Category Archives: 徒然えぴそ~ど

多可龍王との出逢いから拾年(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、「多可龍王との出逢いから拾年」をお届け致します。

“高齢のその女性”と称するのも何ですので、ここはコーディネーターさんということに致します。そのコーディネーターさんのお話をまとめますと、このような結論と相成りました。

◆龍神様のお名前は『多可龍王(たかりゅうおう)』さん。
◆多賀大社の伊邪那美尊・伊邪那岐尊に仕える眷族。
◆古くから自宅のある地(かつての神饌田)の土地と水を守ってきた神様。
◆信仰心の厚い家に奉祀して貰いたいと長年考えておられた。
◆我が家の地鎮の折に、小生の父に奉祀を啓示したが気付いて貰えなかった。
◆小生に曇りなき信仰心が宿った時が、奉祀神託の契機であると考えられた。
◆アオダイショウの抜け殻は丁寧に畳み、奉書に包んで御神体とすること。

神棚に奉祀前の御神体

そして多可龍王さんは、次のように啓示なさいました。

★自身がお多賀さんの使いであるとはいえ、特別な奉祀を行う必要はない。
★奉祀の条件や生活上での厳しい戒律は、一部を除き原則問わない。
★自宅敷地内の真東にある古木を御神木として祀ること。
★今後とも身の丈を弁え、家族を守り、忘己利他で精進せよ。

以前庭師さんから、「この辺りでは珍しく庭の南天やマンリョウの樹勢がとても良いと」言われたのですが、それは水と土を司る龍神さんならではの加護だったようです。昨今の酷暑でも苔が何とか維持できていたのも納得です。

コーディネーターさん曰く、奉祀の条件のハードルがこのように低いのは極めて珍しいとのことでした。

御神木(羅漢槙)

奉祀を初めて10年。小生にも我が家にも色々なことがありました。

例の龍神奉祀に執心していた知人は、その後2体の龍神様を迎えることが出来、とても歓喜していました。ビジネスパートナーとして一時期協力もしましたが、奇妙な行動や理解不能な言動が目立ち、やがて小生を排除するようになり疎遠となりました。

人間社会と同じで神様の世界にも“格式”や“分相応”というものがあり、龍神奉祀者同士だからといって必ずしも相性が良い訳ではないようです。疎遠後知人が仕事で大成功しただとか、事業規模を拡大したといった話も全く耳にしませんので、奉祀と人生の狭間でそれなりに苦労はしているのでしょう。

小生は奉祀を始めて直後、約1年間の隠遁生活を強いられました。しかし家族や友人の絆のお陰で復活。或る夜、八幡大菩薩様が枕元に立たれ『そなたの望みは新たな段階へと移行した』と啓示なさいました(正直このような経験は人生初めてでした)。

そして全く縁のなかった医療・福祉の世界へ5年前に身を投じ、現在に至ります。龍神様を奉祀して大成功を収められている代表格として、日〇電〇の永〇会長が余りにも有名ですが、現在小生は決して(経済的に)裕福な暮らしをしておりません。

ただ悪いことは最小限に、良いことはささやかに、家族はアットホームに、仕事は相応に遣り甲斐をもって、日々平穏に感謝して暮らしております。それこそが私たちの奉祀に対する龍神様の“加護のカタチ”と信じています。

水の豊富な滋賀は、とりわけ龍神信仰の厚い土地柄。皆さんにもひょっとしたら龍神様との出逢いに恵まれるかも知れませんよ。

・・・因みに、『龍神様を奉じる者を貶める行為に及んだものは末代まで祟られる』というのも言わずと知れたお話。事実かく言う小生も、“守られている”とはいえ、その凄まじい制裁振りにただただ驚愕しております。人を貶めること、恩を仇で返すこと、悪事を働くことは当然人道上許されるべきことではありませんが、何も知らずに人を傷つけることで取り返しのつかない不幸に見舞われることもありますので、どうかお気を付けくださいませ。

3回に渡り、小生の身の上話にお付き合い賜りまして、誠に有難うございました。次回より“フツー”の記事に戻る予定でございますので、引き続き御贔屓の程宜しくお願い申し上げます<(_ _)>

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多可龍王との出逢いから拾年(中篇)

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引き続き、「多可龍王との出逢いから拾年」をお届け致します。

今から10年前。当時、龍神様の奉祀に滅法執心の知人がおりました。その知人は小生が信心深い人間であると知るや否や、会う度に矢鱈と龍神信仰の話題をしておりました。

龍神奉祀の難しさは小生も少なからず存知しておりましたので、話半分に聞いておりましたが・・・

或る日、自宅の庭木の剪定をしておりましたら、とても大きく、欠損の全く無い完全な姿で、然も眼が七色に輝くアオダイショウの抜け殻を見付けました。ここに居住して30年、このような経験は全くありませんでしたので、大切に陰干しして保管しました。

龍の巣

後日例の知人にこの出来事を話しましたら、早速或る人に引き合わせたいというのです。些か眉をひそめつつも、次の休みに予定を調整することに致しました。

そしてその当日。知人に誘われたのは、何の変哲もないとある古い民家。そこにはお独りの高齢の女性がお住まいになられていました。知人曰く、その方は龍神様と人を引き合わせるコーディネーター。所謂、青森・恐山のイタコのような存在の方であるというのです。

信仰心の厚い小生ですが、どうもこういう場には眉を顰めてしまいます。恐る恐る中にお邪魔しました。家の中はとても薄暗いのですが、奥に参ると煌々と蝋燭の火が灯る一角がありました。そこにはとても大きな神棚が祀られ、その周囲には溢れんばかりの神饌が並べられていました。

早速知人はその高齢女性に、小生が体験した顛末を話すよう促しました。そして女性からは紙に氏名と住所、生年月日を元号で書くようにと言われました。それらを終えると、女性は神棚に向かい祝詞を唱え始めました。

暫くして女性の唱える祝詞が突然プツリと途絶え、急に立ち上がって部屋の奥へと消えていきました。その状況に小生も知人も呆気にとられていたのですが、程無くして女性は白装束を纏って戻り(この展開にも正直驚きましたが・・・)、再び祝詞を唱え始めました。

そして一連の祭祀が終わり、このようなやり取りとなりました。

知人「どうしていきなり白装束に着替えられたのですか?」
女性「この龍神さんはとても格式高い神さんや」
知人「どこの龍神さんですか?」
女性「タカ・・・タカ?・・・何処の神さんや?」
小生「タカというのは、多賀の古い地名ではないですか?」
女性「・・・そうか、お多賀さんや、お多賀さんのお使いや」
知人「お多賀さん!?」

多賀大社

女性「えらい格の高い神さんに仕えてはるさかい正装せんとあかんのや」
小生「そんな偉い神さんがなんでウチに?」
女性「この龍神さんは、えらい喜んではる」
小生「喜んではる???」
女性「そうや、ようやっと自分の存在に気付いて貰えたと喜んではる」
小生「そうですか・・・」
女性「今迄龍神さんをお迎えしたいって言うてお願いに来る人はぎょうさんいはったけど、
   気付いて貰えて嬉しいなんて言う龍神さんは初めてや」
小生「ウチの家長は父ですから、父がお祀りするということですか?」
女性「いや、龍神さんはあんたに祀って欲しいと言うてはる」
小生「私がですか?」
女性「そうや、だからあんたにお示しがあったんや。それにな・・・」
小生「それに?・・・」

【後篇へ続く】

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多可龍王との出逢いから拾年(前篇)

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現在公私共に多忙な合間を縫い、取材ストックのデータ整理を微速ながら鋭意進行致しております。そのような中、「そう言えば・・・」という出来事をふと思い出しました。

滋賀は日本最大の湖沼・琵琶湖を擁するように、「水の豊富な土地柄」を有しています。またそれ故に古より「水への信仰」も強く、水との縁が深い龍神に纏わる伝説が県内各地で語り継がれています。

龍 神

また龍神は一級の眷属(けんぞく:神の使者、最もポピュラーなところで稲荷神のキツネ)として絶大な力を持つことで知られ、大きな財をもたらす神として、特に信仰心の厚い実業家や経営者にとって奉祀することがある種のステータスであるとも言われています。

でもただ無条件に財をもたらして戴ける訳ではありません。龍神は眷属の中でもとりわけ自尊心が高く、「お迎えしたい」と願ってもそう容易に承諾して貰えるものではありません。またようやくのこと奉祀する機会を得たとしても、その条件や戒律がとても厳しく、かなりストイックな生活を強いられるとされます。

奉祀に関する主な条件や戒律を列挙しますと・・・
◆庭に池を整備し、その傍らに石室様の祠でもって奉ずる。
◆月並の祭祀(毎月1・15日)に加え、龍神祭祀(18日)を必ず挙行する。
◆3つ足以上の動物(牛・豚・馬など)を食してはならない(食材成分も含む)。
◆米・水・塩は毎日、加えて酒と新鮮な卵並びに国産の榊を常にお供えする。
◆奉祀者は指名され、それに異を唱えたり代理代行を立ててはならない。
◆例え意に添わずとも、龍神からの啓示に決して抗ってはならない。
◆よこしまな思いや龍神への疑念を一切抱かず日々精進を重ねること。

何故ここまで厳しい神なのかと申しますと、龍神はとてつもなく清廉潔白であり、且つ一転とても人間味溢れる感性の持ち主でもあります。そして「望みに従い、意を決して貴様のもとを訪れたからには、生半可な気持ちを捨て、人生を賭け覚悟をもって精進せよ」との思いを強くお持ちだとか。よって奉祀出来るのは龍神に選ばれた者だけなのですが、そのことに胡坐をかき精進を怠ると、事業や家庭の没落だけに止まらず、生命まで失いかねないと聞き及んでいます。

そのような気性の荒い(?)神様ですので、信心深いとはいえ基本的に“怠惰”な人間の小生ですから、「起業しよう」「龍神様をお迎えして財を成そう」という気持ちは微塵もございませんでした。

前置きが長々となり申し訳ございません。ようやくここからが本篇となります。小生の身の上話とはいえ、些か“宗教チック”な内容は否めません。こういう類のお話がお嫌いな方は、この先を読み進めることはお控えください。

藤ヶ崎龍神縁起歌碑

小生が現住居に棲息するようになったのは今から約40年前。かつて氏神様の神饌田(しんせんでん:神に属し祭祀に供せられる稲を作る田)が存在したことを想起させる神聖な字名の地に、両親が新築しました。かねてより崇敬していた伏見稲荷大社の近江支部の宮司さんのご指導を得て方位・配置を決め、地鎮祭・上棟式・竣工式も取り仕切って戴きました。

当時宮司さんが「この地にはお蛇さんが棲んでおられる」と仰られていたのだけは、現在でも鮮明に記憶しています。

小生が棲む町は古くから鈴鹿山系からの地下水脈に恵まれ、昭和30年代まではほとんどが田圃と湿地帯でした。自宅周囲は高度成長期の新興住宅地でしたが、水道整備の遅れもあって、各家庭の大半が地下水をポンプで汲み上げていました。よって何れ地盤沈下や地震発生時の液状化が懸念されます(飽くまでも私見であり、この地理的特性を近隣の方々が意識して生活されているか否かは定かではありません)。

しかし我が家では、震度5弱を観測した阪神・淡路大震災時でも大きなダメージを受けることはありませんでした。現時点に於いて地盤沈下も認められませんし、渇水で周囲の家庭の地下水が軒並み干上がった時でも当家は支障なく水に恵まれました。

そう考えると、その当時から龍神様のご加護を得ていたのかも知れません。

それから30年の月日が経過しました。

【中篇へ続く】

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御存知ですか?“明智光秀近江出身説”

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NHK大河ドラマ 麒麟がくる

スタート前に何かと受難の降りかかった大河ドラマ、『麒麟がくる』。一抹の不安を他所に、好調な滑り出しのようで何よりです。ネタ切れという理由もあるのでしょうが、昨今“敗者”側を描いた作品が市民権を得つつあるのは、勝者が捏造した史実ではなく、真の歴史を紐解くうえでとても意義深いことであると感じます。

明智光秀は単なる“敗者”ではなく、主君を討った所謂『逆臣』。これまで天下の裏切り者というイメージの強い人物を、今後どのようにドラマで描いていくのか。とても興味深く視続けたいと思います。

話は変わりますが、実は小生。幼少の頃より明智光秀の魂をこの世に受け継ぐ1人と信じて疑わない変わり者でして・・・『戦国武将で一番好きな人物は?』と問われた時、歴史好きの知人連中の大半が三傑(信長・秀吉・家康)の何れかを挙げる中で、一貫して明智光秀を口外して憚らない、少し浮いた存在でした(>o<)

でもね・・・“逆臣”“裏切り者”と後ろ指指された人間には、勝者には決して理解し難い純粋で聡明、そして他者には理解不能な苦悩と苦渋があるのです。きっと・・・

去る令和2年2月1日(少々タイムリーさに欠けることは何卒ご容赦くださいませ)。あけぼのパーク多賀(多賀町立博物館)にて、開館20周年記念企画 『 明智光秀と戦国の多賀 』事例報告・特別講演が開催されました。

あけぼのパーク多賀(多賀町立博物館)

事前申込制で定員80名。会場は満員御礼で、立席が出る程の盛況ぶり。冒頭、館長の小早川隆 氏からご挨拶。参加申込受付初日の開始時間に、何と電話が殺到して回線がパンク。開設以来前代未聞の出来事であったとのエピソードを披露されました。それだけ県内でも、明智光秀に関心を寄せる方々が多いということの現れなのでしょうね。

多賀町立博物館学芸員 本田洋 氏

まず最初に多賀町立博物館学芸員の本田洋 氏による事例発表が行われました。テーマは『光秀に味方した犬上郡の武将』。本能寺の変後から敗北を期した山崎合戦までの“三日天下”と呼ばれた間に、明智光秀のもとに参陣した犬上郡の武将の動向と末路について、文献や古文書の記述をもとに紐解かれました。

かいつまんで申しますと、犬上郡の武将たちはどちらかと言えば「渋々、お付き合いで、致し方なく」感が強く、あの智将で人望と情に厚く、信長家臣団の中で新参の外様にも関わらず一番の出世頭だった光秀に対する心証にしては、些か冷ややかではなかったかと感じました。

それだけ信長を討つ謀は短時間で決せられ、根回しもほぼ全く出来ていなかったということの裏打ちでしょう。

公益財団法人滋賀県文化財保護協会普及専門員・NPO法人歴史資源開発機構キュレーター
大沼芳幸 氏

次に公益財団法人滋賀県文化財保護協会普及専門員・NPO法人歴史資源開発機構キュレーターの大沼芳幸 氏より、『諸説あり「奇々麒麟」本能寺の変を近江的に分析する』をテーマとした特別公演が行われました。

大沼氏は逆に余りにも不足した文献や古文書を頼りとせず、時代背景・人物相関・地勢を不足する情報に補ってアプローチする独自の切り口で、信長・光秀の近江國(滋賀県)を重要視した理由を軽妙な語り口で解説戴きました。

明智光秀近江出身説

その中でも、最も興味惹かれたのはやはり『明智光秀近江出身説』。皆様ご承知の通り、光秀には生誕から青年期に関しての決定的な資料が皆無に近く、まさにミステリー。これが発見されれば(少し大袈裟ですが)『国宝級の一級資料』とまで言われています。そのような状況ですから、出身地と伝えられているのは実に6箇所もあるのです。

その6箇所のうち5箇所が美濃國(岐阜県)。現時点で最も有力な説は現在の岐阜県可児(かに)市に存在した明智荘とされています。そのような圧倒的に不利な中で、唯一岐阜県外の出身地として名乗りを上げているのが、滋賀県犬上郡多賀町佐目(さめ)なのです

その根拠となっているのが、地元に残る口伝や『淡海温故録』の中の記述。その中でも『淡海温故録』は17世紀後半(江戸時代初期)に書かれた滋賀の歴史書で、特に言い伝えや伝説の原典となっていることが多く、滋賀の郷土史に触れる者にとっては比較的ポピュラーな文献です。

それ故に若干“脚色”感は否めないのですが、『火の無いところに煙は立たぬ』のもまた一理ですので、これはこれで注目しています。初夏辺りには小生も周囲が落ち着きそうですので、この一件に迫ってみようと考えております。まずは佐目。そして時間が許せば、大津・坂本界隈を巡りたいですね。

明智光秀企画関連資料

因みに・・・余りにも大沼先生のアプローチが興味深かったので、会場で思わず著書を購入してしまいました(^o^)

タイトルは『明智光秀と琵琶湖』(海青社 刊/税別1,600円)。ボリュームに比して少々お高いですが、読みやすくオールカラーでビジュアル満載です。是非書店等でお買い求めください。

あと多賀町立博物館の企画展『明智光秀と戦国の多賀』は2月15日(土)までです。企画展の入場料は無料ですし、図録は何と100円(税込)です。どうぞお気軽にご来訪ください。

最後に・・・明智光秀は山崎合戦後、坂本城を目指し落ち延びる途中、落武者狩りの百姓に竹槍で刺され深手を負ったため自害。家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠した・・・とされているのですが・・・

実は生き延びて、家康の庇護のもと潜伏し出家。関ケ原合戦で南光坊天海(なんこうぼうてんかい)として再び世に出で、 その後『黒衣の宰相』と呼ばれて徳川三代(家康・秀忠・家光)を影で支えたという異説があります。

専門家の間では“近江出身説”同等に注目度の極めて低い説ですが・・・小生は心から信じています ・・・ そう“光秀の魂”が語り掛けているのです(^o^)

あけぼのパーク多賀
滋賀県犬上郡多賀町大字四手976−2
【TEL】 0749-48-2077(多賀町立博物館)

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Which one is correct?“五箇荘 or 五個荘”

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さて先日公開致しました『閑話徘徊“ローヤルクラウンコーラ”の謎』の中で、近江鉄道の駅名・五箇荘(ごかしょう)と、旧町名の五個荘の表記の違いについて少し触れさせていただきました。

五箇荘駅・駅名標

すると小生の大学時代の歴史・鐵道・旅の盟友の1人でもある、愚鴨長明氏が早速調査してくれました。

近江鉄道株式会社鉄道部運輸課によりますと、この周辺一帯はかつて五箇神社(東近江市五個荘宮荘町)の荘園であったとされ、これが起源で「五箇荘」という地名になったと伝えられているとのこと。ただ 小生 の裏取り調査では、五箇神社はかつて「山前(やまさき)八幡宮」と称していたため、この説もいささか信憑性が…。

繖山(きぬがさやま/別称・観音寺山)東麓を領し、日吉大社(大津市)・延暦寺(大津市)・皇室の所領を管理していた荘園・山前荘(やまさきのしょう)が、平安時代末期に「山前五箇荘」と称したことがどうやら本命のようです。

繖山(観音寺山)

ちなみに『五箇』の名の由来ですが、山前荘の中でさらに細分化された南荘・北荘・東荘・橋詰荘・新八里荘の5つの荘園を指すのだとされています。

また寺社・皇室の所領であったことから由来して、「空閑(こかん/免税のこと)」が訛ったモノだとも言われ、諸説あります。

いずれにしましても「五箇荘」が本来の地名として古くから存在し、近江鉄道では明治43(1910)年に小幡駅から移転開業した駅名に、この由緒ある表記を採用しました。

しかし、町村制施行で明治22(1889)年に誕生した東五個荘村・南五個荘村・北五個荘村には、敢えて旧表記を採用しませんでした。

旧五個荘町役場

またそれらが更に合併して昭和30(1955)年に誕生したかつての五個荘町でも、旧表記が復活することはありませんでした。恐らく「新しい時代の幕開け」を新表記でアピールしたいという思いが強かったのかも知れません。

人それぞれ、組織それぞれに今も昔も“思惑”ってあるもの。いやいやまだまだ学びの余地がございますね。

今回の問題解決にご尽力いただきました我が盟友・愚鴨長明氏、そして近江鉄道株式会社鉄道部運輸課様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

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遷座1300年!モノノフの聖地“兵主大社”の伝説・補遺

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前回お届け致しましたは兵主大社(ひょうずたいしゃ)のお話つきまして、今回少し情報を補足致したく存じます。

前回の記事の中で、『兵主大社の神紋は「亀の甲羅に鹿の角」の文様です(是非境内で探してみてください)』と記述致しましたが、読者の方から『どんな形のものですか?イメージが湧きません』との投書を頂戴致しました。

兵主大社神紋

・・・という訳で、特別に公開致します(笑)。上の写真の文様は境内のあちこちで見受けられますので、是非探してみてください。

遷座1300年記念 兵主大社展

現在、野洲市歴史民俗博物館では、開館30周年特別展「遷座1300年記念 兵主大社展―琵琶湖を渡って来た神さま―」が開催されています。

なおこの企画展を観覧されますと、ある特典がもれなく提供されることが判明致しました!

それは・・・平安時代後期に造営されたと伝えられ、国の名勝にも指定されている兵主大社の庭園が無料で拝観出来る証明書がいただけるのです!

これに伴い庭園の拝観時間も企画展開催中に限定して9:00~16:00に変更されています。証明書配付並びに無料拝観も企画展最終日の12月2日(日)までの特典となりますので、兵主大社参拝前に訪問されては如何でしょうか。

最後に名園と評判高き庭園の情景を特別(笑)ご紹介致します。紅葉はこの週末までが見頃のリミットかと存じます。

名勝兵主大社庭園

「子供連れで庭園の見学なんて・・・」というファミリーにもミニ情報を!実はこの庭園、ドングリの宝庫でもあるのです。お子さんにドングリ拾いなんていうのも如何でしょうか。

但し兵主大社様の「古の庭園の素晴らしさを、ありのままの状態で堪能してもらいたい」とのご配慮から、園内には防護柵や規制ロープ等は一切設置されておりません。

庭園には池や川、苔の自生エリアもございますので、引率の保護者の方はくれぐれもお子さんから目を離さぬようご配慮ください。

“紅葉の名所”と呼ばれる有名な観光地での散策も良いですが、足早に去っていく今秋の趣を、ゆったり・しっとり・静かに、そして郷土の歴史に想いを馳せながら過ごしてみるのもまた一興ではないでしょうか。

兵主大社

滋賀県野洲市五条566番地
TEL:077-589-2072
庭園/収蔵庫入場時間:13:00~16:00
庭園拝観:500円(4/15~7/15・9/15~12/15)
収蔵庫見学:500円 ※要予約

野洲市歴史民俗博物館

滋賀県滋賀県野洲市辻町57番地1
TEL:077-587-4410
開館時間:午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
入館料/大人200円・学生150円・小中学生100円
休館日/月曜日(祝日の場合は翌火曜日

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本日のNスタに当ブログより資料提供致します!

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平(藤原)景清

平(藤原)景清

突然ですが、本日放送のTBSテレビ報道番組・Nスタでのニュースに、急遽当ブログより資料提供を実施することが決定致しました。

 

 

記事内容は「鍾乳洞に悪質いたずら」に関するもので、滋賀に直接関連性は無いようにも思えますが、その中で滋賀にゆかりの深いコチラの人物の肖像写真を提供致します。

 

 

ご興味がございましたら是非ご覧ください<(_ _)>

 

提供情報の告知(悪質・荘厳な鍾乳洞で迷惑行為)はコチラ!

◆TBSテレビ Nスタ 関東エリア:15時49分より(一部地域は17時50分より)

※地域によりましては放送されない場合がございます。

 

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地方行政崩壊⁉“村ごと消えた村”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

2ヶ月振りの御無沙汰でございます。何分公私共に“激”多忙を窮めておりまして、なかなか記事取材&更新に着手出来ない有様です。週に1日、せめて休日だけは36時間欲しいものです(^^)

 

さて毎週水曜日の午後7時からフジテレビ系列で放送されている『世界の何だコレ⁉ミステリー』という番組をご存知でしょうか?

 

最近はグー〇ルアースで気になったオブジェクトを探索するというコーナーが定番化しており、企画的にもネタ探し的にも些か安易さを禁じ得ないのですが、どうもこれの影響(恩恵?)で水曜日の当ブログのアクセス数が急激に伸びるという怪現象が認められ、幾分複雑な心境にございます。

 

今回はその影響(恩恵?)に便乗しよう!という意図はさらさらございませんが・・・昨今は「過疎地」のことを限界集落などと言うのだそうです。何ともピンと来ないワードです。何が“限界”なのやら・・・世には実に解せぬファジーな言葉が溢れかえっております。

 

山村・農村・漁村の過疎化などは今に始まった訳ではなく、高度成長期の昭和40年代から既に深刻化しているのですが、一頃また何かと話題になっているようです。理由はよく解りませんが・・・。

 

日本のほぼド真ん中にある、比較的インフラには恵まれた滋賀ですが、ご多分に漏れず非常に多くの「限界集落」や「廃村」を抱えています。

 

ただその大半は最小単位の地域(第2次世界大戦後に制定された市町村内の町や字)といった限定的なレベルのものなのです。

 

「限界集落」「廃村」の主な理由としては、

 

■高齢化・挙家離村による人口の減少
■林業・農業・漁業の衰退並びに後継者不足
■ダム建設による移住
■鉱山の廃鉱
■大規模災害による移住

 

といった理由が挙げられます。そんな中、滋賀には全国的にも珍しいレアなケースがあるのです。今回はそのレアケースについてのお話をいたしたいと存じます。

 

かつて犬上郡には脇ヶ畑(わきがはた)という村がありました。1889(明治22)年の「明治の大合併」で、保月(ほうづき)・(すぎ)・五僧(ごそう)の3集落が合併して誕生した村です。

 

平均標高550mという県内屈指の高地の山村で、古くは美濃國(現・岐阜県)時山と中山道の高宮を結ぶ五僧越(ごそうごえ)の中継地として、ここを通商路としていた近江商人で賑わっていました。

 

しかし近代に入り、その地理的条件から『陸の孤島』と化し、戦後行政の集落再編成事業による離村勧奨もあり、1955(昭和30)年に町村合併促進法(昭和の大合併)によって多賀町に併合、昭和50年代前半には廃村となりました。

 

村という一つの行政区画ごと廃村となったのは、滋賀ではこの脇ヶ畑村が唯一の存在であり、全国的にも非常に稀なケースなのです。

 

当然当時ここには村役場があり、小学校・中学校(分校)・郵便局・駐在所、昭和初期までは旅館や商店もありました。

 

ただ最盛期でも人口が500人程度の村でしたのでインフラの整備は恐ろしく遅れ、電気が通じたのは県内で最も遅い1950(昭和25)年。

 

村内の中心を通る“県道上石津多賀線”の開通も1950(昭和25)年。舗装に至っては実に廃村後の1992(平成4)年の完成でした。

 

このような寒村ですが、日本の動乱期には必ず歴史の檜舞台に登場しています。

 

安土・桃山時代末期、関ヶ原合戦で西軍に加勢していた薩摩國の大名・島津義久は小早川秀秋らの裏切りにより一転して敗色濃厚とり、窮地に立たされます。

 

そこで義久は戦場に唯一残された自らの軍勢を脱出させるべく、敵陣を強行突破するという大胆な手段に打って出ます。

 

これが世に言う『島津の前退(まえのき)』で、島津軍は船で本国への脱出を果たすべく和泉國・堺(現在の大阪府堺市)へ向かう途中、五僧越を駆け抜けていきました。以来、五僧越を通称『島津越』とも呼ぶようになりました。

 

今年4月11日に放送されたNHK『歴史秘話ヒストリア』の“心そろえて生き抜いてこそ 島津義弘・奇跡の敵中突破”でも、このことが詳しく解説されました。

 

歴史にもしもは禁物ですが、この強行突破に失敗し島津家が滅亡していたら・・・明治維新は無かった!・・・かも知れません。

 

また幕末には、佐幕派であった伊勢國・桑名藩の動向(桑名騒動)を牽制すべく、勤皇派であった彦根藩は大砲を分解して搬出し、五僧峠に設置して警戒態勢を敷いたこともありました。結局桑名藩が官軍に対して無血開城したため、大砲が火を噴くことはありませんでした。

 

ここでも“もしも”は禁物ですが、桑名藩が徹底抗戦の構えを見せ無血開城に応じていなかったら・・・大河ドラマ『西郷どん』は無かった!・・・のかも知れません。

 

現在は冬季を除いた時期に数人程度の居住が認められるだけで、かつての栄華を偲ぶものは何一つありません。一時期「廃墟ブーム」があり、心ない人たちによる不法侵入や窃盗、破壊行為があったと聞いています。日本人として実に情けない限りです。

 

こちらの集落を訪問される際は、最低限の登山装備の準備と入念な事前計画をしたうえで赴かれることをおススメします。それだけ道のりはとても厳しいのです。あと事前準備には多賀町立図書館所蔵の『脇ヶ畑史話』に目を通されることもおススメします。これを読みますと、村のあらゆる背景が鮮やかに蘇ること請け合いです。

 

あっそうそう、この村は多賀大社の御祭神である伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)が地上に降臨したと伝えられる神聖なエリアで、現在でも厳かな祭礼が行われています(杉坂峠の御神木)。ですので、ナメてかかると有り難くない“ご利益”にあやかるかも・・・です(=_=)

 

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さらば!近江鉄道の古典電気機関車たち

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またもや近江鉄道が誠にもって残念な決断を下しました。

 

近江鉄道ミュージアム鉄道資料館12月7日、近江鉄道は同社が彦根に近江鉄道ミュージアム鉄道資料館に保有する電気機関車10輌(ED14形×4輌、ED31形×5輌、ロコ1101形×1輌)を、車体の老朽化による維持が困難なことを理由として、来る12月16日(土)でのお別れイベントでの公開を最後に順次解体処分することを発表しました。

 

 

先般のボンネットバスの引退と言い、この企業は『効率』という名の錦の御旗を盾に、いくつの愚行を重ねれば気が済むのでしょう。百歩譲って「一部を除いて・・・」ならいざ知らず、10輌全てを対象としているのです。これら大正末期から昭和初期に製造され、日本の近代化に寄与した機関車たちが現存することの価値を全く理解していないと言わざるを得ません。

 

一番上の写真右端に写っているED4001形は、平成21年1月にもともとの出身である東武鉄道に引き取られ、出来得る限り在籍当時の姿に復元され、現在東武博物館で保存されています。こうも鉄道会社によって扱いが異なるものかと、憤懣やる方ない心境です。ED4001形は余り近江鉄道で活躍を果たせなかった分、晩年に幸せを掴めたのでしょう。

 

近江鉄道電気機関車群ED14形(写真中央)は大正15(1926)年にアメリカのゼネラル・エレクトリック社で製造され、国鉄が東海道線電化開業に合わせ輸入。

 

東海道線を皮切りに中央線、飯田線、仙山線で活躍。国鉄で御役御免になった後は輸入された4輌全てが近江鉄道に譲渡されました(3号機は一時期西武鉄道に貸し出されサーモンピンクに塗装されていました)。

 

凸型車体が特徴的なED31形(写真右)は大正12(1923)年に芝浦製作所・石川島造船所で製造され、国鉄/JR飯田線の前身である伊那電気鉄道に入線。その後同社が国鉄に買収され、昭和27(1952)年にED31形に改称。製造された6輌のうち1・2号機が西武鉄道に譲渡され、後に近江鉄道に再譲渡。3~5号機が近江鉄道、6号機が上信電気鉄道に譲渡されました。

 

前述の2形式より一回り小さなロコ1101形(写真左)は昭和5(1930)年に東洋電気・日本車輌で製造され、国鉄/JR阪和線の前身である阪和電気鉄道に入線。その後南海電気鉄道、国鉄阪和線を経て近江鉄道に。低速でのポテンシャルの高さを買われて、長年彦根列車区の入換機として活躍しました。

 

ED14形4号機かつて平成19年(2007)3月に整備された近江鉄道ミュージアム鉄道資料館での保存展示に接した際は、同社の鉄道遺産の価値に対する『本気度』を感じました。

 

しかしその後の維持管理への対応には眉を顰めることも多く、存続に一抹の危惧は抱いておりました。

 

同社では同時に個人・団体を問わず車体単体のみの無償譲渡(輸送・設置費は自己負担)も検討するとも付け加えましたが、この短期間で決断出来る個人・団体が果たして現れるかどうか・・・奇跡に掛けるしかありません(自身にもっと財力があれば・・・本当に悔やまれてなりません)。

 

兎に角彼らの雄姿を眼に焼き付ける機会は来る16日が最後。どうか彼らのこれまでの功績に賞賛の拍手を送ってあげましょう。なお、詳しくはコチラの近江鉄道のイベント告知サイトをご覧ください。

 

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小さい秋み~つけた

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前回、“隠れ”紅葉スポットをご案内致しましたが、皆様晩秋の湖國の情景をご堪能頂けておりますでしょうか。今年の秋は本当に駆け足で過ぎ去っていく様相で、小生は堪能どころか例年より半月ほど早く冬支度に追われる始末にございます(*^_^*)

 

何かと多忙で紅葉狩りに出掛けることが叶わぬ現状ですが、何とか棲家の周辺で『小さい秋』を感じております。

 

晩秋地蔵

いつもお参りしているお地蔵様。

 

何たる偶然か、枯葉とお供えの花で厚着のお召し物を羽織っておられました。

 

しかもここ数日の強い寒気にも関わらず、自生のタンポポの開花。自然の成せる業の如何に珍妙なことか・・・と驚きを禁じ得ません。

 

空の青と、柿の橙。

 

蒼空と渋柿自然の色というのは、何故にこのように『映えるコントラスト』を生み出せるのだろうと感心しきりです。

 

さしもの雑食のカラスですら、食指を伸ばさぬ渋柿。

 

これは木守として朽ちていくのでしょうが、それでも人間は工夫してこれらを食す。人間の積み重ねられた『知恵』は素晴らしいと感服します。

 

手のひらいっぱいのドングリ。

 

手のひらいっぱいのドングリもうすぐ2歳になる小生の愛娘は、ドングリ拾いに夢中!

 

散歩に行く度拾うので、ベビーカーのラックはドングリでいつぱい。

 

小生も付き合わされていますが、小学生以来のイベント。大人になっても意外や楽しいものです(^^)

 

名所巡りも良いのですが、自身の生活圏の変化を見つけるのもまた一興。あなたの周りの『小さい秋』、見つけてみませんか?

 

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