Category Archives: 徒然草紙

甦れ!“アミンチュ”ボンネットバス顚末記~再臨篇

後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

“アミンチュ”ボンネットバスが令和に辿った数奇な運命、第5話“再臨篇”(5回シリーズ)をお届け致します。いよいよ最終回を迎えました。

このボンネットバスの誕生から2017年までの詳細な生い立ちは、以下のリンクの記事をご覧ください。

>>>さらば!愛しのボンネットバス

なおこれまでは村田さんの回顧録的表現を随所に採用致しましたが、今回は小生目線でお届けしますことを予めご了承ください。

新規検査登録をパスしてから凡そ1ヶ月後の2020(令和2)年9月20日。10月に復活御披露目運行を控え、実質的な公試運転に臨みます。

BXD30 フロントフェイス

公試運転とは自動車用語ではありません。実は船舶用語でして、船舶建造の最終段階で行う性能試験を指し、新造または改修を受けた船舶が全てに於いて所定の性能を有するか否かを確認する最終テストのことです。

小生はこのBXD30を船舶になぞらえて、事故でドック入りしてから様々な艱難辛苦を乗り越え、再び外洋へと旅立つ前に、今まさに試験航海に挑む・・・そのような視線で眺めておりました。

心なしかフロントフェイスがより引き締まって見えます(笑)。

BXD30 側面方向幕

公試運転に出発する前の束の間、工房前に駐機していたBXD30を見学させて戴きました。

BXD30の側面です。現在のバスには無い、丸みを帯びた人懐っこいレトロなスタイルを随所に散りばめています。特に屋根に近い部分にある角の丸い小さな窓は通称“バス窓”と呼ばれ、昭和中期に製造されたバスの象徴的形態の1つ。同時代の鉄道の気動車(ディーゼルカー)にも採用されていました。

また“暗礁篇”では正面の行先方向幕について触れましたが、側面の方向幕にも拘りのオマージュが施されています。

そう言えば『終点なのに“途中”とはこれ如何に』なんて洒落がありましたよね(笑)。

BXD30 運転席

これまで主に外装の話題が中心でしたので、ここは車内をリポートしたいと思います。

こちらは運転席。小生が彦根ご城下巡回バス時代に乗車した際の状態をほぼ保っています。

電子機器が全く搭載されていないBXD30は、運転席周りの配置が実にシンブルです。

因みにこのバスがピットインした際、クラッチペダルに“下駄”が履かされていたそうです。村田さんの見立てでは、クラッチペダル関連の部品の消耗劣化等で一番奥まで踏み込まないとクラッチが切れない状態のようであったので、応急処置的に施されたのではとのこと。小生は「運転手さん、踏み込みに足が届き切らなかったのかな」との見立て(笑)。

今となっては真相は定かではありません。

BXD30 車内前方

こちらは車内の前方。今となっては板張りの床が逆に新鮮ですね。昭和中期のバスは木製の床がごく一般的で、特に水に濡れると滑りやすかったことから、小生も雨の日によく足を取られたことを懐かしく想い出されます。

天井には扇風機が点在して設置されています。若い世代の方々には、エアコンが標準装備されていない自動車なんて想像出来ないでしょうね(因みに扇風機は標準装備ではなく後付けです)。

なお屋根にはベンチレーター(換気装置)が装備されており、これに“窓を全開”で昔の夏は凌げていたのですね。

BXD30 車内後方

こちらは車内の後方。ワインレッドのモケットと白のシートカバーがレトロ感を掻き立てます。フロントガラスも去ることながら、リアの丸みを帯びたガラスの造形も職人づくりならでは。今新たにこれを再現することは、恐らく不可能でしょうね。先程の側面の写真より、こちらの方がバス窓の様子がよく解ります。

天井の両脇に額縁状のものがありますが、これにはこのBXD30がこれまで歩んできた歴史。貴重な写真が展示されています。

BXD30 公試運転走行シーン

さていよいよ公試運転に出発です。目的地は大津市。今回この公試運転の同乗取材を特別に許可戴きました。これまたマニア垂涎の一番前の席に着座。この席に座るのは実に12年振りです。

加えてブログ開設8年目にして初めて動画掲載を試みました。こちらは県道42号を近江大橋方面へ疾走する光景です。

流石にBXD30は半世紀以上昔の産物ですから、現代の自動車にスイスイと追い抜かれてしまいます。ですが新たなDA640型・直列6気筒ディーゼルエンジンという心臓を得て、重厚で力強い咆哮を上げています。

もともとこのDA640型が後期型の5速変速機対応のため、4速のBXD30では些か伸びの無い苦しそうな唸りを上げているようにも感じます。約1分の短い動画ですが、是非ノスタルジックなサウンドを大音量でお愉しみください。

さてBXD30には公試運転の他にもう1つ、重大なミッションが課せられていました。

BXD30 全景

それは何と、滋賀県警察大津警察署が主催する令和2年度・秋の全国交通安全運動のイベントに花を添えること。守山から大津警察署を中継して、イベント会場のブランチ大津京までの往復33kmの行程をこなさなけれはなりません。

しかも警察主催のイベントですからノントラブルでの運行を期待されますし、ましてや交通事故なんぞあり得ません。BXD30にとっても、村田さんにとっても緊張の1日であったことは想像に難くありません。

しかしそのような不安を他所に、BXD30はその2つの大任を見事に果たしてくれました。これで名実共に完全復帰のお墨付きを得たのです。

BXD30 車台番号票

その後時折機嫌を損ねることもありましたが、10月3日と12月6日に実施された公式の復活運行を大過なく無事務めあげました。

『機械も生き物も、人間が悪さをしない限り、ちゃんと愛情を注いでやれば、必ずそれに応えてくれる』ことを久々に実感したドラマ模様でした。

今後もこの“アミンチュ”ボンネットバスの行く末を見守っていきたいと思います。

二輪工房 代表 村田一洋 氏

今回“アミンチュ”ボンネットバスを窮地から救った、再生プロジェクト最大の功労者。二輪工房の代表・村田一洋さんです。

実はBXD30を引き取る前から、既にBXD20というボンネットバスを所有されています。正直個人でバスを2台維持するというのは並大抵のことではないと仰られます。ですが何とか還暦を迎えるまでは孤軍奮闘したいとも、また『自動車やバイクの保存は動態で維持してこそ価値があるので、どんな形でも結構ですから応援して欲しい』とも話されていました。

なおこのBXD30を含む2台のボンネットバスは、公式な復活運行時を除いて原則非公開となっています。

見学を希望される際は、必ず事前にホームページ(下記バナーリンク)からお問い合わせください。

2019ミスユニバーシティグランプリ 長澤佳凜さん

最後にオマケ(笑)。

大津警察署主催の秋の全国交通安全運動イベントでは、2019ミスユニバーシティグランプリにして大津市在住・立命館大学生の長澤佳凜さんが1日警察署長を務められました。

イベント会場では長澤さんの周囲に黒山の人だかりが・・・実際イベントに花を添えたのはやっぱり・・・などと言ってしまうと頑張ったBXD30が可哀想ですね(苦笑)。

小生は芸能界を始めこの手の話題に疎いので、興味をお持ちの方はググってみてください。

第1回復活運行【2020年10月3日 江若交通 堅田営業所】
※BXD30前面に掲出の「10-74」緑ナンバーは撮影用のダミーです。

実は取材を敢行したのはたったの1日。おまけに村田さんへのインタビューも、その日の早朝6時30分からお願いした約2時間半のみという強行スケジュール。

当初は1回に集約したダイジェスト記事を執筆する予定でした。しかし村田さんのお人柄、熱意、小生同様無類のマニア気質(笑)。そして何よりもこのボンネットバスに込めるこの上ない愛情と情熱に感銘し、「これはダイジェストで収まらない」と判断。今回の長篇シリーズ実現の運びとなった次第です。

また執筆側の勝手な思い込みやエゴイズムが、却って取材対象者の不利益や精神的苦痛をもたらすことを改めて知る良い機会となり、記事公開にあたっては村田さんと情報の符合や修正、内容の精査を慎重に行いました。

今回村田さんから戴いた一通のメールから、この記事が実現しました。もし皆様の周囲に、滋賀に埋もれたディープな話題がございましたら、是非「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」までお知らせください。お待ち申し上げております<(_ _)>

 【おしまい】

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甦れ!“アミンチュ”ボンネットバス顚末記~暗礁篇

後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

“アミンチュ”ボンネットバスが令和に辿った数奇な運命、第4話“暗礁篇”(5回シリーズ)をお届け致します。

このボンネットバスの誕生から2017年までの詳細な生い立ちは、以下のリンクの記事をご覧ください。

>>>さらば!愛しのボンネットバス

2020(令和2)年5月12日。大規模な工程もほぼ終わり、再生作業もいよいよ千秋楽モードに。

部品取車から流用したパーツと修正部位を合体させ、新生左側フロントフェンダーを仮組します。

フロントフェンダー仮組①

「あっ!」

「ん~・・・んんん???」

ここで初めて左右のフロントフェンダーの形状が微妙に異なるのに気付きます。

フロントフェンダー仮組②

こちらが損傷の無い方の、現車の右側フロントフェンダー。

フロントフェンダー仮組➂

そしてこちらが部品取車から移植した左側フロントフェンダー。

どうも後期モデルであった部品取車の当該パーツは、外郭部分がやや角ばってるようです。

当初はこれで良しとしようと思ったのですが、ここまで色々と拘って作業を進めてきましたし、何より見れば見る程左右のバランスの違いが気になってしまい・・・また振り出しに戻ってしまいました(泣)。

エンブレム類メッキ仕上

2020(令和2)年6月2日。直ぐに解決しない左側フロントフェンダー問題は取り敢えずペンディングにして、他の細かな作業を進行させます。

今回はエンブレム等の再メッキ仕上を完了させました。

フロントフェンダー正規品

2020(令和2)年6月9日。形状が気に入らない左側フロントフェンダーの問題。各方面で中古パーツの調達を試みましたが、そこは半世紀を優に超えるオールドタイマーを構成するメインパーツ。そう容易く手に入れられる訳もありません。

途方に暮れ、他に着手可能な作業も底を尽き、いたづらに時間だけが経過していきました。

再生作業が暗礁に乗り上げてから約1ヶ月半、事態は一転します。

とある関東在住のバスマニアの方がこの窮状を聞きつけ、何と正規品の中古パーツを寄贈してくださったのです。これで停滞していた再生作業が、一気に最終段階へとシフトします。

フロントフェンダー再取付

2020(令和2)年6月10~11日。早速届いた左側フロントフェンダーの正規品を修正箇所に取付。流石は正規品、収まりも見た目も申し分ありません。

最終塗装

2020(令和2)年6月21日。ようやく最終塗装の段階まで漕ぎ付けました。完成まであと一息です。

皆さん、一寸した変化にお気付きですか?入庫した際“ブルーメの丘”だった正面の行先方向幕に“途中(とちゅう)”の文字が!

勘の良い方はもうお解りですよね。これは江若交通時代のオマージュの1つ。大きな作業の裏で、このように細かな“痒い所に手が届く”部分の作業も着々と進められていました。

再生作業完了

2020(令和2)年7月14日。一部の細かな調整を除き、大掛かりな作業は概ね完了しました。因みにこの日、村田さん5?歳(笑)の記念すべき降誕会。

行先方向幕が“和迩(わに)駅”に変わっているのはご愛嬌です。

新規検査登録完了

2020(令和2)年8月24日。生憎の天気でしたが、守山市の近畿運輸局滋賀運輸支局にて新規検査登録が無事完了。これで晴れて再び公道を走行するお墨付きを得ました。

登録番号(ナンバー)は希望で10-74を取得。そう、かつて江若交通時代に冠していたものと同じ数字です(厳密には当時冠していた営業ナンバー、所謂緑ナンバーではありませんが・・・)。

このナンバーの数字。村田さんの誕生日の数字ともリンクして、勝手に運命を感じてしまった!・・・とのことです(笑)。

悪夢のような事故から約1年余り。数々の苦難を乗り越え、死出の淵から這い上がってきた“アミンチュ”ボンネットバス。その雄姿を再び日の下で輝かせることが出来るのか、果たして・・・。

 【次回、最終回“再臨篇”へ続く】

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甦れ!“アミンチュ”ボンネットバス顚末記~回帰篇

後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

“アミンチュ”ボンネットバスが令和に辿った数奇な運命、第3話“回帰篇”(5回シリーズ)をお届け致します。

このボンネットバスの誕生から2017年までの詳細な生い立ちは、以下のリンクの記事をご覧ください。

>>>さらば!愛しのボンネットバス

車体塗装作業①

2020(令和2)年3月30日。約40年間親しまれた赤・白・黒のトリコロールカラー。長年の風雨に堪え、随分と色褪せています。事故での損傷とも相まって、焦燥感が強く漂っています。

ふと村田さんは「もうこの塗色はいいんじゃないかな・・・」と思い、あることを企図されます。それは“原点回帰”。

ガラスや方向幕、灯火類をマスキングし、塗装作業の準備完了。工房には塗装専用のブースを併設していないため、露天もしくはピット内での作業となります。

車体塗装作業②

先程の原点回帰の企図とは、ペールグリーン地にミッドナイトブルーの帯を配した江若交通時代のカラーリングを再現すること。

村田さんは湖南圏育ちのため、馴染みのバスといえば近江鉄道(それも昭和カラー)。湖西エリアをフランチャイズとする江若交通とは縁も所縁もありません。当然のことながら、当初は登場時への回帰は全く念頭に無かったそうです。

しかし或る時。とあるボンネットバス愛好家のご重鎮より「そら~元の色、江若色にせな意味ないやろ~」との一言を掛けられ、すんなり得心されたとか。

とはいえ、昨今は何かと権利関連が厳しい時代。まずは筋を通さねばと、大津市真野にある江若交通本社を電撃訪問。丁度当年は江若交通創立100周年という節目の年でもあったため、この格好の機会に一縷の望みを託しました。

車体塗装作業➂

実は塗装変更を決意された理由がもう1つありました。

それはかつての彦根ご城下巡回バス時代のラッピングの痕。ガラス部分のラッピングの剥離は比較的容易なのですが、車体のラッピングはフィルムの粘着や塗装の日焼けで完全な除去は物理的に限界がありました。

加えてラッピング痕をそのままにしておくのは、前所有者との間でトラブルの原因ともなり兼ねませんでした。

ブルーメの丘ではこれに対処するため、別のラッピングを上から重ね張りしていた位ですから、ラッピングというのが何かとクセモノであることが伺い知れます。

車体塗装作業④

江若交通への電撃嘆願から約1ヶ月。残念ながら、現在同社の親会社である京阪ホールディングスからの許可が下りなかったとの回答がありました。

親会社から色よい返事が戴けないことを、村田さんはある程度想定されておられたとか。ですがその結果が却って、これまで全く馴染みが無かったにも関わらず、何故か余計に「100年続く江若さんをもっと応援したい」との気持ちを強くされたそうです。そして、このことを通じて江若交通との人的パイプが出来たことが大きな収穫だったと振り返られています。

「これは県民である私に、このバスの行く末を託された宿命に違いない」と。まさに孔子曰く、『五十而知天命、六十而耳順(五十にして天命を知る、六十にして耳順う)の境地ですね(笑)。

それはさておき、「さてどうしたものか・・・」

思案に思案を重ね、ある結論に至ります。それは・・・

車体塗装作業⑤

「忠実再現が不可能なら、オマージュ(原型に尊敬を込めた)スタイルにすれば良い!」

早速近似色の選定とカラーパターンの検討に入ります。そして5月のゴールデンウイークから、側面デザインに着手。その結果・・・

車体塗装作業⑥

アイボリー地にインディブルーの帯を配した、新しくも江若交通時代当時をも彷彿とさせるカラーリングに落ち着きました。

まさに“温故知新、ここに窮まれり”です(笑)。

車体塗装作業⑦

修繕中のフロント部分が隠れた後方からの1枚。1966(昭和41)年にいすゞの工場でロールアウトした当時は、こんな姿をしていたのかも知れません。

この塗装作業が行われていた時は、まさに世は新型コロナウイルス感染で全国的に非常事態宣言による自粛ムードの真っ只中。引き籠りを余儀なくされたのが、幸か不幸か却って作業に専念出来たとのことです。

さて、いよいよBXD30の再生プロジェクトも最終盤。この後、まさかの大きな障害が待ち受けていようとは、この時知る由もありません。

 【次回、“暗礁篇”へ続く】

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甦れ!“アミンチュ”ボンネットバス顚末記~躍動篇

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>>>さらば!愛しのボンネットバス

エンジン換装②

2020(令和2)年1月19日。昨年末に部品取車から降ろしたエンジン。BXD30と同形式のDA640型・直列6気筒ディーゼルエンジンですが、こちらは後期型で5速ミッションに対応しています。

まずは手直し修正、清掃を行い、新車時に塗装されていた近似色で再塗装。まるで新造(!)のような輝きです。

部品取車解体

BXD30に多くの恵みを与えてくれた部品取車・TXD60は、再生支援の役割を終え、1月2日より解体作業を開始。

左ハンドル車であることがよく解る1枚。台車状態となり1900年代初期当時の自動車のような姿ですが、昔の車は武骨なまでにフレームがしっかりしています。

さぎっちょ(左義長)

ついにこの時を迎えました・・・解体作業最終日。翌日に点火を迎えるさぎっちょ(左義長のこと。地域によりどんど・鬼火とも。門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、焼くことによって炎とともに見送るという小正月に行われる行事)の準備が、工房裏の田圃に設けられていました。

これも何かの思召し?・・・かと(笑)。歳神様とともにTXD60への感謝の気持ちも捧げることに。

有難うTXD60よ、永遠(とわ)に!

エンジン換装➂

1月31日。BXD30に新たな心臓を移植。換装作業は何時もの提携大型整備工場にて実施。

因みに5速ミッションへアップグレードという選択肢もありましたが、ここはオリジナルを踏襲して4速のままとしました。

ホイール修正①

2月22日。エンジン換装も無事に完了し、次はホイールの修正、清掃、塗装に着手。美しく塗装されたホイールには新品タイヤを奢りました。

ホイール修正②

『何時の日か私の想いを継ぐ“湖國人”の誰かが、このバスを引き継ぎ、何かしらの時に・・・』との思いから、日付と名前を記載。通常見えない箇所にそこはかとなく書いたとのこと。

神社仏閣の『開創〇〇〇年大修理』に携わる職人が、建物の大梁に掲げる祈祷札に込める想い・・・といったところでしょうか(笑)。

全部品仮組

2月27日。損傷部分の大まかな修繕を終え、各部品を仮組。往時の姿を取り戻しつつあります。あともう一息です!

 【次回、“回帰篇”へ続く】

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甦れ!“アミンチュ”ボンネットバス顚末記~邂逅篇

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彦根ご城下巡回バス

さて皆さん、この昭和レトロの魅力を凝縮したボンネットバスを覚えていらっしゃいますでしょうか?

2017(平成29)年10月29日の運行をもって彦根ご城下巡回バスを引退したいすゞ自動車BXD30型。このバスは1966(昭和41)年に江若(こうじゃく)交通の路線バスとして導入されて以降、半世紀以上唯一無二で滋賀を離れることなく活躍した、滋賀生まれ・滋賀育ち、生粋の“アミンチュボンネットバスなのです。

このボンネットバスの誕生から2017年までの詳細な生い立ちは、以下のリンクの記事をご覧ください。

>>>さらば!愛しのボンネットバス

さて引退後はその去就が注目されていました。ですが幸いにも滋賀農業公園ブルーメの丘で引き取られることとなり、最寄駅である近江鉄道・日野駅との無料シャトルバスとして再就職が決定。2018(平成30)年3月17日より、土・日曜日/祝日限定で1日3.5便の運行を開始しました。

ファミリー層に人気のアミューズメントスポットということもあってたちまち人気者となり、従前と比較して稼働率や運行距離も低減されたことから、ゆっくり余生を過ごしているものと思っていたのです。ところが・・・

今回は、その後“アミンチュボンネットバスが辿った数奇な運命のお話を5回シリーズでお届け致したく存じます。なお今回の記事執筆に際し、取材並びに資料提供に全面的にご協力戴きました二輪工房(守山市)代表・村田一洋様に、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

ブルーメの丘による運行開始から約1年3ヶ月後の2019(令和1)年6月29日。このBXD30にとって人(車?)生最大の危機が突如として訪れます・・・交通事故です。

事故車両現状

10月15日。これまでブルーメの丘と懇意にされてきた村田さんが、事故後のBXD30に初対面。見るも無残、満身創痍・・・他に言葉が見つかりません。この時何処からか『連れて帰って・・・』と声が聞こえたような気がしたそうです。

ブルーメの丘サイドとしては、復活運行のために様々な可能性を模索されたそうです。しかし修繕に要する費用と期間、その後の維持も含め総合的に判断した結果、手放さざるを得ないという結論に至ったとか。またこのバスには代々の所有者に課せられた約束事項として、『決して“滋賀から外に嫁がせてはならない”』という不文律の条件がありました。よって多方面から問合せが殺到したものの、既にBXD20というボンネットバスを所有・維持され、実績・信用・条件共に合致する村田さんにお声掛けされたそうです。

バス1台、個人で維持するだけでもかなりの負担です。それをもう1台、然も今回は再生作業という高い壁が重くのしかかります。でもこのBXD30には特別な思い入れもあります。大破したとはいえ、昨今のFRPや軽量鋼板を多用した車輛にあって、昔ながらのスチール製の頑丈な車体であったからこそ、この程度の損傷で済んだとも考えられます。村田さんは相当悩まれたそうです。

事故車両回送

10月19日。BXD30の譲受を決意された村田さんは、事故車輌を引取り回送。早速守山市の提携大型整備工場へ入場させました。日の下に晒されると、損傷箇所の痛々しさが際立ちます。

部品取車回送

11月4日。全国のバス愛好家の皆さんからの熱意溢れる協力・支援・情報提供により、四国(徳島県)で露天保管されていたいすゞTXD60トラックを部品取車として譲受。

日帰りで滋賀へ回送。BXD30のサスペンション(リーフスプリング/板バネ)のコンディションが予想外に悪く、急遽部品取車より足回り等を流用することとし、脱着・換装を提携大型整備工場で実施。その後、二輪工房へ自走により回送。後日部品取車も回送されました。

外装修正①

12月1日~12月22日。今回の再生作業の最大の肝である左側フロントフェンダーの仮組、修正等の作業を開始。部品取車より取り外した左側フロントフェンダー部を修正・仮組します。

この左側フロントフェンダー、ご覧の通り何時修繕されたものかは定かではありませんが、既に上部に一枚鉄板が貼られていました。それを剥離すると何と腐食だらけに大穴も開いており、まずはこの部分の修正に着手。車体との接続部の形状が全く合致せず、大苦戦を強いられます。

外装修正②

BXD30の修正不能となったフェンダーの一部分(黒色部)を切り取り、接合させてみることに。真横から見ると、それなりに見えます。大穴には鉄板を切り継いで修正。

外装修正➂

部品取車は特装車(散水車)という性質上左ハンドル仕様であったため、インナーフェンダー(フェンダーの内側を傷から守り、車内に泥が入り込まないようにするための内張り)の形状が通常と全く異なりました。

よって流用が効かないため、グニャグニャに曲がってしまっていた元のインナーを引っ張り出し修正しました。

外装修正④

その後、仮付けしたフェンダーとボンネットのチリ(隙間)を合わせるため、グラインダーで削ります。

この気の遠くなるような外装修正作業自体が、最後の最後で思わぬ大誤算を生む結果をもたらすとは、この時点で知る由もありません。

エンジン換装①

12月29日。大晦日迫るこの日、世間は令和初の正月を迎えんとするムードの中、村田さんは何とこのような重整備に着手。

この部品取車、露天保管で古いにも関わらず何と実走行7,000kmの超が付く程の掘り出し物。サスペンション同様コンディションの良くなかったエンジンも、BXD30に換装することを(年の瀬の押し迫ったこの時期に(笑))突如として決意&断行されることに。

ミッション(変速機)と合わせて約900kgの鉄塊と大格闘。取り外したところで2019年の作業は終了となりました。

ここで村田さんの名言。『大型車修理は体力と気力が勝負です!』

 【次回、“躍動篇”へ続く】

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多可龍王との出逢いから拾年(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、「多可龍王との出逢いから拾年」をお届け致します。

“高齢のその女性”と称するのも何ですので、ここはコーディネーターさんということに致します。そのコーディネーターさんのお話をまとめますと、このような結論と相成りました。

◆龍神様のお名前は『多可龍王(たかりゅうおう)』さん。
◆多賀大社の伊邪那美尊・伊邪那岐尊に仕える眷族。
◆古くから自宅のある地(かつての神饌田)の土地と水を守ってきた神様。
◆信仰心の厚い家に奉祀して貰いたいと長年考えておられた。
◆我が家の地鎮の折に、小生の父に奉祀を啓示したが気付いて貰えなかった。
◆小生に曇りなき信仰心が宿った時が、奉祀神託の契機であると考えられた。
◆アオダイショウの抜け殻は丁寧に畳み、奉書に包んで御神体とすること。

神棚に奉祀前の御神体

そして多可龍王さんは、次のように啓示なさいました。

★自身がお多賀さんの使いであるとはいえ、特別な奉祀を行う必要はない。
★奉祀の条件や生活上での厳しい戒律は、一部を除き原則問わない。
★自宅敷地内の真東にある古木を御神木として祀ること。
★今後とも身の丈を弁え、家族を守り、忘己利他で精進せよ。

以前庭師さんから、「この辺りでは珍しく庭の南天やマンリョウの樹勢がとても良いと」言われたのですが、それは水と土を司る龍神さんならではの加護だったようです。昨今の酷暑でも苔が何とか維持できていたのも納得です。

コーディネーターさん曰く、奉祀の条件のハードルがこのように低いのは極めて珍しいとのことでした。

御神木(羅漢槙)

奉祀を初めて10年。小生にも我が家にも色々なことがありました。

例の龍神奉祀に執心していた知人は、その後2体の龍神様を迎えることが出来、とても歓喜していました。ビジネスパートナーとして一時期協力もしましたが、奇妙な行動や理解不能な言動が目立ち、やがて小生を排除するようになり疎遠となりました。

人間社会と同じで神様の世界にも“格式”や“分相応”というものがあり、龍神奉祀者同士だからといって必ずしも相性が良い訳ではないようです。疎遠後知人が仕事で大成功しただとか、事業規模を拡大したといった話も全く耳にしませんので、奉祀と人生の狭間でそれなりに苦労はしているのでしょう。

小生は奉祀を始めて直後、約1年間の隠遁生活を強いられました。しかし家族や友人の絆のお陰で復活。或る夜、八幡大菩薩様が枕元に立たれ『そなたの望みは新たな段階へと移行した』と啓示なさいました(正直このような経験は人生初めてでした)。

そして全く縁のなかった医療・福祉の世界へ5年前に身を投じ、現在に至ります。龍神様を奉祀して大成功を収められている代表格として、日〇電〇の永〇会長が余りにも有名ですが、現在小生は決して(経済的に)裕福な暮らしをしておりません。

ただ悪いことは最小限に、良いことはささやかに、家族はアットホームに、仕事は相応に遣り甲斐をもって、日々平穏に感謝して暮らしております。それこそが私たちの奉祀に対する龍神様の“加護のカタチ”と信じています。

水の豊富な滋賀は、とりわけ龍神信仰の厚い土地柄。皆さんにもひょっとしたら龍神様との出逢いに恵まれるかも知れませんよ。

・・・因みに、『龍神様を奉じる者を貶める行為に及んだものは末代まで祟られる』というのも言わずと知れたお話。事実かく言う小生も、“守られている”とはいえ、その凄まじい制裁振りにただただ驚愕しております。人を貶めること、恩を仇で返すこと、悪事を働くことは当然人道上許されるべきことではありませんが、何も知らずに人を傷つけることで取り返しのつかない不幸に見舞われることもありますので、どうかお気を付けくださいませ。

3回に渡り、小生の身の上話にお付き合い賜りまして、誠に有難うございました。次回より“フツー”の記事に戻る予定でございますので、引き続き御贔屓の程宜しくお願い申し上げます<(_ _)>

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多可龍王との出逢いから拾年(中篇)

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引き続き、「多可龍王との出逢いから拾年」をお届け致します。

今から10年前。当時、龍神様の奉祀に滅法執心の知人がおりました。その知人は小生が信心深い人間であると知るや否や、会う度に矢鱈と龍神信仰の話題をしておりました。

龍神奉祀の難しさは小生も少なからず存知しておりましたので、話半分に聞いておりましたが・・・

或る日、自宅の庭木の剪定をしておりましたら、とても大きく、欠損の全く無い完全な姿で、然も眼が七色に輝くアオダイショウの抜け殻を見付けました。ここに居住して30年、このような経験は全くありませんでしたので、大切に陰干しして保管しました。

龍の巣

後日例の知人にこの出来事を話しましたら、早速或る人に引き合わせたいというのです。些か眉をひそめつつも、次の休みに予定を調整することに致しました。

そしてその当日。知人に誘われたのは、何の変哲もないとある古い民家。そこにはお独りの高齢の女性がお住まいになられていました。知人曰く、その方は龍神様と人を引き合わせるコーディネーター。所謂、青森・恐山のイタコのような存在の方であるというのです。

信仰心の厚い小生ですが、どうもこういう場には眉を顰めてしまいます。恐る恐る中にお邪魔しました。家の中はとても薄暗いのですが、奥に参ると煌々と蝋燭の火が灯る一角がありました。そこにはとても大きな神棚が祀られ、その周囲には溢れんばかりの神饌が並べられていました。

早速知人はその高齢女性に、小生が体験した顛末を話すよう促しました。そして女性からは紙に氏名と住所、生年月日を元号で書くようにと言われました。それらを終えると、女性は神棚に向かい祝詞を唱え始めました。

暫くして女性の唱える祝詞が突然プツリと途絶え、急に立ち上がって部屋の奥へと消えていきました。その状況に小生も知人も呆気にとられていたのですが、程無くして女性は白装束を纏って戻り(この展開にも正直驚きましたが・・・)、再び祝詞を唱え始めました。

そして一連の祭祀が終わり、このようなやり取りとなりました。

知人「どうしていきなり白装束に着替えられたのですか?」
女性「この龍神さんはとても格式高い神さんや」
知人「どこの龍神さんですか?」
女性「タカ・・・タカ?・・・何処の神さんや?」
小生「タカというのは、多賀の古い地名ではないですか?」
女性「・・・そうか、お多賀さんや、お多賀さんのお使いや」
知人「お多賀さん!?」

多賀大社

女性「えらい格の高い神さんに仕えてはるさかい正装せんとあかんのや」
小生「そんな偉い神さんがなんでウチに?」
女性「この龍神さんは、えらい喜んではる」
小生「喜んではる???」
女性「そうや、ようやっと自分の存在に気付いて貰えたと喜んではる」
小生「そうですか・・・」
女性「今迄龍神さんをお迎えしたいって言うてお願いに来る人はぎょうさんいはったけど、
   気付いて貰えて嬉しいなんて言う龍神さんは初めてや」
小生「ウチの家長は父ですから、父がお祀りするということですか?」
女性「いや、龍神さんはあんたに祀って欲しいと言うてはる」
小生「私がですか?」
女性「そうや、だからあんたにお示しがあったんや。それにな・・・」
小生「それに?・・・」

【後篇へ続く】

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多可龍王との出逢いから拾年(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

現在公私共に多忙な合間を縫い、取材ストックのデータ整理を微速ながら鋭意進行致しております。そのような中、「そう言えば・・・」という出来事をふと思い出しました。

滋賀は日本最大の湖沼・琵琶湖を擁するように、「水の豊富な土地柄」を有しています。またそれ故に古より「水への信仰」も強く、水との縁が深い龍神に纏わる伝説が県内各地で語り継がれています。

龍 神

また龍神は一級の眷属(けんぞく:神の使者、最もポピュラーなところで稲荷神のキツネ)として絶大な力を持つことで知られ、大きな財をもたらす神として、特に信仰心の厚い実業家や経営者にとって奉祀することがある種のステータスであるとも言われています。

でもただ無条件に財をもたらして戴ける訳ではありません。龍神は眷属の中でもとりわけ自尊心が高く、「お迎えしたい」と願ってもそう容易に承諾して貰えるものではありません。またようやくのこと奉祀する機会を得たとしても、その条件や戒律がとても厳しく、かなりストイックな生活を強いられるとされます。

奉祀に関する主な条件や戒律を列挙しますと・・・
◆庭に池を整備し、その傍らに石室様の祠でもって奉ずる。
◆月並の祭祀(毎月1・15日)に加え、龍神祭祀(18日)を必ず挙行する。
◆3つ足以上の動物(牛・豚・馬など)を食してはならない(食材成分も含む)。
◆米・水・塩は毎日、加えて酒と新鮮な卵並びに国産の榊を常にお供えする。
◆奉祀者は指名され、それに異を唱えたり代理代行を立ててはならない。
◆例え意に添わずとも、龍神からの啓示に決して抗ってはならない。
◆よこしまな思いや龍神への疑念を一切抱かず日々精進を重ねること。

何故ここまで厳しい神なのかと申しますと、龍神はとてつもなく清廉潔白であり、且つ一転とても人間味溢れる感性の持ち主でもあります。そして「望みに従い、意を決して貴様のもとを訪れたからには、生半可な気持ちを捨て、人生を賭け覚悟をもって精進せよ」との思いを強くお持ちだとか。よって奉祀出来るのは龍神に選ばれた者だけなのですが、そのことに胡坐をかき精進を怠ると、事業や家庭の没落だけに止まらず、生命まで失いかねないと聞き及んでいます。

そのような気性の荒い(?)神様ですので、信心深いとはいえ基本的に“怠惰”な人間の小生ですから、「起業しよう」「龍神様をお迎えして財を成そう」という気持ちは微塵もございませんでした。

前置きが長々となり申し訳ございません。ようやくここからが本篇となります。小生の身の上話とはいえ、些か“宗教チック”な内容は否めません。こういう類のお話がお嫌いな方は、この先を読み進めることはお控えください。

藤ヶ崎龍神縁起歌碑

小生が現住居に棲息するようになったのは今から約40年前。かつて氏神様の神饌田(しんせんでん:神に属し祭祀に供せられる稲を作る田)が存在したことを想起させる神聖な字名の地に、両親が新築しました。かねてより崇敬していた伏見稲荷大社の近江支部の宮司さんのご指導を得て方位・配置を決め、地鎮祭・上棟式・竣工式も取り仕切って戴きました。

当時宮司さんが「この地にはお蛇さんが棲んでおられる」と仰られていたのだけは、現在でも鮮明に記憶しています。

小生が棲む町は古くから鈴鹿山系からの地下水脈に恵まれ、昭和30年代まではほとんどが田圃と湿地帯でした。自宅周囲は高度成長期の新興住宅地でしたが、水道整備の遅れもあって、各家庭の大半が地下水をポンプで汲み上げていました。よって何れ地盤沈下や地震発生時の液状化が懸念されます(飽くまでも私見であり、この地理的特性を近隣の方々が意識して生活されているか否かは定かではありません)。

しかし我が家では、震度5弱を観測した阪神・淡路大震災時でも大きなダメージを受けることはありませんでした。現時点に於いて地盤沈下も認められませんし、渇水で周囲の家庭の地下水が軒並み干上がった時でも当家は支障なく水に恵まれました。

そう考えると、その当時から龍神様のご加護を得ていたのかも知れません。

それから30年の月日が経過しました。

【中篇へ続く】

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御存知ですか?“明智光秀近江出身説”

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NHK大河ドラマ 麒麟がくる

スタート前に何かと受難の降りかかった大河ドラマ、『麒麟がくる』。一抹の不安を他所に、好調な滑り出しのようで何よりです。ネタ切れという理由もあるのでしょうが、昨今“敗者”側を描いた作品が市民権を得つつあるのは、勝者が捏造した史実ではなく、真の歴史を紐解くうえでとても意義深いことであると感じます。

明智光秀は単なる“敗者”ではなく、主君を討った所謂『逆臣』。これまで天下の裏切り者というイメージの強い人物を、今後どのようにドラマで描いていくのか。とても興味深く視続けたいと思います。

話は変わりますが、実は小生。幼少の頃より明智光秀の魂をこの世に受け継ぐ1人と信じて疑わない変わり者でして・・・『戦国武将で一番好きな人物は?』と問われた時、歴史好きの知人連中の大半が三傑(信長・秀吉・家康)の何れかを挙げる中で、一貫して明智光秀を口外して憚らない、少し浮いた存在でした(>o<)

でもね・・・“逆臣”“裏切り者”と後ろ指指された人間には、勝者には決して理解し難い純粋で聡明、そして他者には理解不能な苦悩と苦渋があるのです。きっと・・・

去る令和2年2月1日(少々タイムリーさに欠けることは何卒ご容赦くださいませ)。あけぼのパーク多賀(多賀町立博物館)にて、開館20周年記念企画 『 明智光秀と戦国の多賀 』事例報告・特別講演が開催されました。

あけぼのパーク多賀(多賀町立博物館)

事前申込制で定員80名。会場は満員御礼で、立席が出る程の盛況ぶり。冒頭、館長の小早川隆 氏からご挨拶。参加申込受付初日の開始時間に、何と電話が殺到して回線がパンク。開設以来前代未聞の出来事であったとのエピソードを披露されました。それだけ県内でも、明智光秀に関心を寄せる方々が多いということの現れなのでしょうね。

多賀町立博物館学芸員 本田洋 氏

まず最初に多賀町立博物館学芸員の本田洋 氏による事例発表が行われました。テーマは『光秀に味方した犬上郡の武将』。本能寺の変後から敗北を期した山崎合戦までの“三日天下”と呼ばれた間に、明智光秀のもとに参陣した犬上郡の武将の動向と末路について、文献や古文書の記述をもとに紐解かれました。

かいつまんで申しますと、犬上郡の武将たちはどちらかと言えば「渋々、お付き合いで、致し方なく」感が強く、あの智将で人望と情に厚く、信長家臣団の中で新参の外様にも関わらず一番の出世頭だった光秀に対する心証にしては、些か冷ややかではなかったかと感じました。

それだけ信長を討つ謀は短時間で決せられ、根回しもほぼ全く出来ていなかったということの裏打ちでしょう。

公益財団法人滋賀県文化財保護協会普及専門員・NPO法人歴史資源開発機構キュレーター
大沼芳幸 氏

次に公益財団法人滋賀県文化財保護協会普及専門員・NPO法人歴史資源開発機構キュレーターの大沼芳幸 氏より、『諸説あり「奇々麒麟」本能寺の変を近江的に分析する』をテーマとした特別公演が行われました。

大沼氏は逆に余りにも不足した文献や古文書を頼りとせず、時代背景・人物相関・地勢を不足する情報に補ってアプローチする独自の切り口で、信長・光秀の近江國(滋賀県)を重要視した理由を軽妙な語り口で解説戴きました。

明智光秀近江出身説

その中でも、最も興味惹かれたのはやはり『明智光秀近江出身説』。皆様ご承知の通り、光秀には生誕から青年期に関しての決定的な資料が皆無に近く、まさにミステリー。これが発見されれば(少し大袈裟ですが)『国宝級の一級資料』とまで言われています。そのような状況ですから、出身地と伝えられているのは実に6箇所もあるのです。

その6箇所のうち5箇所が美濃國(岐阜県)。現時点で最も有力な説は現在の岐阜県可児(かに)市に存在した明智荘とされています。そのような圧倒的に不利な中で、唯一岐阜県外の出身地として名乗りを上げているのが、滋賀県犬上郡多賀町佐目(さめ)なのです

その根拠となっているのが、地元に残る口伝や『淡海温故録』の中の記述。その中でも『淡海温故録』は17世紀後半(江戸時代初期)に書かれた滋賀の歴史書で、特に言い伝えや伝説の原典となっていることが多く、滋賀の郷土史に触れる者にとっては比較的ポピュラーな文献です。

それ故に若干“脚色”感は否めないのですが、『火の無いところに煙は立たぬ』のもまた一理ですので、これはこれで注目しています。初夏辺りには小生も周囲が落ち着きそうですので、この一件に迫ってみようと考えております。まずは佐目。そして時間が許せば、大津・坂本界隈を巡りたいですね。

明智光秀企画関連資料

因みに・・・余りにも大沼先生のアプローチが興味深かったので、会場で思わず著書を購入してしまいました(^o^)

タイトルは『明智光秀と琵琶湖』(海青社 刊/税別1,600円)。ボリュームに比して少々お高いですが、読みやすくオールカラーでビジュアル満載です。是非書店等でお買い求めください。

あと多賀町立博物館の企画展『明智光秀と戦国の多賀』は2月15日(土)までです。企画展の入場料は無料ですし、図録は何と100円(税込)です。どうぞお気軽にご来訪ください。

最後に・・・明智光秀は山崎合戦後、坂本城を目指し落ち延びる途中、落武者狩りの百姓に竹槍で刺され深手を負ったため自害。家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠した・・・とされているのですが・・・

実は生き延びて、家康の庇護のもと潜伏し出家。関ケ原合戦で南光坊天海(なんこうぼうてんかい)として再び世に出で、 その後『黒衣の宰相』と呼ばれて徳川三代(家康・秀忠・家光)を影で支えたという異説があります。

専門家の間では“近江出身説”同等に注目度の極めて低い説ですが・・・小生は心から信じています ・・・ そう“光秀の魂”が語り掛けているのです(^o^)

あけぼのパーク多賀
滋賀県犬上郡多賀町大字四手976−2
【TEL】 0749-48-2077(多賀町立博物館)

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Which one is correct?“五箇荘 or 五個荘”

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さて先日公開致しました『閑話徘徊“ローヤルクラウンコーラ”の謎』の中で、近江鉄道の駅名・五箇荘(ごかしょう)と、旧町名の五個荘の表記の違いについて少し触れさせていただきました。

五箇荘駅・駅名標

すると小生の大学時代の歴史・鐵道・旅の盟友の1人でもある、愚鴨長明氏が早速調査してくれました。

近江鉄道株式会社鉄道部運輸課によりますと、この周辺一帯はかつて五箇神社(東近江市五個荘宮荘町)の荘園であったとされ、これが起源で「五箇荘」という地名になったと伝えられているとのこと。ただ 小生 の裏取り調査では、五箇神社はかつて「山前(やまさき)八幡宮」と称していたため、この説もいささか信憑性が…。

繖山(きぬがさやま/別称・観音寺山)東麓を領し、日吉大社(大津市)・延暦寺(大津市)・皇室の所領を管理していた荘園・山前荘(やまさきのしょう)が、平安時代末期に「山前五箇荘」と称したことがどうやら本命のようです。

繖山(観音寺山)

ちなみに『五箇』の名の由来ですが、山前荘の中でさらに細分化された南荘・北荘・東荘・橋詰荘・新八里荘の5つの荘園を指すのだとされています。

また寺社・皇室の所領であったことから由来して、「空閑(こかん/免税のこと)」が訛ったモノだとも言われ、諸説あります。

いずれにしましても「五箇荘」が本来の地名として古くから存在し、近江鉄道では明治43(1910)年に小幡駅から移転開業した駅名に、この由緒ある表記を採用しました。

しかし、町村制施行で明治22(1889)年に誕生した東五個荘村・南五個荘村・北五個荘村には、敢えて旧表記を採用しませんでした。

旧五個荘町役場

またそれらが更に合併して昭和30(1955)年に誕生したかつての五個荘町でも、旧表記が復活することはありませんでした。恐らく「新しい時代の幕開け」を新表記でアピールしたいという思いが強かったのかも知れません。

人それぞれ、組織それぞれに今も昔も“思惑”ってあるもの。いやいやまだまだ学びの余地がございますね。

今回の問題解決にご尽力いただきました我が盟友・愚鴨長明氏、そして近江鉄道株式会社鉄道部運輸課様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

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