Category Archives: 滋賀の伝説

清盛に寵愛された白拍子姉妹 “妓王・妓女”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

前回に引き続き、平清盛に寵愛された白拍子(しらびょうし)の姉妹、妓王・妓女(ぎおう・ぎじょ)の伝説をお届け致します。今回は彼女たちの出身地である旧野洲町エリアに伝わるエピソードを巡ります。

さて白拍子としての妓王が清盛の寵愛を一身に集めていた頃のこと。

干ばつに苦しんでいる郷里の村人を救うために、妓王が清盛に治水改良を請願しました。

祇王井川(行事神社付近)

承安4(1174)年に竣工した灌漑用水・祇王井川(ぎおういがわ)が現在でも残っています。

工事は困難を極めましたが、野洲川から野田浦(現在の野洲市野田)まで三里(約12km)に渡り水路が整備されました。

これで野洲郡の十か村に及ぶ村人が水不足解消の恩恵に与り、近江國内でも有数の穀倉地帯へと発展を遂げました。このことは今でも妓王の恩沢(おんたく)として語り継がれています。

野洲市三上の野洲川沿いにある新興住宅地。

祇王井川水源地跡

七間場(しちけんば)地区の自治会館敷地内に祇王井川水源地跡の碑があり、竣工当初はここを水源としていたようです。

ちなみにこちらの地名は、かつて“近江太郎”と呼ばれる暴れ川であった野洲川の堤防を護る役目を、一人当たり七間(約12.7274m)割り当てられたことに由来するのだそうです。

史蹟 妓王井川

こちらは野洲市野洲の四ツ家(よつや)地区にある“史蹟 妓王井川”の碑です。現在、妓王井川を示す唯一の道標となっています。

戦後野洲の穀倉地帯は琵琶湖からの引水によるパイプラインで農業用水が供給されるようになり、妓王井川の役割や様相も大きく変化してしまいました。

それでも今に至り、野洲の人々に様々な恩恵を与え続けています。

妓王寺

最後にご紹介するのは、野洲市中北にあります浄土宗・宝池山妓王寺(ぎおうじ)です。

この寺院は妓王井川が整備された翌年の承安5(1175)年。

何れ妓王たちの“終の棲家(ついのすみか)”となるべく、清盛が建立させた宝聚寺(ほうじゅじ)が前身とされています。

また一説には、妓王たちが辿った末路を哀れに思い、また灌漑用水を整備してもらった恩義に報いるため、村人たちによって建立されたとも伝えられています。

江戸時代に大津の膳所藩によって編纂された地誌『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』によりますと、「妓王妓女佛御前刀自の四女墓あり、四女の木像あり」と記述されています。

妓王・妓女・佛御前・刀自 墓

その記述通り、ここ妓王寺には4人の墓が祀られ、4人の木像が安置されています。残念ながら墓石は存在するもののどれが誰のものであるかという特定は出来ない状態にあり、また木像も原則非公開となっています。

妓王寺は代々尼僧によってお守りされてきたのですが、平成16(2004)年に最後のご住職が亡くなられ、後継者も無く以降は地元自治会役員の持ち回りでお世話をされています。

また毎年8月下旬(25日頃)には、妓王井川の恩恵に与ったかつての村々の人々が参集し、現在も法要を営んでおられます。

それにしましても、かつての“恋敵”同士が共に祀られているなど現代では考えられませんよね。

初めて妓王寺の取材に訪れたのは今からもう12年前の平成22年のこと。当時の中北自治会会長・永原一豊さんに無理をお願いして、代理として奥様に立ち合い戴きましたことは今でも鮮明に記憶しております。

その際、こんなエピソードを語っていただきました。

妓王・妓女は“祇王・祇女”とも表記され、京都の祇王寺は後者になっています。どちらが正しいという訳ではなく、当時は文字を読み書き出来る階層が限られており、お話も口伝(くでん)によるところが大きいので、このようなことになったのではと仰っておられました。

妓女・妓王・佛御前・刀自 木像

またニューヨークの大学の女性の先生が、平家物語の研究でわざわざ来訪されたのには流石に驚かれたそうです。

あと妓王寺は京都の祇王寺に比べて知名度に雲泥の差があり、また無住寺ということもあってなかなか観光資源として活かし切れずにいるとか。当時公開されていた大河ドラマ『平清盛』を契機に注目されることをとても期待しておられました。

今回の源平ムーブメントが少しでも追い風となって欲しいですね。

なお妓王寺のある中北集落は、自動車での進入が非常に困難な隘路となっております。また妓王寺の見学には事前予約が必要となりますので、詳しくは下記までお問い合わせください。

祇王井川の流路【参考資料:野洲市観光物産協会】
祇王井川の流路【参考資料:野洲市観光物産協会】

因みに・・・妓王井川の流路、総延長約12kmを巡る旅もまた一興です。但し、健脚に自信のある方に限ります(笑)。当時重機もGPSも無かった時代に人海戦術で整備された土木事業に想いを馳せてみては如何でしょうか。

#妓王 #妓女 #刀自 #佛御前 #白拍子 #鎌倉殿の13人 #妓王寺 #妓王井川 #祇王井川 #平清盛 #平家物語 #近江輿地志略 #祇王井川水源地跡

野洲市観光物産協会 (野洲市役所環境経済部商工観光課)

・滋賀県野洲市小篠原2100番地1
・TEL. 077-587-3710
・受付日/平日のみ
・受付時間/8:30~17:15

妓王寺

・滋賀県野洲市中北90

祇王井川水源地跡

・滋賀県野洲市三上2170−3

【おしまい】

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清盛に寵愛された白拍子姉妹 “妓王・妓女”の伝説(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にかこつけて、引き続き源氏や平家に纏わるお話をお届け致します。今回は野洲市は旧野洲町エリアを訪れておりますが、その前に平清盛に寵愛された白拍子(しらびょうし)の姉妹、妓王・妓女(ぎおう・ぎじょ)の人物像に迫りたいと思います。

ではまず「白拍子とは何か?」からご説明を。

白拍子とは平安時代末期から鎌倉時代に掛けて、“今様(いまよう)“”朗詠(ろうえい)”と呼ばれる歌曲を歌いながら舞を踊る男装の遊女や子どものことを指します。

白拍子(静御前) 葛飾北斎 筆

白拍子で最もメジャーな人物と言えば、やはり源義経の愛妾(あいしょう/お気に入りの妾)・静御前(しずかごぜん)でしょう。

因みによく勘違いされることが多いのですが、静御前は義経の“妻”ではなく、“愛人”でございます。

さて今回のお話の一端を担う平清盛ですが、その母親の素性については諸説あるものの、歴史上“不詳”とされております。

平 清盛

平成24(2012)年に放送された大河ドラマ『平清盛』では、「清盛は白河法皇の御落胤(ごらくいん/父親に認知されない私生子)で、母親は法皇の愛妾であった白拍子(舞子)」という設定となっておりました。清盛と白拍子とは、何かと因縁があるようですね。

では本題に戻りましょう。

京都・奥嵯峨にございます祇王寺(ぎおうじ)の『祇王寺縁起』によりますと、妓王は仁平3(1153)年に野洲郡江部庄(現在の野洲市永原・北・中北地区)で、北面の武士で江部の庄司でもあった橘次郎時長(たちばなじろうときなが)と母・刀自(とじ)の娘として誕生します(一説には“江部九郎時久”が父親とも)。

妓王屋敷跡

野洲市中北には、かつて妓王たち家族が住んでいたとされる屋敷跡が残っています。

その2年後には妹の妓女が生まれます。しかし程なくして妓王4歳・妓女2歳の時、父・時長が保元の乱で戦死してしまいます。

妓王16歳の時、母・刀自は2人の娘を連れて京の都に上ります。白拍子となった彼女は、その美貌と艶やかな舞でたちまち都でも一目置かれる存在となります。

その評判が時の権力者であった平清盛の眼に止まり、妓王は絶大なる寵愛を受けます。またそのお陰もあって、妓女や刀自も何不自由ない暮らしを送ることが出来ました。

それから3年後。佛御前(ほとけごぜん)という若い白拍子が都で評判となります。彼女は清盛の御前で舞を踊ることを望みますが、妓王が寵愛を集めていたため一旦は追い払われます。

しかし妓王の取り計らいにより、清盛の御前に出る機会を得ます。すると清盛は佛御前の舞にすっかり魅了され、何と妓王を直ちに放逐してしまうのです。

妓王21歳の時。

祇王寺(往生院)

時の権力者の余りの仕打ちに妓王は自害を決意し、妹の妓女もそれに同調しますが、母の刀自がこれを思い止まらせ、奥嵯峨にある往生院(おうじょういん/現在の祇王寺)に身を隠し、出家して念仏を唱える日々を送りました。

この事実を知った佛御前は恩義ある妓王の身の上をはかなみ、清盛に無断で自らも出家。同じく往生院に入り、妓王・妓女・刀自とともに余生を過ごしたと言います。

次回の後篇では、妓王・妓女の出身地である旧野洲町エリアに伝わる彼女たちのエピソードを巡ります。

#妓王 #妓女 #刀自 #白拍子 #静御前 #鎌倉殿の13人 #今様 #朗詠 #平清盛 #平家物語 #橘次郎時長 #妓王屋敷跡 #祇王寺 #往生院 #祇王寺縁起 #江部九郎時久

野洲市観光物産協会 (野洲市役所環境経済部商工観光課)

・滋賀県野洲市小篠原2100番地1
・TEL. 077-587-3710
・受付日/平日のみ
・受付時間/8:30~17:15

妓王屋敷跡

・滋賀県野洲市中北90

【後篇へ続く】

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史実は鏡の宿にあり!“源義経元服”の伝説

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三谷幸喜プロデュース・大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やアニメ『平家物語』で俄かに注目を集めている源平の闘争事件を応援するために、今回はこの出来事と因縁浅からぬ源義経の元服についてのお話を致したいと存じます。

さて今回は蒲生郡竜王町を訪れております。

元服(げんぷく)とは今でいう成人式のことです。特に武家では、烏帽子(えぼし/平安期から近代までの和装礼装時に成人男性が着装する帽子)を烏帽子親(元服に於ける後見人で通常は2名で執り行う)から戴冠してもらい、それまでの幼名から元服名に改名するという儀式があります。

源義経

義経は平治元(1159)年、源義朝(みなもとのよしとも)の九男としてこの世に生を受けました。幼名は皆さんご存知、牛若丸です。

しかし翌年、平治の乱の謀反人として父が敗死。まだ乳呑児であった牛若丸は、母の常盤御前(ときわごぜん)が敵将・平清盛に身を任せて助命嘆願したことから、生き延びることが出来ました。

牛若丸11歳の時。継父の一条長成(いちじょうながなり)からの出家の勧めもあり、鞍馬寺に預けられ、名も遮那王(しゃなおう)と改めます。そして自身が源氏の嫡流であることを知ると、独自に剣術の修業に励むようになります。そして承安4(1174)3月3日早暁、16歳の遮那王はついに出家を拒絶し鞍馬寺を出奔。

金売吉次(かねうりきちじ/奥州産出の金を京で商うことを生業としていた商人)と堀頼重(ほりよりしげ/源光重の三男で約1年に渡り自領にて義経を保護)の手助けを受け、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼るべく、一路奥州・平泉を目指します。

京を出て、まずは鏡の宿(かがみのしゅく/現在の蒲生郡竜王町鏡にあった東山道の宿駅)に宿泊します。一行は宿駅の長で長者でもあった澤弥傳(さわやでん)の屋敷&旅籠の「白木屋」に泊まることとなりました。

江戸時代以降は中山道の宿場として指定されず衰退しましたが、当時は遊女も多くとても繁盛していました。

熊坂長範【芳年武者无類】

しかしあろうことかその夜、大盗賊・熊坂長範(くまさかちょうはん)が白木屋に押入ろうとします。これをいち早く察知した遮那王が盗賊たちを追い払い、弥傳から大いに歓待されることとなります(このお話は他にも「美濃青墓宿説(幸若舞『烏帽子折』より)」「美濃赤坂宿説(謡曲『烏帽子折』『熊坂』より)」が存在します)。

白木屋跡

白木屋は戦後まで昔ながらの屋敷が残っていましたが、昭和30(1955)年の台風で倒壊し、現在はその跡に石碑が残るのみです。

さて表で早飛脚の話し声に耳を傾けますと、鞍馬よりの追手か平家の侍たちかが、稚児姿(ちごすがた/寺院で召し使われている子どもの姿)の者を探しているとのこと。このままでは捕まってしまうと考えた遮那王は、烏帽子親の無いまま元服することを決意します。

宿駅の烏帽子屋五郎太夫(えぼしやごろうだゆう)のところで烏帽子を調度し、鏡池の岩清水で前髪を落としました。そして鞍馬の毘沙門天と氏神の八幡菩薩を烏帽子親とし、太刀と脇差をそれに見立てて元服を執り行いました。

ここで遮那王は名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と改め、源氏の武将となり平氏打倒を誓うのです。

松の木に烏帽子を掛けた後、鏡神社に源氏の再興と武運長久を祈願しました。

鏡神社と義経烏帽子掛けの松

その義経烏帽子掛けの松が鏡神社境内の入り口に今も残っています。残念ながらこちらも明治6(1873)年10月3日の台風で折損してしまい、現在は幹株を残すのみです。

翌朝白木屋を出立する際に、義経はあらためて元服した姿を鏡池の水鏡に映します。

そして決意も新たに奥州へと旅立つのでした。

義経元服池

前述の鏡池は現在義経元服池と呼ばれ、道の駅「竜王かがみの里」の正面にあります。裏山の石清水が滲み出して生まれた池で、水道が整備されるまでは近隣住民の生活用水として利用されていました。

国道整備の際に若干の移動を余儀なくされ、昔ながらの面影はやや薄れましたが、今でも水をたたえ神秘的な様相を呈しています。

今回の記事では詳しく触れませんが、この鏡の宿は義経元服の地であり、また義経自らの手で平家にピリオドを打った地でもあります。偶然の出来事だとは思いますが、私がこの事実を知った時「何という因縁だろう」と痛感しました。

最後にこのようなお話で締め括りたいと思います。平成17(2005)年にNHKで、滝沢秀明さん主演の大河ドラマ『義経』が放送されたのですが、何と元服の地を巡ってこんな騒動があったのです。

大河ドラマ『義経』(1)
大河ドラマ『義経』

実は義経元服の地については諸説あるのですが、史実としては平治物語(へいじものがたり/平治の乱の顛末を描いた軍記物語)に記述のある鏡の宿説が最も有力視されています。

しかし作品では全く説の存在しない尾張國・内海庄(うつみしょう/現在の愛知県南セントレア市)を採用したのです。内海庄は義経の父・義朝最期の地であるためストーリーに躍動感を与えたかったというのがNHK側の見解ですが、地元・竜王町は猛反発したそうです。

後に10月16日放送の本編後に義経ゆかりの地を紹介する「義経紀行」で採り上げられることにはなり一段落しましたが、どちらかと言えば平家終焉の地としての解説がメインでした。果たして町民が切望していた内容であったか否かは定かではありません。

今も昔も大河ドラマは地域活性の起爆剤と捉えられていますから、竜王町民が浴びせられた冷や水に対する気持ちは十二分に理解出来ます。史実をとるか、視聴率獲得のための脚色をとるか・・・やっぱり“史実”は曲げちゃあいかんでしょうね。

鏡の宿は現在国道8号が縦断し、頻繁にクルマが行き来しています。当時の面影はほとんど失われてしまいましたが、宿場町であった雰囲気はそこはかとなく残っています。

ご散策の際は道の駅・竜王かがみの里を拠点とされるのが大変便利です。但し交通量が非常に多いので、くれぐれも事故には遭われませんようご注意ください。

ちなみに・・・道の駅・竜王かがみの里では、2010年9月にこんなイメージキャラクターが誕生しました。

近江うし丸

その名も何と『近江うし丸』君です!義経の幼名である“牛若丸”と滋賀の名産“近江牛”をコラボレートしたそうです。

鏡の里元服式(1)
鏡の里元服式

なお例年のこの時期、竜王町鏡の鏡神社並びに道の駅「竜王かがみの里」にて、古式ゆかしき中世の成人式を再現した鏡の里元服式が開催されています。

今年は3月19日に開催の予定でしたが、コロナ禍の影響で残念ながら中止となりました。来年こそは再開して貰いたいですね。

なおこの行事は事前予約制ですが、一般の方も参加可能です。イベントの詳細は下記の竜王町観光協会へのリンクで確認が出来ますので、興味のある方は次回開催に向けて是非御覧ください。

さて今回の大河ドラマの菅田将暉さん版『義経』。どのような活躍を見せてくれるのか楽しみですね。

#平家物語 #源義経 #牛若丸 #鎌倉殿の13人 #金売吉次 #堀頼重 #澤弥傳 #熊坂長範 #白木屋 #元服 #義経烏帽子掛けの松 #鏡神社 #義経元服池 #鏡の宿 #近江うし丸 #鏡の里元服式

鏡神社

・滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289
【TEL】 0748-58-0959

竜王町観光協会

・滋賀県蒲生郡竜王町小口3
【TEL】 0748-58-3715

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白水池の悲恋物語“御澤神社と龍王寺”の伝説(後篇)

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引き続き、白水池の悲恋物語“御澤神社と龍王寺”の伝説をお届け致します。

さて今回は蒲生郡の竜王町エリアを訪れております。

東近江市と近江八幡市、そして蒲生郡竜王町の境界にそびえ位置し、国指定史跡・雪野山古墳で古代ファンにも馴染み深い雪野山(別称・龍王山)。その南西の麓に雪野山 龍王寺(ゆきのさん りゅうおうじ)という天台宗の寺院があります。

雪野山 龍王寺

川守集落から北東へ約600m。日野川の野路橋を渡ったところにひっそりと佇んでいます。

龍王寺と言えば、旧暦8月15日(中秋)に行われる天台宗の秘法・喘息病封じ“へちま加持祈祷”が余りにも有名です。小生も幼少の頃小児喘息に罹患していて、両親に毎年この行事へ連れてこられました。

参道の両脇に多くの露店が並ぶ大きなイベントではありましたが、当時前述の野路橋は人の往来がやっとの幅の、欄干も手摺も無い簡易の渡り板で作られており、これを渡るのが恐怖以外の何物でもなかったという辛い想い出があります(苦笑)。

龍神池

奈良時代前期の和同3(710)年。元明天皇(第43代にして史上5人目の女性天皇/661~721)の勅令で行基により雪野寺(通称:野寺)として開山され、昨年創建1300年を迎えたとても歴史のある寺院です。

境内には苔むした趣のある庭園の中心に、龍神池と称する池があります。この池は御澤神社の白水池と水脈が繋がっていると伝えられており、互いに白濁した水を湛えていることがその証であるとされています。

さて、恋慕の情に堪えられぬ小野時兼のその後や如何に・・・

龍王寺 鐘楼

三和姫のことを片時も忘れられない時兼は、雪野山の坂(通称:女坂)を越え平木の御沢池に出向きます。しかしそこで出逢ったのは、白い大蛇に化身した三和姫でした。余りの怖ろしさに時兼は、九十九夜目に玉手箱を開けてしまいます。

すると中から龍の姿が刻まれた釣鐘が出現しました。後に時兼はこの釣鐘を寄進し、それが現在も龍王寺に安置されている梵鐘 野寺の鐘であると伝えられています。それ以降、御沢池で大蛇を見掛けなくなったとも言われています。

梵鐘 野寺の鐘

さてこの『白水池の悲恋物語』には、こんな異説が伝わっています。

登場人物は同じなのですが、舞台は平安時代後期。三和姫は実は平重盛(平清盛の長男)の忘れ形見で、藤原頼長(旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだ公卿で保元の乱にて敗死)の奸計に陥れられ、無実の罪で福原の都を逃走し流浪の旅に。その後この地で時兼に出逢ったとされています。

ところが時兼は御沢の蘆摩津池(あしまつち)という守護男神の大蛇に魅せられていたので、三和姫も蘆摩千地(あしまちち)という守護女神の大蛇に憑りつかれ、二人とも池の底に引き摺り込まれてしまいます。

何とか世のため人のために尽くしたいと思った三和姫は八大龍王に祈願したところ、天上して龍王に会合します。すると龍王から「お前は大蛇となってしまったのは気の毒なことだが、蘆摩津池はこの沢に永く棲んでいる。以前百済の使節がもたらした龍の甕という鐘には、蘆摩津池の生血が鋳込まれている。お前に御沢の池を与えよう」と言われます。その由縁で三和姫の化粧が水を白くさせているのだと伝えられているとか。

そしてその鐘の下に女性が入ると、立ちどころに吸い込まれてしまうのだそうです。

どちらが信憑性の高いお話なのかは定かではありませんが、このエリア一帯を巻き込んだトゥルー・ラブ・ストーリーであることは間違いないようです。

因みに・・・竜王町綾戸に鎮座御座します、近郷三十三村に渡り氏子を有する国宝・苗村(なむら)神社。その宮司さんの姓は何と小野さん。つまり前述の小野時兼の末裔であると伝えられています。

#龍王寺 #へちま加持祈祷 #龍神池 #野寺の鐘 #八大龍王 #蘆摩津池 #蘆摩千地 #小野時兼 #三和姫 #苗村神社

雪野山 龍王寺

・滋賀県蒲生郡竜王町川守41
【TEL】 0748-57-1380

苗村神社

・滋賀県蒲生郡竜王町綾戸467
【TEL】 0748-57-0160

【おしまい】

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白水池の悲恋物語“御澤神社と龍王寺”の伝説(前篇)

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昨年秋頃に終息の糸口が見えつつあった新型コロナウイルス感染症ですが、重症化率の高いデルタ株から感染力の極めて強いオミクロン株にスイッチし、再び市井は混沌の様相を深めています。現時点に於いて幸いにも陽性の憂き目に遭ってはおりませんが、周辺環境の影響で小生も少なからず日常生活に支障を来しつつあります。

さてはて、世界も去ることなら、日本の未来もどうなることやら・・・。

さて今回は東近江市の旧八日市市エリアを訪れております。

東近江市と近江八幡市の境界にそびえ、織田信長の重臣・柴田勝家の『瓶割り柴田』の逸話でも知られる長光寺山。その南東の麓に御澤神社(おさわじんじゃ)が鎮座御座します。

御澤神社 参道

幹線道路や集落からは些か離れているので訪れにくいのですが、田園地帯に突如として立派で広大な境内が目に飛び込んできます。

主祭神は天照大神(アマテラスオオミカミ)が素戔嗚尊(スサノオノミコト)の剣を噛んで吹き出した霧から生まれた三女神の三女・市杵嶋媛命(イチキシマヒメノミコト)。 神仏習合に於いては弁財天、即ち七福神の1柱である弁天さんと呼ぶ方が馴染みがあるかも知れません。

地元では“お沢さん”と呼ばれて親しまれ、平日でも参拝者が絶えることはありません。

今から約1,450年前の飛鳥時代。推古天皇(第33代にして日本史上最初の女性天皇/554~628)の御代のこと。農事政策を奨励していた厩戸王(伝・聖徳太子)が蘇我馬子に命じてこの辺り一帯の荒蕪地を開墾しました。その際、併せて日用の水源として清水池・白水池・泥水池の3つの溜池を造成し、そこに神社を祀ったのが創祀であると伝わります。

御澤神社 本殿

清水池は澄み切り、白水池は白水を湛え、泥水池は渇水を満して湧出しており、この水は不増不減にして如何なる旱魃の時でも枯れることなく、近郷近在の田園地帯を潤して今日に至ります(なお現在泥水池は白水池と集合してしまい原形を留めていません)。

それ故、水不足の折には遠近各地から雨乞祈願に訪れる人々が多いとか。

因みにここの本殿は一際目立つ朱塗りの建物。こちらでは神職さんによる御祈祷・・・というよりも“お伺いを立てる”ことが出来る・・・と聞いております。奉拝当日も本殿の奥では一際神妙な空気感がございました。

また占術業界の方々からも一目置かれる『龍神様が御座すパワースポット』のようです。

御澤の神鏡水

3つの池を擁し、市杵嶋媛命・龍神と『水に纏わる神様』をお祀りするだけあって、実は名水のスポットでもあります。

本殿の前には御澤の神鏡水と呼ばれる湧水があり、ひっきりなしに多くの人々が御神水を求め訪れます。近在の人々はもとより、京阪神や遠くは九州からもいらっしゃると言うから驚きです。然し・・・皆さんペットボトル(質)だけではなく、ポリタンク(量)なんですね~。

この湧水は白水池と水源を同じくするとされているのですが、神鏡水は白濁せず透き通っているのが不思議なところ。

御神水は特に女性にご利益があると言われており、病気平癒、縁結び、安産、諸願成就が期待出来るとか。道理で男の小生には特に・・・(笑)。

白水池

さて御澤神社の境内にある白水池には、哀しい恋の物語が伝わっています。

奈良時代後期の宝亀8(777)年、光仁天皇(第49代天皇にして平安京遷都を行った桓武天皇の父)の御代のこと。

川守村(現・蒲生郡竜王町川守)に小野時兼(おのときかね)という大和国吉野郡出身の美男がおりました。時兼の優れた風貌は、その名声が他国にまで及んでいたと言います。因みに武蔵國多摩郡(現・東京都八王子市)に同姓同名の鎌倉時代前期の武将がおりましたが、別人ですので悪しからず。

ある日のこと。村にある雪野寺(現在の龍王寺の前身)を通り掛かった絶世の美女、三和(みわ)に出逢います。時兼と三和姫は親しく語らううちに、夫婦の契りを結んでしまいます。

出逢いから3年が過ぎた頃、三和姫は突然別れ話を持ち出しました。「私は本当は人間ではありません。前世では人として生まれ、妹背の語らい(いもせの語らい/夫婦関係のこと)をなしましたが、その時の宿因により再び人の姿で現れました。でも今日で貴男と別れせねばなりません」と。

時兼は嘆き悲しみますが、三和姫は別れ際に玉手箱を渡し、「実は私は平木の御沢の主です。これを形見としてください。但し百日百夜、決してこの箱を開けないでください。御沢に来たら私の本当の姿をお見せします」と言い残して去っていきました。

恋慕の情に堪えられぬ時兼のその後や如何に・・・続きは後篇にて。

#御澤神社 #お沢さん #御澤の神鏡水 #市杵嶋媛命 #龍神 #厩戸王 #白水池 #小野時兼 #三和姫

御澤神社

・滋賀県東近江市上平木町1319-1
【TEL】 0748-23-4640

【後篇へ続く】

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『鎌倉殿の13人』時代のワンフォアオール“比夜叉御前”の伝説

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今冬の滋賀、特に北部・西部は本当に近年稀に見る大雪に悩まされています。自宅周辺では最高積雪が1mを越え、それらが大地に還る前に次の寒気が次々と訪れるため、生活全般疲弊の嵐です。ですが小生は仕事で南部に出向くため、その労苦が職場の人間になかなか理解されないのが頭痛のタネ。いい加減リモートで仕事をさせてもらえたらとつくづく思う今日此頃です。

さて今回は米原市は旧山東町エリアを訪れています。

下の写真の如何にもワカサギ釣りが出来そうに水面の凍った池をご存知でしょうか。そう、 旧山東町にある池と言えば・・・

さて今回のお話の舞台となるこの池の名前は・・・?

正解は三島池(みしまいけ)です(因みに薄氷ですので、くれぐれも池には足を踏み入れられませんように!)。

ここで本題に入る前に、お話の舞台となりますこの池に関する豆知識を少々。三島池は米原市池下にあり、別名“比夜叉池(ひやしゃいけ)”とも呼ばれます。

周囲は約910m。 面積37,603㎡、水深は80cm(雨季は120cm)で、南北に長い楕円形をしています。

また農林水産省が全国に存在する約21万ヶ所のため池から、平成22(2010)年3月11日に選定したため池百選の1つに選ばれました。

さらに文化庁が認定した日本遺産にも、 平成27(2015)年4月24日に『琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産』の一部(伊吹山西麓地域)として登録されています。

今から約880年前の平安時代末期。時の領主であった佐々木秀義(ささきひでよし/源頼朝挙兵に尽力した近江源氏の祖)によって、姉川の伏流水を利用して灌漑用貯水池、つまり農業用水確保のために人工的に造成された池と言われています。

池の周囲には桜・柳・紅葉などが植樹され、霊峰・伊吹山を背景とする景勝地として(特に写真愛好家の中では)全国的にも有名なスポットです。

三島池の水鳥

また水質は清冷で多くの生物が生息し、マガモ・カイツブリ・バン・オシドリ・オナガガモ・ホシハジロ・キンクロハジロ・ミコアイサ・サギといった多くの水鳥や野鳥が飛来します。

特に地元中学校の科学クラブによる2年間の観察の結果、「マガモ自然繁殖の南限地」であることが判明し、昭和34(1959)年には滋賀県の天然記念物に指定され、この地の存在は学術的にも高く評価されています。

ではここからが本題です。

その年は例年になく日照りが続き、農業に欠かせない池の水が涸れてしまいました。領主の佐々木秀義は、池に水の無いことを心配して祈祷師に占ってもらいました。すると「1人の女を池の中に沈めて水神に祈れば、水が絶えることは無くなるであろう」とのお告げが出ます。

早速秀義は人柱となる女を領内から募りますが、喜んで申し出る者など誰一人としてありはしません。沢山恩賞を出すとも触れましたが、反応は皆無でした。

むしろ領民に中では「誰が人柱になるのか?」という疑心暗鬼と不安が錯綜するばかり・・・。

三島神社から望む夏の三島池【滋賀県提供】

ある日のこと。

秀義の乳母である比夜叉御前(ひやしゃごぜん)が機(はた)織りをしている時、偶然外で村人がこの人柱の話をしているのを聞いてしまいます。

そして、その日の夜。比夜叉御前は織った機を抱えたまま池の畔に向かい、人知れず僅かに水の残る池に身を投じました。

翌朝、池は溢れんばかりの水を湛えていました。歓喜に沸く村人たちとは対照的に、事の真相を知った秀義はとても嘆き悲しみ、比夜叉御前をこの池の水神として祀りました。

それ以来、この池の水は如何に酷い干ばつに襲われても、水が涸れることは無いそうです。また雨の降る夜には池の底から機織りの音が聞こえてくると言います。

三島神社

池の西岸に鎮座する三島神社の鳥居横に、ひっそりと石塔が建立されています。

因みにこの神社は、寿永3(1184)年に先述の秀義が伊豆國(現在の静岡県)の三嶋大社の主祭神・ 三嶋大明神をこの地に勧請したことが創祀とされています。

秀義が源頼朝に仕えていた頃、常日頃から三嶋大明神を信仰し、源氏の繁栄を願って100日間三嶋神社に籠りました。結願(けちがん)は成就し、秀義は自身の領するこの地に三嶋大明神を勧請。佐々木氏の氏神としたと伝えられています。

比夜叉女墓

これが比夜叉女墓(ひやしゃひめはか)であると伝えられています。

なお現在の姿は地元有志によって整備されたもので、昭和61(1986)年には供養塔が建立されています。

比夜叉御前の墓には松が植えられ、それが機織松(“はたおりまつ”または比夜叉松)と呼ばれ現在でも大切に守られています。

機織松

比夜叉御前にまつわるこんな古い歌が今でも残っています。

名にも似ず 心やさしき たをやめの
誓も深く みつる池水

夜叉(鬼神)という名前に似ても似つかぬ心やさしい女のお陰で、お告げの通りこれまで池の水は涸れずに満ちている。

比夜叉御前が護った池は、現在水鳥たちの楽園と人々の憩いの場になっています。

加えて、ナゼだか野良猫たちの穴場にもなっていますが・・・

ノラの日向ぼっこ

水鳥さんたちとケンカにならないことを願います(^^)

今回の記事編集に写真をご提供いただきました滋賀県庁広報課様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

#比夜叉御前 #比夜叉姫 #鎌倉殿の13人 #ワンフォアオール #三島池  #三島神社 #機織松 #三嶋大明神  #ため池百選  #日本遺産

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近江源氏と大蛇の因縁“渡合淵”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、近江源氏と大蛇の因縁“渡合淵”の伝説をお届け致します。

敦実親王によって渡合橋に棲まう大蛇が征討され、平和がもたらされた奥津島地区。しかし物語はこれで終わりではなかったのです・・・。

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渡合淵(長命寺川)

あれから約350年後の鎌倉時代中期。亀山天皇(第90代天皇・1249~1305)の御代の頃のこと。

文永7(1271)年7月。再びこの渡合淵(わたらいふち)に大蛇が出現し、夜毎人畜に甚大な被害を与えているという知らせが寄せられました。

当時鎌倉幕府の御家人にして近江國守護であった佐々木頼綱(ささきよりつな・1242~1311/近江源氏庶流佐々木氏本家六角氏2代当主・六角頼綱とも呼ばれる)は、この報を受け早速征討に向かいますが、神出鬼没にして変幻自在に姿形を変え、討伐は困難を窮めました。

沙沙貴神社

そこで頼綱は佐々木氏の氏神にして近江源氏の始祖を祀る沙沙貴神社(近江八幡市)に参詣し、この大蛇についてお伺いを立てました。

するとこの大蛇は、かつて日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が退治した伊吹山の荒神・白猪の怨念の化身であるとのお告げを賜ったのです。

早速頼綱は家伝の征矢(そや/戦場で使う矢)を用い、再び征討に赴きます。そして見事大蛇を討ち果たしました。

退治された大蛇の魂も祀られることになったのですが、今回は渡合橋の袂にある百々神社ではありませんでした。では、いったい何処に???

日吉神社(井口大明神)

渡合橋から北北東へ移動すること約50km。長浜市は旧高月町エリアに参りました。こちらの井口(いのくち)集落に日吉神社が鎮座御座します。

こちらの創祀に纏わる伝承に依れば、『文永七年七月近江国蒲生郡渡江淵に大蛇現れ夜毎人蓄を害する事甚だしく、国主佐佐木頼綱これを聞き、その害を除かんとしたが、大蛇変幻出没常にその姿を変じて計り難く、東条経方と共にその大蛇を家伝の征矢にて射殺し、其の霊を国中の井がしらに祀らせた伝承あり、これを当社井口大明神と号せしむ』とあります。

つまりこの地を始めとして、全国の井頭・井口の名で大蛇は祀られたというのです。またこちらはかつて井口大明神の総本社として、水神信仰の崇敬を集めたとも言われています。

でも何故ここに祀られたのでしょうか?ポイントは前述の伝承内にある東条経方(とうじょうつねかた) という人物の記述にあります。

この人物は近江源氏佐々木氏の流れを汲む武将で、この辺りの領主でした。今回の頼綱の討伐軍に従軍し、手柄を上げています。後に頼綱の命により近江國の旱魃(かんばつ/長期間の水不足のこと)対策に貢献し、これを契機として井口姓を名乗ります。子孫は高時川水系の井堰(いせき/川の水をせき止める場所)を統括管理し、戦国時代に湖北地方を領した浅井氏に於いて、湖北四家と呼ばれた重臣団の1つに列しました。つまり水利にノウハウの高い家柄であったことが窺えます。

飽くまでも推論ではありますが、経方は自身の領地にも程近い伊吹山に所縁を持つこの大蛇の魂を、水利を司る神として引き受けたのではないかと思われます。

因みにここを日吉神社と称するのは、中世ここが比叡山延暦寺の所領である荘園(冨永荘)で、延暦寺の守護神である坂本の日吉大社後分霊を奉祀していたことに由来するとされています。

さて井口大明神は何処に?

井ノ神社

日吉神社境内、本殿の東隣に井ノ神社が鎮座御座します。 現在井口大明神は、日吉神社の境内社として祀られています。

かつて高時川流域の村々には「餅の井の懸越し(かけごし)」という水利の取り決めがありました。通常上流に位置する集落ほど川上に井堰を設けるのが厳然たる慣行でした。しかし浅井氏2代の久政が自身の権力基盤強化のために、下流の集落に川上の井堰の権利を認めるという前代未聞の取り決めを、井口氏に突き付けました。

この難題に井口氏は「餅の井落とし」という旱魃時にはこの条件取り決めをフリーとし、下流に無条件で水を流すという交換条件でもって承諾。加えて浅井氏との関係をさらに強固にすることでこの難局を乗り越えました。

以降この井落としを決行する際は、下流の各井堰の役員が井頭である井口集落において会合し、井落としの決行を決
議。そして作業を執り行う農民達は各井堰役員の統率のもと井ノ神社に参拝。その後服装を整え隊伍を組んで井落としに臨みました。

滋賀県が井口付近の全6井堰を統合する合同井堰建設事業の第一弾として、コンクリート構造の合同井堰が1942(昭和 17)年に完成したことにより、永年受け継がれてきた旧6井堰中4井堰が撤去。水利権をめぐる慣習の大部分が改革されるとともに、井堰間の水利紛争も飛躍的に改善されました。

これによりこの井落としの慣習はも、実質的に終止符を打つこととなりました。

渡合淵で猛威を振るった伊吹の荒ぶる神の怨念は、湖北の水利の護り神となって、約700年に渡りこの地に君臨しました。

同じ場所で同じような災厄が何度も繰り返されるのは実に珍しく、何故渡合淵がそのような地縁であったのか。今となっては知る由もありませんが、それでも共に鎮護の礎となったのは幸いです。

【参考文献】 江姫の故郷・高時川に学ぶ先人達の水利用~水への感謝と自然への畏れ~(独立行政法人水資源機構 丹生ダム建設所 編)

#渡合橋 #渡合淵 #佐々木頼綱 #沙沙貴神社 #近江源氏 #日本武尊 #日吉神社 #井ノ神社 #井口大明神 #大蛇 #餅の井の懸越し #餅の井落とし

沙沙貴神社

・滋賀県近江八幡市安土町常楽寺1
【TEL】0748-46-3564

日吉神社井ノ神社

・滋賀県長浜市高月町井口122
【TEL】0749-85-4351

【おしまい】

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近江源氏と大蛇の因縁“渡合淵”の伝説(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

性懲りもなく、また近江八幡市に舞い戻って参りました。以降当面訪れる予定はございませんので、何卒ご容赦を(笑)。

極端な解釈ですが・・・恐らく滋賀の大半のドライバーなら、或いはビワイチした人なら一度は通ったことがあるであろう場所に纏わるお話です。

近江八幡市の八幡(鶴翼)山系の北端、島町と北津田町の境界辺り。ここに琵琶湖と西の湖を結ぶ長命寺川が流れています。

渡合淵(長命寺川)

以前は今より半分の川幅で、かつて八幡山北麓に拡がっていた津田内湖の東部に注いでいましたが、周辺内湖の干拓事業のために放水路として活用するため、現在の姿となりました。

川と申しましても流れは緩慢で、時折航行する観光船やバスボート、または滋賀県立八幡商業高等学校ボート部の競技用ボートがさざ波を立てるのみで、至って静かな水面を呈しています。

しかしこの場所。一昔前は渡合淵(わたらいふち)と呼ばれ、それはそれは周辺の人々から大変怖れられていた難所だったのです。

渡合橋(渡合堰)

湖岸道路と県道26号(大津守山近江八幡線/通称:浜街道)が交差する地点に、長命寺川の水門(渡合堰)と一体となった渡合橋(わたらいばし)があります。

もともとの橋は約50m西側に架橋されていましたが、昭和38(1963)年に大中之湖地区国営琵琶湖干拓建設事業により、西の湖の水位を保持して周辺の広大な農地に供給する用水の確保を行う目的で水門が設置され、その管理橋も兼ねて現在の場所に架け替えられました。

平成6(1994)年には水門橋がリニューアルされ、今に至ります。

平安時代中期、宇多天皇(第15代天皇・867~931)の御代の頃のこと。当時長命寺山に連なる姨綺耶山系(いきやさんけい)周辺は奥津島と呼ばれる島で、渡合橋は舟を使わずに内地と連絡する唯一の手段でした。

しかしこの橋の下には一匹の大蛇が棲み、悪事を働いては往来する人々を悩まし、周辺の村人も大変困っていました。

ある日のこと。この橋の近くに住む一人暮らしの老人のあばら家に、一人の高貴な人物が立ち寄りました。その者の名は敦実親王(あつみしんのう・893~967 )。敦実親王は宇多天皇の第8皇子で、近江源氏の祖。早世の多かった宇多天皇の皇子の中で唯一長命を保ち、常に坂家宝剣(ばんけのほうけん/天皇家に相伝される朝廷守護の宝剣)を帯剣し、また和歌・管弦・音曲・蹴鞠にも通じ、内外から重んじられた才人でした。

皇子はこの老人から大蛇の退治を懇願されました。これを聞き入れ、当時小脇郷(おわきごう/現・東近江市旧八日市エリア)で勢力を誇っていた渡来人・狛の長者(こまのちょうじゃ)とともに佐佐木大明神(沙沙貴神社)に願を掛け、渡合の大蛇退治に挑み見事討ち果たします。

百々神社

その後、村人たちは大蛇の魂を橋の袂に祀り、百々神社(ももじんじゃ/通称:道祖さん)と命名しました。以来百々神社は風邪や喘息の全快などにご利益があるとされています。またこの神社の名を紙に書いて貼っておくと蛇除けになるとも言われ、今でも大切に祀られています。但し、百々神社の前を死人が通ると祟りが起きるとも言われています。

因みに当初は百々を『どど』と呼んでいました。しかし戦国時代に織田信長が安土城を築城した際、家臣たちの通用口として、また山中に建立された摠見寺の参道として設けられた城門(百々橋口)の前に百々橋(どどばし)が架橋されることを知るや否や、時の権力者に忖度して『もも』に改称。以降織豊政権崩壊後も、元に戻されることは無かったそうです。

現在は対岸にある大嶋神社奥津嶋神社(おおしまじんじゃ・おきつしまじんじゃ)の境内社となり、奥津島地区の守護神として人々を見守っています。

めでたしめでたし・・・と言いたいところですが、この物語はこれで終わりではなかったのです・・・

【参考文献】 水辺の記憶-近江八幡市・島学区の民俗誌-(近江八幡市市史編纂室 編)

#渡合橋 #渡合淵 #敦実親王 #宇多天皇  #近江源氏 #狛の長者 #大蛇 #百々神社 #長命寺川

百々神社

・滋賀県近江八幡市北津田町2

【後篇へ続く】

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風来・・・坊さんとの不思議な御縁“まめ大師尊”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

ようやく(笑)近江八幡市を離れ、今回は彦根市をぶらぶら訪れております。

さて皆さん、大師(だいし)という言葉をご存知ですか?大師とは中国や日本に於いて高徳な僧に朝廷から勅賜の形式で贈られる尊称の一種です。

これまで日本では10宗派の高僧25人に大師の称号が朝廷より与えられました。でも一般的に「お大師さん」と言えば弘法大師、即ち真言宗の開祖・空海が圧倒的な知名度を誇っています。何せ『大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる』などという格言が残っている位ですからね(笑)。

弘法大師は庶民からの信奉が厚かったこともあり、全国各地にミラクルなエピソードが伝えられています。滋賀も勿論例に漏れず、拙ブログでもご紹介致しております。

中山道屈指の霊験と絶景“磨針峠”の伝説 

天空の里山紀行(5) “河内下村集落”

今回そんなお大師さんの新たなエピソードを発掘して参りました。

高野山真言宗 弘法大師堂

彦根城の城下町西方。現在は住宅街ですが、かつて足軽屋敷が軒を並べていた場所に高野山真言宗 弘法大師堂があります。

県道2号(大津能登川長浜線)沿いには「まめ大師」と大きく書かれた矢印看板が設置されており、以前から気にはなっておりました。今回秘仏御開帳の情報を得ましたので、これを機会に奉拝することと致しました。

県道から繋がる参道は周辺の生活道路も兼ねており、道幅も駐車場も決して広くはないので、可能ならば軽自動車や小型車で訪れることをお勧め致します。弘法大師堂は庫裏と一体となった、こじんまりとした寺院というのが印象です。

近江新四国八十八第十番札所となっていますが、詳細は不明。江戸時代から明治時代に掛けて、四国八十八箇所霊場に代表されるように、庶民の間で巡礼ブーム巻き起こりましたので、その一種かと推察致します。

弘法大師堂 水掛不動明王

山門を潜り抜けて直ぐ左手に、水掛不動明王が祀られています。

水掛不動さんと言えば大阪の法善寺横丁に御座す、苔でモッフモフの水掛不動尊(西向不動明王)が有名ですね。因みに本来は「水を掛ける」ではなく「水を手向ける」、即ち“お供えする”という意味ですので、くれぐれもお間違いのございませんように。

弘法大師堂 地蔵菩薩

関西在住の私たちにとって「お地蔵さん」のある光景は、至極日常的なこと。でも子供たちのイベントとして地蔵盆が行われたり、生活に密着して「お地蔵さん」が祀られていたりするのは、関西以外の方々にとっては奇異に映るのだそうですね。

関東甲信越の方々ならばむしろ、「道祖神さん」が私たちにとっての「お地蔵さん」に近い存在なのかも知れません。但しいくらお地蔵さんが子供たちに寄り添った存在とは言え、決して地蔵盆を「日本版ハロウィン」などと誤った解釈や説明をなされぬようお願い致します。

さて、いよいよ本堂にお邪魔致します。

弘法大師堂 本尊・弘法大師坐像

弘法大師堂と銘打つに、正面に「お大師さん」が堂々と鎮座御座します。

これまで幾つかの真言宗の寺院を訪ねて参りましたが、宗派の開祖が御本尊として祀られているのは初めて遭遇しました。それだけ民衆に慕われていた証拠なのやも知れません。

それではようやく、今回御開帳となる秘仏・まめ大師尊のご縁起をお話し致します。

その昔、この寺院に少し風変わりな風体の僧侶が「宿を貸して欲しい」と言って突然訪れました。住職も「何とも変わったお方がお見えになられたものだな」と思いつつも、お迎えすることとします。程なくして何とも言えぬ有難いお声で読経され、その後「私は土佐國(現・高知県)からやってきた来ました。大阪に帰依してくれる方が居るので、正月の二日にはそこに行かねばならなりません」と仰るのです。

住職が「留守中、土佐のお寺はどうなさっているのですか」と尋ねると、「私の留守中は村の青年たちが番をしてくれているので少しも心配ない。私の寺には裏に細い滝があり、しばしば屋根の上に五色の雲がたなびいているので、お遍路さんが『あそこには何かご利益が有りそうだ』と言って、時折立ち寄っては拝んでいかれるのです」と申され、それから何と1週間も逗留されました。

その逗留中のこと。僧侶は信徒さんからの供物であった豆と米を「ちょっとおくれ」と言って奥の座敷に持っていかれました。住職が「何をなさるのだろう」と不思議に思っていると、旅立たれる前日、「この豆粒と米粒には、ここにお参りに来られる信心の方が、まめで達者で幸せに暮らせるようにとの秘法祈願を込めて書かせてもらったから」と、大豆に弘法大師様、観音菩薩様、地蔵菩薩様、不動明王様、稲荷神様の御影、いろは四十七文字。また米粒には弘法大師様、大黒様の御影、阿弥陀如来様の御名号(南無阿弥陀佛)が描かれた9つの大豆と米を渡されました。

他にも、この僧侶が雨の日に外出しても全く濡れずに帰って来たり、お見送りをすると何時の間にか御姿が見えなくなることがあったりと、実に不可思議なことが多々起きたそうです。そして約束の正月の二日になると、すうっと消えるように旅立たれてしまったのです。

知らぬ間に姿を消されたことを大層残念に思った住職は、後日四国遍路の巡礼に赴く方に、「土佐まで行ったら、裏に細い滝のあるお寺を探して、代りに御礼を述べて欲しい」と依頼しました。程なくしてお寺は捜し当てられましたが、誰もいる様子がありません。近在の住人に尋ねると、村の青年たちが持ち回りで番、掃除などをして世話をしているだけだとのこと。ただあるのは、 弘法様が祀られているだけ。「あの僧侶はここの弘法様だったに違いない」・・・住職はそう確信したそうです。 

以後授かった豆粒と米粒はまめ大師尊と称し、秘仏として五年に一度の御開帳を厳修して大切に祀られています。そして、また無病息災・福徳長寿にご利益があるとして、信徒はもとより、近隣在郷の人々からも親しまれています。

『お大師さん』と豆のエピソードは、広島・厳島神社にも民話として伝えられていますが、趣は全く異なります。弘法大師の風変りと申しましょうか風来坊振りは往々にして一致しているのですが、全国に伝わるお話はその大半がウィットなテイストに満ちています。それ故、こちらに伝えられているお話は珍しい系統のように思えます。

弘法大師堂 (左)御朱印・(右)散華

令和3年はまさしくその5年に一度の御開帳の時期にあたり、去る10月21日から24日までの4日間、法要並びに秘仏公開。そしてワークショップや各種イベントが催されました。

小生も秘仏を奉拝致しましたが、経年劣化で風化が認められるとは言うものの、顕微鏡や拡大鏡な等といった文明の利器が存在しない時代に、このような極小のカンバスに如何様にしてかくも鮮やかな絵や文字が描けるものか・・・ご利益を願うことも忘れて見入ってしまいました(笑)。

なお御開帳という性質上、写真では秘仏をフレームアウトさせています。当日御朱印と散華を授与戴きましたので、そちらで雰囲気を味わって戴ければと存じます。実物は次回令和8(2026)年の機会に是非その眼で直接ご参拝ください。

住職の藤田さんは「真言宗は滋賀では圧倒的に規模の小さな宗派。それだけに少ない門徒さんや県外から転入されてきた信徒さんに寄り添った活動を心掛けています。今後も『お大師さん』のご加護でもって、世代を問わず地域に根差した温かみのある拠り所を目指していきたい」とお話しされてました。

後日まめ大師尊参拝の話を母に致しましたところ、母が小学生まで両親に連れられて御祈祷を受けていたと教えてくれました。世代から世代へ脈々と地域に根差してこられたのを改めて知り、また不思議な御縁を感じました。

今回の記事作成にあたり、 高野山真言宗 弘法大師堂 住職の藤田さんには多大なるご協力を賜りました。この場を借り厚く御礼申し上げます。

【取材協力】 高野山真言宗 弘法大師堂

#まめ大師尊 #弘法大師 #高野山 #真言宗 #御開帳 #水掛不動明王 #近江新四国八十八

高野山真言宗 弘法大師堂

・滋賀県彦根市栄町2丁目5-29
【TEL】  0749-22-5765
【駐車場】  あり(本堂前8台程度)

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アマビエより最強!?“元三大師”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、アマビエより最強!?“元三大師”の伝説をお届け致します。

最澄(伝教大師)が開いた天台宗の総本山・比叡山延暦寺には、多くの日本仏教界のカリスマ的人物が修行に訪れています。浄土宗の開祖・法然、臨済宗の開祖・栄西、曹洞宗の開祖・道元、浄土真宗の開祖・親鸞、日蓮宗の開祖・日蓮と卒業生は錚々たるメンバーです。

しかし開祖の最澄を除き、全て近江國(滋賀県)外の出身者ばかり。まぁそれだけ当時の仏教界に於いて、延暦寺は絶対的な存在にあったということの裏打ちなのですが・・・。

さて今回は長浜市の旧虎姫町エリアを訪れております。

元三大師御産湯井

天台宗中興の祖・良源、実は北近江の出身なのです。良源は延喜12(912)年、近江國浅井郡三河村(現在の滋賀県長浜市三川)で、湖北の豪族・木津(こづ)頼重の子として誕生しました。

幼名は観音丸(日吉丸とも)と称し、その際産湯を使ったと伝えられる井戸が元三大師御産湯井として今でも遺っています。

かつては毎年8月7日にこの産湯井で元三大師御水替行事(井戸さらえ)が行われていました。井戸から浮き上がる籾(もみ)の数や色艶によって1年の作況が占われていました。

因みに良源の誕生には異説が伝わっています。

月子姫墓

比叡山開創1200年を記念し、1987(昭和62)年に比叡山宗教サミットを主催した第253世天台座主・山田恵諦(やまだえたい)氏の著書『元三大師』にはこのような記述があります(一部要約)。

良源の生母は月子姫(つきこひめ)といい、もとは湖北の豪族・物部氏の娘でした。月子が12歳の時に宇多天皇(うだてんのう/第59代天皇で後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にあたる)が竹生島に行幸あそばされ、その際に接待の役を務めました。このことが縁となり、16歳で宮中に出仕するようになりました。そこで月子は天皇の寵愛を一身に受け、程なくして懐妊しました。良源は所謂御落胤という訳です。

出産のため里帰りし、木津頼重の屋敷に身を寄せました。観世音菩薩を祀る大吉寺(平安時代前期に浅井長政の祖先が比叡山と協力して開山された長浜市野瀬町にある天台宗の霊場)に安産祈願を行います。そして無事男子を出産。観世音菩薩に祈願して生まれた子ということで、観音丸と呼ばれたと云われています。飽くまでも諸説あるお話の1つですが、比叡山での修行の道のりは決して順風満帆とは言えぬものの、その後外戚関係を結んだ天皇家や藤原氏の後ろ盾を得て、大器晩成の活躍を遂げたことを考えると、あながち「ウソ」とも断定出来ません。

暇乞いの橋

良源が第18世天台座主に就任した頃、三河村に居る母・月子は病に臥せっていました。この報を聞き付け直ぐさま母の元へと帰りますが、看病の最中に朝廷より法華八講(ほっけはっこう/法華経八巻を八座に分け、通常1日に朝夕二座講じて4日間で完了する法会のこと)の勅命が下り、直ちに京へ戻らねばならなくなります。

良源は別れを悲しむ母のため、等身大の身代りの木像を刻んで、それを枕元に置き帰路につきます。病床の母を案じ、涙を流しながら三河村を後にしようとしたその時、木像が急に動き出し、村外れの小橋まで良源を見送りました。その後本人に代って母の看病を続けたと云います。

この小橋は暇乞い(いとまごい)の橋と呼ばれ、現在でも三川集落の西端にある七縄川(しちなわがわ)に掛かっています。

栄光山 玉泉寺

981(天元4)年、良源70歳の時。僧としての最高位である大僧正に任ぜられます。日本史上最初に大僧正の称号を与えられたのは、奈良時代の745(天平17)年に聖武天皇号令の下、東大寺造営や数々の社会事業に大きく貢献した行基(ぎょうき)。それ以来実に236年振り、2人目就任の快挙でした。これを機に良源は、生まれ故郷の三河村に栄光山 玉泉(ぎょくせん)を開創します。

しかし1570(元亀元)年の姉川合戦に端を発する兵火によって焼失。なお現在の本堂は江戸時代中期の1780(安永9)年に彦根藩12代藩主・井伊直幸の寄進により7建て替えられたもので、本堂小屋組に「安永九年庚子年五月 彦根御寄附木」と墨書された木が見られます。

元三大師加持水井

境内には書院・鐘楼・庫裏の他に、良源が祈祷を行う際に使われたと伝わる元三大師加持水井も残っています。なお前述した産湯井の元三大師御水替行事は、そもそも本堂の仏壇に供える閼伽水(あかみず/仏前などに供養される水のこと)を1年分、瓶に汲んでおくために行われたのが始まりだそうです。

本尊は木造慈恵大師坐像で、国の重要文化財に指定されています。秘仏のため50~60年に一度の御開帳となり、直近では昨年2020(令和3)年。良源の御誕生日である9月3日に、150名限定の完全予約制で特別拝観が行われました。ですから次回は・・・無理っぽいですね(苦笑)。

因みにこの御本尊様は、良源を村外れまで見送ったあの木像と伝えられています。しかし肝心の仏像が鎌倉時代作とされているので、そこはファンタジーと捉えてください。

若い頃から苦労を重ね、大器晩成の典型で晩年に様々な功績を上げ、多くの人々を救った良源。その強烈な個性はそのまま畏敬の念となって人々に敬われました。入滅後もまるで真言宗の開祖・空海の如く、「比叡山を守護するため、浄土へ往かず山に留まった」など多くの霊験談や説話に彩られ、次第に良源自身が開祖・最澄を凌ぐほどの信仰対象となりました。

今まさに疫病蔓延の時代ですが、このようなスーパーマンが滋賀にも存在したことを知る契機として戴ければ幸甚です。なお我が家では野洲・兵主大社とこちらの玉泉寺より病魔退散の護符を授与戴いた御蔭を以て、家族一同元気に過ごしております(笑)。

栄光山 玉泉寺

・滋賀県長浜市三川町945
【TEL】  0749-73-2723
 ◎元三大師御産湯井・・・玉泉寺門前より西方約30m
 ◎月子姫墓・・・玉泉寺門前より西方約80m集落内
 ◎暇乞いの橋・・・玉泉寺より西方約570m(県道275号三川月ヶ瀬線 三川口橋北入ル)
 ◎元三大師加持水井・・・玉泉寺境内

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