「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
あの衝撃的な(?)国家的メディアデビューから約1年2ヶ月・・・急遽、NHK大津放送局との共同企画が還って参りました!今回も滋賀ローカルのみの放送となりますので、残念ながら県外の皆さんにはお届けが叶いませんが、どうかご容赦ください。県内の皆様、是非ご高覧くださいまし<(_ _)>
おうみ発610 「なに!なぜ?おうみ」
2013年8月27日(火) 18:10〜19:00内の約5分枠
※放送の編成の都合により変更される場合あり。
さて、久し振りに“滋賀ネタ”に戻ります。今回は全国的にも非常に貴重な戦争遺産である、大東亜戦争末期アメリカ軍の戦闘機や爆撃機の攻撃からSL(蒸気機関車)を守るため建設が進められた蒸気機関車避難壕(じょうききかんしゃひなんごう)についてお話いたしたいと存じます。
敗色濃厚となった戦中末期。
昭和19(1944)年7月にサイパン、昭和20(1945)年3月には硫黄島が陥落し、これらを拠点にアメリカ軍の爆撃機や護衛の戦闘機が日本各地に飛来。都市や軍事施設のみならず、あろうことか「動くもの全て」に対して無差別に攻撃を加えてきました。
それは鐵道も例外でなく、戦闘機の機銃掃射によって数多くの乗務員や乗客が犠牲になりました。特に滋賀では、昭和20(1945)年7月30日の16時頃。守山駅に停車中の旅客列車にアメリカ海軍の艦載機・F4Fワイルドキャットが急襲。死者11名・負傷者24名という、この戦争で県内最大の被害者数を出すという惨事も起きました。
当時、鐵道輸送に於ける動力の主力は蒸気機関車でした。当然機関車が攻撃を受けて大破し走行不能。機関士や機関助士が死傷する事態も多く発生しており、鐵道関係者の頭を悩ませていました。
これは物資輸送の大動脈である“東海道ルート”と“日本海ルート”の合流点にあった米原(まいばら)も例外ではありませんでした。かつて米原は、東京から下関を経て朝鮮半島へ物資を輸送する蒸気機関車の交換ポイントとして、東海道本線に於ける急勾配区間の1つであった大垣~ 関ヶ原間(通称:関ヶ原越え)を通過するための補助機関車を留置する基地として、そして明治の世から中国大陸及びロシアへの玄関口であった福井・敦賀(つるが)港への物資輸送の中継ポイントとして重要な拠点でした。
そのため、路線整備された明治22(1889)年には機関区(当初の名称は機関庫)が設置され、馬力の強い貨物用の蒸気機関車が多数重点配置されていたのです。
さてここで話題を変えて、“豆知識のコーナー”と参りましょう。他のブログ記事でも散見されるのですが、この当時の国営鐵道の管理運営は国鉄(日本国有鉄道)だと勘違いされている方がどうやらいらっしゃるようです。実は国鉄が設立されたのは1949(昭和24)年なので、これは誤った情報です。ではどこが管理運営していたのか?・・・それは運輸省鐵道総局なのです。
ちなみに国営鐵道の所管の変遷を見ますと…
1871(明治4)年・工部省鐵道寮/工部省鉄道局 → 1885(明治18)年・内閣鐵道局 → 1890(明治23)年・内務省鐵道庁 → 1892(明治25)年・逓信省鐵道局 → 1897(明治30)年・逓信省鐵道作業局 → 1907(明治40)年・帝國鐵道庁 → 1908(明治41)年・内閣鐵道院 → 1920(大正9)年・鐵道省 → 1943(昭和18)年・運輸通信省鐵道総局 → 1945(昭和20)年・運輸省鐵道総局 → 1949(昭和24)年・日本国有鉄道
と、このように幾度にも渡り変わっているのです。現在は国営鐵道という存在は消滅し、7社に分割民営化されたJRの管轄となっていることは皆さん御承知の通りです。
話を戻しまして、運輸省鐵道総局の工事担当部局は蒸気機関車をアメリカ軍機の攻撃から守るため、蒸気機関車避難壕の建設を計画します。
地理的に機関区から程近く、岩盤が強固な山腹であることを条件に検討したところ、米原駅から北方約2kmに位置する岩脇山(いをぎやま)が選定されました。
掘削作業には労働力として徴用された朝鮮人が動員され、作業現場の近隣にバラック小屋を建設して居住させ、昼夜を問わず突貫工事を展開したと伝聞されています。現在の米原市梅ヶ原にかつて存在した大阪俘虜収容所第10分所に収容されていたアメリカ及びオーストラリア軍の捕虜(当時は入江内湖の干拓事業に従事)や、米原の周辺住民には一切作業に従事させなかったことから、秘匿・機密の色合いが非常に濃厚であったことを窺わさせます。
作業現場までは東海道線(現在の上り線)から土砂搬出用のトロッコ専用引込線が敷設され、火薬(ダイナマイト)・スコップ・ツルハシ・トロッコを用い、人海戦術でもって敢行されました。
蒸気機関車避難壕は2本計画され、1号壕は130mで貫通。2号壕は山の両面から各52mまで掘り進められましたが、ここで終戦を迎えます。
戦後はゴミ捨て場として長きに渡り放置されていました。しかし地元有志で結成された岩脇まちづくり委員会が戦争の悲劇を風化させないために保存することを決定。
平成20(2008)年10月から10ヶ月を掛け整備し、様々な困難や障害を乗り越え、平成21(2009)年8月には公開に漕ぎ着けました。
当時はかなりの突貫作業であったようで、湧水は各所から滴り落ち、とても蒸気機関車をすんなり隠せるようなコンディションには見えません。ですが目的を達成するために難工事を強いられたであろうことはひしひしと伝わってきます。
特に貫通しなかった2号壕の岩盤にはダイナマイトの雷管を挿入するために空けたと思われる穴が各所に残っています。
また1号壕の上部には、蒸気機関車の煤煙を逃がすための通気口となる予定であったと思われる穴もあります。
さらに掘削時、ダイナマイトを装填する際に用いたであろう雷管挿入棒と思われるものも発見されています。
こちらは現在、いをぎまちづくり資料館にて展示・保存されています。
昨年、米原市の「米原地域創造会議支援事業」の一環として、蒸気機関車避難壕を始めとする岩脇山全体の環境整備が岩脇まちづくり委員会によって実施されました。
その際、軟弱な岩盤や湧水による浸水の影響でこれまで非公開としていた反対側(北側掘削口)が整備され、貫通していた1号壕は通り抜けでの見学が可能となりました。
またいをぎまちづくり資料館も建設され、休憩所を兼ねて、これまでの岩脇まちづくり委員会の活動内容が克明に記録・展示されています。
今回の取材は、昨日NHK大津放送局のアナウンサー・高鍬 亮さんに同行して実施したものなのですが、この日偶然にも滋賀県平和祈念館主催の夏休みミュージアム・スクール「へいわの学校・あかり」が現地で行われ、途中この勉強会にも同行させていただきました。
原則親子での参加ということのようですが、小学生から年配の方まで幅広い年代層の方々が戦争のもたらす理不尽な事象を肌で感じ取っておられたように思います。子供達には「戦争の足跡」と言ってもピンとはこないかも知れませんが、大人になって「同じ過ちを繰り返さない」「平和の礎となった先人達の労苦を無駄にしない」という思いを改めて考える際の経験の糧となってくれればと願わずにはいられません。
なお蒸気機関車避難壕ですが、安全管理の都合上、平常非公開となっております。見学を希望される方は、岩脇まちづくり委員会の藤本傳一さん(TEL:0749-52-1830)まで直接お問い合わせください。
最後に今回の取材にご協力いただいた岩脇まちづくり委員会の会長・藤本傳一さん、副会長・廣田 勉さん。番組取材並びに企画統括のNHK大津放送局アナウンサー・高鍬 亮 さん。
そして敦賀港に関する歴史をご教授頂いた旧敦賀港駅舎のボランティアスタッフの皆さん。長浜鉄道スクエアさん。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。
最後にもう1つ豆知識を。
長浜鉄道スクエアの北陸線電化記念館には、貨物用蒸気機関車D51形793号機(通称:デゴイチ)が保存されています。
ちなみにこの機関車は蒸気機関車避難壕の工事が進められていた戦中末期、米原機関区に配置されていました。もしこの壕が完成していたら、ここに避難していたかも知れません。
蒸気機関車避難壕は全国で計画されましたが、戦後埋め戻される等して現存しているのはこの岩脇山のみとのこと。
昭和19~20年は増大する軍需・民需輸送と戦況悪化に伴う物資貧窮のジレンマの中で、「戦時型」と呼ばれる部材・構造共に粗雑な蒸気機関車が大量に生産され、各地でトラブルを頻発させていました。そのような中、物流の要衝を支える米原機関区には、戦前に生産され安定した運用実績と良好な機関コンディションを併せ持つ機関車が投入されていました。
これは飽くまでも私見ですが、「攻撃を受けたら客貨車を犠牲にしてでも機関車を隧道(トンネル)に入れて守れ」という指示を乗務員が受けたとの証言もあることから、状態の良い機関車を保護するのは当時至上命題だったのでしょう。機関車の確保にはなりふり構っていられない、そのためには手段を選ばない、例え苦肉の策であろうとも・・・この壕も戦争の生み出した狂気の沙汰の権化とも言えましょう。
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