Author Archives: chaos510

多可龍王との出逢いから拾年(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、「多可龍王との出逢いから拾年」をお届け致します。

“高齢のその女性”と称するのも何ですので、ここはコーディネーターさんということに致します。そのコーディネーターさんのお話をまとめますと、このような結論と相成りました。

◆龍神様のお名前は『多可龍王(たかりゅうおう)』さん。
◆多賀大社の伊邪那美尊・伊邪那岐尊に仕える眷族。
◆古くから自宅のある地(かつての神饌田)の土地と水を守ってきた神様。
◆信仰心の厚い家に奉祀して貰いたいと長年考えておられた。
◆我が家の地鎮の折に、小生の父に奉祀を啓示したが気付いて貰えなかった。
◆小生に曇りなき信仰心が宿った時が、奉祀神託の契機であると考えられた。
◆アオダイショウの抜け殻は丁寧に畳み、奉書に包んで御神体とすること。

神棚に奉祀前の御神体

そして多可龍王さんは、次のように啓示なさいました。

★自身がお多賀さんの使いであるとはいえ、特別な奉祀を行う必要はない。
★奉祀の条件や生活上での厳しい戒律は、一部を除き原則問わない。
★自宅敷地内の真東にある古木を御神木として祀ること。
★今後とも身の丈を弁え、家族を守り、忘己利他で精進せよ。

以前庭師さんから、「この辺りでは珍しく庭の南天やマンリョウの樹勢がとても良いと」言われたのですが、それは水と土を司る龍神さんならではの加護だったようです。昨今の酷暑でも苔が何とか維持できていたのも納得です。

コーディネーターさん曰く、奉祀の条件のハードルがこのように低いのは極めて珍しいとのことでした。

御神木(羅漢槙)

奉祀を初めて10年。小生にも我が家にも色々なことがありました。

例の龍神奉祀に執心していた知人は、その後2体の龍神様を迎えることが出来、とても歓喜していました。ビジネスパートナーとして一時期協力もしましたが、奇妙な行動や理解不能な言動が目立ち、やがて小生を排除するようになり疎遠となりました。

人間社会と同じで神様の世界にも“格式”や“分相応”というものがあり、龍神奉祀者同士だからといって必ずしも相性が良い訳ではないようです。疎遠後知人が仕事で大成功しただとか、事業規模を拡大したといった話も全く耳にしませんので、奉祀と人生の狭間でそれなりに苦労はしているのでしょう。

小生は奉祀を始めて直後、約1年間の隠遁生活を強いられました。しかし家族や友人の絆のお陰で復活。或る夜、八幡大菩薩様が枕元に立たれ『そなたの望みは新たな段階へと移行した』と啓示なさいました(正直このような経験は人生初めてでした)。

そして全く縁のなかった医療・福祉の世界へ5年前に身を投じ、現在に至ります。龍神様を奉祀して大成功を収められている代表格として、日〇電〇の永〇会長が余りにも有名ですが、現在小生は決して(経済的に)裕福な暮らしをしておりません。

ただ悪いことは最小限に、良いことはささやかに、家族はアットホームに、仕事は相応に遣り甲斐をもって、日々平穏に感謝して暮らしております。それこそが私たちの奉祀に対する龍神様の“加護のカタチ”と信じています。

水の豊富な滋賀は、とりわけ龍神信仰の厚い土地柄。皆さんにもひょっとしたら龍神様との出逢いに恵まれるかも知れませんよ。

・・・因みに、『龍神様を奉じる者を貶める行為に及んだものは末代まで祟られる』というのも言わずと知れたお話。事実かく言う小生も、“守られている”とはいえ、その凄まじい制裁振りにただただ驚愕しております。人を貶めること、恩を仇で返すこと、悪事を働くことは当然人道上許されるべきことではありませんが、何も知らずに人を傷つけることで取り返しのつかない不幸に見舞われることもありますので、どうかお気を付けくださいませ。

3回に渡り、小生の身の上話にお付き合い賜りまして、誠に有難うございました。次回より“フツー”の記事に戻る予定でございますので、引き続き御贔屓の程宜しくお願い申し上げます<(_ _)>

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多可龍王との出逢いから拾年(中篇)

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引き続き、「多可龍王との出逢いから拾年」をお届け致します。

今から10年前。当時、龍神様の奉祀に滅法執心の知人がおりました。その知人は小生が信心深い人間であると知るや否や、会う度に矢鱈と龍神信仰の話題をしておりました。

龍神奉祀の難しさは小生も少なからず存知しておりましたので、話半分に聞いておりましたが・・・

或る日、自宅の庭木の剪定をしておりましたら、とても大きく、欠損の全く無い完全な姿で、然も眼が七色に輝くアオダイショウの抜け殻を見付けました。ここに居住して30年、このような経験は全くありませんでしたので、大切に陰干しして保管しました。

龍の巣

後日例の知人にこの出来事を話しましたら、早速或る人に引き合わせたいというのです。些か眉をひそめつつも、次の休みに予定を調整することに致しました。

そしてその当日。知人に誘われたのは、何の変哲もないとある古い民家。そこにはお独りの高齢の女性がお住まいになられていました。知人曰く、その方は龍神様と人を引き合わせるコーディネーター。所謂、青森・恐山のイタコのような存在の方であるというのです。

信仰心の厚い小生ですが、どうもこういう場には眉を顰めてしまいます。恐る恐る中にお邪魔しました。家の中はとても薄暗いのですが、奥に参ると煌々と蝋燭の火が灯る一角がありました。そこにはとても大きな神棚が祀られ、その周囲には溢れんばかりの神饌が並べられていました。

早速知人はその高齢女性に、小生が体験した顛末を話すよう促しました。そして女性からは紙に氏名と住所、生年月日を元号で書くようにと言われました。それらを終えると、女性は神棚に向かい祝詞を唱え始めました。

暫くして女性の唱える祝詞が突然プツリと途絶え、急に立ち上がって部屋の奥へと消えていきました。その状況に小生も知人も呆気にとられていたのですが、程無くして女性は白装束を纏って戻り(この展開にも正直驚きましたが・・・)、再び祝詞を唱え始めました。

そして一連の祭祀が終わり、このようなやり取りとなりました。

知人「どうしていきなり白装束に着替えられたのですか?」
女性「この龍神さんはとても格式高い神さんや」
知人「どこの龍神さんですか?」
女性「タカ・・・タカ?・・・何処の神さんや?」
小生「タカというのは、多賀の古い地名ではないですか?」
女性「・・・そうか、お多賀さんや、お多賀さんのお使いや」
知人「お多賀さん!?」

多賀大社

女性「えらい格の高い神さんに仕えてはるさかい正装せんとあかんのや」
小生「そんな偉い神さんがなんでウチに?」
女性「この龍神さんは、えらい喜んではる」
小生「喜んではる???」
女性「そうや、ようやっと自分の存在に気付いて貰えたと喜んではる」
小生「そうですか・・・」
女性「今迄龍神さんをお迎えしたいって言うてお願いに来る人はぎょうさんいはったけど、
   気付いて貰えて嬉しいなんて言う龍神さんは初めてや」
小生「ウチの家長は父ですから、父がお祀りするということですか?」
女性「いや、龍神さんはあんたに祀って欲しいと言うてはる」
小生「私がですか?」
女性「そうや、だからあんたにお示しがあったんや。それにな・・・」
小生「それに?・・・」

【後篇へ続く】

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多可龍王との出逢いから拾年(前篇)

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現在公私共に多忙な合間を縫い、取材ストックのデータ整理を微速ながら鋭意進行致しております。そのような中、「そう言えば・・・」という出来事をふと思い出しました。

滋賀は日本最大の湖沼・琵琶湖を擁するように、「水の豊富な土地柄」を有しています。またそれ故に古より「水への信仰」も強く、水との縁が深い龍神に纏わる伝説が県内各地で語り継がれています。

龍 神

また龍神は一級の眷属(けんぞく:神の使者、最もポピュラーなところで稲荷神のキツネ)として絶大な力を持つことで知られ、大きな財をもたらす神として、特に信仰心の厚い実業家や経営者にとって奉祀することがある種のステータスであるとも言われています。

でもただ無条件に財をもたらして戴ける訳ではありません。龍神は眷属の中でもとりわけ自尊心が高く、「お迎えしたい」と願ってもそう容易に承諾して貰えるものではありません。またようやくのこと奉祀する機会を得たとしても、その条件や戒律がとても厳しく、かなりストイックな生活を強いられるとされます。

奉祀に関する主な条件や戒律を列挙しますと・・・
◆庭に池を整備し、その傍らに石室様の祠でもって奉ずる。
◆月並の祭祀(毎月1・15日)に加え、龍神祭祀(18日)を必ず挙行する。
◆3つ足以上の動物(牛・豚・馬など)を食してはならない(食材成分も含む)。
◆米・水・塩は毎日、加えて酒と新鮮な卵並びに国産の榊を常にお供えする。
◆奉祀者は指名され、それに異を唱えたり代理代行を立ててはならない。
◆例え意に添わずとも、龍神からの啓示に決して抗ってはならない。
◆よこしまな思いや龍神への疑念を一切抱かず日々精進を重ねること。

何故ここまで厳しい神なのかと申しますと、龍神はとてつもなく清廉潔白であり、且つ一転とても人間味溢れる感性の持ち主でもあります。そして「望みに従い、意を決して貴様のもとを訪れたからには、生半可な気持ちを捨て、人生を賭け覚悟をもって精進せよ」との思いを強くお持ちだとか。よって奉祀出来るのは龍神に選ばれた者だけなのですが、そのことに胡坐をかき精進を怠ると、事業や家庭の没落だけに止まらず、生命まで失いかねないと聞き及んでいます。

そのような気性の荒い(?)神様ですので、信心深いとはいえ基本的に“怠惰”な人間の小生ですから、「起業しよう」「龍神様をお迎えして財を成そう」という気持ちは微塵もございませんでした。

前置きが長々となり申し訳ございません。ようやくここからが本篇となります。小生の身の上話とはいえ、些か“宗教チック”な内容は否めません。こういう類のお話がお嫌いな方は、この先を読み進めることはお控えください。

藤ヶ崎龍神縁起歌碑

小生が現住居に棲息するようになったのは今から約40年前。かつて氏神様の神饌田(しんせんでん:神に属し祭祀に供せられる稲を作る田)が存在したことを想起させる神聖な字名の地に、両親が新築しました。かねてより崇敬していた伏見稲荷大社の近江支部の宮司さんのご指導を得て方位・配置を決め、地鎮祭・上棟式・竣工式も取り仕切って戴きました。

当時宮司さんが「この地にはお蛇さんが棲んでおられる」と仰られていたのだけは、現在でも鮮明に記憶しています。

小生が棲む町は古くから鈴鹿山系からの地下水脈に恵まれ、昭和30年代まではほとんどが田圃と湿地帯でした。自宅周囲は高度成長期の新興住宅地でしたが、水道整備の遅れもあって、各家庭の大半が地下水をポンプで汲み上げていました。よって何れ地盤沈下や地震発生時の液状化が懸念されます(飽くまでも私見であり、この地理的特性を近隣の方々が意識して生活されているか否かは定かではありません)。

しかし我が家では、震度5弱を観測した阪神・淡路大震災時でも大きなダメージを受けることはありませんでした。現時点に於いて地盤沈下も認められませんし、渇水で周囲の家庭の地下水が軒並み干上がった時でも当家は支障なく水に恵まれました。

そう考えると、その当時から龍神様のご加護を得ていたのかも知れません。

それから30年の月日が経過しました。

【中篇へ続く】

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中山道屈指の霊験と絶景“磨針峠”の伝説(後篇)

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引き続き、中山道屈指の霊験と絶景“磨針峠”の伝説をお届け致します。

さて弘法大師が神社に供えたお餅は近隣の村の人々に受け継がれ、後に峠の茶屋として開かれた望湖堂(ぼうこどう)と臨湖堂(りんこどう)で、するはり餅として旅人たちに振る舞われたとのことです。

かつて物流の大動脈の1つとして大いに栄えた中山道ですが、時代の流れとともにその役割を終え、今ではひっそりとしています。

鳥居本宿【木曾街道六拾九次】

こちらの絵は江戸時代、歌川広重が描いた『木曽街道六十九次』の1枚、鳥居本宿 (とりいもとしゅく) です。

しかし“宿”とは名ばかりで、この絵には宿場の街並みではなく磨針峠が描かれています。それ程に当時はこの峠から眺める琵琶湖の絶景が全国的に有名だったのです。

またこの景勝の地にあった「望湖堂」「臨湖堂」の2つの茶屋は旅人に大変人気がありました(先程の絵の左側が 望湖堂、右側が臨湖堂です )。

特に望湖堂は参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、はたまた江戸に降嫁する和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう/江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室)や明治天皇も立ち寄りました。茶屋と言いながらも建物は本陣構えで、「御休止御本陣」を自称する程のモノでした。

現在の磨針峠と望湖堂

その繁栄ぶりに近隣の鳥居本宿と番場宿の本陣が寛政7(1795)年8月、道中奉行(江戸時代、五街道とその付属街道における宿場駅の取締りや公事訴訟、助郷の監督、道路・橋梁などの管理を取り仕切った役職)宛てに連署で、「望湖堂に本陣まがいの営業を慎むように」と訴えた程でした。いわゆる“ヤキモチ”“やっかみ”みたいなもんですな(^^)

因みに本陣とは、宿場で大名(お殿様)・旗本(幕府直属の武士)・幕府の役人・勅使(皇室の使者)・宮(皇族)・門跡(もんぜき/皇族・貴族出身の住職)などの宿泊所として指定された家のことで、原則一般の者が宿泊することは許されていませんでした。

後に臨湖堂は廃業し跡形も無くなってしまいましたが、望湖堂は残り、往時の姿をよく留めていました。

しかし残念ながら平成3(1991)年の失火で、参勤交代や朝鮮通信使に関する多数の資料とともに焼失してしまいました。

弘法大師のお手植と伝えられる杉(弘法杉)は幹周8m、枝の長さは実に40mにまで成長しました。

しかし、こちらも残念なことに昭和56(1981)年12月の大雪で倒れ、現在は切り株しか残っていません。でも流石は霊木、こんなエピソードが残っています。

望湖堂と弘法杉(1960年)【写真集・彦根 所載】

この杉が倒れる半年程前。望湖堂の奥さんの夢の中に1人の僧が現れ、次のような歌を詠みました。

愚海(ぐかい)の海は荒れるとも 乗せて必ず渡しける

「大嵐になり幾ら海が荒れるようなことがあっても、私が救ってやるから安心するがよい」という意味なのですが、半ば安心はしたものの、そのうち何か大変なことが起こるのではと心配されたそうです。

そして昭和56年12月15日早暁。大音響とともに、家中がまるで地震のように揺れました。慌てて外を見ると、杉の木が倒れ玄関が塞がれていました。これまで幾度となく風で枝が折れるようなことはありましたが、望湖堂の母屋の棟に当たったことは一度もありませんでした。あの歌の大嵐とはこのことかと思い、大惨事に至らなかったことにむしろ安堵されたそうです。

御神木ですから撤去してしまうことに反対意見もありましたが、結局撤去されることになりました。

弘法大師御手植杉跡

ところが驚いたことに杉は撤去費用以上に高額で売却され、おまけに「磨針明神」の改修費用も捻出出来たのです。また木を切ることになった2月はいつも北風が吹き付け大変寒いのですが、撤去に要した7日間だけは風も雲もない良い天候に恵まれたそうです。

更に望湖堂の屋根を改修した3月は、瓦屋が「3月にこんなによいお天気が続いたのは今までに一度もない」と驚くほど快晴だったとか。そんな不思議なことが続いたのだそうです。

夢に出てきた僧というのは、あの弘法大師だったのでしょうか…?

神明宮本殿

弘法大師がお餅を供えた磨針明神は、現在神明宮として望湖堂横の山腹に祀られています。

因みに観光案内やブログ記事などで、境内にある立派な杉の木を「弘法大師御手植杉」と表記されているのが散見されますが、これは誤った情報ですのでご注意ください。

ここで、おまけエピソードを1つ。源義経に美濃國青墓(現在の岐阜県大垣市)で成敗されたという伝説上の盗賊の頭領、熊坂長範(くまさかちょうはん)に磨針太郎という手下がいましたが、ここ磨針峠から名を盗った…いやいや、取ったと伝えられています。

中山道全盛期の賑わいの痕跡が、今でもそこはかと残る磨針峠。

望湖堂から琵琶湖を望む

現在は車道が通っていますが、かつての旧道も一部整備されて残っています。

そこを歩けば当時の“峠越え”の過酷さが肌身に感じ取れます(こんなところを大名行列が通ったなんて到底信じられません)。

体力と持久力に自信のある方は是非チャレンジしてみてください(^ ^)

それにしても名物・するはり餅。和洋問わずスイーツ好きの小生としては食してみたかったですねぇ。もち米100%の団子をこし餡で包んだ所謂“あんころ餅”で、特に大名たちに出すものには砂糖がまぶしてありました。

一般客でもトッピング料金を払えば、砂糖をまぶしてくれたのだそうですよ。まぁ当時、砂糖は貴重品でしたから致し方ないですね。

するはり餅(イメージ)

見た目は草津の銘菓「うばがもち」に比較的似ていたようです。 叶うことなら、町興しの一環として復刻してくれないかなぁ…そう思う“食いしん坊”な今日此頃です(^^)

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中山道屈指の霊験と絶景“磨針峠”の伝説(前篇)

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(※ 現在 「新型コロナウイルス感染症予防対策に係る行動指針」が勤務先で発令されており、当方公私を問わず活動制限を実施致しております。よって令和1年までに訪問した取材ストックをもとに記事をお届け致しております。一部タイムリーさに欠如した部分がある可能性がございますが、何卒ご容赦ください。ご心配をお掛け致しております。 )

新型コロナウイルスの世界的な蔓延で、ちょっとした外出さえ躊躇される昨今。せめて当ブログを御覧になって、小さなバーチャルジャーニーをお愉しみ戴ければ幸甚です。

さて江戸時代。京の都と江戸を結ぶ陸の大動脈は、太平洋側を通る東海道と内陸部を縦断する中山道の2本の街道がありました。

近江國(滋賀県)はこの2本の街道の何れもが経路としていたのですから、如何に古くから交通の要衝として重要視されていたことが伺えます。

さて今回はかつてその大動脈の1つであった中山道屈指の霊験あらたかな景勝地として栄えていた、磨針峠(すりはりとうげ)についてのお話を致したいと存じます。

磨針峠石碑

磨針は“摺針”とも表記されます。彦根市の鳥居本(とりいもと)町から米原市の番場(ばんば)へ抜ける途中に磨針峠はあります。峠へのアプローチには国道8号沿いに石碑が立っていますので直ぐに解ります。

その昔、諸国を修業行脚していた1人の若い僧がこの峠をトボトボと登ってきました。ようやくのことで若い僧は峠の頂上に辿りつき、神社の石段に腰を掛け一休みしました。

眼下にはさざ波きらめく琵琶湖が拡がります。その素晴らしい眺めに修業の苦しさもどこかへ消え、心が洗われるような気持ちになりました。

ふと横に目をやると、白髪の老婆が一所懸命に大きな斧(おの)を石に擦り付けて磨いています。若い僧はその老婆に、「お婆さん、いったい何をしているのですか」と尋ねました。

小倉遊亀「磨針峠」(1947年)

すると老婆は笑みを浮かべながら、「実は大切な針を折ってしまい、孫の着物も縫ってやれません。そこでこうして斧を磨って針にしようとしております」と答えました。

「そんな大きな斧は、そう容易く磨り減りませんよ」と若い僧は言いますが、「どうしても針が欲しいもので…」と言って手を止めようとはしません。何とも不思議なことだと思っていたら、いつしか老婆の姿は消え、誰も居ませんでした。

若い僧は「これは神が自分に悟りを開かせるために、斧を磨って針にしようとする老婆の姿を見せたに違いない」と悟りました。そして神社に向かって手を合わせると、再び修行の旅へと向かったのです。

空海(弘法大師)

後に数々の修行を終え立派になった若い僧は、いつしか弘法大師と呼ばれるようになりました。弘法大師とは皆さんご存じ、平安初期に高野山(金剛峯寺)を開山し、真言宗の開祖となった空海のことです。

その後弘法大師は再びこの地を訪れ、神社に沢山のお餅を供えました。そして神社の境内に杉の木を植え、あの時老婆に教えられたことを次のような和歌に詠みました。

道はなほ 学ぶることの 難(かた)からむ

斧を針とせし 人もこそあれ

神明宮鳥居

以来この峠を磨針峠、神社は磨針明神と呼ばれるようになりました。

【後篇へ続く】

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湖國に春を告げる不可思議な花“ハナノキ”の伝説

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新型コロナウイルスの感染が、国内で異常な方向へと波及し、国内の経済や社会を混乱の渦へ誘っています。早期の終息を切に願います。さて今回は滋賀に梅より遅く桜より早い(?)春の到来を告げる花、ハナノキについてのお話を致したいと存じます。

・・・と言われて皆さん。“ハナノキ”という花木をご存知でしょうか?

「花が咲く木なら、みんな“ハナノキ”なんじゃないの?」と言われればそれでお終いになってしまいますので、もう少し説明させてくださいまし 。

ハナノキの花

日本固有種の花木で、何と自生しているのは長野・愛知・岐阜・滋賀の僅か4県のみ。とても希少な植物で、環境省のレッドデータブックでは絶滅危惧Ⅱ類に指定されています。また愛知県の県木にもなっているのです。

ただ最近は栽培技術が発達し、街路樹としてや公園の花木としても植栽されるようになっています。

北花沢のハナノキ

樹高はおおむね20m。カエデ科に属する落葉樹で、花期は3~4月。 新芽が出る前に赤い花を付けるという珍しい性質を持っていますが、短命で1週間程で散ってしまうため、見頃を捉えるのは相当難しいようです。また秋は秋で葉が紅葉&黄葉し、とても風情ある光景を見せてくれます。そして滋賀は、このハナノキの巨木の自生最西端に当るのです。

東近江市北花沢町/南花沢町の国道307号沿いに、自生樹の中でも特に有名なハナノキの巨木があります。

南花沢のハナノキ

「北花沢のハナノキ」は樹高17m・樹幹周囲3m。樹齢は約260年と言われています。こちらはまだ比較的若い木です。

対して八幡神社境内にある「南花沢のハナノキ」は大樹としての貫録十分!

樹高21m・樹幹周囲5m、樹齢は約460年と言われ、こちらは平成2(1990)年に大阪・鶴見緑地で開催された「花と緑の博覧会」の事業として企画された『新日本名木100選』にも選ばれています。

…と言いたいところですが、「花と緑の博覧会」から20年後の平成22(2010 )年8月4日。 国内で最も太い主幹を誇っていた南花沢のハナノキでしたが、空洞化による樹勢の衰えにより、残念ながら倒壊してしまいました。

南花沢のハナノキ(保存されている主幹)

幸い若い幹は残り延命措置が施されているほか、主幹の一部も境内で大切に保存されています。

未だ大正天皇が皇太子であらせられた明治43(1910)年。滋賀を訪問された際、このハナノキにいたく興味を抱かれたそうです。そこで翌年10月、地元から苗木2鉢が皇室へ献上されました。これが縁となったかは定かではありませんが、共に大正10(1921)年3月3日に国の天然記念物に指定されています。

さて南花沢のハナノキが自生する八幡神社には、江戸時代中期の享保5(1720)年に奉納された『当社八幡宮竝花木記(とうしゃはちまんぐうへいかもくき)』という文献が残っています。これにはこのようなお話が記されています。

聖徳太子が未だ厩戸皇子(うまやどのみこ)と称していた頃のことです。

厩戸王(聖徳太子)

河内國(現在の大阪府)に四天王寺(してんのうじ)を創建するにあたり、蘇我馬子(そがのうまこ)に命じてこの近江國で瓦の土の選定並びに生産を命じていました。 現在、東近江市にある箕作山(みつくりやま)にある瓦屋禅寺(かわらやぜんじ)がその拠点であったと伝えられています。

皇子はそこから遥か遠くの山を眺めていました。すると東方にある高い山に不思議な光明を見付けました。皇子が近習の者にその山の名を尋ねると、「それは釈迦山です」と教えられます。

早速その光明の源を辿っていくと、何とそれは杉の霊木だったのです。皇子は立木のままの杉に十一面観世音菩薩を彫り、これを中心として東西南北の4つの谷に分けて300の堂塔を建立しました。

百済寺【滋賀県提供】

これが湖東三山の1つ、百済寺(ひゃくさいじ)の創建であると伝えられています。百済寺の造営を終えた皇子は大和國・小墾田宮(おはりだのみや)への帰り道、 2人の家来を連れ近くのとある村を訪れ休憩をとります。

南北に分かれたまだ無名であった村に、「仏法が末長く隆盛するなら、この木も成長するであろう」と皇子は霊木を一株ずつ植えました。そして村を「花沢村」と命名し、2人の家来をそれぞれの村の領主として住まわせたそうです。

また『近江名所案内記』や『淡海木間攫(おうみこのまざらえ)』では、皇子が昼の弁当を食べた際に使用していた2本の箸をそれぞれに差したものであるとしています。

さて2つの村に植えられたこの霊木ですが、誰もその名称を知りません。春になると葉の新芽が出るよりも先に花は咲かせるのですが、実はなりません。そこで村人たちはこれを“ハナノキ”と呼ぶようになったのだそうです。

かつての南花沢のハナノキ【滋賀県提供】

さて、前述しました両方のハナノキの樹齢から考えますと、伝説と現実には約950~1150年のギャップが発生します。しかし事の真偽はともかく、近郷の人々からは葉一枚すらここから持ち出さず、代々尊い存在として崇められているのです。

この記事を公開する頃には、ちらほらと花は咲き始めていることでしょう。ただ近年の気候変動が影響し、開花時期を見定めるのは更に困難を窮めてきました。全国的な自粛ムードで梅や桜の花見どころではありませんから、この不可思議な“ハナノキ”の開花で仄かな春の訪れを感じてみてください(^^)

また秋の紅葉シーズンも違った趣が堪能できます。モミジとはまた異なる“メープルっぽい”紅葉を是非ご堪能ください(この頃なら異常なパンデミック・シンドロームも終息している・・・と思いたいです)。

今回の記事に資料をご提供いただきました滋賀県庁広報課様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

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【世界の何だコレ!?ミステリー緊急企画】きぬがさやま夜話外伝“シガイの森”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

以前完結しました「きぬがさやま夜話」シリーズですが、最終章の桑實寺(くわのみでら)の記事に関する取材の延長線上で奇妙な情報を入手しました。

またこの話題に関連した内容がフジテレビ『世界の何だコレ!?ミステリー』(2020年2月12日放送)で紹介されました。ただ余り詳しくは紹介されませんでしたので、今回はそのお話を致したいと存じます。

桑實寺(山門)

ここで桑實寺に関する織田信長にまつわるエピソードを、もう一度おさらい致します。

1582(天正9)年4月10日。信長は少数の小姓衆を従えて、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)に参詣します。

安土城に詰める女房衆(にょうぼうしゅう/主君の身の回りの世話をする女性)は、遠路であるから途中の羽柴秀吉の長浜城に宿泊し、今日は帰城しないと考え自由に過ごしておりました。

ある者は城の二の丸に出掛け、ある者は桑實寺の薬師参りに出掛けていました。しかし大方の予想に反し、信長は異例の速さで安土城に戻ります。城内は大騒ぎとなり、この状況に激怒した信長は、怠けていた者を残らず縛り上げさせました。

桑實寺に出掛けていた者たちは信長の罰を恐れて、寺の長老に助けを請いました。長老は「慈悲をもってお助けを」と懇願しますが、かえって信長の逆鱗に触れ、女房衆とそれを擁護した高僧たちを処刑したのです。

以上が『信長公記(しんちょうこうき)』に所載されている桑實寺事件(竹生島事件とも)の概要です。以前の記事でこのお話は桑實寺の当時の寺伝にその出来事の記載がないことから、昨今は“いささか歪曲された内容”ではないかとの意見もあると申し上げました。

その後色々と調べを進めていると、女房衆と高僧たちを処刑したと伝えられる場所が存在するとの情報を得たのです。

近江八幡市安土町常楽寺(じょうらくじ)。県道2号西側に拡がる広大な田園地帯に、極めて不自然な存在感を示す森がポツンと存在します。

新開の森

桑實寺から西に約3km、安土城から南西に約2kmの場所に位置する周囲約240m(敷地面積約3,200㎡)のこの小さな森は、新開の森(しんがいのもり)と地元では呼ばれています。

何故ここだけ残されたかと申しますと、この森の樹木を伐採すると“祟り”があるとの噂があるからなのだと言われています。

一見ただの雑木林ですが、ここから南に約700m先にある今宮天満宮神社(近江八幡市浅小井町)の御旅所(おたびしょ/神社の祭礼において祭神が巡幸の途中で休憩または宿泊地或いは目的地)に指定されています

今宮天満宮神社御旅所

森の南側に参道らしきものは存在しますが、昼間でも薄暗く、お世辞にも整備されているようには見受けられません。

実は先の桑實寺事件での女房衆と高僧たちの処刑がここで断行され、遺骸を埋められたという説があるのです。神域の聖地で俄かに信じ難いことなのですが、それにはこのような裏付けがあるのです。

この森の西側に小さな祠がひっそりと佇んでいます。その祠の傍らには建部紹智(たけべしょうち)・大脇傳助(おおわきでんすけ)殉教碑と書かれた碑があります。

建部紹智・大脇傳助殉教碑

安土城築城から2年後の天正7(1579)年の5月中旬のこと。安土城下で法華宗と浄土宗との間である騒動が勃発しました。当時城下で浄土宗の長老が説法をしていたところ、法華宗の信徒である建部紹智と大脇傳介が議論を吹っ掛け、これが引き金となり両宗派の僧侶が問答合戦を執り行うことになってしまいます。

城下がこの噂で騒然となり、当初信長は事態の収拾を両宗派に命じますが法華宗側が承知せず、遂に全面対決の騒動にまで発展してしまうのです。

町外れにある浄土宗・浄厳院(じょうごんいん)を論議の場とし、信長は審判者と警護の兵を派遣しました。両宗派より各々4名の僧侶が臨席して進められましたが、法華宗側が返答に詰まった時点で浄土宗側の勝利が言い渡されます。

この結果に接し、たちまち法華宗の僧侶や信徒達は逃げ散りましたが、織田信澄らによってことごとく捕えられ、宗論の記録は信長の下へ届けられました。

早速信長は浄厳院へ出向き、両当事者を召し出します。そして浄土宗側に恩賞を与え、騒動の張本人である大脇傳介と、その師であり宗論にも臨席していた妙国寺普伝(みょうこくじふでん)を即刻斬首。またもう1人の騒動の張本人である建部紹智を大坂・堺で捕縛。連行の上これも斬首。法華宗側には今後他宗を誹謗しないとの誓約書を提出させて騒動は終結しました。

これが世にいう安土宗論(あづちしゅうろん/安土問答とも)です。その騒動の起因となった者たちの処刑が、この地で執行されたといいます。このお話も桑實寺事件同様、『信長公記』に所載されている一篇ですので、どこまでが真実でどこまでが虚飾なのかは定かではありません。

いつしかこの森はシガイの森と呼ばれるようになり、現在県内でも有数の心霊スポットと知られています。確かに霊感の全くない小生ですら、周囲の空気に禍々しさを感じました(決して興味本位で訪問しないでください)。

信じるか信じないかは、アナタ次第です!

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御存知ですか?“明智光秀近江出身説”

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NHK大河ドラマ 麒麟がくる

スタート前に何かと受難の降りかかった大河ドラマ、『麒麟がくる』。一抹の不安を他所に、好調な滑り出しのようで何よりです。ネタ切れという理由もあるのでしょうが、昨今“敗者”側を描いた作品が市民権を得つつあるのは、勝者が捏造した史実ではなく、真の歴史を紐解くうえでとても意義深いことであると感じます。

明智光秀は単なる“敗者”ではなく、主君を討った所謂『逆臣』。これまで天下の裏切り者というイメージの強い人物を、今後どのようにドラマで描いていくのか。とても興味深く視続けたいと思います。

話は変わりますが、実は小生。幼少の頃より明智光秀の魂をこの世に受け継ぐ1人と信じて疑わない変わり者でして・・・『戦国武将で一番好きな人物は?』と問われた時、歴史好きの知人連中の大半が三傑(信長・秀吉・家康)の何れかを挙げる中で、一貫して明智光秀を口外して憚らない、少し浮いた存在でした(>o<)

でもね・・・“逆臣”“裏切り者”と後ろ指指された人間には、勝者には決して理解し難い純粋で聡明、そして他者には理解不能な苦悩と苦渋があるのです。きっと・・・

去る令和2年2月1日(少々タイムリーさに欠けることは何卒ご容赦くださいませ)。あけぼのパーク多賀(多賀町立博物館)にて、開館20周年記念企画 『 明智光秀と戦国の多賀 』事例報告・特別講演が開催されました。

あけぼのパーク多賀(多賀町立博物館)

事前申込制で定員80名。会場は満員御礼で、立席が出る程の盛況ぶり。冒頭、館長の小早川隆 氏からご挨拶。参加申込受付初日の開始時間に、何と電話が殺到して回線がパンク。開設以来前代未聞の出来事であったとのエピソードを披露されました。それだけ県内でも、明智光秀に関心を寄せる方々が多いということの現れなのでしょうね。

多賀町立博物館学芸員 本田洋 氏

まず最初に多賀町立博物館学芸員の本田洋 氏による事例発表が行われました。テーマは『光秀に味方した犬上郡の武将』。本能寺の変後から敗北を期した山崎合戦までの“三日天下”と呼ばれた間に、明智光秀のもとに参陣した犬上郡の武将の動向と末路について、文献や古文書の記述をもとに紐解かれました。

かいつまんで申しますと、犬上郡の武将たちはどちらかと言えば「渋々、お付き合いで、致し方なく」感が強く、あの智将で人望と情に厚く、信長家臣団の中で新参の外様にも関わらず一番の出世頭だった光秀に対する心証にしては、些か冷ややかではなかったかと感じました。

それだけ信長を討つ謀は短時間で決せられ、根回しもほぼ全く出来ていなかったということの裏打ちでしょう。

公益財団法人滋賀県文化財保護協会普及専門員・NPO法人歴史資源開発機構キュレーター
大沼芳幸 氏

次に公益財団法人滋賀県文化財保護協会普及専門員・NPO法人歴史資源開発機構キュレーターの大沼芳幸 氏より、『諸説あり「奇々麒麟」本能寺の変を近江的に分析する』をテーマとした特別公演が行われました。

大沼氏は逆に余りにも不足した文献や古文書を頼りとせず、時代背景・人物相関・地勢を不足する情報に補ってアプローチする独自の切り口で、信長・光秀の近江國(滋賀県)を重要視した理由を軽妙な語り口で解説戴きました。

明智光秀近江出身説

その中でも、最も興味惹かれたのはやはり『明智光秀近江出身説』。皆様ご承知の通り、光秀には生誕から青年期に関しての決定的な資料が皆無に近く、まさにミステリー。これが発見されれば(少し大袈裟ですが)『国宝級の一級資料』とまで言われています。そのような状況ですから、出身地と伝えられているのは実に6箇所もあるのです。

その6箇所のうち5箇所が美濃國(岐阜県)。現時点で最も有力な説は現在の岐阜県可児(かに)市に存在した明智荘とされています。そのような圧倒的に不利な中で、唯一岐阜県外の出身地として名乗りを上げているのが、滋賀県犬上郡多賀町佐目(さめ)なのです

その根拠となっているのが、地元に残る口伝や『淡海温故録』の中の記述。その中でも『淡海温故録』は17世紀後半(江戸時代初期)に書かれた滋賀の歴史書で、特に言い伝えや伝説の原典となっていることが多く、滋賀の郷土史に触れる者にとっては比較的ポピュラーな文献です。

それ故に若干“脚色”感は否めないのですが、『火の無いところに煙は立たぬ』のもまた一理ですので、これはこれで注目しています。初夏辺りには小生も周囲が落ち着きそうですので、この一件に迫ってみようと考えております。まずは佐目。そして時間が許せば、大津・坂本界隈を巡りたいですね。

明智光秀企画関連資料

因みに・・・余りにも大沼先生のアプローチが興味深かったので、会場で思わず著書を購入してしまいました(^o^)

タイトルは『明智光秀と琵琶湖』(海青社 刊/税別1,600円)。ボリュームに比して少々お高いですが、読みやすくオールカラーでビジュアル満載です。是非書店等でお買い求めください。

あと多賀町立博物館の企画展『明智光秀と戦国の多賀』は2月15日(土)までです。企画展の入場料は無料ですし、図録は何と100円(税込)です。どうぞお気軽にご来訪ください。

最後に・・・明智光秀は山崎合戦後、坂本城を目指し落ち延びる途中、落武者狩りの百姓に竹槍で刺され深手を負ったため自害。家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠した・・・とされているのですが・・・

実は生き延びて、家康の庇護のもと潜伏し出家。関ケ原合戦で南光坊天海(なんこうぼうてんかい)として再び世に出で、 その後『黒衣の宰相』と呼ばれて徳川三代(家康・秀忠・家光)を影で支えたという異説があります。

専門家の間では“近江出身説”同等に注目度の極めて低い説ですが・・・小生は心から信じています ・・・ そう“光秀の魂”が語り掛けているのです(^o^)

あけぼのパーク多賀
滋賀県犬上郡多賀町大字四手976−2
【TEL】 0749-48-2077(多賀町立博物館)

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湖國浪漫文庫“滋賀県方言語彙・用例辞典”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

繁忙でなかなか取材に出向くことが出来ない今日此頃ですが、そのような中にあっても、資料と情報の収集だけは何とか継続しております。

そんな資料と情報の収集活動で出逢ったとても興味深い書籍が、沢山ございます。今後折に触れ、『湖國浪漫文庫』という新たなカテゴリーで、新刊・既刊・絶版を問わずご紹介して参りたいと存じます。

第1回は『滋賀県方言語彙・用例辞典』(サンライズ出版)をご紹介致します。

これまで“滋賀の方言”を題材とした図書はちらほらと刊行されてはいるのですが・・・こんなお堅い(笑)本は、図書館関係者や研究者でもない全くの個人で買っているのは、“私”くらいのもんじゃないでしょうか(^^)

滋賀県方言語彙・用例辞典

この本に初めて出逢ったのが、今から20年前の2000(平成12)年。滋賀県方言語彙・用例辞典という何とも仰々しいというか、誠にお堅いタイトルに興味を持ち、人気(ひとけ)の少ないとある老舗の書店でちょいと立ち読み。

挨拶文も無ければ挿絵も無い、まさかの辞書形式。しかし読み進めていくと実に面白い

「何なんだこの本は・・・」といぶかしげに感じつつも、無性に気になる。「よし買ってやろう!」と価格を見るべく本をひっくり返せば、お値段なんと3,990円也。財布には(いつものように)僅かばかりの小銭のみ・・・ あえなく断念 <(ToT)>

あれから20年(綾小路きみまろ調に)・・・この本のことはすっかり忘れておりました。

先日何がキッカケであったかは忘れてしまいましたが、知人と「滋賀の方言」について色々と話をしておりました。その時、偶然思い出したのがこの本のこと。

早速版元(出版社)のサイトを覗いてみましたところ、既に絶版 <(ToT)>

そりゃそうでしょうねぇ、こんなマニアックな本。恐らく主要な図書館や研究者等に一通り行き渡る程度にしか生産されなかったでしょうねぇ。近隣の書店でも見掛けた記憶はありませんし、Web通販各社でも品切れでした。

ところがどっこい、事態は急転します。

たまたまふらりと立ち寄ったとある書店にそれはあったのです。在庫としてです。しかも新刊としてです。奇跡です ! 極めてミラクルです! ! !

悩みました。ひたすら悩みました。ここ最近出費が嵩んでおります。決して“安い本”ではありません。家計は相も変わらず火の車です。つい先日ボロボロのビジネススーツを12年振りに新調したばかりです。でも資料としての価値は一級品ですし、再販される見込みは恐らく“0%”でしょう。

20年前と同じです。ひたすら悩みました。悩むこと・・・(10分)・・・買ってしまいました(“たいして悩んでないじゃん”というご指摘はご容赦を)。

その後、仕事休みの度に家族打ち揃って食い入るように読んでいます。やっぱり“面白い”です。この面白さは滋賀の土着民でなければ味わえません。我が家はしばらく、この本1冊でレクリエーションできそうです(^^)

因みに小生がこの本を気に入った一節をご紹介致します。もう彼是30年・・・いや40年以上前のことになりましょうか。小生の亡き母方の祖母が時折話していた言葉で、何となくニュアンスは伝わってくるものの、よく意味が理解出来なかったコトバがあるのです。これが掲載されていれば大したモンだと思い探してみたのです。

おっ!早速見つかりました、このコトバです。

エゾクロシイ

エゾクロシイ・・・不快で汚くうるさい
【用例】デパートのホールに、ダンボールを敷いて、エゾクロシイ人が寝てるわ。

お祖母ちゃん、あの人のことがそんなに嫌いだったのね(>_<)

是非図書館で読んでみてください。

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謹賀新年 天上天下唯我独尊 2020

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新年、明けましておめでとうございます。 今年は“令和”が初めて迎える元旦となります。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 3dc9d9ee374650b28184f063af61ef42.jpg です
日出る國 ~ 琵琶湖と近江富士

本日で「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」はお陰様を持ちまして開設8周年を迎えました(^^)

昨年は 飛躍の1年 でございました。今年は忘己利他の1年として邁進いたす所存でございます。本年も相変わりませぬご贔屓を賜りますようお願い申し上げます<(_ _)>

今頃・・・極寒の中、地元の氏神様の元旦祭に参賀している・・・ハズです(^^)v

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