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近江忠犬物語(前篇) “目検枷”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

さて未だ先の見えないこのコロナ・パンデミックの渦中、巣ごもりライフ・スタイルの影響からか、現在空前のペットブームが巻き起こっていると聞き及びました。先日久し振りにとあるホームセンターのペットコーナーを覗いてみたのですが、販売価格が軒並み従前の1.5~2倍近くに跳ね上がっており、この感染症不況下に驚きを隠せませんでした。ある意味需給バランス下での健全な市場の反応とも言えるのでしょうが、『生命の価値』とは一体何なのだろうと違和感すら覚えた次第です。

さて今回は、その人間と古来深い繋がりを持つ犬、それも忠犬と呼ばれる選ばれし犬に纏わるお話を3回シリーズでお届け致したく存じます。

忠犬といえば言わずと知れた東京・渋谷駅前のハチ公があまりにも有名なのですが、滋賀にもそれに負けじ劣らじの犬がいたのですよ。

平方天満宮

前回、旧長浜市の豊國神社を訪れました。そこから旧北國街道を南へ約1.7km。琵琶湖に程近く、長浜大佛も仰ぎ見る位置に平方天満宮(ひらかたてんまんぐう)があります。

因みに天満宮の縁起に依れば、かつてここは犬神明神と称していたのですが、江戸時代に加賀國(現在の石川県)・金沢藩主の前田候(どの藩主かは不明)が道中往来の際、藩主の奨めにより菅原道真公を祭神として天満宮と改めたとのこと。どういう経緯でそのようになったのかは定かではありませんが、お殿様の気まぐれ(?)にも困ったものですね。

境内の北側に目を遣りますと、緑色の古めかしい案内板が視界に入ります。

犬塚案内板

犬塚と大きく表記されています。どうやらここが伝説由来の地のようです。

『平方名犬物語』に依ると、その昔、平方天満宮には毎年近隣の村から、1人ずつ娘を人身御供(ひとみごくう/人間を神への生贄とすること)に差し出すという風習がありました。

ある年のこと。村にとても豪気な男がいて、人身御供の輿を神前に置いて、いったい何者がこれを求めるのか見届けてやろうと、近くの大木に身を隠していました。

やがて夜も更け三日月も影を薄くした頃、社殿裏の湖岸が俄かに波立って、しばらくすると得体の知れぬ怪物が出現しました。怪物は暗闇の境内を何やらぶつぶつと言いながら通っていきます。どうやら「平方のメッキに言うな」とつぶやいていたようです。男は「メッキ」というものが、怪物の忌み嫌う対象であることを知ります。

目検枷(イメージ)

男は「平方のメッキ」とは何かを調べたところ、それは野瀬の長者の愛犬のことであることが判明します。愛犬の名は目検枷(メタテカイ)と言いました(文献により目見解とも)。名前の由来は解りませんが、漢字単体で見ると如何にも邪に立ち向かう雰囲気があります。

翌年の人身御供の日に男は長者から目検枷を借り受けると、神殿の陰で怪物を待ち伏せしました。やがて怪物が現れると、男は目検枷とともにものすごい勢いで飛び掛かり、見事怪物を仕留めました。

しかし目検枷も大きな傷を負い、男に看取られて息を引き取りました。この怪物は川獺(かわうそ)だったとも、猿であったとも言います。ともあれ怪物の死体には、激しい闘いを物語るかのように目検枷の鋭い歯の痕が幾つも残されていたそうです。

犬塚(目検枷墓)

この目検枷を葬ったのが、平方天満宮にある犬塚だと伝えられています。なお石柱で垣を巡らし、その中央に置かれた目検枷の墓とされる小さな石に触れ、その手で歯の痛むところを撫でると、その痛みが止まると言われています。たちまち歯医者さんに掛かれない方は、是非ご利益にあやかってみては如何でしょうか(笑)。

平方天満宮

 滋賀県長浜市平方町662

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秀吉と清正とのキズナアイ“虎石”の伝説

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引き続き「滋賀の伝説」を辿る旅にお付き合いください。今回は長浜市の旧長浜市エリアを訪れております。

長浜城

タイトルに“キズナアイ”と表記致しましたが、今回のお話と某バーチャルアイドルとは一切関連はございません。またおもむろに長浜城の写真を掲載致しましたが、今回お城には訪問致しません・・・が、全く関連がないという訳でもございません。さてさて・・・

今回訪れましたのはJR長浜駅東口から北に約200m。

豊國神社
豊國神社

閑静な住宅やビル群の中に豊國神社(ほうこくじんじゃ)があります。

名称から察せられるように、ここは神号『豊国大明神』を下賜された豊臣秀吉を主祭神としています。その他にも秀吉の家臣である加藤清正、木村重成。さらに事代主神(ことしろぬしのかみ、恵比寿神の別称)もお祀りしています。

羽柴(豊臣)秀吉
羽柴(豊臣)秀吉

秀吉が初めて城持ち大名となった地・長浜で崇敬を集めているということは、治世を敷いていた頃より如何に秀吉が庶民に慕われ愛されていたかが窺い知れます。

その豊國神社の境内にある瓢箪池の畔の築山の上に、注連縄があしらわれた大きな花崗岩が1つ、ポツンと鎮座しています。

虎石
虎石

これが今回のお話の題材である虎石(とらいし)です。

時は戦国時代。天正1(1573)年、小谷城の浅井長政を攻め滅ぼした羽柴(豊臣)秀吉は、その功により浅井氏の旧領である北近江三郡(伊香・浅井・坂田)を信長から与えられます。そして当時『今濱(いまはま)』と呼ばれていた地を『長濱(ながはま)』と改め、ここに居城を築きます。

築城の際、秀吉は庭園用に多くの珍しい形の庭石を探させていました。その中でも秀吉が幼少の頃より寵愛し、家臣団の中でも屈指の猛将であった加藤清正が献上した庭石を殊の外気に入り、この石を清正の幼名に因んで、虎之助の石虎の石虎石と呼んで大切にしていたといいます。

長浜御坊大通寺【滋賀県提供】
長浜別院大通寺【滋賀県提供】

秀吉が長濱の地を治めて30年。時代は目まぐるしく変化を遂げます。秀吉は天下統一を成し遂げますが60歳で逝去。その後天下分け目の戦い、関ケ原合戦を経て徳川家康が天下を取ります。

その間長浜城も例外ではなく、秀吉の後、堀秀政、柴田勝豊、山内一豊、内藤信成、内藤信正と城主が変わり、信正が摂津高槻藩へ移封となったのを最後に廃城となりました。当然虎石の存在が追憶の彼方に消えていくのも、想像に難くありません。

ただ彦根城築城の際に廃城となった長浜城から多くの資材が運び出されましたが、虎石だけは秀吉の寵愛が別格であったため、祟りを恐れて敢えて旧城内に残しておいたそうです。

さて湖北の中心道場であった総坊(そうぼう)を前身とし、徳川家康より浄土真宗の総本山・本願寺からの分立を許された後、旧長浜城内から現在の地へ長浜別院大通寺(ながはまべついんだいつうじ)が移転造営されることとなった時のこと。

東宝に望む伊吹山を借景とすることから名付けられた書院の東庭、含山軒庭園(がんざんけんていえん、国指定名勝の枯山水庭園)が築造されることになり、旧長浜城内から虎石も運び出されました。

大通寺含山軒庭園
大通寺含山軒庭園

するとこの石が大通寺の御連枝(ごれんし/貴人の兄弟を指した敬称)である智明院尼の夢枕に三日三晩立ち、「いのう、いのう(「帰りたい」の方言)」と泣き続けたのだとか。調べてみるとこの石は秀吉が寵愛した虎石であることが判明し、不憫に思った智明院尼は再び旧城内へ戻したのだそうです。

めでたし、めでたし・・・と普通はここでお終いなのですが、どうやらこのお話にはウラがあるようなのです。

長浜の船町に、イソップ寓話『羊飼いと狼』に登場するオオカミ少年ばりのお調子者の男がおりました。街中で怒鳴りながら大ぼらを吹いては、人が騒ぐ姿を見て面白がっていました。

或る時何を血迷ったか、この男大通寺にある虎石をもとの場所に戻そうと思いつきます。このことを周囲の者に話しますが、まともに取り合ってもらえる筈もありません。

すると突然逢う人逢う人に、「虎石が大通寺の御連枝様の夢枕に夜な夜な立っては、もとの地に戻りたいと訴えて御連枝様を大層困らせている」と、如何にも当事者の如く連日触れ回ります。

そのお陰か、この話は町中の噂となり、俄かに移転の検討が持ち上がり、とうとうもとの旧城内(豊國神社)へ戻されることが実現した・・・らしいのです。

果たしてどちらの『伝説』が“真説”なのでしょうか。どちらにせよ『伝説』の時点でウソもマコトも無いのでしょうけどね(笑)。

豊國神社

滋賀県長浜市南呉服町6番地37
【TEL】0749-62-4838

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幻の聖き清流“野路の玉川”の伝説

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引き続き草津の旧東海道をそぞろ歩いております。

さて皆さん。六玉川(むたまがわ)というものをご存知でしょうか?

本来“美しい”を意味する接頭語「玉」を川に付したもので、『玉川』は特に清らかな川を示すための称号でした。全国津々浦々に玉川と称する川が存在しましたが、その中でも取り分け六つの玉川が歌枕(和歌に詠み込まれる名所旧跡)にも起用され、高い知名度を誇っておりました。

六玉川は、皆さんご存知の武蔵國・調布(たづくり)の玉川(東京都・現在の多摩川)を始め、陸奥國・野田の玉川(宮城県)、山城國・井手の玉川(京都府)、摂津國・三島の玉川(大阪府)、紀伊國・高野の玉川(和歌山県)。そして滋賀にも野路(のじ)の玉川がその1つに数えられていました。

この六玉川は江戸時代、彼の歌川広重によって『諸國六玉川』として描かれています。因みに野路の玉川はコレです。

諸國六玉川・近江野路(歌川広重)

「東海道沿いにこのような“清らかな川”があったとは!」

ただ草津は都市化著しいエリアですから、流石に往時のまま・・・とはいかないにしても、せめて痕跡だけもと期待と不安を交錯させながら旧東海道を南下しました。

JR南草津駅から南に約1km。もうそろそろ到着しても良い頃だと思いつつも、周囲はマンションと住宅ばかり。旧東海道には間違いないのですが・・・。

不安に駆られ、念のため少し戻ってみました。よ~く目を凝らしながら歩いていると、公園らしき場所に1基の古い石碑を発見!

玉川歌碑

あすも来む 野路の玉川 萩こえて
いろなる波に 月やどりけり
 (千載和歌集)

平安時代後期の貴族・源俊頼が野路の玉川を題材に詠った歌が、玉川の名と共に確かに石碑に刻まれています。

野路は平安から鎌倉期に掛けて東海道の宿駅として栄え、特に源平争乱の折には源頼朝を始め、数多くの武将がここに宿陣しました。

近くを流れる十禅寺川からの伏流水が湧き出で、前出の歌にもあるように辺り一面に萩の花が咲き匂い、別称・萩の玉川とも呼ばれていました。その優美な風情は旅人の格好の憩いの場となり大層賑わったそうです。

この野路の玉川にはこのような伝説が言い伝えられています。

随分と昔のこと。京の御所では例年5月15日には伊勢の五十鈴川の水で小豆粥を作ることが習わしとなっていました。伊勢の神域の水は誠に尊く、不思議と小豆が程よく煮えたそうです。

ところがある年のこと。五十鈴川の水を汲むために使わされた者が京を出立し、勢多の唐橋を渡って野路に差し掛かったところ、玉川の余りにも清らかな水に目を奪われます。

野路玉川古跡(東海道名所図會)

その使者はあろうことか「伊勢まで赴かなくとも、この清らかな水を持ち帰れば事足りるではないか」と考え、玉川の水を五十鈴川の水と偽って御所に献上してしまいます。

案の定小豆は上手く煮えず、使者は厳しい詮議を受けた後、遠流の刑に処せられてしまいます。その使者は「あの玉川の水さえあのように清らかでなければ、このような憂き目に遭わずに済んだものを・・・玉川の水を汚れたものにしてやる」と逆恨みし、以後川の水は濁ってしまったといいます。

関ケ原合戦以降、宿場が草津に本格的に整備されると、次第に野路は寂れ、この名勝も廃れていきました。江戸時代後期に出版された『東海道名所図會』(とうかいどうめいしょずえ)には野路玉川古跡と表記されており、この時点で既に僅かな痕跡しか残っていなかったことが伺えます。

近代に入り玉川自体も消滅し、湧水はどぶ池のようになり、萩も枯れ、前述の歌碑だけが辛うじて往時を偲ぶ唯一の痕跡でした。これもあの使者の怨念が成せる業だったのでしょうか。

その後幾度か地元有志によりこの名勝の保存・復元が画策されますが思うように事は運ばず、人々の記憶から消えていくのも時間の問題でした。

古跡・萩の玉川

しかし野路町内会と有志が、地元の象徴とも言うべき由緒深きこの玉川を消滅させてはならないと立ち上がり、住民の総意でもって昭和51(1976)年11月に親水公園として復元が叶いました。

復元から18年後。公園の規模や池の取水等で問題が発生したため、草津市の協力を得て再整備。平成5(1993)年3月に竣工し、現在に至ります。

飽くまでも人工的に復元されたものですので、かつてのような自然的な清らかさからは程遠いのかも知れませんが、地元の方の地元愛がひしひしと伝わってくる・・・今はそのような場所になっています。

また玉川の名は地元の市立小・中学校、県立高等学校にも起用されており、これからも脈々と受け継がれていくことでしょう。

浄財弁財天(弁天池)

因みに古跡・萩の玉川から更に東海道を南下すること約500m。大きな池に小島が浮かぶ、ちょっとした景勝地があります。

弁天池と呼ばれるこの池は人工的に造られており、恐らく農業用の灌漑池ではないかと推察されます。ただ前出の東海道名所図會にも挿絵に描かれており、少なくとも江戸時代にはその存在が認められています。

小島には浄財弁財天が鎮座され、竹生島の弁天様が祀られています。そう言えば琵琶湖に浮かぶ竹生島に見えなくもありません。

この弁天池にも悲しい恋の物語が伝わっているのですが、それはまた別の機会にご紹介致したいと存じます。

野路町内会

滋賀県草津市野路5丁目8-3
【TEL】077-564-0644

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歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説(番外篇)


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本来ならば、歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説シリーズは前後篇で完結する予定だったのですが、色々と調査をしている過程で奇妙なネタを発見しました。よって今回はその“ 奇妙なネタ ”を番外篇としてお届け致したいと存じます。

さて皆さん、神代文字(じんだいもじ/かみよもじ)というものをご存知でしょうか?

『広辞苑』等の文献によりますと・・・詳しく引用しますと頭がクラクラしますので、簡単に要約致します。つまり日本に漢字が渡来する以前の古代に使用されていたとされる文字、もしくは文字のようなものの総称です。どのようなものかと申しますと、以下の写真をご参照ください。

水茎文字

象形文字のような、ハングル文字のような、奇妙奇天烈な文字です。神代の文字の可能性として初めて言及したのは、鎌倉時代の神道家・卜部兼方(うらべかねかた)の『釈日本紀』 で、以降江戸時代にブームとなった尚古思想(価値ある生活は古代にあるとして、古代の文献・制度を模範とする中国の支配的な思想)の風潮もあり、当時多くの国学者により様々な神代文字が提唱・議論されました。

現代に於いてその真贋は定かではない・・・というよりは寧ろ、残念ながら『非存在説が有力』『オカルト信奉者の興味対象』とされています。

そのオカルトチックなものに、何と“水茎の岡”が関係するものがあるというから驚きです(それが先程の写真のモノ)。

大石凝真素美

それは水茎文字と 呼ばれる文字です。 以下はNPO法人地球ことば村様の記述を引用致します。

国学者・中村孝道(1818~1844)が音声の配列のために作り出し、後に大石凝真素美(おおいしごり ますみ/1832 ~1913)が天津金木学(あまつ かなぎがく)という独自の行法によって感得したという文字。天津金木は積木状の木片の 6 面を白・黒・青・緑・赤・黄に塗り分けたもの。この配列・運用によって森羅万象が表現できるばかりか、未来の予測まで可能になるという。「水茎」というのは木を組み合わせるという意味の「瑞組木」に、古語で筆・筆跡・書簡を意味する「みずくさ」をかけての命名である。 水茎文字には不思議な伝説がある。滋賀県近江八幡水茎町にある岡山の山頂から見下ろす琵琶湖は景勝地として知られ、「水茎の岡」として万葉にも登場する歌枕の地である。大石凝によると、天気のよい日にこの岡に登り、湖面をみるとそこに刻々現われては消える水茎文字(波紋)が観測されるという。

以上サイトの文面そのままを掲載致しましたが、「滋賀県近江八幡水茎町にある岡山の山頂 」という記述につきましては、「滋賀県近江八幡市牧町にある岡山の山頂」であることを指摘しておきます。

水茎の岡からの琵琶湖眺望

早速、水茎の岡に登って湖面を見渡してみたのですが・・・

山は結構な荒れようで、なかなか琵琶湖を望める場所もなく、ようやく見つけた箇所もこの有様。 文字が見えなかったのは、天候がいまひとつだったのか、或いは小生の研究者(?)としての精進の足りなさの為せる業なのでしょうか(苦笑)。

そんな様々なエピソードに彩られた、ここ“ 水茎の岡 ”。周辺で活発なウインドサーフィンも季節的にそろそろ一段落でしょうから、一度散策されてみては如何でしょうか。

■参考サイト NPO法人 地球ことば村

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閑話徘徊“滋賀にもこんなシャレの効いた酒があったなら・・・”

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2月13日の記事で『滋賀の地酒を勉強中』と綴っておりましたが、その後色々な蔵元さんの日本酒をチョビチョビではありますが試させていただいております。

ただ残念ながら、どうも小生の嗜好に合う地酒に出逢えない現状です。米どころでもあり、水にも恵まれ、地勢的には絶好の酒どころ。そして小生は根っからの土着民。出逢えないのが不思議です。

最近地酒が世間で話題になったり、メディアに取り上げられたりする機会も増えて参りました。蔵元さんが新しい試みに挑戦されたり、観光客やファンを取り込むために様々なイベントや施設の整備に注力されていることも増えました・・・でもなぁ・・・ というのが正直な気持ちです。

これは飽くまでも私見ではありますが、 ひょっとするとそういう傾向を目の当たりにすると、途端に自身の嗜好のモチベーションが低下してしまっているのではないかなどと勝手に分析しております。

それはさておき、今回久し振りにまとまったお休みが取れたので、可能ならば手に入れたいと思っていた日本酒がありました。通販で入手することも出来なくはないのですが、何せ流通量が少ないので、蔵元さんのある地元でと考えておりました。銘柄はズバリ『 死神 』です。

予想通り、地元でも特約店でしか流通していませんでした。喜び勇んで会計に向かおうとしたその時、奥の商品棚の一角に何やら怪しげなラベルの一升瓶が・・・。

特約店の方に伺ったところ通称『裏死神』と呼ばれる正統派の純米大吟醸(責め酒)で、本家・死神とは全く異なるアイテムとか。流通量は本家よりも僅少で、その中でも全国的にメジャーな酒米・山田錦バージョンと、地元の蔵元さんだけで使われている酒米・佐香錦 バージョン があるとのこと。加えて後者はさらに流通量が極少で、今年はもう在庫限りだと言われました(※因みに蔵元さんのホームページにも紹介されていませんでした)。

ウラシニガミ

そう言われれば入手するしかないっ!と、死神を断念していきなり裏世界に入り込んでしまいました(笑)。

「要冷蔵で保管には注意してください」とのアドバイスをいただいて、慎重に持って帰って参りました。まだ開栓しておりませんが、とても愉しみです。本家・死神が「 枯葉色でサエも良くない 、でもハマれば“病み憑き、憑りつかれそうな旨さ”」とのことですので、ひょっとするとその反対ですから『幸福感に包まれた御仏のような旨さ(?)』なのかも知れません(※特約店さんも余りに流通量が希少なため試飲したことがないとのことでした)。

日本酒初心者の小生ですが、不躾ながら『こういうシャレの効いた、でも中身は全く破綻、妥協のない酒が滋賀にもあったなら』としみじみ思うのです。他県の居酒屋さんに滋賀の地酒がラインナップされていることが少ない一因も、こういうところにあるのやも知れません。

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【令和改元記念企画】長生長壽の金字塔“長命寺”の伝説(後篇)


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前回に引き続きまして長命寺(ちょうめいじ)に纏わるお話を致したいと存じます。

さて時代は蘇我氏と物部氏が覇権争いを繰り広げていた大和時代。厩戸王(うまやどのおう/一般に聖徳太子として知られる)が、当時道も無いこの山に登った際、紫雲たなびく中に光明を見つけます。

厩戸王(聖徳太子)

さらに近付いてみるとその光明は観音菩薩の姿をしていましたが、直ぐに消えて二つの石と化してしまいます。

厩戸王は更に山を登り進めます。

すると古木から光明が光り、その幹に「寿命長遠諸願成就(じゅみょうちょうおんしょがんじょうじゅ)」の文字が浮かび上がったのです。

不思議に思って眺めていますとそこへ白髪の老人が現れ、「この霊木で十一面千手聖観音菩薩の三尊一体(千手観音・十一面観音・聖観音)を刻んで伽藍(がらん)を建立すれば、武内大臣も大層お喜びになり、諸国万人が等しく崇拝する地となるであろう」と告げて消えてしまいました。

早速お告げに従い観音菩薩を刻み、伽藍を建てて安置し礼拝したところ、先程の石がお互いに寄り添い1つの岩になりました。

修多羅石

その岩は現在宿禰をご神体とする修多羅石(すたらいし)として今に存在します。

なお厩戸王が刻んだと伝えられる本尊・十一面千手聖観音菩薩(国指定重要文化財)は秘仏となっております。

そして厩戸王は武内宿禰の長寿因縁にあやかり、ここを「長命寺と命名するのです。

聖徳太子礼拝石

厩戸王が礼拝した場所は、聖徳太子礼拝石として参道の途中にあります。

また天智天皇が大津京から長命寺を訪れ、ここで天下安泰の祈願をされた時のこと。

天皇はおもむろに境内にあった柳の枝を折って本堂の横に差すと、見る見るうちに大木に成長したのだとか。

閼伽井堂(念仏井戸)

この枝を差した場所が現在の閼伽井堂(あかいどう)で、念仏を唱えると水面に泡が出るので“念仏井戸”とも呼ばれています。

最後に長命寺の伝説をもう1つ。

今から約500年前の天文年間(室町時代後期)のこと。

長命寺に普門坊(ふもんぼう)という修行僧がおり、12歳で比叡山に登り、阿闍梨(あじゃり/衆僧の模範となるべき高位の僧侶)について仏典を研究する程の知恵者でした。

また千日の法華経書写や難行苦行を経て、神通力も持ち備えていました。

当時長命寺は三重塔を建築中で、大工が尾張國の熱田神宮へ行きたいと言うと、普門坊は大工を小脇に抱えて飛んでいったといいます。

後に普門坊は京都の愛宕山(あたごやま/京都にあり全国の愛宕神社の総本社が鎮座)に移り住みますが、長命寺を懐かしみ、山の岩を投げたとか。

飛来石

その岩が現在の飛来石(ひらいいし)とされています。

また普門坊は長命寺を守護するために大天狗に変じたとも言われ、飛来石横の太郎坊権現社に祀られています。

この世知辛い今の世にあって、果たして“長寿”が人生最高の悦びであるかは何とも申し難いものがあるのですが、自然のパワーを感じていただくだけにでもお越しになって損はありませんし、長命寺から眺める琵琶湖はとてもキレイですよ。

長命寺から琵琶湖を望む

何れ平成天皇と称されるであろう上皇陛下、上皇后陛下。平成の御代を国民に常に寄り添ってくださったことに深く感謝申し上げるとともに、これからも幾久しくお過ごしいただきたい。そして令和の世が全ての人々にとって幸福を享受できる時代であって欲しいと願って已みません。

長命寺

滋賀県近江八幡市長命寺町157番地
【TEL】0748-33-0031

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Ailes de résurrection!“L’hirondelle”

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sweets&cafe L'hirondelle以前小生が家族ぐるみで通い詰めていたスイーツカフェ、L’hirondelle(リロンデル)。

 

開業から僅か3年余りでオーナーさんが急の病に倒れられ、まさかの休業に追い込まれました。

 

以前リロンデルさんをご紹介した記事はコチラ>>>

 

当初1年位で復活されると見込んでいましたが、思いの外回復が芳しくなく、一時は復活も危ぶまれました。

 

 

その間我が家では、特にバースデーケーキやちょっとしたお茶会のお茶請けの依頼先に窮し、ジプシーの如くスイーツショップを彷徨う日々を送っておりました。

 

復活のスイーツたち先週25日(木)、約2年半の眠りから覚め、ようやく営業再開に漕ぎ着けられました。

 

もちろんお味に長いブランクの影響は感じられません。

 

これまでリハビリ中に鬱々とされてきた分、色々と構想を練っておられたようで、新たなスタートがとても愉しみです。

 

当面はアイドリング&リハビリ営業とのことですので、特にカフェをご利用される際は事前のご予約がおススメです。

 

リロンデルの名に相応しく、不死鳥ならぬ不死の如き復活は、小生にとって今年一番の嬉しい話題です (^o^)v

 

sweets&cafe L’hirondelle

・滋賀県彦根市甘呂町264番地5
【TEL】  0749-49-3757
【休業日】   月曜日~水曜日
                       ※リハビリ営業のため不定休あり
【営業時間】 12:00~18:00

 

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天空の里山紀行(4) “イワス物語”

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滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第4回は昭和の激動期に甲頭倉・屏風・後谷の住人たちが、その栄枯盛衰に翻弄されたある鉱山をご案内致します。


イワス(後谷鉱山跡)彦根近辺から霊仙山系を望むと、一際荒れた岩肌の目立つ箇所があります。標高640mのイワス(岩巣)と呼ばれるこの山には、かつて石灰石を産出する後谷鉱山が存在しました。

 

1935(昭和10)年に彦根でセメント工場を操業させた昭和セメントの原石採掘地として開鉱。

 

イワスから彦根工場(住友大阪セメント彦根工場、現在跡地はイオンタウン彦根店)まで、約5kmの空中索道(ケーブル)で原石輸送を行っていました。

 

旧野沢石綿セメント彦根工場その後所有企業が二転三転し、1949(昭和24)年野沢石綿セメントとなった時に戦後需要で最盛期を迎えます。

 

甲頭倉・屏風・後谷の住人も大半がこの鉱山の採掘作業に従事し、また県外の鉱夫も多数流入したことから、当時はかなりの活況振りだったようです。特に後谷には社員寮も整備され、鉱山特需に沸いたとか。

 

しかし索道輸送の非効率さが急激な需要増に追いつけず、またベルトコンベア方式による原石輸送で操業を開始した同系企業の東亜セメント多賀工場に生産の主力が移行したため、1966(昭和41)年に両工場が住友セメントの傘下に入ると、程なくして廃鉱となりました。

 

今もって高さ約80mにも及ぶ石灰残土の無残な姿を晒し、完全に自然へ還ることを許さぬ様相を呈しています。山あいの寒村に降って湧いたような一迅の好況。果たして周辺住民にとって「真の幸せ」をもたらしたのか否か、今となっては定かではありません。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 甲頭倉創生会 MT TRADING

 

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