Category Archives: 湖國寂静紀行

湖國寂静紀行“北近江の奥座敷・須賀谷”(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き“北近江の奥座敷・須賀谷”を巡り歩きます。

須賀谷案内板

さてもう一度、須賀谷への玄関口に戻ってみます。前篇では須賀谷温泉をご紹介致しましたが、案内板には片桐且元(かたぎりかつもと)の出生地とも併記されています。

歴史好きの方ならまだしも、『片桐且元って誰?』という諸氏もいらっしゃるでしょう。それにしましてもこの案内板、歴史に特段興味の無い方にも「へぇ~」と思って戴ける表記の工夫が必要ですよね。

片桐且元

この方が片桐且元です。どのような人物かを簡単にご説明致します。

もともと父ともども浅井長政に仕えていました。浅井氏滅亡後に湖北の領主となった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が地元で広く優秀な人材を募っていた際、石田三成と同じ様に仕官しました。織田信長亡き後、跡目争いをめぐって織田家臣団の勢力抗争が勃発。その後天下分け目の戦いとなった賤ヶ岳(しずがたけ)合戦で、福島正則や加藤清正らと共に活躍し、一番槍の功を認められて賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられます。以降秀吉の腹心の一人として活躍し、やがて秀吉の子・秀頼の傅役(もりやく)、関ケ原合戦後は豊臣家の家老にまで上り詰めます。最後まで豊臣家に忠義を尽くし、当時勢力を拡大しつつあった徳川家康との調整役をも担います。しかしこの調整役という立場が仇となり、秀頼の母・淀殿の側近たちに家康との内通を疑われ、大坂の陣を前に豊臣家を去ることとなります。以後は家康に仕え、大和竜田藩1万石の初代藩主となり、豊臣譜代の武将には珍しく後世に家名を残しました。

この須賀谷はそのような戦国武将の出生地と伝えられています。前説はこの程度にしまして、須賀谷温泉から先へ歩みを進めると致しましょう。

須賀谷集落

谷間の狭い場所に位置する須賀谷集落。1872(明治5)年は戸数9軒・人口40名、1979(昭和54)年には戸数8軒・人口32名。現在も然程規模に変化は無く、近世より限界集落の様相を呈していたように思われます。

江戸時代は彦根藩領となり、村高は江戸期を通して51石余(およそ7.7トン)。稲作を除いて他に産業は無かったようです。

須賀谷川

小谷山を水源地とし、集落の中心を流れる須賀谷川。小さな川ながら相当の流量を呈します。

浅井氏は1570(元亀元)年、姉川合戦で織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、そのまま滅亡したように思われている節があります。でも実はその後3年間も信長と対峙し、最終局面となった小谷城合戦でも、約1ヶ月に渡り籠城戦を展開しています。その長期戦を耐えたのには、この豊富な水の存在が大きかったに違いありません。

神明宮

集落の中央部には、長政の父・久政が1548(天文17)年に建立したと伝わる神明宮があります西隣の集落・長浜市小谷郡上町(旧湖北町郡上)に鎮座する尾崎神社(明治8年に神明宮より改称)の末社で、イザナギノミコトを御祭神とします。

小谷郡上町は戦国時代、清水谷と呼ばれ、小谷城の武家屋敷エリアの中枢でした。しかし勢力拡大と共に新たに武家屋敷エリアの造成を迫られます。その場所として選定されたのが須賀谷で、この集落誕生の契機となりました。

尾崎神社は浅井氏に少なからず所縁があるため、新たな武家屋敷エリアに神明宮が分祀・建立されたのではないかと推察致します。なお写真には写ってはいませんが、境内には地蔵堂や鐘楼があり、神仏習合の名残とはいえ、とても奇異な印象を受けます。

観音堂跡石積

集落から外れ、道は徐々に狭く傾斜もきつくなってきます。すると今にも自然へと還りそうな石積が忽然と出現します。ここは片桐且元に所縁のある観音堂跡です。

且元は父ともども、浅井氏滅亡のその時まで織田方を相手に死力を尽くしました。急速に勢力を拡大した浅井氏は、二代・久政の失政で混乱を生じ、譜代の家臣も少なかったことから、家臣団の結束は些か脆弱でした。

そのような中で片桐氏への信任は厚く、長政は浅井三代(亮政-久政・長政)の御守本尊であった仏像を落城の難から守るために、且元に命じてこの地に避難、安置したと伝えられています。

片桐且元公居館(須賀谷館)跡

観音堂跡を過ぎると、昨今は人の手が入らなくなったためか、次第に道も荒れ、倒木で通行もままならなくなります。やがて山中には不自然な削平地に出逢います。ここが片桐且元公居館(須賀谷館)跡になります。

片桐且元公居館と言うよりも、父・片桐孫右衛門直貞が築いた居館と表現する方が妥当でしょう。且元はここで出生し、小谷城落城時の17歳まで過ごしたと思われます。

直貞が居を構える前は、浅井氏庶家の所領であったようです。それが久政による武家屋敷エリアの新規造成を機に直貞がこの地を治めることとなった模様です。

片桐且元公頌徳碑

国道365号の分岐から約1.5km。須賀谷の北限に到達。しかも標高差は何と約46m。集落が一望出来る高さとなりました。道理で息が上がるハズです(笑)。

ここには片桐且元公頌徳(しょうとく)があります。頌徳とは徳を褒め称えること。数ある戦国武将の中では目立たない部類の且元ですが、ここ須賀谷では誇るべきヒーローなんでしょうね。

片桐孫右衛門直貞墓

片桐且元公頌徳碑の向かいには、且元の父・片桐孫右衛門直貞の墓がひっそりと祀られています。

片桐氏は、もともと信濃源氏の名族で伊那在郷の御家人であった片切氏の流れを汲みます。本流が片切郷に残る一方、支流は鎌倉時代初期に美濃國や近江國に進出して「片桐」に改姓しました。浅井氏に仕え、配下の国人領主となったのは直貞の代からと言われています。

また直貞は小谷城落城の前日の日付で、長政から感状(戦功のあった者に対して主家や上官が与える賞状)を受けています(『浅井長政書状』)。浅井氏の家臣として最後まで忠義を貫いた直貞ですが、生没年、小谷城落城後の動静、且元への家督移譲時期等、不詳な部分が非常に多いのです。

加えて豊臣家の直参として重責を担った武将の父の墓所としては、余りにも扱いが粗略に感じます。敗者の側の末路としては致し方ないのかも知れませんが、小生はそれだけでは無いような気がします。これは飽くまでも私見ですが、浅井氏恩顧の直貞は、主家を滅亡へと追い遣った張本人である羽柴秀吉に仕官した且元を許せなかったのではないでしょうか。一方且元は敗者の浅井氏に何時までも義理立てする父に嫌気が差していた。そしてこれが契機となり、互いに父子の関係を断絶させた。それこそが且元の父・直貞に対する扱いに表れているように思うのです。

最後に実はここ須賀谷の地名の由来は、この直貞が大きく関係しています。

江戸時代中期の1734(享保19)年に完成した、近江國の自然や歴史等についてまとめた地誌『近江輿地志略』には、「相伝浅井下野守久政小谷山に城を築くの日、此地を家士の屋敷地とし其名を撰ぶ。浅井の家士片桐孫右衛門といふ者此谷に鷹の巣をかくる岩あるを以て巣ヶ谷と改む」と記述されています。

簡単に説明しますと「浅井久政の家臣・片桐孫右衛門が主君の命を受けて、谷に鷹の巣が掛かる岩を見たことに因み、この地を巣ヶ谷と名付けた」となります。この一文を見ただけでも、直貞が浅井氏の家臣の中でも特段信頼を得ていたことが伺えます。

さて今回、小谷山の麓、谷間の小さな寒村・須賀谷をそぞろ歩きました。“とある鄙びた温泉”“とある戦国武将の生まれ故郷”・・・共に観光振興の資源としてはとても弱いものです(実際に活かし切れているとは思えません)。でも色々と探求していくと、とても興味深い素材を内に秘めていることが解りました。こういった素材を地道に拾い集めて、より多くの方々にご紹介出来ればと思います。

近くにまた別の戦国武将の生誕地がありますので、機会を見つけて訪ねてみたいと思います。さてはて本丸の小谷城攻略は何時のことになるのやら・・・(笑)。

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湖國寂静紀行“北近江の奥座敷・須賀谷”(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

私事ではございますが、何時も記事タイトルには“副題”を付けております。しかしこれが意外と頭痛のタネだったりします(笑)。負担軽減(?)のためにも、今後は「滋賀の小さな徒然旅」は湖國寂静紀行(ここくじゃくじょうきこう)として、カテゴリーを順次整理統合して参る所存です。

さて今回は長浜市の旧浅井町エリアを訪れております。

ここは、昨今名将としての実力が再評価されている戦国大名・浅井長政のお膝元。因みに浅井は“あざい”と読むことが意外と知られていない事実。それはさておき、ここに来れば歴史好きならやはり長政の居城・小谷城跡を訪れることはテッパンな訳で・・・。

小谷山(小谷城跡)

確か小谷城は日本五大山城の1つ。本丸は標高495m、小谷山の頂上部。麓から遠い目で小谷山を眺め遣ること約10分・・・今日は健脚に一抹の不安を覚えたため攻略を断念(苦笑)。

しかしここまで来て何もせず帰路に就くのも、何とも芸の無い話。「そう言えばスガタニはこの近くであったハズ」と思い出し、早速ナビを頼りに訪れることと致しました。

スガタニとは数少ない滋賀県内の温泉地の1つ。子供の頃からその名は存知していましたが、老人会の皆さんが旅館の送迎バスで出掛けて行ったところ・・・小生の認識はその程度なのでした。

須賀谷案内板

小谷山登山口から国道365号を南下すること約1km。交通量が少ないので漫然と運転していたら見逃してしまいそうな案内板に従って山間の細道を進みます。

然程勾配を感じない道ですが見通しが良くないので比較的ゆっくりとクルマを進めました。そのせいか行けども行けども温泉街や集落は見えず、山と田圃の風景が続くばかり。

須賀谷温泉(新館)

国道365号の分岐から進むこと約1km。忽然と大きな宿泊施設が出現します。これが須賀谷温泉です。小生が幼少の頃より抱いていた「鄙びた~」イメージとは少し異なりました。

ここは温泉地と申しましても、御宿は1軒しかありません。足湯施設や公衆浴場もありません。また滋賀は火山帯の地質ではありませんので、源泉は13℃の冷鉱泉。当然有名な温泉地のようにもうもうと湯煙が立っている訳でもありません。よって“温泉街”というものは存在しませんでした。

さて、ここで須賀谷温泉の歴史に触れてみたいと存じます。

泉源は古くから地下水が湧出しており、戦国時代に浅井長政や妻・お市の方を始め、浅井氏所縁の諸将が湯治に通った温泉と伝えられています(但しこのエピソードを記述した文献を特定するには至りませんでした)。その後浅井氏の滅亡とともに、この温泉の存在は約350年もの間、歴史の陰に忘却されてしまうこととなります。

須賀谷温泉湯元

1921(大正10)年のこと。当時この地の所有者であった大野宗八はこの伝承を聞きつけるや、湧水を沸かし入浴を試みます。すると芯から温まり、湯冷めも無く、身体に非常に良いことを知ります。

早速宗八はこの湧水の分析を内務省大阪衛生試験所に依頼。結果、浴用や貧血や神経痛などの内用にも効果がある旨の証明書が、1923(大正12)年12月5日付で交付されます。

須賀谷温泉(昭和舘)

内務省のお墨付きを得た宗八は、5年後の1923(昭和3)年2月。この地に温泉旅館を建設。須賀谷温泉・昭和館と命名し、本格的に温泉事業へと乗り出します。

しかし日本が第2次世界大戦へと突入し、物資貧窮の中、不要不急の温泉旅館の経営は困難を窮め、止む無く休業を強いられます。戦後も営業再開は叶わず、宗八は志半ばで他界することに。ようやく日の目を見た須賀谷の湯でしたが、このままその灯は消えゆくかに思われました。

1961(昭和36)年。高度成長期の好景気の中、浅井町が観光振興の一環として温泉の再開発を計画。宗八の相続人であった大野武雄より、温泉の権利と泉源地370㎡を譲り受け、道路等のインフラを整備します。

須賀谷温泉(旧舘)

1970(昭和45)年に温泉再開に向けた再開発事業が完了。翌1971(昭和46)年には新たな温泉旅館が開設されました。

その後、浅井町の施設として老人センターや勤労者憩いの家が建設され、町民の保養所はもとより北近江の奥座敷としての地位を確立しました。

主に団体客や地元の宴会需要に支えられてきた須賀谷温泉。長浜や彦根といった主要駅から、定期的に送迎バスを運行するほどの盛況振りでした。しかし施設の陳腐化と利用者の嗜好性の変化への対応、転換を余儀なくされます。そして2004(平成16)年9月。新たに高級感と快適性をコンセプトとした新館を開設し、現在に至ります。

決して順風満帆な温泉人生を送った訳では無かったことを、今回の訪問で初めて知りました。でも節目節目の歴史の流れを現地で垣間見られるというのは非常に珍しいのではないかと思います。

最後に須賀谷温泉最大の謎について迫ってみたいと思います。

須賀谷温泉(左・褐色湯/右・透明湯)

「ここの温泉は何故“褐色湯”と“透明湯”が併存するのか?」という疑問。県外の利用者や温泉愛好者からも、「透明の方は“ただの沸かし湯”ではないのか?」と訝る声もあるとか。

温泉法に基づく規格該当鉱泉で、成分はヒドロ炭酸鉄泉(現在は含鉄-カルシウム・マグネシウム-炭酸水素塩泉と表記)。療養泉(治療の目的に供し得る温泉)には該当しないため、泉質は「無し」となります。簡単に申しますと、温泉法で規定する成分は含有する水ですよということ。

もともとは湧出時に酸化して赤茶色となる鉄泉のみを湯元としていました。同じ長浜市内にある長浜太閤温泉も近似の成分のため、同様の色をしています。

新館建設時に新たな地下水の湧出を認め、成分検査を実施。結果本来の源泉と成分はほぼ近似しているものの、何故か透明のまま変色しないようです。よって湧出量の多い地下水(透明湯)を露天風呂と内湯に使用し『秘湯』として。本来の湯元の鉱泉(褐色湯)は内湯の一角に『源泉』として棲み分けて使用しているというのが、どうやら真相のようです。

滋賀県下の温泉で初のかけ流し式を実現した須賀谷温泉。現在のコンセプトには賛否両論あるようですが、まだまだ発展途上にあり、今後も進化するであろうと思います。小生のお奨めと致しましては、宿泊利用で温泉とコース料理をじっくり堪能し、スタッフのサービスクオリティを体現して貰えれば、その良さの一端を垣間見て戴けるものと存じます。

【後篇へ続く】

須賀谷温泉

・滋賀県長浜市須賀谷町36
【TEL】  0749-74-2235
【休業日】  年中無休
【営業時間】 ※日帰り利用に関しましては新型コロナウイルス感染症予防対策により
        現在変則営業中です。詳しくはホームページにてご確認ください。

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“惜秋”湖東寂静紅葉選・後篇

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紅葉
紅葉

昨日に引き続きまして、“惜秋”湖東寂静紅葉選をお届け致します。

◆太郎坊宮
 (東近江市小脇町)

太郎坊宮(阿賀神社)
太郎坊宮(阿賀神社)

後篇では旧八日市エリアから2箇所ご紹介致します。まずは太郎坊宮(たろうぼうぐう)。標高350mの赤神山(あかがみやま)の中腹にある神社です。

地元の方には“太郎坊さん”の名で親しまれています。

近江鉄道からも、国道421号からでも、山に剥き出しの巨岩・怪石が一際目立ちますので直ぐ確認出来ます。

太郎坊宮の紅葉
太郎坊宮の紅葉

麓から740段の階段を登って本殿へ向かうことも可能ですが、クルマで自動車道を利用して中腹にある駐車場から入山されることをおススメします。

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太郎坊宮から布引丘陵を眺む

参道の紅葉も去ることながら、本殿から望む旧八日市エリアの眺望は絶景です。

ちなみに勝運厄除開運商売繁盛に御利益があるそうですよ。

◆瓦屋禅寺
 (東近江市建部瓦屋寺町)

瓦屋禅寺の紅葉(1)
瓦屋禅寺の紅葉(1)

最後にご紹介するのは瓦屋禅寺(かわらやぜんじ)。標高372mの箕作山(みつくりやま)の山腹にある臨済宗妙心寺派の寺院です。

東側にある旧表参道からハイキングすることも可能ですが、林道延命線をクルマで利用されることをおススメします(太郎坊宮の自動車道からも来訪可能です)。

まさにここは寂静の世界。鳥のさえずりと風の音のみで、不思議と下界の雑音は一切聞こえません。

瓦屋禅寺の紅葉(2)
瓦屋禅寺の紅葉(2)

ちなみに聖徳太子が大阪の四天王寺を建立するため、この地で10万8,000枚の瓦を焼いたとされています。 この寺院はその瓦を管理するために建立したと伝えられています。

瓦屋禅寺の紅葉(3)

なお「“瓦”を冠する寺の本堂が“茅葺(かやぶき)”とはこれ如何に」というツッコミは無しということでお願い致します(^^)

◆ご注意◆
何れのスポットも訪問に際し何かしらの“難点”がございます。決してご無理をなさいませんよう、くれぐれもお気を付けあそばせ<(_ _)>

それでは皆様、ゆったりほっこりの紅葉狩りをお愉しみください(^^)v

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“惜秋”湖東寂静紅葉選・前篇

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滋賀の紅葉は例年よりも早く、そして見頃が短くなりそうな様相です。伊吹山や比良山も初冠雪を記録しました。冬支度もそろそろ始める時期ともなりつつありますね。“おでん”が恋しい季節でもあります

紅葉
紅葉

さて皆さん、紅葉狩りにはもうお出掛けになられましたか?今年も異常な猛暑だったせいか、色付きがとても鮮やかに感じます。

滋賀の紅葉スポットと言えば、湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)”“永源寺”“日吉大社”“比叡山延暦寺といったところが有名どころではないでしょうか。でも一番のネックは、そう異常なまでの“人出”です。晩秋の季節感を楽しみたいけれども、クルマが大渋滞。おまけに人でごった返すのはちょっと・・・と二の足を踏まれる方も多いのではないでしょうか。

そこで今回は小生が取材で(たまたま)知り得た場所で、観光客も比較的少なく、紅葉をゆっくりじっくり堪能できる湖東エリアの隠れスポットを特別に4箇所、2日連続でご紹介致します(^^)

今からでも辛うじて間に合いますし、来年への参考として頂くのも結構かと存じます。

◆延寿禅寺
 (彦根市稲里町)

荒神山

まず最初に彦根エリアから1箇所。彦根市の中西部、琵琶湖岸沿いに一際大きな山容を誇るのが、標高284mの独立峰・荒神山(こうじんやま)。

その南麓に臨済宗永源寺派の古刹・延寿禅寺(えんじゅぜんじ)が あります。少し奥まった場所に位置し、幹線道路からも離れているので、『隠れ里』感たっぷりの名刹です。

延寿禅寺の竹林と紅葉

『竹林と紅葉の山寺』と銘打つ寺院だけあって、 さすが 二者のコントラストは絶景です。おまけに山に囲まれていることもあって喧騒は全くなく、木々の枝葉を抜ける風の音しか聞こえません。

延寿禅寺の紅葉

おまけに参道の階段は苔生して、とても趣があります。少し贔屓目かも知れませんが、京都の古刹の特徴(※枯山水を除く)を全て凝縮したような雰囲気を醸し出しているように思います。

延寿禅寺の竹林と紅葉ライトアップ

なお、こちらでは地域の町おこしの一環として紅葉のライトアップを実施されています。12月1日(日)まで夜の竹林と紅葉のコントラストを楽しめます。

荒神山神社里宮参道の紅葉
荒神山神社里宮参道の紅葉

ちなみに延寿禅寺から麓沿いに東へ車で約5分の場所に、荒神山神社里宮があります。こちらの参道の紅葉もおススメです。近くはドングリの木がたくさん自生していますので、お子さんの『ドングリ狩り』にも如何でしょうか(^^)

◆猪子山公園/北向岩屋十一面観音
(東近江市猪子町)

猪子山公園の紅葉
猪子山公園の紅葉

旧能登川エリアから1箇所、こここそ地元の方のみぞ知る裏スポット。JR琵琶湖線・能登川駅から南方へ約1km、標高268mの猪子山(いのこやま)にあります。

猪子山公園は麓に、北向岩屋十一面観音(きたむきいわやじゅういちめんかんのん)は山頂に、その他山中には100基を超える古墳と巨石祭祀の遺構が点在します。

北向岩屋十一面観音

クルマで登れる林道もありますが、狭くて傾斜がキツく、おまけにヘアピンカーブの連続となっておりますので、ドライビングテクニックに自信のない方には余りおススメ致しません。

北向岩屋十一面観音からの眺望
北向岩屋十一面観音からの眺望

北向岩屋十一面観音から望む琵琶湖の眺望は圧巻です。加えて周辺の山々の紅葉も一望できます。 手前に見える湖は“伊庭内湖(いばないこ)”です。

ちなみに地元のアベック・・・いやいやカップルが夜景を楽しむスポットになっている・・・らしいです(*^_^*)

小生が出向いた際は、紳士1人☓2回&淑女2人組☓1回とすれ違っただけでした(^^)

◆ご注意◆
何れのスポットも訪問に際し何かしらの“難点”がございます。決してご無理をなさいませんよう、くれぐれもお気を付けあそばせ<(_ _)>

それでは、続きは明日。乞うご期待(^^)v

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園城寺夜話(12)“残照・馬場町遊廓”

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今回の園城寺夜話は、馬場町遊廓(ばんばちょうゆうかく)についてご紹介したいと存じます。

 

馬場町遊郭(1)西日本最大級の歓楽街としてその名を欲しいままにした雄琴(おごと)が大津に位置することは今でも多くの人が知り得るところ。

 

しかし、かつて大津に国内屈指の規模を誇る遊廓(ゆうかく/公許の遊女屋を集め周囲を塀や堀などで囲った区画)が戦後間もない頃まで存在したことは以外と知られていません。

 

この地に遊廓が設けられた確たる時期は判然と致しませんが、大津宿に隣接して、江戸時代初期に現在の長等3丁目辺りに整備されたものと思われます。

 

延宝6(1678)年に藤本箕山によって著された『色道大鑑』によれば、遊廓は全国で25箇所存在し、ここはそのうちの1つとされています。

 

とはいえ「東海道の宿場町・大津に隣接しているとはいえ、何故園城寺の門前町に?」という下衆な勘繰りをせずにはいられません。

 

馬場町遊郭(2)またこの界隈は柴屋町(しばやまち)とも呼ばれ、柴屋町遊廓とも称しました。

 

その他にも大津宿周辺には、真野(長等1丁目)・四の宮(京町3丁目)・稲荷新地(松本2丁目)にも遊里は存在しました。

 

ですが、井原西鶴の『好色一代男』にも登場するこの遊廓は、当時“東の吉原、西の柴屋町”とも言われる程の格式と隆盛を誇っていたようです。

 

街の東西南北の入口に大門を設け、最盛期には廓内に約30軒の遊女屋が存在しました。

 

馬場町遊郭(3)明治以降、芸娼妓解放令の発令、内務省令娼妓取締規則の制定、そして大東亜戦争後のGHQの公娼制度廃止と様々な規制が発せられるものの、バーやスナック、料亭などと看板を変え、遊廓はほぼそのまま赤線の通称で呼ばれて存続しました。

 

 

しかし、昭和33(1958)年4月1日に施行された売春防止法。昭和46(1971)年に開業したトルコ風呂(現在のソープランド)“花影”を皮切りとする雄琴温泉の風俗街化が、この花街の衰退を決定的なものとしてしまいました。

 

流石に江戸時代の建物は残っていませんが、近世から近代へと移行した時期の花街の情景を今でも色濃く残しています。

 

かつて大津スチームバスセンターというソープランドが存在し、花街の残り香的存在として君臨していましたが、近年廃業し、現在は料理屋が建っています。

 

馬場町遊郭(4)格式高い花街として隆盛を誇った馬場町遊廓も、都市開発の波に押され、そのよすがは今や風前の灯です。

 

遊廓・遊里・花街の話題はとかく忌むべきものとして排除されがちですが、かつての日本の文化の一端としてその足跡だけでも残して欲しいと思うのは小生だけではないと思います。

 

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園城寺夜話(3)“What’s 三井古流煎茶道?”

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今回の園城寺夜話は前回お伝えした閼伽井にも縁の深い、三井古流煎茶道(みいこりゅうせんちゃどう)についてご紹介したいと存じます。

 

三井古流施茶案内さて皆さん、煎茶道ってご存知ですか?

 

茶道といえば一般的には抹茶を用いる抹茶道のことを指しますが、実は煎茶を用いた茶道もあるのです。

 

煎茶道のルーツは中国文化に由来しますが、日本では江戸時代初期に禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖・隠元隆琦(いんげんりゅうき)が始めたとされます。現在でも全日本煎茶道連盟が黄檗宗の総本山・萬福寺(京都府宇治市)に設置され、連盟の会長は萬福寺の管長が兼務することが慣習となっています。

 

形式に囚われず煎茶を飲みながら清談を交わすというカジュアルなスタイルが、茶道の世界において形式化が進みつつあったことへの反発もあって、文人たちや江戸・京都・大坂を中心とした上流階級の間で急速に普及しました。

 

園城寺宝寿院・三井古流煎茶道本部江戸時代後期、文化・文政の頃。

 

園城寺に壷井軒(つぼいけん)という年老いた居士(こじ/出家をせずに家庭において修行を行う仏教の信者のことで千利休が代表例)が住むようになり、悟りを開いて真理を会得することに精進。

 

三井の霊水(閼伽井)をすくって金堂に奉安する弥勒菩薩に献茶し、また参詣の善男善女にも茶を振る舞っていました。これが三井古流煎茶道の始まりであるといわれています。

 

明治・大正期に入ると文明開化の潮流の中で西洋文化がもてはやされ、中国文化に由来する煎茶道は一時衰退を余儀なくされます。しかし昭和、特に大東亜戦争終結後に入り煎茶道復興の動きが各地で活発となり、1960~70年代には隆盛を極めました。

 

三井古流茶道具近年は煎茶の大衆化が進行したことにより煎茶道への関心は薄れつつあり、現在その動静は停滞しています。そのような理由もあって、煎茶道の知名度が低いのかも知れません。ですがそんな時代の流行り廃れに流されることなく、三井古流煎茶道では独自の流儀を保ち、今でも閼伽井で水を汲み、毎日金堂に献茶し、参詣者に煎茶道の愉しみを伝えています。

 

上の寫眞でもお解り頂けるかと思いますが、我々が見慣れている茶道具とは趣が全く異なります。抹茶道の作法とは全く異なるので少し戸惑いますが、一般の方々へのお点前ではスタイルをとやかく言われることはありませんので気軽に体験することが出来ます。

 

金堂から参道を南へ約300m下ったところに、三井古流煎茶道本部が置かれている宝寿院があります。ここで煎茶道を体験することが可能です。でもこの入口の風格に、敷居の高さを感じるのは致し方無きこと。

 

三井古流青山茶会そこで三井古流では、広く一般に開放して煎茶道に親しんでもらおうという行事を桜が満開となる4月、金堂と宝寿院の中間点にある唐院の敷地内で催されます。それが三井古流青山茶会です。    

 

通常宝寿院の茶室で施茶されるものを、気軽に屋外で体験して貰おうという年に1回のイベントです。毎年実施日が異なりますし、たった1日のみの行事ですので、興味のある方は事前に問い合わせされることをおススメ致します。

 

小生もまだ一度しかお点前に参加したことがなく、その時は“何が何やら”の状態でしたので、今度施茶戴く際はじっくりとその神髄に浸ってみたいと思います(^^)

 

園城寺宝寿院 三井古流煎茶道本部

・滋賀県大津市三井寺町246
【TEL】 077-522-9580

 

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園城寺夜話(1)“二つの総本山”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>  

 

今回から園城寺夜話(おんじょうじよわ)と題しまして、園城寺並びに門前町にまつわるエピソードを展開して参ります。 

 

園城寺大門(仁王門)まずは序章としまして、園城寺について簡単にご紹介したいと存じます。

 

 

園城寺とは滋賀では勿論、国内でも屈指の古刹の1つなのですが、一般には通称である三井寺(みいでら)の名で知られています。

 

 

最澄(伝教大師)を開祖とする天台宗の寺院なのですが、実は天台宗には総本山(俗に民間企業で言うところの本社)が2つ存在するのです。  一般的に知られる比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と、ここ園城寺なのです。

 

正確に申しますと延暦寺が天台宗山門派、園城寺が天台宗寺門派となり、教義のルーツは同じくするものの宗派が異なるのです。分派の経緯は全く異なりますが、浄土真宗で言うところの東/西本願寺に分かれているような感じでイメージして戴ければ良いかと存じます。

 

園城寺金堂かつては延暦寺とは激しい対立関係にあり、互いの宗徒や僧兵による争いは絶えず、室町時代末期迄に大小合わせて実に50回近く焼打ちに遭っています。

 

また理由は定かではありませんが豊臣秀吉の逆鱗に触れ、寺領を没収され廃寺寸前までに追い詰められたこともあったとか。その度に奇跡の復活を遂げてきたので、不死鳥の寺とも称されていました。

 

いつも思うことなのですが・・・宗教的対立は今の時代にも形を変えて存在しますが、開祖・宗祖のただひたすら衆生を救うという崇高な教えが、なぜこうも人間の我欲剥き出しに対立の構図を生むのか不思議でなりません。    

 

そして日本三不動の1つに数えられる黄不動の寺院としても知られています。但し、原則非公開の秘仏ですので滅多にご尊像を拝することは出来ません。小生も残りの高野山明王院の赤不動、京都・青蓮院門跡の青不動は参拝の栄華を得ることが叶いましたが、県内に在住していながら未だ黄不動にはお目に掛かれません。それ程「近くて遠い」存在なのです。

 

今から4年前の平成26年、宗祖・智証大師生誕1200年慶讃大法会(10月18日~11月24日)が奉修され、その際期間限定(11月21日~11月23日)で国宝・金色不動明王像(黄不動尊)が公開されたのですが、それには結縁潅頂会(:けちえんかんじょうえ/出家・在家を問わず広く信者が仏縁を結ぶために潅頂壇に入り、曼荼羅の諸尊像に華を投じてその人の守り本尊を得るための密教儀式)に参加するという条件をクリアせねばなりませんでした。しかし・・・その志納金が10,000円・・・信心のためとは申せ、平民にはかなりハードル高いです(T_T)

 

果たして何人の方がこの高いハードルを越えられたのでしょうね?

 

ではこの序章の最後を締め括るお話を1つ。何故、園城寺のことを『三井寺』と呼ぶのか?

 

実は現在の“天台寺門宗の寺院”としてのスタートは平安時代中期ですが、そもそものルーツは飛鳥時代後期に大津京を造営した天智天皇の孫にあたる大友与多王(おおとものよたのおおきみ)が、父・大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うため、資材を投げ打って建立したものと伝えられています。

 

園城寺閼伽井屋そこに涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井(みい)の寺と呼ばれ、それが転じて三井寺となったと言われているのです。

 

その三井寺の由来となった井戸の閼伽井屋(あかいのや)は今でも現存しており、清水がコンコンと湧き出ています。

 

言い伝えや俗称が本来の名称よりも一般に流布した、極めて稀なケースと言えるでしょう。

 

長等山 園城寺 (三井寺)

・滋賀県大津市園城寺町246
【TEL】 077-522-2238
【Web】 http://www.shiga-miidera.or.jp/

 

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天空の里山紀行(12) “向之倉集落”

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滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。最終回は犬上郡多賀町の向之倉(むかいのくら)集落をご案内致します。

 

向之倉集落011874(明治7)年に滋賀県に編入されて向之倉村に。

 

1889(明治22)年町村の再編に伴い、芹谷村へ編入されます。

 

最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合され現在に至ります。

 

向之倉は芹川上流南岸、標高約350mのカルスト(石灰岩地形)山地の北斜面にある山村です。

 

向之倉集落02田地はなく、主に林業・製織業に従事し、薪炭や杉板、麻布の絣(かすり)などを生産して生計を立てていました。

 

戦後過疎化が急速に進み、1970(昭和45)年には完全に廃村となりました。現在、村としての名残が消滅、森に還りつつある状況にあります。

 

さてこの向之倉には他に神秘的なものが存在します。それは井戸神社のカツラです。

 

井戸神社のカツラ境内の中央にあり、樹は独特の株立ちで大小12本の幹が株立ちしてそびえています。幹周11.6m×樹高39mもの大きさは、県下最大の巨木の地位を誇ります。

 

カツラの根元には小さな池のような井戸があり、神秘的な色の水面をたたえています。成長に大量の水を必要とするカツラが今日こうしてあるのは、この井戸のお陰かも知れませんね。

 

樹齢は400年以上と推測され、2002(平成14)年4月には多賀町指定の天然記念物に選定されました。またここには白蛇にまつわる伝説も言い伝えられています。

 

12週連続でお届けして参りました天空の里山紀行は、今回をもちまして無事終幕とさせて戴きます。長きに渡りご来訪ご高覧賜りまして、誠に有難うございました<(_ _)>

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(11) “栗栖集落”

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滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第11回は犬上郡多賀町の栗栖(くるす)集落をご案内致します。


栗栖集落1874(明治7)年に滋賀県に編入されて栗栖村に。

 

1889(明治22)年町村の再編に伴い、西隣の久徳(きゅうとく)村へ編入されます。

 

最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合され現在に至ります。

 

『限界集落』と呼ぶに未だ深刻度は低いと感じる集落の栗栖を取り上げることに些か迷いもございましたが、天空の里山廃村群への玄関口ということで、今回敢えてご紹介致します。

 

飛の木橋栗栖は西流する芹川が平地に出る谷口に位置する農村です。

 

流石に平野部だけあって米作が盛んで、他に麻布の絣(かすり)なども生産していました。

 

また旧脇ヶ畑村へアプローチする幹道の入口(飛の木橋)としても機能していました。

 

栗栖の名はその昔、「お伊勢お多賀の子でござる」と謳われるように、伊勢神宮の親神として知られる伊邪那岐尊(イザナギノミコト)・伊邪那美尊(イザナミノミコト)が多賀へ降臨する際、「ああ苦しい」と山麓の栗栖で休憩されたことに由来するのだとか。

 

調宮神社その休息の地が現在の調宮(つつみや)神社であると伝えられています。

 

この周辺では比較的規模の大きい集落ですが、それでも人口は最盛期に比べれば半分以下にまで減少し、過疎化と高齢化が進行しています。

 

 

2013(平成25)年3月の完成を目指して『栗栖治水ダム』がこの地に計画(後に上流の水谷に変更)されましたが、事業自体が中止となり、幸か不幸か集落の静観は保たれました。

 

西村商店(平成12年当時)さてこちらの茅葺屋根が特徴の建物は、平成10年代初頭までここから山間地に掛けて唯一の商店であった旧・西村商店

 

凡そ100年前に創業されたこの商店。3代目のご当主は早くにお父様を亡くされ、女手ひとつで店舗と家庭を切り盛りされていたお母様と二人三脚で、このお店を守り続けてこられたとのこと。

 

日用雑貨から生鮮食料品まで、充実のラインナップで周辺住民の生活を支えてこられました。かつては買い物が不便な山間の集落や、後谷鉱山の社員寮にも配達サービスを行っておられました。

 

西村商店店内(平成12年当時)残念ながらご当主が高齢のため店を畳まれましたが、世帯毎の『掛売帳』が廃業直前まで現役で、昔ながらの信用商法が機能していたのには正直驚きました。

 

閉店後、建屋の維持や屋根の補修が限界の状態に陥り、解体されることが決定。

 

しかし特定非営利活動法人・彦根景観フォーラムと滋賀県立大学の学生が中心となって保存に向けた活動が展開され、昨年秋には屋根の葺替えが行われました。いつまでも近代日本に於ける山間集落の歴史の生き証人として、姿を止めてほしいですね。

 

なお栗栖は準過疎地域であり、廃村ではございませんのでご注意ください。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 西村商店 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(10) “大佛次郎の足跡”

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滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第10回は前回ご紹介致しました桃原集落に纏わる、ある文豪のエピソードについてご案内致します。

 

大佛次郎その文豪とは大佛次郎(おさらぎ・じろう)のこと。大正・昭和期に活躍した小説家です。

 

新聞小説・時代小説・現代小説・戯曲・ノンフィクション・童話などその類稀なる才能を余すところなく発揮。特に『鞍馬天狗』『赤穂浪士』『パリ燃ゆ』『天皇の世紀』などといった歴史小説は秀逸で、現在でも彼の作品には熱烈なファンが存在します。

 

その大佛次郎が折りに触れ執筆し、深い教養と批判精神に裏打ちされた彼の闊々とした人格の魅力を最もよく表現している随筆&歴史紀行集『大佛次郎随筆集』の「今日の雪」のくだりに、この桃原が登場するのです。

 

桃原集落04.1967(昭和42)年。新幹線に乗車していた彼は、ほんの気まぐれで米原駅を降り立ち、おもむろに多賀大社へと足を運びます。

 

その際利用したタクシーの運転手から『山奥の寒村』の話を耳にし、興味を持った彼はこの桃原を訪れます。

 

風光明媚な故郷・横浜の暮らしに慣れた彼にとって山奥の寒村は『桃源郷』のような幻想を抱いていたのですが、その現実とのギャップに大きなショックを受けます。

 

大佛次郎随筆集記念碑しかしある老婆との出逢いが、彼に様々な場所でのそれぞれの人生というものの持つ重みを痛切に感じさせたのです。

 

そんな大佛次郎の足跡をたどり、ここでの彼の心情に思いを馳せながら訪ねてみるのもまた一興ではないでしょうか。ちなみにこの記念碑は集落の入口にひっそりと佇んでいます。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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