Author Archives: chaos510

衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説・後篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

引き続き、衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説をお届け致します。このコロナ禍の影響を受け3年振りに開催された木之本地蔵大縁日も無事終わり、これから湖國は徐々に秋の装いを呈していきます。

さて木之本地蔵院が創建されてから約140年後のこと。

弘仁3(812)年。全国修行行脚の途上、空海(弘法大師)がこの地を訪れました。

浄信寺 地蔵院

早速木之本のお地蔵さんを参詣したのですが、長い年月を経て著しく荒廃した姿に接し、大変心を痛めました。

そしてこの地蔵院の修復を申し出るのです。

この時空海は、閻魔王(えんまおう)と具生神(ぐしょうじん/人の善悪を記録して死後に閻魔王への報告を担う二神)を安置し、紺紙金泥(こんしこんでい/紺色に染色した紙に金粉をニカワに溶いた絵具で書いたもの)の地蔵本願経一部三巻を献納しました。

すると、ある夜のこと。空海は不思議な夢を見ます。

『堂前の湖に龍が棲んでおり人々に害をなしているのでこれを救え』とのお告げを受けるのです。

早速空海は湖の畔に立ち祈祷を行いました。すると湖から龍が表れて、

『私はこの湖に棲む龍で(しず)と申します。今後人々に危害を加えませんので、どうかお討ちにならずにお助けください』と懇願しました。

そこで空海はここでの修法(ずほう/壇を設けて行う加持祈禱)に参列するようにと申し付けます。龍は童女に姿を変え、修法に参列しました。

伊香具神社

龍の大変神妙且つ真剣な態度に感心した空海は、懲らしめずに伊香具神社(いかぐじんじゃ)の守護神として祀ることにしました。

長浜市木之本町大音(おおと)にある伊香具神社の祭神は伊香津臣命(いかつおみのみこと)ですが、『近江国風土記』に記載されている余呉湖の羽衣伝説に登場する天女・伊香刀美(いかとみ)と同一であるとされています。

余呉湖の龍神は「天女」であったのかも知れませんね。

賤ヶ岳


また童女・賤にちなんで、伊香具神社の後ろの山を賤ヶ岳(しずがたけ)と名付けたと言い伝えられています。

空海と龍神との出来事から約770年後の戦国時代のこと。

木之本地蔵院は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって本陣が置かれ、戦火により焼失。賤ヶ岳一帯も柴田勝家との激しい戦い(賤ヶ岳合戦)が繰り広げられ死屍累々の地と化したのは、実に因果なことです。

#木之本地蔵 #空海 #地蔵本願経 #伊香具神社 #近江風土記 #賤ヶ岳 #羽柴秀吉 #賤ヶ岳合戦

木之本地蔵院(長祈山 浄信寺)

・滋賀県長浜市木之本町木之本944番地
【TEL】0749-82-2106

伊香具神社

・滋賀県長浜市木之本町大音688番地
【TEL】0749-82-5554

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衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説・前篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

久々の更新、ご無沙汰致しております。大変ご心配をお掛け致しました。尋常じゃない暑さも去ることながら、史上最悪のコロナ禍の現況、幾分かの体調不振、お盆の準備や法要の対応等々・・・なかなかの『御用繁多』な日々でございました。

今回は、日本三大地蔵の1つに列せられ、県内でも眼病・延命息災のお地蔵様としても名高い、木之本地蔵(きのもとじぞう)にまつわるお話を、2回に渡りお届け致したいと存じます。

JR北陸線・木ノ本駅を下車して直ぐに、とても長い石畳の坂道に出逢います。通称・地蔵坂と呼ばれるこの坂道の先に遠く見える寺院に、木之本地蔵は御座します。

しかし、本来はこの坂道のスタート地点が寺院の入口。現在の門前町はもともとの参道に発展したものなのです。

木之本地蔵大縁日(地蔵坂)

写真は例年8月22~25日に勤修される木之本地蔵大縁日での地蔵坂の光景。新型コロナウイルスの市中感染が過去最大級の状況下、今年も明日から疫病平癒を願って開催されます。

7世紀後半、飛鳥時代も終盤を迎えつつある頃。摂津國・難波浦(現在の大阪府)に、金色に輝く1体の仏像が流れ着きました。時を同じくして天武天皇(てんむてんのう/第40代天皇)はこの仏像の霊夢をご覧になり、「この御仏こそ龍樹(龍樹/2世紀のインドの高僧で日本では八宗の祖と言われる)菩薩が御作りになられた霊験あらたかなものである」として、すぐさま漂流の地に伽藍の建立を命じます。これが金光寺の起源であるとされています。

しかし帝はこの御仏を仏法の縁の深い場所でより多くの民衆の拠り所となって欲しいとの想いから、皇紀1335(675)年に薬師寺の開祖・祚蓮(それん)へ縁の深い地を探すよう勅命を出しました。早速祚蓮はこの尊像を奉持して、諸国行脚の旅に出ます。

祚蓮は北国街道を下った時のこと、丁度柳の大木があったのでその下に尊像を下ろし、しばし休息をとりました。そして再び出発しようとしたのですが、尊像はその場から全く動かすことが出来ず、何と前にも増して金光を放ちました。

木之本地蔵院

周囲は一面光明に包まれ、病に伏せる者はたちまち治癒し、災難に見舞われし者は立ちどころに難が消除しました。


祚蓮は「誠に地蔵菩薩は不可思議の霊像である。この光こそ衆生(民衆)の救済、諸難諸病を遁れ願い成就する光だ、この地こそ地蔵菩薩の有縁の地であるから、ここに安置して人々の暮らしを幸福へと導きたい」と語り、この地に伽藍の建設が始まります。これが木之本地蔵の草創と伝えられています。

この地での御縁を結んだ柳の木の下での出来事に因み、柳本山 金光善寺と号して一寺を建立しました。後にこの地は「柳の本(やなぎのもと)」と呼ばれ、これが転じて「木之本(きのもと)」になったといいます。

さて、参拝される皆さんは「木之本のお地蔵さん」と親しげに話されるのですが、意外にも寺院の正式名称は余り知られていません。木之本地蔵院とも呼ばれますが、これは通称なのです。

昌泰元(898)年、醍醐天皇の勅旨により菅原道真が参拝。これを機会として長祈山 浄信寺(ちょうきざんじょうしんじ)と改号されました。よって浄信寺が正しい名前になります。


様々なエピソードに彩られた本尊の木造地蔵菩薩立像(但し現存するものは鎌倉期の作)は国指定重要文化財で、秘仏のため一般公開されていません。

木之本地蔵菩薩大銅像

そこでより多くの人々にお地蔵様のご加護を受けて貰いたいとの想いから、明治24(1891)年から27年にかけて、本尊のお写しとして約3倍の大きさに建立されたのが、日本最大の地蔵菩薩銅像であり浄信寺のシンボル的存在の木之本地蔵菩薩大銅像です。

造営当時は県内はもとより、愛知や岐阜や福井からも銅鏡を集め、それらを溶かして造られたのだとか。

また大東亜戦争中は軍需省より厳しい供出命令を受けましたが、「地蔵菩薩は信仰の対象である」として三十世住職其阿上人学樹足下はそれを拒否しました。真言宗阿闍梨・班目日仏や東條英機の妻である東条勝子などの援助もあって供出を免れました。

あの東京・渋谷駅前のハチ公銅像ですら、反対運動も空しく戦時中のどさくさに紛れて供出されてしまったのですから、木之本のお地蔵さんのパワーはスゴいですね。

最後に、木之本のお地蔵さんは眼病快癒にご利益があることでも有名です。

境内を見渡すと、無数の蛙の陶器が置かれていることに気づきます。

でもよ~~~く見ると、蛙の何かが違います。何と全ての蛙が片眼をつむっているのです(ウインクしている訳ではございません)。

身代わり蛙

その昔、浄信寺の庭園には沢山の蛙が棲んでいました。連日、木之本のお地蔵さんには眼病を患った多くの参拝者が訪れます。蛙たちはその姿に接し大変心を痛め、「全ての人々の大切な眼が、お地蔵様の御加護を戴けますように」「全ての人々が健康な生活を営むことが出来ますように」と自ら身代わりの願を掛け、片方の眼をつむり暮らすようになったと言われています。


これが現在、身代わり蛙と呼ばれて眼病快癒の願掛けに用いられているのです。

地元の方々にとって木之本のお地蔵さんは日々の暮らしと密接に繋がっており、現在でも老若男女を問わず、門前を通る際に必ずお辞儀をしていく光景がとても印象的であり、日本人としての誇らしさを感じるのです。

#木之本地蔵 #浄信寺 #地蔵坂 #木之本地蔵大縁日 #眼病 #身代わり蛙 #祚蓮 #時宗

木之本地蔵院(長祈山 浄信寺)

・滋賀県長浜市木之本町木之本944番地
【TEL】0749-82-2106

木之本地蔵大縁日(ふるさと夏まつり)

【開催期間】2022年8月22日(月)~25日(木)
【開催時間】午前9時~午後9時(22日は午後5時~)
【会  場】木之本地蔵院境内・北国街道および地蔵坂
【お問合先】0749-82-5900(ふるさと夏まつり実行委員会)

木之本大花火大会

【開催期間】2022年8月25日(木)
【開催時間】午後8時より20分程度(雨天延期)
【会  場】木之本スポーツ広場 木之本グラウンド

【後篇に続く】

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織姫・彦星お伽噺は史実なのか!? “近江七夕伝説”後篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)の七夕伝説は史実だった(かも知れない)というお話について、今回はその真相に迫りたいと存じます。

蛭子(世継)神社

天野川を隔てて朝妻筑摩の対岸、世継にある蛭子(ひるこ)神社ここには世継神社縁起之叟(よつぎじんじゃえんぎのこと)という文献が伝えられています。これは昭和62(1987)年に旧近江町役場による調査で発見された古文書です。

それによりますと、彦星は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう/第21代天皇)の第四皇子、星河稚宮皇子(ほしのかわのわかみやおうじ)。

織姫は仁賢天皇(にんけんてんのう/第24代天皇)の第二皇女の朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)のことであるとしています。

叔父と姪の間柄にあった二人は天野川を隔てて仏道の修行を積んでいたが、いつしか恋に落ちた、しかし逢うこともままならず、悲しい恋に終わった・・・とのこと。

法勝寺跡

ちなみにこのお話が残る蛭子神社は、延暦年間(奈良時代末期~平安時代初期)に奈良・興福寺の仁秀僧正(にんしゅうそうじょう)が、この地に興福寺南都別院として法勝寺(ほうしょうじ)を造営する際に共に建てられました。

法勝寺は現在の米原市高溝(たかみぞ)付近に建立され、明治時代まではこの辺りに法性寺という地名が残っていました(JR坂田駅の前身は“法性寺駅”でした)。

なお近江国坂田郡誌によると星河稚宮皇子と朝嬬皇女の悲恋物語を“七夕伝説”になぞらえて広めたのはどうもこの仁秀のようで、かねてよりこの二人のことを信奉しており、法勝寺建立の際この地に守護神として祀ったようです。

史実!とは申しましたがなにやら胡散臭さも・・・まぁ古墳時代の(実在の真偽も不明瞭な)人物のお話ですし、昔の偉いお坊さんは意外にもロマンチストだった・・・ということでしょうか

七夕塚

さて蛭子神社の境内には朝嬬皇女の墓と称する自然石があり、別名七夕塚(七夕石)とも吾佐嬬石(あさづまいし)とも呼ばれています。

かつては境内にひっそりと鎮座していたこの石も、1996(平成8)年に世継神社縁起之叟が発見されてマスコミの注目を浴びたことでキレイに整備され、これを契機に旧暦7月に朝妻神社と合同で七夕祭も再開させたそうです。

伝説継承をミッションとする小生としては、こういう「流行り」に乗っかった動きは些か複雑な心境ではありますが・・・

彦星塚

そしてこちらは対岸の朝妻神社境内にある星河稚宮皇子の墓と伝えられる彦星塚・・・と言いたいところですが、実はよく解らないのです。

境内には塚が2つあり、一般的には写真右の宝篋印塔(ほうきょういんとう/墓塔・供養塔等に使われる仏塔の一種)の方だと言われています。おまけに両方とも鎌倉時代後期に造立されたと推定されているため、ますます塚としての信憑性も怪しく・・・。

それにしましても、メモリアルのその後の整備の扱いが男女でこんなにも格差があるとは・・・今の時代をも象徴しているのでしょうか、一抹の悲哀を禁じ得ません

朝妻神社

この七夕伝説の他にも、奈良時代にこの地を朝妻王(あさづまのおおきみ/天武天皇の曾孫)が支配し、彦星塚は朝妻王の王廟、七夕塚は王女の墓であるとの説もあります。

さて令和3(2021)年8月、この伝説の根拠となる世継神社縁起之叟が江戸時代の研究者の著作(椿井文書/つばいもんじょ)で偽文書である可能性が高いと指摘される事件がありました。地元には衝撃が走りましたが、それでも地域に伝わる貴重な史料に変わりないと次世代を担う子供達への伝説継承に注力するとのこと。

の「信じるか信じないかは貴方次第です」的な世継神社縁起之叟から、最後にこの一説をご紹介致します。

七月一日から七日間、男性は姫宮に、女性は彦星宮にお祈りし、七日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び合わせて川に流すと、二人は結ばれる・・・云々

恋に悩む女子は彦星塚に、男子は七夕塚に。

さぁ恋に悩む草食男子・肉食女子の皆さん、いにしえの習いに従い祈念すべし!・・・と声高に叫びたいところですが、6月14日に内閣府が公表した『令和4年版男女共同参画白書』の結果を見てみれば、どれだけ興味を引くのかな?・・・と暗澹たる気持ちに苛まれる今日此頃です。

#七夕 #天の川 #織姫 #彦星 #蛭子神社 #世継神社縁起之叟 #七夕塚 #朝妻神社 #彦星塚 #朝妻神社 #朝妻王 #椿井文書 #男女共同参画白書

蛭子(世継)神社/七夕塚

・滋賀県米原市世継842

法勝寺跡

・滋賀県米原市高溝

朝妻神社/彦星塚

・滋賀県米原市朝妻筑摩1293

【おしまい】

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織姫・彦星お伽噺は史実なのか!? “近江七夕伝説”前篇

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明日は七夕ですよね。皆さんはコロナの終息の他に何をお願いされますか?

さて今回は織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)の七夕伝説は史実だった(かも知れない)というお話をいたしたいと存じます。ではまず、ストーリーのおさらいから・・・

七夕伝説

むか~し昔、天の川の近くに天の神様が住んでおりました。

天の神様には一人娘がいて、名を織姫といいました。織姫は機(はた)を織って、神様たちの着物を仕立てていました。

織姫はやがて年頃となり、天の神様は娘に婿を迎えようと考えます。色々検討した結果、天の川の岸で天の牛を飼っている彦星という若者に白羽の矢を当てました。

彦星

彦星は素晴らしい男でしたし、織姫もとても美しい娘でした。二人は互いを一目見ただけで好意を抱き、すぐに結婚しました。

それはそれは毎日が楽しい日々でした。でも次第に二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになります。すると天の神様のもとへ、皆が不満の声を上げるようになりました。

「織姫が仕事をしないので、皆の着物がボロボロです」「彦星が世話をしないので、牛が皆病気になってしまいます」と。

織姫

天の神様は激怒して、「二人は天の川の東西に別れて暮らすがよい」と織姫と彦星を別れ別れにしたのです。

織姫があまりにも悲嘆にくれているのを見兼ねて、天の神様は「年に一度、7月7日の夜だけ彦星と会ってもよろしい」と言いました。

それから年に一度逢える日だけを楽しみにして、織姫は一所懸命機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出すようになりました。そして7月7日の夜にだけ、織姫は天の川を渡って彦星のもとへ逢いにいくようになったのです。 

こんなお話でしたよね、思い出して戴けましたでしょうか。

このおとぎ話、一般的には中国の民話が日本に伝わったものだといわれています。でもこと滋賀では、史実から生まれた民話ということになっているのです!(ちょっと言い過ぎかな・・・)

天野川

さて今回は米原市は旧米原町/旧近江町エリアを訪れております。

米原市を東西に横断し琵琶湖に注ぐ天野川(あまのがわ)。かつては朝妻川とも呼ばれていました。この川の名前だけでも、十分“七夕伝説”に相応しいですよね

その河口の南岸に朝妻筑摩(あさづまちくま)、北岸に世継(よつぎ)という集落があります。

朝妻湊址

さて朝妻筑摩にはかつて、朝妻湊という湖北地方屈指の湖上交通の要衝がありました。

その歴史は古く、奈良時代にはこの付近に大善府御厨(たいぜんふみくりや/朝廷の台所)が設置されていました。

北近江・美濃/飛騨國(現在の岐阜県)・信濃國(現在の長野県)から、朝廷に献上するための租税や物産・木材等を都に搬出するための拠点として、江戸時代初期に廃止となるまで大変賑わいました。

木曽義仲や織田信長も、都に向かうためここから船に乗ったと伝えられています。

また「朝妻千軒」とも言われ、当時は千軒以上の家屋が軒を連ねていたと伝えられています。今は往時の賑わいのよすがを知る術はなく、周囲はひっそりと静まり返っています。

朝妻湊址全景

なお平家の落人の女が春を売って生計を立て、船上で一晩だけ妻になったからこの地が“朝妻”と名付けられたとも伝えられていますが、真偽の程は定かではありません。

織姫・彦星七夕伝説は史実であったか否か・・・後篇にてその真相に迫ります!

#七夕 #天の川 #織姫 #彦星 #天野川 #朝妻湊 #朝妻千軒

朝妻湊址

・滋賀県米原市朝妻筑摩

【後篇に続く】

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嗚呼!平家終焉之地“平宗盛公胴塚”の伝説(後篇)

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引き続き、嗚呼!平家終焉之地“平宗盛公胴塚”の伝説をお届け致します。

前篇の最後に掲載した写真の案内板は、丁度野洲市(野洲町エリア)と蒲生郡竜王町の境界辺りの国道8号沿いにひっそりと佇んでいます。最近になって赤いのぼりが併設されるようになり辛うじて目立つようになりましたが、何度も近くを通ってもここを訪れる人を見掛けたことはありません。

案内板のある場所には軽自動車が1台程度駐車可能なスペースがあります。そこから山の麓の小道を進みます。本当にうら寂しい場所です。100m程(とぼとぼ)歩くと少し視界が拡がります。

平宗盛公胴塚

ここに平宗盛公胴塚があります。石塔が2つありますが、左側は後年供養のために掘られたと思しき石仏で、胴塚は右側の小さな岩石です。「墓標」というより「目印」にしか見えません。昔から『勝てば官軍負ければ賊軍』とはよく申しますが、一時とはいえ平家の頭目として君臨した人物の扱いとしては、余りにも惨めで残酷です。敗者の扱いというのは往々にしてこのようなものなのでしょうね。

胴塚の正面には小さな池があります。かつては名所の1つとしてその名が知られていました。

木曾路名所図会 巻1 乾 “大篠原”

江戸時代後期の文化2(1805)年に発行された木曾路名所図会(きそじめいしょずえ)。岐阻路名所図会とも称し、中山道沿道の名所を網羅した、今風に言えば旅のガイドブックです。

このガイドブックの「大篠原」という記事に、平宗盛公胴塚とこの池のことが記載されています。その名も「首洗池」と・・・

蛙不鳴池

今となってはただの用水池にしか見えませんが、宗盛が長子・清宗の身を案じながら斬首に処せられ、この地で胴体を埋葬。首はこの池で浄められた後、元暦2(1185)年6月23日に京の六条河原に到着し、検非違使の平知康らによって受け取られ、獄門の前に晒されたと言われています。

首を浄めた池と隣接していた西方の大きな池も、この出来事以降蛙が鳴かなくなったことから、蛙不鳴池(かわずなかずのいけ)と呼ばれています。

蛙不鳴池及び首洗い池含め、かつては横巾165m✕縦巾220mの大きな池で、近世までは景勝地然としていました。近年までその形容を止めていましたが、平成10(1998)年頃の造成工事で蛙不鳴池は形状を大きく棄損し、首洗い池に至っては池そのものが失われてしまいました。

首洗い池(復元)

令和3(2021)年6月20日。地元・大篠原自治会、野洲市、有志企業・団体による首洗い池復元事業が立ち上げられ、先人の悲願であった首洗い池の復元が叶いました。往時の姿そのものとまではいきませんが、地元の皆さんの郷土に対する熱意をひしひしと感じました。

さてこの平宗盛処刑事件ですが、文献によって微妙に内容が異なります。

『平家物語』では6月21日に宗盛・清宗親子は篠原宿で処刑され、胴体は一緒に埋葬された。『源平盛衰記』では6月22日に宗盛・清宗親子は勢多(現在の大津市瀬田)で処刑された。さらに『吾妻鏡』では6月21日に宗盛が篠原宿で、同日清宗が近江国野路口(現在の草津市野路)で処刑されたと記述されています。

因みに草津市野路5丁目には遠藤家邸宅の中庭に平清宗の胴体を埋葬したと伝わる清宗塚が存在しますので、史実は『吾妻鏡』の記述にありそうな気もします。今回清宗塚を訪問出来ませんでしたので、またの機会を得られればと思います。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では平家を滅ぼし天下を手中に収めた源氏ですが、その後様々な疑心暗鬼が渦巻き、縁者や仲間が次々と姿を消しています。そう考えると滅亡した平家の方が一門の結束力は強かったように思います。

そのような平家を統べていた宗盛を、父・清盛に遠く及ばないにしても、改めて評価し直しても良いのではないでしょうか。

#平宗盛 #源義経 #平家物語 #鎌倉殿の13人 #平清宗 #平宗盛公胴塚 #首洗い池 #蛙不鳴池 #清宗塚 #源平盛衰記 #吾妻鏡 #東山道 #平家終焉之地

野洲市観光協会

・滋賀県野洲市小篠原2100−1
【TEL】 077-587-3710

平宗盛公胴塚

・滋賀県野洲市大篠原86

清宗塚

・滋賀県草津市野路5丁目2−21

【おしまい】

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嗚呼!平家終焉之地“平宗盛公胴塚”の伝説(前篇)

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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やアニメ『平家物語』の好調にかこつけて(?)お届けして参りました源氏や平家に纏わるお話のシリーズも最終回。今回は実質的な平家終焉の地となった平宗盛公胴塚についてのお話を致したいと存じます。

さて今回は野洲市は旧野洲町エリアを訪れております。その前に平宗盛(たいらのむねもり)の人物像に迫りたいと思います。

宗盛は平安時代末期の武将・公卿で平清盛の三男。異母兄の長男・重盛(しげもり)は文武に優れ、平家一門にも朝廷にも人望が厚く後継者として期待されていました。しかし清盛と後白河法皇の対立に有効な手立てを取ることが出来ず、その心労が祟ってか父に先立ち病没。同じく異母兄の二男・基盛(もともり)は武功も多く平家一門の有力者の一人と目されていましたが、24歳の若さで早世(一説には宇治川を騎馬で渡河する際に藤原頼長の怨霊に祟られ溺死したとも)。

平 宗盛

有能な二人の兄を早くに失い、父・清盛亡き後、平家一門を統べる立場となった宗盛。何かとコンプレックスも抱えていたでしょうが、父ほどのカリスマ性を持ち備えていなかったことから、その後の平家の衰亡を招いた張本人・・・と一般的には評価されています。

平家滅亡を決定的なものとした壇ノ浦合戦では、名立たる平家方の諸将入水を果たす中、宗盛は死に切れず泳ぎ回っていたところを長子の清宗とともに源氏方に引き上げられ虜囚の身となります。

元暦2(1185)年4月26日、宗盛・清宗親子は一旦他の虜囚とともに帰京。大路を引き回された後、義経に連行されて鎌倉に向かいます。6月7日、鎌倉に到着した宗盛は敗軍の将として頼朝の前に引き出されます。頼朝は勝者として御簾の中から宗盛を眺め、比企能員に自らの言葉を伝えさせたといいます(この時、宗盛を連行した義経が戦勝報告どころか鎌倉入府をも許されず、頼朝との確執が決定的だったことは有名なお話です)。

鏡神社

6月9日、宗盛・清宗親子は再び義経に伴われ京へ送還されることとなり、鎌倉を出立します。

そして6月21日。近江國・鏡の宿(かがみのしゅく/現在の蒲生郡竜王町鏡にあった東山道の宿駅)に差し掛かります。ここで義経が元服を果たし、この鏡神社で源氏再興を祈願し、平家打倒の狼煙が上がった地の1つであること。そして自らの生命の灯火にタイムリミットが迫っていようとは、宗盛はよもや考えていなかったでしょう。

旧東山道 篠原駅跡

蒲生郡竜王町と野洲市の境界地点で国道8号に並行して、かつての東山道/中山道が残っています。

この辺りには鏡の宿が整備される前に、篠原駅(しのはらえき)という駅家(えきか/うまや・・・古代の五畿七道に整備された宿場・検問所の前身)が設けられていました。

平安時代末期までは篠原駅には15頭の馬が配備され宿場と共に栄えていましたが、鏡の宿が整備されると、鎌倉時代に入り急速に衰退したといいます。

街道沿いとはいえこのうら寂しい山の麓で、義経の配下の橘 公長(たちばなのきみなが)によって宗盛は刀の露と消えました。享年39歳。平家一門を率いていた人物にしては余りにも若く、そしてあっけない最期でした。

因みに宗盛の斬首を手掛けた橘 公長という武士ですが、何の因果か実はかつて平家の家人でした。このため世の人々はそのことを忘れておらず、その変わり身に多くの批判を浴びせたといいいます。

平宗盛公胴塚 案内板

『平家物語』の記述によると、宗盛は鎌倉での処刑を免れて京に戻され、頼朝・義経の父・義朝が殺害された尾張國(現在の愛知県)の内海でも何事もなく通過したことから、生き永らえることを信じて疑わなかった節があります。また清宗のことをとても気に掛け、共に斬首となって首を晒されても遺体だけは一緒に葬って欲しいと懇願したともいわれています。

さて義経が何故この地で宗盛の処刑に踏み切ったのか。このことについて記述のある文献は見当たりません。

①義経が元服を果たし源氏再興を祈念したこの地で平家に引導を渡すことに意味があった。②宗盛を京に戻すよう命じた頼朝への当て付け。➂意外と短絡的に実行した・・・と色々理由は推測出来るのですが、今となっては知る由もありません。

次回は宗盛の最期の地を漫ろ歩きたいと存じます。。

#平宗盛 #源義経 #平家物語 #鎌倉殿の13人 #平清宗 #平宗盛公胴塚 #橘 公長 #斬首 #源頼朝 #平清盛 #平重盛 #平基盛 #鏡神社 #鏡の宿 #篠原駅 #東山道 #平家終焉之地

野洲市観光協会

・滋賀県野洲市小篠原2100−1
【TEL】 077-587-3710

【後篇へ続く】

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清盛に寵愛された白拍子姉妹 “妓王・妓女”の伝説(後篇)

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前回に引き続き、平清盛に寵愛された白拍子(しらびょうし)の姉妹、妓王・妓女(ぎおう・ぎじょ)の伝説をお届け致します。今回は彼女たちの出身地である旧野洲町エリアに伝わるエピソードを巡ります。

さて白拍子としての妓王が清盛の寵愛を一身に集めていた頃のこと。

干ばつに苦しんでいる郷里の村人を救うために、妓王が清盛に治水改良を請願しました。

祇王井川(行事神社付近)

承安4(1174)年に竣工した灌漑用水・祇王井川(ぎおういがわ)が現在でも残っています。

工事は困難を極めましたが、野洲川から野田浦(現在の野洲市野田)まで三里(約12km)に渡り水路が整備されました。

これで野洲郡の十か村に及ぶ村人が水不足解消の恩恵に与り、近江國内でも有数の穀倉地帯へと発展を遂げました。このことは今でも妓王の恩沢(おんたく)として語り継がれています。

野洲市三上の野洲川沿いにある新興住宅地。

祇王井川水源地跡

七間場(しちけんば)地区の自治会館敷地内に祇王井川水源地跡の碑があり、竣工当初はここを水源としていたようです。

ちなみにこちらの地名は、かつて“近江太郎”と呼ばれる暴れ川であった野洲川の堤防を護る役目を、一人当たり七間(約12.7274m)割り当てられたことに由来するのだそうです。

史蹟 妓王井川

こちらは野洲市野洲の四ツ家(よつや)地区にある“史蹟 妓王井川”の碑です。現在、妓王井川を示す唯一の道標となっています。

戦後野洲の穀倉地帯は琵琶湖からの引水によるパイプラインで農業用水が供給されるようになり、妓王井川の役割や様相も大きく変化してしまいました。

それでも今に至り、野洲の人々に様々な恩恵を与え続けています。

妓王寺

最後にご紹介するのは、野洲市中北にあります浄土宗・宝池山妓王寺(ぎおうじ)です。

この寺院は妓王井川が整備された翌年の承安5(1175)年。

何れ妓王たちの“終の棲家(ついのすみか)”となるべく、清盛が建立させた宝聚寺(ほうじゅじ)が前身とされています。

また一説には、妓王たちが辿った末路を哀れに思い、また灌漑用水を整備してもらった恩義に報いるため、村人たちによって建立されたとも伝えられています。

江戸時代に大津の膳所藩によって編纂された地誌『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』によりますと、「妓王妓女佛御前刀自の四女墓あり、四女の木像あり」と記述されています。

妓王・妓女・佛御前・刀自 墓

その記述通り、ここ妓王寺には4人の墓が祀られ、4人の木像が安置されています。残念ながら墓石は存在するもののどれが誰のものであるかという特定は出来ない状態にあり、また木像も原則非公開となっています。

妓王寺は代々尼僧によってお守りされてきたのですが、平成16(2004)年に最後のご住職が亡くなられ、後継者も無く以降は地元自治会役員の持ち回りでお世話をされています。

また毎年8月下旬(25日頃)には、妓王井川の恩恵に与ったかつての村々の人々が参集し、現在も法要を営んでおられます。

それにしましても、かつての“恋敵”同士が共に祀られているなど現代では考えられませんよね。

初めて妓王寺の取材に訪れたのは今からもう12年前の平成22年のこと。当時の中北自治会会長・永原一豊さんに無理をお願いして、代理として奥様に立ち合い戴きましたことは今でも鮮明に記憶しております。

その際、こんなエピソードを語っていただきました。

妓王・妓女は“祇王・祇女”とも表記され、京都の祇王寺は後者になっています。どちらが正しいという訳ではなく、当時は文字を読み書き出来る階層が限られており、お話も口伝(くでん)によるところが大きいので、このようなことになったのではと仰っておられました。

妓女・妓王・佛御前・刀自 木像

またニューヨークの大学の女性の先生が、平家物語の研究でわざわざ来訪されたのには流石に驚かれたそうです。

あと妓王寺は京都の祇王寺に比べて知名度に雲泥の差があり、また無住寺ということもあってなかなか観光資源として活かし切れずにいるとか。当時公開されていた大河ドラマ『平清盛』を契機に注目されることをとても期待しておられました。

今回の源平ムーブメントが少しでも追い風となって欲しいですね。

なお妓王寺のある中北集落は、自動車での進入が非常に困難な隘路となっております。また妓王寺の見学には事前予約が必要となりますので、詳しくは下記までお問い合わせください。

祇王井川の流路【参考資料:野洲市観光物産協会】
祇王井川の流路【参考資料:野洲市観光物産協会】

因みに・・・妓王井川の流路、総延長約12kmを巡る旅もまた一興です。但し、健脚に自信のある方に限ります(笑)。当時重機もGPSも無かった時代に人海戦術で整備された土木事業に想いを馳せてみては如何でしょうか。

#妓王 #妓女 #刀自 #佛御前 #白拍子 #鎌倉殿の13人 #妓王寺 #妓王井川 #祇王井川 #平清盛 #平家物語 #近江輿地志略 #祇王井川水源地跡

野洲市観光物産協会 (野洲市役所環境経済部商工観光課)

・滋賀県野洲市小篠原2100番地1
・TEL. 077-587-3710
・受付日/平日のみ
・受付時間/8:30~17:15

妓王寺

・滋賀県野洲市中北90

祇王井川水源地跡

・滋賀県野洲市三上2170−3

【おしまい】

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清盛に寵愛された白拍子姉妹 “妓王・妓女”の伝説(前篇)

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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にかこつけて、引き続き源氏や平家に纏わるお話をお届け致します。今回は野洲市は旧野洲町エリアを訪れておりますが、その前に平清盛に寵愛された白拍子(しらびょうし)の姉妹、妓王・妓女(ぎおう・ぎじょ)の人物像に迫りたいと思います。

ではまず「白拍子とは何か?」からご説明を。

白拍子とは平安時代末期から鎌倉時代に掛けて、“今様(いまよう)“”朗詠(ろうえい)”と呼ばれる歌曲を歌いながら舞を踊る男装の遊女や子どものことを指します。

白拍子(静御前) 葛飾北斎 筆

白拍子で最もメジャーな人物と言えば、やはり源義経の愛妾(あいしょう/お気に入りの妾)・静御前(しずかごぜん)でしょう。

因みによく勘違いされることが多いのですが、静御前は義経の“妻”ではなく、“愛人”でございます。

さて今回のお話の一端を担う平清盛ですが、その母親の素性については諸説あるものの、歴史上“不詳”とされております。

平 清盛

平成24(2012)年に放送された大河ドラマ『平清盛』では、「清盛は白河法皇の御落胤(ごらくいん/父親に認知されない私生子)で、母親は法皇の愛妾であった白拍子(舞子)」という設定となっておりました。清盛と白拍子とは、何かと因縁があるようですね。

では本題に戻りましょう。

京都・奥嵯峨にございます祇王寺(ぎおうじ)の『祇王寺縁起』によりますと、妓王は仁平3(1153)年に野洲郡江部庄(現在の野洲市永原・北・中北地区)で、北面の武士で江部の庄司でもあった橘次郎時長(たちばなじろうときなが)と母・刀自(とじ)の娘として誕生します(一説には“江部九郎時久”が父親とも)。

妓王屋敷跡

野洲市中北には、かつて妓王たち家族が住んでいたとされる屋敷跡が残っています。

その2年後には妹の妓女が生まれます。しかし程なくして妓王4歳・妓女2歳の時、父・時長が保元の乱で戦死してしまいます。

妓王16歳の時、母・刀自は2人の娘を連れて京の都に上ります。白拍子となった彼女は、その美貌と艶やかな舞でたちまち都でも一目置かれる存在となります。

その評判が時の権力者であった平清盛の眼に止まり、妓王は絶大なる寵愛を受けます。またそのお陰もあって、妓女や刀自も何不自由ない暮らしを送ることが出来ました。

それから3年後。佛御前(ほとけごぜん)という若い白拍子が都で評判となります。彼女は清盛の御前で舞を踊ることを望みますが、妓王が寵愛を集めていたため一旦は追い払われます。

しかし妓王の取り計らいにより、清盛の御前に出る機会を得ます。すると清盛は佛御前の舞にすっかり魅了され、何と妓王を直ちに放逐してしまうのです。

妓王21歳の時。

祇王寺(往生院)

時の権力者の余りの仕打ちに妓王は自害を決意し、妹の妓女もそれに同調しますが、母の刀自がこれを思い止まらせ、奥嵯峨にある往生院(おうじょういん/現在の祇王寺)に身を隠し、出家して念仏を唱える日々を送りました。

この事実を知った佛御前は恩義ある妓王の身の上をはかなみ、清盛に無断で自らも出家。同じく往生院に入り、妓王・妓女・刀自とともに余生を過ごしたと言います。

次回の後篇では、妓王・妓女の出身地である旧野洲町エリアに伝わる彼女たちのエピソードを巡ります。

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野洲市観光物産協会 (野洲市役所環境経済部商工観光課)

・滋賀県野洲市小篠原2100番地1
・TEL. 077-587-3710
・受付日/平日のみ
・受付時間/8:30~17:15

妓王屋敷跡

・滋賀県野洲市中北90

【後篇へ続く】

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史実は鏡の宿にあり!“源義経元服”の伝説

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三谷幸喜プロデュース・大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やアニメ『平家物語』で俄かに注目を集めている源平の闘争事件を応援するために、今回はこの出来事と因縁浅からぬ源義経の元服についてのお話を致したいと存じます。

さて今回は蒲生郡竜王町を訪れております。

元服(げんぷく)とは今でいう成人式のことです。特に武家では、烏帽子(えぼし/平安期から近代までの和装礼装時に成人男性が着装する帽子)を烏帽子親(元服に於ける後見人で通常は2名で執り行う)から戴冠してもらい、それまでの幼名から元服名に改名するという儀式があります。

源義経

義経は平治元(1159)年、源義朝(みなもとのよしとも)の九男としてこの世に生を受けました。幼名は皆さんご存知、牛若丸です。

しかし翌年、平治の乱の謀反人として父が敗死。まだ乳呑児であった牛若丸は、母の常盤御前(ときわごぜん)が敵将・平清盛に身を任せて助命嘆願したことから、生き延びることが出来ました。

牛若丸11歳の時。継父の一条長成(いちじょうながなり)からの出家の勧めもあり、鞍馬寺に預けられ、名も遮那王(しゃなおう)と改めます。そして自身が源氏の嫡流であることを知ると、独自に剣術の修業に励むようになります。そして承安4(1174)3月3日早暁、16歳の遮那王はついに出家を拒絶し鞍馬寺を出奔。

金売吉次(かねうりきちじ/奥州産出の金を京で商うことを生業としていた商人)と堀頼重(ほりよりしげ/源光重の三男で約1年に渡り自領にて義経を保護)の手助けを受け、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼るべく、一路奥州・平泉を目指します。

京を出て、まずは鏡の宿(かがみのしゅく/現在の蒲生郡竜王町鏡にあった東山道の宿駅)に宿泊します。一行は宿駅の長で長者でもあった澤弥傳(さわやでん)の屋敷&旅籠の「白木屋」に泊まることとなりました。

江戸時代以降は中山道の宿場として指定されず衰退しましたが、当時は遊女も多くとても繁盛していました。

熊坂長範【芳年武者无類】

しかしあろうことかその夜、大盗賊・熊坂長範(くまさかちょうはん)が白木屋に押入ろうとします。これをいち早く察知した遮那王が盗賊たちを追い払い、弥傳から大いに歓待されることとなります(このお話は他にも「美濃青墓宿説(幸若舞『烏帽子折』より)」「美濃赤坂宿説(謡曲『烏帽子折』『熊坂』より)」が存在します)。

白木屋跡

白木屋は戦後まで昔ながらの屋敷が残っていましたが、昭和30(1955)年の台風で倒壊し、現在はその跡に石碑が残るのみです。

さて表で早飛脚の話し声に耳を傾けますと、鞍馬よりの追手か平家の侍たちかが、稚児姿(ちごすがた/寺院で召し使われている子どもの姿)の者を探しているとのこと。このままでは捕まってしまうと考えた遮那王は、烏帽子親の無いまま元服することを決意します。

宿駅の烏帽子屋五郎太夫(えぼしやごろうだゆう)のところで烏帽子を調度し、鏡池の岩清水で前髪を落としました。そして鞍馬の毘沙門天と氏神の八幡菩薩を烏帽子親とし、太刀と脇差をそれに見立てて元服を執り行いました。

ここで遮那王は名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と改め、源氏の武将となり平氏打倒を誓うのです。

松の木に烏帽子を掛けた後、鏡神社に源氏の再興と武運長久を祈願しました。

鏡神社と義経烏帽子掛けの松

その義経烏帽子掛けの松が鏡神社境内の入り口に今も残っています。残念ながらこちらも明治6(1873)年10月3日の台風で折損してしまい、現在は幹株を残すのみです。

翌朝白木屋を出立する際に、義経はあらためて元服した姿を鏡池の水鏡に映します。

そして決意も新たに奥州へと旅立つのでした。

義経元服池

前述の鏡池は現在義経元服池と呼ばれ、道の駅「竜王かがみの里」の正面にあります。裏山の石清水が滲み出して生まれた池で、水道が整備されるまでは近隣住民の生活用水として利用されていました。

国道整備の際に若干の移動を余儀なくされ、昔ながらの面影はやや薄れましたが、今でも水をたたえ神秘的な様相を呈しています。

今回の記事では詳しく触れませんが、この鏡の宿は義経元服の地であり、また義経自らの手で平家にピリオドを打った地でもあります。偶然の出来事だとは思いますが、私がこの事実を知った時「何という因縁だろう」と痛感しました。

最後にこのようなお話で締め括りたいと思います。平成17(2005)年にNHKで、滝沢秀明さん主演の大河ドラマ『義経』が放送されたのですが、何と元服の地を巡ってこんな騒動があったのです。

大河ドラマ『義経』(1)
大河ドラマ『義経』

実は義経元服の地については諸説あるのですが、史実としては平治物語(へいじものがたり/平治の乱の顛末を描いた軍記物語)に記述のある鏡の宿説が最も有力視されています。

しかし作品では全く説の存在しない尾張國・内海庄(うつみしょう/現在の愛知県南セントレア市)を採用したのです。内海庄は義経の父・義朝最期の地であるためストーリーに躍動感を与えたかったというのがNHK側の見解ですが、地元・竜王町は猛反発したそうです。

後に10月16日放送の本編後に義経ゆかりの地を紹介する「義経紀行」で採り上げられることにはなり一段落しましたが、どちらかと言えば平家終焉の地としての解説がメインでした。果たして町民が切望していた内容であったか否かは定かではありません。

今も昔も大河ドラマは地域活性の起爆剤と捉えられていますから、竜王町民が浴びせられた冷や水に対する気持ちは十二分に理解出来ます。史実をとるか、視聴率獲得のための脚色をとるか・・・やっぱり“史実”は曲げちゃあいかんでしょうね。

鏡の宿は現在国道8号が縦断し、頻繁にクルマが行き来しています。当時の面影はほとんど失われてしまいましたが、宿場町であった雰囲気はそこはかとなく残っています。

ご散策の際は道の駅・竜王かがみの里を拠点とされるのが大変便利です。但し交通量が非常に多いので、くれぐれも事故には遭われませんようご注意ください。

ちなみに・・・道の駅・竜王かがみの里では、2010年9月にこんなイメージキャラクターが誕生しました。

近江うし丸

その名も何と『近江うし丸』君です!義経の幼名である“牛若丸”と滋賀の名産“近江牛”をコラボレートしたそうです。

鏡の里元服式(1)
鏡の里元服式

なお例年のこの時期、竜王町鏡の鏡神社並びに道の駅「竜王かがみの里」にて、古式ゆかしき中世の成人式を再現した鏡の里元服式が開催されています。

今年は3月19日に開催の予定でしたが、コロナ禍の影響で残念ながら中止となりました。来年こそは再開して貰いたいですね。

なおこの行事は事前予約制ですが、一般の方も参加可能です。イベントの詳細は下記の竜王町観光協会へのリンクで確認が出来ますので、興味のある方は次回開催に向けて是非御覧ください。

さて今回の大河ドラマの菅田将暉さん版『義経』。どのような活躍を見せてくれるのか楽しみですね。

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鏡神社

・滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289
【TEL】 0748-58-0959

竜王町観光協会

・滋賀県蒲生郡竜王町小口3
【TEL】 0748-58-3715

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白水池の悲恋物語“御澤神社と龍王寺”の伝説(後篇)

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引き続き、白水池の悲恋物語“御澤神社と龍王寺”の伝説をお届け致します。

さて今回は蒲生郡の竜王町エリアを訪れております。

東近江市と近江八幡市、そして蒲生郡竜王町の境界にそびえ位置し、国指定史跡・雪野山古墳で古代ファンにも馴染み深い雪野山(別称・龍王山)。その南西の麓に雪野山 龍王寺(ゆきのさん りゅうおうじ)という天台宗の寺院があります。

雪野山 龍王寺

川守集落から北東へ約600m。日野川の野路橋を渡ったところにひっそりと佇んでいます。

龍王寺と言えば、旧暦8月15日(中秋)に行われる天台宗の秘法・喘息病封じ“へちま加持祈祷”が余りにも有名です。小生も幼少の頃小児喘息に罹患していて、両親に毎年この行事へ連れてこられました。

参道の両脇に多くの露店が並ぶ大きなイベントではありましたが、当時前述の野路橋は人の往来がやっとの幅の、欄干も手摺も無い簡易の渡り板で作られており、これを渡るのが恐怖以外の何物でもなかったという辛い想い出があります(苦笑)。

龍神池

奈良時代前期の和同3(710)年。元明天皇(第43代にして史上5人目の女性天皇/661~721)の勅令で行基により雪野寺(通称:野寺)として開山され、昨年創建1300年を迎えたとても歴史のある寺院です。

境内には苔むした趣のある庭園の中心に、龍神池と称する池があります。この池は御澤神社の白水池と水脈が繋がっていると伝えられており、互いに白濁した水を湛えていることがその証であるとされています。

さて、恋慕の情に堪えられぬ小野時兼のその後や如何に・・・

龍王寺 鐘楼

三和姫のことを片時も忘れられない時兼は、雪野山の坂(通称:女坂)を越え平木の御沢池に出向きます。しかしそこで出逢ったのは、白い大蛇に化身した三和姫でした。余りの怖ろしさに時兼は、九十九夜目に玉手箱を開けてしまいます。

すると中から龍の姿が刻まれた釣鐘が出現しました。後に時兼はこの釣鐘を寄進し、それが現在も龍王寺に安置されている梵鐘 野寺の鐘であると伝えられています。それ以降、御沢池で大蛇を見掛けなくなったとも言われています。

梵鐘 野寺の鐘

さてこの『白水池の悲恋物語』には、こんな異説が伝わっています。

登場人物は同じなのですが、舞台は平安時代後期。三和姫は実は平重盛(平清盛の長男)の忘れ形見で、藤原頼長(旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだ公卿で保元の乱にて敗死)の奸計に陥れられ、無実の罪で福原の都を逃走し流浪の旅に。その後この地で時兼に出逢ったとされています。

ところが時兼は御沢の蘆摩津池(あしまつち)という守護男神の大蛇に魅せられていたので、三和姫も蘆摩千地(あしまちち)という守護女神の大蛇に憑りつかれ、二人とも池の底に引き摺り込まれてしまいます。

何とか世のため人のために尽くしたいと思った三和姫は八大龍王に祈願したところ、天上して龍王に会合します。すると龍王から「お前は大蛇となってしまったのは気の毒なことだが、蘆摩津池はこの沢に永く棲んでいる。以前百済の使節がもたらした龍の甕という鐘には、蘆摩津池の生血が鋳込まれている。お前に御沢の池を与えよう」と言われます。その由縁で三和姫の化粧が水を白くさせているのだと伝えられているとか。

そしてその鐘の下に女性が入ると、立ちどころに吸い込まれてしまうのだそうです。

どちらが信憑性の高いお話なのかは定かではありませんが、このエリア一帯を巻き込んだトゥルー・ラブ・ストーリーであることは間違いないようです。

因みに・・・竜王町綾戸に鎮座御座します、近郷三十三村に渡り氏子を有する国宝・苗村(なむら)神社。その宮司さんの姓は何と小野さん。つまり前述の小野時兼の末裔であると伝えられています。

#龍王寺 #へちま加持祈祷 #龍神池 #野寺の鐘 #八大龍王 #蘆摩津池 #蘆摩千地 #小野時兼 #三和姫 #苗村神社

雪野山 龍王寺

・滋賀県蒲生郡竜王町川守41
【TEL】 0748-57-1380

苗村神社

・滋賀県蒲生郡竜王町綾戸467
【TEL】 0748-57-0160

【おしまい】

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