京都・現在の多摩川)を始め、陸奥國・野田の玉川(宮城県)、山城國・井手の玉川(京都府)、摂津國・三島の玉川(大阪府)、紀伊國・高野の玉川(和歌山県)。そして滋賀にも野路(のじ)の玉川がその1つに数えられていました。

この六玉川は江戸時代、彼の歌川広重によって『諸國六玉川』として描かれています。因みに野路の玉川はコレです。

諸國六玉川・近江野路(歌川広重)

「東海道沿いにこのような“清らかな川”があったとは!」

ただ草津は都市化著しいエリアですから、流石に往時のまま・・・とはいかないにしても、せめて痕跡だけもと期待と不安を交錯させながら旧東海道を南下しました。

JR南草津駅から南に約1km。もうそろそろ到着しても良い頃だと思いつつも、周囲はマンションと住宅ばかり。旧東海道には間違いないのですが・・・。

不安に駆られ、念のため少し戻ってみました。よ~く目を凝らしながら歩いていると、公園らしき場所に1基の古い石碑を発見!

玉川歌碑

あすも来む 野路の玉川 萩こえて
いろなる波に 月やどりけり
 (千載和歌集)

平安時代後期の貴族・源俊頼が野路の玉川を題材に詠った歌が、玉川の名と共に確かに石碑に刻まれています。

野路は平安から鎌倉期に掛けて東海道の宿駅として栄え、特に源平争乱の折には源頼朝を始め、数多くの武将がここに宿陣しました。

近くを流れる十禅寺川からの伏流水が湧き出で、前出の歌にもあるように辺り一面に萩の花が咲き匂い、別称・萩の玉川とも呼ばれていました。その優美な風情は旅人の格好の憩いの場となり大層賑わったそうです。

この野路の玉川にはこのような伝説が言い伝えられています。

随分と昔のこと。京の御所では例年5月15日には伊勢の五十鈴川の水で小豆粥を作ることが習わしとなっていました。伊勢の神域の水は誠に尊く、不思議と小豆が程よく煮えたそうです。

ところがある年のこと。五十鈴川の水を汲むために使わされた者が京を出立し、勢多の唐橋を渡って野路に差し掛かったところ、玉川の余りにも清らかな水に目を奪われます。

野路玉川古跡(東海道名所図會)

その使者はあろうことか「伊勢まで赴かなくとも、この清らかな水を持ち帰れば事足りるではないか」と考え、玉川の水を五十鈴川の水と偽って御所に献上してしまいます。

案の定小豆は上手く煮えず、使者は厳しい詮議を受けた後、遠流の刑に処せられてしまいます。その使者は「あの玉川の水さえあのように清らかでなければ、このような憂き目に遭わずに済んだものを・・・玉川の水を汚れたものにしてやる」と逆恨みし、以後川の水は濁ってしまったといいます。

関ケ原合戦以降、宿場が草津に本格的に整備されると、次第に野路は寂れ、この名勝も廃れていきました。江戸時代後期に出版された『東海道名所図會』(とうかいどうめいしょずえ)には野路玉川古跡と表記されており、この時点で既に僅かな痕跡しか残っていなかったことが伺えます。

近代に入り玉川自体も消滅し、湧水はどぶ池のようになり、萩も枯れ、前述の歌碑だけが辛うじて往時を偲ぶ唯一の痕跡でした。これもあの使者の怨念が成せる業だったのでしょうか。

その後幾度か地元有志によりこの名勝の保存・復元が画策されますが思うように事は運ばず、人々の記憶から消えていくのも時間の問題でした。

古跡・萩の玉川

しかし野路町内会と有志が、地元の象徴とも言うべき由緒深きこの玉川を消滅させてはならないと立ち上がり、住民の総意でもって昭和51(1976)年11月に親水公園として復元が叶いました。

復元から18年後。公園の規模や池の取水等で問題が発生したため、草津市の協力を得て再整備。平成5(1993)年3月に竣工し、現在に至ります。

飽くまでも人工的に復元されたものですので、かつてのような自然的な清らかさからは程遠いのかも知れませんが、地元の方の地元愛がひしひしと伝わってくる・・・今はそのような場所になっています。

また玉川の名は地元の市立小・中学校、県立高等学校にも起用されており、これからも脈々と受け継がれていくことでしょう。

浄財弁財天(弁天池)

因みに古跡・萩の玉川から更に東海道を南下すること約500m。大きな池に小島が浮かぶ、ちょっとした景勝地があります。

弁天池と呼ばれるこの池は人工的に造られており、恐らく農業用の灌漑池ではないかと推察されます。ただ前出の東海道名所図會にも挿絵に描かれており、少なくとも江戸時代にはその存在が認められています。

小島には浄財弁財天が鎮座され、竹生島の弁天様が祀られています。そう言えば琵琶湖に浮かぶ竹生島に見えなくもありません。

この弁天池にも悲しい恋の物語が伝わっているのですが、それはまた別の機会にご紹介致したいと存じます。

野路町内会

滋賀県草津市野路5丁目8-3
【TEL】077-564-0644

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治部の無念此処に窮まれり“常善寺の松”の伝説

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久方振りに「滋賀の伝説」を辿る旅に戻って参りました。加えて小生には珍しく、湖南エリアの都市部にお邪魔致しております。

草津と言えば、かつては東海道と中山道の分岐点。現在はJR(旧国鉄)東海道線と草津線の分岐点。国道1号や名神高速道路も通る、名実ともに今も昔も変わらず交通の要衝としての役割を担っています。

JR草津駅東口を出て、旧東海道を南西に約800m。草津宿街道交流館の手前の交差点を西に向け約50m歩くと、やや近代的な瓦葺きの土塀が見えてきます。浄土宗滋賀教区教務所です。

その教務所の敷地内に、今回の伝説ゆかりの地である常善寺(じょうぜんじ)があります。

常善寺
常善寺

常善寺は奈良時代の天平7(735)年に奈良・東大寺の開山や大津・石山寺の建立にも尽力したとされる華厳宗の僧・良辨(ろうべん)によって創建されたと伝えられる、旧草津町最古の名刹です。

かつては堂塔伽藍も整い、室町時代には「草津御所」と呼ばれ、幾度か将軍の宿舎ともなりましたが、度重なる兵火や水害で現在の規模となってしまったとか。今は国の重要文化財に指定されている本尊の阿弥陀如来像と両脇侍(観世音・勢至菩薩)の三躰とともに、浄土宗滋賀教区教務所によって管理されています。

さてタイトルに『治部(じぶ)』と表記させて戴きましたが、歴史好きの方ならもうお解りですよね。そう、豊臣秀吉の治世に於ける懐刀にして、関ケ原合戦で西軍の実質的な総指令(総大将は毛利輝元)であった石田“治部少輔(じぶのしょう)”三成のことです。

石田三成
石田三成

徳川家康が治める前の江戸の領主であった太田道灌(おおたどうかん)の子孫である太田家に伝わる絵巻に因ると、次のように記されています。

慶長5(1600)年9月15日に勃発した関ケ原合戦で大勝利を収めた家康は、9月17日に石田三成の居城である佐和山城を総攻撃し、翌日陥落。その後大津城を目指して中山道を南進。9月19日にこの常善寺に宿陣します。

9月21日。敗走していた石田三成捕縛の報を受けた家康は大いに悦び、常善寺の住僧・一秀(いっしゅう)を召し、田畑50石を与えました。一秀の傍らに控えていた太田家の当主にも、草津の地の発展に尽力するよう直々に言い渡されたといいます。

太田家絵巻
太田家絵巻

その後江戸幕府が開かれ、3代将軍・徳川家光の命により太田家は草津宿の関守を代々務めます。そして幕末に酒造業を創業。湖國の代表的な清酒の銘柄の1つ、『道灌』の蔵元である現在の太田酒造へと至ります。

お話しを元に戻しまして・・・伊香郡古橋村(現在の長浜市木之本町古橋)で田中吉政の追捕隊に捕縛された三成は、すぐさま家康の居る大津城へと移送されます。途中一行は休憩のため、常善寺に立ち寄ります。移送任務の兵たちは寺のもてなしを受け寛いでいましたが、三成は境内の松に縛られ、寺僧が与える僅かばかりの水を飲んだだけでした。

縛り縄痕

三成が縛られていたという木には、今でも縛り縄痕と伝えられている痕跡がくっきり残ります。その出来事から420年の歳月が流れ、樹木の成長を考慮すれば有り得ない現象なのですが、これも三成の怨念の成せる業なのでしょうか。

常善寺での満身創痍の三成を、哀惜の眼差しで見つめる1人の若い娘がおりました。その娘は三成の若き日の忘れ形見。程なくして移送の一行は常善寺を出立。父を十万億土の旅へと誘う行列を見送るや否や、たまらず泣き崩れたといいます。

これより10日間、三成は人生で最も辛く、悔恨と汚辱にまみれた死出の旅へと旅立つのです。

10月1日。家康の命により京の六条河原で斬首。三成の豊臣政権を支えるという大望は潰えました。時を同じくして、常善寺で三成が縛られていた松が突然枯れ、葉が黄色くなり全て散ったといいます。

伝・常善寺の松(ムクノキ)
伝・常善寺の松(ムクノキ)

小生が現地へ取材に訪れた際、松の木を一所懸命に探したのですが、どうにも見当たりませんでした。「本当に枯死してしまったのかな?」とも思いましたが、それでもその痕跡や案内板の類すら存在しないのに当惑しました。

堪らず近隣の商店街の方にお話を伺うと、伝説の木は松ではなくムクノキだとご教授戴きました(この時、縛り縄痕のことも教えてくださいました)。

何がどうなって、似ても似つかぬムクノキが松と伝えられたのかは、今となっては知る由もありません。ただこういう歴史的根拠に乏しい伝説や昔話といった類のものは、時代の流れとともにこのようにして消え去っていってしまうのだなぁとつくづく実感しました。

常善寺

滋賀県草津市草津3丁目9番地7
【TEL】077-565-0529(浄土宗滋賀教区教務所)

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