Category Archives: 湖國寂静紀行

湖國寂静紀行“琵琶湖畔屈指のBeautiful beach・宮ヶ浜”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

さて未だにしつこく近江八幡市の旧近江八幡市エリアをぶらぶら訪れております。

夏のレジャーといえば、大雑把にカテゴライズすると「海」か「山」ですよね。小生は夏という季節が余り好きではありませんので、基本レジャーにも無縁です。

滋賀も夏休み中は新型コロナウイルス感染症感染拡大抑止のための緊急事態宣言が発令され、レジャー関連施設の大半が休業や規制の措置を採っていました。でも関係者の努力や配慮も空しく、特に県外からの観光客の流入が著しかったように感じます。

結果このような悠長な文章が記述出来るのも、原因や要因が未だ判然としないにも関わらず感染者が激減し、緊急事態宣言が解除されてしまったおかげ。感染抑止のための措置に翻弄された方々の気持ちを思うと、手放しで喜ぶなどとても出来ません。

宮ヶ浜より沖島を望む

今回は滋賀でも屈指のBeautiful beachをご紹介するのですが、敢えて夏を外したのはそんな辛い想いをされた皆様へのせめてもの配慮とご拝察ください。

夏になりますと、琵琶湖畔では多くの水泳場(湖水浴場)が開設されます。淡水のため肌にベトつかないということから、特に大阪や京都から多くの利用客が訪れます。特に地形的な利便性から湖西エリアに多く点在し、知名度が高い所では近江舞子水泳場・マキノサニービーチ・松ノ浦水泳場・近江白浜水泳場・青柳浜水泳場・真野浜水泳場などがあります。

でも大半の水泳場は「眼前に琵琶湖と対岸の風景」「白砂青松」「ストレートな横長の砂浜」とシチュエーションはほぼ同じ。でも近江八幡には他の水泳場とは少し趣向の異なるBeautiful beachが存在します。それが宮ヶ浜(みやがはま)です。

宮ヶ浜 東景

宮ヶ浜は内湾の奥地に位置し、また日本で唯一淡水湖に浮かぶ有人島・沖島を正面に眺めることが出来る、琵琶湖の水泳場の中で唯一無二の情景を誇ります

砂浜の総延長は約500mと決して水泳場の規模としては大きくありませんが、内湾の湾曲で何処にいてもビーチ全体が見渡せるというこじんまり感も魅力の1つ

場所的に幹線道路(湖岸道路)からも大きく外れており、ちょっとした隠れ家感があります。

そして何よりも砂浜よりも芝生の部分がとても大きいことから、水浴目的でなくとも寛げるのが最大のメリット。ただ風景を眺めるだけに訪れても損はありません。事実、小生はこの地を夏に訪れたことは殆どありません(笑)。

さらに近辺のエリアはプレジャーボートの航行が禁止されています。近隣には漁港も多く、漁業協同組合所属の船舶の厳しい監視体制もありますから、湖上から雑音は殆ど聞こえてきません。寧ろ時折横切る漁船のエンジンのポンポン音が、却って懐かしさを誘います。

宮ヶ浜 西景

小生の主観だけではなく、このビーチの素晴らしさに関する客観的データもあります。

平成10(1998)年3月12日に環境庁(現・環境省)により発表された日本の水浴場55選。全国38都道府県から推薦された186の水浴場の中で、滋賀の水浴場としては唯一入選しています。

また平成13(2001)年3月23日に 同じく環境庁により発表された日本の水浴場88選。全国40都道府県から推薦された146の水浴場の中でも見事入選しています(同時に滋賀の水浴場としては真野浜も入選)。

つまり「水質・自然環境・景観」「コミュニティ・クリーン」「安全性」「利便性」に於いても公的にお墨付きを頂戴しているビーチなのです。

また余談ですが、昭和52(1977)年7月2日からスタートした鳥人間コンテスト選手権大会も、 昭和54(1979)年7月20日の第3回大会まではこの宮ヶ浜(第4回から現在に至っては彦根市・松原水泳場)で開催されました。

休暇村 近江八幡(東館)

宮ヶ浜単体を堪能するのも悪くはないのですが、ここを訪れたら休暇村 近江八幡も是非愉しんで頂きたいですね。

かつての国民休暇村という名称の方が馴染み深いかも知れません。

国民休暇村は国立公園及び国定公園の集団施設地区に設置された総合的休養施設。旧厚生省により、低廉で健全な宿泊施設を中心として、スキーやキャンプ等といった地域の特性に応じた各種レジャー施設を集団的に整備することが目的でした。自然公園法の公園計画に基き制度化され、昭和36(1961)年度から整備が開始されています。

国民休暇村には国費により国または地方公共団体が整備した基本的公共施設と、年金福祉事業団の直接融資等により財団法人国民休暇村協会が整備した有料施設から構成されていました。

平成24(2012)年4月1日に全ての施設の運営が一般財団法人休暇村協会に移行され、現在は完全な民間レジャー施設として全国35箇所に展開しています。

因みにかつての近江八幡国民休暇村は、後者( 財団法人休暇村協会 )が運営する第1号の休暇村として、昭和37(1962)年7月21日に現在の西館の場所に開業したものです。

昨今は近江八幡初の温泉『宮ヶ浜の湯』や、近江牛をメインとした懐石料理にバイキングが大変好評を博しているとのこと。小生もコロナ禍がもう二段三段落したら、家族と共にゆっくり温泉に浸かり、近江牛に舌鼓を打ちに訪れたいと思っています。

近江鉄道バス(長命寺線 休暇村停留所)

休暇村 近江八幡を訪れていた際、偶然にもリバイバルカラーの近江鉄道バスに遭遇。早速運転手さんに許可を頂いて撮影させて戴きました。

実は去る8月30日の臨時ダイヤ改正で長命寺線・休暇村行きの定期便が平日2便のみとなり、土曜・日曜・祝日の運行が休止となってしまいました。たまたまその最後の休日運行便に遭遇したのです。昔は週末や夏休みには臨時便を運行する程のリゾート路線だったのですが・・・これも時代の流れというものでしょうか。

休暇村 近江八幡では『沖島クルーズ』や宮ヶ浜の『早朝お散歩会』等の体験イベントを通年開催されていますので、詳しくはお問い合わせください。夏には夏の、また夏では味わえない宮ヶ浜を是非訪れてみてください。

なおこれは蛇足なお話ですが、今回情報の正確性を期すべく、正式な取材協力を近江鉄道株式会社へ何度も依頼しましたが、対応の可否すら回答を戴けませんでした。これまであらゆる公共機関・行政・企業・団体・個人に取材協力のお願いを誠意をもって行って参りましたが、全く無視されるのは初めてのケース。子供の頃から個人的にも地元企業として親しみを込めて応援してきただけに、その不誠実な姿勢を大変残念に思いました。昔はそんな会社じゃ無かったのになぁ・・・(泣)。

【取材協力】 休暇村 近江八幡

#宮ヶ浜 #沖島 #近江八幡 #休暇村 #琵琶湖 #水泳場 #鳥人間コンテスト

休暇村 近江八幡

・滋賀県近江八幡市沖島町宮ヶ浜
【TEL】  0748-32-3138
【休業日】  年中無休
【営業時間】 日帰り入浴受付11:00~14:00(入浴利用は15:00まで)
       ※メンテナンスのため、水曜日のみ12:00~14:00(入浴利用は15:00まで)

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湖國寂静紀行“天地開闢の力・天之御中主尊神社”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

8月2日から滋賀県に発令された新型コロナウイルス感染拡大抑止のためのまん延防止等重点措置。8月27日から9月12日、後に30日まで延長して発令された緊急事態宣言。

現状が急激に(数値上)悪化方向へ転じなければ明日でもって規制解除となるのでしょうが、果たしてこのままで良いのでしょうか。実際規制期間中にも関わらず、県外者の流入は相当認められましたし、人流も確実に増加していました。昨年の今頃と比しても、自身の周囲にもコロナが迫りつつあるという危機感を強く感じました。

メディアでの論調でも散見されるように、『感染抑止のための行動が明らかに緩みを生じていたのに何故(数値上の)感染者が減じたのか』について、今こそ徹底的に検証を行うべきと考えます。アフターコロナを1日も早く迎えるためにも必要不可欠なことではないでしょうか。

さて今回も引き続き近江八幡市の旧近江八幡市エリアを訪れております。

突然ですが、皆さんは『有名な日本の神様』といえば、どなたの御名が浮かびますか?

高天原を統べる主宰神で伊勢神宮に祀られる天照大神(アマテラスオオミカミ)。高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界(地)の主宰神で出雲大社に祀られる大国主命(オオクニヌシノミコト)。日本列島を構成する島々を創成した国生みの神で多賀大社に祀られる伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)でしょうか。

でもその前に、『古事記』や『日本書紀』には“天地創造を成した神様”の記述が存在することをご存知ですか?

天之御中主尊神社 参道

先日訪れた鶴翼山(八幡山)の北西。長命寺山の南麓に天之御中主尊神社(あめのみなかぬしのみことじんじゃ)が鎮座御座します。

こちらの神社の存在を知ったのは今から10年前のこと。『むべ』の取材で近くを訪れた際、この神社のことが妙に気になって仕方がない衝動にかられました。後日調査を開始するものの、神社の名前が難解で当時は結局何も解らず仕舞い。仕事の忙しさも手伝って、そのまま忘却の彼方に。

昨年になってふとこの忘却事案を思い出し、再調査を開始。概要は掴み出せつつも、今度は参拝の機会に恵まれないという事態に。なかなか御縁の糸を手繰り寄せられずにいました。

そして今夏。ようやく参拝の機会を得ることが出来ました。

天之御中主尊神社 境内

市道から参道に入り、50m程進むと6台程度パーキング可能な駐車スペースがあります。但し、参道前にある鳥居の幅は非常に狭いので、運転に自信の無い方は近くに駐車された方が良いかも。ある種、ここの神様に拝謁するための最初の関門なのかも知れません。

そして一段高い場所に境内があり、ここから手水舎、拝殿、境内社、本殿と進みます。境内は水がせせらぐ音で溢れています。これにより喧騒が打ち消され、非常に清らかな雰囲気を醸し出しています。

これは飽くまでも私事ですが、小生ととても相性の良い神様に出逢うと、必ず起きる現象があります。別に霊感が強い訳でもありませんし、スピリチュアルカウンセラーでもございません。でも神様と向き合った瞬間、それまで無風だった周囲にそよ風が吹き、鎮守の森がさざめくのです。そう言えば伊勢神宮でも似たような出来事に遭遇したような・・・。

今回も本殿にて奉拝した瞬間、風が吹きました。『ようやく出逢えたな』と歓迎して頂けたようで嬉しかったですね。

なお境内社には伊邪那岐命と伊邪那美命を祀る多賀神社。天照大神を祀る皇大神宮。大国主命を祀る大嶋神社が鎮座御居しまし、まさに日本神話の大御所揃い踏みといった様相です。

天之御中主尊神社 本殿

お話を本題に戻します。

タイトルにある天地開闢(てんちかいびゃく)とは、天地に代表される世界の初めの時のこと。即ち天地創造、宇宙の起源、万物の根源のことを表します。

『古事記』『日本書紀』によると、この大業(但し如何に創造されたかの具体的な記述は存在しない)を成し遂げたのは、三柱の神(造化の三神)と呼ばれる天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)・高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)・神産巣日神(カミムスヒノカミ)であるとされています。

特に天之御中主神は近世に於いて北極星・妙見信仰(北極星・北斗七星を神格化した妙見菩薩を中心とする仏教信仰)とも習合して、至高・根源の神として中心的役割を果たしました。

もうお解りですよね。こちらの神社の御祭神は、その名が示す通り天之御中主神なのです。

また御由緒書には、『天台宗の隆盛の頃、長命寺の鎮守として下八王子を勧請し、虚空蔵大菩薩神社として祀られた。慶長四年造立の棟礼が存するが、創立年代は未詳である。日吉社の七社中の下八王子虚空蔵とあるのを下八王子天御中主命に習って、虚空蔵即ち天御中主尊とし社名を決定したと伝える。明治九年村社に加列。』とあります。

特に神仏習合・本地垂迹の色が濃く、比叡山と天台宗の守護神でもあった日吉大社(大津市)の山王二十一社の1つ、下八王子社(現在は八柱社)から神様をお招きして、長命寺の守護神としたのが現社殿の前身。但し 下八王子社の本地仏が虚空蔵菩薩であるため 、当初はその名を社名に反映させた。しかし明治元(1868)年3月に発布された神仏分離令により、公然と“菩薩”を祀ることが不可能となり、現在の社名に変更。また長命寺との関連も断ち切り、地元の氏神として信仰を護ったと解釈するのが妥当でしょう。

ただ下八王子社の本地仏は虚空蔵菩薩ですが、御祭神は五男三女神(須佐之男命と天照大神の誓約によって誕生した五柱の男神と三柱の女神の総称)であるため、ここから天之御中主神が導き出されたというのは些か疑問が残ります。天之御中主神の本地仏が虚空蔵菩薩であったという事実も見当たりません。ただ熊本県に鎮座御居します四山(よつやま)神社では、同様に虚空蔵菩薩をお祀りしていたものの、神仏分離令により虚空蔵菩薩の徳に相当する三柱の神(造化の三神) 、即ち天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神を祀ることで信仰を護ったという事実が存在することから、どうやら真相はここにあるように思われます。

また創立年代は未詳であることと、神社裏手の山系で津田山の山頂付近に天之御中主神の磐座(天之御中主尊神社奥宮 )が存在することから、古くから天之御中主神はこの地で祀られており、下八王子社勧請の際習合されたとも考えられます。

天之御中主尊神社 奉拝色紙

難解なお話はこれくらいにしておきまして・・・。

色々「謎」に包まれた天之御中主尊神社でありますが、ご利益だけは抜群の高さを誇るようです(但し普段からの正しい行状と崇敬の念が前提ですが・・・)。

実際、日露戦争で当時世界最強と謳われた彼のロシア帝国・バルチック艦隊を日本海海戦で撃滅した名指揮官・東郷平八郎海軍元帥や、読売ジャイアンツ終身名誉監督の長嶋茂雄氏も監督現役時に参拝したと伝えられています。また全国各地から事業主さんを中心に参拝者が訪れているようで、一地方の氏神さんとは思えない崇敬振りです。

奉拝後、写真の色紙を下賜戴きました。然も宮司さんの完全御手製。御守や絵馬は何処の神社でも見受けられますが、このような神職さんの温かみを肌で感じられる授与品は初めて。帰宅後ちゃんと神棚にお祀りしております。

因みに・・・参拝後、仕事でいきなりとある部署を任されました。一時は不採算部門として閉鎖も止む無しと呼ばれたセクションで、「遂に自分もこの部署同様お払い箱か・・・」とも思いました。ところが担当直後から月次平均10%に迫るV字回復。スタッフの皆さんには率先して職場環境改善に協力して戴き、そのお陰で雰囲気がガラリと好転。他部署が業績不振にあえぐ中、今や事業部門内で唯一の回復を果たしています。

これも偏に天之御中主神様の御神徳の賜物と、心より感謝奉る次第です。

沖島・姨綺耶山系 遠景

近江八幡市で琵琶湖に突き出て東西に連なる山々を姨綺耶山系(いきやさんけい)、または奥津島(おくつしま)と呼ばれ、古くは島であったとされています。

近江高天原説では、この山こそが神話の中で伊邪那岐命と伊邪那美命 が世界で最初に創造したという陸地、“おのころ島”で、ここから野洲川に至る湖東平野が高天原ではないかと言われています。

何れにしましてもミステリアスでロマン溢れる、静かなるパワースポットであることには間違いないようです。

まだまだミステリーなスポットを秘めていそうですので、改めてじっくりと下調べを行い、再度訪れてみたいと思っております。

#天之御中主尊神社 #天之御中主神 #近江八幡市 #天地開闢 #古事記 #日本書紀 #天照大神 #大国主命 #伊邪那岐命 #伊邪那美命 #長命寺 #姨綺耶山 #東郷平八郎  #長嶋茂雄

天之御中主尊神社

・滋賀県近江八幡市中之庄町612番地

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湖國寂静紀行“歴史に翻弄された聖地・鶴翼山”(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、歴史に翻弄された聖地・鶴翼山をお届け致します。

かつては「八幡山ロープウェーで山頂を訪れたら村雲御所瑞龍寺門跡の拝観」くらいしか登頂目的がありませんでした。昨今は八幡山城跡がある程度修復され、遊歩道も散策しやすく整備されたので、手軽にハイキングが愉しめるようになっています。

瑞龍寺門跡を出たら、山頂部を反時計回りに散策します。所要時間は約30分です。

鶴翼山西方夕景

その前に、琵琶湖側の麓より望む鶴翼山の姿を御覧ください。実は観光ガイドやパンフレット等で紹介されている姿は、八幡山ロープウェーのある東方から撮影した 寫眞ばかりなのです。

その理由は、それ以外の角度からでは山頂部にある瑞龍寺門跡の屋根が辛うじて見えるだけで、これといった特徴がないからなのです。

平成17(2005)年4月から活動を開始された八幡山の景観を良くする会によって、鶴翼山の森林の保全や縦走路の整備が進められますそして 平成29(2017)年から着手された「石垣見える化プロジェクト」によって、鬱蒼とした雑木や竹林で覆われていた八幡山城の西の丸跡と出丸跡の石垣が露わとなりました。

兵庫の竹田城や岐阜の岩村城には遠く及びませんが、その情景から自身で勝手に『滋賀のマチュピチュ』などと称しております(笑)。最近小生はこの角度からの鶴翼山を大層気に入っております。

八幡山城 本丸跡石垣

八幡山城は放射状連郭式山城と山麓居館の複合体。戦国期に代表される籠城戦を意識した山城と、主に江戸期以降に見られるような城下町に近接して政務の拠点を置くものの、2つの性質を持つ時代の過渡的な城郭でした

もともと八幡山城は、紀州攻略並びに四国征伐で武功を立て近江国の蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の5郡を与えられ43万石の大名となった豊臣秀次のために豊臣秀吉が指揮して造営した城で、安土城と類似した立地に整備されました。

秀次は天正13(1585)年に入城しますが、天正18(1590)年に領地替えにより居城を尾張國・清洲城に移します。その後京極高次が2万8千石で入城しますが、文禄4(1595)年に秀次が謀反の嫌疑で切腹を命ぜられると、京極高次は大津城へ移封。関白時代に秀次が政務の拠点としていた聚楽第と共に、秀吉の命で居館を中心に徹底的に破壊されました。八幡山城は僅か10年で廃城となったのです。

その後八幡山城は荒廃を窮め、更に昭和28(1953)年の台風13号による天守台を含む本丸石垣の崩壊。昭和37(1962)年の本丸跡への瑞龍寺門跡移築。昭和42(1967)年の集中豪雨による本丸跡から居館跡に掛けての大規模な土砂崩落と様々な厄災に苛まれ、関白まで上り詰めた武将の居城跡とは思えぬ様相を呈しています。

まさしく『兵どもが夢のあと』・・・ですね。

正一位 金生稲荷大明神

さて本題の散策に戻ることに致しましょう。

瑞龍寺門跡本堂から東へ約20m。境内に正一位 金生稲荷大明神(しょういちいきんしょういなりだいみょうじん)が鎮座御座します。

瑞龍寺門跡移築と同時に遷座した神社で、少なくとも10年前までは他の多くの稲荷社同様朱塗りの鳥居と本殿だったのですが、何時の頃からかキンキラキンに衣替えしています。

因みにこの装いが示す通り金運上昇にご利益が戴けることを思惟しているようなのですが、本来主祭神である宇迦乃御魂命(ウカノミタマノミコト)は五穀豊穣を司る農業紳ですのでお間違えなく。

八幡山城 北の丸跡眺望

瑞龍寺門跡移築の山門を出て本丸跡石垣に沿って歩くと北の丸跡に出ます。

この城の北辺の守りであり、沖島・奥津島山(長命寺山~津田山~伊崎山)方面を監視する役割を担っていたと思われます。

寫眞に映る田園は築城当時内湖であったため、合戦時先述の対岸の山間に敵が布陣した場合、これらを牽制することとなっていたでしょう。

龍神堂

北の丸跡を後にし、西の丸跡に向かう散策路の中間点。瑞龍寺門跡本堂の丁度真裏に小さな祠があります。

水とのかかわりの深い滋賀は、県内各地で水を司る神・龍神にまつわる伝説や信仰の足跡が多数存在します。鶴翼山も例に漏れず、大杉龍神が古くから山の守護神として祀られていました。

しかし長年の信仰の中で痕跡を残すのみとなったことを憂い、第12世貫主・日英尼の発起によって“大杉秀雲龍神”の御神体を新たに彫像。日蓮宗大荒行堂での百箇日に渡る勧請(かんじょう:神仏の来臨や神託を祈願すること)成満の後、昭和62(1987)年4月、ここに龍神堂が建立されました。

築城に際し強行された日牟礼八幡宮の合祀や急迫された曲輪の整備。その後鶴翼山及びそれにかかわる者にもたらされた様々な厄災。この400年に渡る怨嗟の歴史に終止符を打つには龍神の怒りを鎮める他ない。 日英尼だけはそのことに気付いておられていたのかも知れません。

八幡山城 西の丸跡眺望

西の丸跡。八幡山城で最も眺望の開けた場所です。

配置的には城主の縁者(妻子など)たちが詰める場所であったと考えられます。

写真のサイズが他と異なるのは、眺望が通常のワンショットで収まらず、止む無くパノラマ撮影に切り替えたためです。

空と平野と山と湖がほぼ同比率で、鶴翼山随一の眺望が堪能出来るのはここ。訪問時は是非とも晴天に恵まれたいものです。

八幡山城 出丸跡眺望

西の丸跡から少し南側に突出した地に出丸跡があります。ここは観光ルートとして整備が未だ十分に進んでいませんので、積極的な散策はお勧めしません。ただそれだけに 『兵どもが夢のあと』感は、他の何処よりも堪能出来るとも言えます。

出丸は山頂部の曲輪の中では小規模の城の如く、完全に独立した配置となっているという特徴を備えています。また麓の城主や家臣団の居館と直結していたことから、有事の際は先ずここへ退避して、戦闘態勢を整えたのではと推察します。

ここからは眼下に見える日杉山の山容が、手に取るように確認できます。写真では確認し辛いのですが、この山の麓には、国内でも現存例の少ないホフマン窯の1つ、旧中川煉瓦製造所ホフマン窯(登録有形文化財)があります。

村雲お願い地蔵尊

本来は最初にご紹介すべきでしたが、ここは八幡山ロープウェー・八幡城址駅下車後直ぐの瑞龍寺門跡参道沿いに祀られている村雲お願い地蔵尊です 。

周囲にも実に多くの地蔵菩薩が安置されているのですが、その多くが瑞龍寺門跡移築後に水子供養のため祀られたとされています 。

通常は自由拝観なのですが、現在はコロナ禍に於ける感染予防対策のため、屋外からの参拝に制限されています。

八幡山城 二の丸跡眺望

山頂部散策もいよいよ終盤。最後に二の丸跡を訪れました。

曲輪としては本丸に次ぐ敷地面積を誇ります。八幡山城の正面にもあたるため、合戦となればここが主戦場となったやも知れません。ただこれまで見てきた限りでは、山城の縄張りとしては些か構造が単純で、果たして城攻めを受けて実際に何処まで持ち堪えられたのだろうかとの疑念も残ります。

これまでの発掘調査に於いては、廃城となった安土城の資材も活用して急ピッチで築城された可能性があるともされています。当時秀吉が秀次をどのように評価していたのかとも繋がっていくような気もします。

ここからの眺望は他とは異なる趣があります。左手に琵琶湖最大の内湖・西の湖。中央の小高い山は安土城跡。そしてその右手の山には、信長が天下布武を実現するまで永きに渡り南近江の守護大名として君臨してきた佐々木(六角)氏の居城・観音寺城跡があります。

こう見てみますと、中世の時の権力者たちが如何にこの周辺を重要視していたかが窺えます。滋賀中央部の素晴らしい眺望を愉しむだけでも十分ですが、時の権力者の気分でもって戦略的見地で眺めてみるのもまた一興ではないでしょうか。

恋人の聖地

最後の最後に1つ、前回訪問時に見掛けなかったあるオブジェについてご紹介します。

これらのオブジェが歴史に翻弄された地に相応しいか否かはさておき、地域振興の一環でしょうか、鶴翼山(八幡山ロープウェー)は『恋人の聖地』サテライトに認定されています。

恋人の聖地は、特定非営利活動法人地域活性化支援センターが主催する「恋人の聖地プロジェクト」により選定された観光スポットで、「全国の観光地域からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポット」に相応しい、自然に囲まれた場所や夜景の綺麗な場所、記念品がリリースされる場所などが選定されています。因みにサテライトとは、 プロジェクトの主旨に賛同する企業・団体が管理する場所のうち、「恋人の聖地」として相応しいと判断されたスポットを指すとのこと。

滋賀では他にも、びわ湖バレイ/奥琵琶湖 / 名神高速道路大津サービスエリア。サテライトに草津市立水生植物公園みずの森 / 琵琶湖汽船の外輪船ミシガン・客船ビアンカが認定されています。特に後者の2箇所は「恋人の聖地 地域活性化大賞」を受賞しています。

ここは平成26(2014)年に認定を受けたのですが、八幡山ロープウェーの上り最終便がイベント時を除いて16時30分ですし、市街の夜景を見るために暗闇の登山道を走破するリスクも冒せません。散策当日出くわした観光客の何人かがこのオブジェに接し、「何だコレ?」と呟いていたのも耳にしたことから、知名度の観点からもなかなか厳しいものがあります。

ですので「新たな鶴翼山の歴史」を見出すためにも、インスタ映え(?)するこれらオブジェを探してみるというのも、更に一興ではないでしょうか。何卒ご検討くださいませ。

#鶴翼山 #八幡山 #近江八幡市 #琵琶湖 #八幡山城 #安土城 #観音寺城 #恋人の聖地

【おしまい】

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湖國寂静紀行“歴史に翻弄された聖地・鶴翼山”(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

日本がコロナパンデミックに陥り早1年半。政治は決定的且つ抜本的な対策を打ち出せず、小生の予想通り感染は鎮静化どころか爆発的拡大の一途。おまけに次々と出現する変異株というに進化を遂げて、制圧の目途も立たぬ始末です。市民は氾濫する情報と頻発される“要請という名の自主規制”に翻弄されて、疲労困憊且つ疑心暗鬼に苛まれています。

感染拡大の要因はイベントでも飲食店でも酒でもありません。私たち1人1人が他者を思い遣り、自己の満足に奢らず如何に倫理的に行動出来るか。いま誠の日本人の心を持つ者か否かを試されています。

さて今回は近江八幡市の旧近江八幡市エリアを訪れております。

皆さんは鶴翼山(かくよくざん)と呼ばれる山をご存知ですか?どちらかと言えば、通称の八幡山(はちまんやま)の方が馴染み深いかも知れません。では何故、鶴翼山と呼ばれるのでしょうか。

鶴翼山(八幡山)全景【Google Earth】

今はこんなに便利なツールがあるんですよね。上写真は東側から見た鶴翼山(八幡山)の全景です。

かつては法華峯、比牟禮山(東麓にある日牟禮八幡宮に由来する)とも呼ばれていました。「鶴が翼を拡げている姿に山容が似ている」から命名されたとのことですが、これは決して上空からのものではありません。現在は高層階の建物が増えてきたため確認し辛いのですが、鶴翼山から東方に約3~4km離れた辺り(JR琵琶湖線・近江八幡駅~安土駅中間点辺り)から眺める山容がそれ。山頂を基点として両方の翼。南方にある日杉山を頭に見立てると、まさに飛翔する鶴の姿に見えたのです。

国土地理院の地形図にも記載されている正式名称なのに余り定着していないこの鶴翼山の名称。明治時代の書物や資料には鶴翼山の記載が散見されますが、本来の命名の経緯は判然としません。ここからは飽くまでも小生の仮説ですが、恐らく地域振興や神仏分離など何らかの理由で明治以降に鶴翼山の名称が与えられたのではと推察致します。

日牟禮八幡宮

さてまずはこの短い旅の安全を祈願して、鶴翼山東麓に鎮座御座す日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)に参拝。

日牟禮八幡宮は第13代天皇・成務(せいむ)天皇が高穴穂宮(たかあなほのみや:古代に滋賀県大津市穴太地区に存在したと伝承される皇居)にて即位した131年に、武内宿禰に命じてこの地に大国主神を祀ったのが草創とされています。

平安時代中期の正暦2(991)年。第66代天皇・一条天皇の勅願により宇佐八幡宮を勧請し、山頂に上の八幡宮を造営。この時に現在の御祭神である第15代天皇・応神天皇が神格化された八幡神、所謂誉田別尊(ほんたわけのみこと)が祀られています。また平安時代後期の寛弘2(1005)年には遥拝社として現在の地に下の社が建立されました。

しかし、天正13(1585)年に豊臣秀次が八幡山城を築城するため上の八幡宮を下の社に合祀。さらに日杉山へ遷座することになっていましたが、天正18(1590)年に秀次が領地替えにより居城を尾張國・清洲城に移したため、現在の地に落ち着きました。よって日牟禮八幡宮は鶴翼山とは因縁浅からぬ関係にあるのです。

でも色々とお話致しましたが、男衆が異粧華美な姿で神輿同士を取っ組み合いさせる祭事、左義長まつりが最も有名ですよね。

八幡山ロープウェー

いよいよ山頂を目指します。 日牟禮八幡宮から登山道が整備されていますが、所要時間は約30~40分。自然を堪能しつつ山歩きをしたいという方にはおススメですが、今年の夏は特に暑いうえにマスク着用で呼吸も苦しい・・・ここはひとつ、八幡山ロープウェーを利用したいと思います。

日牟禮八幡宮楼門から徒歩1分にも満たない場所に山麓側の公園前駅があります。昭和37(1962)年11月23日に開業した 八幡山ロープウェーは、全長543m、高低差157m。現役の県内索道(ロープウェイ)線としては最も古い歴史を誇ります。

近江八幡市街遠景

運行は15分間隔、山頂側の八幡城址駅までの所要時間約10分。搬器から眺める近江八幡市街は、八幡山城の城主として秀次が君臨した僅か5年の間に整備された城下町が基礎となったもの。

京都のように碁盤の目の街並みは、戦乱の世が終わりを迎えようとしていたことが窺い知れます。また街並みと共に東方に拡がる湖東平野の情景も愉しめます。

ここで小生が以前から抱いていた疑問を1つ。県内でも他に景勝地が多く存在し、特にこれといったアミューズメントも存在しないこの山に、何故親会社の近江鉄道が高度成長期の真っ只中とはいえロープウェイを建設したのか?

実は当時、観光都市建設を目指していた近江八幡市。県が計画していた安土城復元が文部省文化財保護委員会からの横槍で実現不可能となったことを受け、鶴翼山に山上遊園地の建設や八幡山城の再興で一大アミューズメントパークを整備しようと計画していたのです。ここに民間として参画したのが、かつて西武鉄道の親会社であった国土計画。後程触れますが、山頂の瑞龍寺門跡を京都より移築したのもその一環でした。

結局実現したのは瑞龍寺門跡の移築のみ。言わば八幡山ロープウェーはその「兵どもが夢のあと」の名残なのです。

村雲御所 瑞龍寺門跡 山門

八幡城址駅を降り、山中の遊歩道をそのまま10分程歩きますと、樹林の中に立派な山門に辿り着きます。

ここが村雲御所瑞龍寺門跡(むらくもごしょずいりゅうじもんぜき)です。

カエデの木々に囲まれているので紅葉シーズンの散策が余りにも有名ですが、夏は夏で爽やかな緑の情景にも大変趣があります。

因みに村雲御所とは、最初に京都嵯峨の村雲の地で天皇家の勅願所として開創したことに由来するもの。門跡とは皇族や公家、及びその流れを汲む人物が代々住職を務める特定の寺院のことを指します。

村雲御所 瑞龍寺門跡 本堂

秀次の実母であり、豊臣秀吉の姉でもあった(とも:後に出家して日秀尼)は、高野山で蟄居の末自害した秀次並びに三条河原で処刑されたその妻子の菩提を弔うため、以前から帰依していた日蓮宗による寺院創建を模索していました。

文禄5(1596)年。この話が時の帝、第107代天皇・後陽成天皇の耳に達し、現在の京都・二尊院の北辺に寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1,000石を下賜され、そして菊紋の使用と紫衣の着用が認められて、慶長1(1596)年に開創が叶います。

以後瑞龍寺は日蓮宗で唯一の門跡寺院及び勅願所となり、皇女や公家の娘を迎え、代々尼僧が貫主を務めました。

江戸幕府3代将軍・徳川家光により二条城内の殿舎一宇を客殿として寄進され荘厳を窮めますが、天明8(1788)年の大火により全焼。その後、第9世貫主・日尊尼が晋山(しんざん:新たに住職となる者が初めてその寺に入寺すること)し、寺地を嵯峨から西陣(現在の堀川今出川付近)に移転。28年掛けて諸堂宇を再建し、見事に復興を果たします。このことから日尊尼は村雲御所中興の祖と仰がれています。

村雲御所 瑞龍寺門跡 堂内

明治4(1871)年に門跡制度は廃止されますが、明治9(1876)年から下賜金が支給。明治21(1888)年には「御由緒寺院」として門跡寺院同様の待遇となり、皇室からの庇護を受けられるようになりました。しかし大東亜戦争終結後補助制度は廃止。檀家を持たない瑞龍寺は、たちまち経済的窮地に立たされます。

また昭和29(1954)年頃に表面化した日蓮宗側との寺院経営に対する軋轢で寺院は荒れ放題に。昭和35(1960)年には日蓮宗久遠寺派からの恩恵無しとの理由で離脱を表明(後に宗派と和解)。直後に瑞龍寺財産の不当処分が発覚し、貫主罷免問題にまで発展。台所事情は益々逼迫し、負債は膨らむばかり。挙句管財人の管理下に入り、宗教法人による処分広告が出される凋落振り。日秀尼ゆかりの門跡寺院は、まさに風前の灯火でした。

そこで当時、滋賀県選出の衆議院議員で西武鉄道グループの創業者でもあった堤康次郎に、 第11世貫主・日浄尼が斡旋と調整を嘆願。観光都市を目指していた近江八幡市は、観光の起爆剤として秀次の母・ 日秀尼ゆかりの瑞龍寺を受け入れることを企図。鶴翼山市有地の一部(八幡山城本丸跡周辺)を寺地として提供することに。民間として観光都市計画に参画していた西武鉄道グループは、瑞龍寺の負債負担と京都からの移築(本堂・玄関・山門・庫裏)に尽力。

これにより、八幡山ロープウェー開業と同日に、鶴翼山への移築を果たしました(但し日浄尼は完成を見ることなく遷化 )。

村雲御所 瑞龍寺門跡 妙法の庭

復元竣工後も約3年の間、貫主不在の時代が続きました。 昭和40(1965)年9月に襲来した台風22・23号により本堂に甚大な被害を被り、再び荒廃が進みます。同年 に晋山した第12世貫主・日英尼は、家庭の不幸から出家に追い込まれた身上を鑑み、生涯瑞龍寺の再興に尽力することとなります。

上写真の妙法の庭は戦時中に八幡防空監視哨が設置されていた場所で、戦後破却され瓦礫の山と化していました。瑞龍寺移築後もその状況は変わりませんでしたが、日英尼が長い年月を掛けて瓦礫を撤去し整備したものです。拝観当日は再整備が行われていました。

小生の父は生前、昭和43(1968)年6月23日に斎行された日英尼晋山式に動員された時の事を、「近江八幡駅には赤い絨毯が敷かれていた。まるで天皇陛下の行幸か大名行列かのような御行列だった。」と振り返っていたのを記憶しています。

また日英尼晋山の折、養女となって執事長を務め、昭和63(1988)年に晋山した第13世貫主・日凰尼は、 日英尼とともに瑞龍寺の再興に尽くし、かつてのタカラジェンヌ・桜 緋紗子(さくらひさこ)の知名度もあって、来訪者の人生相談に親身に応じ、その名を知られました。

村雲御所 瑞龍寺門跡 あかり展(宮御殿『雲の間』)

開創以来代々尼僧が貫主を務めてきた瑞龍寺でしたが、平成23(2011)年に晋山した第15世・日英上人から、男僧が後継を担うこととなりました。その日英上人も令和1(2019)年に遷化され、再び貫主の座が空白となっておりましたが、此度執事長を務められていた詫間殊光氏が、来春新たな貫主に晋山されることが決定しました。

これまでイベントらしいイベントを行ってこなかった瑞龍寺ですが、昨年から『和』をモチーフとした催事を近江鉄道と共催。去る4月29日から5月30日に本堂の宮御殿『雲の間』にて行われた滋賀初のあかり展は好評を博し、6月27日まで開催延長されました。

村雲御所 瑞龍寺門跡 風&和傘 和の競演

詫間執事長は今春より老朽化する建造物等の再整備に着手されています。本堂の外壁や廊下の床板の磨き直し、長年放置されていた家具や雑貨及び瓦礫等、計5トンの不用品を処分。また京都の絵師・木村英輝氏に回廊の壁画制作を依頼。妙法の庭は枯山水とし、能舞台が設けられました。7月15日にはこの能舞台のこけら落としの雅楽演奏が行われました。

現在、屏風と和傘による「和の競演」が8月31日まで、木村英輝氏の四季屏風展が10月31日まで開催されています。詫間執事長は今後とも整備を継続し、人々の安らぎやエネルギーを得られる場となればと意欲を見せておられます。

今年で開創425年、鶴翼山への移築から来年で60年。歴史に翻弄された門跡寺院は、この節目でどのような進化を遂げるのか見届けたいものですね。

今回の記事作成にあたり、近江八幡市総合政策部文化観光課文化財保護グループの才本さんには多大なるご協力を賜りました。この場を借り厚く御礼申し上げます。

【取材協力・資料提供】 近江八幡市総合政策部文化観光課/八幡山ロープウェー

#鶴翼山 #八幡山 #近江八幡市 #ロープウェイ #村雲御所  #瑞龍寺門跡  #日牟礼八幡宮

村雲御所 瑞龍寺門跡

・滋賀県近江八幡市宮内町19−9
【TEL】  0748-32-3323
【拝観時間】 9:00~16:10
【拝観料】  500円 ※特別展により10月31日まで600円

八幡山ロープウェー

・滋賀県近江八幡市宮内町257
【TEL】  0748-32-0303
【営業時間】 9:00~17:00 ※上り最終16:30
【料 金】  おとな・・・ (片道)500円/(往復)890円 ※12歳以上
       こども・・・ (片道)250円/(往復)450円 ※ 6歳以上12歳未満
 ※2022年1月25日~2月10日は設備更新工事のため運休となります。

【後篇へ続く】

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湖國寂静紀行“北近江の奥座敷・須賀谷”(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き“北近江の奥座敷・須賀谷”を巡り歩きます。

須賀谷案内板

さてもう一度、須賀谷への玄関口に戻ってみます。前篇では須賀谷温泉をご紹介致しましたが、案内板には片桐且元(かたぎりかつもと)の出生地とも併記されています。

歴史好きの方ならまだしも、『片桐且元って誰?』という諸氏もいらっしゃるでしょう。それにしましてもこの案内板、歴史に特段興味の無い方にも「へぇ~」と思って戴ける表記の工夫が必要ですよね。

片桐且元

この方が片桐且元です。どのような人物かを簡単にご説明致します。

もともと父ともども浅井長政に仕えていました。浅井氏滅亡後に湖北の領主となった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が地元で広く優秀な人材を募っていた際、石田三成と同じ様に仕官しました。織田信長亡き後、跡目争いをめぐって織田家臣団の勢力抗争が勃発。その後天下分け目の戦いとなった賤ヶ岳(しずがたけ)合戦で、福島正則や加藤清正らと共に活躍し、一番槍の功を認められて賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられます。以降秀吉の腹心の一人として活躍し、やがて秀吉の子・秀頼の傅役(もりやく)、関ケ原合戦後は豊臣家の家老にまで上り詰めます。最後まで豊臣家に忠義を尽くし、当時勢力を拡大しつつあった徳川家康との調整役をも担います。しかしこの調整役という立場が仇となり、秀頼の母・淀殿の側近たちに家康との内通を疑われ、大坂の陣を前に豊臣家を去ることとなります。以後は家康に仕え、大和竜田藩1万石の初代藩主となり、豊臣譜代の武将には珍しく後世に家名を残しました。

この須賀谷はそのような戦国武将の出生地と伝えられています。前説はこの程度にしまして、須賀谷温泉から先へ歩みを進めると致しましょう。

須賀谷集落

谷間の狭い場所に位置する須賀谷集落。1872(明治5)年は戸数9軒・人口40名、1979(昭和54)年には戸数8軒・人口32名。現在も然程規模に変化は無く、近世より限界集落の様相を呈していたように思われます。

江戸時代は彦根藩領となり、村高は江戸期を通して51石余(およそ7.7トン)。稲作を除いて他に産業は無かったようです。

須賀谷川

小谷山を水源地とし、集落の中心を流れる須賀谷川。小さな川ながら相当の流量を呈します。

浅井氏は1570(元亀元)年、姉川合戦で織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、そのまま滅亡したように思われている節があります。でも実はその後3年間も信長と対峙し、最終局面となった小谷城合戦でも、約1ヶ月に渡り籠城戦を展開しています。その長期戦を耐えたのには、この豊富な水の存在が大きかったに違いありません。

神明宮

集落の中央部には、長政の父・久政が1548(天文17)年に建立したと伝わる神明宮があります西隣の集落・長浜市小谷郡上町(旧湖北町郡上)に鎮座する尾崎神社(明治8年に神明宮より改称)の末社で、イザナギノミコトを御祭神とします。

小谷郡上町は戦国時代、清水谷と呼ばれ、小谷城の武家屋敷エリアの中枢でした。しかし勢力拡大と共に新たに武家屋敷エリアの造成を迫られます。その場所として選定されたのが須賀谷で、この集落誕生の契機となりました。

尾崎神社は浅井氏に少なからず所縁があるため、新たな武家屋敷エリアに神明宮が分祀・建立されたのではないかと推察致します。なお写真には写ってはいませんが、境内には地蔵堂や鐘楼があり、神仏習合の名残とはいえ、とても奇異な印象を受けます。

観音堂跡石積

集落から外れ、道は徐々に狭く傾斜もきつくなってきます。すると今にも自然へと還りそうな石積が忽然と出現します。ここは片桐且元に所縁のある観音堂跡です。

且元は父ともども、浅井氏滅亡のその時まで織田方を相手に死力を尽くしました。急速に勢力を拡大した浅井氏は、二代・久政の失政で混乱を生じ、譜代の家臣も少なかったことから、家臣団の結束は些か脆弱でした。

そのような中で片桐氏への信任は厚く、長政は浅井三代(亮政-久政・長政)の御守本尊であった仏像を落城の難から守るために、且元に命じてこの地に避難、安置したと伝えられています。

片桐且元公居館(須賀谷館)跡

観音堂跡を過ぎると、昨今は人の手が入らなくなったためか、次第に道も荒れ、倒木で通行もままならなくなります。やがて山中には不自然な削平地に出逢います。ここが片桐且元公居館(須賀谷館)跡になります。

片桐且元公居館と言うよりも、父・片桐孫右衛門直貞が築いた居館と表現する方が妥当でしょう。且元はここで出生し、小谷城落城時の17歳まで過ごしたと思われます。

直貞が居を構える前は、浅井氏庶家の所領であったようです。それが久政による武家屋敷エリアの新規造成を機に直貞がこの地を治めることとなった模様です。

片桐且元公頌徳碑

国道365号の分岐から約1.5km。須賀谷の北限に到達。しかも標高差は何と約46m。集落が一望出来る高さとなりました。道理で息が上がるハズです(笑)。

ここには片桐且元公頌徳(しょうとく)があります。頌徳とは徳を褒め称えること。数ある戦国武将の中では目立たない部類の且元ですが、ここ須賀谷では誇るべきヒーローなんでしょうね。

片桐孫右衛門直貞墓

片桐且元公頌徳碑の向かいには、且元の父・片桐孫右衛門直貞の墓がひっそりと祀られています。

片桐氏は、もともと信濃源氏の名族で伊那在郷の御家人であった片切氏の流れを汲みます。本流が片切郷に残る一方、支流は鎌倉時代初期に美濃國や近江國に進出して「片桐」に改姓しました。浅井氏に仕え、配下の国人領主となったのは直貞の代からと言われています。

また直貞は小谷城落城の前日の日付で、長政から感状(戦功のあった者に対して主家や上官が与える賞状)を受けています(『浅井長政書状』)。浅井氏の家臣として最後まで忠義を貫いた直貞ですが、生没年、小谷城落城後の動静、且元への家督移譲時期等、不詳な部分が非常に多いのです。

加えて豊臣家の直参として重責を担った武将の父の墓所としては、余りにも扱いが粗略に感じます。敗者の側の末路としては致し方ないのかも知れませんが、小生はそれだけでは無いような気がします。これは飽くまでも私見ですが、浅井氏恩顧の直貞は、主家を滅亡へと追い遣った張本人である羽柴秀吉に仕官した且元を許せなかったのではないでしょうか。一方且元は敗者の浅井氏に何時までも義理立てする父に嫌気が差していた。そしてこれが契機となり、互いに父子の関係を断絶させた。それこそが且元の父・直貞に対する扱いに表れているように思うのです。

最後に実はここ須賀谷の地名の由来は、この直貞が大きく関係しています。

江戸時代中期の1734(享保19)年に完成した、近江國の自然や歴史等についてまとめた地誌『近江輿地志略』には、「相伝浅井下野守久政小谷山に城を築くの日、此地を家士の屋敷地とし其名を撰ぶ。浅井の家士片桐孫右衛門といふ者此谷に鷹の巣をかくる岩あるを以て巣ヶ谷と改む」と記述されています。

簡単に説明しますと「浅井久政の家臣・片桐孫右衛門が主君の命を受けて、谷に鷹の巣が掛かる岩を見たことに因み、この地を巣ヶ谷と名付けた」となります。この一文を見ただけでも、直貞が浅井氏の家臣の中でも特段信頼を得ていたことが伺えます。

さて今回、小谷山の麓、谷間の小さな寒村・須賀谷をそぞろ歩きました。“とある鄙びた温泉”“とある戦国武将の生まれ故郷”・・・共に観光振興の資源としてはとても弱いものです(実際に活かし切れているとは思えません)。でも色々と探求していくと、とても興味深い素材を内に秘めていることが解りました。こういった素材を地道に拾い集めて、より多くの方々にご紹介出来ればと思います。

近くにまた別の戦国武将の生誕地がありますので、機会を見つけて訪ねてみたいと思います。さてはて本丸の小谷城攻略は何時のことになるのやら・・・(笑)。

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湖國寂静紀行“北近江の奥座敷・須賀谷”(前篇)

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私事ではございますが、何時も記事タイトルには“副題”を付けております。しかしこれが意外と頭痛のタネだったりします(笑)。負担軽減(?)のためにも、今後は「滋賀の小さな徒然旅」は湖國寂静紀行(ここくじゃくじょうきこう)として、カテゴリーを順次整理統合して参る所存です。

さて今回は長浜市の旧浅井町エリアを訪れております。

ここは、昨今名将としての実力が再評価されている戦国大名・浅井長政のお膝元。因みに浅井は“あざい”と読むことが意外と知られていない事実。それはさておき、ここに来れば歴史好きならやはり長政の居城・小谷城跡を訪れることはテッパンな訳で・・・。

小谷山(小谷城跡)

確か小谷城は日本五大山城の1つ。本丸は標高495m、小谷山の頂上部。麓から遠い目で小谷山を眺め遣ること約10分・・・今日は健脚に一抹の不安を覚えたため攻略を断念(苦笑)。

しかしここまで来て何もせず帰路に就くのも、何とも芸の無い話。「そう言えばスガタニはこの近くであったハズ」と思い出し、早速ナビを頼りに訪れることと致しました。

スガタニとは数少ない滋賀県内の温泉地の1つ。子供の頃からその名は存知していましたが、老人会の皆さんが旅館の送迎バスで出掛けて行ったところ・・・小生の認識はその程度なのでした。

須賀谷案内板

小谷山登山口から国道365号を南下すること約1km。交通量が少ないので漫然と運転していたら見逃してしまいそうな案内板に従って山間の細道を進みます。

然程勾配を感じない道ですが見通しが良くないので比較的ゆっくりとクルマを進めました。そのせいか行けども行けども温泉街や集落は見えず、山と田圃の風景が続くばかり。

須賀谷温泉(新館)

国道365号の分岐から進むこと約1km。忽然と大きな宿泊施設が出現します。これが須賀谷温泉です。小生が幼少の頃より抱いていた「鄙びた~」イメージとは少し異なりました。

ここは温泉地と申しましても、御宿は1軒しかありません。足湯施設や公衆浴場もありません。また滋賀は火山帯の地質ではありませんので、源泉は13℃の冷鉱泉。当然有名な温泉地のようにもうもうと湯煙が立っている訳でもありません。よって“温泉街”というものは存在しませんでした。

さて、ここで須賀谷温泉の歴史に触れてみたいと存じます。

泉源は古くから地下水が湧出しており、戦国時代に浅井長政や妻・お市の方を始め、浅井氏所縁の諸将が湯治に通った温泉と伝えられています(但しこのエピソードを記述した文献を特定するには至りませんでした)。その後浅井氏の滅亡とともに、この温泉の存在は約350年もの間、歴史の陰に忘却されてしまうこととなります。

須賀谷温泉湯元

1921(大正10)年のこと。当時この地の所有者であった大野宗八はこの伝承を聞きつけるや、湧水を沸かし入浴を試みます。すると芯から温まり、湯冷めも無く、身体に非常に良いことを知ります。

早速宗八はこの湧水の分析を内務省大阪衛生試験所に依頼。結果、浴用や貧血や神経痛などの内用にも効果がある旨の証明書が、1923(大正12)年12月5日付で交付されます。

須賀谷温泉(昭和舘)

内務省のお墨付きを得た宗八は、5年後の1923(昭和3)年2月。この地に温泉旅館を建設。須賀谷温泉・昭和館と命名し、本格的に温泉事業へと乗り出します。

しかし日本が第2次世界大戦へと突入し、物資貧窮の中、不要不急の温泉旅館の経営は困難を窮め、止む無く休業を強いられます。戦後も営業再開は叶わず、宗八は志半ばで他界することに。ようやく日の目を見た須賀谷の湯でしたが、このままその灯は消えゆくかに思われました。

1961(昭和36)年。高度成長期の好景気の中、浅井町が観光振興の一環として温泉の再開発を計画。宗八の相続人であった大野武雄より、温泉の権利と泉源地370㎡を譲り受け、道路等のインフラを整備します。

須賀谷温泉(旧舘)

1970(昭和45)年に温泉再開に向けた再開発事業が完了。翌1971(昭和46)年には新たな温泉旅館が開設されました。

その後、浅井町の施設として老人センターや勤労者憩いの家が建設され、町民の保養所はもとより北近江の奥座敷としての地位を確立しました。

主に団体客や地元の宴会需要に支えられてきた須賀谷温泉。長浜や彦根といった主要駅から、定期的に送迎バスを運行するほどの盛況振りでした。しかし施設の陳腐化と利用者の嗜好性の変化への対応、転換を余儀なくされます。そして2004(平成16)年9月。新たに高級感と快適性をコンセプトとした新館を開設し、現在に至ります。

決して順風満帆な温泉人生を送った訳では無かったことを、今回の訪問で初めて知りました。でも節目節目の歴史の流れを現地で垣間見られるというのは非常に珍しいのではないかと思います。

最後に須賀谷温泉最大の謎について迫ってみたいと思います。

須賀谷温泉(左・褐色湯/右・透明湯)

「ここの温泉は何故“褐色湯”と“透明湯”が併存するのか?」という疑問。県外の利用者や温泉愛好者からも、「透明の方は“ただの沸かし湯”ではないのか?」と訝る声もあるとか。

温泉法に基づく規格該当鉱泉で、成分はヒドロ炭酸鉄泉(現在は含鉄-カルシウム・マグネシウム-炭酸水素塩泉と表記)。療養泉(治療の目的に供し得る温泉)には該当しないため、泉質は「無し」となります。簡単に申しますと、温泉法で規定する成分は含有する水ですよということ。

もともとは湧出時に酸化して赤茶色となる鉄泉のみを湯元としていました。同じ長浜市内にある長浜太閤温泉も近似の成分のため、同様の色をしています。

新館建設時に新たな地下水の湧出を認め、成分検査を実施。結果本来の源泉と成分はほぼ近似しているものの、何故か透明のまま変色しないようです。よって湧出量の多い地下水(透明湯)を露天風呂と内湯に使用し『秘湯』として。本来の湯元の鉱泉(褐色湯)は内湯の一角に『源泉』として棲み分けて使用しているというのが、どうやら真相のようです。

滋賀県下の温泉で初のかけ流し式を実現した須賀谷温泉。現在のコンセプトには賛否両論あるようですが、まだまだ発展途上にあり、今後も進化するであろうと思います。小生のお奨めと致しましては、宿泊利用で温泉とコース料理をじっくり堪能し、スタッフのサービスクオリティを体現して貰えれば、その良さの一端を垣間見て戴けるものと存じます。

【後篇へ続く】

須賀谷温泉

・滋賀県長浜市須賀谷町36
【TEL】  0749-74-2235
【休業日】  年中無休
【営業時間】 ※日帰り利用に関しましては新型コロナウイルス感染症予防対策により
        現在変則営業中です。詳しくはホームページにてご確認ください。

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“惜秋”湖東寂静紅葉選・後篇

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紅葉
紅葉

昨日に引き続きまして、“惜秋”湖東寂静紅葉選をお届け致します。

◆太郎坊宮
 (東近江市小脇町)

太郎坊宮(阿賀神社)
太郎坊宮(阿賀神社)

後篇では旧八日市エリアから2箇所ご紹介致します。まずは太郎坊宮(たろうぼうぐう)。標高350mの赤神山(あかがみやま)の中腹にある神社です。

地元の方には“太郎坊さん”の名で親しまれています。

近江鉄道からも、国道421号からでも、山に剥き出しの巨岩・怪石が一際目立ちますので直ぐ確認出来ます。

太郎坊宮の紅葉
太郎坊宮の紅葉

麓から740段の階段を登って本殿へ向かうことも可能ですが、クルマで自動車道を利用して中腹にある駐車場から入山されることをおススメします。

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太郎坊宮から布引丘陵を眺む

参道の紅葉も去ることながら、本殿から望む旧八日市エリアの眺望は絶景です。

ちなみに勝運厄除開運商売繁盛に御利益があるそうですよ。

◆瓦屋禅寺
 (東近江市建部瓦屋寺町)

瓦屋禅寺の紅葉(1)
瓦屋禅寺の紅葉(1)

最後にご紹介するのは瓦屋禅寺(かわらやぜんじ)。標高372mの箕作山(みつくりやま)の山腹にある臨済宗妙心寺派の寺院です。

東側にある旧表参道からハイキングすることも可能ですが、林道延命線をクルマで利用されることをおススメします(太郎坊宮の自動車道からも来訪可能です)。

まさにここは寂静の世界。鳥のさえずりと風の音のみで、不思議と下界の雑音は一切聞こえません。

瓦屋禅寺の紅葉(2)
瓦屋禅寺の紅葉(2)

ちなみに聖徳太子が大阪の四天王寺を建立するため、この地で10万8,000枚の瓦を焼いたとされています。 この寺院はその瓦を管理するために建立したと伝えられています。

瓦屋禅寺の紅葉(3)

なお「“瓦”を冠する寺の本堂が“茅葺(かやぶき)”とはこれ如何に」というツッコミは無しということでお願い致します(^^)

◆ご注意◆
何れのスポットも訪問に際し何かしらの“難点”がございます。決してご無理をなさいませんよう、くれぐれもお気を付けあそばせ<(_ _)>

それでは皆様、ゆったりほっこりの紅葉狩りをお愉しみください(^^)v

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“惜秋”湖東寂静紅葉選・前篇

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滋賀の紅葉は例年よりも早く、そして見頃が短くなりそうな様相です。伊吹山や比良山も初冠雪を記録しました。冬支度もそろそろ始める時期ともなりつつありますね。“おでん”が恋しい季節でもあります

紅葉
紅葉

さて皆さん、紅葉狩りにはもうお出掛けになられましたか?今年も異常な猛暑だったせいか、色付きがとても鮮やかに感じます。

滋賀の紅葉スポットと言えば、湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)”“永源寺”“日吉大社”“比叡山延暦寺といったところが有名どころではないでしょうか。でも一番のネックは、そう異常なまでの“人出”です。晩秋の季節感を楽しみたいけれども、クルマが大渋滞。おまけに人でごった返すのはちょっと・・・と二の足を踏まれる方も多いのではないでしょうか。

そこで今回は小生が取材で(たまたま)知り得た場所で、観光客も比較的少なく、紅葉をゆっくりじっくり堪能できる湖東エリアの隠れスポットを特別に4箇所、2日連続でご紹介致します(^^)

今からでも辛うじて間に合いますし、来年への参考として頂くのも結構かと存じます。

◆延寿禅寺
 (彦根市稲里町)

荒神山

まず最初に彦根エリアから1箇所。彦根市の中西部、琵琶湖岸沿いに一際大きな山容を誇るのが、標高284mの独立峰・荒神山(こうじんやま)。

その南麓に臨済宗永源寺派の古刹・延寿禅寺(えんじゅぜんじ)が あります。少し奥まった場所に位置し、幹線道路からも離れているので、『隠れ里』感たっぷりの名刹です。

延寿禅寺の竹林と紅葉

『竹林と紅葉の山寺』と銘打つ寺院だけあって、 さすが 二者のコントラストは絶景です。おまけに山に囲まれていることもあって喧騒は全くなく、木々の枝葉を抜ける風の音しか聞こえません。

延寿禅寺の紅葉

おまけに参道の階段は苔生して、とても趣があります。少し贔屓目かも知れませんが、京都の古刹の特徴(※枯山水を除く)を全て凝縮したような雰囲気を醸し出しているように思います。

延寿禅寺の竹林と紅葉ライトアップ

なお、こちらでは地域の町おこしの一環として紅葉のライトアップを実施されています。12月1日(日)まで夜の竹林と紅葉のコントラストを楽しめます。

荒神山神社里宮参道の紅葉
荒神山神社里宮参道の紅葉

ちなみに延寿禅寺から麓沿いに東へ車で約5分の場所に、荒神山神社里宮があります。こちらの参道の紅葉もおススメです。近くはドングリの木がたくさん自生していますので、お子さんの『ドングリ狩り』にも如何でしょうか(^^)

◆猪子山公園/北向岩屋十一面観音
(東近江市猪子町)

猪子山公園の紅葉
猪子山公園の紅葉

旧能登川エリアから1箇所、こここそ地元の方のみぞ知る裏スポット。JR琵琶湖線・能登川駅から南方へ約1km、標高268mの猪子山(いのこやま)にあります。

猪子山公園は麓に、北向岩屋十一面観音(きたむきいわやじゅういちめんかんのん)は山頂に、その他山中には100基を超える古墳と巨石祭祀の遺構が点在します。

北向岩屋十一面観音

クルマで登れる林道もありますが、狭くて傾斜がキツく、おまけにヘアピンカーブの連続となっておりますので、ドライビングテクニックに自信のない方には余りおススメ致しません。

北向岩屋十一面観音からの眺望
北向岩屋十一面観音からの眺望

北向岩屋十一面観音から望む琵琶湖の眺望は圧巻です。加えて周辺の山々の紅葉も一望できます。 手前に見える湖は“伊庭内湖(いばないこ)”です。

ちなみに地元のアベック・・・いやいやカップルが夜景を楽しむスポットになっている・・・らしいです(*^_^*)

小生が出向いた際は、紳士1人☓2回&淑女2人組☓1回とすれ違っただけでした(^^)

◆ご注意◆
何れのスポットも訪問に際し何かしらの“難点”がございます。決してご無理をなさいませんよう、くれぐれもお気を付けあそばせ<(_ _)>

それでは、続きは明日。乞うご期待(^^)v

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園城寺夜話(12)“残照・馬場町遊廓”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>  

 

今回の園城寺夜話は、馬場町遊廓(ばんばちょうゆうかく)についてご紹介したいと存じます。

 

馬場町遊郭(1)西日本最大級の歓楽街としてその名を欲しいままにした雄琴(おごと)が大津に位置することは今でも多くの人が知り得るところ。

 

しかし、かつて大津に国内屈指の規模を誇る遊廓(ゆうかく/公許の遊女屋を集め周囲を塀や堀などで囲った区画)が戦後間もない頃まで存在したことは以外と知られていません。

 

この地に遊廓が設けられた確たる時期は判然と致しませんが、大津宿に隣接して、江戸時代初期に現在の長等3丁目辺りに整備されたものと思われます。

 

延宝6(1678)年に藤本箕山によって著された『色道大鑑』によれば、遊廓は全国で25箇所存在し、ここはそのうちの1つとされています。

 

とはいえ「東海道の宿場町・大津に隣接しているとはいえ、何故園城寺の門前町に?」という下衆な勘繰りをせずにはいられません。

 

馬場町遊郭(2)またこの界隈は柴屋町(しばやまち)とも呼ばれ、柴屋町遊廓とも称しました。

 

その他にも大津宿周辺には、真野(長等1丁目)・四の宮(京町3丁目)・稲荷新地(松本2丁目)にも遊里は存在しました。

 

ですが、井原西鶴の『好色一代男』にも登場するこの遊廓は、当時“東の吉原、西の柴屋町”とも言われる程の格式と隆盛を誇っていたようです。

 

街の東西南北の入口に大門を設け、最盛期には廓内に約30軒の遊女屋が存在しました。

 

馬場町遊郭(3)明治以降、芸娼妓解放令の発令、内務省令娼妓取締規則の制定、そして大東亜戦争後のGHQの公娼制度廃止と様々な規制が発せられるものの、バーやスナック、料亭などと看板を変え、遊廓はほぼそのまま赤線の通称で呼ばれて存続しました。

 

 

しかし、昭和33(1958)年4月1日に施行された売春防止法。昭和46(1971)年に開業したトルコ風呂(現在のソープランド)“花影”を皮切りとする雄琴温泉の風俗街化が、この花街の衰退を決定的なものとしてしまいました。

 

流石に江戸時代の建物は残っていませんが、近世から近代へと移行した時期の花街の情景を今でも色濃く残しています。

 

かつて大津スチームバスセンターというソープランドが存在し、花街の残り香的存在として君臨していましたが、近年廃業し、現在は料理屋が建っています。

 

馬場町遊郭(4)格式高い花街として隆盛を誇った馬場町遊廓も、都市開発の波に押され、そのよすがは今や風前の灯です。

 

遊廓・遊里・花街の話題はとかく忌むべきものとして排除されがちですが、かつての日本の文化の一端としてその足跡だけでも残して欲しいと思うのは小生だけではないと思います。

 

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園城寺夜話(3)“What’s 三井古流煎茶道?”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>  

 

今回の園城寺夜話は前回お伝えした閼伽井にも縁の深い、三井古流煎茶道(みいこりゅうせんちゃどう)についてご紹介したいと存じます。

 

三井古流施茶案内さて皆さん、煎茶道ってご存知ですか?

 

茶道といえば一般的には抹茶を用いる抹茶道のことを指しますが、実は煎茶を用いた茶道もあるのです。

 

煎茶道のルーツは中国文化に由来しますが、日本では江戸時代初期に禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖・隠元隆琦(いんげんりゅうき)が始めたとされます。現在でも全日本煎茶道連盟が黄檗宗の総本山・萬福寺(京都府宇治市)に設置され、連盟の会長は萬福寺の管長が兼務することが慣習となっています。

 

形式に囚われず煎茶を飲みながら清談を交わすというカジュアルなスタイルが、茶道の世界において形式化が進みつつあったことへの反発もあって、文人たちや江戸・京都・大坂を中心とした上流階級の間で急速に普及しました。

 

園城寺宝寿院・三井古流煎茶道本部江戸時代後期、文化・文政の頃。

 

園城寺に壷井軒(つぼいけん)という年老いた居士(こじ/出家をせずに家庭において修行を行う仏教の信者のことで千利休が代表例)が住むようになり、悟りを開いて真理を会得することに精進。

 

三井の霊水(閼伽井)をすくって金堂に奉安する弥勒菩薩に献茶し、また参詣の善男善女にも茶を振る舞っていました。これが三井古流煎茶道の始まりであるといわれています。

 

明治・大正期に入ると文明開化の潮流の中で西洋文化がもてはやされ、中国文化に由来する煎茶道は一時衰退を余儀なくされます。しかし昭和、特に大東亜戦争終結後に入り煎茶道復興の動きが各地で活発となり、1960~70年代には隆盛を極めました。

 

三井古流茶道具近年は煎茶の大衆化が進行したことにより煎茶道への関心は薄れつつあり、現在その動静は停滞しています。そのような理由もあって、煎茶道の知名度が低いのかも知れません。ですがそんな時代の流行り廃れに流されることなく、三井古流煎茶道では独自の流儀を保ち、今でも閼伽井で水を汲み、毎日金堂に献茶し、参詣者に煎茶道の愉しみを伝えています。

 

上の寫眞でもお解り頂けるかと思いますが、我々が見慣れている茶道具とは趣が全く異なります。抹茶道の作法とは全く異なるので少し戸惑いますが、一般の方々へのお点前ではスタイルをとやかく言われることはありませんので気軽に体験することが出来ます。

 

金堂から参道を南へ約300m下ったところに、三井古流煎茶道本部が置かれている宝寿院があります。ここで煎茶道を体験することが可能です。でもこの入口の風格に、敷居の高さを感じるのは致し方無きこと。

 

三井古流青山茶会そこで三井古流では、広く一般に開放して煎茶道に親しんでもらおうという行事を桜が満開となる4月、金堂と宝寿院の中間点にある唐院の敷地内で催されます。それが三井古流青山茶会です。    

 

通常宝寿院の茶室で施茶されるものを、気軽に屋外で体験して貰おうという年に1回のイベントです。毎年実施日が異なりますし、たった1日のみの行事ですので、興味のある方は事前に問い合わせされることをおススメ致します。

 

小生もまだ一度しかお点前に参加したことがなく、その時は“何が何やら”の状態でしたので、今度施茶戴く際はじっくりとその神髄に浸ってみたいと思います(^^)

 

園城寺宝寿院 三井古流煎茶道本部

・滋賀県大津市三井寺町246
【TEL】 077-522-9580

 

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