Category Archives: 滋賀の伝説

遷座1300年!モノノフの聖地“兵主大社”の伝説

「湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は旧中主(ちゅうず)町の中心部、野洲(やす)市五条にございます兵主大社(ひょうずたいしゃ)についてお話をいたしたいと存じます。

 

武神・軍神である「兵主神(ひょうずのかみ)」を祀る神社は全国に約50社ありますが、延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう/927年に編纂された全国の神社及びその社格の一覧)に記載されるのは19社。

 

そのうち名神大社(みょうじんたいしゃ/神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神を祀る神社)の社格を戴くのは僅か3社のみで、兵主大社はその1社に列する由緒正しき神社です。

 

中世には「兵主」を「つわものぬし」と読むことにより武士の厚い信仰を得、その縁あって源頼朝・足利氏・徳川氏らに関連する文化財を多数所蔵しています。また京都の苔寺を彷彿とさせる国指定名勝の庭園もあります。

 

この神社の縁起にはこのような伝説があります。

 

「兵主大明神縁起」によりますと、大己貴命(おおなむちのみこと/一般には出雲神話「因幡の白ウサギ」に登場する大国主で知られる)が718年に不動明王の姿を借りて、琵琶湖の対岸・穴太(あのう)より八ッ崎(やつがさきき/現在の旧野洲川北流河口・マイアミあやめ浜西端)に上陸し、この地に鎮座されたのが起源と伝えられています。

 

その昔、兵主大明神(大己貴命)が穴太を発たれる際のこと。大明神は白蛇に姿を変え、大亀の背中に乗って琵琶湖を渡り八ッ崎に上陸。

 

そこから鹿が護り運び、この五条の地に遷座されました。

 

この伝承を顕彰するために、明治時代末期に“亀塚”“鹿塚”が建立されました。

 

現在亀塚は野洲市野田の田地に、鹿塚は兵主大社の庭園内にあります。

 

因みに兵主大社の神紋は「亀の甲羅に鹿の角」の文様です(是非境内で探してみてください)。

 

さらに「兵主大明神縁起」にはこのようなお話も残されています。

 

平安時代末期、源頼朝がまだ若かりし頃。琵琶湖上に於いて暴風雨に遭い、乗っていた船が方向を見失って八ッ崎に辿り着きました。

 

船人たちは困り果てて神に祈りました。頼朝が「何という神に祈るのか?」と尋ねると、船人たちは「昔、白蛇の姿をして大亀に乗り湖を渡った兵主大明神に祈っています」と答えました。

 

すると祈願の甲斐あって暴風雨は収まり、無事湖上を渡ることが出来ました。後に頼朝は鎌倉幕府を開き、天下を治めることに成功します。頼朝はかつての神の加護に感謝して、兵主大社の社殿を造営し、宝物を寄進したとされています。

 

以来、源氏・足利氏・徳川氏と代々幕府を開いた武家から手厚い庇護を受け続けました。

 

さて兵主大社と何かと関わりの深い「八ッ崎」の地ですが、こちらでは御鎮座故実の神迎えを八ッ崎神事として毎年12月上旬に兵主大社によって執り行われています。

 

長きに渡り密儀(みつぎ/特別の資格を持つ者だけが参加できる秘密の儀式)とされてきたのですが、近年は一般に公開されていますので、興味のある方は訪れてみてはいかがでしょうか。

 

なお平成30(2018)年5月には、『兵主大社と八ヶ崎神事』が文化庁所管の日本遺産、「琵琶湖とその水辺景観―祈りと暮らしの水遺産」の一部として追加認定されました。

 

遷座1300年記念 兵主大社展また現在、野洲市歴史民俗博物館では、開館30周年特別展「遷座1300年記念 兵主大社展―琵琶湖を渡って来た神さま―」を開催しております。

 

兵主大社をより深く知る絶好の機会ですので、是非こちらもお立ち寄りください。

 

兵主大社では近隣の今回取材にご協力いただきました兵主大社様、野田/五条地区の皆さん。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

 

兵主大社

滋賀県野洲市五条566番地
TEL:077-589-2072
庭園/収蔵庫入場時間:13:00~16:00
庭園拝観:500円(4/15~7/15・9/15~12/15)
収蔵庫見学:500円 ※要予約

 

野洲市歴史民俗博物館

滋賀県滋賀県野洲市辻町57番地1
TEL:077-587-4410
開館時間:午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
入館料/大人200円・学生150円・小中学生100円
休館日/月曜日(祝日の場合は翌火曜日)
※「遷座1300年記念 兵主大社展」の企画展示は12月2日まで。

 

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源平合戦の隠れた猛将“平景清”が辿りし執念の道(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回も源平合戦悲運の猛将、平景清が辿った足跡についてお話をいたしたいと存じます。

 

袈裟切地蔵

 

近江八幡市安土町上豊浦のJR琵琶湖線の東側にある集落の一角に、首のないお地蔵様が祀られています。

 

景清が桑實寺に参拝の折、そのお地蔵様は景清の真意を探るため容姿端麗な女に化けて誘惑を試みました。

 

しかし景清は動じないどころか「さては妖怪の化身め!」と腰の太刀でその女を一刀両断、袈裟切りにしてしまいました。

 

以来、お地蔵様は「私の首を見付けた者は幸福になる」と言いつつ、未だにその首を探しているのだそうです。

 

景清身丈石(景清の背比べ石)

 

桑實寺の庭園の一角にあります。

 

武具を付けた景清が、身をもたせて休んだ石と伝えられています。

 

ちなみにこの身丈石、実は2代目なのだとか。

 

本来の身丈石は現在庭園内の池の石橋になっているそうです。

 

 

景清目洗い井戸

 

こちらも桑實寺の庭園の一角にあります。

 

景清が百日参りを行った際、眼病を患っていた目を清めたとされる井戸です。

 

今はすっかり枯れてしまったようです。

 

 

 

景清眼洗い井戸

 

こちらは所変わって彦根市芹川町、雨壺山(あまつぼやま/通称:平田山)の麓の公営団地の裏手にあります。

 

戦がもとで負傷した目が悪化し、旅の途中で目を清めるための名水を求めます。そして雨壺山の麓までやって来た時、小魚が群れ遊ぶ美しい水の小川がありました。

 

その小川を辿っていくと、五尺(約150cm)程の大きさの井戸から水がコンコンと湧き出ています。景清がその井戸の水で目を洗うと、体中の疲れが取れ爽快な気分になりました。さらに何度も目を洗うと、次第に痛みも治まってきました。

 

景清は近くに小屋を建て、しばらくこの地に逗留することにしました。その後毎日目を洗ったお陰ですっかりと回復し、また旅を続けたと伝えられています。昭和の高度成長期頃までは原形を留めていたそうですが、現在はコンクリートで整備されこのような姿となってしましました。

 

景清の晩年はかなり不遇であったと伝えられていますが、それ故に贔屓する人々も多かったようで、後の時代には「浄瑠璃」や「歌舞伎」、はたまた「古典落語」の世界でしばしば彼の波乱に満ちた人生が題材として採り上げられています。

 

それにしましても、源平合戦(屋島の戦い)では源氏方の無粋な行為に対して勇猛果敢に攻め立て、また壇ノ浦の戦いから敗走を続けるも平家の再興を願い、何と源頼朝の暗殺の機会を37回も狙ったという 忠臣中の忠臣なのですが、いくら資料に乏しい人物とはいえ現代人の彼に対する評価が余りにも低いと感じるのは私だけでしょうか。

 

さて最後に話題は180度回頭いたしまして・・・

 

まさかナムコが源平討魔伝というアーケードゲーム(後に様々な家庭用ゲーム機へコンシュマー化)の題材に、景清を抜擢していたとは知りませんでした。

 

これがそのゲームに登場する景清なのだそうです。う~ん、これじゃまるでカブキロックスですよねぇ(苦笑)。

 

 

今回は取材範囲がかなり広域に渡り、またとてもマイナーな題材であるため、情報収集に大変苦労しました。しかし多くの方々のお力添えにより、こうして纏め上げることが出来、感無量でございます。

 

情報提供いただきました彦根市芹川町の北川さん、近江八幡市安土町上豊浦の糠さん。情報収集にご協力いただきました彦根市・伊藤仏壇のスタッフの皆さん、安土観光案内所のスタッフの皆さん。また取材に全面協力いただきました旅庵寺の小嶋安寿様、桑實寺の北川住職様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。本当に有難うございました。

 

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源平合戦の隠れた猛将“平景清”が辿りし執念の道(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

TBSのNスタさんに資料を提供しましたことを契機に、今回は平安末期に源平合戦で平家側の勇猛な武将として名を馳せた平景清(たいらのかげきよ)についてお話をいたしたいと存じます。

 

“名を馳せた”と前述しましたが、教科書に登場することはほとんどありません。

 

また一般には平氏に仕え戦ったため俗に“平姓”で呼ばれてはいますが、本来は藤原秀郷(ふじわらのひでさと/滋賀では三上山のムカデ退治に登場する“俵藤太”で知られる)の子孫の伊勢藤原氏であるので、正確には“藤原景清”なのです。

 

源平合戦で勇猛に戦った実在する武将であった割には彼に関する資料がほとんど残っていないため、とても謎多き人物とされています。肖像画も一般的に知られているのは景清を主題とした浄瑠璃に関連する挿絵(歌川國芳・画)くらいしかありま。

 

しかし今回景清に縁の深い旅庵寺(りょあんじ/近江八幡市)の特別なお計らいにより、寺宝の肖像画を公開いただきました。

 

そんな謎多き景清にまつわる伝説は全国各地に残っており(今回Nスタで取り上げられた山口県の秋芳洞もその1つ)、この滋賀にもあります。それが今回ご紹介いたします景清道(かげきよみち)のお話です。

 

 

近江八幡市内を、桑實寺(くわのみでら)から、旧安土町上豊浦/小中/慈恩寺を経て中村町の旅庵寺(一説には愛知県から京都・清水寺)に至る道を、地元では“景清道”と呼んでいます。

 

源平合戦に敗れた後も景清は逃亡し、源頼朝暗殺の機会を虎視眈々と狙っていました。無念にも捕縛されてしまいますが、かつての勇猛振りを惜しまれ頼朝により助命されます。

 

最終的には九州へ配流され波乱の生涯を終えますが、一時期尾張國(現在の愛知県)熱田に居住していました。

 

この道は、その時景清が平家再興を祈念するために、京都の清水寺の薬師如来へ参詣する際に通った道。

 

または一時的に身を寄せていた旅庵寺から桑實寺の薬師如来へ自らの眼病平癒のために百日参りを行った道だとも言われています。

 

では順を追って景清の足跡を辿ってみましょう。

 

旅庵寺

 

近江八幡市中村町にあります天台宗の寺院です。景清は一時的にここへ身を寄せていたと伝えられています。

 

景清が安置したと伝えられる薬師如来を本尊とし、また景清の肖像画も寺宝として残されておりますが、共に非公開です。

 

景清腰掛石

 

同じく旅庵寺の境内にあります。

 

特に案内板がある訳でもなく、一見何の変哲もない大きな石にしか見えません。

 

以前は境内の片隅にありましたが、現在は門前に保存されています。

 

あ、手前のま~るいコンクリートの塊じゃあないですよ~(^^)

 

景清橋

 

近江八幡市安土町慈恩寺の山本川に架かる、景清の名が伝えられる唯一の橋です。

 

橋本体は平成6年に竣工したものですが、近くにその名を刻む石標が残っており、ここが古くから「景清橋」であったことが窺えます。

 

この続きは後半で。次回の更新をお楽しみに!

 

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男の子限定⁉懐妊成就 “手原”の伝説

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今回は栗東(りっとう)市の中心部にあります、手原(てはら)の地名の由来についてのお話をいたしたいと存じます。

 

JR草津線・手原駅を中心とした一帯は、昔から手原と呼ばれています。古くは東海道が通り、現在は名神高速道路・栗東インターチェンジを始め、国道1号や国道8号、そしてJR草津線が通る交通インフラの集中エリアとなっています。

 

また東海道線に栗東駅(平成3年開業)が新設された後も、栗東市の官庁街・中心街への玄関口としての役割を担い続けています。

 

さらに近隣で東海道新幹線新駅誘致の話も急浮上しましたが水泡に帰しました。現在誘致予定地だった場所にはリチウムバッテリー工場が建設され、違った形で進化を遂げています。

 

さてこの“手原”の地名の由来ですが、“手の形をした原っぱ”があった訳でもなく、“手のひら→手の原”に変わった訳でもありません。実はこんなお話があったのです。

 

時は飛鳥時代中期(655年頃)、斉明天皇の御代のこと。

 

この地の村造(むらみやっこ/現在の村長)に、布佐(ふさ)という人がおりました。布佐には8人の子がおりましたが、何れも女の子でした。

 

布佐は1人でも良いので、跡継ぎとなる男の子を欲しがっていました。「どうか男の子をお授けください」と念じたところ妻が懐妊します。「今度こそ男の子に違いない」と布佐は確信しますが、何故か今度も女の子が生まれました。

 

そこで布佐は村に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀り、土地の守り神でもあった天ツ神(あまつかみ/天津神とも)にお願いすることにします。

 

布佐は毎日妻を連れて、手を腹の上に当て男の子が授かるよう祈りました。

 

すると今度はその一念が通じたのか、男の子が誕生しました。周囲はこの子どもを手孕児(てはらみこ)と呼び、神の不思議な力を称えました。

 

つまり、手孕児・・・「」を当てたら、「」んで(懐妊して)生まれた、「」(子供)という訳です。

 

当初この故事にちなみこの地を「手孕」と称しましたが、いつしか「手原」と表記するようになりました。

 

 

このようなお話は俗に『手孕説話(てばらせつわ)』と呼ばれ、他にも兵庫県や茨城県にも似たようなお話が残っています。

 

ちなみに布佐が祈願した“天ツ神”は、これ以降「安産の守護神」として信仰を集めていきました。後にここは菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神とするようになったため“天満宮”となり、現在は“西向き天神さん”として崇敬されています。

 

さてその天満宮ですが、手原8丁目・JR手原駅から東へ約250mの線路沿いに鎮座しています。

 

大手企業の倉庫に囲まれ、参道を名神高速道路の栗東インターチェンジ誘導路が横断しているため、すっかり人目に付かなくなってしまいました。

 

ですが境内はとても美しく保たれており、地元の方々からの厚い信仰心を感じます。

 

少子化に歯止めが利かないこのご時世。こちらの神様に熱心にお願いすれば、(学業に強い)子どもを授けてくださるかも知れませんよ。

 

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戦国三覇者に愛された書家武将“建部傳内”の伝説

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今回は戦国三覇者(信長・秀吉・家康)に愛された書家武将、建部傳内(たてべでんない)についてのお話をいたしたいと存じます。本名は建部賢文(たてべかたぶみ)と称しましたが、残念ながら傳内に関する資料は余り残されていないのです。

 

青蓮院(青不動)傳内は日本三不動の1つである国宝・青不動で知られる京都・東山の青蓮院(しょうれんいん)の第46代門跡、尊鎮法親王(そんちんほうしんのう)の流れを汲む書家で、親王から“傳内流”を名乗ることを特別に許された実力の持ち主でもありました。青蓮院では当時、室町時代初期の第35代門跡・尊円法親王(そんえんほうしんのう)によって“青蓮院流”という書法が編み出され、書の世界での流儀の1つを形成していたのです。

 

建部傳内また傳内は現在の東近江市建部地区に住んでいたため、建部姓を名乗ったとも言われています。

 

当初は南近江の守護大名にして観音寺城城主の六角義賢(ろっかくよしかた)の家臣として仕えていました。

 

しかし六角氏が織田信長との戦いで没落すると、自ら蟄居してしまいます。

 

それを知った羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は彼を説得してヘッドハンティングし、織田信長に仕えることとなります。

 

摠見寺扁額安土城内に建立された摠見寺(そうけんじ)の扁額(へんがく/門戸や室内などに掲げる横に長い額)にある

 

遠景山

下漫々

摠見寺

 

という書は、傳内の揮毫であると言われています。

 

秀吉が天下を掌握すると傳内は祐筆(ゆうひつ/公文書や記録の作成を取り仕切る文官、右筆とも)となります。

 

聚楽第そして京都の聚楽第(じゅらくだい/秀吉の政庁兼邸宅)の揮毫や、豊臣秀次に献上するための「源氏物語」の書写などを手掛けます。

 

なお徳川家康も傳内の才能を認めていたと思われ、徳川実紀(とくがわじっき/江戸時代後期に編纂された江戸幕府の公式記録)には、慶長元(1596)年に傳内を祐筆に抜擢したと記録されています。

 

ただ傳内の没年と整合しないため、恐らく傳内の三男で傳内流を継承し、家康・秀忠二代に渡り仕えた昌興(まさおき)のことであることが推察されます。

 

東光寺建部傳内の墓は近江八幡市安土町西老蘇(にしおいそ)の中山道沿いにある東光寺(とうこうじ)にあるとされているのですが、今となってはどれなのか判然としないそうです。

 

ただこちらには傳内を祀る傳内堂があり、そこには建部傳内の木造が安置されています。

 

同じく西老蘇には、傳内の妹が嫁いだ井上家に傳内書の「百人一首」が残されているとも伝えられています。

 

建部傳内屋敷跡また東近江市五個荘木流町(ごかしょうきながせちょう)の法蓮寺(ほうれんじ)門前には、建部傳内屋敷跡があります。現在は遺徳を偲ぶ記念碑のみが残ります。

 

滋賀県庁文化財保護課城郭調査担当(旧滋賀県安土城郭調査研究所)の資料によりますと、ここは傳内の居城であった建部城が存在したのではないかとされています。

 

この後建部家は、4代100年に渡って江戸幕府の祐筆を務め、名実ともに書家としての地位を確立していったのです。

 

絵画の狩野家、茶道・建築の小堀家、そして書の建部家。“芸は身を助く”とはまさしくこのことですね。決して教科書には載ることのない、「筆で生き抜いた戦国武将」の物語でございました。

 

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琵琶湖に世界最大級の佛教遺蹟⁉ “沖の白石”の伝説

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今回は日本屈指の世界最大級佛教遺蹟‼・・・かも知れない、沖の白石(おきのしらいし)についてのお話を致したいと存じます。

 

さてここで皆さん、琵琶湖にはいくつの“島”があるのかご存知ですか?
(※人工島を除く)

 

人が住む淡水湖の島としては日本唯一の沖島(おきしま/近江八幡市)。島全体が一大パワースポットの竹生島(ちくぶしま/長浜市)。眺める方向によって全く異なる景色となる多景島(たけしま/彦根市)。大半の方がこの3つの島しかご存知ないのではないでしょうか。

 

それも無理はありません。沖の白石には船舶の定期航路がありませんし、上陸が難しい岩礁状の小さな島ですので、恐らく県民ですら間近に見た人は少ないと思います。

 

沖の白石は高島市・安曇川河口(船木崎)から東方約5.5km、多景島から西方約5kmにあり、大小3つの岩礁から形成されています。

 

周回すると岩の数や色が変わることから化石(ばけいし)、琵琶湖西岸のどこからも3つの岩が見えることから船木三ッ石(ふなきみついし)とも呼ばれています。

 

一番大きな岩の高さは湖面から20m程度ですが、水深は約80mあるので、最低でも最深部から100m前後はあるのではと推定されています。

 

白石の名前の由来は二説あります。1つは日没時の太陽光に照らされて白く見えるからという説。もう1つは、(お食事中の方には大変恐縮ですが)飛来してくる水鳥の糞が長年に渡り付着・堆積して白く見えるからという説です。

 

後者の説には全く“浪漫”を感じませんねぇ(>_<)

 

この島には湖上交通の安全を祈願するために設けられたであろう祠の跡があり、今も昔も湖上船舶航行の方角の指標になっています。

 

但し灯台も何も設置されていませんので、現状夜間の航行ではとても危険な障害物です。

 

さて前置きはこの位に致しまして、本題であるこの島の伝説に移りましょう。

 

話は遥か昔に飛んでしまうの(内容もブッ飛び!!)ですが、今から約2200年前の紀元前200年代。まだ日本が弥生時代のど真ん中だった頃、インドにマウリア朝の第3代王でアショーカ王(阿育王とも)という人物がおりました。

 

生い立ちから、お釈迦さまが生前に予言した「自分が死んで100年後に現れる救世主」その人であるとも呼ばれておりました。

 

しかし実際は大変な暴君で、99人の兄弟を殺害したり、自身の意向に反する大臣を500人殺害したりするなど、その傍若無人ぶりは凄惨を窮めたそうです。

 

しかしカリンガという国を制圧した際、10万人もの捕虜とそれを上回る市民を死に追いやったことに後悔し、その後は仏教に帰依して善政を行ったそうです。

 

その「良い為政者」に生まれ変わったアショーカ王は、後にインドの8箇所に奉納されていた仏舎利(ぶっしゃり/お釈迦さまの遺骨)のうち7箇所を掘り当て、それを細かく粉砕して一粒一粒に分け、さらに微量ずつに小分けする作業を行い、最終的に8万4千の仏塔に納めてインド及び周辺国に再配布したのです。

 

勘の良い方はもうお解りですよね?

 

そうなんです、沖の白石の伝説というのはこの岩が仏塔の1つと伝えられているのです。

 

ちなみに伝承ではアショーカ王が鬼神に命じて空へ投げさせ、各地に落ちたうちの1つであるとされています。

 

つまりこれは、仏塔が“逆さま”に突き刺さっているらしいのです。

 

前文で触れました通り船舶の定期航路がありません。クルーザーかモーターボートでも駆使しない限り接舷することは困難です。

 

ジェットスキーでも航続距離が長駆でないと湖岸からの往復航行は困難ですし、況してカヤックや足漕ぎポートでは余程熟達且つ琵琶湖の環境に精通した方でないと遭難は必至です。

 

でも・・・実はたま~に地元の観光船会社主催で「琵琶湖の島巡り」ツアーが実施されているんです。滅多に行われませんので、告知を見つけたら是非参加してみてください。おまけにほとんど水の上の旅ですから、“暑気払い”にも最適です!

 

ご参考までに⇒⇒⇒ ぐるっとびわ湖島めぐり

 

因みに・・・暑い最中、島に近付いても然程「鳥のウ〇チ」臭くありませんのでご安心を(^^)

 

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“織姫・彦星”天の川伝説は史実だった!? 後篇

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引き続き、七夕の織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)天の川伝説は史実だった(かも知れない)というお話について、今回はその真相に迫りたいと存じます。

 

天野川を隔てて朝妻筑摩の対岸、世継にある蛭子(ひるこ)神社ここには世継神社縁起之叟(よつぎじんじゃえんぎのこと)という文献が伝えられています。

 

それによりますと、彦星は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう/第21代天皇)の第四皇子、星河稚宮皇子(ほしのかわのわかみやおうじ)。

 

織姫は仁賢天皇(にんけんてんのう/第24代天皇)の第二皇女の朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)のことであるとしています。

 

叔父と姪の間柄にあった二人は天野川を隔てて仏道の修行を積んでいたが、いつしか恋に落ちた、しかし逢うこともままならず、悲しい恋に終わった・・・とのこと。

 

ちなみにこのお話が残る蛭子神社は、延暦年間(奈良時代末期~平安時代初期)に奈良・興福寺の仁秀僧正(にんしゅうそうじょう)が、この地に興福寺南都別院として法勝寺(ほうしょうじ)を造営する際に共に建てられました。

 

法勝寺は現在の米原市高溝(たかみぞ)付近に建立され、明治時代まではこの辺りに法性寺という地名が残っていました(JR坂田駅の前身は“法性寺駅”でした)。

 

なお近江国坂田郡誌によると星河稚宮皇子と朝嬬皇女の悲恋物語を“七夕伝説”になぞらえて広めたのはどうもこの仁秀のようで、かねてよりこの二人のことを信奉しており、法勝寺建立の際この地に守護神として祀ったようです。

 

史実!とは申しましたがなにやら胡散臭さも・・・まぁ古墳時代の(実在の真偽も不明瞭な)人物のお話ですし、昔のエロい・・・いやいや偉いお坊さんは、意外にもロマンチストだった・・・ということでしょうか^^)

 

さて蛭子神社の境内には朝嬬皇女の墓と称する自然石があり、別名七夕塚(七夕石)とも吾佐嬬石(あさづまいし)とも呼ばれています。

 

かつては境内にひっそりと鎮座していたこの石も、1996(平成8)年に世継神社縁起之叟が発見されてマスコミの注目を浴びたことでキレイに整備され、これを契機に旧暦7月に朝妻神社と合同で七夕祭も再開させたそうです。

 

伝説継承をミッションとする小生としては、こういう「流行り」に乗っかった動きは些か複雑な心境ではありますが・・・(>_<)

 

そしてこちらは対岸の朝妻神社境内にある星河稚宮皇子の墓と伝えられる彦星塚・・・と言いたいところですが、実はよく解らないのです。

 

境内には塚が2つあり、一般的には写真右の宝篋印塔(ほうきょういんとう/墓塔・供養塔等に使われる仏塔の一種)の方だと言われています。おまけに両方とも鎌倉時代後期に造立されたと推定されているため、ますます塚としての信憑性も怪しく・・・。

 

それにしましても、メモリアルのその後の整備の扱いが男女でこんなにも格差があるとは・・・今の時代をも象徴しているのでしょうか、一抹の悲哀を禁じ得ません(>_<)

 

この七夕伝説の他にも、奈良時代にこの地を朝妻王(あさづまのおおきみ/天武天皇の曾孫)が支配し、彦星塚は朝妻王の王廟、七夕塚は王女の墓であるとの説もあります。

 

さて最後に世継神社縁起之叟の一説をご紹介いたします。

 

七月一日から七日間、男性は姫宮に、女性は彦星宮にお祈りし、七日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び合わせて川に流すと、二人は結ばれる・・・云々

 

 

恋に悩む女子は彦星塚に、男子は七夕塚に。

いにしえの習いに従い祈念すべし!

さぁ、恋に悩む草食男子・肉食女子(フレーズ古っ!)の方々よ、ご検討をお祈り申し上げておりまする<(_ _)>

 

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“織姫・彦星”天の川伝説は史実だった!? 前篇

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今回は七夕の織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)天の川伝説は史実だった(かも知れない)というお話をいたしたいと存じます。

 

ではまず、ストーリーのおさらいから・・・

 

むか~し昔、天の川の近くに天の神様が住んでおりました。

 

天の神様には一人娘がいて、名を織姫といいました。織姫は機(はた)を織って、神様たちの着物を仕立てていました。

 

織姫はやがて年頃となり、天の神様は娘に婿を迎えようと考えます。色々検討した結果、天の川の岸で天の牛を飼っている彦星という若者に白羽の矢を当てました。

 

彦星は素晴らしい男でしたし、織姫もとても美しい娘でした。二人は互いを一目見ただけで好意を抱き、すぐに結婚しました。

 

それはそれは毎日が楽しい日々でした。でも次第に二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになります。すると天の神様のもとへ、皆が不満の声を上げるようになりました。

 

「織姫が仕事をしないので、皆の着物がボロボロです」「彦星が世話をしないので、牛が皆病気になってしまいます」と。

 

天の神様は激怒して、「二人は天の川の東西に別れて暮らすがよい」と織姫と彦星を別れ別れにしたのです。

 

織姫があまりにも悲嘆にくれているのを見兼ねて、天の神様は「年に一度、7月7日の夜だけ彦星と会ってもよろしい」と言いました。

 

それから年に一度逢える日だけを楽しみにして、織姫は一所懸命機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出すようになりました。そして7月7日の夜にだけ、織姫は天の川を渡って彦星のもとへ逢いにいくようになったのです。 

 

こんなお話でしたよね、思い出されました?

このおとぎ話、一般的には中国の民話が日本に伝わったものだといわれています。でもこと滋賀では、史実から生まれた民話ということになっているのです!(ちょっと言い過ぎかな・・・)

 

米原市を東西に横断し琵琶湖に注ぐ天野川(あまのがわ)。かつては朝妻川とも呼ばれていました。

 

この川の名前だけでも、十分“七夕伝説”に相応しいですよね(^^)

 

その河口の南岸に朝妻筑摩(あさづまちくま)、北岸に世継(よつぎ)という集落があります。

 

さて朝妻筑摩にはかつて、朝妻湊という湖北地方屈指の湖上交通の要衝がありました。

 

その歴史は古く、奈良時代にはこの付近に大善府御厨(たいぜんふみくりや/朝廷の台所)が設置されていました。

 

北近江・美濃/飛騨國(現在の岐阜県)・信濃國(現在の長野県)から、朝廷に献上するための租税や物産・木材等を都に搬出するための拠点として、江戸時代初期に廃止となるまで大変賑わいました。

 

木曽義仲や織田信長も、都に向かうためここから船に乗ったと伝えられています。

 

また「朝妻千軒」とも言われ、当時は千軒以上の家屋が軒を連ねていたと伝えられています。今は往時の賑わいのよすがを知る術はなく、周囲はひっそりと静まり返っています。

 

なお平家の落人の女が春を売って生計を立て、船上で一晩だけ妻になったからこの地が“朝妻”と名付けられたとも伝えられていますが、真偽の程は定かではありません。

 

織姫・彦星天の川伝説は史実であったか否か・・・後篇にてその真相に迫ります!

 

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園城寺夜話(11)“三井の晩鐘の伝説”

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今回の園城寺夜話は、三井の晩鐘(みいのばんしょう)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

園城寺鐘楼金堂の南東側に一際目を引く檜皮葺の立派な鐘楼があり、ここに巨大な梵鐘が吊られています。

 

この鐘は三井の晩鐘と呼ばれ、“天下の三鐘(日本三名鐘)”の1つに数えられています。ちなみに天下の三鐘とは“姿の平等院(京都府)”“銘の神護寺(京都府)”、そして“声の三井寺”の3つ。

 

特に園城寺のこの鐘は音色の美しさに大変定評があります。昨年12月25日に放送された、テレビ東京『世界!ニッポン行きたい人応援団』でも紹介された通り、海外にも熱狂的なファンが存在し、その評価や価値観は今やワールド・ワイドなものになりつつあります。

 

またこのことは古くは近江八景の1つとして、また平成8(1996)年に環境庁(当時)が制定した日本の音風景100選にも選定されていることからも実証されています。

 

三井の晩鐘天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦後の混迷覚めやらぬ中の慶長7(1602)年4月21日。

 

三井寺第137代長吏・道澄の発願により、弁慶の引摺鐘の後継としてこれを模して鋳造されました。

 

重量は六百貫(約2,250kg)。除夜の鐘の百八煩悩に因み、上部には乳(ち)と呼ばれる108個の突起が施されています。

 

この三井の晩鐘にはとても哀しいお話が伝わっています(文献により多少内容が異なります)。

 

昔々滋賀の里に、1人暮らしの若い漁師が住んでおりました。とある春の夕べのこと。どこからともなくやってきた美しい娘が若者と一緒に住むようになります。炊事・洗濯・掃除と本当に甲斐甲斐しく働くので、二人は祝言を上げ夫婦となりました。周囲も羨むほど夫婦仲が良く、やがて二人の間には子供が産まれます。

 

三井の晩鐘物語(1)(『三井の晩鐘』所載)ところがある日のこと。妻が「実は私は琵琶湖の龍神の化身で、神様にお願いして人間にしてもらいましたが、もう湖へ帰らねばなりません」と言って泣き出し、止める夫の言葉も振り捨てて湖に帰ってしまいました。

 

残された子どもは母親を恋しがり、毎日激しく泣き叫びます。夫は昼に近隣でもらい乳をし、夜は浜に出て妻を呼び、三日に一晩の約束で乳を飲ませていました。]

 

しかしそれも束の間、妻は龍の世界の掟が厳しくなり乳を与えることが出来なくなったと言い、これをしゃぶらせるようにと自身の右目を差し出して姿を見せなくなってしまいました。

 

母親に貰った目玉をしゃぶると子供は不思議と泣き止むのですが、舐め尽してしまうのにそう何日も掛かりません。

 

三井の晩鐘物語(2)(『三井の晩鐘』所載)そこで夫は再び浜に出て妻を呼びます。

 

すると妻は左目も差し出します。盲目となってしまった妻は方角も解らなくなってしまい、悲しい上に家族の無事な姿さえ見ることが出来なくなってしまいました。

 

そこで妻は夫に三井寺(園城寺)の鐘を撞いて、 二人が達者でいることを知らせてくれるように頼みます。 夫は毎日鐘を撞き、湖に音色を響かせて妻を安堵させたといいます。

 

このお話は園城寺に、また滋賀に纏わる民話としても非常にポピュラーな一篇として語り継がれています。

 

似たようなお話は全国に存在しますが、夫婦愛、親子愛、そして家族愛を改めて考える契機となるよいお話です。

 

『三井の晩鐘』(小学館刊)また哲学者としてそして独自の視点から日本史を紐解く『梅原日本学』の権威として高名な梅原猛(うめはらたけし)先生も、昭和56(1981)年に絵本『三井の晩鐘』(小学館)を監修されています。

 

既に絶版となって久しいですが、滋賀を始め全国の図書館の蔵書として未だ閲覧の機会はありますので、是非読んで戴きたいですね。

 

 

 

 

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園城寺夜話(10)“新羅三郎の伝説”

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今回の園城寺夜話は新羅三郎(しんらさぶろう)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

新羅善神堂参道大津市役所・大津消防局の西手裏山に新羅善神堂(しんらぜんしんどう)と呼ばれるお堂があります。

 

・・・といつものフレーズで始めましたが、この写真をご覧ください。

 

今回のテーマである新羅三郎に纏わるメモリアルを取材するために遊歩道を分け入ったのですが、このように荒れた山道が複雑に入り組んでおり、また現在の園城寺の境内に当たらないため正確な地図もなく、接近には困難を極めました。

 

2回目にして悲願の到達成功!

 

再度すんなり訪問出来る自信が、正直ございませぬ(T_T)

 

新羅善神堂こちらが新羅善神堂。この辺りはかつて新羅の森と呼ばれていたようです(迷って当然!)。

 

前回ご紹介致しました護法善神(鬼子母神)と同様、園城寺の守護神の1つ、新羅明神(しんらみょうじん)が祀られています。

 

そもそもはこの地域の地主神であったと言われてる新羅明神。

 

園城寺との所縁は、円珍が唐から帰国の際、その船の船首に出現した老人が自身を新羅国明神と名乗り、「仏法で日本の民衆を救うための先鋒となるように」と告げられたことによると伝えられています。

 

源義光(新羅三郎)さて今回のお話の主役、新羅三郎とは?

 

新羅三郎とは平安時代後期の武将、源義光(みなもとのよしみつ)のことです。

 

むしろこの方の兄が歴史的にとても有名で、八幡太郎とも称し、源氏の祖先として英雄視され様々な逸話に彩られた人物、源義家です。

 

当時は守護神と定めた神の御前で元服した際に別名を与えられるのが流行りであったようです。

 

義光は三男で、新羅明神の御前で元服したことから、新羅三郎とも呼ばれました。

 

義光は弓馬の名手として知られ、後三年の役の際、長兄の義家が清原武衡・家衡に苦戦しているのを聞きつけ、朝廷に自ら援軍に出向くことを申し出ますが認められず、何と官位を辞してこれに参戦。兄と共に見事な勝利を収めたという情に厚い猛将でした。

 

源義光(新羅三郎)墓しかし義家の死後、源氏の実権を握ろうと野心を起こし、暗殺に冤罪と様々な策謀を画策。遂にはこれが世に明るみにされ失脚。鎌倉幕府開府までの間、源氏の凋落を招いた張本人となってしまうのです。

 

義光の墓は新羅善神堂近くの山間にひっそりと佇んでいます。いまや訪れる人も殆ど居ません。

 

しかし義光が新羅明神の御前で元服したことは、その後の園城寺と源氏との関係を強固なものにしました。

 

以降、幾多の兵火で数多くの堂塔を失う園城寺でしたが、その度に源氏所縁の人々に復興を後押しされたのがその証拠です。

 

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