Author Archives: chaos510

歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説(番外篇)


「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」
に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

本来ならば、歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説シリーズは前後篇で完結する予定だったのですが、色々と調査をしている過程で奇妙なネタを発見しました。よって今回はその“ 奇妙なネタ ”を番外篇としてお届け致したいと存じます。

さて皆さん、神代文字(じんだいもじ/かみよもじ)というものをご存知でしょうか?

『広辞苑』等の文献によりますと・・・詳しく引用しますと頭がクラクラしますので、簡単に要約致します。つまり日本に漢字が渡来する以前の古代に使用されていたとされる文字、もしくは文字のようなものの総称です。どのようなものかと申しますと、以下の写真をご参照ください。

水茎文字

象形文字のような、ハングル文字のような、奇妙奇天烈な文字です。神代の文字の可能性として初めて言及したのは、鎌倉時代の神道家・卜部兼方(うらべかねかた)の『釈日本紀』 で、以降江戸時代にブームとなった尚古思想(価値ある生活は古代にあるとして、古代の文献・制度を模範とする中国の支配的な思想)の風潮もあり、当時多くの国学者により様々な神代文字が提唱・議論されました。

現代に於いてその真贋は定かではない・・・というよりは寧ろ、残念ながら『非存在説が有力』『オカルト信奉者の興味対象』とされています。

そのオカルトチックなものに、何と“水茎の岡”が関係するものがあるというから驚きです(それが先程の写真のモノ)。

大石凝真素美

それは水茎文字と 呼ばれる文字です。 以下はNPO法人地球ことば村様の記述を引用致します。

国学者・中村孝道(1818~1844)が音声の配列のために作り出し、後に大石凝真素美(おおいしごり ますみ/1832 ~1913)が天津金木学(あまつ かなぎがく)という独自の行法によって感得したという文字。天津金木は積木状の木片の 6 面を白・黒・青・緑・赤・黄に塗り分けたもの。この配列・運用によって森羅万象が表現できるばかりか、未来の予測まで可能になるという。「水茎」というのは木を組み合わせるという意味の「瑞組木」に、古語で筆・筆跡・書簡を意味する「みずくさ」をかけての命名である。 水茎文字には不思議な伝説がある。滋賀県近江八幡水茎町にある岡山の山頂から見下ろす琵琶湖は景勝地として知られ、「水茎の岡」として万葉にも登場する歌枕の地である。大石凝によると、天気のよい日にこの岡に登り、湖面をみるとそこに刻々現われては消える水茎文字(波紋)が観測されるという。

以上サイトの文面そのままを掲載致しましたが、「滋賀県近江八幡水茎町にある岡山の山頂 」という記述につきましては、「滋賀県近江八幡市牧町にある岡山の山頂」であることを指摘しておきます。

水茎の岡からの琵琶湖眺望

早速、水茎の岡に登って湖面を見渡してみたのですが・・・

山は結構な荒れようで、なかなか琵琶湖を望める場所もなく、ようやく見つけた箇所もこの有様。 文字が見えなかったのは、天候がいまひとつだったのか、或いは小生の研究者(?)としての精進の足りなさの為せる業なのでしょうか(苦笑)。

そんな様々なエピソードに彩られた、ここ“ 水茎の岡 ”。周辺で活発なウインドサーフィンも季節的にそろそろ一段落でしょうから、一度散策されてみては如何でしょうか。

■参考サイト NPO法人 地球ことば村

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

前回に引き続き、歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説の後篇をお届け致します。

さて古(いにしえ)の御代より、一級の景勝地として名を馳せてきた水茎の岡でしたが、中世に入るとその立地条件からキナ臭い様相を呈してきます。

琵琶湖岸に迫り出した立地が天然の要害として適地であったことから、南北朝時代に入ると南近江の守護大名・六角氏の湖上警備の拠点として城砦が築かれました。

室町時代後期の永正5(1508)年8月。現在の近江八幡にあたる地域を治めていた土豪であり六角氏の被官(ひかん/守護大名に従属する独立した領主)でもあった九里信隆(くのりのぶたか)によって、本格的な城郭が整備されます。

水茎岡山城跡

これが水茎岡山城(すいけいおかやまじょう)です。また尾山を中心に縄張り(なわばり/城郭の配置・構成)が敷かれたことから、別名・尾山城とも呼ばれました。

時を同じくして、室町幕府第11代将軍・足利義澄(あしかがよしずみ)は、クーデターによって将軍職(10代)を追われた従兄弟の義尹(よしただ)が、周防國(現在の山口県)の戦国大名・大内義興の後ろ盾を得て勢力を再び拡大。上洛を企図していることを知り、保身のため逃亡を企てます。

義澄は自身の計らいで守護職に復帰した義父の六角高頼を頼りますが、後に信隆のもとへと逃れます。信隆は城内に御所を用意して義澄を迎え入れ、家臣・領民ぐるみで奉迎し、生涯不変の忠誠を尽しました。

義澄逃亡の後、将軍職に復した義尹改め義稙(よしたね)を何とか排すべく、京へ義澄派の軍勢を送り込んだり、義稙の暗殺を謀ったりしましたが、ことごとく失敗。

水茎岡山城合戦【NHK時代劇『塚原卜伝』より】

永正7(1510)年3月には義稙より義澄追討の命を受けた7千(一説には2万)の軍勢が水茎岡山城を包囲しました。城を守る手勢は僅か5百。多勢に無勢と思われましたが、地の利を活かした戦いが功を奏し、3千の敵を殲滅。大勝利を収めます。 これが世にいう水茎岡山城合戦 です。

翌年3月には待望の嫡男・亀王丸が生誕。そして再起を図るべく京への反攻の狼煙を上げた8月14日の朝、義澄は突然の病を得て亡くなります。享年30歳。余りにも早すぎる死でした(暗殺との説もあり、また亀王丸生誕並びに義澄逝去は現在の高島市朽木町との説もあります)。

義澄逝去の後、六角氏と九里氏は険悪な状態となり、永正11(1514)年に信隆は高頼により謀殺。六角氏はかつて敵対していた義稙への帰順を意志を表明するのです。信隆亡き後は嫡男の浄椿(じょうちん)が継ぎ、六角氏との抗争を繰り広げます。浄椿も父に違わぬ名将で、永正12(1515)年9月の六角氏による大攻勢を見事に撃退しています。

しかし長きに渡る六角氏との戦いにも、遂に終止符が打たれます。

名勝水茎岡碑

永正17(1520)年7月。浄椿は高頼より家督を継いだ次男の定頼(さだより/嫡男の氏綱は早逝)率いる軍勢による奇襲を受け、40日間籠城戦を展開しますが、数百人の餓死者を出し落城。浄椿は辛くも落ち延びます。

そして大永元(1521)年12月。義澄の遺児、亀王丸が12代将軍(義晴/よしはる)に就任したという知らせを聞いた浄椿は、己が使命を全うしたと悟り自害。実質的に九里氏は滅亡しました。13年に渡る水茎の岡を巡る激動の歴史は、静かに幕を閉じたのです。

ちなみにこの尾山の麓にある「水茎の岡」の碑から登山道がありますが、途中からかなり険しい道程となっており、また如何せん「中世の城」跡ですから土塁と堅堀中心の遺構となります。「ちょっと寄り道」といった探訪にはおススメ出来ませんのでご注意を!

なお頭山に存在した本丸の遺構は独立行政法人水資源機構による造成工事で、義澄の御所跡と想定される遺構は湖周道路の整備で残念ながら失われてしまいました。好景気の時代の開発は、実に節操がないものです(ー_ー)!!

最後に全く異なるエピソードを1つご紹介致しましょう。

水茎の岡全域は、近江八幡市牧町(まきちょう)に属します。

このという地名ですが、その昔、天智天皇がここに牧場を整備したのでその名が付いたと伝えられています。湖に島が浮かび、草原に馬たちが戯れている・・・そんな光景を想像してみると、やはりこの地は一級の景勝地であったに違いない・・・そう感じます。

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


閑話徘徊“滋賀にもこんなシャレの効いた酒があったなら・・・”

「湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

2月13日の記事で『滋賀の地酒を勉強中』と綴っておりましたが、その後色々な蔵元さんの日本酒をチョビチョビではありますが試させていただいております。

ただ残念ながら、どうも小生の嗜好に合う地酒に出逢えない現状です。米どころでもあり、水にも恵まれ、地勢的には絶好の酒どころ。そして小生は根っからの土着民。出逢えないのが不思議です。

最近地酒が世間で話題になったり、メディアに取り上げられたりする機会も増えて参りました。蔵元さんが新しい試みに挑戦されたり、観光客やファンを取り込むために様々なイベントや施設の整備に注力されていることも増えました・・・でもなぁ・・・ というのが正直な気持ちです。

これは飽くまでも私見ではありますが、 ひょっとするとそういう傾向を目の当たりにすると、途端に自身の嗜好のモチベーションが低下してしまっているのではないかなどと勝手に分析しております。

それはさておき、今回久し振りにまとまったお休みが取れたので、可能ならば手に入れたいと思っていた日本酒がありました。通販で入手することも出来なくはないのですが、何せ流通量が少ないので、蔵元さんのある地元でと考えておりました。銘柄はズバリ『 死神 』です。

予想通り、地元でも特約店でしか流通していませんでした。喜び勇んで会計に向かおうとしたその時、奥の商品棚の一角に何やら怪しげなラベルの一升瓶が・・・。

特約店の方に伺ったところ通称『裏死神』と呼ばれる正統派の純米大吟醸(責め酒)で、本家・死神とは全く異なるアイテムとか。流通量は本家よりも僅少で、その中でも全国的にメジャーな酒米・山田錦バージョンと、地元の蔵元さんだけで使われている酒米・佐香錦 バージョン があるとのこと。加えて後者はさらに流通量が極少で、今年はもう在庫限りだと言われました(※因みに蔵元さんのホームページにも紹介されていませんでした)。

ウラシニガミ

そう言われれば入手するしかないっ!と、死神を断念していきなり裏世界に入り込んでしまいました(笑)。

「要冷蔵で保管には注意してください」とのアドバイスをいただいて、慎重に持って帰って参りました。まだ開栓しておりませんが、とても愉しみです。本家・死神が「 枯葉色でサエも良くない 、でもハマれば“病み憑き、憑りつかれそうな旨さ”」とのことですので、ひょっとするとその反対ですから『幸福感に包まれた御仏のような旨さ(?)』なのかも知れません(※特約店さんも余りに流通量が希少なため試飲したことがないとのことでした)。

日本酒初心者の小生ですが、不躾ながら『こういうシャレの効いた、でも中身は全く破綻、妥協のない酒が滋賀にもあったなら』としみじみ思うのです。他県の居酒屋さんに滋賀の地酒がラインナップされていることが少ない一因も、こういうところにあるのやも知れません。

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今回は水茎の岡(みずくきのおか)の伝説について、前後篇に渡ってご紹介したいと存じます。

近江八幡市西部の琵琶湖畔に岡山と呼ばれる小高い山があります。湖畔沿いにある山は、原則隧道(トンネル)貫通・開削・迂回で整備されている湖周道路にあって唯一「山越え」を強いられる箇所ですので、何となくご記憶があるかと存じます。

岡山

この岡山はパッと見た目は1つの山なのですが、琵琶湖畔に隣接する西端の頭山(左側)、最も高い中心部の尾山(標高187.7m)、東端の小山の3つの峰で構成されています。

かつては水茎内湖(すいけいないこ)の中にあり、四方を湖水で囲まれた小島でしたが、大東亜戦争後の干拓事業により現在の姿になったようです。

岡山はかつて水茎の岡と呼ばれていました。古くは飛鳥~奈良時代に編纂された萬葉集から、平安時代に編纂された古今並びに新古今和歌集に、この地を題材とした歌が四十有余残されています。ではその一部をご紹介しましょう。

水茎の岡 万葉歌碑

“秋風の 日にけに吹けば 水茎の 岡の木の葉も 色づきにけり” (萬葉集)

“雁がねの 寒く鳴きしゆ 水茎の 岡の葛葉は 色づきにけり” (萬葉集)

“水茎の 岡の葛葉も 色づきて 今朝うら悲し 秋の初風” (新古今和歌集)

この地は天皇・公卿・法師・文人・墨客達がこぞって歌の題材としており、当時は文芸史上随一の名勝であったことが窺われます。ちなみに2番目の歌は、岡山を山越えする湖周道路沿いに歌碑が建立されています。

またここが名勝であったことを裏付ける、そして水茎の岡の名のルーツとなった有名なエピソードがあります。

巨勢金岡

平安時代前期。日本画独自の様式を追求・深化させ、大和絵の様式を確立させた功労者とされる宮廷画家で巨勢金岡(こせのかなおか)という人物がおりました。時の権力者の恩寵を受け活躍し、また歌人としても才を発揮し、菅原道真などの知識人とも親交を結ぶ、所謂「世渡り上手さん」でした。

寛平年間(890年代)のこと。金岡は風景画を描くために、この地を訪れました。

いざ絵を描こうとしますが、余りの絶景雄大さに圧倒されてしまいます。そして遂には絵を描くことを諦めてしまい、水茎、即ち筆を折ってしまいました。このことからこの地を水茎の岡筆ヶ崎と呼ぶようになったと伝えられています(ただこの出来事以前に編纂された萬葉集には既に「水茎の岡」の名があることから、年代的に少し疑問が残ります)。

ちなみにこの金岡。これだけの功績の持ち主でありながら、現在本人の作品は何1つ残っていないとのこと。摩訶不思議なことです。

藤ヶ崎龍神

頭山の突端には藤ヶ崎神社があり、龍神様が祀られています。藤ヶ崎の名は恐らく、筆ヶ崎が転じたものと推察されます。滋賀は龍神信仰やアミニズム(自然崇拝)の対象としての磐座(いわくら)が県内各所に点在しています。

藤ヶ崎神社の由緒は定かではありませんが、その昔日野町にある綿向山に住まう龍神様が、竹生島の龍神様のもとへ足繁く通ったなどというお話もあることから、そのルート上に関連する信仰の一環であったのかも知れません(なお最近鳥居が重厚な石造りから朱塗りの鳥居へと変わりました)。

岡山からの琵琶湖の眺望

秋から冬にかけての夕景が特に美しく、頭山と尾山の2つの峰が湖面に影を落とす情景が、他に例を見ぬ美しさだったという水茎の岡。

現在の風景を眺めても、小生にはこれといって感動が沸き起こってきません。干拓の影響でその美しさが失われてしまったのか、それとも小生の感性の問題なのか・・・。

ただ古の人々にとって「特別な場所」であったことは、今でも仄かに感じ取ることが出来ます。

(歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説・後篇もお楽しみに・・・)

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


知られざるお多賀さんパワースポット! “飯盛木”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今回はお多賀さん(多賀大社)にゆかりの深い、知られざる隠れパワースポット!飯盛木についてのお話をいたしたいと存じます。

さて、 6月26日更新記事の“オタマジャクシ”の語源は“お多賀さん”にあった!で、“お多賀杓子”の謂われは「元正天皇の病気平癒を祈念して多賀社の神官たちが強飯とシデの木で作った杓子を献上した」ことによるとお話し致しました。

多賀大社本殿

その元祖“お多賀杓子”の末裔が現在でも残っている!(と伝えられている)のですがご存知でしょうか?

そもそも伝説の核心に迫る(?)前に、シデという植物とは何ぞや? という点から紐解いて参りましょう。

“シデ”はカバノキ科クマシデ属の落葉樹の総称で、日本ではクマシデを始め5種の植生が認められています。木は比較的小さく、アイアン・ウッド(鉄の木)と形容される程材質はかなり硬いとされています。そのため木材としてはほとんど利用されていませんが、切断台や工具の柄、また車軸やフローリングにも使われることがあるそうです。

紙垂

シデの名称の由来は、紙垂(しで/四手とも書き、しめ縄や玉串などにつけて垂らす特殊な断ち方をして折った紙のこと)にこの木の花の付き方が似ているからとされています。

さて肝心要の元祖“お多賀杓子”の末裔ですが、多賀大社から西へ約1kmの地点、キリンビール滋賀工場近くの田園のド真ん中にポツンとあります。名前を飯盛木(いもろぎ/いいもりぎ)と申します。「“”を“”るための“”」・・・そのまんまですね(^^)

この飯盛木ですが、半径100m以内に2本存在し、東は“(おとこ)飯盛木”、西は“(おんな)飯盛木”と称します。樹高約15m、幹周約6~10mの大樹で、見るからに長い年月を感じさせます。共に滋賀県指定自然記念物と多賀町指定天然記念物となっております。

男飯盛木

この木の伝説の原点は「杓子を作った際の残り木」とも「献上した杓子が払い下げられたもの」とも言い、はっきりしません。兎も角それを地に差したところ、根付いてここまで成長したとのことなのです。ちなみに“男飯盛木”が最初の木で、その枝を分けて差したのが“女飯盛木”とのこと。

ただ1つ、解せぬことがあるのです。

この木の案内板には「多賀大社のケヤキ(飯盛木)」「樹齢300年以上」と書かれているのです。 ん?・・・ケヤキ?・・・確か言い伝えではシデだったような・・・。 ん?・・・樹齢300年以上?・・・以上は以上だけど、伝説の通りであれば1000年は越えているハズなのですが・・・。

まぁ縁起モノのことですから、これ以上の詮索は止めておきましょう(^^)

女飯盛木

兎にも角にも貴重な自然遺産であることには間違いありません。ただ何となく“男飯盛木”の方が“女飯盛木”よりも元気がないように感じます。ご神木とはいえ、これも“世の流れ”ってヤツなのでしょうか(>_<)

この木の近隣には工場や民家が迫ってきていますが、辛うじて周囲だけは田園風景を保っています。飯盛木の近くに居ると、何やらとても落ち着く気がします。多賀大社にご参拝の折には、是非こちらにもお立ち寄りいただいて、神様のご加護&自然のパワーを感じ取ってください。

後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


“オタマジャクシ”の語源は“お多賀さん”にあった!?

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今年の西日本の梅雨入りはとても遅かったですね。このままだと梅雨明けは秋になってしまうのでは???と思ってしまう今日此頃です。

昨日カエルの大合唱も未だ聴かないのに、何とクマゼミの鳴き声を耳にしました。四季の順序を経ない天候、寒暖差の激しさ・・・どうか皆様『気象病』にはくれぐれもお気を付けください。

さてカエルといえば・・・今回はオタマジャクシの語源にスポットを当てたいと思います。オタマジャクシ・・・そう、カエルさんの子どもです。

オタマジャクシ

「何でオタマジャクシを“オタマジャクシ”と呼ぶのか?」なんて、考えたことはございますか? そんなニッチなネタに拘るのが、“偏屈者”の小生の真骨頂であります(^^)

オタマジャクシを見ていて「何かに似ているなぁ」と思ったことはございませんでしょうか?そう、調理器具のおたまにそっくりです。いえいえ、形状と言葉の“こじつけ”をしようというのではないのです。

多賀大社

“お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる

地元多賀町では有名な俗謡(ぞくよう/民衆の間で歌われる歌謡)で崇敬を集める、通称“お多賀さん”こと多賀大社。日本国土の創造主である伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の二神が祀られています。

その多賀大社には、古くから縁起物として名高いお多賀杓子(おたがしゃくし)というものがあります。

遡ること今から約1290年前(奈良時代)。時の帝、元正天皇(げんしょうてんのう/奈良の大仏建立を推進した聖武天皇の伯母)」が病に伏せっておりました。

多賀杓子

多賀社の神官たちは平癒を祈念して、強飯(こわめし/もち米で炊いた御飯)を炊き、更にシデの木で作った杓子を添えて献上しました。すると帝はたちどころに病床から回復されたとか。そのことから、霊験あらたかな無病長寿の縁起物として信仰を集めるようになったと伝えられています。

この“お多賀杓子”こそが、私たちが炊飯器から御飯を装(よそ)う際に使用するしゃもじ(杓文字)の原型であるとされています。

ここで驚きの事実を1つ。実はお多賀杓子が語源となったものは、オタマジャクシのみならず、“しゃもじ”や“おたま”もそうなのです(諸説あります)。

おたま

もともと柄の先に皿形の部分が付いた調理道具のことを、全て杓子(しゃくし)と呼んでおりました。それが縁起物の“お多賀杓子”が全国へ広まり、時代を経て御飯を装う道具をしゃもじ(杓文字)、汁物を装う道具をお玉杓子と呼称するようになったと考えられています。

その後、お玉杓子だけは「玉杓子」や「お玉」と略されるようになります。

オタマジャクシの語源は、この湾曲した柄と食べ物を装うことが可能な窪みを持った円形の先端部から構成される独特の形状を持つお多賀杓子から飛躍的な連想の働きが発生し、形状的相似からカエルの幼生の呼称につながったとされています。

“たま”“玉”“タマ”と書いている小生自身が混乱してしまいそうです。まぁ簡単に申しますと、“オタマジャクシ”も“しゃもじ”も“おたま”も、み~んな似た形の“お多賀杓子”から名前を貰った・・・ということのようであります。

さぁ~て今晩はこの“おたま”で、“カニ玉”でも作りますか!(^^)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


【令和改元記念企画】国家恒久安寧の願い“さざれ石”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今回はさざれ石についてのお話をいたしたいと存じます。さざれ石?・・・どこかで聞いた覚えがありますよね。

そう、日本の国歌『君が代』の一節に登場します。この時期この歌に関する論議の機会も多いのではないでしょうか。でもこのさざれ石って、実際にどのようなモノなのか?ご存知の方は少ないかもしれません(教科書にも流石に写真付きで紹介されてはいませんしね)。

さざれ石は「細石」とも表記され、小さな石の欠片(かけら)の集まりが炭酸カルシウム(CaCO3)などにより埋められ、1つの大きな石の塊に変化したもので、石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)と呼ばれます。石灰岩が雨水で溶け、石灰質の作用により小石がコンクリート状に凝結して生成されます。

う~ん、言葉では解りにくいですね。写真で見ていただいた方が早いです(笑)。こんな感じで小石が固まったようなモノです。何とこの石、伊吹山(滋賀・岐阜の県境付近)で主要に産出する非常に珍しい鉱物なのです。

さざれ石

さて、公式に『君が代』は「題しらず、読人しらず」の歌で、古今和歌集に収録されている短歌の1つとなっています。しかし小生のネタ帳にはこう記されております。

平安時代前期、文徳(もんとく)天皇の第一皇子に惟喬(これたか)親王(844~897)という人がおりました。聡明な人柄で知られ父・文徳天皇からの覚えめでたい親王は、このまま皇太子となり皇統を継いでいくことを周囲から嘱望されていました。

惟喬親王

しかし時の権力者で藤原北家全盛の礎を築いた藤原良房(ふじわらのよしふさ)が文徳天皇の女御(にょうご/側室の前身)として送り込んだ娘が懐妊し、惟仁(これひと)親王を出産。文徳天皇は良房に気兼ねして惟仁親王を皇太子とするものの、成人するまでは惟喬親王に皇位を譲ることを画策します。

しかし志半ばで崩御。良房の横やりも入り、惟仁親王は僅か生後9ヶ月で清和天皇として即位します。 その後の惟喬親王は数々の朝廷の要職を歴任するものの、皇族としては“蚊帳の外的存在”であることは否めず、後に出家し隠棲します。

惟喬親王は木地師(きじし/ろくろを用いて椀や盆などの木工品を加工・製造する職人)としての才にも秀でていたとされ、技術を伝授したという伝説は日本各地に残っています。

その最も有名な伝説の地が、東近江市君ヶ畑町です。“木地師発祥の地”とされ、現在でも木地師の伝統が受け継がれています。

木地

なおこの地には親王を祀った大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)や墓所、住居跡も残っています。

さて随分と長い前置きとなりましたが・・・ この惟喬親王の配下に殊原左衛門(ことはらさえもん)という、椀木地に携わる人物がおりました。左衛門は仕事柄、美濃國春日村(現在の岐阜県揖斐川町春日)と君ヶ畑、そして京都を頻繁に行き来しておりました。

ある日左衛門は旅の途中、伊吹山系の川で綺麗なさざれ石を見つけ、それを歌に詠みました。

伊吹山

わが君は 千代に八千代に さざれ石の いわをとなりて こけのむすまで

左衛門はこの歌に、見つけたさざれ石を添えて朝廷に献上しました。

後にこの歌は古今和歌集に採用され、また左衛門は歌の才を認められて、朝廷より藤原朝臣石位左衛門(ふじわらのあそんいしいさえもん)の名を授けられました。

歌詞中のさざれ石は文字通り細かい石や小石の意味で、小石が巌(いわお/岩)となって、さらにその上に苔が生えるまでの過程が、非常に長い歳月を表現するための比喩として用いられています。

そしてこの歌は一部改編され、1880(明治13)年に国歌『君が代』の原歌として採用されるのです。

君が代

『君が代』は“国歌にしては古臭い”だの“一部の政治家が(ポリシー?でもって)歌わない”だの“天皇制の讃美だ!”などと何かと論争のタネになっていますが、小生は純粋に日本という國の恒久安寧を願ったこの歌を守り続けたいな・・・と思っています。

前回の記事で「令和の世が全ての人々にとって幸福を享受できる時代であって欲しい 」と述べましたが、改元して1か月余り。凶悪な事件、目を覆いたくなるような事故、「これが日本人の所作か?」と疑いたくなるような行動・言動・行為の話題ばかりで辟易しております。

1日も早く、『令和』の名に相応しい穏やかな日々が訪れて欲しい・・・小生の願いは、皆さんと同じであると思いたいです。

このさざれ石ですが、産出地に近い岐阜県揖斐川町春日にある「さざれ石公園」を始め、意外にも多くの各地の神社に鎮座もしくは奉納されています。今回掲載した写真は多賀大社に鎮座しているものです。鉱物としてはとても興味深い造形をしておりますので、『君が代』での経緯はともかく、是非見分してみてください。

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


【令和改元記念企画】長生長壽の金字塔“長命寺”の伝説(後篇)


「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」
に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

前回に引き続きまして長命寺(ちょうめいじ)に纏わるお話を致したいと存じます。

さて時代は蘇我氏と物部氏が覇権争いを繰り広げていた大和時代。厩戸王(うまやどのおう/一般に聖徳太子として知られる)が、当時道も無いこの山に登った際、紫雲たなびく中に光明を見つけます。

厩戸王(聖徳太子)

さらに近付いてみるとその光明は観音菩薩の姿をしていましたが、直ぐに消えて二つの石と化してしまいます。

厩戸王は更に山を登り進めます。

すると古木から光明が光り、その幹に「寿命長遠諸願成就(じゅみょうちょうおんしょがんじょうじゅ)」の文字が浮かび上がったのです。

不思議に思って眺めていますとそこへ白髪の老人が現れ、「この霊木で十一面千手聖観音菩薩の三尊一体(千手観音・十一面観音・聖観音)を刻んで伽藍(がらん)を建立すれば、武内大臣も大層お喜びになり、諸国万人が等しく崇拝する地となるであろう」と告げて消えてしまいました。

早速お告げに従い観音菩薩を刻み、伽藍を建てて安置し礼拝したところ、先程の石がお互いに寄り添い1つの岩になりました。

修多羅石

その岩は現在宿禰をご神体とする修多羅石(すたらいし)として今に存在します。

なお厩戸王が刻んだと伝えられる本尊・十一面千手聖観音菩薩(国指定重要文化財)は秘仏となっております。

そして厩戸王は武内宿禰の長寿因縁にあやかり、ここを「長命寺と命名するのです。

聖徳太子礼拝石

厩戸王が礼拝した場所は、聖徳太子礼拝石として参道の途中にあります。

また天智天皇が大津京から長命寺を訪れ、ここで天下安泰の祈願をされた時のこと。

天皇はおもむろに境内にあった柳の枝を折って本堂の横に差すと、見る見るうちに大木に成長したのだとか。

閼伽井堂(念仏井戸)

この枝を差した場所が現在の閼伽井堂(あかいどう)で、念仏を唱えると水面に泡が出るので“念仏井戸”とも呼ばれています。

最後に長命寺の伝説をもう1つ。

今から約500年前の天文年間(室町時代後期)のこと。

長命寺に普門坊(ふもんぼう)という修行僧がおり、12歳で比叡山に登り、阿闍梨(あじゃり/衆僧の模範となるべき高位の僧侶)について仏典を研究する程の知恵者でした。

また千日の法華経書写や難行苦行を経て、神通力も持ち備えていました。

当時長命寺は三重塔を建築中で、大工が尾張國の熱田神宮へ行きたいと言うと、普門坊は大工を小脇に抱えて飛んでいったといいます。

後に普門坊は京都の愛宕山(あたごやま/京都にあり全国の愛宕神社の総本社が鎮座)に移り住みますが、長命寺を懐かしみ、山の岩を投げたとか。

飛来石

その岩が現在の飛来石(ひらいいし)とされています。

また普門坊は長命寺を守護するために大天狗に変じたとも言われ、飛来石横の太郎坊権現社に祀られています。

この世知辛い今の世にあって、果たして“長寿”が人生最高の悦びであるかは何とも申し難いものがあるのですが、自然のパワーを感じていただくだけにでもお越しになって損はありませんし、長命寺から眺める琵琶湖はとてもキレイですよ。

長命寺から琵琶湖を望む

何れ平成天皇と称されるであろう上皇陛下、上皇后陛下。平成の御代を国民に常に寄り添ってくださったことに深く感謝申し上げるとともに、これからも幾久しくお過ごしいただきたい。そして令和の世が全ての人々にとって幸福を享受できる時代であって欲しいと願って已みません。

長命寺

滋賀県近江八幡市長命寺町157番地
【TEL】0748-33-0031

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


【令和改元記念企画】長生長壽の金字塔“長命寺”の伝説(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

本日から元号が“令和”と改元されました。このタイミングに相応しいお話はないものかと色々思案しておりましたら、職場のご利用者様の世間話にヒントを得ることが出来ました。天皇家(皇室)ともゆかりの深いこの地のエピソードをご紹介致したいと存じます。

今回は滋賀の中央部、琵琶湖東岸の近江八幡市に佇む長命寺山にございます姨綺耶山 長命寺(いきやさん ちょうめいじ)についてお話を致したいと存じます。

長命寺・・・何ともご利益が解りやすいですね(笑)。その名の通り、長寿・長命にご利益のある寺院です。琵琶湖岸にあって比較的標高のある山がとても特異に感じますが、戦国時代以前のこの一帯は奥島(おくしま)と呼ばれる琵琶湖最大の島でした。

姨綺耶山 長命寺

昨今規模の大きな寺院は、何処とも「拝観料(一部では志納料とも)」を徴収されるのですが、ここは今も昔も自由拝観。「不思議だなぁ?」と思いつつ入山しましたが、その理由はすぐに解りました。

何と“お遍路さん”を送迎するマイクロバスやマイカーで山麓駐車場はごった返しています。

それもそのハズ、ここは西国三十三箇所第31番札所。寺院の維持管理に見合う参拝者が定常的に訪れているのです(それでも素晴らしい!)。

長命寺参道

麓から登れば死ぬ思いで808段の階段をクリアせねばなりませんが、中腹まで通じる林道(大型車通行不可)を利用すれば残り130段程で到達できます。林道には慌ただしくお遍路さんをピストン輸送するタクシーで一杯!普段から運動不足の私は残り130段でもかなりキツく・・・軽々と登られる年配のお遍路さんに優しくお声掛けいただく始末でございました(苦笑)。

ではここからが本題でございます。長命寺の由来は、今から約1900年前のこと。

大和朝廷初期に大臣として仕え国政を補佐したと伝えられる伝説的人物・武内宿禰(たけのうちのすくね)が、この地で長寿を祈願したのが始まりなのだとか、

武内宿禰
武内宿禰

その後、宿禰は300歳を超えて生きたのだそうです。

「マジかいな?」というツッコミはご容赦を。あくまでも“伝説”ですので。

その宿禰が長寿を祈願したと伝えられるのが、本堂裏にある六処権現影向石(ろくしょごんげんようこうせき/別名:祈願石)と呼ばれる巨大な石の上であったとされています。

六処権現影向石

何となく“松茸”にも似た形ですが、幾歳月の風雨に耐え、絶妙のバランスで鎮座しています。この自然がもたらす奇跡も、 武内宿禰 が成せる霊験なのかも知れません。

今回はこの辺で。次回は長命寺命名の起源と、更なる“長寿”エピソードをご紹介致します。

長命寺

滋賀県近江八幡市長命寺町157番地
【TEL】0748-33-0031

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


閑話徘徊“ひこにゃん”には「義兄」がいた!?

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

さて現在、彦根市では市議会議員選挙が佳境を迎えております。様々な不祥事や問題で有難くない『全国区』の知名度を獲得した彦根市。その市政に毅然とした姿勢で相対することが出来る人間を送り込めるかどうか。市民の民度が問われる歴史的瞬間です。

その失政のおかげで割を食う事態に追い込まれているのが、我らが誇る国民的ご当地キャラクター。 それが“ひこにゃん”…もうクドクドと説明する必要はございませんよね国宝・彦根城築城400年祭のイメージキャラクターにして、平成の“ゆるキャラブーム”の立役者。

ひこにゃん

加えて1860年に起こった徳川幕府屈指のスキャンダルであった、彦根藩主にして大老の井伊直弼が暗殺された事件・“桜田門外の変”以来、“彦根”の名を全国に知らしめてくれた最大の功労者であります。

登場してから既に12年が経過しましたが、並居る後発“ゆるキャラ”の追随を許さず、今や不動の人気、レジェンドの地位を確立しています。

さて“きな臭いタイトル”の趣旨でございますが、別に後付けの設定で某リカちゃん人形の如く、“両親がいた”とか“恋人がいた”とかいう話ではございません(^^)

実は“ひこにゃん”誕生には、その“(いしずえ)となる存在”があったのです。

市民でも記憶している人は随分少なくなってしまいましたが、今から遡ること32年前の1987(昭和62)年。日本国有鉄道のJRへの移行、すなわち「国家機関の民営化」というこれまで経験したことのないコペルニクス的大転換を日本國民が迫られた(?)頃のお話です。

彦根城

当時彦根では、その国鉄分割民営化が実施された4月1日を挟んだ3月28日から5月31日の65日間に渡り、 彦根市制50周年を契機として‘87世界古城博覧会が催されておりました。

イベントテーマは「古城文化にスポットをあて、世界の古城をネットワークする古城街道を提唱する」。

パビリオンの設計・建築には建築界の重鎮“高松伸”、会場内の版画を芸術界の奇才“池田満寿夫”、テーマソングを音楽界の革命家“三枝成彰”といった各界のそうそうたるメンバーを起用(当時のバブリー振りが垣間見えます)。

私自身当時は大学に入りたてで、加えて博覧会自体に全く興味が無かったこともあり殆ど記憶がありません。ですが、自宅最寄りの片田舎の駅を米原や名古屋から来る臨時列車が折り返し運転していたのには驚きました。

結局、彦根市にとって成功したのか失敗したのかよく解らないうちに博覧会は終了。人々の記憶に殆ど残ることなく今に至ります。一説によると、彦根市の財政逼迫はこのイベントの影響が発端ではないかとのウワサも…真相は藪の中です。イベント会場の写真の1つでも無いものかとあちこち調べ上げたのですが、見つけることは出来ませんでした。

ようやく前説終了。ここからがお話の“本丸”です(笑)。

彦根がイメージキャラクターを展開したのは「ひこにゃんが“お初”」と思われる節が大半なのですが、実は何とこの『’87世界古城博覧会』にもイメージキャラクターがいたのです。

それではご紹介いたしましょう!

世界古城博覧会のイメージキャラクター、“城まる君”です!

城まる君

いかがですか?ひこにゃんの“義兄”キャラの印象は。“安直なイメージ”だとか“クオリティが低い”なんて言わないでくださいね(>_<)

当時はこれで良かったんですぅ(^^)

彦根城とその別称である“金亀(こんき)城”にちなみ、城郭と亀を合体させ擬人化させたもので、天守の兜(かぶと)と石垣の鎧(よろい)を纏った“カワイイ侍”がコンセプト。全体的に空色メインの仕上げとなっています。

でも現在の「ゆるキャラ乱発・乱造戦国時代」の中に加えても、引け目を取らぬ造形だと思うんですけどねぇ。

この城まる君、イベントが開催されていた現役当時は大阪の「御堂筋パレード」にも参加する程の大人気!

その後も平成の入りたてぐらいまでは市内のあらゆる広告媒体に活用されていました。

しかし現在は“ひこにゃん”だらけで、逆にそのよすがを見つける方が困難となってしまいました(2011年2月までは彦根商店街連盟のポイントカードのイラストに起用されていました)。

いわゆる“絶滅危惧種”ってヤツです。

さて、私の(巧妙且つ広範囲な)ネットワークからの情報によりますと、彦根市立図書館の倉庫に城まる君の“キグルミ”が保管(放置?)されていることが判明。

城まる君はいま・・・

平成23(2011)年12月8日、朝日新聞の『ますます勝手に関西遺産』でこの城まる君が紹介され、一躍多くの人々の記憶に呼び覚まされる(?)機会を得ました。

保存状態は決して良いとは言えないようなのですが、もし叶うのであれば“ひこにゃん”との共演を、彦根市民としては望むところです。

夢の共演!!

なお“城まる君”メモリアルオブジェクトは、彦根城内にあります金亀公園にひっそりと佇んでおります。

彦根へ観光にお越しの折は、是非“城まる君”にも逢いにきてやってくださいまし<(_ _)>

さて、ひこにゃん人気に気を良くした彦根とその周辺では、豊臣秀吉の知恵袋とも称された佐和山城主・石田三成の軍師“島左近清興(しまさこんきよおき)”をモデルにした『しまさこにゃん』や、彦根藩主・井伊直弼の次女“弥千代姫(やちよひめ)”をモデルにした『やちにゃん』をはじめ、いしだみつにゃん・ひこちゅう・カモンちゃんなど実に多くのご当地キャラを世に送り出しました。

やちにゃん&しまさこにゃん

特にこの2つのキャラは完成度も高く、地元でも比較的市民権を得た部類に属しますが、残念ながら何れもひこにゃんの追随を許す程の存在に成り得ていません。

何事も『過ぎたるは及ばざるが如し』といったところでしょうか。

いけいけドンドンで乱発したこともあるでしょうが、ひこにゃんには猫をモチーフにする相応の理由が存在したのに対し、他のモノは明らかに「ひこにゃんのキャラクター性を模倣した」に過ぎないというのがご当地キャラファンに見透かされてしまった感がございます。

ただでさえすっかり下火感が否めない“ご当地 キャラ”ブーム。明確なコンセプトとキャラクター&ストーリー性の裏付けがなければ支持は得られないでしょう。そうそう“2匹目のドジョウ”なんていやしませんから…(>_<)

彦根市の名を全国区に押し上げてくれた恩ある“ひこにゃん”の活動を窮地に追い込んでいる現在の彦根市政。“城まる君”の二の舞にならないことを只々祈るばかりです。

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!