Author Archives: chaos510

大津百町漫歩(4)“関寺の牛塔”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

まだ5月の終盤というのに、いきなり真夏日となったと思いきや、はたまた10℃近く気温が下がったりと、世界情勢と気候変動はリンクしているという奇妙な日々が続いております。皆様お身体に障りはございませんでしょうか。

さて、今回も旧大津宿界隈漫ろ歩きの顛末でございます。

今回も引き続き小野小町に因んだお話となります。

先程の関蝉丸神社下社からまた同じ道を辿って、京阪電鉄京津線・上栄町駅まで戻って参ります。

長安寺 参道

すると山に向けて長安寺への参道の立派な案内石碑に出逢います。どうも今回の漫ろ歩きには『勾配』が憑き物のようでございます(泣)。

関蝉丸神社下社とこの長安寺。実は京阪京津線沿いに直線距離にして200m程度なのですが、残念なるかな直結並走する道が無く、迂回して倍以上の移動を強いられるのです。

傾斜のきつい参道をえっちらおっちら上った先に、時宗 長安寺(じしゅう ちょうあんじ)があります。時宗とは鎌倉時代中期に一遍(いっぺん/1239~1289)によって開創された宗派で、踊り念仏と念仏札で民衆を極楽浄土へと導くことを旨としていました。

県内で時宗の寺院として最も有名なのが長浜市の浄信寺(木之本地蔵)です。

長安寺 本堂

この長安寺はかつてこの地に存在した関寺(せきでら/世喜寺とも)の跡であると伝えられています。

関寺の創建年次は判然としませんが、奈良時代の日本三大仏(大和・東大寺の廬舎那仏/河内・智識寺の廬舎那仏/近江・関寺の弥勒仏)の1つに列し、その大きさは約10~15mに及ぶものであったとか。当時は『関寺大仏』と親しまれ、逢坂山を通る多くの旅人が参詣に訪れたそうです。

小野小町供養塔

また前回の章でも少し触れました通り、老衰零落した小野小町が晩年関寺の近くに庵を結んでいたとする伝説があります。小町の当時の様子を描いた謡曲『関寺小町』では、老いたるもなお優秀な歌人であり風雅で上品な気質を保っていたことを素直に描いています。

『関寺小町』にはこのようなエピソードが謡われています。

或る年の7月7日のこと。関寺の住職が稚児を連れて、寺近くの山影に住む老女の許へ歌物語を聞きに出掛けました。老女は住職の請われるままに歌物語を始めます。語りを聞くにつれ、その言葉の端々から彼女が『小野小町』であることに住職は気付きます。小町は我が詠歌を引いて昔の栄華を偲び、そして今の落魄振りを嘆くのです。寺の七夕祭に案内された小町は、稚児の舞に引かれて我を忘れて舞うのでした。

これを偲び、境内には小野小町供養塔が建立されています。

平安時代中期のこと。『扶桑略記』によれば、天延4(976)年6月18日に推定M6.7以上の大地震(山城・近江地震)に見舞われた関寺は、諸堂宇はことごとく倒壊。弥勒大仏は腰から上を著しく損壊したそうです。

その後ひどく荒廃していた関寺の状況を嘆き悲しんだ、比叡山延暦寺の僧にして天台宗恵心流の開祖・恵心僧都源信(えしんそうづげんしん/942~1017)の発願によって再興が進められることになります。

或る日のこと。三井寺五別所の1つ、近松寺(きんしょうじ)の僧・証阿(しょうあ)が、「先日の夜、夢の中で僧が現れ、『お前は関寺の弥勒仏を拝んだか?未だなれば御仏の怒りに触れるであろう。早々に参り拝むように』とのお告げがあったのでと言って参拝に訪れた。

また奇妙なことに、証阿が夢のお告げを受けたその日に京都・清水寺の僧・仁胤(にんいん)が関寺復興工事の手伝いを始めていた。仁胤は1頭の役牛(えきぎゅう/力仕事に使う牛)を連れてきて、何と6年間に渡り建築資材の運搬に協力しました。

この役牛、毛並みが誠に美しく、力は強く、土や木を運ぶ度に必ず本尊の周りを3回回ったのだとか。加えて手綱が無くとも決して遠くへは行くことのない、所謂『とてもお利口さん』な牛でした。この牛の所作が僧侶がの御堂を右回りに3巡して仏に額づく仏教儀礼にも通じることから、牛仏とも呼ばれていました。

長安寺石造宝塔(牛塔)

万寿元(1024)年のこと。この役牛の噂を聞き付けた時の領主・息長正則が使役させようとしたら、夢で「この牛は伽葉仏(かしょうぶつ/釈迦の十大弟子の1人、摩訶伽葉のこと)の化身で関寺の再興のためだけに遣わされた牛であるから他の使役に使ってはならない」「万寿2年6月2日で入滅する」と告げられたと言います。

この夢告の噂は瞬く間に巷に拡がり、5月16日には「この霊牛と結縁したい」と望む藤原道長・源倫子・藤原頼通・藤原教通を始め数万の人々が参詣したと言います。

5月30日。役牛は2~3回倒れ起きしながらもよたよたと完成した御堂の周りを3回巡り終えると、牛小屋に戻りました。そして6月2日。枕を北にして倒れ伏し、四肢を差し伸ばして眠るが如く亡くなったそうです。

その後、亡骸は関寺の裏山に埋葬され、その場所に藤原頼通によって供養塔が建立されました。それが現在の関寺の牛塔(牛塚とも)と伝えられています。

牛塔は鎌倉時代初期の造立とされ、三角形の基礎石に巨大な壺形の塔身を置き、その上に笠石を乗せた石造宝塔。高さは約3.3mで、石造宝塔としては国内最大にして他に類例のない特異な造形と言われています。彼の随筆家・白洲正子も、この塔をして日本一美しい石塔の1つと絶賛したそうです。昭和35(1960)年2月9日には長安寺石造宝塔として国指定重要文化財となりました。

因みに・・・この霊牛が「近江牛であったか否か」は定かではありません(笑)。

#関寺 #関寺小町 #長安寺  #小野小町 #石造宝塔 #牛塔 #扶桑略記  #源信 #白洲正子  #近江牛

関寺霊跡 時宗 長安寺

 滋賀県大津市逢坂2丁目3番地23
【TEL】077-522-5983

【次回、大津百町漫歩(5)をお愉しみに・・・】

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日々是滋賀日和 “湖國浪漫風土記”にようこそ

~近江の國は歴史の縮図である~

【湖國風土記寫眞】深坂古道(長浜市)

【取材活動に於ける新型コロナウイルス感染拡大抑止に係る行動指針宣言】
令和2年 4月15日 追補
令和2年11月 1日 改訂
令和5年 1月21日 改訂
令和5年 5月 1日 改訂

国内のみならず、世界的パンデミックの様相著しい新型コロナウイルス感染症。小生はこの拡大抑止に日本人としての良心と誇りに掛け、積極的に協力することをここに宣言致します。なお令和5年5月8日付をもってCOVID19が感染症法上の位置付けを5類相当に移行させるに従い、取材活動の部分制限を順次緩和して参ります。また再び大規模な感染拡大が認められた場合は、日本政府、厚生労働省並びに滋賀県が発出する最新の行動指針に則り、感染症の動静を勘案したうえ、感染対策を徹底し、取材活動を自らの指針に則り制限致します。何卒皆様のご理解を賜りますようお願い申し上げます。

滋賀の知られざる歴史、忘れ去られゆく民話、先人たちの偉大なる足跡を後世に伝える渾身の激白(?)徒然紀行。

生まれ育った近江國の風土をこよなく愛する土着民が、“滋賀の郷土史”を皆様に知って戴ければとの想いで書き綴っております。時折・・・しばしば(?)「彷徨」もございますが、ご高覧・ご笑覧賜れば幸いです<(_ _)>

※相互リンク大歓迎です。追手門目安箱よりご連絡戴ければ幸甚です。

管理人:企画室 淡海新田藩 藩主 後藤 奇壹

2012年1月1日 開設


大津百町漫歩(3)“小町塚”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

皆様、前回より約3ヶ月足らずのご無沙汰でございます。年度変りの時期というのは毎度ロクでもないことが起こるものでして、仕事の変化や体調不良。身内の不幸や周辺の様々な喧騒、加えて今回は例年にない激しいアレルギー症状や全国統一地方選挙(?)、おまけにブログ全体に及んでいたシステム障害の是正や貧乏な日々等々、記事を執筆する暇もございませんでした(笑)。で、ようやくすこ~し微速前進出来つつある次第でございます。

さて勿論、今回も旧大津宿界隈漫ろ歩きの顛末でございます。

前回の巻は『小町湯』の名に一抹の疑問を抱きタイムオーバーと相成りました訳でございますが、今回はこれを解決に導くお話(となるハズ)です。

京阪電鉄石山坂本線・びわ湖浜大津駅から距離約1.2km/高低差約40mの勾配を徒歩行軍で心神耗弱という轍を再び踏むのは愚の骨頂・・・ということで、旅のスタートはびわ湖浜大津駅より京津線を1駅、上栄町駅まで乗車して目的地までの2/3の移動をクリアしました。

関蝉丸神社鳥居

上栄町駅から登り勾配の街中を約500m。10分余り歩くと、京阪電車沿線から直ぐ境内へと進入する参道踏切に出逢います。

こういう情景は国内各所にあり、とても風情を感じますね。近隣ではJR草津線の甲賀市沿線や岐阜・西濃鉄道等でも見受けられます。

今回の目的地はここ、関蝉丸(せきせみまる)神社です。

蝉丸とは皆さんよくご存じ、小倉百人一首所載の『これやこの 行くも帰るもわかれては 知るも知らぬも逢坂の関』で滋賀でも馴染み深い、平安時代前期の歌人にして琵琶法師です。

主祭神は上社が猿田彦命(サルタヒコ)、下社が豊玉姫命(トヨタマヒメ)で、交通の要衝であったここ逢坂山(おうさかやま)で旅人の安全を祈念して祀られました。なお蝉丸はこの二柱が鎮座するこの地に住んでいたという縁で、死後に合祀されたとのこと。

関清水社

今回の目的は下社のみ。上社はまたの機会にということで(決して上社が山上に鎮座しているので嫌々避けた訳ではございません)。参道を進むと傍らに小さな祠と井戸があります。

下社はかつて関清水大明神 蝉丸宮と称し、この小さな祠がその名残りを伝えています。

龍神様をお祀りするこの関清水社の井戸は、約半世紀足らずまで豊かな水を湛えていましたが、徐々にその水量を減じ、現在は完全に枯渇しています。令和2(2020)年12月には井戸の掘削作業が実施されましたが、期待に届く水量を得ることは出来なかったようです。

何が原因かは不明ですが、水脈というものは少しの環境の変化でも水量に大きく影響を来しますから、更なる掘削だけでは根本的な解決とはならないのかも知れません。

近年クラウドファンディングで修繕費を募られましたが、目標の半分にも届かなかったとか。祠は新調されましたが、関清水社の前途は依然として厳しそうです。

関蝉丸神社下社 本殿

関清水社の奥に更に厳しい状況に晒されているのが、関蝉丸神社下社の本殿です。

蝉丸が合祀された後、天禄2(971)年に円融天皇(えんゆうてんのう/平安時代中期・第64代天皇)から下された綸旨により、歌舞音曲の祖神としても信仰されるようになりました。  

以後音曲芸道に携わる人々が全国から参拝に訪れ、室町時代以降は関所を通行する際に身分証明となる、また芸人が諸国での興行を保証する大切な免状を発行する役割をも担っていました。

そして現代では、平成27(2015)年から令和4(2022)年まで、「芸能の祖神を蘇らせる」をテーマに、毎年5月関蝉丸芸能祭が開催され、能や雅楽、ジャズに至るまで幅広いジャンルの催し物が演じられていました。

このように関蝉丸神社下社は全国各地の芸人と繋がり、その暮らしを支え続けるという歴史を紡いできました。

しかし時代と共に蝉丸信仰も衰退。加えて正統な宮司家の断絶に伴う長期に渡る宮司不在。氏子の高齢化と氏子離れも相俟って、荒廃の一途を辿ります。

こちらもクラウドファンディングが試みられましたが、関清水社の結果と同様に終わったようです。完全な修繕整備には1億円もの費用を要するとも言われており、信仰の護持が如何に困難であるかを物語っています。伝統と由緒ある文化財がブルーシートに覆われている姿は、とても胸が締め付けられる思いです。

小町塚

ようやくタイトルの本丸に到達です(笑)。本殿の北側の山道を少し進むと、1m程度の自然石の碑があります。

これが小町塚で、塚の下部にはあの有名な「花濃以呂は 宇つりにけりな いたつらに わか身世にふる なかめせしまに」の句が刻まれています。

和漢三才図会』(わかんさんさいずえ/江戸時代中期に寺島良安により編纂された日本の百科事典)によると、小野小町は逢坂山で69歳で亡くなったと記載されています。出生地は鳥居本小野宿(現在の彦根市小野町)だという伝説があり、現在でも小野塚と称する地蔵堂があります。

かつて大津市逢坂2丁目付近には関寺(せきでら)という寺院があり、老衰零落した小野小町が同寺の近くに庵を結んでいたとする伝説があり、その様子は謡曲『関寺小町』に美人の末路の悲哀が伝えられています。

その小町庵が、明治維新以前には境内の御輿庫の裏手にあったとも伝えられています。

大津市大谷町にある月心寺には、小野小町百歳像が安置されています。

あの銭湯の創業者は彼の『関寺小町』になぞらえ、歴史と洒落に長けた人物であったに違いないと小生は信じたいです。

関蝉丸神社下社参道

現在この光景を見ることは出来ません。京阪電車800系は京阪本線一般車両新塗装への統一化に伴い、写真の初期塗装は消滅してしまいました。

琵琶湖をイメージしたパステルブルーとグレーホワイトを主に、染物由来の色であり京津線のラインカラーでもある苅安色(かりやすいろ/黄色)の帯は、一見奇抜に見えて、とても大津の街並みに馴染んでいました。

しかし時代は私達の懐古趣味を置き去りに、どんどん突き進んでいきます。

以前どなたかが「存するために補助を必要とする文化は保護するに値しない」と話しておられたことを記憶しています。当時は「何と冷たい言葉だろう」とは思いましたが、顧みれば最も現実を見据え、的を得ているのかも知れません。

#関蝉丸神社 #関清水社 #蝉丸  #クラウドファンディング #関寺小町 #和漢三才図会 #小倉百人一首  #小野小町 #小町塚  #京阪電車

関蝉丸神社

【上社】滋賀県大津市逢坂1丁目20番地
【下社】滋賀県大津市逢坂1丁目15番地6
【TEL】077-524-2753(滋賀県神社庁:平日9時 ~17時)

【次回、大津百町漫歩(4)をお愉しみに・・・】

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大津百町漫歩(2)“扇塚”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

お陰様で例の新型流行性感冒罹患に伴う蟄居閉門が解かれました。ご心配戴きました諸兄方、またお見舞の電信文を頂戴致しました皆様方、誠に恐悦至極に存じます。この場を借りまして厚く御礼申し上げます<(_ _)>

蟄居閉門中には御神楽にもお越し頂き、我が家の残り邪気を根こそぎ一掃して貰いました。『風立ちぬ、いざ生きめやも』・・・今年も微速前進にて無理せず起動します(笑)。

今回も旧大津宿界隈を漫ろ歩いております。

・・・で、早速壁にぶつかりました(泣)。

高山寺霊園参道

何せ所在を示すキーワードは高山寺霊園(こうせんじれいえん)のみ。佛教史学・國文學者にして叡山学院名誉教授の渡邊守順(わたなべもりみち)先生の著書に記載されているヒントはこれしかないのです。

結局この石碑を発見するのに、国道1号の音羽台地区周辺を30分近くウロウロしておりました。まぁ京阪電鉄石山坂本線・びわ湖浜大津駅から距離約1.2km/高低差約40mの勾配行軍の果てでの徘徊でしたから・・・体力は限界値を示していました。

国道1号の逢坂1丁目東交差点から約50m京都方面へ進んだところに、山手に入る狭隘な坂道の入口にこの石碑を見付けました(因みに自家用車での探索であれば間違いなくスルーしています)。

高山寺霊園内に佇む扇塚

消耗した身体を気合で気持ちを前に引きつつ坂道を登っていくと、奥には広大な墓苑が拡がります。その入口付近の墓石群に埋もれるように、今回の目的である扇塚(おおぎづか)がひっそりと佇んでいます。

さてここで第二の(とても大きな)壁にぶつかります。いつもは現地で資料の裏取り(証拠集め)を行うのですが、ここには由来碑はおろか、案内板1つ無いのです。墓苑ですから聞き込みもほぼ不可能。勿論、あのグーグルマップにも何一つ情報はありません。

実に困りました・・・そこで小生は或る“組織”にダメモトでお力添えを乞いました。

扇塚

以下、その或る“組織”のご協力による扇塚由来の全貌です。

扇塚の碑文及び大正4(1915)年刊行の中村紅雨(著)『大津案内記』から判明した内容は以下の通り(※一部当方の資料の所載内容を交えて記述しています)。  

江戸時代中期の頃、京都でのお話。

五摂家の一つ、九条家の諸大夫(しょだいぶ/九条家の家来のようなもの)である塩小路家出身の塩小路光貫(しおこうじみつつら)という人物が京の都におりました。

光貫には貞代(さだよ)という一人娘がおり、両親が「蝶よ花よ」と可愛がって育てた甲斐もあって大変美しく成長し、その美貌は京の町でも大変評判でした。さらに貞代は秦舞(扇を使用する舞)を好んで得意としており、その艶やかな舞い姿は有名で京の人々に知れ渡っていました。

しかし貞代は寛政7(1795)年6月9日に急な病で夭折。享年17歳。法名は瑞應院夏岳妙槿大姉。愛用していた扇と伝書を埋めてここに塚を建立しました。

当時貞代を愛妾としていた公卿(くぎょう/公家の中でも国政を担う最高幹部の職位)の中山愛親(なかやまなるちか)が扇塚の字を揮毫し、下鴨神社の神官にして和歌の名手であった鴨祐為(かものすけため)が和歌を詠み、これを碑に刻みました。

祐為の和歌 「在し世に このめる舞の 扇をや 志るしの塚の 名に残すらむ」  

歴史書に名を遺す人物では無かったにせよ、17歳の少女への追善供養に当時これだけの権威者が名を連ねたことは最高のはなむけではなかったでしょうか。

因みに、何故貞代の供養碑がここ大津に建立されたかについては未だ以て謎とのことです。

今回の取材で当方の趣旨にご賛同賜り全面的なご協力を戴きました或る“組織”とは・・・大津市歴史博物館さんです。突然のお願いに快く且つ迅速に調査と情報提供を賜りました。この場を借りまして厚く御礼申し上げます<(_ _)>

小町湯

兎に角、ここの取材が今回の大津漫ろ歩きで、現地取材・情報収集・体力消耗ともにハードルの高いスポットでした。「漫ろ歩き」どころか、これはもう「探検」レベルでした(笑)。

へとへとになって里に下りてきましたら偶然にも銭湯を発見!

「ここはひとっ風呂浴びて、スッキリしたい!」・・・という想いをグッと堪えて帰還の途に。残念ながら帰還阻止限界時間に到達してしまったのでした(泣)。

「それにしても、ナゼに“小町”湯?」との後ろ髪惹く疑問の答えは次回のお愉しみということで。

#高山寺霊園 #扇塚 #貞代  #塩小路光貫 #中山愛親 #鴨祐為 #大津案内記  #銭湯 #小町湯  #大津市歴史博物館

【次回、大津百町漫歩(3)をお愉しみに・・・】

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大津百町漫歩(1)“犬塚の欅”の伝説

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今年に入り、何となく運気が上向いてきたかなと喜んでいたのも束の間、遂ぞあの新型流行性感冒に罹患してしまいました(泣)。これまで十分感染対策には留意してきたつもりでしたが、ここまでくると感染経路すら思い当たりません。

ワクチンも4回接種済ですが、飽くまでも『感染抑止』ではなく『重症化予防』のためですし、これだけ市中感染が日常化していれば致し方ないのかも知れません。

どうやらこの春にも5類に分類される見込みとか。各種支援体制も廃止・軽減されることも想定されるならば、ある意味今のうちの罹患は“不幸中の幸い”と考えられるのかも。何はともあれ皆様、「色々な意味」でお気を付けください。

大津宿【東海道五十三次】

さて何時もの戯言はこれくらいにして、今回は久方振りに大津市を訪れています。

もともと滋賀自体が古より国内屈指の交通の要衝だったのですが、特に大津は東海道が横断するうえに、北は越前國(現・福井県)より北國街道(西近江路)。南は京・伏見より大津街道。そして琵琶湖の湖上舟運の最大拠点・大津湊を擁する一大インターセクションでした。

戦国時代より街は急速に発展し、江戸時代には東海道53番目の宿場町・大津宿が整備されます。最盛期には百ヶ町、人口約1万8千人の一大都市にまで成長。これは東海道沿道の宿場町としては最大の規模を誇りました。

その物流の拠点として栄華を極めていた街の様相は、当時大津百町と表現されました。今回はその『大津百町』にひっそりと佇む伝説を探しに漫歩(そぞろあるく)ことと致しました。

なお大津市は今現在に至っても都市整備や宅地開発の新陳代謝が激しいため、現況が取材時より大幅に変化している可能性があります。その点は予めご了承ください(取材もこの点が最大の苦労なのです)。

犬塚の欅

日本赤十字社大津赤十字病院の正面玄関前から南下すること約50m。住宅地の一角に忽然と大きな欅(けやき)の老木に出逢います。

地元では犬塚の欅(いぬづかのけやき)と呼ばれ親しまれています。この老木、枯死している訳ではございません。春から夏に掛けて今でも青々とした緑樹の姿を見せてくれます。

推定樹齢600年のこの欅は、昭和40(1965)年5月6日に大津市の天然記念物に指定されています。

蓮如

時は室町時代中期、文明年間(1469~1487)の頃のこと。本願寺(浄土真宗)中興の祖にして本願寺第8世宗主(門主とも)であった蓮如(れんにょ)は、他宗門からの迫害を受け京より逃れ、他力本願の念仏の教えを広めるため、当時この近辺に居を構えていました。

これを伝え聞いた近隣在郷の多くの善男善女が蓮如の下を訪れ、その教えに触れ次々と信者となっていきました。

しかしその人気振りを快く思わぬ人々がいました。比叡山に本山を擁する天台宗の僧侶たちです。浄土真宗の信者が日の出の勢いの如く増えていくのに対し、天台宗の信者は風前の灯火如き有様。己たちの足元を顧みずこの状況に怒りを覚え、その果てに蓮如の殺害計画を企てるまでに至ります。

さて、蓮如には日頃我が子のように可愛がっていた1匹の犬がおりました。

犬塚

或る日のこと。どうしたことかその犬が、この日に限って蓮如に用意された食膳の傍を一向に離れようとしません。それどころか、蓮如の袖をくわえて食膳から引き離そうとします。蓮如にはその動作が何を意味するのか、全く理解出来ませんでした。

「おかしなことをするものだ」と蓮如が箸を取ろうとしたその時、突然その犬が食膳をひっくり返してその御飯を食べてしまいました。

するとその犬はたちまち悶え苦しみ、何と血を吐いて死んでしまったのです。蓮如はそこで初めて、その犬が食膳に毒が盛られていることを知らせようとしていたことに気付くのです。

蓮如は自責の念に駆られ、自身の身代りになった犬を自宅近くの藪にねんごろに葬りました。そして埋めた墓の傍に欅の木を植えたと伝えられます。また犬塚の碑はそのエピソードを聞いた信者によって、犬の忠誠を偲んで建立されたと言われています。

忠犬の墓が建立された頃にあったとされる藪も、今は痕跡すら残っていません。また安全と保全のためと思しき柵も設置されています。いまや周囲の風景から浮いた存在・・・いや埋もれた存在となりつつあります。

もし『徒然草』の作者・卜部兼好(吉田兼好)が今の世に甦ったら、こう言うに違いありません。“この柵 無からましかばと 覚えしか”とね(笑)。

#大津百町 #大津宿 #犬塚  #犬塚の欅 #大津赤十字病院 #蓮如 #東海道  #吉田兼好 #徒然草  #忠犬

【次回、大津百町漫歩(2)をお愉しみに・・・】

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謹賀新年 天上天下唯我独尊 2023

、明けましておめでとうございます。

【湖國風土記寫眞】琵琶湖大橋からの夜明け

お陰様を持ちまして「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」は、本日で開設11周年を迎えました<(_ _)>

昨年は 虚心坦懐の1年 でございました。今年は捲土重来の1年として邁進いたす所存でございます。本年も相変わりませぬご贔屓、並びにご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます<(_ _)>

今頃極寒の中、地元氏神様の元旦祭に参賀している・・・ハズです。無論、今年も感染対策と“physical distance”を万全に整えて・・・デス(^^)v

#謹賀新年 #天上天下唯我独尊 #令和5年 #捲土重来  #開設11周年 #元旦祭 #physical distance

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令和肆年 感恩戴徳

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

令和の世となり4度目の1年が、まもなく終わりを迎えようとしています。

往く年来る年

本年の12月も日本海側から北海道に掛けて近年稀に見る強い寒気に襲われ、記録的な積雪とそれに伴う自然災害に見舞われました。昨年の今頃は小生も同じような思いをしただけに他人事とは思えません。被害に遭われた皆様に心からお見舞い申し上げます。

幸いにも積雪は未だ然程ではありませんが、その代わりに『底冷え』が凄まじく、このエネルギーの高騰の情勢も相俟って、様々な意味で非常にお寒い冬を過ごしております。

さて皆さんにとって今年はどのような1年でしたでしょうか。『新型コロナウイルス感染症』パンデミックに翻弄されて早4年。世界中がすっかりコロナ禍に疲弊してしまいました。

おまけに2月に勃発したロシアの侵攻によるウクライナ戦争。またこれを発端とした世界的政治混乱。物価と燃料の急激な高騰と円安。そして前例なき更なる気候変動と自然災害・・・。

神は一体、この地球を、この世界を、人類をどのような結末へ誘おうとしているのでしょうか・・・。

また今回も小難しい話に陥ってしまいました。では話題を変えましょう。小生の今年の三大事件(?)は・・・


①2月17日と4月1日に艱難辛苦な出来事が勃発し、現在でも心身ともに体調不良を来す事態に陥ることに。
②世界情勢の混沌によるスタグフレーションに伴い大幅に家計が圧迫。
➂二女が初等教育課程へと進學。


・・・といったところです。結局殆ど『不景気』な出来事ばかりでした。

でも何とか最悪の事態を逃れ、家族全員が愉しく健やかに、この世の片隅でひっそり大過なく暮らせたことは喜ばしい限りです。『全てに真摯、全てに奉仕、全てに感謝』の姿勢により、今年も多くの人に支えられ、守られ、助けられて生かされました。

この『戦』の一年、大変お世話になり誠に有難うございました。来年も何卒ご指導ご鞭撻、そしてご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。

#感恩戴徳 #往く年来る年 #新型コロナウイルス  #ウクライナ戦争 #物価高 #円安 #艱難辛苦  #スタグフレーション #戦   #全てに真摯全てに奉仕全てに感謝

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天空の里山 again “屏風”紀行(後篇)

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引き続き、天空の里山 again “屏風”紀行をお届け致します。

編集者時代の下記の記事も併せて御覧賜れば幸甚です。

>>>>天空の里山紀行(2)屏風集落”

アップダウンの激しい町道屏風線を歩くこと約30分。ようやく景色が開けて、屏風の集落に到着。当初は気温も低く曇天の極みであった天候も、徐々に好転してきました。

屏風集落(1)

驚きのファーストインプレッション。最初の訪問から約四半世紀が経過していたのですが、当時の縁(よすが)をほぼ留めていました。「時が止まったよう」とは正しくこのこと。

かつて採薪・薪炭が主要産業であった様子も、令和に至っても十分過ぎる程伝わる情景が保たれていたのには誠に喜ばしく感じました。

集落の中心を通る道を歩いていると、明らかに通常のアサガオとは大きさの異なる、でもアサガオに似た見慣れぬ花を集落のあちこちで発見。

チョウセンアサガオ

おまけにハリセンボンの赤ちゃんのような種子もゴロゴロ。あとで調べましたら、チョウセンアサガオという名の外来植物でした。

インド原産で副交感神経に作用する毒性を持つこの植物。江戸時代に鎮痛薬の原料としてもたらされ、その後本州以南全域に帰化・野生化したようです。

なぜこのような山奥に自生しているのか。ここで薬種の産業が起こされたとは聞き及んでいませんので真相は不明です。

まずはともあれ、『知らないものには触らない』という普段の教訓だけは活かせたようです(笑)。

屏風集落(2)

集落はこの道を境界として、両側に住宅が点在しています。

無住集落ですから少なからず荒廃した箇所は認められますが、多賀・彦根周辺の廃村の中では比較的状態よく保たれています。

前回はこの界隈を訪れなかったのですが、恐らくその当時とそう大きく変わっていないと推察します。今でも人が出てきても何ら不思議はありません。

円徳寺

集落の中心部に位置する屏風唯一の寺院・円徳寺(えんとくじ)。

浄土真宗本願寺派の寺院で、創建は江戸時代初期の寛永4(1627)年。もとは彦根藩領の平田村(現在の彦根市平田町)に在する妙法山明照寺(みょうほうざん めんしょうじ)下にあった道場でした。しかし明照寺は円徳寺開山当時、まだ北面に隣接する集落の後谷にあったのです。

因みに小生も明照寺さんとは少なからず御縁がございます。

明治2(1869)年に集落を襲った大火によって円徳寺は全焼。その後再建されましたが、現在の堂宇は近年改修されたものと考えられます。

屏風地蔵尊

寺院の直ぐ西側に鎮座する地蔵堂。

円徳寺もそうですが、無住集落となった後でもかつての住民や檀家によって今なお大切に守られていることが窺えます。

明治の大火の際に全ての資料が焼失しているため、この集落の起源は全く解りません。ただ地名は中世から存在していることが確認されていることから、『落武者』や『隠棲貴族』の隠れ里ではないかとは容易に想像出来ます。

小生的には地蔵堂に合祀されている大黒天の存在がとても気になります。

屏風集落(3)

この道を進むと、東面の集落・甲頭倉(こうずくら)や旧芹谷村の役場や学校へと繋がります。当然のことながら自動車は通行出来ません。

実は屏風集落には興味深い謎が存在します。

それは他の集落に比して、①瓦屋根の家屋が多い②焼杉板で土壁が補強されている➂土台の石垣が強固で高いという特徴があるのです。

この周囲の山村の中でも規模が小さいにも関わらず、石灰鉱山という“昭和のゴールドラッシュ”というバブルがあったにせよ、寺院や家々の現状を見ても、そもそもここはとても裕福な村であったのではないかと思えます。

屏風集落からの湖東平野眺望

もう1つの謎。それはこの眺望にあります。

ここは集落の集団墓地がある高台。ここからは芹川渓谷を通して湖東平野への視界が開けるという、とても珍しい地形なのです。

また屏風は標高約400mの高地なのですが、他の集落の大半が山や川に貼り付く、または山の頂に位置するりに対し、ここだけは集落が小さな盆地になって外界から隔絶しているという特徴もあります。

ロマンティックに考えれば、中央を追われた人々が外界からの隔絶が必要であるものの、かつての栄華が忘れられず、過去に想いを馳せることが出来るこの地に居を構えた。

或いはこの高台を哨戒拠点とし、集落を守り且つ有事に打って出るための小規模な要塞都市であった。

兎も角、色々と考えを巡らせることが出来る場所であることは間違いないようです。

糸切餅ひしや

様々な可能性に愉しみを持ちながら、山を下りて参りました。

そして多賀を訪れたら必ずここに立ち寄っています。現在糸切餅を全て手作りで提供されている唯一の老舗、ひしやさんです。コロナ禍の影響でエクスパーサ多賀(下り線)から撤退されましたが、今でも細々とその素朴な味わいを守っておられます。

多賀は「変わって欲しくないものが変わらず残る町」として、小生の心を癒してくれています。

【取材協力】 MT TRADING

#屏風 #チョウセンアサガオ #円徳寺 #地蔵尊 #湖東平野 #糸切餅 #ひしや #限界集落 #過疎 #多賀

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天空の里山 again “屏風”紀行(中篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、天空の里山 again “屏風”紀行をお届け致します。

編集者時代の下記の記事も併せて御覧賜れば幸甚です。

>>>>天空の里山紀行(2)屏風集落”

ここで進路を180度回頭。桃原口を後にし、県道239号(水谷彦根線)との交点を目指して県道17号(多賀醒井線)をひたすら西進。

1.6kmも走れば合流出来る筈なのですが・・・行けども行けども中継点には到達せず、何やら見たような景色に再び出逢うことに。

多賀町役場 後谷出張所(平成15年当時)
多賀町役場 後谷出張所(平成15年当時)

交点の角地にはこの写真の建物があるので、これを視覚的目標としていたのですが・・・「芹谷ダムが実現していたらこの辺りの景観も大きく変化していただろうなぁ」などと景色を眺めながら運転していたためか、何と交点を通過し3kmもオーバーしていたことが発覚。皆様、「漫然運転」にはくれぐれもご注意を!

実はこの建物、旧芹谷村・旧脇ヶ畑村が多賀町に併合後、この地域の町民の行政サービス提供のために整備されたものなのです。然し急速な人口減少に伴い、業務縮小の一環として平成に入り程なくして閉鎖されてしまいました。

多賀町役場 後谷出張所跡
多賀町役場 後谷出張所跡

平成16(2004)年3月。当時本格的にスタートした芹谷ダムの整備事業の影響で芹谷分校と共に解体されたと風の噂には聞いていたのですが・・・まさかここまで周囲の光景が変わっていようとは思いもしませんでした。

20年の時代の移ろいで、益々人の営みの痕跡が薄らぎ、再び静かな自然へ還ろうとしています。

20分程のタイムロスを喫しましたが、即座に計画を練り直し、再びもと来た道を戻ります。何せ山間部での活動に於ける想定外のタイムロスは「命取り」ですから・・・。

スバル プレオバン
スバル プレオ バン (初代)

編集者時代の取材に使用していた愛機はカローラバンでした。軽量で汎用性の高い車輛でしたが、如何せん馬力もトルクも低く山岳路には全くと言っていい程不向きでした(当然と言えば当然ですが・・・)。

今回は当時もお世話になったMT TRADINGさんのご協力で、「小型・軽量・高トルク」の三拍子に加え、「高旋回性・低燃費・充実装備」を兼ね備えたスバル・プレオ バンを借用。以前の取材に比して、高いアドバンテージを得ることが出来ました。写真の車輛がそれですが、とても初年度登録から数えて20年・走行約11万kmのロートルとは思えぬ素晴らしい性能を発揮!!見事タイムロスをカバーしてくれました。

スバルがこのような素晴らしい技術力を持ち備えながら、軽自動車の自主開発から撤退したことは実に惜しいことです。

後谷・屏風分岐点
後谷・屏風分岐点

県道239号(水谷彦根線)に進入したのも束の間、約200mを走行して、ここから多賀町の町道水谷後谷線に入り、ここからドライビングテクニックを問われる山間の酷道に入ります。

「暗い・狭い・滑りやすい」に加え、「落石多数・対向箇所少・悪路盤」な約2.5kmを何とか駆け抜けると、町道後谷線と屏風線の分岐点に到着。

ここは以前と全く変わらぬ風景。少しホッとしました。因みに水谷は“すいだに”、後谷は“うしろだに”と読みます。

多賀町道屏風線起点
多賀町道屏風線起点

分岐点からヘアピンぎみに町道屏風線に進入して、おっと急ブレーキ!!!!!。

以前には存在しなかったチェーンによるバリケードが設置されているではありませんか。当時は東隣の集落である甲頭倉(こうずくら)に設置されていましたが、まさかここもとは・・・。

限界集落や過疎、廃村が昭和末期からの社会問題として取り上げられ出した頃からの弊害であった私有地並びに無住家屋への不法侵入。それに伴う窃盗や破壊活動が今でも行われている現実をこのような形で突き付けられようとは・・・日本人として実に嘆かわしいことです。

プレオを邪魔にならない場所に駐車し、装備を整え、ここからは徒歩で屏風集落へ向かうことと致しました。

屏風集落口
屏風集落口

集落まであと僅か550mの行程だったのですが・・・当日肌寒い天候であったのにも関わらず、全身から汗は噴き出すは、息は上がるは、眼は眩むはで、何と30分も要することに。自動車なら僅か3分で到着する距離なのですが・・・普段の運動不足を痛感。文明の利器に頼り切った生活に溺れている現実に反省しきりです(苦笑)。

集落まではずっと上り坂だと思っていたのですが、途中から下り坂に。徒歩で向かったことで、ここがとても小規模の盆地であったことに気付くことが出来ました。まさに鈍足の奇蹟!

そしてようやくあの懐かしの情景に、約20年振りの対面を果たすこととなるのです。

【取材協力】 MT TRADING

#屏風 #後谷出張所 #屏風線 #後谷線 #水谷後谷線 #スバル #プレオ #限界集落 #過疎 #多賀

【後篇に続く】

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天空の里山 again “屏風”紀行(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

フジテレビのバラエティ番組『何だコレ!ミステリー』での現地紹介を契機として、爆発的に好評を博した『天空の里山紀行』シリーズ。

小生はかつてとある情報誌の編集兼法人営業を務めていた頃。滋賀の限界集落の特集を提案し、その取材にあたっていました。彦根や多賀の山奥に初めて赴いて、あれからもう23年の月日が経過しました(あの頃は仕事が楽しかった~)。

当初は県内全域の限界集落を取材する予定でしたが、様々な制約があり結局は実現しませんでした。また誌面での紹介が叶った村落も、限られた時間の中での取材で満足に見分出来なかったのもまた事実でした。

あれから約四半世紀の歳月が流れ、その様々な『縛り』も解け、くだらないモチベーションへの固執にも価値を見出さなくなった(笑)今、ふと我が子に『昭和の栄枯盛衰の実状』を見せてやりたいと思いました。編集者時代にじっくりと取材が叶わず、でも未だ印象に残る場所を再び訪れようと思い立ちました。

今回は多賀町北部に位置する村落・屏風(びょうぶ)を再び訪れ、3回に渡りその紀行をお届け致したいと存じます。なお編集者時代の記事も併せて御覧賜れば幸甚です。

>>>>天空の里山紀行(2)屏風集落”

まずは県道17号(多賀醒井線)を国道306号の交点からひたすら東進。因みに平成5(1993)年に当時の建設省から主要地方道に指定されますが、未だに霊仙山系越えの部分は未供用で車輛の通り抜けは不可能となっています。

屏風岩

国道306号の交点から4km余り。ここから集落の名称の由来ともなっている屏風岩(びょうぶいわ)を眺めることが出来ます。

標高差約50m、幅約200m、傾斜角約100度。滋賀・京都周辺では唯一の石灰岩の岩場で、中級者のクライマーには人気のスポットとか。ただ石灰質ということもあり、崩落の危険性をはらんでいるのは今も変わりないようです。

さてここからもと来た県道を300m程度戻ると、大量の盛土が置かれた広場に出逢います。

多賀小学校 芹谷分校跡

ここはかつて分校があった場所。平成16(2004)年3月に解体されるまで、僻地学校の雰囲気をよく留めていた建築物として名の知れた多賀小学校 芹谷(せりだに)分校がありました。

多賀小学校 芹谷分校(平成12年当時)

勿論、屏風集落に住まう子供たちもかつてはこの学校に通っていました。

平成2(1990)年には総児童数が7名にまで減少し、平成5(1993)年3月本校への統合に伴い閉校。子供たちの声が聞かれぬようになった後も、春には桜が咲き乱れ、いつでも子供たちを迎えられるような光景を私たちに魅せてくれていました。

11年待ち続けた校舎。然し終ぞその願いは叶いませんでした。

下ノ地蔵尊

今となってはこの下ノ地蔵尊だけが、この芹谷の歴史を知る唯一の生き証人といっても過言ではないでしょう。跡地には分校を偲ぶ石碑も案内板も一切なく、寂しい限りです。

さらにここから戻ること300m。建設会社の資材置場と僅かばかりの空地があります。

多賀小学校 後谷分校跡

ここはかつて芹谷分校の前身である多賀小学校 後谷(うしろだに)分校があった場所です。

驚きなのはこの猫の額の如く狭隘な土地に、昭和16(1941)年11月に発足した多賀町以前に存在した芹谷村の村役場(合併後は多賀町後谷支所)や駐在所も併設されていたことです。

この分校の歴史は古く、明治10(1877)年創立。明治22(1889)に発足した芹谷村の小学校に。明治42(1909)年に校舎が全焼し、翌年新校舎が落成。残念ながらそれまでの資料が全て焼失してしまったとか。

そして昭和16(1941)年には総児童数が141名を数えました。このような土地ですから運動場はなく、資料には「甲頭倉川原にて運動会開催」との記述もあり、芹川の河原をグラウンド代りにしていたようです。

桃原口の芹川

またこの周辺は桃原口(もばらぐち)と呼ばれ、芹川対岸の山地にあり『多賀牛蒡』の一大産地であった集落・桃原に車輛通行可能な道路が整備されるまで、芹川で分断された芹谷村内の人流の交点となっていたようです。

更に桃原には大東亜戦争後、冬季にスキー場も整備されたので、生活そして交易やレジャーで多くの人の行き交う姿が見られたように推察致します。

昭和33(1958)年のとある夜のこと。屏風岩近辺の裏山から重量100kgにも及ぶ大規模な落石が発生し校舎を直撃。幸いにも人的被害はなく、建物への被害も部分的なものに留めました。しかし学校関係者並びに保護者の被った心理的衝撃は殊の外大きく、繰り返し裏山の岩石の除去作業が行われました。然し根本的な解決には至らないということで、昭和37(1962)年12月に名称も変更されて現在の場所へ移転新築されました。

本校からは少し遠くなったものの、落石のリスクも軽減され、新たなスタートを迎えることとなった芹谷分校ですが、待っていたのは急速な過疎化の波であったなどと、当時は知る由も無かったでしょう。

さてここから、屏風集落の本丸へと舵を切ります。

【取材協力】 MT TRADING

#屏風 #屏風岩 #芹谷分校 #芹谷村 #芹川 #後谷分校 #多賀牛蒡 #限界集落 #過疎 #多賀

【中篇に続く】

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