「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
引き続き、“アミンチュ”ボンネットバス奮闘記~幻影・若江線巡礼をお届け致します。
さて旧近江今津駅を後にしたBXD30は、一路福井は小浜を目指し、九里半街道(九里半越)及び若狭街道に挑みます。
ここでタイトルの『若江線とは何か?』。これを(なるべく)簡単に解説致したいと存じます(ネットで調べれば直ぐに解ることですが・・・)。

久し振りにマイパソコンのデザイン用描画ソフトを起動して、かつての江若鉄道の路線図を簡単に描いてみました(※全27駅のうち主要な16駅のみ表記しています)。
1919(大正8)年8月19日、新浜大津(大津市) ~ 福井県遠敷郡三宅村(現在の三方上中郡若狭町)間の鉄道敷設免許状が下附。これにより1920(大正9)年2月に江若鉄道が設立されます。1921(大正10)年の三井寺下~叡山間(6km)開業を皮切りに延伸を重ね、1931(昭和6年)には浜大津~近江今津間(51km)を開通させます。
しかしその先の近江今津~三宅(上中)間の建設は、資金不足と人口希薄地帯が要因となり計画は頓挫、これ以上の延伸は断念を余儀なくされました。
戦後、モータリゼーションの発展に伴い経営は圧迫され、京阪電気鉄道の支援を受け、1961(昭和36)年7月よりその傘下に入ります。その後もあらゆる経営努力を尽くしますが、国鉄湖西線の建設決定を機に鉄道線を1969(昭和44)年11月1日を以て廃止し、その鉄道用地を湖西線の建設を担当する日本鉄道建設公団に売却しました。
江若鉄道が断念した未成区間は、鉄道省の予定線として引き継がれ、鉄道建設に先行する形で1935(昭和10)年から1937(昭和12)年に掛けて乗合自動車の運行を開始します。1974(昭和49)年7月20日に国鉄湖西線が開業すると、この区間は国鉄の計画路線に格上げされます。これが若江(じゃっこう)線です。

午前11時45分。若狭街道の旧熊川宿(くまがわじゅく)に到着。ここでしばし運転停車。
熊川宿はもともと山間にある40戸程の小さな寒村でした。戦国時代に入り豊臣政権下で五奉行の1人に名を連ね、当時小浜城主であった浅野長政によって、若狭と近江、そして京を結ぶ若狭街道(通称:鯖街道)の宿場町として、1589(天正17)年に整備されました。
江戸時代中期には200戸を超える規模にまで栄華を窮めましたが、近代のモータリゼーションの影響でかつての街道が衰退し、近年では最盛期の約半分の規模にまで落ち込んでしまいました。
昨今ではかつての風情を残しつつも、観光誘致を積極的に推進し、1996(平成8)年7月9日に文化庁所管の重要伝統的建造物群保存地区に指定。また2015(平成27)年4月24日には、同じく文化庁所管の日本遺産『海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群〜御食国(みけつくに)若狭と鯖街道〜』の一部として認定され、再び脚光を浴びつつあります。
やはりBXD30は旧家の街並みとのマッチングが抜群ですね。鉄道線が実現していたら、ここ熊川にも駅が設置される計画がありました。
中間駅の中では最も賑わっていたでしょうから、このような雰囲気で観光と近隣集落へのアクセスに、BXD30が活躍する機会があったかも知れませんね。

午後1時15分。無事県境越えをクリアし、JR小浜線の小浜駅に到着。本来ならば上中駅が若江線の始発・終点に当たるのですが、かつての国鉄バス、そして後継である現在の西日本ジェイアールバスも小浜駅を始発・終点とすることから、その例に倣いました。
小浜市には実に30年振りの訪問。福井県嶺南地方第二の規模を誇る街で、かつては港町として、また若狭のリゾート&アミューズメントの玄関口として活況を呈していた筈なのですが・・・。
今や小浜駅に定期優等列車(特急・急行)が訪れることは無く、概ね1時間に上下1本の普通列車が入線するのみで、3本ある長いプラットホームはやや持て余してぎみの様子。最盛期には1日5,000人を超える乗降客を記録したものの、現在は800人を僅かに上回る状況。日曜日というのに駅前商店街もほぼ8割のシャッターが閉められていて、差し詰め浦島太郎にでもなったかのような心持ちでした。
BXD30が江若交通現役の時は、このような閑散とした路線の経験は恐らく無かったでしょう。時に時代の流れというものは、突き付けられた現実を如実に投影します。

閑散とした市街地を後にし、かつて若狭フィッシャーマンズ・ワーフに乗り入れていた頃に想いを馳せつつ、しばし若狭湾の内湾である小浜湾沿いをクルーズ。団体利用でも無い限り、江若交通所縁のバスがここを駆け抜けるのは、実に24年振りではないでしょうか。
BXD30は海をバックにしても味があります。さながら映画かドラマの1シーンですね(笑)。そう言えば“アミンチュ”ボンネットバスの現在のカラーリングにどことなく似ている、かつて広島県の呉市交通局で活躍していた同型も海沿いを走っていましたね。
呉市交通局はバス事業を2012(平成24)年に広島電鉄に譲渡した後、ボンネットバスだけは呉市産業部に移管した筈。あれから10年足らず・・・元気に走っていてくれているのでしょうか。

再び若狭街道並びに九里半街道へ針路をとり、滋賀に向けて帰路に就きます。往路は悪天候ながら小雨若しくは曇天でしたが、どうやらそこで運を使い果たしてしまったのか、復路は次第に雨脚が強くなってきました。
ワイパーの連動に多少不具合は出ましたが、運行に支障を来すようなトラブルも一切発生せず、BXD30はこの長距離走行で終始パワフルな咆哮をあげて、無事午後5時にJR守山駅に到着。第3回復活運行を見事に完遂しました。
第3回復活運行を主催戴いた二輪工房代表の村田さんを始め、参加者、支援者の皆様に心から敬意を表します。誠に有難うございました。今回の復活運行。交通インフラの在り様を、様々な視点で改めて考える並びに知る契機として、大変意義深いものであったと思います。
最後にこの若江線の今後についてお話致します。
1987(昭和62)年4月1日、国鉄は旅客6社、貨物1社の7社に分割民営(JR)化されました。また日本国有鉄道改革法等施行法が施行されたことにより、鉄道敷設法は鉄道国有法・地方鉄道法とともに廃止となります。つまりこれによって若江線は、鉄道線として整備するための法的根拠を失ったのです。
その後、1994(平成6)年に琵琶湖若狭湾快速鉄道構想(通称:若狭リゾートライン)として、再び鉄道整備計画が持ち上がりました。しかし沿線の過疎化による利用者の減少で、西日本ジェイアールバスが既に相次ぐ減便を実施。またその状況下で莫大な建設並びに運営費用を要する鉄道路線の整備に値する需要への期待には些か懐疑的であり、計画への熱は次第に沈静の一途を辿ります。
そして2016(平成28)年に北陸新幹線の敦賀~新大阪間のルートが、小浜から南下して京都を経由する、所謂「小浜・京都ルート」に決定したことで、同構想は存在意義並びに優位性を完全に失い、事業計画は中止を余儀なくされました。また今後西日本ジェイアールバスの路線の維持に関しても、特にこのコロナ禍で大きく業績を棄損したJR西日本は、地方路線の運用について大幅に見直す方向へ舵を切ったことから、存廃も含めて検討の俎上に上るやも知れません。
兵どもが夢のあと・・・「京都府山科ヨリ滋賀県浜大津、高城ヲ経テ三宅ニ至ル鉄道」の未成区間の物語は、こうして歴史から、そして人々の記憶からも忘却の彼方へと誘われていくのです。
【おしまい・・・・・・かな?】

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