Author Archives: chaos510

“アミンチュ”ボンネットバス奮闘記~幻影・若江線巡礼(後篇)

後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、“アミンチュ”ボンネットバス奮闘記~幻影・若江線巡礼をお届け致します。

さて旧近江今津駅を後にしたBXD30は、一路福井は小浜を目指し、九里半街道(九里半越)及び若狭街道に挑みます。

ここでタイトルの『若江線とは何か?』。これを(なるべく)簡単に解説致したいと存じます(ネットで調べれば直ぐに解ることですが・・・)。

江若鉄道路線図

久し振りにマイパソコンのデザイン用描画ソフトを起動して、かつての江若鉄道の路線図を簡単に描いてみました(※全27駅のうち主要な16駅のみ表記しています)。

1919(大正8)年8月19日、新浜大津(大津市) ~ 福井県遠敷郡三宅村(現在の三方上中郡若狭町)間の鉄道敷設免許状が下附。これにより1920(大正9)年2月に江若鉄道が設立されます。1921(大正10)年の三井寺下~叡山間(6km)開業を皮切りに延伸を重ね、1931(昭和6年)には浜大津~近江今津間(51km)を開通させます。

しかしその先の近江今津~三宅(上中)間の建設は、資金不足と人口希薄地帯が要因となり計画は頓挫、これ以上の延伸は断念を余儀なくされました。

戦後、モータリゼーションの発展に伴い経営は圧迫され、京阪電気鉄道の支援を受け、1961(昭和36)年7月よりその傘下に入ります。その後もあらゆる経営努力を尽くしますが、国鉄湖西線の建設決定を機に鉄道線を1969(昭和44)年11月1日を以て廃止し、その鉄道用地を湖西線の建設を担当する日本鉄道建設公団に売却しました。

江若鉄道が断念した未成区間は、鉄道省の予定線として引き継がれ、鉄道建設に先行する形で1935(昭和10)年から1937(昭和12)年に掛けて乗合自動車の運行を開始します。1974(昭和49)年7月20日に国鉄湖西線が開業すると、この区間は国鉄の計画路線に格上げされます。これが若江(じゃっこう)です。

BXD30のある風景 旧熊川宿

午前11時45分。若狭街道の旧熊川宿(くまがわじゅく)に到着。ここでしばし運転停車。

熊川宿はもともと山間にある40戸程の小さな寒村でした。戦国時代に入り豊臣政権下で五奉行の1人に名を連ね、当時小浜城主であった浅野長政によって、若狭と近江、そして京を結ぶ若狭街道(通称:鯖街道)の宿場町として、1589(天正17)年に整備されました。

江戸時代中期には200戸を超える規模にまで栄華を窮めましたが、近代のモータリゼーションの影響でかつての街道が衰退し、近年では最盛期の約半分の規模にまで落ち込んでしまいました。

昨今ではかつての風情を残しつつも、観光誘致を積極的に推進し、1996(平成8)年7月9日に文化庁所管の重要伝統的建造物群保存地区に指定。また2015(平成27)年4月24日には、同じく文化庁所管の日本遺産『海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群〜御食国(みけつくに)若狭と鯖街道〜』の一部として認定され、再び脚光を浴びつつあります。

BXD30のある風景 若狭街道

やはりBXD30は旧家の街並みとのマッチングが抜群ですね。鉄道線が実現していたら、ここ熊川にも駅が設置される計画がありました。

中間駅の中では最も賑わっていたでしょうから、このような雰囲気で観光と近隣集落へのアクセスに、BXD30が活躍する機会があったかも知れませんね。

BXD30のある風景 JR小浜駅

午後1時15分。無事県境越えをクリアし、JR小浜線の小浜駅に到着。本来ならば上中駅が若江線の始発・終点に当たるのですが、かつての国鉄バス、そして後継である現在の西日本ジェイアールバスも小浜駅を始発・終点とすることから、その例に倣いました。

小浜市には実に30年振りの訪問。福井県嶺南地方第二の規模を誇る街で、かつては港町として、また若狭のリゾート&アミューズメントの玄関口として活況を呈していた筈なのですが・・・。

今や小浜駅に定期優等列車(特急・急行)が訪れることは無く、概ね1時間に上下1本の普通列車が入線するのみで、3本ある長いプラットホームはやや持て余してぎみの様子。最盛期には1日5,000人を超える乗降客を記録したものの、現在は800人を僅かに上回る状況。日曜日というのに駅前商店街もほぼ8割のシャッターが閉められていて、差し詰め浦島太郎にでもなったかのような心持ちでした。

BXD30が江若交通現役の時は、このような閑散とした路線の経験は恐らく無かったでしょう。時に時代の流れというものは、突き付けられた現実を如実に投影します。

BXD30のある風景 小浜湾

閑散とした市街地を後にし、かつて若狭フィッシャーマンズ・ワーフに乗り入れていた頃に想いを馳せつつ、しばし若狭湾の内湾である小浜湾沿いをクルーズ。団体利用でも無い限り、江若交通所縁のバスがここを駆け抜けるのは、実に24年振りではないでしょうか。

BXD30は海をバックにしても味があります。さながら映画かドラマの1シーンですね(笑)。そう言えば“アミンチュ”ボンネットバスの現在のカラーリングにどことなく似ている、かつて広島県の呉市交通局で活躍していた同型も海沿いを走っていましたね。

呉市交通局はバス事業を2012(平成24)年に広島電鉄に譲渡した後、ボンネットバスだけは呉市産業部に移管した筈。あれから10年足らず・・・元気に走っていてくれているのでしょうか。

BXD30のある風景 帰路へ

再び若狭街道並びに九里半街道へ針路をとり、滋賀に向けて帰路に就きます。往路は悪天候ながら小雨若しくは曇天でしたが、どうやらそこで運を使い果たしてしまったのか、復路は次第に雨脚が強くなってきました。

ワイパーの連動に多少不具合は出ましたが、運行に支障を来すようなトラブルも一切発生せず、BXD30はこの長距離走行で終始パワフルな咆哮をあげて、無事午後5時にJR守山駅に到着。第3回復活運行を見事に完遂しました。

第3回復活運行を主催戴いた二輪工房代表の村田さんを始め、参加者、支援者の皆様に心から敬意を表します。誠に有難うございました。今回の復活運行。交通インフラの在り様を、様々な視点で改めて考える並びに知る契機として、大変意義深いものであったと思います。

最後にこの若江線の今後についてお話致します。

1987(昭和62)年4月1日、国鉄は旅客6社、貨物1社の7社に分割民営(JR)化されました。また日本国有鉄道改革法等施行法が施行されたことにより、鉄道敷設法は鉄道国有法・地方鉄道法とともに廃止となります。つまりこれによって若江線は、鉄道線として整備するための法的根拠を失ったのです。

その後、1994(平成6)年に琵琶湖若狭湾快速鉄道構想(通称:若狭リゾートライン)として、再び鉄道整備計画が持ち上がりました。しかし沿線の過疎化による利用者の減少で、西日本ジェイアールバスが既に相次ぐ減便を実施。またその状況下で莫大な建設並びに運営費用を要する鉄道路線の整備に値する需要への期待には些か懐疑的であり、計画への熱は次第に沈静の一途を辿ります。

そして2016(平成28)年に北陸新幹線の敦賀~新大阪間のルートが、小浜から南下して京都を経由する、所謂「小浜・京都ルート」に決定したことで、同構想は存在意義並びに優位性を完全に失い、事業計画は中止を余儀なくされました。また今後西日本ジェイアールバスの路線の維持に関しても、特にこのコロナ禍で大きく業績を棄損したJR西日本は、地方路線の運用について大幅に見直す方向へ舵を切ったことから、存廃も含めて検討の俎上に上るやも知れません。

兵どもが夢のあと・・・「京都府山科ヨリ滋賀県浜大津、高城ヲ経テ三宅ニ至ル鉄道」の未成区間の物語は、こうして歴史から、そして人々の記憶からも忘却の彼方へと誘われていくのです。

 【おしまい・・・・・・かな?】

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“アミンチュ”ボンネットバス奮闘記~幻影・若江線巡礼(前篇)

後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

昨年末に特集でお届け致しました“アミンチュ”ボンネットバスが令和に辿った数奇な運命の物語(その道のりは以下のリンクの記事から是非ご一読ください)。

>>>甦れ!“アミンチュ”ボンネットバス顚末記~邂逅篇

無事再生作業を終えた後、微調整を重ねながら、昨年9月20日の公試運転、10月3日と12月6日の公式復活運行と元気に湖國の道を駆け抜けています。

かねてより所有者である二輪工房代表の村田さんには、「かつての江若(こうじゃく)鉄道が成し得なかった夢の道を走行する機会があれば是非同乗取材させてください」とお願いしておりました。ただもともとBXD30は路線バスとして使用されることを前提に製作されたモデルであるため、これを実現させるには半世紀以上近距離運行に供してきた老体が、守山から片道約80kmの長距離運行に耐え得ることが大前提となります。然も行程の約1/3は勾配約11‰の山岳路。恐らく江若交通堅田営業所配置時代にも経験のない運行ですから、実現のハードルは非常に高いのではと推察しておりました。

RMライブラリー『江若鉄道(上)(下)』【ネコ・パブリッシング刊】

かつてこのBXD30が所属していた江若交通の前身である“江若鉄道”が成し得なかった夢の道とは・・・今年に入りネコ・パブリッシングよりRMライブラリーシリーズで『江若鉄道 (上) (下)』が刊行されました。今は亡き江若鉄道について豊富な情報と写真で詳細に解説しています(残念ながらバスに関する記載はございません)ので、是非ご覧になってください。

2021(令和3)年2月16日。村田さんから1通のメールが届きました。文面には『今津小浜線(熊川宿経由)運行に向けたロケーションハンティングを明日行う』旨が書かれていました。折しも翌17日は滋賀県湖西地方並びに福井県嶺南地方は生憎の雪予報。運行実現が一歩前進した喜びと、何やら前途に暗雲を感じさせる予感に複雑な心境を覚えました(後日、村田さんより無事ロケハンを終えたとのお知らせを戴き安堵しました)。

BXD30のある風景 JR守山駅東口ロータリー

新型コロナウイルスの感染状況が全国的にやや膠着状態となっていた2021(令和3)年3月28日午前9時。行先方向幕に「守山駅」行きを掲出したBXD30が、JR守山駅東口ロータリーに颯爽と現れました。

今年の3月は何故か週末に限って“雨”という特異な周期の天候が続いていました。せめて最終日曜日だけは・・・との願いも虚しく、ご多分に漏れず朝から雨に見舞われました。

BXD30のある風景 近江鉄道バスとの邂逅

JR守山駅は、現在でも江若交通がJR堅田駅間で「びわこ横断エコバス(84系統琵琶湖大橋線)」を乗り入れている拠点。昨今交流を深めている江若バスの運転手の方々には特に違和感は感じておられないようでしたが、共にJR守山駅に乗り入れている近江鉄道バスの運転手の方々の眼には「様々な意味で」奇異に映ったように感じました。

BXD30にとってかつての古巣の後輩との出逢いはどのような心境でしたでしょうか。

さてこの地より『江若鉄道悲願の若狭へ』と称し、復活運行第3弾・史上初の公式滋賀越境&連続長距離運行を果たすべく、一路福井県小浜市を目指します。

JR守山駅を出発し、84系統琵琶湖大橋線同様国道477号を西進。琵琶湖大橋を渡り、琵琶湖大橋交差点から県道558号(旧国道161号)に入り、かつての江若鉄道線にほぼ並行してひたすら北上します。

心なしか北上するにつれ、徐々に雨脚も弱まってきました。

BXD30のある風景 道の駅 藤樹の里あどがわ

途中、道の駅 藤樹の里あどがわにて運転停車(トイレ休憩)。当日ここではイベントが行われていたためか、突然出現したノスタルジックバスに、ギャラリーが集まり出しました。例年よりも随分と早かった桜の開花も、復活運転に花を添えてくれています。

行先方向幕は「今津駅」行きを掲出しています。

因みにここ安曇川(あどがわ)は、江若鉄道が延伸を果たせなかった福井への道程をバスで補完した路線の起点となった地です。かつては近江今津駅発着の国鉄バス(現・西日本ジェイアールバス)との共同運行で、江若バスは当時同じ京阪グループであった若狭フィッシャーマンズ・ワーフとの間を結んでいましたが、惜しまれつつ1997(平成9)年3月8日に廃止。現在は西日本ジェイアールバスが、JR近江今津駅とJR小浜駅間を単独で運行しています。

BXD30のある風景 江若鉄道 旧近江今津駅

午前10時30分、かつて江若鉄道の終着点であった旧近江今津駅に到着。廃線後、駅跡地は今津町農業協同組合(後にJA今津町、令和3年4月1日付でJAレーク滋賀に合併)の所有となります。プラットホームを含む駅構内は県道291号と農協関連施設、後に一部がくみあいマーケット(現・Aコープ)今津店の店舗及び駐車場に。駅舎は農協旅行センターに転用されましたが、その後温浴施設、テナントの食堂、スーパーマーケット建設時の現場事務所と用途を変え、最終的には倉庫として使用されていました。

その後は老朽化に伴い幾度となく解体の話題が持ち上がっていました。今回約20年振りに再会を果たしたのですが、これが“虫の知らせ”と申しましょうか、この時点で駅舎の運命は既に決していたようです。

JA今津町はJAレーク滋賀に合併する直前の3月に行われた江若鉄道近江今津駅舎保存活用協議会との協議で、駅舎の売却条件や土地の賃料について合意に至らず交渉は決裂。大型連休明けの5月6日より解体作業が開始され、5月中旬には工事が完了することが決定しました。

1930(昭和5)年12月に竣工し、鉄道廃止後も約90年もの間、湖西地方の歴史を見守ってきた旧近江今津駅舎。かつての江若鉄道のよすがを伝える唯一無二の鉄道遺産であり、当時の地方鉄道としては珍しい三角屋根を擁する洋風デザインは、再整備次第では国指定登録有形文化財の対象となる価値も見出せただけに、ただただ残念至極と言わざるを得ません。

BXD30のある風景 旧近江今津駅をあとにいざ小浜へ

旧近江今津駅舎最期の雄姿に別れを惜しみつつ、BXD30は行先方向幕を「小浜駅」行きに変換し、江若鉄道果ての地を後にしました。

いよいよここから江若鉄道が成し得なかった夢の道。1922(大正11)年公布の改正鉄道敷設法別表第77号に記載された「京都府山科ヨリ滋賀県浜大津、高城ヲ経テ三宅ニ至ル鉄道」で未成の区間を辿る道。全長約20km、勾配約11‰の山岳路。BXD30は越境して小浜へと続く九里半街道(九里半越)走破に挑みます。

 【後篇へ続く】

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アマビエより最強!?“元三大師”の伝説(後篇)

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引き続き、アマビエより最強!?“元三大師”の伝説をお届け致します。

最澄(伝教大師)が開いた天台宗の総本山・比叡山延暦寺には、多くの日本仏教界のカリスマ的人物が修行に訪れています。浄土宗の開祖・法然、臨済宗の開祖・栄西、曹洞宗の開祖・道元、浄土真宗の開祖・親鸞、日蓮宗の開祖・日蓮と卒業生は錚々たるメンバーです。

しかし開祖の最澄を除き、全て近江國(滋賀県)外の出身者ばかり。まぁそれだけ当時の仏教界に於いて、延暦寺は絶対的な存在にあったということの裏打ちなのですが・・・。

さて今回は長浜市の旧虎姫町エリアを訪れております。

元三大師御産湯井

天台宗中興の祖・良源、実は北近江の出身なのです。良源は延喜12(912)年、近江國浅井郡三河村(現在の滋賀県長浜市三川)で、湖北の豪族・木津(こづ)頼重の子として誕生しました。

幼名は観音丸(日吉丸とも)と称し、その際産湯を使ったと伝えられる井戸が元三大師御産湯井として今でも遺っています。

かつては毎年8月7日にこの産湯井で元三大師御水替行事(井戸さらえ)が行われていました。井戸から浮き上がる籾(もみ)の数や色艶によって1年の作況が占われていました。

因みに良源の誕生には異説が伝わっています。

月子姫墓

比叡山開創1200年を記念し、1987(昭和62)年に比叡山宗教サミットを主催した第253世天台座主・山田恵諦(やまだえたい)氏の著書『元三大師』にはこのような記述があります(一部要約)。

良源の生母は月子姫(つきこひめ)といい、もとは湖北の豪族・物部氏の娘でした。月子が12歳の時に宇多天皇(うだてんのう/第59代天皇で後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にあたる)が竹生島に行幸あそばされ、その際に接待の役を務めました。このことが縁となり、16歳で宮中に出仕するようになりました。そこで月子は天皇の寵愛を一身に受け、程なくして懐妊しました。良源は所謂御落胤という訳です。

出産のため里帰りし、木津頼重の屋敷に身を寄せました。観世音菩薩を祀る大吉寺(平安時代前期に浅井長政の祖先が比叡山と協力して開山された長浜市野瀬町にある天台宗の霊場)に安産祈願を行います。そして無事男子を出産。観世音菩薩に祈願して生まれた子ということで、観音丸と呼ばれたと云われています。飽くまでも諸説あるお話の1つですが、比叡山での修行の道のりは決して順風満帆とは言えぬものの、その後外戚関係を結んだ天皇家や藤原氏の後ろ盾を得て、大器晩成の活躍を遂げたことを考えると、あながち「ウソ」とも断定出来ません。

暇乞いの橋

良源が第18世天台座主に就任した頃、三河村に居る母・月子は病に臥せっていました。この報を聞き付け直ぐさま母の元へと帰りますが、看病の最中に朝廷より法華八講(ほっけはっこう/法華経八巻を八座に分け、通常1日に朝夕二座講じて4日間で完了する法会のこと)の勅命が下り、直ちに京へ戻らねばならなくなります。

良源は別れを悲しむ母のため、等身大の身代りの木像を刻んで、それを枕元に置き帰路につきます。病床の母を案じ、涙を流しながら三河村を後にしようとしたその時、木像が急に動き出し、村外れの小橋まで良源を見送りました。その後本人に代って母の看病を続けたと云います。

この小橋は暇乞い(いとまごい)の橋と呼ばれ、現在でも三川集落の西端にある七縄川(しちなわがわ)に掛かっています。

栄光山 玉泉寺

981(天元4)年、良源70歳の時。僧としての最高位である大僧正に任ぜられます。日本史上最初に大僧正の称号を与えられたのは、奈良時代の745(天平17)年に聖武天皇号令の下、東大寺造営や数々の社会事業に大きく貢献した行基(ぎょうき)。それ以来実に236年振り、2人目就任の快挙でした。これを機に良源は、生まれ故郷の三河村に栄光山 玉泉(ぎょくせん)を開創します。

しかし1570(元亀元)年の姉川合戦に端を発する兵火によって焼失。なお現在の本堂は江戸時代中期の1780(安永9)年に彦根藩12代藩主・井伊直幸の寄進により7建て替えられたもので、本堂小屋組に「安永九年庚子年五月 彦根御寄附木」と墨書された木が見られます。

元三大師加持水井

境内には書院・鐘楼・庫裏の他に、良源が祈祷を行う際に使われたと伝わる元三大師加持水井も残っています。なお前述した産湯井の元三大師御水替行事は、そもそも本堂の仏壇に供える閼伽水(あかみず/仏前などに供養される水のこと)を1年分、瓶に汲んでおくために行われたのが始まりだそうです。

本尊は木造慈恵大師坐像で、国の重要文化財に指定されています。秘仏のため50~60年に一度の御開帳となり、直近では昨年2020(令和3)年。良源の御誕生日である9月3日に、150名限定の完全予約制で特別拝観が行われました。ですから次回は・・・無理っぽいですね(苦笑)。

因みにこの御本尊様は、良源を村外れまで見送ったあの木像と伝えられています。しかし肝心の仏像が鎌倉時代作とされているので、そこはファンタジーと捉えてください。

若い頃から苦労を重ね、大器晩成の典型で晩年に様々な功績を上げ、多くの人々を救った良源。その強烈な個性はそのまま畏敬の念となって人々に敬われました。入滅後もまるで真言宗の開祖・空海の如く、「比叡山を守護するため、浄土へ往かず山に留まった」など多くの霊験談や説話に彩られ、次第に良源自身が開祖・最澄を凌ぐほどの信仰対象となりました。

今まさに疫病蔓延の時代ですが、このようなスーパーマンが滋賀にも存在したことを知る契機として戴ければ幸甚です。なお我が家では野洲・兵主大社とこちらの玉泉寺より病魔退散の護符を授与戴いた御蔭を以て、家族一同元気に過ごしております(笑)。

栄光山 玉泉寺

・滋賀県長浜市三川町945
【TEL】  0749-73-2723
 ◎元三大師御産湯井・・・玉泉寺門前より西方約30m
 ◎月子姫墓・・・玉泉寺門前より西方集落内約80m
 ◎暇乞いの橋・・・玉泉寺より西方約570m(県道275号三川月ヶ瀬線 三川口橋北入ル)
 ◎元三大師加持水井・・・玉泉寺境内

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アマビエより最強!?“元三大師”の伝説(前篇)

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コロナパンデミックも2年目に突入。もともと予想はしていましたが、日本を始め世界的にも昨年に比して更に悪化の感染状況。この状況は少なくともあと3~4年は続くと思われます。こと日本に限って言えば、島国であれば迅速な対応で、ある程度抑え込めた筈の水際対策。飽くまでも“国民の良心と要請”に頼らざるを得ない、危機管理が希薄で有事に脆弱な政治と法治体制。早過ぎるワクチン開発・承認と、これを巡る外交戦略のお粗末さ。大東亜戦争終結後、経済の発展のみを訴求し、人として国家としての有り様を真正面から議論することを置き去りにしてきた。その75年に渡る『平和ボケ』の代償を、今我々は突き付けられているように感じます。

申し訳ございません、お話を元に戻します。昨年、国民の“病魔退散”への切なる願いから、アニメ『鬼滅の刃』や妖怪・アマビエが爆発的なブームとなりました。でも滋賀には滋賀で、アマビエに負けないインパクトとパワーを持ち備えたスペシャリスト(?)が存在することをご存知でしょうか?

次の写真をご覧ください。このキャラクターを民家の軒先や玄関などで見掛けたことはございませんか?

角大師

これは角大師(つのだいし)と呼ばれるもので、平安時代中期より当時の京都や滋賀を中心に「悪魔降伏・病魔退散」といった魔除けの信仰対象として流布していました。

この角大師にはこのような云われがあります。

比叡山

むかしむかし比叡山に、とある高僧がおりました。その僧は大変容姿が美しく、都の貴族に招かれて祈祷に赴く度に、しばしば若い女官から誘惑を受けていました。

「このままでは仏道を外れ、魔道に落ちかねない」・・・そう考えた僧は、自ら鬼の姿となって魔道から逃れようとしたそうです。

また疫病が蔓延していた永観2(984)年の或る時こと。この僧が書斎で書物を読んでいると、何処からともなく疫病神が姿を現しました。そしてその疫病神はこう申しました。

「我は疫病神である。貴方は今厄に当たっておられる。よって世の流行病に侵されねばならない因縁にある。怖れながらお身体をお借りしに参りました」と。するとその僧は「因縁ならば是非もない。兎も角汝の申す通りと致そう」と左手の小指を差し出しました。

すると疫病神は小指から僧の身体に乗り移ります。程なくして全身に悪寒と激痛が襲い、加えて高熱を発し、実に堪え難い苦しみを感じました。因縁とはいえ流石にこの状態に困り果てた僧は、精神を集中し、法力と祈祷でもって疫病神を退散させました。するとたちまち元の身体へと戻ったのです。

疫病の苦痛を身を以って知った僧は、「疫病をもたらす魔物の力は侮れない。病に苦しむ民を1日も早く救済せねば」と発心。すぐさま弟子に全身大の鏡を用意させ、その前で静かに祈祷を始めました。

すると僧を映していた鏡に変化が現れ、最後には恐ろしい鬼の姿が出現しました。弟子は鏡に映った降魔の姿を描き写し、その絵を版木に彫り起こしました。そしてその版木で御札を刷り、僧自ら開眼の加持を行いました。

「この護符(ごふ/お守り札のこと)を人々に配り、戸口(とぐち/建物の出入口のこと)に貼り付ければ、邪悪な魔物は近寄ることが出来ない。よって病はもとより、あらゆる厄災から守られるであろう」と弟子達に示しました。その後この御札は角大師護符と呼ばれ、新年を迎えるにあたって戸口に貼ると家人は疫病に罹患せず、また病人も全快し、更にあらゆる厄災から逃れられたと伝えられています。

さて疫病や厄災という世の全ての病巣を、一旦自らの身体に取り込み、法力でもって抗体を作り、角大師というワクチンを開発した悪魔退散のスペシャリストとは・・・

良源(元三大師)

平安時代中期の天台宗の僧。比叡山延暦寺の中興の祖にして、何と日本のおみくじの創始者でもある慈恵大師・良源(じえだいし・りょうげん)その人です。良源は元三大師(がんざんだいし)とも呼ばれ、現在ではこちらの呼称がポピュラーになっています。因みに“元三”の名は、良源が正月三日に入滅したことに由来します。

良源は12歳(15歳とも)で比叡山に登り、西塔宝幢院の理仙大徳に師事。17歳で受戒(仏教に帰依する証として戒律を受持すること)。55歳で第18世天台座主に就任しました。就任後は比叡山の伽藍の復興、天台教学の興隆、山内の規律の維持、僧兵暴徒化の抑制に貢献し、天皇家や摂関家の篤い帰依を受けました。

この角大師の護符のエピソードは、良源が亡くなる前年のもの。 疫病神を受け入れてしまったことが寿命を縮めてしまった要因であったかどうかは定かではありませんが、当時としては超高齢にあっても凄まじいパワーと能力の持ち主であったことは否めない事実です。そんなスーパーマンが編み出した護符ですから、ご利益に与れない訳がありません。

角大師護符

角大師護符は良源の御廟(墓所)がある比叡山延暦寺・横川(よかわ)地区にある元三大師堂を始め、京都市内にある良源や延暦寺に所縁のある寺院(大原三千院・真正極楽寺真如堂・蘆山寺・法住寺)で、現在でも授与されています。

なお授与所により微妙に角大師のお姿が異なりますので、護符の違いを愉しむのもまた一興かと存じます。

そして昨年になって新たに角大師護符授与を再開された寺院があります。そこは比叡山匹敵する程の良源所縁の場所で、小生もこちらで護符を授与戴きました(上記写真は拙宅の戸口です)。次回はその所縁の地をそぞろ歩きたいと存じます。

【後篇へ続く】

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湖國寂静紀行“北近江の奥座敷・須賀谷”(後篇)

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引き続き“北近江の奥座敷・須賀谷”を巡り歩きます。

須賀谷案内板

さてもう一度、須賀谷への玄関口に戻ってみます。前篇では須賀谷温泉をご紹介致しましたが、案内板には片桐且元(かたぎりかつもと)の出生地とも併記されています。

歴史好きの方ならまだしも、『片桐且元って誰?』という諸氏もいらっしゃるでしょう。それにしましてもこの案内板、歴史に特段興味の無い方にも「へぇ~」と思って戴ける表記の工夫が必要ですよね。

片桐且元

この方が片桐且元です。どのような人物かを簡単にご説明致します。

もともと父ともども浅井長政に仕えていました。浅井氏滅亡後に湖北の領主となった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が地元で広く優秀な人材を募っていた際、石田三成と同じ様に仕官しました。織田信長亡き後、跡目争いをめぐって織田家臣団の勢力抗争が勃発。その後天下分け目の戦いとなった賤ヶ岳(しずがたけ)合戦で、福島正則や加藤清正らと共に活躍し、一番槍の功を認められて賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられます。以降秀吉の腹心の一人として活躍し、やがて秀吉の子・秀頼の傅役(もりやく)、関ケ原合戦後は豊臣家の家老にまで上り詰めます。最後まで豊臣家に忠義を尽くし、当時勢力を拡大しつつあった徳川家康との調整役をも担います。しかしこの調整役という立場が仇となり、秀頼の母・淀殿の側近たちに家康との内通を疑われ、大坂の陣を前に豊臣家を去ることとなります。以後は家康に仕え、大和竜田藩1万石の初代藩主となり、豊臣譜代の武将には珍しく後世に家名を残しました。

この須賀谷はそのような戦国武将の出生地と伝えられています。前説はこの程度にしまして、須賀谷温泉から先へ歩みを進めると致しましょう。

須賀谷集落

谷間の狭い場所に位置する須賀谷集落。1872(明治5)年は戸数9軒・人口40名、1979(昭和54)年には戸数8軒・人口32名。現在も然程規模に変化は無く、近世より限界集落の様相を呈していたように思われます。

江戸時代は彦根藩領となり、村高は江戸期を通して51石余(およそ7.7トン)。稲作を除いて他に産業は無かったようです。

須賀谷川

小谷山を水源地とし、集落の中心を流れる須賀谷川。小さな川ながら相当の流量を呈します。

浅井氏は1570(元亀元)年、姉川合戦で織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、そのまま滅亡したように思われている節があります。でも実はその後3年間も信長と対峙し、最終局面となった小谷城合戦でも、約1ヶ月に渡り籠城戦を展開しています。その長期戦を耐えたのには、この豊富な水の存在が大きかったに違いありません。

神明宮

集落の中央部には、長政の父・久政が1548(天文17)年に建立したと伝わる神明宮があります西隣の集落・長浜市小谷郡上町(旧湖北町郡上)に鎮座する尾崎神社(明治8年に神明宮より改称)の末社で、イザナギノミコトを御祭神とします。

小谷郡上町は戦国時代、清水谷と呼ばれ、小谷城の武家屋敷エリアの中枢でした。しかし勢力拡大と共に新たに武家屋敷エリアの造成を迫られます。その場所として選定されたのが須賀谷で、この集落誕生の契機となりました。

尾崎神社は浅井氏に少なからず所縁があるため、新たな武家屋敷エリアに神明宮が分祀・建立されたのではないかと推察致します。なお写真には写ってはいませんが、境内には地蔵堂や鐘楼があり、神仏習合の名残とはいえ、とても奇異な印象を受けます。

観音堂跡石積

集落から外れ、道は徐々に狭く傾斜もきつくなってきます。すると今にも自然へと還りそうな石積が忽然と出現します。ここは片桐且元に所縁のある観音堂跡です。

且元は父ともども、浅井氏滅亡のその時まで織田方を相手に死力を尽くしました。急速に勢力を拡大した浅井氏は、二代・久政の失政で混乱を生じ、譜代の家臣も少なかったことから、家臣団の結束は些か脆弱でした。

そのような中で片桐氏への信任は厚く、長政は浅井三代(亮政-久政・長政)の御守本尊であった仏像を落城の難から守るために、且元に命じてこの地に避難、安置したと伝えられています。

片桐且元公居館(須賀谷館)跡

観音堂跡を過ぎると、昨今は人の手が入らなくなったためか、次第に道も荒れ、倒木で通行もままならなくなります。やがて山中には不自然な削平地に出逢います。ここが片桐且元公居館(須賀谷館)跡になります。

片桐且元公居館と言うよりも、父・片桐孫右衛門直貞が築いた居館と表現する方が妥当でしょう。且元はここで出生し、小谷城落城時の17歳まで過ごしたと思われます。

直貞が居を構える前は、浅井氏庶家の所領であったようです。それが久政による武家屋敷エリアの新規造成を機に直貞がこの地を治めることとなった模様です。

片桐且元公頌徳碑

国道365号の分岐から約1.5km。須賀谷の北限に到達。しかも標高差は何と約46m。集落が一望出来る高さとなりました。道理で息が上がるハズです(笑)。

ここには片桐且元公頌徳(しょうとく)があります。頌徳とは徳を褒め称えること。数ある戦国武将の中では目立たない部類の且元ですが、ここ須賀谷では誇るべきヒーローなんでしょうね。

片桐孫右衛門直貞墓

片桐且元公頌徳碑の向かいには、且元の父・片桐孫右衛門直貞の墓がひっそりと祀られています。

片桐氏は、もともと信濃源氏の名族で伊那在郷の御家人であった片切氏の流れを汲みます。本流が片切郷に残る一方、支流は鎌倉時代初期に美濃國や近江國に進出して「片桐」に改姓しました。浅井氏に仕え、配下の国人領主となったのは直貞の代からと言われています。

また直貞は小谷城落城の前日の日付で、長政から感状(戦功のあった者に対して主家や上官が与える賞状)を受けています(『浅井長政書状』)。浅井氏の家臣として最後まで忠義を貫いた直貞ですが、生没年、小谷城落城後の動静、且元への家督移譲時期等、不詳な部分が非常に多いのです。

加えて豊臣家の直参として重責を担った武将の父の墓所としては、余りにも扱いが粗略に感じます。敗者の側の末路としては致し方ないのかも知れませんが、小生はそれだけでは無いような気がします。これは飽くまでも私見ですが、浅井氏恩顧の直貞は、主家を滅亡へと追い遣った張本人である羽柴秀吉に仕官した且元を許せなかったのではないでしょうか。一方且元は敗者の浅井氏に何時までも義理立てする父に嫌気が差していた。そしてこれが契機となり、互いに父子の関係を断絶させた。それこそが且元の父・直貞に対する扱いに表れているように思うのです。

最後に実はここ須賀谷の地名の由来は、この直貞が大きく関係しています。

江戸時代中期の1734(享保19)年に完成した、近江國の自然や歴史等についてまとめた地誌『近江輿地志略』には、「相伝浅井下野守久政小谷山に城を築くの日、此地を家士の屋敷地とし其名を撰ぶ。浅井の家士片桐孫右衛門といふ者此谷に鷹の巣をかくる岩あるを以て巣ヶ谷と改む」と記述されています。

簡単に説明しますと「浅井久政の家臣・片桐孫右衛門が主君の命を受けて、谷に鷹の巣が掛かる岩を見たことに因み、この地を巣ヶ谷と名付けた」となります。この一文を見ただけでも、直貞が浅井氏の家臣の中でも特段信頼を得ていたことが伺えます。

さて今回、小谷山の麓、谷間の小さな寒村・須賀谷をそぞろ歩きました。“とある鄙びた温泉”“とある戦国武将の生まれ故郷”・・・共に観光振興の資源としてはとても弱いものです(実際に活かし切れているとは思えません)。でも色々と探求していくと、とても興味深い素材を内に秘めていることが解りました。こういった素材を地道に拾い集めて、より多くの方々にご紹介出来ればと思います。

近くにまた別の戦国武将の生誕地がありますので、機会を見つけて訪ねてみたいと思います。さてはて本丸の小谷城攻略は何時のことになるのやら・・・(笑)。

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湖國寂静紀行“北近江の奥座敷・須賀谷”(前篇)

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私事ではございますが、何時も記事タイトルには“副題”を付けております。しかしこれが意外と頭痛のタネだったりします(笑)。負担軽減(?)のためにも、今後は「滋賀の小さな徒然旅」は湖國寂静紀行(ここくじゃくじょうきこう)として、カテゴリーを順次整理統合して参る所存です。

さて今回は長浜市の旧浅井町エリアを訪れております。

ここは、昨今名将としての実力が再評価されている戦国大名・浅井長政のお膝元。因みに浅井は“あざい”と読むことが意外と知られていない事実。それはさておき、ここに来れば歴史好きならやはり長政の居城・小谷城跡を訪れることはテッパンな訳で・・・。

小谷山(小谷城跡)

確か小谷城は日本五大山城の1つ。本丸は標高495m、小谷山の頂上部。麓から遠い目で小谷山を眺め遣ること約10分・・・今日は健脚に一抹の不安を覚えたため攻略を断念(苦笑)。

しかしここまで来て何もせず帰路に就くのも、何とも芸の無い話。「そう言えばスガタニはこの近くであったハズ」と思い出し、早速ナビを頼りに訪れることと致しました。

スガタニとは数少ない滋賀県内の温泉地の1つ。子供の頃からその名は存知していましたが、老人会の皆さんが旅館の送迎バスで出掛けて行ったところ・・・小生の認識はその程度なのでした。

須賀谷案内板

小谷山登山口から国道365号を南下すること約1km。交通量が少ないので漫然と運転していたら見逃してしまいそうな案内板に従って山間の細道を進みます。

然程勾配を感じない道ですが見通しが良くないので比較的ゆっくりとクルマを進めました。そのせいか行けども行けども温泉街や集落は見えず、山と田圃の風景が続くばかり。

須賀谷温泉(新館)

国道365号の分岐から進むこと約1km。忽然と大きな宿泊施設が出現します。これが須賀谷温泉です。小生が幼少の頃より抱いていた「鄙びた~」イメージとは少し異なりました。

ここは温泉地と申しましても、御宿は1軒しかありません。足湯施設や公衆浴場もありません。また滋賀は火山帯の地質ではありませんので、源泉は13℃の冷鉱泉。当然有名な温泉地のようにもうもうと湯煙が立っている訳でもありません。よって“温泉街”というものは存在しませんでした。

さて、ここで須賀谷温泉の歴史に触れてみたいと存じます。

泉源は古くから地下水が湧出しており、戦国時代に浅井長政や妻・お市の方を始め、浅井氏所縁の諸将が湯治に通った温泉と伝えられています(但しこのエピソードを記述した文献を特定するには至りませんでした)。その後浅井氏の滅亡とともに、この温泉の存在は約350年もの間、歴史の陰に忘却されてしまうこととなります。

須賀谷温泉湯元

1921(大正10)年のこと。当時この地の所有者であった大野宗八はこの伝承を聞きつけるや、湧水を沸かし入浴を試みます。すると芯から温まり、湯冷めも無く、身体に非常に良いことを知ります。

早速宗八はこの湧水の分析を内務省大阪衛生試験所に依頼。結果、浴用や貧血や神経痛などの内用にも効果がある旨の証明書が、1923(大正12)年12月5日付で交付されます。

須賀谷温泉(昭和舘)

内務省のお墨付きを得た宗八は、5年後の1923(昭和3)年2月。この地に温泉旅館を建設。須賀谷温泉・昭和館と命名し、本格的に温泉事業へと乗り出します。

しかし日本が第2次世界大戦へと突入し、物資貧窮の中、不要不急の温泉旅館の経営は困難を窮め、止む無く休業を強いられます。戦後も営業再開は叶わず、宗八は志半ばで他界することに。ようやく日の目を見た須賀谷の湯でしたが、このままその灯は消えゆくかに思われました。

1961(昭和36)年。高度成長期の好景気の中、浅井町が観光振興の一環として温泉の再開発を計画。宗八の相続人であった大野武雄より、温泉の権利と泉源地370㎡を譲り受け、道路等のインフラを整備します。

須賀谷温泉(旧舘)

1970(昭和45)年に温泉再開に向けた再開発事業が完了。翌1971(昭和46)年には新たな温泉旅館が開設されました。

その後、浅井町の施設として老人センターや勤労者憩いの家が建設され、町民の保養所はもとより北近江の奥座敷としての地位を確立しました。

主に団体客や地元の宴会需要に支えられてきた須賀谷温泉。長浜や彦根といった主要駅から、定期的に送迎バスを運行するほどの盛況振りでした。しかし施設の陳腐化と利用者の嗜好性の変化への対応、転換を余儀なくされます。そして2004(平成16)年9月。新たに高級感と快適性をコンセプトとした新館を開設し、現在に至ります。

決して順風満帆な温泉人生を送った訳では無かったことを、今回の訪問で初めて知りました。でも節目節目の歴史の流れを現地で垣間見られるというのは非常に珍しいのではないかと思います。

最後に須賀谷温泉最大の謎について迫ってみたいと思います。

須賀谷温泉(左・褐色湯/右・透明湯)

「ここの温泉は何故“褐色湯”と“透明湯”が併存するのか?」という疑問。県外の利用者や温泉愛好者からも、「透明の方は“ただの沸かし湯”ではないのか?」と訝る声もあるとか。

温泉法に基づく規格該当鉱泉で、成分はヒドロ炭酸鉄泉(現在は含鉄-カルシウム・マグネシウム-炭酸水素塩泉と表記)。療養泉(治療の目的に供し得る温泉)には該当しないため、泉質は「無し」となります。簡単に申しますと、温泉法で規定する成分は含有する水ですよということ。

もともとは湧出時に酸化して赤茶色となる鉄泉のみを湯元としていました。同じ長浜市内にある長浜太閤温泉も近似の成分のため、同様の色をしています。

新館建設時に新たな地下水の湧出を認め、成分検査を実施。結果本来の源泉と成分はほぼ近似しているものの、何故か透明のまま変色しないようです。よって湧出量の多い地下水(透明湯)を露天風呂と内湯に使用し『秘湯』として。本来の湯元の鉱泉(褐色湯)は内湯の一角に『源泉』として棲み分けて使用しているというのが、どうやら真相のようです。

滋賀県下の温泉で初のかけ流し式を実現した須賀谷温泉。現在のコンセプトには賛否両論あるようですが、まだまだ発展途上にあり、今後も進化するであろうと思います。小生のお奨めと致しましては、宿泊利用で温泉とコース料理をじっくり堪能し、スタッフのサービスクオリティを体現して貰えれば、その良さの一端を垣間見て戴けるものと存じます。

【後篇へ続く】

須賀谷温泉

・滋賀県長浜市須賀谷町36
【TEL】  0749-74-2235
【休業日】  年中無休
【営業時間】 ※日帰り利用に関しましては新型コロナウイルス感染症予防対策により
        現在変則営業中です。詳しくはホームページにてご確認ください。

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近江鬼滅夜話“安吉橋”の伝説

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前回に引き続き“近江鬼滅夜話”をお届け致します。今回は近江八幡市の旧近江八幡市エリアを訪れております。

旧近江八幡市の中心部から南部へ延び、蒲生郡竜王町とを結ぶ県道14号近江八幡竜王線が通じています。1993(平成5)年に当時の建設省から主要地方道に指定され、湖南市や甲賀市への短絡ルートとして毎日多くの車輛が行き交っています。

今回訪れましたのはその県道14号の近江八幡市倉橋部(くらはしべ)町と竜王町弓削(ゆげ)との境界に位置する日野川。

安吉橋親柱

ここに安吉橋(あぎばし)という橋が架かっています。

古くは安義橋と称したのですが、何時の頃からか現在の表記となったようです。

安吉橋(昭和40年代)

かつてはこのような、如何にも伝説に彩られた趣のある橋でした。

平安時代には「安義橋」の存在が文献に認められることから、ここは随分昔から生活路として機能していたことが伺えます。

その安吉橋にはこのような伝説が語り継がれています。

時は平安時代。多くの人の往来があったこの道である奇妙な噂が立ちました。「安義橋で鬼が出没し、そこを通ると生きて帰れない」と。この話により、めっきり人通りが減ってしまいました。

或る時、近江国守に仕える若者たちが館でこの噂を話題にしていました。すると安義橋近くに住まい、いつもふざけた強がりを言う男が「よし!館で一番の馬があれば儂が渡ってやる!」と豪語。周囲は囃し立てます。言い出した男はもう後に引けなくなりました。しぶしぶ男は近江国守の馬を借りて、その尻に油を塗り、橋を目指しました。

夕闇迫る頃、男は橋のたもとに差し掛かります。当然人影は見えません。男は恐る恐る橋を渡り始めると、橋の中ほどで一人の女が立っているのを見掛けます。

「これは鬼の化身に違いない」と感じた男は、咄嗟に女の横を通り過ぎました。すると女は何かを口にしながら男の後をついてきます。

男が振り返ると、そこには身の丈は九尺で青緑の巨体。手の指は三本、長く伸びた爪は五寸。そして一つ目で真っ赤な顔の鬼が、凄まじい形相で立っていました。

鬼は何度も男の乗る馬を捕まえようとしますが、尻に油が塗ってあったために捕まえることが出来ません。鬼は「これで逃れられたと思うな」と捨て台詞を吐いてふっと消えました。

すぐさま男は館に逃げ戻り、国守に事の顛末を話しました。国守は男にその馬を褒美として与えました。しかしその後、男の家では奇妙な出来事が起こり続けます。

気味が悪い男は祈祷師に占ってもらいました。すると祈祷師は「鬼の祟りが乗り移っているので物忌み(定められた期間にある種の日常的な行為を控えて穢れを避けること)をするように」と告げられました。

物忌みを行っていた日の夕方、奥州(おうしゅう/現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県の地域)にいた弟が、従者を伴って突然男のもとを訪れました。当初は物忌みを理由に面会を拒みました。しかし母の死を知らせにに来たというので対面することにしました。

しばらくして、男の部屋から激しい喧嘩の物音が聞こえてきます。これに驚いた男の妻が駆けつけると、兄弟で上になり下になりの取っ組み合いを行っています。やがて弟が上になるや否や、男の首を食いちぎってしまいました。

そして満足げな笑みを浮かべ、ふっと消えてしまいました。その表情はまさしく男が安義橋で遭遇した鬼の顔そのものであったそうです。また弟とその従者も、その場で骸骨と化したといいます。

この話を聞いた周囲の人々は「つまらぬ強がりで生命を落とすとは愚かなことだ」と笑ったといいます。それ以来、安義橋に鬼が出没するという話が更に広まったのです。

安吉橋地蔵

その後、様々な加持祈祷でもって鬼が封じ込められ、それ以降出没しなくなったたそうです。このお話は『今昔物語集』巻二十七に、「近江国安義橋鬼人噉喰語(近江国ノ安義橋ノ鬼、人ヲ喰ラフ話)」として所載されています。

今となっては人々の記憶から消えつつあるこのお話も、橋のたもとに御座しますかなり年季の入ったお地蔵様が全ての成り行きを静かに見守っている・・・そのように感じます。

安吉橋(現在)

今も昔も交通の要衝であった安吉橋。増大する交通量に老朽化が進行し、2006(平成18)年3月に架け替えられ、益々伝説の地としての様相は薄まってしまいました。

最後に逸話を一つ。このお話をベースとして、1984(昭和59)年に『アギ/鬼神の怒り』という映画が製作されました。当時空前のムーヴメントを席巻したスプラッター・ホラー・ブームに乗った作品ですが、余りにも内容がマイナー過ぎて人々の記憶に残ることは殆どありませんでした。

また2001(平成13)年には夢枕獏の伝奇ホラー物語集『ものいふ髑髏』にもこのエピソードが所載されましたが、これも特段ムーヴメントを生むには至りませんでした。世が世なら“聖地巡礼”で盛り上がった!・・・かも知れません。

今回のお話。“鬼滅”とタイトルが付いていますが、“鬼を滅した”ではなく、“鬼に滅せられた”エヒソードでした。この男には“館で一番の馬”てはなく、全集中の呼吸と“日輪刀”が必要でしたね(笑)。

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近江鬼滅夜話“鬼の首塚”の伝説

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久し振りに「滋賀の伝説」をお届け致します。今回は東近江市の旧能登川町エリアを訪れております。

昔々、平安時代の初期。朝廷に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)という武官がおりました。

坂上田村麻呂

田村麻呂は武芸・軍略に優れ、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に二度も任官されるほどの人物でした。小生も日本の歴史上征夷大将軍を冠した数多の人物の中で、最もその官職に相応しい人物であると考えております。

後代に様々な伝説を生み、“稀代の名将”“ 毘沙門天の化身”とも称され、文才に長けた菅原道真と共に平安期に於ける文武の双璧の一角を成す象徴的な存在でした。

「征夷大将軍ってそんな昔からあったの?」「○○幕府の将軍のことじゃないの?」などと仰る方もいらっしゃるのではないでしょうか?

実は鎌倉幕府以降の将軍職に付与されていた“征夷大将軍”は、武家の頭領としての象徴的官職として「武士の自治」を事実上朝廷に認めさせるための形式的なものでした。

本来は朝廷より蝦夷(えぞ/当時の東北地方以北)征伐を命じられた軍隊の総司令官に与えられた重責ある官職だったのです。

さて今から1220年前の延暦10(791)年のこと。伊勢國(現在の三重県)・鈴鹿山で大嶽丸(おおたけまる)という鬼神が悪事の限りを尽くし、その影響で周辺の往来が途絶えてしまいました。このことを憂慮した桓武天皇(かんむてんのう/第50代天皇で後に平安京を造営)は、田村麻呂に大嶽丸の討伐を命じます。

早速田村麻呂は京都の清水寺で鬼神の討伐成功を祈願しました。

清水寺

すると観世音菩薩から霊感(お告げ)を得ましたので、今度は善勝寺(ぜんしょうじ)に籠ります。

お告げに従い7日間の祈りを捧げた田村麻呂は、勇躍して3万余の兵を従え鈴鹿山に向かいました。

しかし不可思議な神通力を自在に操る大嶽丸は山を暗雲で隠し、暴風雨・雷・火の粉などで討伐隊を苦しめます。 窮地に追い込まれた田村麻呂は、毘沙門天と千手観世音菩薩に祈りました。

するとある晩、夢の中に1人の老人が現れ、「この山に住む鈴鹿御前の助力を得よ」と告げられます。 田村麻呂は3万余の兵を都に帰還させ、単身鈴鹿御前を探しに鈴鹿山に入ります。

大嶽丸と鈴鹿御前

鈴鹿山に分け入った田村麻呂は、そこでこの世のものとは思えぬ絶世の美女に出逢います。

それこそが鈴鹿山に住む天女で、かねてより大嶽丸に求婚を迫られているという鈴鹿御前(すずかごぜん)でした。

鈴鹿御前は自らが囮となって大嶽丸に完全なる防御を与えている3本の宝剣を奪取し、田村麻呂に討たせるという策を講じます。

大嶽丸は鈴鹿御前の計略に堕ち、田村麻呂は見事その首を刎ねることに成功します。その後、田村麻呂と鈴鹿御前は夫婦となりました。

持ち帰った大嶽丸の首は善勝寺に埋めました。その善勝寺は東近江市佐野町の猪子山(いのこやま)中腹にあります。

善勝寺

善勝寺は創建当初、釈善寺と号していました。しかし田村麻呂の東征勝利に因んで改称したのだそうです。

善勝寺には次のような御詠歌が残っています。

鬼にさえ 善く勝つ寺ときくからに なほたのまるる 人ののちのよ

善勝寺の境内奥地にある墓地の中に、2m四方もある一際目立つ巨石があります。これが大嶽丸の首を埋めたという鬼の首塚です。

鬼の首塚

討伐時の戦利品も埋められていると伝えられており、かつて村人がその北面の崖を掘ったところ古墳のような構造になっていて、約3m下には石垣のようなものもあったそうです。

鬼の首塚のあるこの一帯、何やらまがまがしい空気で包まれているような雰囲気を感じます。あながち“単なる御伽噺(おとぎばなし)” ではないような気もします。

なお田村麻呂が7日間籠ったというこの善勝寺。

実際はこの寺の境内ではなく、厳密には奥の院と呼ばれる場所であったとか・・・。

北向岩屋十一面観音

その“奥の院”と称される猪子山頂には、北向岩屋十一面観音(きたむきじゅういちめんかんのん)が祀られています。

この観音堂の奥にある岩屋には、高さ55cm程の石像の十一面観音が安置されています。

ここに籠って田村麻呂は祈願したと伝えられています。

十一面観音石像

こちらの十一面観音は合掌する手に数珠を掛けており、全国的にも大変珍しいお姿をされています。

災厄消除と災害防除に御利益があるといわれており、毎年7月17日には千日会法要が盛大に勤行され、京阪神や中京方面からの多くの参拝者で賑わいます。

さらに毎月17日にも、近在の信者が多数参拝に訪れます。

ちなみに琵琶湖の絶景or夜景をご覧になりたい方にもおススメです。

奥の院からの眺望(1)

西は長命寺山(ちょうめいじやま)・八幡山から、北は遥か竹生島(ちくぶしま)までのパノラマが堪能出来ます。

そして滋賀のアルプス(?)ともいうべき雄大な比良(ひら)山系を正面に望むことが出来ます。

噂では地元のカップルが夜景を楽しむデートスポットにもなっている・・・らしいですよ(*^_^*)

奥の院からの眺望(2)

なお、猪子山を訪れる際にご注意いただきたいことがございます。

登山道は急傾斜の細いヘアピンカーブの連続ですので、クルマで訪れるにはそれなりの運転テクニックが必要です。

また徒歩での訪問なら、それなりの体力を要します(クルマで訪問しましても、中腹の駐車場から頂上までは約300mの階段参道を登らねばなりません)。

また夜間の来訪はシーズンを問わず様々な危険要素を伴いますので、細心の注意を払い自己の責任のもとで訪問してください。くれぐれもご無理をなさいませんように。

最後に豆知識。

因縁浅からぬ鈴鹿山(鈴鹿峠)の近く、甲賀市土山町北土山には坂上田村麻呂を祭神として祀っている田村神社があります。

田村神社

開運厄除・交通安全・家内安全・八方除けにとてもご利益があるとされ、滋賀を始めとして中京圏からも連日多くの参拝者が訪れています。

特に毎年2月17~19日には厄除大祭・田村まつりが催され、開運厄除を願う人々で賑わいます。小生も定期的に参拝しております。

参拝後は、神社と国道1号を隔てた向かい側にある道の駅・あいの土山での休憩をおススメします。特にフードコートで供されるうどんは、お味もなかなかにとてもリーズナブル!あとは1回400円(税別)でやりたい放題(?)の抹茶ソフトクリームにも是非チャレンジしてください(^^)

さて奈良県にある柳生の里には柳生一刀石と称する巨石があります。その容貌がアニメ『鬼滅の刃』で主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)が狭霧山(さぎりやま)での修行で大岩切りという最終課題を与えられたというエヒソードを彷彿させると、現在聖地として多くのファンが訪れています。

善勝寺の鬼の首塚も負けじ劣らじの巨石ですので、ここに刀で切り裂いた痕さえあれば、ひょっとしたら・・・と思うのは小生だけでしょうか(笑)。

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一粒一品に優しさ込めて“古民家 餃子省”

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このコロナ禍に於いて、人命にも関わる自身の仕事の絡みもあり、生活必需品調達のための短時間外出を除いて、もう1年以上家族サービスとしてのお出掛けを控えております。

自粛慣れしているとはいえ、やはり少しは気分転換も必要かと外食を検討。新規開拓も兼ねる・小生規定の感染予防対策ガイドラインに資する・安近短(超古いフレーズ)という条件をクリアするお店を妻と共に検索・・・これが結構難しい。

多くの選択肢が脱落していく中、数少ない候補の中に何やら怪しげな名称。政府機関でもないのに“省”という呼称を耳にすると、かつて凶悪な犯罪に手を染めた某新興宗教団体しか思い当たりません(苦笑)。

待ち時間の回避と利用の確実性を担保するため先ずは電話予約。一抹の不安を抱え(笑)、赴くことと致しました。

彦根の旧市街地の南端には一級河川・芹川(せりがわ)が流れています。かつてこの川はJR琵琶湖線・猿尾道踏切辺りから、耐震改修中の彦根市役所近辺へと大きく迂回していました。江戸時代初期に井伊直継が彦根城築城の際、城下町建設の用地確保と防衛線(内堀・中堀・外堀に次ぐ第4の濠)としての機能を持たせるために現在のような真っ直ぐの流路となったものです。

琵琶湖岸河口から約1.5kmの南岸。戦後の新興住宅地が拡がります。「こんなところに飲食店なんかあったっけ?」という不信感を抱きつつ、住宅街のため注意深く自家用車を徐行させます。

餃子省 店舗外観

「道を一筋間違えたかな?」・・・と思いきや、突如として昭和初期の古民家に遭遇。ここが今回訪れた古民家 餃子省(ぎょうざしょう)です。

古民家・・・というよりも、一見昭和に地方の街にあったような食堂かラーメン店といった雰囲気でしょうか。

餃子省 提灯

確かにここが餃子省のようです。第1の意外性として、古民家なのに各種キャッシュレス決済やプレミアム付食事券に対応されている表示がとても不釣り合いで、何とも面白いです。

お店に入って直ぐ左手にショーケースがあり、そこには沢山のプリンが!益々脳内が混乱。

後で知ったのですが、もともとこちらは地元でこだわりプリンを製造・移動販売されていたキャラメル王国(現在は販売終了)が始められた餃子専門店。王国の“餃子専門組織”だから“省”ということなのでしょうね・・・得心しました(笑)。

餃子省 客室

店内は客室が2区画あり、併せて5~6組が利用可能なスペース。店先の駐車場も4~5台分ですから、客室の広さから考えるとかなりのフィジカルディスタンスを確保しています。

外観は改修されているので然程古さを感じませんが、店内は古民家そのもの。

家構えや調度品から察するに、かつては商人か中級武士の流れを汲む方の持ち家だったのではないでしょうか。

餃子省 日本庭園

客室からは日本庭園を望むことが出来ます。餃子専門店とは思えぬ佇まい。これが第2の意外性。

因みにこの古民家の廊下にはメダカ鉢が2つありました(笑)。

今回はランチタイムの利用。メニューは古民家ランチ・餃子ランチ・プレミアム餃子ランチ・ラーメンランチの5種。となればここは“プレミアムの一点突破あるのみ!”と一同郎党こちらをオーダーしました。

プレミアム餃子ランチ

こちらがお待ちかねのプレミアム餃子ランチ。お値段1,000円(税別)にしてはかなりのボリュームです。

スープ餃子・肉餃子・カレー餃子・イタリアン餃子・丸ごと海老餃子・酒粕餃子・揚げ餃子の7品12粒の餃子をメインに、サラダ・お惣菜・御飯・お漬物の計11品。

こちらの餃子に共通しているのは、ニンニク不使用のため、とてもあっさりとした優しいテイストであるということ。なのでお子さんからご年配の方、女性にもおススメです。以前食した浜松餃子に共通するものがあり、何粒でも戴けそうな感じです。

勿論ガッツリ系を所望する諸氏にのために、ニンニク使用の肉餃子もしっかり別途メニューにラインナップされています。またランチセットの御飯は大盛無料と嬉しいサービスもあります。

餃子省 特製ラー油

あと餃子には欠かせないラー油にも注目しました。2009(平成21)年に発売された『食べるラー油』が爆発的にヒットして、店頭でもなかなか目にすることが出来ず、ネットオークションで異常な高値で取引された出来事がありましたよね。

小生もその味にはまって、自宅の冷蔵庫に常備させていた時期がありました。餃子省のラー油は特製品ということもあってか、特有の辛味や香り、油のくどさも程よく抑えられ、餃子同様“優しい味”に仕上がっています。少し御飯に掛けてみましたが・・・絶品でした!

でも何より小生が感動したのは、ともすればセットメニューの中で、メインと比して軽視されがちな先付けや香の物にも全く手抜かりが無いこと。口に運べば直ぐに、“手が込んでいる”ことが実感出来るお味です。加えてお皿に南天の枝葉が飾りとしてあしらわれているのも、季節感への心遣いと気配りがあってこそ。これが第3の意外性。色々な意味で大変勉強になりました。

なおこちらのお店は、店主の岩崎さんとお義母さんのお二人で切り盛りされていますので、提供に多少お時間の掛かるのはご容赦ください。またお義母さんがとても明るく笑顔の素敵な方ですので、お義母さんとの軽妙なトークを愉しみに伺うのもまた一興かと存じます(^ ^)

今回は初来店で事前の情報不足ということと時間の制約もあって、元キャラメル王国特製のプリンや餃子省特製ラー油を購入することが出来ませんでしたが、次回は是非実現したいと思います(^^♪

古民家 餃子省

・滋賀県彦根市後三条町573-8
【TEL】  0749-20-6847
【休業日】  月曜/火曜日
【営業時間】 12:00~14:00(オーダーストップ)
       17:30~21:00(オーダーストップ)

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