Author Archives: chaos510

知られざるお多賀さんパワースポット! “飯盛木”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今回はお多賀さん(多賀大社)にゆかりの深い、知られざる隠れパワースポット!飯盛木についてのお話をいたしたいと存じます。

さて、 6月26日更新記事の“オタマジャクシ”の語源は“お多賀さん”にあった!で、“お多賀杓子”の謂われは「元正天皇の病気平癒を祈念して多賀社の神官たちが強飯とシデの木で作った杓子を献上した」ことによるとお話し致しました。

多賀大社本殿

その元祖“お多賀杓子”の末裔が現在でも残っている!(と伝えられている)のですがご存知でしょうか?

そもそも伝説の核心に迫る(?)前に、シデという植物とは何ぞや? という点から紐解いて参りましょう。

“シデ”はカバノキ科クマシデ属の落葉樹の総称で、日本ではクマシデを始め5種の植生が認められています。木は比較的小さく、アイアン・ウッド(鉄の木)と形容される程材質はかなり硬いとされています。そのため木材としてはほとんど利用されていませんが、切断台や工具の柄、また車軸やフローリングにも使われることがあるそうです。

紙垂

シデの名称の由来は、紙垂(しで/四手とも書き、しめ縄や玉串などにつけて垂らす特殊な断ち方をして折った紙のこと)にこの木の花の付き方が似ているからとされています。

さて肝心要の元祖“お多賀杓子”の末裔ですが、多賀大社から西へ約1kmの地点、キリンビール滋賀工場近くの田園のド真ん中にポツンとあります。名前を飯盛木(いもろぎ/いいもりぎ)と申します。「“”を“”るための“”」・・・そのまんまですね(^^)

この飯盛木ですが、半径100m以内に2本存在し、東は“(おとこ)飯盛木”、西は“(おんな)飯盛木”と称します。樹高約15m、幹周約6~10mの大樹で、見るからに長い年月を感じさせます。共に滋賀県指定自然記念物と多賀町指定天然記念物となっております。

男飯盛木

この木の伝説の原点は「杓子を作った際の残り木」とも「献上した杓子が払い下げられたもの」とも言い、はっきりしません。兎も角それを地に差したところ、根付いてここまで成長したとのことなのです。ちなみに“男飯盛木”が最初の木で、その枝を分けて差したのが“女飯盛木”とのこと。

ただ1つ、解せぬことがあるのです。

この木の案内板には「多賀大社のケヤキ(飯盛木)」「樹齢300年以上」と書かれているのです。 ん?・・・ケヤキ?・・・確か言い伝えではシデだったような・・・。 ん?・・・樹齢300年以上?・・・以上は以上だけど、伝説の通りであれば1000年は越えているハズなのですが・・・。

まぁ縁起モノのことですから、これ以上の詮索は止めておきましょう(^^)

女飯盛木

兎にも角にも貴重な自然遺産であることには間違いありません。ただ何となく“男飯盛木”の方が“女飯盛木”よりも元気がないように感じます。ご神木とはいえ、これも“世の流れ”ってヤツなのでしょうか(>_<)

この木の近隣には工場や民家が迫ってきていますが、辛うじて周囲だけは田園風景を保っています。飯盛木の近くに居ると、何やらとても落ち着く気がします。多賀大社にご参拝の折には、是非こちらにもお立ち寄りいただいて、神様のご加護&自然のパワーを感じ取ってください。

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“オタマジャクシ”の語源は“お多賀さん”にあった!?

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今年の西日本の梅雨入りはとても遅かったですね。このままだと梅雨明けは秋になってしまうのでは???と思ってしまう今日此頃です。

昨日カエルの大合唱も未だ聴かないのに、何とクマゼミの鳴き声を耳にしました。四季の順序を経ない天候、寒暖差の激しさ・・・どうか皆様『気象病』にはくれぐれもお気を付けください。

さてカエルといえば・・・今回はオタマジャクシの語源にスポットを当てたいと思います。オタマジャクシ・・・そう、カエルさんの子どもです。

オタマジャクシ

「何でオタマジャクシを“オタマジャクシ”と呼ぶのか?」なんて、考えたことはございますか? そんなニッチなネタに拘るのが、“偏屈者”の小生の真骨頂であります(^^)

オタマジャクシを見ていて「何かに似ているなぁ」と思ったことはございませんでしょうか?そう、調理器具のおたまにそっくりです。いえいえ、形状と言葉の“こじつけ”をしようというのではないのです。

多賀大社

“お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる

地元多賀町では有名な俗謡(ぞくよう/民衆の間で歌われる歌謡)で崇敬を集める、通称“お多賀さん”こと多賀大社。日本国土の創造主である伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の二神が祀られています。

その多賀大社には、古くから縁起物として名高いお多賀杓子(おたがしゃくし)というものがあります。

遡ること今から約1290年前(奈良時代)。時の帝、元正天皇(げんしょうてんのう/奈良の大仏建立を推進した聖武天皇の伯母)」が病に伏せっておりました。

多賀杓子

多賀社の神官たちは平癒を祈念して、強飯(こわめし/もち米で炊いた御飯)を炊き、更にシデの木で作った杓子を添えて献上しました。すると帝はたちどころに病床から回復されたとか。そのことから、霊験あらたかな無病長寿の縁起物として信仰を集めるようになったと伝えられています。

この“お多賀杓子”こそが、私たちが炊飯器から御飯を装(よそ)う際に使用するしゃもじ(杓文字)の原型であるとされています。

ここで驚きの事実を1つ。実はお多賀杓子が語源となったものは、オタマジャクシのみならず、“しゃもじ”や“おたま”もそうなのです(諸説あります)。

おたま

もともと柄の先に皿形の部分が付いた調理道具のことを、全て杓子(しゃくし)と呼んでおりました。それが縁起物の“お多賀杓子”が全国へ広まり、時代を経て御飯を装う道具をしゃもじ(杓文字)、汁物を装う道具をお玉杓子と呼称するようになったと考えられています。

その後、お玉杓子だけは「玉杓子」や「お玉」と略されるようになります。

オタマジャクシの語源は、この湾曲した柄と食べ物を装うことが可能な窪みを持った円形の先端部から構成される独特の形状を持つお多賀杓子から飛躍的な連想の働きが発生し、形状的相似からカエルの幼生の呼称につながったとされています。

“たま”“玉”“タマ”と書いている小生自身が混乱してしまいそうです。まぁ簡単に申しますと、“オタマジャクシ”も“しゃもじ”も“おたま”も、み~んな似た形の“お多賀杓子”から名前を貰った・・・ということのようであります。

さぁ~て今晩はこの“おたま”で、“カニ玉”でも作りますか!(^^)

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【令和改元記念企画】国家恒久安寧の願い“さざれ石”の伝説

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今回はさざれ石についてのお話をいたしたいと存じます。さざれ石?・・・どこかで聞いた覚えがありますよね。

そう、日本の国歌『君が代』の一節に登場します。この時期この歌に関する論議の機会も多いのではないでしょうか。でもこのさざれ石って、実際にどのようなモノなのか?ご存知の方は少ないかもしれません(教科書にも流石に写真付きで紹介されてはいませんしね)。

さざれ石は「細石」とも表記され、小さな石の欠片(かけら)の集まりが炭酸カルシウム(CaCO3)などにより埋められ、1つの大きな石の塊に変化したもので、石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)と呼ばれます。石灰岩が雨水で溶け、石灰質の作用により小石がコンクリート状に凝結して生成されます。

う~ん、言葉では解りにくいですね。写真で見ていただいた方が早いです(笑)。こんな感じで小石が固まったようなモノです。何とこの石、伊吹山(滋賀・岐阜の県境付近)で主要に産出する非常に珍しい鉱物なのです。

さざれ石

さて、公式に『君が代』は「題しらず、読人しらず」の歌で、古今和歌集に収録されている短歌の1つとなっています。しかし小生のネタ帳にはこう記されております。

平安時代前期、文徳(もんとく)天皇の第一皇子に惟喬(これたか)親王(844~897)という人がおりました。聡明な人柄で知られ父・文徳天皇からの覚えめでたい親王は、このまま皇太子となり皇統を継いでいくことを周囲から嘱望されていました。

惟喬親王

しかし時の権力者で藤原北家全盛の礎を築いた藤原良房(ふじわらのよしふさ)が文徳天皇の女御(にょうご/側室の前身)として送り込んだ娘が懐妊し、惟仁(これひと)親王を出産。文徳天皇は良房に気兼ねして惟仁親王を皇太子とするものの、成人するまでは惟喬親王に皇位を譲ることを画策します。

しかし志半ばで崩御。良房の横やりも入り、惟仁親王は僅か生後9ヶ月で清和天皇として即位します。 その後の惟喬親王は数々の朝廷の要職を歴任するものの、皇族としては“蚊帳の外的存在”であることは否めず、後に出家し隠棲します。

惟喬親王は木地師(きじし/ろくろを用いて椀や盆などの木工品を加工・製造する職人)としての才にも秀でていたとされ、技術を伝授したという伝説は日本各地に残っています。

その最も有名な伝説の地が、東近江市君ヶ畑町です。“木地師発祥の地”とされ、現在でも木地師の伝統が受け継がれています。

木地

なおこの地には親王を祀った大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)や墓所、住居跡も残っています。

さて随分と長い前置きとなりましたが・・・ この惟喬親王の配下に殊原左衛門(ことはらさえもん)という、椀木地に携わる人物がおりました。左衛門は仕事柄、美濃國春日村(現在の岐阜県揖斐川町春日)と君ヶ畑、そして京都を頻繁に行き来しておりました。

ある日左衛門は旅の途中、伊吹山系の川で綺麗なさざれ石を見つけ、それを歌に詠みました。

伊吹山

わが君は 千代に八千代に さざれ石の いわをとなりて こけのむすまで

左衛門はこの歌に、見つけたさざれ石を添えて朝廷に献上しました。

後にこの歌は古今和歌集に採用され、また左衛門は歌の才を認められて、朝廷より藤原朝臣石位左衛門(ふじわらのあそんいしいさえもん)の名を授けられました。

歌詞中のさざれ石は文字通り細かい石や小石の意味で、小石が巌(いわお/岩)となって、さらにその上に苔が生えるまでの過程が、非常に長い歳月を表現するための比喩として用いられています。

そしてこの歌は一部改編され、1880(明治13)年に国歌『君が代』の原歌として採用されるのです。

君が代

『君が代』は“国歌にしては古臭い”だの“一部の政治家が(ポリシー?でもって)歌わない”だの“天皇制の讃美だ!”などと何かと論争のタネになっていますが、小生は純粋に日本という國の恒久安寧を願ったこの歌を守り続けたいな・・・と思っています。

前回の記事で「令和の世が全ての人々にとって幸福を享受できる時代であって欲しい 」と述べましたが、改元して1か月余り。凶悪な事件、目を覆いたくなるような事故、「これが日本人の所作か?」と疑いたくなるような行動・言動・行為の話題ばかりで辟易しております。

1日も早く、『令和』の名に相応しい穏やかな日々が訪れて欲しい・・・小生の願いは、皆さんと同じであると思いたいです。

このさざれ石ですが、産出地に近い岐阜県揖斐川町春日にある「さざれ石公園」を始め、意外にも多くの各地の神社に鎮座もしくは奉納されています。今回掲載した写真は多賀大社に鎮座しているものです。鉱物としてはとても興味深い造形をしておりますので、『君が代』での経緯はともかく、是非見分してみてください。

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【令和改元記念企画】長生長壽の金字塔“長命寺”の伝説(後篇)


「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」
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前回に引き続きまして長命寺(ちょうめいじ)に纏わるお話を致したいと存じます。

さて時代は蘇我氏と物部氏が覇権争いを繰り広げていた大和時代。厩戸王(うまやどのおう/一般に聖徳太子として知られる)が、当時道も無いこの山に登った際、紫雲たなびく中に光明を見つけます。

厩戸王(聖徳太子)

さらに近付いてみるとその光明は観音菩薩の姿をしていましたが、直ぐに消えて二つの石と化してしまいます。

厩戸王は更に山を登り進めます。

すると古木から光明が光り、その幹に「寿命長遠諸願成就(じゅみょうちょうおんしょがんじょうじゅ)」の文字が浮かび上がったのです。

不思議に思って眺めていますとそこへ白髪の老人が現れ、「この霊木で十一面千手聖観音菩薩の三尊一体(千手観音・十一面観音・聖観音)を刻んで伽藍(がらん)を建立すれば、武内大臣も大層お喜びになり、諸国万人が等しく崇拝する地となるであろう」と告げて消えてしまいました。

早速お告げに従い観音菩薩を刻み、伽藍を建てて安置し礼拝したところ、先程の石がお互いに寄り添い1つの岩になりました。

修多羅石

その岩は現在宿禰をご神体とする修多羅石(すたらいし)として今に存在します。

なお厩戸王が刻んだと伝えられる本尊・十一面千手聖観音菩薩(国指定重要文化財)は秘仏となっております。

そして厩戸王は武内宿禰の長寿因縁にあやかり、ここを「長命寺と命名するのです。

聖徳太子礼拝石

厩戸王が礼拝した場所は、聖徳太子礼拝石として参道の途中にあります。

また天智天皇が大津京から長命寺を訪れ、ここで天下安泰の祈願をされた時のこと。

天皇はおもむろに境内にあった柳の枝を折って本堂の横に差すと、見る見るうちに大木に成長したのだとか。

閼伽井堂(念仏井戸)

この枝を差した場所が現在の閼伽井堂(あかいどう)で、念仏を唱えると水面に泡が出るので“念仏井戸”とも呼ばれています。

最後に長命寺の伝説をもう1つ。

今から約500年前の天文年間(室町時代後期)のこと。

長命寺に普門坊(ふもんぼう)という修行僧がおり、12歳で比叡山に登り、阿闍梨(あじゃり/衆僧の模範となるべき高位の僧侶)について仏典を研究する程の知恵者でした。

また千日の法華経書写や難行苦行を経て、神通力も持ち備えていました。

当時長命寺は三重塔を建築中で、大工が尾張國の熱田神宮へ行きたいと言うと、普門坊は大工を小脇に抱えて飛んでいったといいます。

後に普門坊は京都の愛宕山(あたごやま/京都にあり全国の愛宕神社の総本社が鎮座)に移り住みますが、長命寺を懐かしみ、山の岩を投げたとか。

飛来石

その岩が現在の飛来石(ひらいいし)とされています。

また普門坊は長命寺を守護するために大天狗に変じたとも言われ、飛来石横の太郎坊権現社に祀られています。

この世知辛い今の世にあって、果たして“長寿”が人生最高の悦びであるかは何とも申し難いものがあるのですが、自然のパワーを感じていただくだけにでもお越しになって損はありませんし、長命寺から眺める琵琶湖はとてもキレイですよ。

長命寺から琵琶湖を望む

何れ平成天皇と称されるであろう上皇陛下、上皇后陛下。平成の御代を国民に常に寄り添ってくださったことに深く感謝申し上げるとともに、これからも幾久しくお過ごしいただきたい。そして令和の世が全ての人々にとって幸福を享受できる時代であって欲しいと願って已みません。

長命寺

滋賀県近江八幡市長命寺町157番地
【TEL】0748-33-0031

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【令和改元記念企画】長生長壽の金字塔“長命寺”の伝説(前篇)

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本日から元号が“令和”と改元されました。このタイミングに相応しいお話はないものかと色々思案しておりましたら、職場のご利用者様の世間話にヒントを得ることが出来ました。天皇家(皇室)ともゆかりの深いこの地のエピソードをご紹介致したいと存じます。

今回は滋賀の中央部、琵琶湖東岸の近江八幡市に佇む長命寺山にございます姨綺耶山 長命寺(いきやさん ちょうめいじ)についてお話を致したいと存じます。

長命寺・・・何ともご利益が解りやすいですね(笑)。その名の通り、長寿・長命にご利益のある寺院です。琵琶湖岸にあって比較的標高のある山がとても特異に感じますが、戦国時代以前のこの一帯は奥島(おくしま)と呼ばれる琵琶湖最大の島でした。

姨綺耶山 長命寺

昨今規模の大きな寺院は、何処とも「拝観料(一部では志納料とも)」を徴収されるのですが、ここは今も昔も自由拝観。「不思議だなぁ?」と思いつつ入山しましたが、その理由はすぐに解りました。

何と“お遍路さん”を送迎するマイクロバスやマイカーで山麓駐車場はごった返しています。

それもそのハズ、ここは西国三十三箇所第31番札所。寺院の維持管理に見合う参拝者が定常的に訪れているのです(それでも素晴らしい!)。

長命寺参道

麓から登れば死ぬ思いで808段の階段をクリアせねばなりませんが、中腹まで通じる林道(大型車通行不可)を利用すれば残り130段程で到達できます。林道には慌ただしくお遍路さんをピストン輸送するタクシーで一杯!普段から運動不足の私は残り130段でもかなりキツく・・・軽々と登られる年配のお遍路さんに優しくお声掛けいただく始末でございました(苦笑)。

ではここからが本題でございます。長命寺の由来は、今から約1900年前のこと。

大和朝廷初期に大臣として仕え国政を補佐したと伝えられる伝説的人物・武内宿禰(たけのうちのすくね)が、この地で長寿を祈願したのが始まりなのだとか、

武内宿禰
武内宿禰

その後、宿禰は300歳を超えて生きたのだそうです。

「マジかいな?」というツッコミはご容赦を。あくまでも“伝説”ですので。

その宿禰が長寿を祈願したと伝えられるのが、本堂裏にある六処権現影向石(ろくしょごんげんようこうせき/別名:祈願石)と呼ばれる巨大な石の上であったとされています。

六処権現影向石

何となく“松茸”にも似た形ですが、幾歳月の風雨に耐え、絶妙のバランスで鎮座しています。この自然がもたらす奇跡も、 武内宿禰 が成せる霊験なのかも知れません。

今回はこの辺で。次回は長命寺命名の起源と、更なる“長寿”エピソードをご紹介致します。

長命寺

滋賀県近江八幡市長命寺町157番地
【TEL】0748-33-0031

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閑話徘徊“ひこにゃん”には「義兄」がいた!?

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さて現在、彦根市では市議会議員選挙が佳境を迎えております。様々な不祥事や問題で有難くない『全国区』の知名度を獲得した彦根市。その市政に毅然とした姿勢で相対することが出来る人間を送り込めるかどうか。市民の民度が問われる歴史的瞬間です。

その失政のおかげで割を食う事態に追い込まれているのが、我らが誇る国民的ご当地キャラクター。 それが“ひこにゃん”…もうクドクドと説明する必要はございませんよね国宝・彦根城築城400年祭のイメージキャラクターにして、平成の“ゆるキャラブーム”の立役者。

ひこにゃん

加えて1860年に起こった徳川幕府屈指のスキャンダルであった、彦根藩主にして大老の井伊直弼が暗殺された事件・“桜田門外の変”以来、“彦根”の名を全国に知らしめてくれた最大の功労者であります。

登場してから既に12年が経過しましたが、並居る後発“ゆるキャラ”の追随を許さず、今や不動の人気、レジェンドの地位を確立しています。

さて“きな臭いタイトル”の趣旨でございますが、別に後付けの設定で某リカちゃん人形の如く、“両親がいた”とか“恋人がいた”とかいう話ではございません(^^)

実は“ひこにゃん”誕生には、その“(いしずえ)となる存在”があったのです。

市民でも記憶している人は随分少なくなってしまいましたが、今から遡ること32年前の1987(昭和62)年。日本国有鉄道のJRへの移行、すなわち「国家機関の民営化」というこれまで経験したことのないコペルニクス的大転換を日本國民が迫られた(?)頃のお話です。

彦根城

当時彦根では、その国鉄分割民営化が実施された4月1日を挟んだ3月28日から5月31日の65日間に渡り、 彦根市制50周年を契機として‘87世界古城博覧会が催されておりました。

イベントテーマは「古城文化にスポットをあて、世界の古城をネットワークする古城街道を提唱する」。

パビリオンの設計・建築には建築界の重鎮“高松伸”、会場内の版画を芸術界の奇才“池田満寿夫”、テーマソングを音楽界の革命家“三枝成彰”といった各界のそうそうたるメンバーを起用(当時のバブリー振りが垣間見えます)。

私自身当時は大学に入りたてで、加えて博覧会自体に全く興味が無かったこともあり殆ど記憶がありません。ですが、自宅最寄りの片田舎の駅を米原や名古屋から来る臨時列車が折り返し運転していたのには驚きました。

結局、彦根市にとって成功したのか失敗したのかよく解らないうちに博覧会は終了。人々の記憶に殆ど残ることなく今に至ります。一説によると、彦根市の財政逼迫はこのイベントの影響が発端ではないかとのウワサも…真相は藪の中です。イベント会場の写真の1つでも無いものかとあちこち調べ上げたのですが、見つけることは出来ませんでした。

ようやく前説終了。ここからがお話の“本丸”です(笑)。

彦根がイメージキャラクターを展開したのは「ひこにゃんが“お初”」と思われる節が大半なのですが、実は何とこの『’87世界古城博覧会』にもイメージキャラクターがいたのです。

それではご紹介いたしましょう!

世界古城博覧会のイメージキャラクター、“城まる君”です!

城まる君

いかがですか?ひこにゃんの“義兄”キャラの印象は。“安直なイメージ”だとか“クオリティが低い”なんて言わないでくださいね(>_<)

当時はこれで良かったんですぅ(^^)

彦根城とその別称である“金亀(こんき)城”にちなみ、城郭と亀を合体させ擬人化させたもので、天守の兜(かぶと)と石垣の鎧(よろい)を纏った“カワイイ侍”がコンセプト。全体的に空色メインの仕上げとなっています。

でも現在の「ゆるキャラ乱発・乱造戦国時代」の中に加えても、引け目を取らぬ造形だと思うんですけどねぇ。

この城まる君、イベントが開催されていた現役当時は大阪の「御堂筋パレード」にも参加する程の大人気!

その後も平成の入りたてぐらいまでは市内のあらゆる広告媒体に活用されていました。

しかし現在は“ひこにゃん”だらけで、逆にそのよすがを見つける方が困難となってしまいました(2011年2月までは彦根商店街連盟のポイントカードのイラストに起用されていました)。

いわゆる“絶滅危惧種”ってヤツです。

さて、私の(巧妙且つ広範囲な)ネットワークからの情報によりますと、彦根市立図書館の倉庫に城まる君の“キグルミ”が保管(放置?)されていることが判明。

城まる君はいま・・・

平成23(2011)年12月8日、朝日新聞の『ますます勝手に関西遺産』でこの城まる君が紹介され、一躍多くの人々の記憶に呼び覚まされる(?)機会を得ました。

保存状態は決して良いとは言えないようなのですが、もし叶うのであれば“ひこにゃん”との共演を、彦根市民としては望むところです。

夢の共演!!

なお“城まる君”メモリアルオブジェクトは、彦根城内にあります金亀公園にひっそりと佇んでおります。

彦根へ観光にお越しの折は、是非“城まる君”にも逢いにきてやってくださいまし<(_ _)>

さて、ひこにゃん人気に気を良くした彦根とその周辺では、豊臣秀吉の知恵袋とも称された佐和山城主・石田三成の軍師“島左近清興(しまさこんきよおき)”をモデルにした『しまさこにゃん』や、彦根藩主・井伊直弼の次女“弥千代姫(やちよひめ)”をモデルにした『やちにゃん』をはじめ、いしだみつにゃん・ひこちゅう・カモンちゃんなど実に多くのご当地キャラを世に送り出しました。

やちにゃん&しまさこにゃん

特にこの2つのキャラは完成度も高く、地元でも比較的市民権を得た部類に属しますが、残念ながら何れもひこにゃんの追随を許す程の存在に成り得ていません。

何事も『過ぎたるは及ばざるが如し』といったところでしょうか。

いけいけドンドンで乱発したこともあるでしょうが、ひこにゃんには猫をモチーフにする相応の理由が存在したのに対し、他のモノは明らかに「ひこにゃんのキャラクター性を模倣した」に過ぎないというのがご当地キャラファンに見透かされてしまった感がございます。

ただでさえすっかり下火感が否めない“ご当地 キャラ”ブーム。明確なコンセプトとキャラクター&ストーリー性の裏付けがなければ支持は得られないでしょう。そうそう“2匹目のドジョウ”なんていやしませんから…(>_<)

彦根市の名を全国区に押し上げてくれた恩ある“ひこにゃん”の活動を窮地に追い込んでいる現在の彦根市政。“城まる君”の二の舞にならないことを只々祈るばかりです。

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“令和”に於ける滋賀の自治会の在り方を考える

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例年ゴールデンウイーク辺りで開花する沈丁花が、いま満開を迎えております。このまま暖冬から春へと向かうと思いきや、4月には異例の積雪を伴う寒気。この影響でサクラの開花も急ブレーキが掛ったようで・・・人間社会に止まらず、自然界も『混迷の時代』を迎えているのでしょうか。

満開の沈丁花

それはさておき私事ではございますが、まだまだ現役の宮仕えにも関わらず、 実は今年度たくさんのお役を仰せつかってしまいました。

◆自治会長
◆連合自治会副会長 兼 会計
◆学区人権教育推進委員
◆県立高等学校運営協議会常任委員
◆グループホーム運営会議外部委員
◆選挙対策本部総務部長

元号が“平成から令和”へと変遷する記念すべき節目の時期に、時間も経験も金も(笑)、おまけにコネも無い若輩者の小生に何が出来るのか甚だ疑問ではございますが、“兎に角前に進んでみよう”精神で取り組む所存です。

現在この滋賀にとどまらず、全国的に自治会の存在の是非、在り方が問われています。役員後継者が育たず、会員が集まらず、解散した自治会も多々あります。そのような時代背景の中、特に若年層の方々に関心を持っていただける取り組みを模索することが急務であると考えています。

その一環として、 『“開かれた”“世代を超えた“全員参加の“滋賀ならではの自治会』をコンセプトに 小生任期の1年間の試みとしてFacebookページを立ち上げました。

自治会のページはコチラ

ホームページという管理が困難な形式ではなく、SNSという自由に参加・意見交換が可能なツールを採用しました。当自治会員の皆さんのコミュニケーションツールとしてのみならず、多くの方々からご意見をいただければ幸甚です。

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Which one is correct?“五箇荘 or 五個荘”

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さて先日公開致しました『閑話徘徊“ローヤルクラウンコーラ”の謎』の中で、近江鉄道の駅名・五箇荘(ごかしょう)と、旧町名の五個荘の表記の違いについて少し触れさせていただきました。

五箇荘駅・駅名標

すると小生の大学時代の歴史・鐵道・旅の盟友の1人でもある、愚鴨長明氏が早速調査してくれました。

近江鉄道株式会社鉄道部運輸課によりますと、この周辺一帯はかつて五箇神社(東近江市五個荘宮荘町)の荘園であったとされ、これが起源で「五箇荘」という地名になったと伝えられているとのこと。ただ 小生 の裏取り調査では、五箇神社はかつて「山前(やまさき)八幡宮」と称していたため、この説もいささか信憑性が…。

繖山(きぬがさやま/別称・観音寺山)東麓を領し、日吉大社(大津市)・延暦寺(大津市)・皇室の所領を管理していた荘園・山前荘(やまさきのしょう)が、平安時代末期に「山前五箇荘」と称したことがどうやら本命のようです。

繖山(観音寺山)

ちなみに『五箇』の名の由来ですが、山前荘の中でさらに細分化された南荘・北荘・東荘・橋詰荘・新八里荘の5つの荘園を指すのだとされています。

また寺社・皇室の所領であったことから由来して、「空閑(こかん/免税のこと)」が訛ったモノだとも言われ、諸説あります。

いずれにしましても「五箇荘」が本来の地名として古くから存在し、近江鉄道では明治43(1910)年に小幡駅から移転開業した駅名に、この由緒ある表記を採用しました。

しかし、町村制施行で明治22(1889)年に誕生した東五個荘村・南五個荘村・北五個荘村には、敢えて旧表記を採用しませんでした。

旧五個荘町役場

またそれらが更に合併して昭和30(1955)年に誕生したかつての五個荘町でも、旧表記が復活することはありませんでした。恐らく「新しい時代の幕開け」を新表記でアピールしたいという思いが強かったのかも知れません。

人それぞれ、組織それぞれに今も昔も“思惑”ってあるもの。いやいやまだまだ学びの余地がございますね。

今回の問題解決にご尽力いただきました我が盟友・愚鴨長明氏、そして近江鉄道株式会社鉄道部運輸課様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

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閑話徘徊“ローヤルクラウンコーラ”の謎

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

さて今回は、おもむろに東近江市は近江鉄道・五箇荘(ごかしょう)駅前を徘徊いたしております。

五箇荘駅

目的を持って散策するのも良いのですが、“糸の切れた凧”のようにプラプラ徘徊するのもまたオツなものでございます(^^)

このエリアは平成の大合併前、神崎郡五個荘町と称しました。

唐突ですが、かつての町名と駅名の漢字が異なるってご存知でしたか?

恥ずかしながら私、つい最近知人に指摘されて知りました。

五箇荘駅・駅名標

◇町名五個荘
◆駅名五箇荘

「郷土史を学ぶ資格なし!」でございます<(TOT)>

もともとの地名は五箇荘なのですが、明治期の町村制制定の際にどうやら改変されてしまったようです。経緯の詳細をご存知の方がいらっしゃいましたら是非ご教授ください<(_ _)>

ちなみにこの五箇荘駅。開業した明治32(1899)年から約10年間は、この地から約200m北寄りの中山道と交差した場所にあり、当時は小幡(おばた)駅と称していました。また昭和57(1982)年に老朽化で駅舎が解体されて以降、平成12(2000)年に今の立派な駅舎が建てられるまでの18年間は、プラットホームのみの駅であったそうです。

旧五個荘町の玄関口であるハズなのですが、中心街から離れていることもあって実に閑散としています。私が訪れた時、利用客は誰もいませんでした。

これが駅前通り。

五箇荘駅前通

(現役か否かは不明ですが)通り沿いにぽつんと旅館が1軒あるのみ。

駅前にしては寂しい限りです。 こちらも、人っ子一人居やしません。

お世辞にも“駅前目抜き通り”とは、とてもとても…。

駅の正面でやや北側に15度視線をずらすと、何やら自然に還りつつある小さな東屋(あずまや)が眼に飛び込んで参ります。

千代松(店舗)

どうやらかつての“喫茶店”であったようです(やや想像に難いですが…)。

この東屋をしげしげと見つめておりますと、見慣れぬオブジェクトが視界に入ってきました。

千代松(看板)

「クラウンコーラ???」
「ローヤル?????」

私の脳内データベースで、コーラといえば「コカ・コーラ」か「ペプシコーラ」。まぁ百歩譲って思いつくと言ったら、何故か無色透明だった「ミラクルアルファ(ホワイトコーラ)」、韓国産なんちゃってコーラの「メッコール」、インパクトの大きいCMだけで終わった「サスケ」くらいなもんでしょうか(笑)。

…でもって、ちょっと気になったものですから“ローヤルクラウンコーラ”なるものを調べてみることにいたしました。

『興味は人生の肥やし』でございます!(^^)

ローヤルクラウンコーラはアメリカのロイヤルクラウン社が製造している炭酸飲料で、現在でもコカ・コーラ、ペプシに続いてコーラの世界シェア第3位なのだとか(それにしては全然記憶にありません)。

ローヤルクラウンコーラ広告(寿屋)

一般には略して“RCコーラ”と呼ばれているそうです(決してラジコン”コーラではありません)。

日本に初上陸したのは昭和36(1961)年。 壽屋(ことぶきや/現在のサントリー)がライセンス権を獲得し生産。

ローヤルクラウンコーラ広告(加山雄三&星由里子)

イメージキャラクターには、当時東宝映画の「若大将シリーズ」で人気急上昇中の加山雄三と星由里子を起用(懐かしい~)。

洋酒割にも相性バッチリの飲料として売り出されました。

しかしシェア拡大に苦戦し、契約期間終了とともにフェードアウト。

その後は一部の中小飲料メーカー(北海道・小原/富山・トンボ飲料)がライセンス契約を結んで、地域限定で細々と供給。

ローヤルクラウンコーラ広告(アメリカ)

平成元(1989)年にポッカコーポレーションがライセンス契約を締結。 全国区へリベンジなるかと思われましたが、こちらも平成8(1996)年に期限を迎え契約解消。今のところ国内で再び陽の目を見る可能性はないようです。

そんな不遇のRCコーラですが、北海道ではコカ・コーラよりも先行販売されていたためファンが多かったのだそうです。進出時に販促用として設置されたホーロー看板が今でも残っています。当サイトともリンクしております『琺瑯看板探検隊が行く』でも紹介されていますので是非ご覧ください。

それにしても、このかつての喫茶店。なぜRCコーラを選んだのでしょうねぇ。建屋の構造的に“居酒屋”も兼ねていたようにも見受けられますので、ひょっとするとその関連なのかも知れません。

さてさてRCコーラを調査しておりましたら、他にも日本ではこんなにも多くの種類のコーラが世に出ていたことが判明しました。まぁほとんど「絶滅種」ですが 主なものをご紹介いたします。

◆キリンコーラ(キリン)/グリーンコーラ(アサヒ)
…この辺はつい最近のアイテム。グリーンコーラは飲んだような、飲んでないような…。

◆ハードジョイト・コーラ(JT)/ゴールデン・コーラ(サッポロ)
…平成初期の新参者なのですが…全く記憶になし。

シュウェップス・コーラ(アサヒ)/ジョルト・コーラ(UCC)
…RCコーラ同様、海外ライセンス契約組。残念ながら共に10年程で撤退。

◆プラッシー・コーラ(武田)/LCコーラ(三共)
…お薬やさんのコーラ。お米屋さんや薬局にこんなのあったかなぁ???

その他、プライベートブランドのコーラもたくさんリリースされています。

それほど日本人って、“コーラ大好き!”なんですねぇ(小さい頃は“炭酸飲料を飲んだら骨が溶ける”なんて言われましたけど…)。

他にも皆さんのご近所に面白いネタが落ちていましたら、是非ご一報くださいませ。

チェリオコーラ

あっ、そーいえばウチの近所の自販機には、中京地区の雄「チェリオ・コーラ」があったっけ(*^_^*).

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閑話徘徊“きゃべつ?”

「湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

まずはこの写真をご覧ください。

きゃべつ?

先日、野洲市のとある場所に差し掛かったところ 、視界に飛び込んできたのがこのオブジェクト!

どこをどう見ても“きゃべつ”・・・ですよ・・・ねぇ。

とはいえ近辺にキャベツ畑らしきものは見当たらず、この場所も畑地か空地か荒地か判別も付かず・・・妙に“生々しさ”だけがリアルなだけに、不可解は募るばかり。

この怪しげなオブジェクトの詳細をご存知の方、是非とも情報をお寄せくださいませ <(_ _)>

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