Category Archives: 滋賀の伝説

大津百町漫歩(4)“関寺の牛塔”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

まだ5月の終盤というのに、いきなり真夏日となったと思いきや、はたまた10℃近く気温が下がったりと、世界情勢と気候変動はリンクしているという奇妙な日々が続いております。皆様お身体に障りはございませんでしょうか。

さて、今回も旧大津宿界隈漫ろ歩きの顛末でございます。

今回も引き続き小野小町に因んだお話となります。

先程の関蝉丸神社下社からまた同じ道を辿って、京阪電鉄京津線・上栄町駅まで戻って参ります。

長安寺 参道

すると山に向けて長安寺への参道の立派な案内石碑に出逢います。どうも今回の漫ろ歩きには『勾配』が憑き物のようでございます(泣)。

関蝉丸神社下社とこの長安寺。実は京阪京津線沿いに直線距離にして200m程度なのですが、残念なるかな直結並走する道が無く、迂回して倍以上の移動を強いられるのです。

傾斜のきつい参道をえっちらおっちら上った先に、時宗 長安寺(じしゅう ちょうあんじ)があります。時宗とは鎌倉時代中期に一遍(いっぺん/1239~1289)によって開創された宗派で、踊り念仏と念仏札で民衆を極楽浄土へと導くことを旨としていました。

県内で時宗の寺院として最も有名なのが長浜市の浄信寺(木之本地蔵)です。

長安寺 本堂

この長安寺はかつてこの地に存在した関寺(せきでら/世喜寺とも)の跡であると伝えられています。

関寺の創建年次は判然としませんが、奈良時代の日本三大仏(大和・東大寺の廬舎那仏/河内・智識寺の廬舎那仏/近江・関寺の弥勒仏)の1つに列し、その大きさは約10~15mに及ぶものであったとか。当時は『関寺大仏』と親しまれ、逢坂山を通る多くの旅人が参詣に訪れたそうです。

小野小町供養塔

また前回の章でも少し触れました通り、老衰零落した小野小町が晩年関寺の近くに庵を結んでいたとする伝説があります。小町の当時の様子を描いた謡曲『関寺小町』では、老いたるもなお優秀な歌人であり風雅で上品な気質を保っていたことを素直に描いています。

『関寺小町』にはこのようなエピソードが謡われています。

或る年の7月7日のこと。関寺の住職が稚児を連れて、寺近くの山影に住む老女の許へ歌物語を聞きに出掛けました。老女は住職の請われるままに歌物語を始めます。語りを聞くにつれ、その言葉の端々から彼女が『小野小町』であることに住職は気付きます。小町は我が詠歌を引いて昔の栄華を偲び、そして今の落魄振りを嘆くのです。寺の七夕祭に案内された小町は、稚児の舞に引かれて我を忘れて舞うのでした。

これを偲び、境内には小野小町供養塔が建立されています。

平安時代中期のこと。『扶桑略記』によれば、天延4(976)年6月18日に推定M6.7以上の大地震(山城・近江地震)に見舞われた関寺は、諸堂宇はことごとく倒壊。弥勒大仏は腰から上を著しく損壊したそうです。

その後ひどく荒廃していた関寺の状況を嘆き悲しんだ、比叡山延暦寺の僧にして天台宗恵心流の開祖・恵心僧都源信(えしんそうづげんしん/942~1017)の発願によって再興が進められることになります。

或る日のこと。三井寺五別所の1つ、近松寺(きんしょうじ)の僧・証阿(しょうあ)が、「先日の夜、夢の中で僧が現れ、『お前は関寺の弥勒仏を拝んだか?未だなれば御仏の怒りに触れるであろう。早々に参り拝むように』とのお告げがあったのでと言って参拝に訪れた。

また奇妙なことに、証阿が夢のお告げを受けたその日に京都・清水寺の僧・仁胤(にんいん)が関寺復興工事の手伝いを始めていた。仁胤は1頭の役牛(えきぎゅう/力仕事に使う牛)を連れてきて、何と6年間に渡り建築資材の運搬に協力しました。

この役牛、毛並みが誠に美しく、力は強く、土や木を運ぶ度に必ず本尊の周りを3回回ったのだとか。加えて手綱が無くとも決して遠くへは行くことのない、所謂『とてもお利口さん』な牛でした。この牛の所作が僧侶がの御堂を右回りに3巡して仏に額づく仏教儀礼にも通じることから、牛仏とも呼ばれていました。

長安寺石造宝塔(牛塔)

万寿元(1024)年のこと。この役牛の噂を聞き付けた時の領主・息長正則が使役させようとしたら、夢で「この牛は伽葉仏(かしょうぶつ/釈迦の十大弟子の1人、摩訶伽葉のこと)の化身で関寺の再興のためだけに遣わされた牛であるから他の使役に使ってはならない」「万寿2年6月2日で入滅する」と告げられたと言います。

この夢告の噂は瞬く間に巷に拡がり、5月16日には「この霊牛と結縁したい」と望む藤原道長・源倫子・藤原頼通・藤原教通を始め数万の人々が参詣したと言います。

5月30日。役牛は2~3回倒れ起きしながらもよたよたと完成した御堂の周りを3回巡り終えると、牛小屋に戻りました。そして6月2日。枕を北にして倒れ伏し、四肢を差し伸ばして眠るが如く亡くなったそうです。

その後、亡骸は関寺の裏山に埋葬され、その場所に藤原頼通によって供養塔が建立されました。それが現在の関寺の牛塔(牛塚とも)と伝えられています。

牛塔は鎌倉時代初期の造立とされ、三角形の基礎石に巨大な壺形の塔身を置き、その上に笠石を乗せた石造宝塔。高さは約3.3mで、石造宝塔としては国内最大にして他に類例のない特異な造形と言われています。彼の随筆家・白洲正子も、この塔をして日本一美しい石塔の1つと絶賛したそうです。昭和35(1960)年2月9日には長安寺石造宝塔として国指定重要文化財となりました。

因みに・・・この霊牛が「近江牛であったか否か」は定かではありません(笑)。

#関寺 #関寺小町 #長安寺  #小野小町 #石造宝塔 #牛塔 #扶桑略記  #源信 #白洲正子  #近江牛

関寺霊跡 時宗 長安寺

 滋賀県大津市逢坂2丁目3番地23
【TEL】077-522-5983

【次回、大津百町漫歩(5)をお愉しみに・・・】

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大津百町漫歩(3)“小町塚”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

皆様、前回より約3ヶ月足らずのご無沙汰でございます。年度変りの時期というのは毎度ロクでもないことが起こるものでして、仕事の変化や体調不良。身内の不幸や周辺の様々な喧騒、加えて今回は例年にない激しいアレルギー症状や全国統一地方選挙(?)、おまけにブログ全体に及んでいたシステム障害の是正や貧乏な日々等々、記事を執筆する暇もございませんでした(笑)。で、ようやくすこ~し微速前進出来つつある次第でございます。

さて勿論、今回も旧大津宿界隈漫ろ歩きの顛末でございます。

前回の巻は『小町湯』の名に一抹の疑問を抱きタイムオーバーと相成りました訳でございますが、今回はこれを解決に導くお話(となるハズ)です。

京阪電鉄石山坂本線・びわ湖浜大津駅から距離約1.2km/高低差約40mの勾配を徒歩行軍で心神耗弱という轍を再び踏むのは愚の骨頂・・・ということで、旅のスタートはびわ湖浜大津駅より京津線を1駅、上栄町駅まで乗車して目的地までの2/3の移動をクリアしました。

関蝉丸神社鳥居

上栄町駅から登り勾配の街中を約500m。10分余り歩くと、京阪電車沿線から直ぐ境内へと進入する参道踏切に出逢います。

こういう情景は国内各所にあり、とても風情を感じますね。近隣ではJR草津線の甲賀市沿線や岐阜・西濃鉄道等でも見受けられます。

今回の目的地はここ、関蝉丸(せきせみまる)神社です。

蝉丸とは皆さんよくご存じ、小倉百人一首所載の『これやこの 行くも帰るもわかれては 知るも知らぬも逢坂の関』で滋賀でも馴染み深い、平安時代前期の歌人にして琵琶法師です。

主祭神は上社が猿田彦命(サルタヒコ)、下社が豊玉姫命(トヨタマヒメ)で、交通の要衝であったここ逢坂山(おうさかやま)で旅人の安全を祈念して祀られました。なお蝉丸はこの二柱が鎮座するこの地に住んでいたという縁で、死後に合祀されたとのこと。

関清水社

今回の目的は下社のみ。上社はまたの機会にということで(決して上社が山上に鎮座しているので嫌々避けた訳ではございません)。参道を進むと傍らに小さな祠と井戸があります。

下社はかつて関清水大明神 蝉丸宮と称し、この小さな祠がその名残りを伝えています。

龍神様をお祀りするこの関清水社の井戸は、約半世紀足らずまで豊かな水を湛えていましたが、徐々にその水量を減じ、現在は完全に枯渇しています。令和2(2020)年12月には井戸の掘削作業が実施されましたが、期待に届く水量を得ることは出来なかったようです。

何が原因かは不明ですが、水脈というものは少しの環境の変化でも水量に大きく影響を来しますから、更なる掘削だけでは根本的な解決とはならないのかも知れません。

近年クラウドファンディングで修繕費を募られましたが、目標の半分にも届かなかったとか。祠は新調されましたが、関清水社の前途は依然として厳しそうです。

関蝉丸神社下社 本殿

関清水社の奥に更に厳しい状況に晒されているのが、関蝉丸神社下社の本殿です。

蝉丸が合祀された後、天禄2(971)年に円融天皇(えんゆうてんのう/平安時代中期・第64代天皇)から下された綸旨により、歌舞音曲の祖神としても信仰されるようになりました。  

以後音曲芸道に携わる人々が全国から参拝に訪れ、室町時代以降は関所を通行する際に身分証明となる、また芸人が諸国での興行を保証する大切な免状を発行する役割をも担っていました。

そして現代では、平成27(2015)年から令和4(2022)年まで、「芸能の祖神を蘇らせる」をテーマに、毎年5月関蝉丸芸能祭が開催され、能や雅楽、ジャズに至るまで幅広いジャンルの催し物が演じられていました。

このように関蝉丸神社下社は全国各地の芸人と繋がり、その暮らしを支え続けるという歴史を紡いできました。

しかし時代と共に蝉丸信仰も衰退。加えて正統な宮司家の断絶に伴う長期に渡る宮司不在。氏子の高齢化と氏子離れも相俟って、荒廃の一途を辿ります。

こちらもクラウドファンディングが試みられましたが、関清水社の結果と同様に終わったようです。完全な修繕整備には1億円もの費用を要するとも言われており、信仰の護持が如何に困難であるかを物語っています。伝統と由緒ある文化財がブルーシートに覆われている姿は、とても胸が締め付けられる思いです。

小町塚

ようやくタイトルの本丸に到達です(笑)。本殿の北側の山道を少し進むと、1m程度の自然石の碑があります。

これが小町塚で、塚の下部にはあの有名な「花濃以呂は 宇つりにけりな いたつらに わか身世にふる なかめせしまに」の句が刻まれています。

和漢三才図会』(わかんさんさいずえ/江戸時代中期に寺島良安により編纂された日本の百科事典)によると、小野小町は逢坂山で69歳で亡くなったと記載されています。出生地は鳥居本小野宿(現在の彦根市小野町)だという伝説があり、現在でも小野塚と称する地蔵堂があります。

かつて大津市逢坂2丁目付近には関寺(せきでら)という寺院があり、老衰零落した小野小町が同寺の近くに庵を結んでいたとする伝説があり、その様子は謡曲『関寺小町』に美人の末路の悲哀が伝えられています。

その小町庵が、明治維新以前には境内の御輿庫の裏手にあったとも伝えられています。

大津市大谷町にある月心寺には、小野小町百歳像が安置されています。

あの銭湯の創業者は彼の『関寺小町』になぞらえ、歴史と洒落に長けた人物であったに違いないと小生は信じたいです。

関蝉丸神社下社参道

現在この光景を見ることは出来ません。京阪電車800系は京阪本線一般車両新塗装への統一化に伴い、写真の初期塗装は消滅してしまいました。

琵琶湖をイメージしたパステルブルーとグレーホワイトを主に、染物由来の色であり京津線のラインカラーでもある苅安色(かりやすいろ/黄色)の帯は、一見奇抜に見えて、とても大津の街並みに馴染んでいました。

しかし時代は私達の懐古趣味を置き去りに、どんどん突き進んでいきます。

以前どなたかが「存するために補助を必要とする文化は保護するに値しない」と話しておられたことを記憶しています。当時は「何と冷たい言葉だろう」とは思いましたが、顧みれば最も現実を見据え、的を得ているのかも知れません。

#関蝉丸神社 #関清水社 #蝉丸  #クラウドファンディング #関寺小町 #和漢三才図会 #小倉百人一首  #小野小町 #小町塚  #京阪電車

関蝉丸神社

【上社】滋賀県大津市逢坂1丁目20番地
【下社】滋賀県大津市逢坂1丁目15番地6
【TEL】077-524-2753(滋賀県神社庁:平日9時 ~17時)

【次回、大津百町漫歩(4)をお愉しみに・・・】

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大津百町漫歩(2)“扇塚”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

お陰様で例の新型流行性感冒罹患に伴う蟄居閉門が解かれました。ご心配戴きました諸兄方、またお見舞の電信文を頂戴致しました皆様方、誠に恐悦至極に存じます。この場を借りまして厚く御礼申し上げます<(_ _)>

蟄居閉門中には御神楽にもお越し頂き、我が家の残り邪気を根こそぎ一掃して貰いました。『風立ちぬ、いざ生きめやも』・・・今年も微速前進にて無理せず起動します(笑)。

今回も旧大津宿界隈を漫ろ歩いております。

・・・で、早速壁にぶつかりました(泣)。

高山寺霊園参道

何せ所在を示すキーワードは高山寺霊園(こうせんじれいえん)のみ。佛教史学・國文學者にして叡山学院名誉教授の渡邊守順(わたなべもりみち)先生の著書に記載されているヒントはこれしかないのです。

結局この石碑を発見するのに、国道1号の音羽台地区周辺を30分近くウロウロしておりました。まぁ京阪電鉄石山坂本線・びわ湖浜大津駅から距離約1.2km/高低差約40mの勾配行軍の果てでの徘徊でしたから・・・体力は限界値を示していました。

国道1号の逢坂1丁目東交差点から約50m京都方面へ進んだところに、山手に入る狭隘な坂道の入口にこの石碑を見付けました(因みに自家用車での探索であれば間違いなくスルーしています)。

高山寺霊園内に佇む扇塚

消耗した身体を気合で気持ちを前に引きつつ坂道を登っていくと、奥には広大な墓苑が拡がります。その入口付近の墓石群に埋もれるように、今回の目的である扇塚(おおぎづか)がひっそりと佇んでいます。

さてここで第二の(とても大きな)壁にぶつかります。いつもは現地で資料の裏取り(証拠集め)を行うのですが、ここには由来碑はおろか、案内板1つ無いのです。墓苑ですから聞き込みもほぼ不可能。勿論、あのグーグルマップにも何一つ情報はありません。

実に困りました・・・そこで小生は或る“組織”にダメモトでお力添えを乞いました。

扇塚

以下、その或る“組織”のご協力による扇塚由来の全貌です。

扇塚の碑文及び大正4(1915)年刊行の中村紅雨(著)『大津案内記』から判明した内容は以下の通り(※一部当方の資料の所載内容を交えて記述しています)。  

江戸時代中期の頃、京都でのお話。

五摂家の一つ、九条家の諸大夫(しょだいぶ/九条家の家来のようなもの)である塩小路家出身の塩小路光貫(しおこうじみつつら)という人物が京の都におりました。

光貫には貞代(さだよ)という一人娘がおり、両親が「蝶よ花よ」と可愛がって育てた甲斐もあって大変美しく成長し、その美貌は京の町でも大変評判でした。さらに貞代は秦舞(扇を使用する舞)を好んで得意としており、その艶やかな舞い姿は有名で京の人々に知れ渡っていました。

しかし貞代は寛政7(1795)年6月9日に急な病で夭折。享年17歳。法名は瑞應院夏岳妙槿大姉。愛用していた扇と伝書を埋めてここに塚を建立しました。

当時貞代を愛妾としていた公卿(くぎょう/公家の中でも国政を担う最高幹部の職位)の中山愛親(なかやまなるちか)が扇塚の字を揮毫し、下鴨神社の神官にして和歌の名手であった鴨祐為(かものすけため)が和歌を詠み、これを碑に刻みました。

祐為の和歌 「在し世に このめる舞の 扇をや 志るしの塚の 名に残すらむ」  

歴史書に名を遺す人物では無かったにせよ、17歳の少女への追善供養に当時これだけの権威者が名を連ねたことは最高のはなむけではなかったでしょうか。

因みに、何故貞代の供養碑がここ大津に建立されたかについては未だ以て謎とのことです。

今回の取材で当方の趣旨にご賛同賜り全面的なご協力を戴きました或る“組織”とは・・・大津市歴史博物館さんです。突然のお願いに快く且つ迅速に調査と情報提供を賜りました。この場を借りまして厚く御礼申し上げます<(_ _)>

小町湯

兎に角、ここの取材が今回の大津漫ろ歩きで、現地取材・情報収集・体力消耗ともにハードルの高いスポットでした。「漫ろ歩き」どころか、これはもう「探検」レベルでした(笑)。

へとへとになって里に下りてきましたら偶然にも銭湯を発見!

「ここはひとっ風呂浴びて、スッキリしたい!」・・・という想いをグッと堪えて帰還の途に。残念ながら帰還阻止限界時間に到達してしまったのでした(泣)。

「それにしても、ナゼに“小町”湯?」との後ろ髪惹く疑問の答えは次回のお愉しみということで。

#高山寺霊園 #扇塚 #貞代  #塩小路光貫 #中山愛親 #鴨祐為 #大津案内記  #銭湯 #小町湯  #大津市歴史博物館

【次回、大津百町漫歩(3)をお愉しみに・・・】

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大津百町漫歩(1)“犬塚の欅”の伝説

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今年に入り、何となく運気が上向いてきたかなと喜んでいたのも束の間、遂ぞあの新型流行性感冒に罹患してしまいました(泣)。これまで十分感染対策には留意してきたつもりでしたが、ここまでくると感染経路すら思い当たりません。

ワクチンも4回接種済ですが、飽くまでも『感染抑止』ではなく『重症化予防』のためですし、これだけ市中感染が日常化していれば致し方ないのかも知れません。

どうやらこの春にも5類に分類される見込みとか。各種支援体制も廃止・軽減されることも想定されるならば、ある意味今のうちの罹患は“不幸中の幸い”と考えられるのかも。何はともあれ皆様、「色々な意味」でお気を付けください。

大津宿【東海道五十三次】

さて何時もの戯言はこれくらいにして、今回は久方振りに大津市を訪れています。

もともと滋賀自体が古より国内屈指の交通の要衝だったのですが、特に大津は東海道が横断するうえに、北は越前國(現・福井県)より北國街道(西近江路)。南は京・伏見より大津街道。そして琵琶湖の湖上舟運の最大拠点・大津湊を擁する一大インターセクションでした。

戦国時代より街は急速に発展し、江戸時代には東海道53番目の宿場町・大津宿が整備されます。最盛期には百ヶ町、人口約1万8千人の一大都市にまで成長。これは東海道沿道の宿場町としては最大の規模を誇りました。

その物流の拠点として栄華を極めていた街の様相は、当時大津百町と表現されました。今回はその『大津百町』にひっそりと佇む伝説を探しに漫歩(そぞろあるく)ことと致しました。

なお大津市は今現在に至っても都市整備や宅地開発の新陳代謝が激しいため、現況が取材時より大幅に変化している可能性があります。その点は予めご了承ください(取材もこの点が最大の苦労なのです)。

犬塚の欅

日本赤十字社大津赤十字病院の正面玄関前から南下すること約50m。住宅地の一角に忽然と大きな欅(けやき)の老木に出逢います。

地元では犬塚の欅(いぬづかのけやき)と呼ばれ親しまれています。この老木、枯死している訳ではございません。春から夏に掛けて今でも青々とした緑樹の姿を見せてくれます。

推定樹齢600年のこの欅は、昭和40(1965)年5月6日に大津市の天然記念物に指定されています。

蓮如

時は室町時代中期、文明年間(1469~1487)の頃のこと。本願寺(浄土真宗)中興の祖にして本願寺第8世宗主(門主とも)であった蓮如(れんにょ)は、他宗門からの迫害を受け京より逃れ、他力本願の念仏の教えを広めるため、当時この近辺に居を構えていました。

これを伝え聞いた近隣在郷の多くの善男善女が蓮如の下を訪れ、その教えに触れ次々と信者となっていきました。

しかしその人気振りを快く思わぬ人々がいました。比叡山に本山を擁する天台宗の僧侶たちです。浄土真宗の信者が日の出の勢いの如く増えていくのに対し、天台宗の信者は風前の灯火如き有様。己たちの足元を顧みずこの状況に怒りを覚え、その果てに蓮如の殺害計画を企てるまでに至ります。

さて、蓮如には日頃我が子のように可愛がっていた1匹の犬がおりました。

犬塚

或る日のこと。どうしたことかその犬が、この日に限って蓮如に用意された食膳の傍を一向に離れようとしません。それどころか、蓮如の袖をくわえて食膳から引き離そうとします。蓮如にはその動作が何を意味するのか、全く理解出来ませんでした。

「おかしなことをするものだ」と蓮如が箸を取ろうとしたその時、突然その犬が食膳をひっくり返してその御飯を食べてしまいました。

するとその犬はたちまち悶え苦しみ、何と血を吐いて死んでしまったのです。蓮如はそこで初めて、その犬が食膳に毒が盛られていることを知らせようとしていたことに気付くのです。

蓮如は自責の念に駆られ、自身の身代りになった犬を自宅近くの藪にねんごろに葬りました。そして埋めた墓の傍に欅の木を植えたと伝えられます。また犬塚の碑はそのエピソードを聞いた信者によって、犬の忠誠を偲んで建立されたと言われています。

忠犬の墓が建立された頃にあったとされる藪も、今は痕跡すら残っていません。また安全と保全のためと思しき柵も設置されています。いまや周囲の風景から浮いた存在・・・いや埋もれた存在となりつつあります。

もし『徒然草』の作者・卜部兼好(吉田兼好)が今の世に甦ったら、こう言うに違いありません。“この柵 無からましかばと 覚えしか”とね(笑)。

#大津百町 #大津宿 #犬塚  #犬塚の欅 #大津赤十字病院 #蓮如 #東海道  #吉田兼好 #徒然草  #忠犬

【次回、大津百町漫歩(2)をお愉しみに・・・】

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悲哀と怨嗟・もう1つの羽衣天女“おこぼ”の伝説

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ようやく暑さも収まって参りましたね。とはいえ例年とはまた違った形で、台風や地震を始めとした自然災害が、日本はもとより、世界中で発生しています。実に辛いことです。

さて前回の木之本地蔵の巻で余呉湖の天女に触れましたので、普通ならこの流れでご紹介すべきなのですが、諸般の都合により現地調査が実現しておりませんので何卒ご容赦くださいませ。その代わりと言っては何ですが、別の天女伝説をご案内致したく存じます。

今回は地元の方の記憶も乏しいものになりつつある知られざる悲劇の羽衣天女(はごろもてんにょ)、おこぼについてのお話をいたしたいと存じます。

皆さん、羽衣伝説という昔ばなしを覚えておられますか?因みにツナの缶詰の某企業の伝説のことではありませんよ(^^)

天女(イメージ1)

羽衣によって天から降りてきた天女。そしてその天女に恋する男。そして悲しい別れの結末・・・おおまかに申し上げるとそのような内容です。

昔ばなしの羽衣伝説で最も有名なのが、静岡県静岡市清水区にあります三保の松原(みほのまつばら)。

また文献に残されている羽衣伝説は2つ。『近江國風土記(おうみのくにふどき)』に記載されている滋賀県長浜市にある余呉湖(よごこ)と、『丹後國風土記(たんごのくにふどき)』に記載されている京都府京丹後市にある磯砂山(いさなごさん)です。

実は一般的に知られている「男と結婚し子供を儲けるが、後に羽衣を見つけて天に帰ってしまう」というストーリーは、滋賀の余呉湖に伝わるお話がベースとなっているのです。

それならなおのこと、その有名どころを今回ご紹介すべきところなのですが・・・つくづくタイミングの悪い事です。

天女(イメージ2)

ちなみに天女の写真やイラストを探していたのですが・・・現代の天女のイメージはこんな感じなんですね(苦笑)。

では本題に戻ります。

今から約千年前、愛知川(えちがわ)のほとりに小椋郷(おぐらごう/現在の東近江市小倉町付近と推定)と呼ばれる地域がありました。

陰暦の7月6日(現在の8月上旬)のこと。この郷の領主であった鯰江犀之介友貞(なまずえさいのすけともさだ)は近くの池へ魚釣りに出掛けました。

すると池では何とも美しい女が水浴していて、傍らの松の枝には薄物の衣が掛けられ芳香を放っているではないですか。友貞はその女に声を掛けましたが、女は黙ったまま返事をしません。友貞はこの美しい女の姿に酔い、どうしてもこらえ切れなくて、何と衣を奪って帰ってしまいます。

女は衣を返してくれるよう泣いて訴えますが、友貞は「知らぬ存ぜぬ」を通し続け、返そうとはしませんでした。

天女(イメージ3)

それから程なくして女は友貞の妻となり、おこぼと呼ばれるようになりました。「衣を返せば逃げるかもしれない」と考えた友貞は、衣を隠したままにしていました。

7年の歳月が流れ、二人の間に6人の子供が出来ました。末の子の乳母は衣の隠し場所を知っていました。7年も経っているというのに夫に隠れてすすり泣く哀れなおこぼの姿を見る度に、乳母の胸は痛みます。

ねんねんころり、ねんころり

熟寝(うまい)する子は賢(さか)しい子

賢しい子にはお宝あげる

お宝屋根の破風(はふ)のなか

乳母は子守唄に歌い込んで衣のありかを教えました。

当時この地方では結婚して7年目の七夕の夜に、親類縁者を招いて酒宴を張る習慣がありました。友貞も習慣通り酒宴を開き、容色の衰えぬ妻をかたわらにして幸福の絶頂にありました。しかし突然、妻は鈴を振るような美しい声で歌を詠みました。

かりそめに なきしふすまの 七とせに 妹のかたみの たねおばのこす

友貞はハッとして傍らを振り返ると、何といままでそこにいた妻の姿がありません。妻は天の川を背に衣をまとい、中空に舞っているではありませんか。

「やっぱり天女だったのか」・・・友貞と6人の子ども達の嘆きは、居並ぶ人たちの涙を誘いました。

おこぼが水浴していたこの池は、それ以来誰言うことなくおこぼと呼ばれるようになりました。

おこぼ池跡

おこぼ池は現在の東近江市妹(いもと)町の田園地帯にありました。

しかし残念ながら昭和50年代に実施された土地改良に伴う圃場整備で埋め立てられてしまい、当時の面影はありません。

また出自の時期は不明ですが、藤原氏の流れを汲む鯰江(なまずえ)は古くからこの地域一帯を支配していたと言われています。

鯰江城跡

室町時代には現在の東近江市鯰江町に鯰江を築き、近江源氏で南近江の守護大名である六角氏と縁戚・主従関係になります。

しかし後に佐久間盛政・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家を中心とする織田信長の軍勢に攻められ落城。一族は各地に離散し、没落しました。

この事実が『おこぼの約500年を掛けての怨念』が成せる業であったとは、余り考えたくないですね(>_<)

今回の記事にあたり情報をご提供いただきました東近江観光協会様、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

#おこぼ #天女 #羽衣伝説 #小椋郷 #鯰江犀之介友貞 #おこぼ池 #鯰江氏 #六角氏 #鯰江城

鯰江城跡

・滋賀県長浜東近江市鯰江町1296番地

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衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説・後篇

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引き続き、衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説をお届け致します。このコロナ禍の影響を受け3年振りに開催された木之本地蔵大縁日も無事終わり、これから湖國は徐々に秋の装いを呈していきます。

さて木之本地蔵院が創建されてから約140年後のこと。

弘仁3(812)年。全国修行行脚の途上、空海(弘法大師)がこの地を訪れました。

浄信寺 地蔵院

早速木之本のお地蔵さんを参詣したのですが、長い年月を経て著しく荒廃した姿に接し、大変心を痛めました。

そしてこの地蔵院の修復を申し出るのです。

この時空海は、閻魔王(えんまおう)と具生神(ぐしょうじん/人の善悪を記録して死後に閻魔王への報告を担う二神)を安置し、紺紙金泥(こんしこんでい/紺色に染色した紙に金粉をニカワに溶いた絵具で書いたもの)の地蔵本願経一部三巻を献納しました。

すると、ある夜のこと。空海は不思議な夢を見ます。

『堂前の湖に龍が棲んでおり人々に害をなしているのでこれを救え』とのお告げを受けるのです。

早速空海は湖の畔に立ち祈祷を行いました。すると湖から龍が表れて、

『私はこの湖に棲む龍で(しず)と申します。今後人々に危害を加えませんので、どうかお討ちにならずにお助けください』と懇願しました。

そこで空海はここでの修法(ずほう/壇を設けて行う加持祈禱)に参列するようにと申し付けます。龍は童女に姿を変え、修法に参列しました。

伊香具神社

龍の大変神妙且つ真剣な態度に感心した空海は、懲らしめずに伊香具神社(いかぐじんじゃ)の守護神として祀ることにしました。

長浜市木之本町大音(おおと)にある伊香具神社の祭神は伊香津臣命(いかつおみのみこと)ですが、『近江国風土記』に記載されている余呉湖の羽衣伝説に登場する天女・伊香刀美(いかとみ)と同一であるとされています。

余呉湖の龍神は「天女」であったのかも知れませんね。

賤ヶ岳


また童女・賤にちなんで、伊香具神社の後ろの山を賤ヶ岳(しずがたけ)と名付けたと言い伝えられています。

空海と龍神との出来事から約770年後の戦国時代のこと。

木之本地蔵院は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって本陣が置かれ、戦火により焼失。賤ヶ岳一帯も柴田勝家との激しい戦い(賤ヶ岳合戦)が繰り広げられ死屍累々の地と化したのは、実に因果なことです。

#木之本地蔵 #空海 #地蔵本願経 #伊香具神社 #近江風土記 #賤ヶ岳 #羽柴秀吉 #賤ヶ岳合戦

木之本地蔵院(長祈山 浄信寺)

・滋賀県長浜市木之本町木之本944番地
【TEL】0749-82-2106

伊香具神社

・滋賀県長浜市木之本町大音688番地
【TEL】0749-82-5554

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衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説・前篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

久々の更新、ご無沙汰致しております。大変ご心配をお掛け致しました。尋常じゃない暑さも去ることながら、史上最悪のコロナ禍の現況、幾分かの体調不振、お盆の準備や法要の対応等々・・・なかなかの『御用繁多』な日々でございました。

今回は、日本三大地蔵の1つに列せられ、県内でも眼病・延命息災のお地蔵様としても名高い、木之本地蔵(きのもとじぞう)にまつわるお話を、2回に渡りお届け致したいと存じます。

JR北陸線・木ノ本駅を下車して直ぐに、とても長い石畳の坂道に出逢います。通称・地蔵坂と呼ばれるこの坂道の先に遠く見える寺院に、木之本地蔵は御座します。

しかし、本来はこの坂道のスタート地点が寺院の入口。現在の門前町はもともとの参道に発展したものなのです。

木之本地蔵大縁日(地蔵坂)

写真は例年8月22~25日に勤修される木之本地蔵大縁日での地蔵坂の光景。新型コロナウイルスの市中感染が過去最大級の状況下、今年も明日から疫病平癒を願って開催されます。

7世紀後半、飛鳥時代も終盤を迎えつつある頃。摂津國・難波浦(現在の大阪府)に、金色に輝く1体の仏像が流れ着きました。時を同じくして天武天皇(てんむてんのう/第40代天皇)はこの仏像の霊夢をご覧になり、「この御仏こそ龍樹(龍樹/2世紀のインドの高僧で日本では八宗の祖と言われる)菩薩が御作りになられた霊験あらたかなものである」として、すぐさま漂流の地に伽藍の建立を命じます。これが金光寺の起源であるとされています。

しかし帝はこの御仏を仏法の縁の深い場所でより多くの民衆の拠り所となって欲しいとの想いから、皇紀1335(675)年に薬師寺の開祖・祚蓮(それん)へ縁の深い地を探すよう勅命を出しました。早速祚蓮はこの尊像を奉持して、諸国行脚の旅に出ます。

祚蓮は北国街道を下った時のこと、丁度柳の大木があったのでその下に尊像を下ろし、しばし休息をとりました。そして再び出発しようとしたのですが、尊像はその場から全く動かすことが出来ず、何と前にも増して金光を放ちました。

木之本地蔵院

周囲は一面光明に包まれ、病に伏せる者はたちまち治癒し、災難に見舞われし者は立ちどころに難が消除しました。


祚蓮は「誠に地蔵菩薩は不可思議の霊像である。この光こそ衆生(民衆)の救済、諸難諸病を遁れ願い成就する光だ、この地こそ地蔵菩薩の有縁の地であるから、ここに安置して人々の暮らしを幸福へと導きたい」と語り、この地に伽藍の建設が始まります。これが木之本地蔵の草創と伝えられています。

この地での御縁を結んだ柳の木の下での出来事に因み、柳本山 金光善寺と号して一寺を建立しました。後にこの地は「柳の本(やなぎのもと)」と呼ばれ、これが転じて「木之本(きのもと)」になったといいます。

さて、参拝される皆さんは「木之本のお地蔵さん」と親しげに話されるのですが、意外にも寺院の正式名称は余り知られていません。木之本地蔵院とも呼ばれますが、これは通称なのです。

昌泰元(898)年、醍醐天皇の勅旨により菅原道真が参拝。これを機会として長祈山 浄信寺(ちょうきざんじょうしんじ)と改号されました。よって浄信寺が正しい名前になります。


様々なエピソードに彩られた本尊の木造地蔵菩薩立像(但し現存するものは鎌倉期の作)は国指定重要文化財で、秘仏のため一般公開されていません。

木之本地蔵菩薩大銅像

そこでより多くの人々にお地蔵様のご加護を受けて貰いたいとの想いから、明治24(1891)年から27年にかけて、本尊のお写しとして約3倍の大きさに建立されたのが、日本最大の地蔵菩薩銅像であり浄信寺のシンボル的存在の木之本地蔵菩薩大銅像です。

造営当時は県内はもとより、愛知や岐阜や福井からも銅鏡を集め、それらを溶かして造られたのだとか。

また大東亜戦争中は軍需省より厳しい供出命令を受けましたが、「地蔵菩薩は信仰の対象である」として三十世住職其阿上人学樹足下はそれを拒否しました。真言宗阿闍梨・班目日仏や東條英機の妻である東条勝子などの援助もあって供出を免れました。

あの東京・渋谷駅前のハチ公銅像ですら、反対運動も空しく戦時中のどさくさに紛れて供出されてしまったのですから、木之本のお地蔵さんのパワーはスゴいですね。

最後に、木之本のお地蔵さんは眼病快癒にご利益があることでも有名です。

境内を見渡すと、無数の蛙の陶器が置かれていることに気づきます。

でもよ~~~く見ると、蛙の何かが違います。何と全ての蛙が片眼をつむっているのです(ウインクしている訳ではございません)。

身代わり蛙

その昔、浄信寺の庭園には沢山の蛙が棲んでいました。連日、木之本のお地蔵さんには眼病を患った多くの参拝者が訪れます。蛙たちはその姿に接し大変心を痛め、「全ての人々の大切な眼が、お地蔵様の御加護を戴けますように」「全ての人々が健康な生活を営むことが出来ますように」と自ら身代わりの願を掛け、片方の眼をつむり暮らすようになったと言われています。


これが現在、身代わり蛙と呼ばれて眼病快癒の願掛けに用いられているのです。

地元の方々にとって木之本のお地蔵さんは日々の暮らしと密接に繋がっており、現在でも老若男女を問わず、門前を通る際に必ずお辞儀をしていく光景がとても印象的であり、日本人としての誇らしさを感じるのです。

#木之本地蔵 #浄信寺 #地蔵坂 #木之本地蔵大縁日 #眼病 #身代わり蛙 #祚蓮 #時宗

木之本地蔵院(長祈山 浄信寺)

・滋賀県長浜市木之本町木之本944番地
【TEL】0749-82-2106

木之本地蔵大縁日(ふるさと夏まつり)

【開催期間】2022年8月22日(月)~25日(木)
【開催時間】午前9時~午後9時(22日は午後5時~)
【会  場】木之本地蔵院境内・北国街道および地蔵坂
【お問合先】0749-82-5900(ふるさと夏まつり実行委員会)

木之本大花火大会

【開催期間】2022年8月25日(木)
【開催時間】午後8時より20分程度(雨天延期)
【会  場】木之本スポーツ広場 木之本グラウンド

【後篇に続く】

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織姫・彦星お伽噺は史実なのか!? “近江七夕伝説”後篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)の七夕伝説は史実だった(かも知れない)というお話について、今回はその真相に迫りたいと存じます。

蛭子(世継)神社

天野川を隔てて朝妻筑摩の対岸、世継にある蛭子(ひるこ)神社ここには世継神社縁起之叟(よつぎじんじゃえんぎのこと)という文献が伝えられています。これは昭和62(1987)年に旧近江町役場による調査で発見された古文書です。

それによりますと、彦星は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう/第21代天皇)の第四皇子、星河稚宮皇子(ほしのかわのわかみやおうじ)。

織姫は仁賢天皇(にんけんてんのう/第24代天皇)の第二皇女の朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)のことであるとしています。

叔父と姪の間柄にあった二人は天野川を隔てて仏道の修行を積んでいたが、いつしか恋に落ちた、しかし逢うこともままならず、悲しい恋に終わった・・・とのこと。

法勝寺跡

ちなみにこのお話が残る蛭子神社は、延暦年間(奈良時代末期~平安時代初期)に奈良・興福寺の仁秀僧正(にんしゅうそうじょう)が、この地に興福寺南都別院として法勝寺(ほうしょうじ)を造営する際に共に建てられました。

法勝寺は現在の米原市高溝(たかみぞ)付近に建立され、明治時代まではこの辺りに法性寺という地名が残っていました(JR坂田駅の前身は“法性寺駅”でした)。

なお近江国坂田郡誌によると星河稚宮皇子と朝嬬皇女の悲恋物語を“七夕伝説”になぞらえて広めたのはどうもこの仁秀のようで、かねてよりこの二人のことを信奉しており、法勝寺建立の際この地に守護神として祀ったようです。

史実!とは申しましたがなにやら胡散臭さも・・・まぁ古墳時代の(実在の真偽も不明瞭な)人物のお話ですし、昔の偉いお坊さんは意外にもロマンチストだった・・・ということでしょうか

七夕塚

さて蛭子神社の境内には朝嬬皇女の墓と称する自然石があり、別名七夕塚(七夕石)とも吾佐嬬石(あさづまいし)とも呼ばれています。

かつては境内にひっそりと鎮座していたこの石も、1996(平成8)年に世継神社縁起之叟が発見されてマスコミの注目を浴びたことでキレイに整備され、これを契機に旧暦7月に朝妻神社と合同で七夕祭も再開させたそうです。

伝説継承をミッションとする小生としては、こういう「流行り」に乗っかった動きは些か複雑な心境ではありますが・・・

彦星塚

そしてこちらは対岸の朝妻神社境内にある星河稚宮皇子の墓と伝えられる彦星塚・・・と言いたいところですが、実はよく解らないのです。

境内には塚が2つあり、一般的には写真右の宝篋印塔(ほうきょういんとう/墓塔・供養塔等に使われる仏塔の一種)の方だと言われています。おまけに両方とも鎌倉時代後期に造立されたと推定されているため、ますます塚としての信憑性も怪しく・・・。

それにしましても、メモリアルのその後の整備の扱いが男女でこんなにも格差があるとは・・・今の時代をも象徴しているのでしょうか、一抹の悲哀を禁じ得ません

朝妻神社

この七夕伝説の他にも、奈良時代にこの地を朝妻王(あさづまのおおきみ/天武天皇の曾孫)が支配し、彦星塚は朝妻王の王廟、七夕塚は王女の墓であるとの説もあります。

さて令和3(2021)年8月、この伝説の根拠となる世継神社縁起之叟が江戸時代の研究者の著作(椿井文書/つばいもんじょ)で偽文書である可能性が高いと指摘される事件がありました。地元には衝撃が走りましたが、それでも地域に伝わる貴重な史料に変わりないと次世代を担う子供達への伝説継承に注力するとのこと。

の「信じるか信じないかは貴方次第です」的な世継神社縁起之叟から、最後にこの一説をご紹介致します。

七月一日から七日間、男性は姫宮に、女性は彦星宮にお祈りし、七日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び合わせて川に流すと、二人は結ばれる・・・云々

恋に悩む女子は彦星塚に、男子は七夕塚に。

さぁ恋に悩む草食男子・肉食女子の皆さん、いにしえの習いに従い祈念すべし!・・・と声高に叫びたいところですが、6月14日に内閣府が公表した『令和4年版男女共同参画白書』の結果を見てみれば、どれだけ興味を引くのかな?・・・と暗澹たる気持ちに苛まれる今日此頃です。

#七夕 #天の川 #織姫 #彦星 #蛭子神社 #世継神社縁起之叟 #七夕塚 #朝妻神社 #彦星塚 #朝妻神社 #朝妻王 #椿井文書 #男女共同参画白書

蛭子(世継)神社/七夕塚

・滋賀県米原市世継842

法勝寺跡

・滋賀県米原市高溝

朝妻神社/彦星塚

・滋賀県米原市朝妻筑摩1293

【おしまい】

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織姫・彦星お伽噺は史実なのか!? “近江七夕伝説”前篇

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明日は七夕ですよね。皆さんはコロナの終息の他に何をお願いされますか?

さて今回は織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)の七夕伝説は史実だった(かも知れない)というお話をいたしたいと存じます。ではまず、ストーリーのおさらいから・・・

七夕伝説

むか~し昔、天の川の近くに天の神様が住んでおりました。

天の神様には一人娘がいて、名を織姫といいました。織姫は機(はた)を織って、神様たちの着物を仕立てていました。

織姫はやがて年頃となり、天の神様は娘に婿を迎えようと考えます。色々検討した結果、天の川の岸で天の牛を飼っている彦星という若者に白羽の矢を当てました。

彦星

彦星は素晴らしい男でしたし、織姫もとても美しい娘でした。二人は互いを一目見ただけで好意を抱き、すぐに結婚しました。

それはそれは毎日が楽しい日々でした。でも次第に二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになります。すると天の神様のもとへ、皆が不満の声を上げるようになりました。

「織姫が仕事をしないので、皆の着物がボロボロです」「彦星が世話をしないので、牛が皆病気になってしまいます」と。

織姫

天の神様は激怒して、「二人は天の川の東西に別れて暮らすがよい」と織姫と彦星を別れ別れにしたのです。

織姫があまりにも悲嘆にくれているのを見兼ねて、天の神様は「年に一度、7月7日の夜だけ彦星と会ってもよろしい」と言いました。

それから年に一度逢える日だけを楽しみにして、織姫は一所懸命機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出すようになりました。そして7月7日の夜にだけ、織姫は天の川を渡って彦星のもとへ逢いにいくようになったのです。 

こんなお話でしたよね、思い出して戴けましたでしょうか。

このおとぎ話、一般的には中国の民話が日本に伝わったものだといわれています。でもこと滋賀では、史実から生まれた民話ということになっているのです!(ちょっと言い過ぎかな・・・)

天野川

さて今回は米原市は旧米原町/旧近江町エリアを訪れております。

米原市を東西に横断し琵琶湖に注ぐ天野川(あまのがわ)。かつては朝妻川とも呼ばれていました。この川の名前だけでも、十分“七夕伝説”に相応しいですよね

その河口の南岸に朝妻筑摩(あさづまちくま)、北岸に世継(よつぎ)という集落があります。

朝妻湊址

さて朝妻筑摩にはかつて、朝妻湊という湖北地方屈指の湖上交通の要衝がありました。

その歴史は古く、奈良時代にはこの付近に大善府御厨(たいぜんふみくりや/朝廷の台所)が設置されていました。

北近江・美濃/飛騨國(現在の岐阜県)・信濃國(現在の長野県)から、朝廷に献上するための租税や物産・木材等を都に搬出するための拠点として、江戸時代初期に廃止となるまで大変賑わいました。

木曽義仲や織田信長も、都に向かうためここから船に乗ったと伝えられています。

また「朝妻千軒」とも言われ、当時は千軒以上の家屋が軒を連ねていたと伝えられています。今は往時の賑わいのよすがを知る術はなく、周囲はひっそりと静まり返っています。

朝妻湊址全景

なお平家の落人の女が春を売って生計を立て、船上で一晩だけ妻になったからこの地が“朝妻”と名付けられたとも伝えられていますが、真偽の程は定かではありません。

織姫・彦星七夕伝説は史実であったか否か・・・後篇にてその真相に迫ります!

#七夕 #天の川 #織姫 #彦星 #天野川 #朝妻湊 #朝妻千軒

朝妻湊址

・滋賀県米原市朝妻筑摩

【後篇に続く】

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嗚呼!平家終焉之地“平宗盛公胴塚”の伝説(後篇)

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引き続き、嗚呼!平家終焉之地“平宗盛公胴塚”の伝説をお届け致します。

前篇の最後に掲載した写真の案内板は、丁度野洲市(野洲町エリア)と蒲生郡竜王町の境界辺りの国道8号沿いにひっそりと佇んでいます。最近になって赤いのぼりが併設されるようになり辛うじて目立つようになりましたが、何度も近くを通ってもここを訪れる人を見掛けたことはありません。

案内板のある場所には軽自動車が1台程度駐車可能なスペースがあります。そこから山の麓の小道を進みます。本当にうら寂しい場所です。100m程(とぼとぼ)歩くと少し視界が拡がります。

平宗盛公胴塚

ここに平宗盛公胴塚があります。石塔が2つありますが、左側は後年供養のために掘られたと思しき石仏で、胴塚は右側の小さな岩石です。「墓標」というより「目印」にしか見えません。昔から『勝てば官軍負ければ賊軍』とはよく申しますが、一時とはいえ平家の頭目として君臨した人物の扱いとしては、余りにも惨めで残酷です。敗者の扱いというのは往々にしてこのようなものなのでしょうね。

胴塚の正面には小さな池があります。かつては名所の1つとしてその名が知られていました。

木曾路名所図会 巻1 乾 “大篠原”

江戸時代後期の文化2(1805)年に発行された木曾路名所図会(きそじめいしょずえ)。岐阻路名所図会とも称し、中山道沿道の名所を網羅した、今風に言えば旅のガイドブックです。

このガイドブックの「大篠原」という記事に、平宗盛公胴塚とこの池のことが記載されています。その名も「首洗池」と・・・

蛙不鳴池

今となってはただの用水池にしか見えませんが、宗盛が長子・清宗の身を案じながら斬首に処せられ、この地で胴体を埋葬。首はこの池で浄められた後、元暦2(1185)年6月23日に京の六条河原に到着し、検非違使の平知康らによって受け取られ、獄門の前に晒されたと言われています。

首を浄めた池と隣接していた西方の大きな池も、この出来事以降蛙が鳴かなくなったことから、蛙不鳴池(かわずなかずのいけ)と呼ばれています。

蛙不鳴池及び首洗い池含め、かつては横巾165m✕縦巾220mの大きな池で、近世までは景勝地然としていました。近年までその形容を止めていましたが、平成10(1998)年頃の造成工事で蛙不鳴池は形状を大きく棄損し、首洗い池に至っては池そのものが失われてしまいました。

首洗い池(復元)

令和3(2021)年6月20日。地元・大篠原自治会、野洲市、有志企業・団体による首洗い池復元事業が立ち上げられ、先人の悲願であった首洗い池の復元が叶いました。往時の姿そのものとまではいきませんが、地元の皆さんの郷土に対する熱意をひしひしと感じました。

さてこの平宗盛処刑事件ですが、文献によって微妙に内容が異なります。

『平家物語』では6月21日に宗盛・清宗親子は篠原宿で処刑され、胴体は一緒に埋葬された。『源平盛衰記』では6月22日に宗盛・清宗親子は勢多(現在の大津市瀬田)で処刑された。さらに『吾妻鏡』では6月21日に宗盛が篠原宿で、同日清宗が近江国野路口(現在の草津市野路)で処刑されたと記述されています。

因みに草津市野路5丁目には遠藤家邸宅の中庭に平清宗の胴体を埋葬したと伝わる清宗塚が存在しますので、史実は『吾妻鏡』の記述にありそうな気もします。今回清宗塚を訪問出来ませんでしたので、またの機会を得られればと思います。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では平家を滅ぼし天下を手中に収めた源氏ですが、その後様々な疑心暗鬼が渦巻き、縁者や仲間が次々と姿を消しています。そう考えると滅亡した平家の方が一門の結束力は強かったように思います。

そのような平家を統べていた宗盛を、父・清盛に遠く及ばないにしても、改めて評価し直しても良いのではないでしょうか。

#平宗盛 #源義経 #平家物語 #鎌倉殿の13人 #平清宗 #平宗盛公胴塚 #首洗い池 #蛙不鳴池 #清宗塚 #源平盛衰記 #吾妻鏡 #東山道 #平家終焉之地

野洲市観光協会

・滋賀県野洲市小篠原2100−1
【TEL】 077-587-3710

平宗盛公胴塚

・滋賀県野洲市大篠原86

清宗塚

・滋賀県草津市野路5丁目2−21

【おしまい】

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