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多可龍王との出逢いから拾年(中篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、「多可龍王との出逢いから拾年」をお届け致します。

今から10年前。当時、龍神様の奉祀に滅法執心の知人がおりました。その知人は小生が信心深い人間であると知るや否や、会う度に矢鱈と龍神信仰の話題をしておりました。

龍神奉祀の難しさは小生も少なからず存知しておりましたので、話半分に聞いておりましたが・・・

或る日、自宅の庭木の剪定をしておりましたら、とても大きく、欠損の全く無い完全な姿で、然も眼が七色に輝くアオダイショウの抜け殻を見付けました。ここに居住して30年、このような経験は全くありませんでしたので、大切に陰干しして保管しました。

龍の巣

後日例の知人にこの出来事を話しましたら、早速或る人に引き合わせたいというのです。些か眉をひそめつつも、次の休みに予定を調整することに致しました。

そしてその当日。知人に誘われたのは、何の変哲もないとある古い民家。そこにはお独りの高齢の女性がお住まいになられていました。知人曰く、その方は龍神様と人を引き合わせるコーディネーター。所謂、青森・恐山のイタコのような存在の方であるというのです。

信仰心の厚い小生ですが、どうもこういう場には眉を顰めてしまいます。恐る恐る中にお邪魔しました。家の中はとても薄暗いのですが、奥に参ると煌々と蝋燭の火が灯る一角がありました。そこにはとても大きな神棚が祀られ、その周囲には溢れんばかりの神饌が並べられていました。

早速知人はその高齢女性に、小生が体験した顛末を話すよう促しました。そして女性からは紙に氏名と住所、生年月日を元号で書くようにと言われました。それらを終えると、女性は神棚に向かい祝詞を唱え始めました。

暫くして女性の唱える祝詞が突然プツリと途絶え、急に立ち上がって部屋の奥へと消えていきました。その状況に小生も知人も呆気にとられていたのですが、程無くして女性は白装束を纏って戻り(この展開にも正直驚きましたが・・・)、再び祝詞を唱え始めました。

そして一連の祭祀が終わり、このようなやり取りとなりました。

知人「どうしていきなり白装束に着替えられたのですか?」
女性「この龍神さんはとても格式高い神さんや」
知人「どこの龍神さんですか?」
女性「タカ・・・タカ?・・・何処の神さんや?」
小生「タカというのは、多賀の古い地名ではないですか?」
女性「・・・そうか、お多賀さんや、お多賀さんのお使いや」
知人「お多賀さん!?」

多賀大社

女性「えらい格の高い神さんに仕えてはるさかい正装せんとあかんのや」
小生「そんな偉い神さんがなんでウチに?」
女性「この龍神さんは、えらい喜んではる」
小生「喜んではる???」
女性「そうや、ようやっと自分の存在に気付いて貰えたと喜んではる」
小生「そうですか・・・」
女性「今迄龍神さんをお迎えしたいって言うてお願いに来る人はぎょうさんいはったけど、
   気付いて貰えて嬉しいなんて言う龍神さんは初めてや」
小生「ウチの家長は父ですから、父がお祀りするということですか?」
女性「いや、龍神さんはあんたに祀って欲しいと言うてはる」
小生「私がですか?」
女性「そうや、だからあんたにお示しがあったんや。それにな・・・」
小生「それに?・・・」

【後篇へ続く】

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多可龍王との出逢いから拾年(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

現在公私共に多忙な合間を縫い、取材ストックのデータ整理を微速ながら鋭意進行致しております。そのような中、「そう言えば・・・」という出来事をふと思い出しました。

滋賀は日本最大の湖沼・琵琶湖を擁するように、「水の豊富な土地柄」を有しています。またそれ故に古より「水への信仰」も強く、水との縁が深い龍神に纏わる伝説が県内各地で語り継がれています。

龍 神

また龍神は一級の眷属(けんぞく:神の使者、最もポピュラーなところで稲荷神のキツネ)として絶大な力を持つことで知られ、大きな財をもたらす神として、特に信仰心の厚い実業家や経営者にとって奉祀することがある種のステータスであるとも言われています。

でもただ無条件に財をもたらして戴ける訳ではありません。龍神は眷属の中でもとりわけ自尊心が高く、「お迎えしたい」と願ってもそう容易に承諾して貰えるものではありません。またようやくのこと奉祀する機会を得たとしても、その条件や戒律がとても厳しく、かなりストイックな生活を強いられるとされます。

奉祀に関する主な条件や戒律を列挙しますと・・・
◆庭に池を整備し、その傍らに石室様の祠でもって奉ずる。
◆月並の祭祀(毎月1・15日)に加え、龍神祭祀(18日)を必ず挙行する。
◆3つ足以上の動物(牛・豚・馬など)を食してはならない(食材成分も含む)。
◆米・水・塩は毎日、加えて酒と新鮮な卵並びに国産の榊を常にお供えする。
◆奉祀者は指名され、それに異を唱えたり代理代行を立ててはならない。
◆例え意に添わずとも、龍神からの啓示に決して抗ってはならない。
◆よこしまな思いや龍神への疑念を一切抱かず日々精進を重ねること。

何故ここまで厳しい神なのかと申しますと、龍神はとてつもなく清廉潔白であり、且つ一転とても人間味溢れる感性の持ち主でもあります。そして「望みに従い、意を決して貴様のもとを訪れたからには、生半可な気持ちを捨て、人生を賭け覚悟をもって精進せよ」との思いを強くお持ちだとか。よって奉祀出来るのは龍神に選ばれた者だけなのですが、そのことに胡坐をかき精進を怠ると、事業や家庭の没落だけに止まらず、生命まで失いかねないと聞き及んでいます。

そのような気性の荒い(?)神様ですので、信心深いとはいえ基本的に“怠惰”な人間の小生ですから、「起業しよう」「龍神様をお迎えして財を成そう」という気持ちは微塵もございませんでした。

前置きが長々となり申し訳ございません。ようやくここからが本篇となります。小生の身の上話とはいえ、些か“宗教チック”な内容は否めません。こういう類のお話がお嫌いな方は、この先を読み進めることはお控えください。

藤ヶ崎龍神縁起歌碑

小生が現住居に棲息するようになったのは今から約40年前。かつて氏神様の神饌田(しんせんでん:神に属し祭祀に供せられる稲を作る田)が存在したことを想起させる神聖な字名の地に、両親が新築しました。かねてより崇敬していた伏見稲荷大社の近江支部の宮司さんのご指導を得て方位・配置を決め、地鎮祭・上棟式・竣工式も取り仕切って戴きました。

当時宮司さんが「この地にはお蛇さんが棲んでおられる」と仰られていたのだけは、現在でも鮮明に記憶しています。

小生が棲む町は古くから鈴鹿山系からの地下水脈に恵まれ、昭和30年代まではほとんどが田圃と湿地帯でした。自宅周囲は高度成長期の新興住宅地でしたが、水道整備の遅れもあって、各家庭の大半が地下水をポンプで汲み上げていました。よって何れ地盤沈下や地震発生時の液状化が懸念されます(飽くまでも私見であり、この地理的特性を近隣の方々が意識して生活されているか否かは定かではありません)。

しかし我が家では、震度5弱を観測した阪神・淡路大震災時でも大きなダメージを受けることはありませんでした。現時点に於いて地盤沈下も認められませんし、渇水で周囲の家庭の地下水が軒並み干上がった時でも当家は支障なく水に恵まれました。

そう考えると、その当時から龍神様のご加護を得ていたのかも知れません。

それから30年の月日が経過しました。

【中篇へ続く】

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中山道屈指の霊験と絶景“磨針峠”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、中山道屈指の霊験と絶景“磨針峠”の伝説をお届け致します。

さて弘法大師が神社に供えたお餅は近隣の村の人々に受け継がれ、後に峠の茶屋として開かれた望湖堂(ぼうこどう)と臨湖堂(りんこどう)で、するはり餅として旅人たちに振る舞われたとのことです。

かつて物流の大動脈の1つとして大いに栄えた中山道ですが、時代の流れとともにその役割を終え、今ではひっそりとしています。

鳥居本宿【木曾街道六拾九次】

こちらの絵は江戸時代、歌川広重が描いた『木曽街道六十九次』の1枚、鳥居本宿 (とりいもとしゅく) です。

しかし“宿”とは名ばかりで、この絵には宿場の街並みではなく磨針峠が描かれています。それ程に当時はこの峠から眺める琵琶湖の絶景が全国的に有名だったのです。

またこの景勝の地にあった「望湖堂」「臨湖堂」の2つの茶屋は旅人に大変人気がありました(先程の絵の左側が 望湖堂、右側が臨湖堂です )。

特に望湖堂は参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、はたまた江戸に降嫁する和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう/江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室)や明治天皇も立ち寄りました。茶屋と言いながらも建物は本陣構えで、「御休止御本陣」を自称する程のモノでした。

現在の磨針峠と望湖堂

その繁栄ぶりに近隣の鳥居本宿と番場宿の本陣が寛政7(1795)年8月、道中奉行(江戸時代、五街道とその付属街道における宿場駅の取締りや公事訴訟、助郷の監督、道路・橋梁などの管理を取り仕切った役職)宛てに連署で、「望湖堂に本陣まがいの営業を慎むように」と訴えた程でした。いわゆる“ヤキモチ”“やっかみ”みたいなもんですな(^^)

因みに本陣とは、宿場で大名(お殿様)・旗本(幕府直属の武士)・幕府の役人・勅使(皇室の使者)・宮(皇族)・門跡(もんぜき/皇族・貴族出身の住職)などの宿泊所として指定された家のことで、原則一般の者が宿泊することは許されていませんでした。

後に臨湖堂は廃業し跡形も無くなってしまいましたが、望湖堂は残り、往時の姿をよく留めていました。

しかし残念ながら平成3(1991)年の失火で、参勤交代や朝鮮通信使に関する多数の資料とともに焼失してしまいました。

弘法大師のお手植と伝えられる杉(弘法杉)は幹周8m、枝の長さは実に40mにまで成長しました。

しかし、こちらも残念なことに昭和56(1981)年12月の大雪で倒れ、現在は切り株しか残っていません。でも流石は霊木、こんなエピソードが残っています。

望湖堂と弘法杉(1960年)【写真集・彦根 所載】

この杉が倒れる半年程前。望湖堂の奥さんの夢の中に1人の僧が現れ、次のような歌を詠みました。

愚海(ぐかい)の海は荒れるとも 乗せて必ず渡しける

「大嵐になり幾ら海が荒れるようなことがあっても、私が救ってやるから安心するがよい」という意味なのですが、半ば安心はしたものの、そのうち何か大変なことが起こるのではと心配されたそうです。

そして昭和56年12月15日早暁。大音響とともに、家中がまるで地震のように揺れました。慌てて外を見ると、杉の木が倒れ玄関が塞がれていました。これまで幾度となく風で枝が折れるようなことはありましたが、望湖堂の母屋の棟に当たったことは一度もありませんでした。あの歌の大嵐とはこのことかと思い、大惨事に至らなかったことにむしろ安堵されたそうです。

御神木ですから撤去してしまうことに反対意見もありましたが、結局撤去されることになりました。

弘法大師御手植杉跡

ところが驚いたことに杉は撤去費用以上に高額で売却され、おまけに「磨針明神」の改修費用も捻出出来たのです。また木を切ることになった2月はいつも北風が吹き付け大変寒いのですが、撤去に要した7日間だけは風も雲もない良い天候に恵まれたそうです。

更に望湖堂の屋根を改修した3月は、瓦屋が「3月にこんなによいお天気が続いたのは今までに一度もない」と驚くほど快晴だったとか。そんな不思議なことが続いたのだそうです。

夢に出てきた僧というのは、あの弘法大師だったのでしょうか…?

神明宮本殿

弘法大師がお餅を供えた磨針明神は、現在神明宮として望湖堂横の山腹に祀られています。

因みに観光案内やブログ記事などで、境内にある立派な杉の木を「弘法大師御手植杉」と表記されているのが散見されますが、これは誤った情報ですのでご注意ください。

ここで、おまけエピソードを1つ。源義経に美濃國青墓(現在の岐阜県大垣市)で成敗されたという伝説上の盗賊の頭領、熊坂長範(くまさかちょうはん)に磨針太郎という手下がいましたが、ここ磨針峠から名を盗った…いやいや、取ったと伝えられています。

中山道全盛期の賑わいの痕跡が、今でもそこはかと残る磨針峠。

望湖堂から琵琶湖を望む

現在は車道が通っていますが、かつての旧道も一部整備されて残っています。

そこを歩けば当時の“峠越え”の過酷さが肌身に感じ取れます(こんなところを大名行列が通ったなんて到底信じられません)。

体力と持久力に自信のある方は是非チャレンジしてみてください(^ ^)

それにしても名物・するはり餅。和洋問わずスイーツ好きの小生としては食してみたかったですねぇ。もち米100%の団子をこし餡で包んだ所謂“あんころ餅”で、特に大名たちに出すものには砂糖がまぶしてありました。

一般客でもトッピング料金を払えば、砂糖をまぶしてくれたのだそうですよ。まぁ当時、砂糖は貴重品でしたから致し方ないですね。

するはり餅(イメージ)

見た目は草津の銘菓「うばがもち」に比較的似ていたようです。 叶うことなら、町興しの一環として復刻してくれないかなぁ…そう思う“食いしん坊”な今日此頃です(^^)

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歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説(番外篇)


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本来ならば、歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説シリーズは前後篇で完結する予定だったのですが、色々と調査をしている過程で奇妙なネタを発見しました。よって今回はその“ 奇妙なネタ ”を番外篇としてお届け致したいと存じます。

さて皆さん、神代文字(じんだいもじ/かみよもじ)というものをご存知でしょうか?

『広辞苑』等の文献によりますと・・・詳しく引用しますと頭がクラクラしますので、簡単に要約致します。つまり日本に漢字が渡来する以前の古代に使用されていたとされる文字、もしくは文字のようなものの総称です。どのようなものかと申しますと、以下の写真をご参照ください。

水茎文字

象形文字のような、ハングル文字のような、奇妙奇天烈な文字です。神代の文字の可能性として初めて言及したのは、鎌倉時代の神道家・卜部兼方(うらべかねかた)の『釈日本紀』 で、以降江戸時代にブームとなった尚古思想(価値ある生活は古代にあるとして、古代の文献・制度を模範とする中国の支配的な思想)の風潮もあり、当時多くの国学者により様々な神代文字が提唱・議論されました。

現代に於いてその真贋は定かではない・・・というよりは寧ろ、残念ながら『非存在説が有力』『オカルト信奉者の興味対象』とされています。

そのオカルトチックなものに、何と“水茎の岡”が関係するものがあるというから驚きです(それが先程の写真のモノ)。

大石凝真素美

それは水茎文字と 呼ばれる文字です。 以下はNPO法人地球ことば村様の記述を引用致します。

国学者・中村孝道(1818~1844)が音声の配列のために作り出し、後に大石凝真素美(おおいしごり ますみ/1832 ~1913)が天津金木学(あまつ かなぎがく)という独自の行法によって感得したという文字。天津金木は積木状の木片の 6 面を白・黒・青・緑・赤・黄に塗り分けたもの。この配列・運用によって森羅万象が表現できるばかりか、未来の予測まで可能になるという。「水茎」というのは木を組み合わせるという意味の「瑞組木」に、古語で筆・筆跡・書簡を意味する「みずくさ」をかけての命名である。 水茎文字には不思議な伝説がある。滋賀県近江八幡水茎町にある岡山の山頂から見下ろす琵琶湖は景勝地として知られ、「水茎の岡」として万葉にも登場する歌枕の地である。大石凝によると、天気のよい日にこの岡に登り、湖面をみるとそこに刻々現われては消える水茎文字(波紋)が観測されるという。

以上サイトの文面そのままを掲載致しましたが、「滋賀県近江八幡水茎町にある岡山の山頂 」という記述につきましては、「滋賀県近江八幡市牧町にある岡山の山頂」であることを指摘しておきます。

水茎の岡からの琵琶湖眺望

早速、水茎の岡に登って湖面を見渡してみたのですが・・・

山は結構な荒れようで、なかなか琵琶湖を望める場所もなく、ようやく見つけた箇所もこの有様。 文字が見えなかったのは、天候がいまひとつだったのか、或いは小生の研究者(?)としての精進の足りなさの為せる業なのでしょうか(苦笑)。

そんな様々なエピソードに彩られた、ここ“ 水茎の岡 ”。周辺で活発なウインドサーフィンも季節的にそろそろ一段落でしょうから、一度散策されてみては如何でしょうか。

■参考サイト NPO法人 地球ことば村

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閑話徘徊“滋賀にもこんなシャレの効いた酒があったなら・・・”

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2月13日の記事で『滋賀の地酒を勉強中』と綴っておりましたが、その後色々な蔵元さんの日本酒をチョビチョビではありますが試させていただいております。

ただ残念ながら、どうも小生の嗜好に合う地酒に出逢えない現状です。米どころでもあり、水にも恵まれ、地勢的には絶好の酒どころ。そして小生は根っからの土着民。出逢えないのが不思議です。

最近地酒が世間で話題になったり、メディアに取り上げられたりする機会も増えて参りました。蔵元さんが新しい試みに挑戦されたり、観光客やファンを取り込むために様々なイベントや施設の整備に注力されていることも増えました・・・でもなぁ・・・ というのが正直な気持ちです。

これは飽くまでも私見ではありますが、 ひょっとするとそういう傾向を目の当たりにすると、途端に自身の嗜好のモチベーションが低下してしまっているのではないかなどと勝手に分析しております。

それはさておき、今回久し振りにまとまったお休みが取れたので、可能ならば手に入れたいと思っていた日本酒がありました。通販で入手することも出来なくはないのですが、何せ流通量が少ないので、蔵元さんのある地元でと考えておりました。銘柄はズバリ『 死神 』です。

予想通り、地元でも特約店でしか流通していませんでした。喜び勇んで会計に向かおうとしたその時、奥の商品棚の一角に何やら怪しげなラベルの一升瓶が・・・。

特約店の方に伺ったところ通称『裏死神』と呼ばれる正統派の純米大吟醸(責め酒)で、本家・死神とは全く異なるアイテムとか。流通量は本家よりも僅少で、その中でも全国的にメジャーな酒米・山田錦バージョンと、地元の蔵元さんだけで使われている酒米・佐香錦 バージョン があるとのこと。加えて後者はさらに流通量が極少で、今年はもう在庫限りだと言われました(※因みに蔵元さんのホームページにも紹介されていませんでした)。

ウラシニガミ

そう言われれば入手するしかないっ!と、死神を断念していきなり裏世界に入り込んでしまいました(笑)。

「要冷蔵で保管には注意してください」とのアドバイスをいただいて、慎重に持って帰って参りました。まだ開栓しておりませんが、とても愉しみです。本家・死神が「 枯葉色でサエも良くない 、でもハマれば“病み憑き、憑りつかれそうな旨さ”」とのことですので、ひょっとするとその反対ですから『幸福感に包まれた御仏のような旨さ(?)』なのかも知れません(※特約店さんも余りに流通量が希少なため試飲したことがないとのことでした)。

日本酒初心者の小生ですが、不躾ながら『こういうシャレの効いた、でも中身は全く破綻、妥協のない酒が滋賀にもあったなら』としみじみ思うのです。他県の居酒屋さんに滋賀の地酒がラインナップされていることが少ない一因も、こういうところにあるのやも知れません。

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【令和改元記念企画】長生長壽の金字塔“長命寺”の伝説(後篇)


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前回に引き続きまして長命寺(ちょうめいじ)に纏わるお話を致したいと存じます。

さて時代は蘇我氏と物部氏が覇権争いを繰り広げていた大和時代。厩戸王(うまやどのおう/一般に聖徳太子として知られる)が、当時道も無いこの山に登った際、紫雲たなびく中に光明を見つけます。

厩戸王(聖徳太子)

さらに近付いてみるとその光明は観音菩薩の姿をしていましたが、直ぐに消えて二つの石と化してしまいます。

厩戸王は更に山を登り進めます。

すると古木から光明が光り、その幹に「寿命長遠諸願成就(じゅみょうちょうおんしょがんじょうじゅ)」の文字が浮かび上がったのです。

不思議に思って眺めていますとそこへ白髪の老人が現れ、「この霊木で十一面千手聖観音菩薩の三尊一体(千手観音・十一面観音・聖観音)を刻んで伽藍(がらん)を建立すれば、武内大臣も大層お喜びになり、諸国万人が等しく崇拝する地となるであろう」と告げて消えてしまいました。

早速お告げに従い観音菩薩を刻み、伽藍を建てて安置し礼拝したところ、先程の石がお互いに寄り添い1つの岩になりました。

修多羅石

その岩は現在宿禰をご神体とする修多羅石(すたらいし)として今に存在します。

なお厩戸王が刻んだと伝えられる本尊・十一面千手聖観音菩薩(国指定重要文化財)は秘仏となっております。

そして厩戸王は武内宿禰の長寿因縁にあやかり、ここを「長命寺と命名するのです。

聖徳太子礼拝石

厩戸王が礼拝した場所は、聖徳太子礼拝石として参道の途中にあります。

また天智天皇が大津京から長命寺を訪れ、ここで天下安泰の祈願をされた時のこと。

天皇はおもむろに境内にあった柳の枝を折って本堂の横に差すと、見る見るうちに大木に成長したのだとか。

閼伽井堂(念仏井戸)

この枝を差した場所が現在の閼伽井堂(あかいどう)で、念仏を唱えると水面に泡が出るので“念仏井戸”とも呼ばれています。

最後に長命寺の伝説をもう1つ。

今から約500年前の天文年間(室町時代後期)のこと。

長命寺に普門坊(ふもんぼう)という修行僧がおり、12歳で比叡山に登り、阿闍梨(あじゃり/衆僧の模範となるべき高位の僧侶)について仏典を研究する程の知恵者でした。

また千日の法華経書写や難行苦行を経て、神通力も持ち備えていました。

当時長命寺は三重塔を建築中で、大工が尾張國の熱田神宮へ行きたいと言うと、普門坊は大工を小脇に抱えて飛んでいったといいます。

後に普門坊は京都の愛宕山(あたごやま/京都にあり全国の愛宕神社の総本社が鎮座)に移り住みますが、長命寺を懐かしみ、山の岩を投げたとか。

飛来石

その岩が現在の飛来石(ひらいいし)とされています。

また普門坊は長命寺を守護するために大天狗に変じたとも言われ、飛来石横の太郎坊権現社に祀られています。

この世知辛い今の世にあって、果たして“長寿”が人生最高の悦びであるかは何とも申し難いものがあるのですが、自然のパワーを感じていただくだけにでもお越しになって損はありませんし、長命寺から眺める琵琶湖はとてもキレイですよ。

長命寺から琵琶湖を望む

何れ平成天皇と称されるであろう上皇陛下、上皇后陛下。平成の御代を国民に常に寄り添ってくださったことに深く感謝申し上げるとともに、これからも幾久しくお過ごしいただきたい。そして令和の世が全ての人々にとって幸福を享受できる時代であって欲しいと願って已みません。

長命寺

滋賀県近江八幡市長命寺町157番地
【TEL】0748-33-0031

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Ailes de résurrection!“L’hirondelle”

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sweets&cafe L'hirondelle以前小生が家族ぐるみで通い詰めていたスイーツカフェ、L’hirondelle(リロンデル)。

 

開業から僅か3年余りでオーナーさんが急の病に倒れられ、まさかの休業に追い込まれました。

 

以前リロンデルさんをご紹介した記事はコチラ>>>

 

当初1年位で復活されると見込んでいましたが、思いの外回復が芳しくなく、一時は復活も危ぶまれました。

 

 

その間我が家では、特にバースデーケーキやちょっとしたお茶会のお茶請けの依頼先に窮し、ジプシーの如くスイーツショップを彷徨う日々を送っておりました。

 

復活のスイーツたち先週25日(木)、約2年半の眠りから覚め、ようやく営業再開に漕ぎ着けられました。

 

もちろんお味に長いブランクの影響は感じられません。

 

これまでリハビリ中に鬱々とされてきた分、色々と構想を練っておられたようで、新たなスタートがとても愉しみです。

 

当面はアイドリング&リハビリ営業とのことですので、特にカフェをご利用される際は事前のご予約がおススメです。

 

リロンデルの名に相応しく、不死鳥ならぬ不死の如き復活は、小生にとって今年一番の嬉しい話題です (^o^)v

 

sweets&cafe L’hirondelle

・滋賀県彦根市甘呂町264番地5
【TEL】  0749-49-3757
【休業日】   月曜日~水曜日
                       ※リハビリ営業のため不定休あり
【営業時間】 12:00~18:00

 

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天空の里山紀行(4) “イワス物語”

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滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第4回は昭和の激動期に甲頭倉・屏風・後谷の住人たちが、その栄枯盛衰に翻弄されたある鉱山をご案内致します。


イワス(後谷鉱山跡)彦根近辺から霊仙山系を望むと、一際荒れた岩肌の目立つ箇所があります。標高640mのイワス(岩巣)と呼ばれるこの山には、かつて石灰石を産出する後谷鉱山が存在しました。

 

1935(昭和10)年に彦根でセメント工場を操業させた昭和セメントの原石採掘地として開鉱。

 

イワスから彦根工場(住友大阪セメント彦根工場、現在跡地はイオンタウン彦根店)まで、約5kmの空中索道(ケーブル)で原石輸送を行っていました。

 

旧野沢石綿セメント彦根工場その後所有企業が二転三転し、1949(昭和24)年野沢石綿セメントとなった時に戦後需要で最盛期を迎えます。

 

甲頭倉・屏風・後谷の住人も大半がこの鉱山の採掘作業に従事し、また県外の鉱夫も多数流入したことから、当時はかなりの活況振りだったようです。特に後谷には社員寮も整備され、鉱山特需に沸いたとか。

 

しかし索道輸送の非効率さが急激な需要増に追いつけず、またベルトコンベア方式による原石輸送で操業を開始した同系企業の東亜セメント多賀工場に生産の主力が移行したため、1966(昭和41)年に両工場が住友セメントの傘下に入ると、程なくして廃鉱となりました。

 

今もって高さ約80mにも及ぶ石灰残土の無残な姿を晒し、完全に自然へ還ることを許さぬ様相を呈しています。山あいの寒村に降って湧いたような一迅の好況。果たして周辺住民にとって「真の幸せ」をもたらしたのか否か、今となっては定かではありません。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 甲頭倉創生会 MT TRADING

 

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