Category Archives: 浪漫回廊紀行

天空の里山紀行(7) “河内宮前集落” 

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第7回は犬上郡多賀町の河内宮前(かわちみやまえ)集落をご案内致します。

 

河内宮前集落011874(明治7)年に河内山女原村・河内宮前村・河内中村・河内下村の四ヶ村が合併して河内村に。

 

1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・甲頭倉・後谷・屏風・霊仙の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。

 

そして最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合され、現在に至ります。

 

河内宮前集落02河内は霊仙山の南西より発する芹川の上流渓谷に隣接する、標高200~240mの農村です。

 

田地は少なく、主に林業(木材・薪炭)で生計を立てていました。

 

その他、茶や牛蒡も生産し京都に出荷していました。

 

特にここでも『多賀ゴボウ』の生産が盛んで、香味の良い牛蒡であることから特に珍重されたそうです。

 

八幡神社4つの集落で形成され、最盛期には合わせて400人を超える人口を有しましたが、現在常時在住するのは30人を下回り、子供の姿が消えて久しく高齢化が急速に進んでいます。

 


河内宮前は河内集落の中心部に位置し、最も拓けた集落です。

 

集落の地名は河内の氏神様である八幡神社の門前ということに由来します。かつては彦根駅からここまで近江鉄道バス河内線が運行され、霊仙山登山のハイカーで賑わっていた時代もありました。


河内の風穴この集落随一の観光スポットと言えば、河内の風穴(かわちのふうけつ)です。

 

霊仙山系のカルスト地帯(鈴鹿山脈北部霊仙山山塊石灰岩地帯)に出来た石灰岩の洞穴で、古くは『河内の窟(いわや)』と呼ばれた関西圏はおろか国内でも屈指の鍾乳洞です。

 

4層構造で総延長は約10,020mで国内第3位の長さを誇ります。総面積は1,544m2。。その生成は約55万年前とされ、昭和34(1959)年には県の天然記念物にも指定されています。

 

エチガ谷またコバヤシミジンツボという僅か1mm程度の小さな巻き貝の世界で唯一の生息地として、環境省が定める『日本の重要湿地500』にも選定されています。風穴の内部の気温は摂氏11~13℃で、公開されているのは1・2層のみ。特に第1層は入口の狭さからは想像を絶する広大な洞内に感動を覚えること間違いなしです。かつて村人がここに犬を4匹放したら、うち3匹が三重県の伊勢で発見されたという逸話が残っています。

 

風穴への遊歩道の途中には滋賀でも屈指の湧水清流・エチガ谷が流れており、ここの景観に魅せられたプロの写真家が時折撮影に訪れるそうです。『心と身体の癒し』にはもってこいのスポットです。

 

ちなみに河内の風穴入口にある八幡神社の鳥居前に見慣れぬ物体を発見!!

 

芹谷二宮金次郎何とそこには二宮金次郎像。

 

何故こんなところに?・・・と首をかしげている小生にお声掛け頂いたのが河内観光協会の管理人さんでした。

 

管理人さんは代々の遺業を受け継いで、河内の風穴の管理をされているそうです。

 

この金次郎像はかつて河内の某有志が芹谷分校に寄贈されたものなのだとか。

 

しかし廃校によりここへ里帰りし、いつしか子供の学業成就を願う信仰の対象として、知る人ぞ知る存在になったそうです。

 

河内観光協会売店その他、河内にまつわる色々なお話をご教授頂きました。「夏場は非常に混雑しますが、9月以降は比較的ゆっくりと散策していただけます。残暑しのぎの節は是非どうぞ」とのことでした。

 

【入場料金】     大人500円  小人300円
【営業時間】     9:00~16:00
【休  業  日】     雨天・台風・積雪時
【駐  車  場】     40台 400円(2時間)
【お問合せ先】 TEL.0749-48–0552 

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 河内観光協会 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(6) “河内中村集落”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第6回は犬上郡多賀町の河内中村(かわちなかむら)集落をご案内致します。

 

河内中村集落011874(明治7)年に河内山女原村・河内宮前村・河内中村・河内下村の四ヶ村が合併して河内村に。

 

1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・甲頭倉・後谷・屏風・霊仙の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。そして最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合され、現在に至ります。

 

河内は霊仙山の南西より発する芹川の上流渓谷に隣接する、標高200~240mの農村です。田地は少なく、主に林業(木材・薪炭)で生計を立てていました。その他、茶や牛蒡も生産し京都に出荷していました。特にここでも『多賀ゴボウ』の生産が盛んで、香味の良い牛蒡であることから特に珍重されたそうです。4つの集落で形成され、最盛期には合わせて400人を超える人口を有しましたが、現在常時在住するのは30人を下回り、子供の姿が消えて久しく高齢化が急速に進んでいます。

 

河内中村集落02河内中村は河内集落の中央やや西方寄りに位置し、芹川渓谷に両岸に家屋が点在しています。まさに「渓谷の秘境村」の様相を呈しています。

 

芹谷ダム建設計画では、ここから下流の水谷(すいだに)に至る山岳地帯に2,700mに渡る導水トンネルを整備し、芹川の増水時にダムへ水流を回避させる予定でした。

 

昭和38年に起案されてから事業中止に至るまで、実に47年間地元住民を翻弄し続けてきたダム計画でした。

 

これは飽くまでも私見ですが、計画中止となって良かったと小生は考えています。高度成長期に潤沢だった県予算の時代ならいざ知らず、貯水を伴わない治水ダムとはいえ大規模な導水トンネルの整備を伴う県政創始以来前代未聞の大工事に、昨今の厳しい予算状況で県民の理解を得続けることは不可能であったと感じています。

 

安養寺この河内中村には特段これといったスポットが存在しないため、隣の河内宮前に属するものの、比較的河内中村近くに位置する安養寺(あんようじ)をご案内致します。

 

飛鳥時代後期に霊仙山には霊山寺が開山され、奈良時代後期にはその七支院が建立されました。

 

安養寺は現在所在が判明している数少ない七支院の1つで、多賀町でも最も古い寺院の部類に入ります。

 

霊仙三蔵慰霊の塚かつて日本人でただ1人、唐で『三蔵(法師)』の称号を与えられた僧・霊仙が、修行時代を霊山寺及びその七支院で過ごしていたとされています。

 

結局霊仙は唐の皇帝に帰国を許されず、国内の政変に巻き込まれ、天長4(827)年に中国五台山の南山霊境寺で暗殺されたと言われています。享年68歳。

 

後に霊仙三蔵顕彰会によって南山霊境寺の土が持ち帰られ、この地に埋められて霊仙三蔵慰霊の塚が建立されています。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(5) “河内下村集落”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第5回は犬上郡多賀町の河内下村(かわちしもむら)集落をご案内致します。

 

コカコーラホーロー板1874(明治7)年に河内山女原村・河内宮前村・河内中村・河内下村の四ヶ村が合併して河内村に。

 

1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・甲頭倉・後谷・屏風・霊仙の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。そして最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合され、現在に至ります。

 

河内は霊仙山の南西より発する芹川の上流渓谷に隣接する、標高200~240mの農村です。田地は少なく、主に林業(木材・薪炭)で生計を立てていました。その他、茶や牛蒡も生産し京都に出荷していました。特にここでも『多賀ゴボウ』の生産が盛んで、香味の良い牛蒡であることから特に珍重されたそうです。4つの集落で形成され、最盛期には合わせて400人を超える人口を有しましたが、現在常時在住するのは30人を下回り、子供の姿が消えて久しく高齢化が急速に進んでいます。


河内下村集落河内下村は河内集落の最西端に位置し、急峻な芹川渓谷に張り付くように家屋が点在しています。その地形から、古の御代より悪天候に見舞われる度に土石流(鉄砲水)や水害に悩まされてきました。

 

芹谷ダム建設計画の治水工事の一環として、この集落のみ県道の拡張工事が進められたため、予告無しに急に道が広くなるため、集落の場所が直ぐに解ります。

 

この河内下村には鯖大師(さぱだいし)と呼ばれる、古くから信仰を集める場所があります。河内の奥地にある権現谷へ『行者講』で訪れる参詣者が建立したとも伝えられています。


鯖大師四国地方には「弘法大師が馬の背に塩鯖を積んだ馬子に出会い、 塩鯖を乞うたが罵倒され断られた。馬子が坂に差し掛かった時、馬が急に腹痛で苦しみ倒れ込んだ。馬子は懺悔して大師に鯖を献じ、馬の病の治癒を懇願する。大師は馬に加持水を与えると元気になり、塩鯖を海中に放ち加持すると蘇り沖に泳いでいった。発心した馬子は出家して大師の弟子となった」という鯖大師の由来が伝えられています。

 

鯖を3年食さないことにより子宝成就、病気平癒の願いが叶うといわれています。何故このような滋賀の山奥で『鯖』なのかは定かではありませんが、古来より山には怨霊が棲み人々にとりつくとされ、旅に出掛ける際それらを鎮めるために少量の飯を取り分けておくことを「サバ」ともいうことから、旅人達が山越えをする前に旅の安全を祈願してここを訪れたのではないかと推測されます。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(3) “後谷集落”

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滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第3回は犬上郡多賀町の後谷(うしろだに)集落をご案内致します。

 

後谷集落011874(明治7)年に滋賀県に編入されて後谷村に。

 

1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・河内・霊仙・甲頭倉・屏風の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。

 

後谷は標高420mのカルスト(石灰岩地形)山地にある農村です。

 

後谷集落02田地は少なく、主に薪炭・茶・牛蒡の生産で生計を立てていました。

 

屏風同様、後谷でも『多賀ゴボウ』が生産されていたそうです。

 

1935(昭和10)年、村内のイワスに石灰石鉱山が開鉱した頃に人口のピークを迎えますが、廃鉱と同時に過疎化が急速に進行しました。

 

多賀町後谷出張所跡(平成15年当時)芹谷村が多賀町に併合された際、後谷出張所が設置されました(但し所在地は水谷/すいだに)。

 

しかし人口の減少と行政サービスの効率化の煽りを受け、ほどなくして閉鎖。

 

しばらくの間建屋も残っていましたが、芹谷ダム建設計画の一環で解体されました。

 

後谷集落(E70系カローラ廃車体)後谷集落は完全に残存する民家も減り、現在は1戸に住人が在住するのみとなっています。

 

ちなみに森へと還ろうとする集落跡の中に、懐かしいトヨタカローラ(E70系)の廃車体を見つけました。

 

鉱山で活況を呈した当時は、村の最新の自家用車として輝きを放っていたのかも知れません。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(2) “屏風集落”

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滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第2回は犬上郡多賀町の屏風(びょうぶ)集落をご案内致します。

 

屏風集落011874(明治7)年に滋賀県に編入されて屏風村に、1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・河内・霊仙・甲頭倉・後谷の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。

 

屏風は甲頭倉と後谷に挟まれた、標高400mのカルスト(石灰岩地形)山地にある農村です。

 

田地は少なく、主に薪炭・石灰焼・茶・牛蒡などの生産で生計を立てていました。江戸期、屏風で作る牛蒡は『多賀ゴボウ』と呼ばれ、特に京都で珍重されたそうです。

 

屏風集落02江戸期には156人居た人口も、明治には既に12戸50人に減少していました。1935(昭和10)年に開鉱した後谷(うしろだに)石灰鉱山に大半の住人が就業し、村は俄かに活況を呈しますが、約30年後の廃鉱と共に没落の一途を辿り、超限界集落へと追い込まれました。

 

集落は山間部の谷間にありますが、大半の民家が立派な石垣の上に建てられているのが特徴です。また瓦屋根が多く、鉱山による往時の隆盛振りが伺えます。


芹川沿いには、かつて多賀小学校芹谷分校が存在しました。

 

多賀小学校芹谷分校(平成12年当時)昭和40年代には児童数も多く分校としては随一の規模と施設を誇りましたが、周辺人口の減少に伴い1993(平成5)年3月に閉校。

 

その後何度も解体の話が浮上しますが、無残な姿を晒しつつも校舎は残されていました。

 

 

しかし芹谷ダム建設計画(平成21年事業中止)に伴う周辺整備の影響と老朽化、そして防犯的観点から遂に解体されてしまいました。

 

屏風岩さらに付近には石灰石の奇景・屏風岩もあり、上級ロッククライマーの穴場的存在となっていますが、近年崩落の危機に瀕していると聞き及びます。

 

なお屏風は廃村直前の過疎地であり、完全な廃村ではありませんのでご注意ください。

 

ちなみに・・・取材を終え帰路に就こうとしましたら、坂の下の民家のお婆ちゃんに郵便物の投函を頼まれてしまいました。

 

一番近いポストでも車で20分はかかるところにしかありませんから。お預かりした物は確かに彦根市内のポストに投函しましたからね、お婆ちゃん(^^)v

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(1) “甲頭倉集落”

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好評を頂きましたフジテレビ『世界の何だコレ!?ミステリー』の“そこに辿り着く道がない!?樹海の中にある謎の村”の真相に迫るシリーズに引き続きまして、滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介して参ります。

 

甲頭倉集落(代表的な民家)第1回は犬上郡多賀町の甲頭倉(こうずくら)集落をご案内致します。

 

 

1874(明治7)年に滋賀県に編入されて甲頭倉村に、1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・河内・霊仙・屏風・後谷の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。

 

 

甲頭倉集落(崩壊した家屋の家財そして最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合されて現在に至ります。

 

甲頭倉は多賀町の最北端に位置する霊仙山系に抱かれた山・農村の1つ。

 

芹川上流から南北に細長く伸びる、平均標高370mのカルスト(石灰岩地形)山地にあります。最盛期は53戸153人の規模の集落でした。

 

甲頭倉集落(集会所)田地は無く、もともとは主に林業や薪炭で生計を立てていました。

 

1935(昭和10)年に開鉱した後谷(うしろだに)石灰鉱山に大半の住人が就業し、村は俄かに活況を呈しますが、約30年後の廃鉱と共に没落の一途を辿り、廃村へと追い込まれました。

 

 

甲頭倉集落(八幡神社)他の集落と異なり大半の民家がトタンか瓦屋根で、窓にはアルミサッシが取り付けられた家屋も多数存在します。

 

集落の中心を通る舗装道は、同じく集落の中心を流れていた甲頭倉谷の一部の上にコンクリート製の暗渠を設置して整備されるなど、山村にしては積極的に近代化が図られています。

 

甲頭倉集落(西蓮寺)また集落にある西蓮寺は庫裏(くり)もある非常に立派な建物で、この規模の集落にしてはとても荘厳な様相です。

 

氏神様である八幡神社も、神輿を収める大きな蔵が整備されていることから、往時の村の隆盛振りが伺えます。

 

 

甲頭倉集落(バリケード)近年集落の保全と盗難防止のために、県道17号(多賀醒井線)へ接続する集落入口にバリケードが設置されたこともあって、村は比較的良好な状態で保たれています。

 

廃村となった甲頭倉ですが、訪問するには甲頭倉創生会の許可が必要となりますのでご注意ください。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 甲頭倉創生会 MT TRADING

 

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“天空の里山紀行”シリーズ執筆開始決定!

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フジテレビ『世界の何だコレ!?ミステリー』の“そこに辿り着く道がない!?樹海の中にある謎の村”をテーマにした記事に多数の訪問を賜りまして、誠に有難うございました。お陰様で「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」は、にほんブログ村地域生活(街) 関西情報ブログのランキング1位を獲得させて頂きました(^^)v

 

早春の霊仙山系当ブログ開設以来、1~2位を争うほどの方々にご来訪頂き、改めてテレビの影響力を認識致しました。

 

加えて「実に興味深い内容だった」「他に同じような場所はないのか?」等のご意見も多数頂戴し、此度温めておいた(?)取材テーマを一挙公開して参る決意を致しました。

 

今回は「樹海の中にある謎の村」同様、霊仙山系は犬上郡多賀町に点在する村々を12週連続でご紹介致したいと考えております。

 

天空の里山紀行(1) “甲頭倉集落”   平成29年1月25日 更新予定

天空の里山紀行(2) “屏風集落”    平成29年2月 1日 更新予定

天空の里山紀行(3) “後谷集落”    平成29年2月 8日 更新予定

天空の里山紀行(4) “イワス物語”    平成29年2月15日 更新予定

天空の里山紀行(5) “河内下村集落”  平成29年2月22日 更新予定

天空の里山紀行(6) “河内中村集落”  平成29年3月 1日 更新予定

天空の里山紀行(7) “河内宮前集落”  平成29年3月 8日 更新予定

天空の里山紀行(8) “河内山女原集落” 平成29年3月15日 更新予定

天空の里山紀行(9) “桃原集落”    平成29年3月22日 更新予定

天空の里山紀行(10) “大佛次郎の足跡”  平成29年3月29日 更新予定

天空の里山紀行(11) “栗栖集落”        平成29年4月 5日 更新予定

天空の里山紀行(12) “向之倉集落”    平成29年4月12日 更新予定

※執筆の都合、更新予定は予告なく変更する場合がございます。

 

なお今回の記事掲載に際しましても、改めて注意事項をご案内させて頂きます。もし興味をお持ちになり来訪を試みられる場合は、以下の事項をお守りください。

(カローラバン1)廃村とはいえ、どの建物・土地にも所有者がいらっしゃいます。みだりに内部(倒壊した建物も含む)に侵入することは、れっきとした犯罪行為となりますので絶対にお止めください。

(2)廃村に通じる林道は非常に幅が狭く、急な傾斜とヘアピンカーブの連続に加え、落石やウェットな路面状況が頻発する危険な道路です。自家用車での来訪は大変リスクを伴うことを予めご承知おきください(冬季は積雪で通行不能となります)。

(3)人の居ない山奥ですから、害獣・害虫(ツキノワグマ・ヤマビル・スズメバチetc)に遭遇する可能性は極めて高くなりますので、細心の注意を払ってください。

(4)公衆電話は当然ありませんし、携帯電話も圏外となります。最悪の事態を想定した装備を準備し、万全のプランを立てたうえで来訪してください。

今回の取材もMT TRADINGさんのご厚意でカローラバンを提供頂きました。もうすっかり“セカンドカー”状態です(^^)

 

シリーズが終了する頃は、現況では想像も出来ない櫻の舞い散る季節となります。長丁場とはなりますが、小生も久々のロングシリーズの執筆となります故、粉骨砕身心、事に当たる所存でございます。どうか最後までお付き合い賜れば幸甚です。

 

では次回をお愉しみに(^^)

 

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樹海の中にある謎の村(4)“武奈集落”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>


いよいよ『世界の何だコレ!?ミステリー』取材班は、樹海の中にある謎の村に迫ります。ここまで来ますと結構な標高です。


霊仙山系さて番組内のタイトルを今一度確認致しましょう。

 

“そこに辿り着く道がない!?樹海の中にある謎の村”

 

確かにGoogle Earthの衛星画像で見ると、山深い中にポツンと存在する集落。

 

道路表記も途中で途切れています。でもこれをGoogle Mapに切り替えると、ちゃんと集落に通じる道路は存在するのです。ネタ元は何処かは定かではありませんが、別に樹海でもありませんし、ちょっと扱いが「雑」じゃあありませんか?ってな印象です。

 

武奈集落01今回樹海の中にある謎の村とされたのは、彦根市武奈(ぶな)です。

 

古代には武奈を『無南』と表記したとも文献にはあります。

 

集落自体は標高500mのカルスト地帯に立地する山村で、隣接する男鬼集落とは標高差がかなりあるので、行程で約3kmも離れています。

 

武奈集落02山間を僅かに拓いた場所ですから、サトイモや牛蒡などを僅かに産して米原村(現・米原市)に出荷していたようです。

 

また住民の大半が農産物に加え、炭・薪の採取・生産によって生計を支えていました。

 

 

1889(明治22)年に坂田郡鳥居本村に併合され大字武奈となり、1952(昭和27)年には彦根市に編入されて現在に至ります。

 

武奈集落03村の起源については霊仙山や多賀大社に関連して宗教的に古代から開けていたとか、源平合戦に敗れた平家の落武者が住みついたなど諸説あります。

 

しかし明治期に発生した大火によって文献が全て失われ、今となってはそれを裏付けるものは何も残っていません。

 

若宮神社山深い立地の影響か、男鬼に比べ集落に定期的に戻る住民は少ないと見えて、随分と家屋の崩壊が進んでいます。こんなところでトヨタ・ハイエースの初代モデルに出逢えるとは想定外でしたが・・・。

 

ただ武奈の氏神様である若宮神社では、現在でもかつての住民が集まり、定期的に祭礼が行われているとのことです。

 

妙幸集落01小生的には人工衛星でもその存在が確認出来る武奈の集落よりは、市民にも余り知られていないこちらの集落の方がむしろ樹海の中にある謎の村と言えるのでは無いかと思います。

 

それは武奈町にあるもう1つの集落、妙幸(みょうこう)です。

 

妙幸集落02文献には妙幸を『明幸』とも表記するとあります。

 

武奈に南接する高地の小さな集落で、生活環境は武奈とあまり大差は無かったとされています。

 

本来独立した村でしたが、昔から武奈の枝郷的存在とされていたようです。

 

それゆえこちらの集落へのアプローチには大変苦労しました。

 

鳥居本小学校武奈分校跡林道から集落へ繋がる道は非常に狭く、カローラバンも途中に置いて、徒歩で入ったほどです。

 

1874(明治7)年には武奈村に吸収され大字妙幸となっています。

 

残念ながらこちらの集落の風化が最も激しく、建物も殆ど残っていません。

 

番組終盤で信行寺の住職さんが「分教場があった」と話されていましたが、それは映像に出ていた武奈集落ではなく、妙幸に設置されていたのです。

 

往時の鳥居本小学校武奈分校鳥居本尋常高等小学校(現・彦根市立鳥居本小学校)武奈分校が設置されたのは、1900(明治33)年のこと。

 

しかし児童の減少に伴い1975(昭和50)年に休校。1990(平成2)年には正式に廃校となり、廃墟と化していた校舎は破却されました。

 

これが14分間では語れなかった樹海の中にある謎の村の全容です。特に謎でも何でもなく、戦後日本を象徴する地方で頻発した社会現象の一例に過ぎません。

 

どちらかというと、近隣の限界集落で珍しい現象が起きた例があります。宜しければ是非こちらもご一読くださいませ。

 

『集落崩壊!?“村ごと消えた村”』のお話はこちら!

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

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樹海の中にある謎の村(3)“男鬼集落”

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次に『世界の何だコレ!?ミステリー』の取材班は霊仙集落を抜け、山中の林道を突き進みます

 

男鬼集落01いつの間にやら彦根市内に入り、しばらく進むと視界が開け、新たな集落に出逢います。そこが彦根市男鬼町です。

 

昭和40年代後半から挙家離村が始まり、平成に入るまでもなく完全に廃村となったエリアですが、実は「市」という行政区域の中に廃村を抱える街は全国的にも非常に珍しいとのこと。ただ平成の大合併後は、それも特段珍しい現象でも無くなりましたが・・・。

 

男鬼と書いて『おおり』、または『おうり』と読みます。

 

男鬼集落02村名は古代、霊仙山にあったとされる霊仙寺の7別院の一つ、男鬼寺という古刹に因みます。

 

標高420mのカルスト(石灰岩)地帯に立地する山村で、中世には近隣の山中に河原豊後守の居城・男鬼城(別称・高取山城)が存在しました。

 

集落自体は山間の狭い土地にあるため、農産物は麦や牛蒡などを僅かに産した程度だったようです。

 

それゆえ炭・薪・柴・板・蚕などを採取・生産して、彦根市街まで出て販売することを生業としていました。

 

男鬼集落031889(明治22)年に坂田郡鳥居本村に併合され大字男鬼となり、1952(昭和27)年には彦根市に編入されて現在に至ります。

 

教育にも医療にも不便を強いられていたことが原因で挙家離村に拍車が掛かり、1971(昭和46)年に廃村。今はかつての住民が、雪深い冬季を除いて時折訪れるといった状況です。

 

彦根市は男鬼集落の保全を目的として、1973(昭和48)年に小学生を対象とした自然環境を学習するための林間学校『男鬼少年山の家』を開設。

 

男鬼町 自然の家集落唯一の寺院・誓玄寺を研修施設とし、各家屋を宿泊施設として活用しました。

 

かく言う小生も小学5年生の夏休みに開催されたオリエンテーションに参加し、でっかい虫たち、薄暗い電灯、ぼっちょん便所に翻弄されたことを今でも鮮明に覚えております(苦笑)。

 

しかし滋賀県によるびわ湖フローティングスクール事業で、1983(昭和58)年に学習船うみのこが琵琶湖に就航すると、ウリであった「不便さ」が却って災いとなり、急速に利用率が低下。家屋群の老朽化も相まって、2003(平成15)年に閉鎖されました。

 

男鬼集落 ありがたやの水取材班が覗き込んでいた黒板や椅子があるログハウスは、後に研修施設として建設された男鬼町自然の家です。

 

霊仙山系は石灰質でありながら豊富な湧水に恵まれ、利用する人々が消えた今でもコンコンと美味しい水を供給し続けています。

 

これはありがたやの水と呼ばれる湧水で、この集落の千年以上の歴史を支え続けてきた生き証人です。

 

比婆神社参道さてこの男鬼には、知る人ぞ知る「商売繁盛」のパワースポットが存在します。

 

その名は比婆(ひば)神社

 

国道8号線の案内看板から山道を8km、鳥居からさらに林道を2kmという、とてつもなく『秘境で過酷』な神社です。

 

それだけにここを知る人から聞くと、ご利益のパワーは桁違いであるとか・・・。

 

比婆神社本殿この比婆神社は多賀大社に祀られている伊邪那美命(いざなみのみこと)が、高天原(たかまがはら)よりこの地上に降臨した聖地とも言い伝えられています。

 

創祀の時期は不明ですが、戦前、旧彦根高等商業学校(現在の滋賀大学)の橋本犀之助教授が近江高天原(たかまがはら)説を提唱。

 

高天原は伊吹山麓にある弥高地区。天地開闢(てんちかいびゃく/天地に代表される世界が初めて誕生した時のこと)の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命がお隠れになったのが多賀であり、女神の伊邪那美命を祀ったのが比婆神社であると説いたそうです。


山神やがて男鬼は廃村となりますが、この神社は信者が多いため参拝者が絶えることも無く、1982(昭和57)年には何と信者によって自動車が通行可能な参道が整備されました。

 

さてこの山神様の鎮座おはします聖域に足を踏み入れたら、今回の本丸の入口に差し掛かります。

 

いよいよ次回は最終回。「樹海の中にある謎の村」へ潜入します!

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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樹海の中にある謎の村(2)“霊仙集落・後篇”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>


世界の何だコレ!?ミステリー』のフジテレビ取材班が最初に訪れた犬上郡多賀町霊仙

 

先週の記事で霊仙は三ヶ村が合併して構成された地区であるとお話し致しました。今回はテレビに映らなかった残り2つの集落(入谷・今畑)をご紹介致したいと存じます。

 

霊仙入谷集落01入谷(にゅうだに)は霊仙の北端に位置し、標高は約300m、霊仙の入口に最も近い集落です。

 

町村再編の過程や村の生活の様相は落合のそれと全く同様です。

 

村の特徴は何と言ってもその標高差にあります。

 

霊仙入谷集落02集落の入口から一番奥まで何と約50mの高低差があり、中央を通る道の傾斜角は平均40度と非常に急峻です。おかげでカローラバンが坂道の途中で立往生してしまいました<(ToT)>

 

このような切り立った谷間に張り付くように民家が点在する入谷ですが、かつては三ヶ村の中で最も人口の多い集落であったというから驚きです。

 

了眼寺入谷唯一の寺院である了眼寺は、集落の一番の高台に位置します。

 

それだけ村の人々がこの寺院を大切にしていたという証でもあります。

 

ここでは『故郷(ふるさと)の日』という、かつての住人が定期的に集う行事が今でも行われています。

 

霊仙 故郷の日(平成15年)それにしても、このような急峻な土地に住もうと考えた祖先もさることながら、ここで長らく生活をされてきたことに、驚きと尊敬の念を禁じ得ません。

 

なお入谷も廃村直前の超限界集落ではでありますが、完全な廃村ではありませんのでご注意ください。

 

今畑(いまはた)は標高約420m、霊仙山中にある小さな集落です。

 

霊仙今畑集落01町村再編の過程や村の生活の様相は落合や入谷のそれと全く同様ですが、地理的条件の悪さから車道が通じることはありませんでした。

 

そして1979(昭和54)年に完全な廃村となります。

 

現在でも今畑へは登山道を徒歩で行くしか訪れる方法はありません。

 

霊仙山登山道若かりし時の小生は初めて今畑にトライした際、何と背広姿にリュックサックという異様な出で立ちで、いざ出発!

 

たまたま居合わせた地元の林業従事者の方に、「兄ちゃん、まさかそんな格好で霊仙登るんか?」と慌て声を掛けられた経験があります(どうも自殺願望者に間違われたようでした)。

 

その時、今畑が廃村となった真の理由を教えて頂きました。

 

霊仙今畑集落02確かにモータリゼーションの波の中で車道が通らなかったという致命的要因もありますが、最大の理由はサルやカモシカといった野生動物に家や畑を荒らされて生活が立ち行かなくなったのだそうです。

 

当時「自然に人間が追い出されたんや」としみじみ語っておられたのをよく憶えています。

 

 

宗金寺入谷同様、今畑でも『故郷の日』が今でも宗金寺で定期的に行われています。

 

さて少し寄り道をしてしまいました。

 

来週は「奥の細道」・・・いやいや落合集落からの「奥の山道」の先へと進みます!

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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