Category Archives: 戦跡紀行

我が故郷の戦争遺産“海軍航空技術廠 伊吹山測候所航空機着氷観測所”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は我が故郷の戦争遺産第3弾としまして、霊峰・伊吹山にありました海軍航空技術廠 伊吹山測候所航空機着氷観測所に関するお話をお届けいたしたいと存じます。

 

伊吹山滋賀の自然で琵琶湖と同じくシンボリックな存在である伊吹山(標高1,377m)。

 

かつてここには気象観測の要とも言うべき測候所( そっこうしょ/観測した気象資料の 通報・報告を主業務とする気象庁管区気象台の下部組織)が設置されていました。

 

大正7(1918)年12月。当時の滋賀県知事であった森正隆が高層気象観測の必要性を提唱し、2代目・下郷伝平(長浜出身の実業家)と本山彦一(大阪毎日新聞社長)の寄付を得て竣工。

 

翌年1月1日より、滋賀県立彦根測候所付属伊吹山観測所として観測を開始しました。

 

2代目伊吹山測候所【写真でふりかえる伊吹山物語 所載】昭和4(1929)年5月には国営に移管され、中央気象台付属伊吹山測候所に。

 

以降厳しい環境の中、2度の施設更新を経て、平成13(2001)年3月31日に観測を終了するまで実に83年余りの長きに渡り、貴重な気象観測データを提供し続けてきました。

 

さて測候所のお話はまたの機会に致したいと存じます。

 

本題に戻りまして、大東亜戦争末期のこと。海軍航空技術廠は高高度並びに寒冷地での航空機運用に関する様々な影響のデータ収集のため、当時「雪の博士」として著名な北海道大学理学部教授・中谷宇吉郎の協力を得て、北海道・ニセコアンヌプリ(標高1,308m)山頂に実験施設(着氷観測所)の整備を計画します。戦後の混乱で長年その詳細がベールに包まれていましたが、平成11(1999)年8月に現地で零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の右主翼が発見され俄かに注目を浴びたのは記憶に新しいところです。


海軍航空機着氷実験施設跡【写真でふりかえる伊吹山物語 所載】ニセコ山頂着氷観測所の昭和18(1943)年本観測開始に先駆けて、海軍航空技術廠の要請を受け、中央気象台(気象庁の前身)主導による各種予備観測が実施されます。観測は富士山・岩手山・伊吹山にある各測候所が担当しました。

 

伊吹山測候所に設置された施設は、正式に海軍名古屋兵器廠航空機着氷実験施設と称しました。

 

ここでは主翼前縁部のゴム張処理や、薬品(エチレングリ コール・パインオイル等 )の循環・塗布・滲出(しんしゅつ/にじみ出ること)に関する実験等が行われたとされています。

 

しかし残念ながら、どの程度の期間、どの程度の規模でどのような実験を行い、どのような具体的成果が得られたかについては今現在資料が見つかっていません。


3代目伊吹山測候所(2010年8月当時)平成13年に気象観測を終えた伊吹山測候所ですが、山頂のシンボル的存在としてその後も建屋は残されました。

 

余り注目はされませんでしたが、当時の実験施設の一部として鉄塔とコンクリート土台もそのままになっていたのです。

 

しかし平成22(2010)年10月。

 

測候所は老朽化のため解体。同時に戦争遺産の痕跡も撤去されてしまいました。施設の痕跡を失ってからその存在が注目されたのは、実に皮肉なことです。

 

結局、伊吹山頂に発生する霧の如く、実態は未だ謎のベールに包まれたままなのです。

 

異なる視点でお届け致しました「我が故郷の戦争遺産」は如何でしたでしょうか。“戦争の事実”を後世に伝えていくためにも、また機会を見つけてご紹介していきたいと存じます。

 

【参考文献】 写真でふりかえる伊吹山物語(みんなが楽しい伊吹山プロジェクト 編)
          日本気象学会機関誌・天気 2006年12月号(日本気象学会 編)

 

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我が故郷の戦争遺産“戦時國内捕虜の闘い(3)”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

少々回り道を致しましたが、今回は戦時國内捕虜の闘いの第3弾をお届けいたしたいと存じます。

 

大阪俘虜収容所第8分所【捕虜収容所補給作戦 所載】野洲市北部。琵琶湖にも程近く、家棟川(やのむねがわ)に隣接する野田(のだ)の集落には、広大な田園地帯が広がります。

 

その中に周囲の風景には不似合いな、大きな規模の墓地があります。ここにはかつて大阪俘虜収容所第23分所がありました。

 

播磨分所(兵庫県相生市)のオランダ兵捕虜200人(大半がオランダ植民地下の徴用インドネシア人で本国兵は10人程度、後に4人転出)を事実上疎開させるために、昭和20(1945)年5月18日に開設(8月に第8分所に改称)。

 

野田沼干拓地と大阪俘虜収容所第8分所跡使役者は滋賀県で、捕虜たちは野田沼(のだぬま)の干拓事業並びに干拓地の農作業に従事していました。なお事業自体は昭和18(1943)年より着手されています。

 

整備された農地は395,000㎡。3箇所の俘虜収容所の兵士たちが従事した干拓事業の中では、最も規模の小さいものでした。

 

しかし家棟川が天井川(川底が周辺の平面地よりも高い河川)ということもあり、内陸の沼地ではありましたが低地で出水も多かったことから、工事は決して容易なものでは無かったようです。

 

野田沼排水機場跡現在でも、当時野田沼から家棟川へ排水するための排水機場(ポンプ施設)が残っています。建物の中には排水機器もそのままになっており、往時を偲ぶ貴重な施設です。

 

こちらも戦時下の労働力並びに技術者不足という事情もあって、完成したのはスタートしてから8年後の昭和26年。

 

結果として意図されていた戦時中の食糧増産には間に合いませんでした。

 

家棟川ですが、彼等の干拓事業での過酷な労働は戦後日本の食糧事情改善に大きく貢献することとなります。終戦時、1人の死者も出ることなく解放されたのは幸いでした。

 

こちらの収容所は捕虜と監視兵並びに近隣住民が比較的良好な関係を保っていたためか、混乱もなく収容者は送還されていきました。

 

また終戦直後、連合軍(アメリカ空軍)のボーイングB-17戦略爆撃機により、捕虜に対して補給物資のパラシュート投下が実施された際にも、近隣住民に食料等が好意的に提供されたそうです。

 

収容所井戸役割を終えた収容所は破却され更地となりました。その後、サーカスや芝居小屋が招致され、一時期周辺地域の娯楽の拠点として機能していました。

 

しかし昭和28年に旧野田村の共同墓地へと転用されました。

 

現在墓地には当時使用されていた井戸が残っており、今でも水を湛えています。他の2施設が当時の面影を完全に消失しているのに対し、ここは排水機場跡も含め貴重な戦争遺産を今に伝える唯一の存在です。

 

田舟ここにかつて灌漑や漁場として最適な湖沼が存在したとは到底思えませんが、今でもその片鱗を近辺で垣間見ることが出来ます。

 

右の写真は田舟(たぶね)というもので、湖沼や水郷などで乗用として、また農作物の運搬用として使用されたものです。

 

これらは既に御役御免となったものですが、干拓完了後も水気が多く、舟が必要不可欠であったことを物語っています。

 

【参考文献】 捕虜収容所補給作戦~B-29部隊最後の作戦(奥住喜重・工藤洋三・福林徹 著)

 

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我が故郷の戦争遺産“戦時國内捕虜の闘い(2)”

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今回は戦時國内捕虜の闘いの第2弾をお届けいたしたいと存じます。

 

JR能登川(のとがわ)駅から西に約2kmの地点にある東近江市伊庭(いば)町。内湖に面し田園が広がる風光明媚なこの場所に、かつて大阪俘虜収容所第24分所がありました。

 

大阪俘虜収容所第9分所【捕虜収容所補給作戦 所載】大阪本所と播磨分所(兵庫県相生市)の捕虜301人(アメリカ兵109人・オランダ兵69人・イギリス兵67人・オーストラリア兵55人・ニュージーランド軍医1人)を事実上疎開させるために、昭和20(1945)年5月18日に開設(8月に第9分所に改称)。

 

県下に設置された収容所の中では最大の規模でした。

 

使役者は滋賀県で、捕虜たちは小中(しょうなかのこ)の干拓事業に従事していました。なお事業自体は昭和17(1942)年に県営事業として計画が決定。昭和19(1944)年4月から農地開拓営団により着手されています。

 

弁天内湖干拓地小中湖は当時滋賀の内湖としては最大の規模を誇った大中湖(だいなかのこ)の南に位置し、西の湖・弁天内湖・伊庭内湖の3つを総称してそう呼ばれていました。

 

干拓の対象となったのは、弁天内湖伊庭内湖の2箇所。整備された農地は3,421,000㎡に及びました(西の湖の干拓は小規模に止まり、現在県下最大の内湖として残っています)。

 

こちらも戦時下の労働力並びに技術者不足という事情もあって、完成したのはスタートしてから5年後の昭和22年。結果として意図されていた戦時中の食糧増産には間に合いませんでした。

 

伊庭内湖干拓地ですが、彼等の干拓事業での過酷な労働は戦後日本の食糧事情改善に大きく貢献することとなります。終戦時、1人の死者も出ることなく解放されたのは幸いでした。

 

終戦直後、連合軍(アメリカ空軍)のボーイングB-17戦略爆撃機により、捕虜に対して補給物資のパラシュート投下が実施されました。

 

捕虜の数人が近隣の子供達を集めて、ガムやチョコレートを分け与えたとか。当時の子供達のおやつと言えばトマトや米菓といったものだったので、大変珍しがったそうです。

 

大阪俘虜収容所第9分所跡また監視兵による暴力も横行していたようで、戦後捕虜や進駐軍の報復を恐れて逃亡を図る者、アメリカ第8軍軍事法廷(横浜裁判)でBC級戦犯として有罪となった者もいたと伝えられています。


現在、僅かに残った伊庭内湖の一部(須田川)に隣接する金毘羅神社より東側の一帯に、かつて収容所が設置されていたとされています。

 

こちらも今や当時を偲ぶものは何ひとつ残ってはいません。

 

【参考文献】 捕虜収容所補給作戦~B-29部隊最後の作戦(奥住喜重・工藤洋三・福林徹 著)

 

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我が故郷の戦争遺産“戦時國内捕虜の闘い(1)”

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今回は我が故郷の戦争遺産第2弾としまして、大東亜戦争戦時下の國内捕虜に関連したお話を3回に渡りお届けいたしたいと存じます。

 

皆さんは捕虜という言葉をご存知ですか?

 

捕虜(ほりょ)とは戦時国際法に於いて、「戦争や内戦等の武力紛争下で敵対する勢力の権力下に陥った紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部を成す民兵隊又は義勇隊の構成員」を指します。ちなみに第2次世界大戦以前は俘虜(ふりょ)と呼ばれていました。

 

旧日本軍も大東亜戦争開戦当初は勝利を重ねていましたので、当然捕虜を収容していました。『戦場にかける橋』『戦場のメリークリスマス』といった映画をイメージ頂ければ結構なのですが、何れも占領地(外地)でのお話。国内にも各地に捕虜を収容する施設が設置されていたことは、意外と知られていないのです(無論教科書にも記載はありません)。

 

近畿地区には、昭和17(1942)年9月23日に大阪俘虜収容所(大阪市港区)が開設されました。阪神工業地帯に於ける工場での労働に従事させる捕虜を管理・監督していましたが、戦争末期になると本土決戦への防備と空襲回避のため、都市部の施設は近畿一円に分散疎開していきました。滋賀も例外ではなく、3箇所に分所が設けられています。

 

大阪俘虜収容所第10分所【捕虜収容所補給作戦 所載】JR米原駅から南に約1km。かつて米原市梅ヶ原(うめがはら)の国道8号(当時国道はありません)近くに、大阪俘虜収容所第25分所がありました。

 

神戸脇浜分所のアメリカ兵・オーストラリア兵を中心とする捕虜199人を事実上疎開させるために、昭和20(1945)年5月18日に開設されました(8月に第10分所に改称)。

 

使役者は滋賀県で、捕虜たちは入江内湖(いりえないこ)の干拓事業並びに同地での農作業に従事していました。収容所の立地は水捌けが悪いため宿舎は高床式になっており、そこに藁を敷いて生活していたとか。そのためか暖かい季節であったのにも関わらず、寒さに耐え忍んでいたという証言もあります。

 

干拓は開所の前年から国営事業として開始されていました。

 

入江内湖干拓地しかし入江内湖は東西約2km、南北約3km、周囲約8km、面積約3,300,000㎡(整備された農地は3,050,000㎡)と琵琶湖の内湖としては第2の規模を擁し、また戦時下の労働力並びに技術者不足という事情もあって、完成したのはスタートしてから6年後の昭和25年。

 

結果として意図されていた戦時中の食糧増産には間に合いませんでした。

 

ですが、彼等の干拓事業での過酷な労働は戦後日本の食糧事情改善に大きく貢献することとなります。終戦時、1人の死者も出ることなく解放されたのは幸いでした。

 

なお終戦直後、連合軍(アメリカ空軍)のボーイングB-17戦略爆撃機により、捕虜に対して補給物資のパラシュート投下が実施されたのですが、その一部を拾って隠し持っていた村民がいたと伝えられています。それだけ当時の國民は疲弊困窮していたということでしょう。

 

大阪俘虜収容所第10分所跡國内に抑留されていた捕虜の待遇は、周囲の住民の暮らしに比べれば未だ恵まれていたのかも知れません。

 

現在、米原駅前東側周辺は大規模な再開発が進められています。かつて収容所が設置されていた場所も宅地造成されてしまい、今や当時を偲ぶものは何ひとつ残ってはいません。

 

【参考文献】 捕虜収容所補給作戦~B-29部隊最後の作戦(奥住喜重・工藤洋三・福林徹 著)

 

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我が故郷の戦争遺産“挺身水泡に帰す、幻の彦根海軍飛行場”後篇

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“挺身水泡に帰す、幻の彦根海軍飛行場”後篇をお届けいたします。

 

戦後施設は米軍の報復を恐れた地元民によって早々に破壊・焼却され、土地は全て地主に返却されました。後にGHQ主導による農地改革施策により集落所有の絵図類や地券図など地元が所有する資料に基づいて農地復旧の基本計画が策定され、それに従い昭和24(1949)年までに滑走路はもとの農地へと戻りました。現在は何の痕跡も残っていません。

 

西馬場工場跡(昭和50年代のオーミケンシ彦根工場)また軍用機を生産していた近江航空は戦後解散。

 

2箇所の軍需工場ですが、そのうち西馬場(にしばんば)工場は再びオーミケンシ彦根工場として製糸事業を再開させ、日本の高度成長を支えることになります。

 

そして平成10(1998)年10月、遂にその役目を終え閉鎖。現在はカインズモール彦根となっています。

 

一方、外町(とまち)工場は閉鎖されオーミ造園の資材置場となります。

 

製品搬出用に敷設されていた近江鉄道の引込線跡のレールも部分的に残り、当時の面影を僅かながらにも保っていましたが、現在は分譲住宅地に姿を変え、当時を振り返るものは何も残っていません。

 

近江航空踏切 そんななか、唯一残る痕跡。

 

 

 

 

それは外町工場跡近くにあるJR/近江鉄道の踏切。

 

 

 

近江航空踏切という名称が残るのみです。

 

さて彦根海軍飛行場には後日談があります。

 

多賀土田池終戦直後、多賀の出身であった海軍のとある航空兵が「飛行禁止命令」の中をかいくぐり、鹿児島の鹿屋(かのや)飛行場からこの地へ帰還したという逸話が残っているのです。

 

周辺住民はこの機体がアメリカ軍に発見されることを恐れ、分解してリヤカーに載せ、滑走路から約1km離れた多賀土田池に廃棄したというのです。

 

帰還したという方も既にお亡くなりになっており、周辺住民の証言とはいえ当時子供であったことから記憶が曖昧で確固たる情報とはいえないのですが、この事実を検証しようという団体があります。それが多賀池旧海軍機保存会です。

 

 

旧日本海軍機(イメージ)あくまでも任意団体ですので、会員は全て一般の方々。活動資金も潤沢でなく、残念ながら実情は休眠状態にあります。しかし何とか結果を残そうと、燃えたぎる熱い情熱の灯だけは皆さん失っておられません。

 

ちなみに小生も“賛助会員”の1人でありまして、副会長さんとは懇意にしていただいております。

 

失われた痕跡は残すことが出来ませんが、せめて“記憶”だけでもしっかり後世に残していきたいと思います。

 

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我が故郷の戦争遺産“挺身水泡に帰す、幻の彦根海軍飛行場”前篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

大東亜戦争の痕跡(戦争遺跡)が残る印象の薄い滋賀ですが、戦争が終結する1945(昭和20)年までは数多くの軍事拠点が存在しました。

 

陸軍関連では、八日市飛行場・大津地区司令部・饗庭野演習場・船木着陸場・大津少年飛行兵学校。海軍関連では、大津飛行場・滋賀飛行場・天虎飛行場・比叡山特別攻撃隊基地・柏木飛行場(未着工)。その他にも3箇所(野洲・東近江・米原)の俘虜(捕虜)収容所が設けられていました。

 

戦後一部は公共施設もしくは自衛隊に引き継がれましたが、その大半は宅地や農地に転用され、現在殆ど当時のよすがを残してはいません。これらにつきましては機会を見つけてお話し出来ればと存じます。

 

今回はその中でも、つい十数年前までその存在について全く語られてこなかった幻の軍事施設、彦根海軍飛行場をご紹介いたします。

 

まずはその位置ですが、「彦根~」と呼称するものの実は現在の多賀町に存在しました。

 

正式に稼働せず終戦を迎えてしまったため、彦根海軍飛行場の他に、滑走路部分の中心点であった地区名から木曽(きそ)飛行場、軍施設が設置されていた地区名から久徳(きゅうとく)飛行場とも呼称されました。

 

飛行場は犬上郡多賀町中川原(なかがわら)~木曽~久徳の、国道306号と芹川(せりかわ)の間に建設が進められていました(当時国道は存在しませんでしたが・・・)。

 

そもそも海軍の飛行場が、この海に隣接せぬこの内陸の地に何故建設しようとしたのか?・・・これを証明する資料は皆無であるため、以降は関係者の証言に基づいた記述となります(鈴木徹太郎氏著 街なかの戦史 女工たちの聖域「紡績工場」でつくられた零戦 丸[潮書房]1999年11月号所載より引用及び加筆)。

 

沖縄が陥落し、アメリカ軍の本土上陸が確実視される昭和20(1945)年6月。海軍施設本部は『新設秘密航空基地施設要領』を発令し、敵上陸部隊が上陸する際に練習機による短距離の特攻作戦を実施することを目的とした簡易飛行場を全国各地に造成することを決定します。これらの飛行場の特徴は、上陸のその日まで敵に察知されることなく特攻機を分散待機させて温存し、滑走路を敵の攻撃から逃れられるよう、敵の写真偵察機に対しての偽装に配慮している点です。これらの簡易飛行場は秘密基地とされ、秘匿名称として『牧場』と呼称されました。こうした性質上、飛行場新設時から特に迷彩に重点を置き、『牧場』内の家屋や立木なども実際の飛行機進出時まで現位置に留める等の注意が払われていました。

 

近江航空での一式陸上攻撃機主要部品製造の光景【昭和顕彰会 提供】但し、彦根飛行場建設の経緯は他のそれと事情が異なりました。彦根で創業し、国内紡績メーカーの大手に成長した『近江絹絲紡績(現・オーミケンシ)』は、昭和18(1943)年1月“近江航空工業株式会社”を設立して軍需産業にも進出し、彦根市内の2箇所の工場(西馬場・外町)で三菱重工業から機械設備の移転と技術者の援助を受けて海軍の軍用機(一式陸上攻撃機の一部)を製造していました。

 

当初近江航空は機体の主要部品の製造のみ行っていましたが、昭和20年には零式艦上戦闘機の組立・完成させるまでに能力を向上させ、機体を艀(はしけ)に載せ、夜陰に紛れ琵琶湖を渡り、対岸の滋賀航空隊(大津市唐崎)に輸送していました。しかしこれでは効率が悪いと、完成機を滑走路に出し各部隊に空輸するという計画が浮上しました。航空本部員らがその候補地の検討にまわった結果、彦根の工場から大道路を通じて最も近距離にある多賀大社の北方、芹川畔の田園地帯が選定されました。

 

対象区域となる久徳・木曽・中川原地区では区長会が幾度も開かれ、建設・土地収用等の話が交わされました。しかしそのような地元の動きとは裏腹に、海軍側は飛行場や軍施設を設置する際の常套句の如く、「長い間皆さんにお預けしておいた土地が、此度軍の飛行場建設のために必要となったので、返上していただくことになった」と有無を言わさず土地を収用していったそうです。

 

昭和20(1945)年6月25日。舞鶴海兵団の第536設営隊の長谷川兵曹長以下30名が着任し、久徳区長・小財八三郎氏を訪ね兵の宿舎を依頼。区長は直ちに役員会を開くと共に公会堂と東光寺をその宿舎に充てるなど、受入体制を村上げて整えました。かくして早速海軍飛行場の建設が開始されます。

 

計画は7月末迄に30m×600mを、8月末迄に60m×1,200mの滑走路を完成させるという超突貫工事でした。その後500名が動員され、兵に加え県内各方面からも続々と勤労奉仕隊の来援を受け完成を急いだそうです。

 

彦根海軍飛行場跡作業は極めて原始的で、鍬(くわ)・スコップ等を用いてモッコを二人で担いで土石を運ぶという人海戦術でした。

 

当時日常的に米軍機が上空に飛来しては機銃掃射を仕掛けてくるので、作業の人々も生きた心地がしなかったそうです。空襲警報が入ると作業を止め、クモの子を散らす様に退避しました。

 

作業現場は平坦地で隠れるところもなく、そのため枝木を挿してこれを擬装したそうですが、全く無意味な防禦に過ぎなかったとか。

 

この飛行場への輸送路として久徳のヤナセ溝沿いの農道を拡張して往来の便を図り、第1格納庫を久徳の市杵島姫神社横の種村秀吉氏所有の畑に、第2格納庫を木曽の西沢与一郎氏所有の竹藪に、第3格納庫を中川原の高橋惣平氏の所有地に、各々バラック様の建物が組立てられました。更に内山の麓の2箇所に防空壕も掘られました。各地から支援隊に加え対岸の滋賀航空隊からも次期作戦待ちの予科練習生が投入され、第1次部隊は7月中旬に到着し作業を始めていました

 

滑走路もほぼ完成し、いよいよ運用を開始しようとしていた昭和20(1945)年8月15日、終戦を迎えます。飛行場建設作業に就いていた隊長以下兵士たちは、久徳区長・小財入三郎氏宅に引揚げて来て玉音放送を聞き、男泣きに泣いたそうです。これで彦根海軍飛行場は一機も機体を離陸させることなく、“歴史の闇”に葬られることになるのです。

 

(“挺身水泡に帰す、幻の彦根海軍飛行場”後篇もお楽しみに・・・)

 

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戦後70年企画“我が故郷の戦争遺産”執筆決定!

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今年は大東亜戦争(一般的には太平洋戦争)終結から70年の節目の年

 

八日市飛行場掩体壕様々なメディアで特集が組まれる話を色々と耳にします。当サイトでも少し異なる観点で、幾つかの話題をご紹介しようと思い至りました。

 

今回我が故郷の戦争遺産と題しまして、直接的な戦闘ではなく、戦争がもたらした決して追憶の彼方へと押しやってはならない出来事について書き綴ろうと考えております。

 

初夏辺りを目途に執筆を検討しておりますが、この記事を契機に戦争がもたらす悲惨さ、狂気、人の世の儚さを今一度考察頂ければ幸いです。

 

ちなみに上部の写真は、今も東近江市の山間の竹林にひっそりと残る旧陸軍・八日市飛行場の掩体壕(えんたいごう/軍用機を避難退避させるための格納庫)です。

 

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NHK大津放送局共同企画“SLを守れ!米原・蒸気機関車避難壕”(補遺)

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取材風景県内の皆様、昨日の番組はご高覧いただけましたでしょうか?

 

今回は“プレゼンター”ということでガッツリとは出演しておりませんでしたが、昨年よりは少し“マシ”にトークが出来ていたように感じています。機会がありましたら映像公開も検討しておりますので、気長にお待ちくださいませ<(_ _)>

 

 

さて今回は、時間の制約の都合、前回の記事でご紹介出来なかった部分を補遺という形でご案内致したく存じます。

 

 

1号壕(北側掘削口)こちらは昨年より公開されている1号壕の北側掘削口です。

 

 

状態としては試掘の域を脱しませんが、試行錯誤を繰り返しながら、予想以上に急ピッチで掘削作業が進められたことが窺えます。

 

 

彼方に薄らと点のような光が見えますでしょうか?これが貫通している証拠です。

 

 

1号壕(内部)そしてこちらは1号壕の内部。先程試掘と申しましたのは、この天井の低さにあります。

 

 

当時配備されていた貨物用蒸気機関車・D51形は、全高約4m・全幅約2mはありますので、この状態からさらに1.5~2倍は拡張する必要があります。

 

 

1号壕は工法がとても荒く、高さも幅もまちまちです。そのような事情もあり、こちらの状態の保全と安全性を確保しての全面公開への道程は、並々ならぬものであったようです。

 

 

1号壕(通気口跡)前回でも少し触れましたが、1号壕の南側掘削口天井付近には両脇に2箇所の通気口跡が残っています。山の頭頂部まで貫通していることが確認されています。

 

 

避難壕として機能した際は、位置関係から見て米原機関区からバック推進で入線したと推定されますので、機関車の煙突がある南側に設けられたのでしょう。

 

 

ただ蒸気機関車を秘匿するには煤煙の問題を解決せねばなりません。通気口を設けなければ壕内で乗務員が窒息、設ければ頭頂部から抜ける煤煙で敵から発見される危険性が高まる・・・最終的にこの矛盾をどのように解決しようとしたのかは未だに謎です。

 

 

2号壕(北側掘削口)試掘の要素が高い1号壕に対し、2号壕は工法も丁寧で、比較的幅もあり、計画的に掘削しようとした形跡が認められます。。

 

 

ちなみに連日30℃越えの猛暑であった今年にあっても、壕内の気温は20℃を保っていたとのことです。

 

 

実は避難壕の存在を知る以前から、この岩脇山には以前から気になる存在がありました。。

 

 

岩屋善光堂それがこちら、岩屋善光堂‘(いわやぜんこうどう)。

 

 

この舞台造の堂を見て、個人的に昔から“近江の清水寺 or 投入堂”などと呼んでおりました(^^)

 

 

 

善光堂縁起によりますと、推古天皇の御代(古墳時代・554~628年)に、信濃國(現在の長野県)に本多善光という大変熱心な仏教信者がおりました。

 

 

岩屋善光堂(石造一光三尊如来像)ある夜、上洛していた善光は難波(現在の大阪府)の堀に燦然と輝く3体の仏像が、「善光善光」と呼んでおられる夢を見ます。

 

 

その夢のお告げに従い堀を探すと、水中に三尊の仏像を発見します。

 

 

これを故郷で祀ろうと、琵琶湖を渡り朝妻港に上陸。東山道を一路信濃へと向う際、この風光明媚なここ岩脇山で休息。仏像を岩上に安置し仮眠します。すると「我 衆生(しゅじょう/世の生けるもの全てのこと)に仏法を弘通(ぐづう/仏教を広めること)し極楽浄土へ導かんためこの岩窟にとどまらん」との御仏の声に目を覚まします。

 

 

岩屋善光堂(眺望)善光はこのお告げを地元有志に話し、三尊の分身を安置する堂を建て、再び信濃へと旅立ったのです。ちなみに善光堂の名は本多善光の名からつけられたものなのですが、勘の良い方はもうお気付きかも知れません。実は本多善光という人物、あの長野・善光寺を建立したその人なのです。以来、善光寺の分身として信仰を集めています。

 

 

善光堂からは駅を中心として米原の中心街が一望できます。避難壕が完成していたら、ここに見張りが置かれたかも知れません。春秋の彼岸と毎月1日には法要が営まれますので、参拝がてらここからの眺望を楽しむのもまた一興です。

 

間道最後に、こちらは蒸気機関車避難壕の南側掘削口前にある道。実はかつて、中山道と北國街道をショートカットするために設けられた間道(かんどう/脇道)だったのです。

 

 

中山道と北國街道は米原宿で合流していたのですが、東方へ向かう際は、ここを通って番場宿に抜けるのが近道だったようです。

 

 

最早この細い道が、近世までは信仰と交通インフラのバイパスとして、近代には戦争に翻弄された人々の血と汗と涙の通い道であったことを窺い知ることは出来ません。しかし郷土のルーツを辿ること、そのルーツを語り継ぐこと、そしてそれらを人生の教訓として活かすことの大切さを、今回の取材で改めて感じた次第です。

 

 

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NHK大津放送局共同企画“SLを守れ!米原・蒸気機関車避難壕”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

あの衝撃的な(?)国家的メディアデビューから約1年2ヶ月・・急遽、NHK大津放送局との共同企画が還って参りました!今回も滋賀ローカルのみの放送となりますので、残念ながら県外の皆さんにはお届けが叶いませんが、どうかご容赦ください。県内の皆様、是非ご高覧くださいまし<(_ _)>

 

おうみ発610 「なに!なぜ?おうみ」
2013年8月27日(火) 18:10〜19:00内の約5分枠

※放送の編成の都合により変更される場合あり。

 

蒸気機関車避難壕(1号壕)さて、久し振りに“滋賀ネタ”に戻ります。今回は全国的にも非常に貴重な戦争遺産である、大東亜戦争末期アメリカ軍の戦闘機や爆撃機の攻撃からSL(蒸気機関車)を守るため建設が進められた蒸気機関車避難壕(じょうききかんしゃひなんごう)についてお話いたしたいと存じます。

 

敗色濃厚となった戦中末期。

 

昭和19(1944)年7月にサイパン、昭和20(1945)年3月には硫黄島が陥落し、これらを拠点にアメリカ軍の爆撃機や護衛の戦闘機が日本各地に飛来。都市や軍事施設のみならず、あろうことか「動くもの全て」に対して無差別に攻撃を加えてきました。

 

 

それは鐵道も例外でなく、戦闘機の機銃掃射によって数多くの乗務員や乗客が犠牲になりました。特に滋賀では、昭和20(1945)年7月30日の16時頃。守山駅に停車中の旅客列車にアメリカ海軍の艦載機・F4Fワイルドキャットが急襲。死者11名・負傷者24名という、この戦争で県内最大の被害者数を出すという惨事も起きました。

 

 

当時、鐵道輸送に於ける動力の主力は蒸気機関車でした。当然機関車が攻撃を受けて大破し走行不能。機関士や機関助士が死傷する事態も多く発生しており、鐵道関係者の頭を悩ませていました。

 

 

昭和初期の米原駅構内【湖北の今昔 所載】これは物資輸送の大動脈である“東海道ルート”と“日本海ルート”の合流点にあった米原(まいばら)も例外ではありませんでした。かつて米原は、東京から下関を経て朝鮮半島へ物資を輸送する蒸気機関車の交換ポイントとして、東海道本線に於ける急勾配区間の1つであった大垣~ 関ヶ原間(通称:関ヶ原越え)を通過するための補助機関車を留置する基地として、そして明治の世から中国大陸及びロシアへの玄関口であった福井・敦賀(つるが)港への物資輸送の中継ポイントとして重要な拠点でした。

 

 

そのため、路線整備された明治22(1889)年には機関区(当初の名称は機関庫)が設置され、馬力の強い貨物用の蒸気機関車が多数重点配置されていたのです。

 

 

国営鐡道管理運営さてここで話題を変えて、“豆知識のコーナー”と参りましょう。他のブログ記事でも散見されるのですが、この当時の国営鐵道の管理運営は国鉄(日本国有鉄道)だと勘違いされている方がどうやらいらっしゃるようです。実は国鉄が設立されたのは1949(昭和24)年なので、これは誤った情報です。ではどこが管理運営していたのか?・・・それは運輸省鐵道総局なのです。

 

 

ちなみに国営鐵道の所管の変遷を見ますと…

 

1871(明治4)年・工部省鐵道寮/工部省鉄道局 → 1885(明治18)年・内閣鐵道局 → 1890(明治23)年・内務省鐵道庁 → 1892(明治25)年・逓信省鐵道局 → 1897(明治30)年・逓信省鐵道作業局 → 1907(明治40)年・帝國鐵道庁 → 1908(明治41)年・内閣鐵道院 → 1920(大正9)年・鐵道省 → 1943(昭和18)年・運輸通信省鐵道総局 → 1945(昭和20)年・運輸省鐵道総局 → 1949(昭和24)年・日本国有鉄道

 

と、このように幾度にも渡り変わっているのです。現在は国営鐵道という存在は消滅し、7社に分割民営化されたJRの管轄となっていることは皆さん御承知の通りです。

 

 

岩脇山と旧米原機関区話を戻しまして、運輸省鐵道総局の工事担当部局は蒸気機関車をアメリカ軍機の攻撃から守るため、蒸気機関車避難壕の建設を計画します。

 

 

地理的に機関区から程近く、岩盤が強固な山腹であることを条件に検討したところ、米原駅から北方約2kmに位置する岩脇山(いをぎやま)が選定されました。

 

 

掘削作業には労働力として徴用された朝鮮人が動員され、作業現場の近隣にバラック小屋を建設して居住させ、昼夜を問わず突貫工事を展開したと伝聞されています。現在の米原市梅ヶ原にかつて存在した大阪俘虜収容所第10分所に収容されていたアメリカ及びオーストラリア軍の捕虜(当時は入江内湖の干拓事業に従事)や、米原の周辺住民には一切作業に従事させなかったことから、秘匿・機密の色合いが非常に濃厚であったことを窺わさせます。

 

 

トロッコ専用引込線跡作業現場までは東海道線(現在の上り線)から土砂搬出用のトロッコ専用引込線が敷設され、火薬(ダイナマイト)・スコップ・ツルハシ・トロッコを用い、人海戦術でもって敢行されました。

 

蒸気機関車避難壕は2本計画され、1号壕は130mで貫通。2号壕は山の両面から各52mまで掘り進められましたが、ここで終戦を迎えます。

 

 

蒸気機関車避難壕(2号壕)戦後はゴミ捨て場として長きに渡り放置されていました。しかし地元有志で結成された岩脇まちづくり委員会が戦争の悲劇を風化させないために保存することを決定。

 

 

平成20(2008)年10月から10ヶ月を掛け整備し、様々な困難や障害を乗り越え、平成21(2009)年8月には公開に漕ぎ着けました。

 

 

当時はかなりの突貫作業であったようで、湧水は各所から滴り落ち、とても蒸気機関車をすんなり隠せるようなコンディションには見えません。ですが目的を達成するために難工事を強いられたであろうことはひしひしと伝わってきます。

 

 

ダイナマイト雷管挿入準備痕特に貫通しなかった2号壕の岩盤にはダイナマイトの雷管を挿入するために空けたと思われる穴が各所に残っています。

 

 

また1号壕の上部には、蒸気機関車の煤煙を逃がすための通気口となる予定であったと思われる穴もあります。

 

 

雷管挿入棒(2010年公開時)さらに掘削時、ダイナマイトを装填する際に用いたであろう雷管挿入棒と思われるものも発見されています。

 

 

こちらは現在、いをぎまちづくり資料館にて展示・保存されています。

 

 

昨年、米原市の「米原地域創造会議支援事業」の一環として、蒸気機関車避難壕を始めとする岩脇山全体の環境整備が岩脇まちづくり委員会によって実施されました。

 

 

いをぎまちづくり資料館その際、軟弱な岩盤や湧水による浸水の影響でこれまで非公開としていた反対側(北側掘削口)が整備され、貫通していた1号壕は通り抜けでの見学が可能となりました。

 

 

またいをぎまちづくり資料館も建設され、休憩所を兼ねて、これまでの岩脇まちづくり委員会の活動内容が克明に記録・展示されています。

 

 

今回の取材は、昨日NHK大津放送局のアナウンサー・高鍬 亮さんに同行して実施したものなのですが、この日偶然にも滋賀県平和祈念館主催の夏休みミュージアム・スクール「へいわの学校・あかり」が現地で行われ、途中この勉強会にも同行させていただきました。

 

 

滋賀県平和祈念館夏休みミュージアム・スクール原則親子での参加ということのようですが、小学生から年配の方まで幅広い年代層の方々が戦争のもたらす理不尽な事象を肌で感じ取っておられたように思います。子供達には「戦争の足跡」と言ってもピンとはこないかも知れませんが、大人になって「同じ過ちを繰り返さない」「平和の礎となった先人達の労苦を無駄にしない」という思いを改めて考える際の経験の糧となってくれればと願わずにはいられません。

 

 

なお蒸気機関車避難壕ですが、安全管理の都合上、平常非公開となっております。見学を希望される方は、岩脇まちづくり委員会の藤本傳一さん(TEL:0749-52-1830)まで直接お問い合わせください。

 

 

藤本会長(右)・廣田副会長(左)最後に今回の取材にご協力いただいた岩脇まちづくり委員会の会長・藤本傳一さん、副会長・廣田 勉さん。番組取材並びに企画統括のNHK大津放送局アナウンサー・高鍬 亮 さん。

 

そして敦賀港に関する歴史をご教授頂いた旧敦賀港駅舎のボランティアスタッフの皆さん。長浜鉄道スクエアさん。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

最後にもう1つ豆知識を。

 

D51形793号機長浜鉄道スクエア北陸線電化記念館には、貨物用蒸気機関車D51形793号機(通称:デゴイチ)が保存されています。

 

ちなみにこの機関車は蒸気機関車避難壕の工事が進められていた戦中末期、米原機関区に配置されていました。もしこの壕が完成していたら、ここに避難していたかも知れません。

 

 

蒸気機関車避難壕は全国で計画されましたが、戦後埋め戻される等して現存しているのはこの岩脇山のみとのこと。

 

 

昭和19~20年は増大する軍需・民需輸送と戦況悪化に伴う物資貧窮のジレンマの中で、「戦時型」と呼ばれる部材・構造共に粗雑な蒸気機関車が大量に生産され、各地でトラブルを頻発させていました。そのような中、物流の要衝を支える米原機関区には、戦前に生産され安定した運用実績と良好な機関コンディションを併せ持つ機関車が投入されていました。

 

 

これは飽くまでも私見ですが、「攻撃を受けたら客貨車を犠牲にしてでも機関車を隧道(トンネル)に入れて守れ」という指示を乗務員が受けたとの証言もあることから、状態の良い機関車を保護するのは当時至上命題だったのでしょう。機関車の確保にはなりふり構っていられない、そのためには手段を選ばない、例え苦肉の策であろうとも・・・この壕も戦争の生み出した狂気の沙汰の権化とも言えましょう。

 

 

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