Author Archives: chaos510

きぬがさやま哀話(1)“観音正寺”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今回から3回シリーズで「きぬがさやま哀話」と題しまして、繖山(きぬがさやま)に纏わるお話をお届け致したいと存じます。

繖山(観音寺山)

繖山(きぬがさやま/別称:観音寺山・標高433m)は、東近江市と近江八幡市の境界とする繖山山系(安土山~箕作山)の最高峰になります。

山中には日本最大級の山城といわれる近江源氏・佐々木氏の嫡流である六角氏の本拠地・観音寺城跡と、西国三十三箇所第32番札所である観音正寺(かんのんしょうじ)、また日本の養蚕の発祥地である桑實寺(くわのみでら)を擁します。

そもそも(きぬがさ)とは何ぞや?

その答えは、桑實寺に残る『桑實寺縁起』(国指定重要文化財)にあります。

桑實寺縁起絵巻【資料協力 桑實寺

天地が初めて別れた大昔。あるところに一株の桑の木があり、そこに3つの果実が出来ました。

1つは金烏(きんう/太陽に住むという三本足の伝説の鳥)となって木の頂を飛び、1つは玉兎(ぎょくと/月に住むという伝説のウサギ)となって枝の先で遊んでいました。

これが世の中を照らす日光と月光の表れとなります。

最後の1つの実は地に落ちて山となりました。その山の形は8枚の葉のようで、天蓋にも似ていました。

ちなみに繖(きぬがさ)とはこの天蓋(てんがい/貴人・聖人の寝台・玉座・祭壇・司祭座などの上方に設ける覆い)のことを指します。

以来、この山は繖山と呼ばれるようになったのです。以外やこんなところに、“天地創造”“日本起源”の言い伝えがあるのですね。

この繖山には色々なお話が残っているのですが、今回は観音正寺に話題を絞ってお届けいたします。

観音正寺(本堂)

観音正寺は605年に厩戸王(うまやどのおう/一般的には聖徳太子として知られる)によって開基されたと伝えられています。その開基の起源に関するお話が残っています。

その昔、厩戸王は仏教を広めるために諸国を行脚しておりました。

そして近江の愛知川(えちがわ)に差し掛かった時、川の畔で人魚の訴えを聞きます。

人魚のミイラ【資料協力 観音正寺 】

「私は琵琶湖に住む人魚ですが、実は毎日鱗(うろこ)の間を虫に喰われ、痛くて苦しんでおります。私の前世は漁師でしたが、殺生を生業としていたために、このような姿に生まれ変わってしまったのです。どうか観音菩薩をお祀りして、私の苦しみを救ってください。」

そこで早速厩戸王は山に登り、自ら千手観音を刻んで祈ったところ、人魚の苦痛が解消されたといいます。

その後、この千手観音を本尊として堂塔が建立されました。

他にも境内の“奥之院”と呼ばれる場所の岩屋には、厩戸王が刻んだという磨崖仏(まがいぶつ/自然の切り立った崖や巨石に彫刻された仏像)が残っています。

磨崖仏【資料協力 観音正寺 】

後に平安時代後期のものであることが判明したため、どうやら“厩戸王作”ではないようです。

風化が激しく長い間非公開となっていましたが、2005(平成17)年に「開創1400年」を記念して、期間限定で公開が再開されました。現在は非公開となっております。

実はこのお寺、2回の大きな災難に見舞われています。

1度目は戦国時代。同じ繖山に本拠地を持っていた南近江の守護大名・六角氏の庇護を得て栄えていたという理由から、観音寺城もろとも織田信長により焼き討ちに遭い全焼しています。再建されたのは江戸時代初期と言われています。

そして2度目は何と今から30年前のこと。1993(平成5)年、失火により本堂が全焼。本尊で国指定重要文化財であった「千手観音立像」や、当寺起源の寺宝でもあった人魚のミイラも焼失してしまいました。現在の本堂は2004(平成16)年に再建されたものです。

千手千眼観世音菩薩坐像【資料協力 観音正寺】

また新たに造立された本尊・千手千眼観世音菩薩坐像は、インドから輸入された23トンもの白檀(びゃくだん/仏教儀式で香木として珍重され、特にインドのマイソール地方で産するものが最も高品質とされる)が使われています。

その希少性からインドで白檀は禁輸対象品となっていましたが、ご住職が二十数回訪印して交渉に当り、結果特例措置として輸出が認められたのだそうです。

焼失してしまった“立ち姿”の観音様は高さ1m足らず。新たに造られた“座り姿”の観音様は3.56m(光背を含めた総高は6.3m)のビッグサイズ!

何故こうなってしまったのかは、造立を手掛けた仏師界のカリスマ・松本明慶氏とご住職のみぞ知る・・・といったところでしょうか(?_?)

西国三十三箇所の第32番札所ということもあり通年参拝者は絶えませんが、“純粋な巡礼地”であり“妙な観光地化”をしていない分、ゆったりと訪れることが出来ます。冬季(12~3月)は専用有料道路が閉鎖されるため、東麓にある石寺楽市に自家用車を駐車し石段の参詣道をご利用ください。特に積雪に見舞われた時期は心静かにお参り出来ること請け合いです。

今回の取材に快くご協力、また貴重な資料提供のご協力をいただきました観音正寺寺務所様、桑實寺寺務所様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

#繖山 #観音正寺 #桑實寺 #桑實寺縁起 #天蓋 #人魚 #摩崖仏 #千手千眼観世音菩薩 #白檀 #松本明慶

観音正寺
・滋賀県近江八幡市安土町石寺2番地
【TEL】0748-46-2549

【次回、きぬがさやま哀話(2)をお愉しみに・・・】

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


名も無き修行者への鎮魂歌“観行塚”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

お盆休みを直撃した台風6号・7号。コロナ禍空けの余暇やイベントに期待していた多くの人々に多大なる損失をもたらしました。特に台風7号は事前予測を大きく外し、近畿に接近。久し振りに台風が最接近し暴風圏にも見舞われた滋賀でしたが、幸いにも被害は最小限に抑えられました。

さて今回は、平成の大合併で県内でも数少ない単独の町として残った蒲生郡日野町を訪れております。

日野町の北西部には山本という集落があります。その南端の小高い丘陵地に、集落の墓地があります。その一角に何故か小規模の神社風な建屋が存します。おまけに何処にもその名称が標榜されていないのです。

因みに地元の方々から、ここは観行塚(かんぎょうづか。寛行塚とも)と呼ばれています。

寛行塚縁起

江戸時代初期のこと。何処からともなく1人の修行者がこの地を訪れました。修行者は村の外れに草庵を結び、ひたすら念仏の修行に打ち込みました。

この何処の誰で然も年齢も判らぬこの人物を、村人たちは半ば奇人扱いしていました。

観行塚(祠)

しかし月日が経つと、村人たちは次第に修行者に好意を寄せるようになり、尊敬の念すら抱くようになりました。

何時しか心の悩める人や病に苦しむ人の拠り所となり、念仏を唱えたり修行者の法話を聞いたりする場となりました。

修行者がこの地を訪れ数年立ったある日のこと。突然村人たちにこう語り掛けました。

観行塚(墳墓)

「私は間もなくこの世を去ります。私の亡骸をこの地に埋め、その上に松を植えてください。松の栄える限り、詣でて祈る人々の悩みを救ってあげたい」と。

その言葉を残し、程なくしてこの世を去りました。

何時も草庵に集い念仏を唱えていた村人たちは修行者の死に悲嘆に暮れていましたが、せめて遺言を果たさねばと、塚の上に松を植樹しました。

やがて松は大きく育ち、『観行塚(寛行塚)の松』と呼ばれるようになりました。そして参詣者も増えていったため、祠が勧進されました。

然し昭和34(1959)年9月。国内に甚大な被害をもたらした伊勢湾台風が襲来。滋賀も多分に漏れず、県下各地で堤防決壊に伴う冠水・浸水や暴風による家屋等の崩壊に見舞われました。

この時残念ながら『観行塚の松』は台風の影響で倒れてしまいましたが、幸いにも祠には被害が及ばなかったようです。

それから24年後の昭和58(1983)年。再び松が植樹され、祠には建屋の保護のために立派な堂宇が信者の人々の浄財によって整備されました、現在に至っても修行者を偲び、信仰が脈々と受け継がれています。

寛行塚御詠歌

さて以降は小生の推論です。何分資料が皆無のため、少ない情報から色々と探ってみたいと思います。

まず「観行」の名の由来についてですが、最後まで“名も無き・・・”を貫いたようですので、修行者の名前ではないと思われます。因みに「観行」とは仏教用語で「自らの心の本性の本質を見極める修行」のことを差し、主に天台宗で重んじられていたとか。よって天台宗の僧であった可能性があると推察されます。

観行塚(全景)

また伝説では修行者が自らの死期を悟り村人たちに遺言を遺していきましたが、昭和58(1983)年に奉納された御詠歌には気になる一節があります。

・・・緑の松のその下に 難病苦境を救わんと 自ら入りし生贄は 我が身を捨てて人のため・・・

病死等ではなく、まるで即身仏を意図したような内容になっています。修行者は密教をも通じていたのかも知れません。

そして最後に、この観行塚はとても奇妙な構造を呈しています。まるで神社のように祠と墳墓の前には鳥居が、参道には手水舎も設けられています。でも祠は正面に銅鑼(どら)と磬子(けいす)が設置されており、純仏式で祀られています。何とも奇妙な祭祀の手法ですが、これが神仏習合の成せる技なのか、はたまた神仏の垣根を越えた新たな信仰のカタチなのかは定かではありません。

地元の歴史書にも残っていない、摩訶不思議な信仰の事実。未来永劫存続して欲しいと思います。

#観行塚 #寛行塚 #日野町 #修行僧 #御詠歌  #御縁起 #念仏 #江戸時代 #即身仏

 #伊勢湾台風

観行塚
滋賀県蒲生郡日野町山本450番地

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!


ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

『番町皿屋敷』は本当に“怪談噺”だったのか⁉

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今回は酷暑に於ける一服の清涼剤と致しまして、怪談・番町皿屋敷の定説に一石を投じる真説(!?)についてお話を致したいと存じます。

毎度のことながらこの時期ともなりますと、やれ「怪談」だの「ホラー」だの「ミステリー」だの「心霊」だのをネタにしたTV番組や関連本が世間を賑わしますが・・・最近はそうでもないようで。

この種のネタの需要にも“時代の変遷”というものがあるのでしょうか?

それはさておき皆さん、怪談・番町皿屋敷はよくご存知ですよね?知らない良い子のために、話の概要をお“さら”いしてみましょう!

百物語 さらやしき【葛飾北斎 画】

私たちがよく耳にする「お菊の亡霊が夜な夜な1ま~い、2ま~い・・・最終的になぜか18枚も皿を数えてしまう」というお話ですが、これはこの怪談噺をベースにした『お菊の皿(または皿屋敷)』という古典落語の演目なのです。

『皿屋敷』という怪談は日本各地で伝えられており、どこが“本家本元”の話であるのかは不明ですが、概ね「番町皿屋敷 (東京説)」と「播州皿屋敷(兵庫説)」の何れかの話の流れを汲むとされています。

お話の概要としましては、

屋敷の主人が秘蔵する皿のセットのうち一枚を奉公人の娘が割ってしまう。
  またはその娘に恨みを持つ何者かによって皿が隠されてしまう。
娘はその責任を問われ責め殺される、または娘が自殺する。
夜な夜な娘の亡霊が現れて、恨めしげに皿を数える。
娘の祟りによって屋敷の一家に様々な災厄が振りかかり、
  やがて没落してゆく。

というものです。思い出されましたでしょうか。

しかしこの皿屋敷の黄金律を覆す説が滋賀には伝えられているのです。それが彦根・長久寺(ちょうきゅうじ)のお菊伝説なのです。

今回は長久寺の檀家の方々のご協力を得て取材を敢行。以下は長久寺からご提供頂いた資料をもとに記述致します・・・ということで今回は彦根市を訪れております。

新形三十六怪撰・皿やしきお菊の霊【月岡芳年 画】

時は寛文4(1664)年、彦根藩3代当主・井伊直澄(いいなおずみ)の御代。井伊家で旗奉行を務める重臣・孕石(はらみいし)家には政之進という世継ぎがおり、孕石家に侍女“お菊”とは相思相愛の仲であった。

しかし政之進には亡き両親が取り決めた許嫁がおり、また後見人である叔母が結婚をせき立てるため、足軽の出で身分の異なるお菊は心中穏やかではなかった。

お菊は思案余って政之進の本心を確かめようと、孕石家に代々伝わる家宝の「白磁浜紋様皿10枚」のうちの1枚を故意に割ってしまった。

最初は単なる過失であると思い強く咎めなかった政之進であったが、お菊を糾問するうちにその真相を知り、自分の心を疑われたことを大層口惜しがった。政之進はお菊の面前で、残りの皿9枚を刀の柄頭(つかがしら)で打ち割り、お菊に対する自分の誠の心をかかる仕打ちで試そうとした心根に憤激し、武士の意地が立たぬとその場でお菊を手討ちにした。

映画『手討』

その後、政之進はお菊を殺害してしまったことを後悔して出家し供養の旅を生涯続けるが、駿河で寂しく亡くなり孕石家(本家)は断絶した。

如何ですか、これまでの定説とは全く異なる内容であることがご理解頂けるかと存じます。

この伝説は1916(大正5)年、岡本綺堂によって戯曲(演劇上演のために執筆された脚本)化され、1963(昭和38)年には市川雷蔵主演により『手討』というタイトルで映画化されました。

実はこのお話には“後日談” があります。

手討ちにされたお菊の遺体と割られた皿は実家に引き渡されます。悲運の死を遂げた娘を哀れに思い、お菊の母親が割れた皿を継ぎ合わせて、橋向町(彦根市)にあった長久寺の末寺“養春院”に奉納しました。

普門山 常心院 長久寺

その後明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく/仏教寺院・仏像・経巻を破毀し僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃する運動)により養春院が廃寺となったため、止む無く長久寺に移されることとなったのです。

現在でもそのお菊の皿は長久寺(彦根市後三条町)に安置されており、毎年8月9日の「千日法会」と8月10日の「地蔵会」の2日に限り、一般に公開されています。

なお当初は9枚あったのですが、大正期に行われた市内での展示で3枚を紛失し、現存するのは6枚だけとのことです。また国内各地の「お菊伝説」の中でも、“皿”が現存するのはここが唯一なのだそうです。

お菊の皿

ちなみにこのお菊の皿こと、孕石家の家宝であった白磁浜紋様皿

これには確固たる由来がありまして、もともとは彦根藩の初代藩主である井伊直政が、関ヶ原合戦での戦功により徳川家康から拝領したものなのだとか。

その後、大坂夏の陣で戦死した政之進の祖父である“孕石源右衛門泰時”の武功を称え、2代藩主・井伊直孝から孕石家に与えられた由緒正しき歴史の証言者なのです。

お菊の墓

またお菊の墓も長久寺に安置されています。荒廃していた養春院跡から長久寺の無縁塔へ移され、同じく毎年「千日法会」の際に供養が行われています。かれこれもう350年程前に造られた墓石ですが、お菊の法名である「江月妙心」が今でもハッキリと読み取れます。

さらにこの事件に接し、彦根藩の彦根屋敷並びに江戸の三屋敷に務める292人の奥方女中が法要を営んだという記録である「奥方供養寄進帳」も長久寺に安置されています(こちらは非公開)。

これらの話をまとめますと、冒頭私はお菊“伝説”と申し上げましたが、どうやら「史実」の可能性が非常に高いと感じます。

この“悲恋物語”は事件当時、特に江戸の街で支持されたとも伝えられていますので、これを元ネタとして“怪談・番町皿屋敷”が生まれたのかも知れません。

2009年3月に放送されたテレビ東京系番組『新説!?日本ミステリー』の中で紹介された際には一躍注目を集めましたが、現在はお菊の心根に共感した女性がちらほら参拝に訪れる程度と聞きます。かつて大河ドラマ『龍馬伝』で一躍世の女性達の共感を呼んだ清運寺(山梨県甲府市)にある坂本龍馬の婚約者・千葉佐那(ちばさな)の墓は、番組終了と共にまるで水を打ったかの如く静まり返ってしまいました。“流行り廃れ”に乗っかった参拝は、願わくはご遠慮いただきたいものです。

因みに令和の御代に至っても未だお菊さんの情念は極めて強く、墓碑への参拝やその写真に接しただけで気分が悪くなったり体調を崩したりすることがあります。お菊さんの気持に寄り添う心でもって、くれぐれも粗相の無きようお願い申し上げます。

今回の取材にとても親切にご協力頂きました長久寺の檀家の皆様方に、この場を借り改めて心より厚く御礼申し上げる次第です。

#番町皿屋敷 #怪談 #お菊 #長久寺 #彦根藩 #井伊直澄 #孕石政之進 #お菊の皿 #手討 #白磁浜紋様皿

普門山 常心院 長久寺

・滋賀県彦根市後三条町59
【TEL】0749-22-0914

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ


ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


近江聖人の学友所縁の地“備前やぶ”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

スーパーエルニーニョ現象の余波は計り知れませんね。兎に角毎日「暑い」「蒸暑い」「不快」の連続。おまけに不況、物価高、そして電力逼迫。いったい「どうしろ」と言うのでしょうかね。

さて話は変わりますが、「あなたの一番尊敬する人は?」などと質問されることがあります。最近の若い世代の方々は「両親」と答えることが多いと聞きます。 まぁそれはそれで素晴らしいことなのですが、もう少し視野を拡げて「歴史上の人物や有名人」だったらどう答えますか?

織田信長?徳川家康?マザー・テレサ?スティーブ・ジョブズ?カーネル・サンダース?栗山英樹?イチロー?大谷翔平?・・・それともオリヴィエ・ミラ・アームストロング?(誰やねん!)

・・・まぁ人それぞれですが、小生なら迷わず中江藤樹(なかえとうじゅ)先生と答えます。

えっ?誰それ?・・・なんてリアクション、 想定の範囲内でございます(笑)。

中江藤樹は近江國高島郡小川郷(現在の高島市安曇川町上小川)出身で、江戸時代初期に日本の陽明学(ようめいがく)の第一人者となった人物です。陽明学とは今から約500年前に、中国(当時は明代)の王陽明(おうようめい)が提唱した儒教の新しい教えの1つです。

陽明学の教えの主旨を一言ではなかなか説明しにくいのですが、 “心即理”(しんそくり/生まれた時から心と身体は一体のものである) “致良知”(ちりょうち/私欲に曇っていない心を推し進めよう) “心知行合一”(ちこうごういつ/行動と意識は一体のものである)おおよそこの3つの命題を根本思想として、真理を追及する学問なのです。

藤樹はその立ち居振る舞いと身分の上下を超えた平等思想。そして何より母親への孝行振りが多くの人々の共感を呼び、近江聖人と称されるまでになりました。現在でも出身地である高島市(特に旧安曇川町地区)では、藤樹の偉業を今に伝え、市民や子供たちの情操教育にまでその理念が浸透しています。

前置きが大変長くなりました。今回の本題は中江先生の一番弟子にして学友の熊澤蕃山(くまざわばんざん)という人物です。こちらも江戸時代初期の代表的な陽明学者です。なお今回は近江八幡市は旧近江八幡市エリアを訪れています。

京都の浪人の子として生まれますが、母方の祖父(熊澤家)の養子となり、16歳の時に備前國(現在の岡山県)岡山藩主・池田光政の児小姓役として仕えていました。寛永15(1638)年、独学のために一旦池田家を離れ、老いた母親を岡山に残して、学問の師を求め旅に出ます。

そして人づてに中江藤樹の噂を聞きつけ、小川郷に赴き弟子入りを申し出ました。しかし藤樹は「私は弟子を持てるような立派な人間ではない」「母の面倒も見ず勉学とは如何なものか」と断ります。蕃山はなお諦めずに、二日二晩藤樹の家の門前に座り込んで弟子入りを懇願しました。

するとそんな蕃山の姿を見るに見かねた藤樹の母が、「そなたの気持ちも解ります。そこで師弟ではなく、共に学問を学ぶ仲間として迎えてはどうですか」と藤樹に提案しました。その提案に深くうなずいた藤樹は蕃山を自宅に迎え入れ、共に学問に励む事となったのです。“弟子”というよりも“学友”と言った方がしっくりとくるでしょうか。

熊澤蕃山屋敷跡案内板

蕃山は母親を岡山から連れ、叔母(一説には祖母)の里を頼って桐原郷(現在の近江八幡市中小森町他)を訪れます。そして伊庭定右衛門の邸宅に下宿して、小川郷の藤樹の私塾・藤樹書院まで通ったそうです。蕃山は勉学に熱中するあまり食事に事欠くもあり、近在の百姓から 揺り子 (ゆりご/粗悪で砕けた屑米のこと)を買って食べていたと言います。

桐原郷から木浜(このはま/現在の守山市木浜町)までは歩き、そこから堅田(かたた/現在の大津市北部)までは渡し船に乗り、そこから 小川郷まで 再び歩いて毎日通った のだそうです。距離で換算すればおよそ片道45km! 現代ならクルマを利用しても裕に1時間以上は要します。兎にも角にも、勉学に対する熱意は計り知れない程のものであったことは想像に難くありません。

藤樹と共に学んだのは僅か8ヶ月程でしたが、その後池田家への帰参が許され、当時陽明学に傾倒していた池田光政に重用されて藩政に尽力し、後に世に知られる国学者として活躍しました。蕃山はこの桐原村に7年間下宿していましたが、この地に住む人々で弟子になり池田家に取り立てられた人も多かったそうです。

備前やぶ

屋敷跡はやがて竹藪となり、いつしか「備前國に行った人々の屋敷跡に生えた藪」ということで備前やぶ と呼ばれるようになったとのことです。

現在その備前やぶは、近江八幡市立桐原小学校の北東約400mの位置にあります。大正時代末期に蕃山の顕彰と青少年の向学の志を養う目的から、当時の桐原村青年団の事業として蕃山先生勉学処 と記した記念碑が建立されました。

熊澤蕃山屋敷跡(蕃山先生勉学処碑)

またかつては毎年「蕃山祭」を行い、青少年の教育と蕃山の顕彰に努めていましたが、大東亜戦争の終結とともに催されることは無くなったのだそうです。

今となっては当時を思い起こさせるものは数少ないですが、かつての蕃山の苦学ぶりに思いを馳せようと、大学関係者が時折訪れるのだそうです。

なお備前やぶは私有地であり、近くに駐車場もありませんので、訪問の際はご注意ください・・・と申し上げたいところなのですが・・・。

初めてこの地に取材に赴き早12年。たまたま近くを所用で訪れたので蕃山所縁の地にでもと思ったのですが、以前も目印にしていた竹藪が見つからず。夕方も遅い時間でしたし、場所を誤認した可能性もあったので、後日改めて日中に再訪することと致しました。

それから約1ヶ月後。やはり目印の竹藪が確認出来ず、場所も間違いないことを確認。近隣在住の方に尋ねてみることに。

蕃山先生勉学処碑(令和5年現在)

数年前に住宅造成地となり、竹藪は完全に姿を消したとのこと。かろうじて蕃山先生勉学処碑は残されましたが、一帯はフェンスで囲われ、碑は雑草に埋もれ、かつての伝説の地の縁(よすが)や趣はすっかり失われてしまいました。

以前存在した竹藪も決して整備が行き届いていたとは言えませんでしたが、蕃山が貧しさの中にあっても必死に勉学に勤しんでいた風景が思い浮かべられた雰囲気を醸し出していただけに、非常に残念でなりません。

最後に、前述いたしました熊澤蕃山と中江藤樹の出逢いのシーンは映画・近江聖人 中江藤樹の中でも描かれています。

映画 近江聖人 中江藤樹

中江藤樹生誕400年を記念して、旧安曇川町(あどがわちょう)が平成16(2004)年に約7,000万円の巨費を投じ、東映太秦映像によって制作された大作です。

主役の中江藤樹役には、いまや温泉&座敷童俳優で名を馳せる原田龍二さんが。熊沢蕃山役を加藤大二郎さんが務めておられます。

因みに時代劇好きの我らが敬愛して止まない、生涯大部屋の大御所役者 ・ 日本一の斬られ役、故 “福本清三”先生も出演されています。

時代劇にはちょっとウルサイ私も太鼓判を押す内容ですので、興味のある方は是非ご覧になってください。映画のDVD及びVHSビデオが頒布されましたが現在絶版。でもひょっとしたら・・・があるかも知れませんので、詳しくは高島市の近江聖人 中江藤樹記念館へお尋ねください。

共に学び、共に歩む・・・その姿勢はいまを生きる私たちに最も重要なことだと考えます。

#中江藤樹 #熊沢蕃山 #備前やぶ #近江聖人 #蕃山先生勉学処  #近江聖人 中江藤樹 #近江聖人 中江藤樹記念館 #原田龍二 #加藤大二郎 #福本清三

熊沢蕃山屋敷跡(蕃山先生勉学処碑) 
滋賀県近江八幡市中小森町地先

近江聖人中江藤樹記念館 
滋賀県高島市安曇川町上小川69番地
【TEL】0740-32-0330

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!


ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

大津百町漫歩(5)“安然塚”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

梅雨入りしていきなりの、活発な梅雨前線や台風襲来で連日の豪雨に蒸暑。不快指数MAXに疲労困憊の日々でございます。

さて旧大津宿界隈漫ろ歩きの旅もフィナーレとなります。何故今回のお題を最後に据えたのか。それは偏に『対象のオブジェクト探索に困難を伴うことが容易に想定された』というのが理由です。

長安寺を後にし、再び京阪電鉄京津線・上栄町駅まで戻って参りました。今度は大津赤十字病院の敷地の裏手を沿うように北上。次の目的地である長等山 近松寺(ながらさん こんしょうじ)を目指します。

前回の大津百町漫歩(4)“関寺の牛塔”の伝説の中盤辺りでも少し触れましたが、近松寺は天台寺門宗(園城寺)に属し、三井寺五別所(別院)の1つに数えられます。また近江西国観音霊場・第4番札所、江州三十三観音・第3番札所、びわ湖百八霊場・第5番札所にも挙げられる、由緒ある寺院です。

 
高観音 近松寺 参道

約5分、250m程歩いたところに「また階段かぁ・・・」。

「高・・・観音?善光寺・・・如来?ここで合ってる?・・・よね」。石柱には近松寺の“こ”の字もありません。この階段を上って「あぁ間違った!」で済むレベルのお話ではございません(泣)。

たまたま通り掛かった近隣の方にお話を伺うことができました。高観音(こうかんのん)は近松寺の別称とのこと。因みに三井寺が擁する本・別院観世音菩薩の中で最も高い位置に鎮座御座すところからそう呼ばれるようになったとか(やっぱり高い所なんだ)。また善光寺如来は、本堂から渡廊下で繋がる阿弥陀堂の御本尊なのだとか。

少し頓智を効かせ過ぎですよねぇ。兎も角、(遠い)階段の先を目指します。

長等山 近松寺 本堂

近松寺は平安時代前期の延喜4(904)年。園城寺(三井寺)南院の天台密教の大成者で学匠の五大院安然(ごだいいんあんねん)によって創建されました。創建時は本堂・法華堂・三重塔などがあり、後に三井寺の別所寺院となります。

安土桃山時代の文禄4(1595)年に三井寺が豊臣秀吉の怒りに触れて寺領を没収されて廃寺となった際、近松寺も衰退しました。その後秀吉の死の直前に三井寺は再興され、それに伴い近松寺も慶長9(1604)年に本堂が再建されました。

現在の本堂は江戸時代中期の享保元(1716)年に再建されたもので、現在大津市指定有形文化財に指定されています。

さて安然が創建した近松寺。ここは様々な伝説に彩られています。

豆粉地蔵尊

本堂から少し南へ下がったところに、摩崖仏の地蔵菩薩が鎮座御座します。どう見ても“阿弥陀如来坐像”なのですが、何故“地蔵”と呼ばれるようになったのかは定かではありません。

ここは豆粉地蔵尊(きなこじぞうそん)と呼ばれ、「散髪が嫌いな子供が子供がいたらきな粉を供えて祈ると大変効果がある」とか、「自分の食べているきな粉を地蔵尊に食べてもらうと頭が良くなる」と言われています。

写真では少し解り辛いのですが、お地蔵さんの口元が少し黒く煤けているのは、食べてもらったきな粉が劣化した跡とのことです。

また江戸時代初期、寛文12(1672)年のこと。人形浄瑠璃・歌舞伎の脚本家であの『曾根崎心中』の作者としても名高い近松門左衛門こと杉森信盛がに当寺に入り、19~22歳の青年期を3年間、この地で過ごしたといわれています。その縁で“近松”の名はここに由来するとも言われています(諸説あり)。

投足弁財天

さらに境内を南に進むと、何やら浦島太郎に出てくる龍宮城の門と思しき建物と遭遇します。ここは投足弁財天(なげあしべんざいてん)と呼ばれています。

すなわち七福神の1人、弁天さんですね。ここの弁財天は安然とは浅からぬ因縁があるのです。

安然は仏教を窮めた優秀な学僧でしたが、如何せん貧困な身の上にとても苦しんでいました。

或る時、安然が弁財天に福を授けてくれるようにお願いしますと、あろうことか何と片足を投げ出して「私の足を舐めてくれたら福を授けましょう」答えました。流石の安然もこれには怒り心頭!弁財天の足をそのまま動かないように念力を掛けたので、以来弁財天は今でも足を投げ出したままの御姿をされているといわれています。

さてさて、肝心の対象物は何処やら・・・。

安然塚跡

少し山中に分け入りますと、何やら荒廃した層塔の台石に遭遇。昭和40年代に撮影された写真と照合。間違いありません。これが天台寺門宗の高僧にして近松寺の開祖、安然の墓、安然塚(あんねんづか)です。別称「あねさん塚」とも呼ばれています。

安然の墓と伝えられる地は他にも、山形県南陽市や千葉県長柄町にも存在しますが、果たして何れが歴史的に正しいものなのかは定かではありません。

ただこれだけは確実に言えるのは、かつての高僧の墓碑にしては余りにもぞんざいで最も粗略に扱われているということ。でもこれには深~いワケがあるのです。

これまた或る日のこと。安然が福を授けてもらおうと、京都・鞍馬山鞍馬寺の毘沙門天を参拝しました。

ところが毘沙門天よりこのような話を告げられます。

「お前は前世に於いて近江國の商人であった。何時も越前國(現福井県嶺北地方)へ行商に出向いておった。或る時、木ノ芽峠(きのめとうげ/福井県嶺北地方と嶺南地方の境界点)で休息のため腰を下ろし、梨の皮を剥いてその皮を蟻に与えた。その功徳で助けられた蟻が人間に生まれ変わり、京都で麹売をしているから訪ねてみよ」と。

そこで早速安然はその麹売を訪ねると、大層手厚いもてなしを受けるのです。そして麹売夫婦達ての願いで、子供のために童子経法(どうじきょうほう/密教の修法の1つで子供の息災や家婦の安産を祈祷する法)を書いたといいます。

前世でもこれだけ素晴らしい人物であったにも関わらず、あまりにも貧乏であったため、いつしか「安然塚に参ると貧乏神に憑りつかれる」という悪い噂が立ち、今に至っても案内板1つなく、誰一人参詣者も無く、草むらの中にひっそり崩れた塔の台石が残っているだけなのだそうです。

「もしかしてもしかすると、今の小生の身の上の原因はここへの参詣なのか!?」・・・まさか・・・ね(笑)。

因みに後から知ったのですが・・・長安寺から上栄町駅を経由して近松寺に山を下りたり上がったりして向かった小生。長安寺と近松寺の間には山伝いに立派なショートカットの道が整備されていたようで・・・ちゃんと下調べはしておかないといけませんね。

もしかしてもしかすると、あれもこれも安然和尚の因縁が成せる技なのか!?」・・・まさか・・・ね(泣)。

#近松寺 #高観音 #三井寺 #園城寺 #観世音菩薩 #安然 #安然塚  #豆粉地蔵尊 #投足弁財天  #近松門左衛門

 長等山 近松寺 (高観音)

 滋賀県大津市逢坂2丁目11番地8
【TEL】077-522-0411

【おしまい】

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


大津百町漫歩(4)“関寺の牛塔”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

まだ5月の終盤というのに、いきなり真夏日となったと思いきや、はたまた10℃近く気温が下がったりと、世界情勢と気候変動はリンクしているという奇妙な日々が続いております。皆様お身体に障りはございませんでしょうか。

さて、今回も旧大津宿界隈漫ろ歩きの顛末でございます。

今回も引き続き小野小町に因んだお話となります。

先程の関蝉丸神社下社からまた同じ道を辿って、京阪電鉄京津線・上栄町駅まで戻って参ります。

長安寺 参道

すると山に向けて長安寺への参道の立派な案内石碑に出逢います。どうも今回の漫ろ歩きには『勾配』が憑き物のようでございます(泣)。

関蝉丸神社下社とこの長安寺。実は京阪京津線沿いに直線距離にして200m程度なのですが、残念なるかな直結並走する道が無く、迂回して倍以上の移動を強いられるのです。

傾斜のきつい参道をえっちらおっちら上った先に、時宗 長安寺(じしゅう ちょうあんじ)があります。時宗とは鎌倉時代中期に一遍(いっぺん/1239~1289)によって開創された宗派で、踊り念仏と念仏札で民衆を極楽浄土へと導くことを旨としていました。

県内で時宗の寺院として最も有名なのが長浜市の浄信寺(木之本地蔵)です。

長安寺 本堂

この長安寺はかつてこの地に存在した関寺(せきでら/世喜寺とも)の跡であると伝えられています。

関寺の創建年次は判然としませんが、奈良時代の日本三大仏(大和・東大寺の廬舎那仏/河内・智識寺の廬舎那仏/近江・関寺の弥勒仏)の1つに列し、その大きさは約10~15mに及ぶものであったとか。当時は『関寺大仏』と親しまれ、逢坂山を通る多くの旅人が参詣に訪れたそうです。

小野小町供養塔

また前回の章でも少し触れました通り、老衰零落した小野小町が晩年関寺の近くに庵を結んでいたとする伝説があります。小町の当時の様子を描いた謡曲『関寺小町』では、老いたるもなお優秀な歌人であり風雅で上品な気質を保っていたことを素直に描いています。

『関寺小町』にはこのようなエピソードが謡われています。

或る年の7月7日のこと。関寺の住職が稚児を連れて、寺近くの山影に住む老女の許へ歌物語を聞きに出掛けました。老女は住職の請われるままに歌物語を始めます。語りを聞くにつれ、その言葉の端々から彼女が『小野小町』であることに住職は気付きます。小町は我が詠歌を引いて昔の栄華を偲び、そして今の落魄振りを嘆くのです。寺の七夕祭に案内された小町は、稚児の舞に引かれて我を忘れて舞うのでした。

これを偲び、境内には小野小町供養塔が建立されています。

平安時代中期のこと。『扶桑略記』によれば、天延4(976)年6月18日に推定M6.7以上の大地震(山城・近江地震)に見舞われた関寺は、諸堂宇はことごとく倒壊。弥勒大仏は腰から上を著しく損壊したそうです。

その後ひどく荒廃していた関寺の状況を嘆き悲しんだ、比叡山延暦寺の僧にして天台宗恵心流の開祖・恵心僧都源信(えしんそうづげんしん/942~1017)の発願によって再興が進められることになります。

或る日のこと。三井寺五別所の1つ、近松寺(きんしょうじ)の僧・証阿(しょうあ)が、「先日の夜、夢の中で僧が現れ、『お前は関寺の弥勒仏を拝んだか?未だなれば御仏の怒りに触れるであろう。早々に参り拝むように』とのお告げがあったのでと言って参拝に訪れた。

また奇妙なことに、証阿が夢のお告げを受けたその日に京都・清水寺の僧・仁胤(にんいん)が関寺復興工事の手伝いを始めていた。仁胤は1頭の役牛(えきぎゅう/力仕事に使う牛)を連れてきて、何と6年間に渡り建築資材の運搬に協力しました。

この役牛、毛並みが誠に美しく、力は強く、土や木を運ぶ度に必ず本尊の周りを3回回ったのだとか。加えて手綱が無くとも決して遠くへは行くことのない、所謂『とてもお利口さん』な牛でした。この牛の所作が僧侶がの御堂を右回りに3巡して仏に額づく仏教儀礼にも通じることから、牛仏とも呼ばれていました。

長安寺石造宝塔(牛塔)

万寿元(1024)年のこと。この役牛の噂を聞き付けた時の領主・息長正則が使役させようとしたら、夢で「この牛は伽葉仏(かしょうぶつ/釈迦の十大弟子の1人、摩訶伽葉のこと)の化身で関寺の再興のためだけに遣わされた牛であるから他の使役に使ってはならない」「万寿2年6月2日で入滅する」と告げられたと言います。

この夢告の噂は瞬く間に巷に拡がり、5月16日には「この霊牛と結縁したい」と望む藤原道長・源倫子・藤原頼通・藤原教通を始め数万の人々が参詣したと言います。

5月30日。役牛は2~3回倒れ起きしながらもよたよたと完成した御堂の周りを3回巡り終えると、牛小屋に戻りました。そして6月2日。枕を北にして倒れ伏し、四肢を差し伸ばして眠るが如く亡くなったそうです。

その後、亡骸は関寺の裏山に埋葬され、その場所に藤原頼通によって供養塔が建立されました。それが現在の関寺の牛塔(牛塚とも)と伝えられています。

牛塔は鎌倉時代初期の造立とされ、三角形の基礎石に巨大な壺形の塔身を置き、その上に笠石を乗せた石造宝塔。高さは約3.3mで、石造宝塔としては国内最大にして他に類例のない特異な造形と言われています。彼の随筆家・白洲正子も、この塔をして日本一美しい石塔の1つと絶賛したそうです。昭和35(1960)年2月9日には長安寺石造宝塔として国指定重要文化財となりました。

因みに・・・この霊牛が「近江牛であったか否か」は定かではありません(笑)。

#関寺 #関寺小町 #長安寺  #小野小町 #石造宝塔 #牛塔 #扶桑略記  #源信 #白洲正子  #近江牛

関寺霊跡 時宗 長安寺

 滋賀県大津市逢坂2丁目3番地23
【TEL】077-522-5983

【次回、大津百町漫歩(5)をお愉しみに・・・】

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


大津百町漫歩(3)“小町塚”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

皆様、前回より約3ヶ月足らずのご無沙汰でございます。年度変りの時期というのは毎度ロクでもないことが起こるものでして、仕事の変化や体調不良。身内の不幸や周辺の様々な喧騒、加えて今回は例年にない激しいアレルギー症状や全国統一地方選挙(?)、おまけにブログ全体に及んでいたシステム障害の是正や貧乏な日々等々、記事を執筆する暇もございませんでした(笑)。で、ようやくすこ~し微速前進出来つつある次第でございます。

さて勿論、今回も旧大津宿界隈漫ろ歩きの顛末でございます。

前回の巻は『小町湯』の名に一抹の疑問を抱きタイムオーバーと相成りました訳でございますが、今回はこれを解決に導くお話(となるハズ)です。

京阪電鉄石山坂本線・びわ湖浜大津駅から距離約1.2km/高低差約40mの勾配を徒歩行軍で心神耗弱という轍を再び踏むのは愚の骨頂・・・ということで、旅のスタートはびわ湖浜大津駅より京津線を1駅、上栄町駅まで乗車して目的地までの2/3の移動をクリアしました。

関蝉丸神社鳥居

上栄町駅から登り勾配の街中を約500m。10分余り歩くと、京阪電車沿線から直ぐ境内へと進入する参道踏切に出逢います。

こういう情景は国内各所にあり、とても風情を感じますね。近隣ではJR草津線の甲賀市沿線や岐阜・西濃鉄道等でも見受けられます。

今回の目的地はここ、関蝉丸(せきせみまる)神社です。

蝉丸とは皆さんよくご存じ、小倉百人一首所載の『これやこの 行くも帰るもわかれては 知るも知らぬも逢坂の関』で滋賀でも馴染み深い、平安時代前期の歌人にして琵琶法師です。

主祭神は上社が猿田彦命(サルタヒコ)、下社が豊玉姫命(トヨタマヒメ)で、交通の要衝であったここ逢坂山(おうさかやま)で旅人の安全を祈念して祀られました。なお蝉丸はこの二柱が鎮座するこの地に住んでいたという縁で、死後に合祀されたとのこと。

関清水社

今回の目的は下社のみ。上社はまたの機会にということで(決して上社が山上に鎮座しているので嫌々避けた訳ではございません)。参道を進むと傍らに小さな祠と井戸があります。

下社はかつて関清水大明神 蝉丸宮と称し、この小さな祠がその名残りを伝えています。

龍神様をお祀りするこの関清水社の井戸は、約半世紀足らずまで豊かな水を湛えていましたが、徐々にその水量を減じ、現在は完全に枯渇しています。令和2(2020)年12月には井戸の掘削作業が実施されましたが、期待に届く水量を得ることは出来なかったようです。

何が原因かは不明ですが、水脈というものは少しの環境の変化でも水量に大きく影響を来しますから、更なる掘削だけでは根本的な解決とはならないのかも知れません。

近年クラウドファンディングで修繕費を募られましたが、目標の半分にも届かなかったとか。祠は新調されましたが、関清水社の前途は依然として厳しそうです。

関蝉丸神社下社 本殿

関清水社の奥に更に厳しい状況に晒されているのが、関蝉丸神社下社の本殿です。

蝉丸が合祀された後、天禄2(971)年に円融天皇(えんゆうてんのう/平安時代中期・第64代天皇)から下された綸旨により、歌舞音曲の祖神としても信仰されるようになりました。  

以後音曲芸道に携わる人々が全国から参拝に訪れ、室町時代以降は関所を通行する際に身分証明となる、また芸人が諸国での興行を保証する大切な免状を発行する役割をも担っていました。

そして現代では、平成27(2015)年から令和4(2022)年まで、「芸能の祖神を蘇らせる」をテーマに、毎年5月関蝉丸芸能祭が開催され、能や雅楽、ジャズに至るまで幅広いジャンルの催し物が演じられていました。

このように関蝉丸神社下社は全国各地の芸人と繋がり、その暮らしを支え続けるという歴史を紡いできました。

しかし時代と共に蝉丸信仰も衰退。加えて正統な宮司家の断絶に伴う長期に渡る宮司不在。氏子の高齢化と氏子離れも相俟って、荒廃の一途を辿ります。

こちらもクラウドファンディングが試みられましたが、関清水社の結果と同様に終わったようです。完全な修繕整備には1億円もの費用を要するとも言われており、信仰の護持が如何に困難であるかを物語っています。伝統と由緒ある文化財がブルーシートに覆われている姿は、とても胸が締め付けられる思いです。

小町塚

ようやくタイトルの本丸に到達です(笑)。本殿の北側の山道を少し進むと、1m程度の自然石の碑があります。

これが小町塚で、塚の下部にはあの有名な「花濃以呂は 宇つりにけりな いたつらに わか身世にふる なかめせしまに」の句が刻まれています。

和漢三才図会』(わかんさんさいずえ/江戸時代中期に寺島良安により編纂された日本の百科事典)によると、小野小町は逢坂山で69歳で亡くなったと記載されています。出生地は鳥居本小野宿(現在の彦根市小野町)だという伝説があり、現在でも小野塚と称する地蔵堂があります。

かつて大津市逢坂2丁目付近には関寺(せきでら)という寺院があり、老衰零落した小野小町が同寺の近くに庵を結んでいたとする伝説があり、その様子は謡曲『関寺小町』に美人の末路の悲哀が伝えられています。

その小町庵が、明治維新以前には境内の御輿庫の裏手にあったとも伝えられています。

大津市大谷町にある月心寺には、小野小町百歳像が安置されています。

あの銭湯の創業者は彼の『関寺小町』になぞらえ、歴史と洒落に長けた人物であったに違いないと小生は信じたいです。

関蝉丸神社下社参道

現在この光景を見ることは出来ません。京阪電車800系は京阪本線一般車両新塗装への統一化に伴い、写真の初期塗装は消滅してしまいました。

琵琶湖をイメージしたパステルブルーとグレーホワイトを主に、染物由来の色であり京津線のラインカラーでもある苅安色(かりやすいろ/黄色)の帯は、一見奇抜に見えて、とても大津の街並みに馴染んでいました。

しかし時代は私達の懐古趣味を置き去りに、どんどん突き進んでいきます。

以前どなたかが「存するために補助を必要とする文化は保護するに値しない」と話しておられたことを記憶しています。当時は「何と冷たい言葉だろう」とは思いましたが、顧みれば最も現実を見据え、的を得ているのかも知れません。

#関蝉丸神社 #関清水社 #蝉丸  #クラウドファンディング #関寺小町 #和漢三才図会 #小倉百人一首  #小野小町 #小町塚  #京阪電車

関蝉丸神社

【上社】滋賀県大津市逢坂1丁目20番地
【下社】滋賀県大津市逢坂1丁目15番地6
【TEL】077-524-2753(滋賀県神社庁:平日9時 ~17時)

【次回、大津百町漫歩(4)をお愉しみに・・・】

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


日々是滋賀日和 “湖國浪漫風土記”にようこそ

~近江の國は歴史の縮図である~

【湖國風土記寫眞】彦根城(彦根市)

【取材活動に於ける新型コロナウイルス感染拡大抑止に係る行動指針宣言】
令和2年 4月15日 追補
令和2年11月 1日 改訂
令和5年 1月21日 改訂
令和5年 5月 1日 改訂

国内のみならず、世界的パンデミックの様相著しい新型コロナウイルス感染症。小生はこの拡大抑止に日本人としての良心と誇りに掛け、積極的に協力することをここに宣言致します。なお令和5年5月8日付をもってCOVID19が感染症法上の位置付けを5類相当に移行させるに従い、取材活動の部分制限を順次緩和して参ります。また再び大規模な感染拡大が認められた場合は、日本政府、厚生労働省並びに滋賀県が発出する最新の行動指針に則り、感染症の動静を勘案したうえ、感染対策を徹底し、取材活動を自らの指針に則り制限致します。何卒皆様のご理解を賜りますようお願い申し上げます。

滋賀の知られざる歴史、忘れ去られゆく民話、先人たちの偉大なる足跡を後世に伝える渾身の激白(?)徒然紀行。

生まれ育った近江國の風土をこよなく愛する土着民が、“滋賀の郷土史”を皆様に知って戴ければとの想いで書き綴っております。時折・・・しばしば(?)「彷徨」もございますが、ご高覧・ご笑覧賜れば幸いです<(_ _)>

※相互リンク大歓迎です。追手門目安箱よりご連絡戴ければ幸甚です。

管理人:企画室 淡海新田藩 藩主 後藤 奇壹

2012年1月1日 開設


大津百町漫歩(2)“扇塚”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

お陰様で例の新型流行性感冒罹患に伴う蟄居閉門が解かれました。ご心配戴きました諸兄方、またお見舞の電信文を頂戴致しました皆様方、誠に恐悦至極に存じます。この場を借りまして厚く御礼申し上げます<(_ _)>

蟄居閉門中には御神楽にもお越し頂き、我が家の残り邪気を根こそぎ一掃して貰いました。『風立ちぬ、いざ生きめやも』・・・今年も微速前進にて無理せず起動します(笑)。

今回も旧大津宿界隈を漫ろ歩いております。

・・・で、早速壁にぶつかりました(泣)。

高山寺霊園参道

何せ所在を示すキーワードは高山寺霊園(こうせんじれいえん)のみ。佛教史学・國文學者にして叡山学院名誉教授の渡邊守順(わたなべもりみち)先生の著書に記載されているヒントはこれしかないのです。

結局この石碑を発見するのに、国道1号の音羽台地区周辺を30分近くウロウロしておりました。まぁ京阪電鉄石山坂本線・びわ湖浜大津駅から距離約1.2km/高低差約40mの勾配行軍の果てでの徘徊でしたから・・・体力は限界値を示していました。

国道1号の逢坂1丁目東交差点から約50m京都方面へ進んだところに、山手に入る狭隘な坂道の入口にこの石碑を見付けました(因みに自家用車での探索であれば間違いなくスルーしています)。

高山寺霊園内に佇む扇塚

消耗した身体を気合で気持ちを前に引きつつ坂道を登っていくと、奥には広大な墓苑が拡がります。その入口付近の墓石群に埋もれるように、今回の目的である扇塚(おおぎづか)がひっそりと佇んでいます。

さてここで第二の(とても大きな)壁にぶつかります。いつもは現地で資料の裏取り(証拠集め)を行うのですが、ここには由来碑はおろか、案内板1つ無いのです。墓苑ですから聞き込みもほぼ不可能。勿論、あのグーグルマップにも何一つ情報はありません。

実に困りました・・・そこで小生は或る“組織”にダメモトでお力添えを乞いました。

扇塚

以下、その或る“組織”のご協力による扇塚由来の全貌です。

扇塚の碑文及び大正4(1915)年刊行の中村紅雨(著)『大津案内記』から判明した内容は以下の通り(※一部当方の資料の所載内容を交えて記述しています)。  

江戸時代中期の頃、京都でのお話。

五摂家の一つ、九条家の諸大夫(しょだいぶ/九条家の家来のようなもの)である塩小路家出身の塩小路光貫(しおこうじみつつら)という人物が京の都におりました。

光貫には貞代(さだよ)という一人娘がおり、両親が「蝶よ花よ」と可愛がって育てた甲斐もあって大変美しく成長し、その美貌は京の町でも大変評判でした。さらに貞代は秦舞(扇を使用する舞)を好んで得意としており、その艶やかな舞い姿は有名で京の人々に知れ渡っていました。

しかし貞代は寛政7(1795)年6月9日に急な病で夭折。享年17歳。法名は瑞應院夏岳妙槿大姉。愛用していた扇と伝書を埋めてここに塚を建立しました。

当時貞代を愛妾としていた公卿(くぎょう/公家の中でも国政を担う最高幹部の職位)の中山愛親(なかやまなるちか)が扇塚の字を揮毫し、下鴨神社の神官にして和歌の名手であった鴨祐為(かものすけため)が和歌を詠み、これを碑に刻みました。

祐為の和歌 「在し世に このめる舞の 扇をや 志るしの塚の 名に残すらむ」  

歴史書に名を遺す人物では無かったにせよ、17歳の少女への追善供養に当時これだけの権威者が名を連ねたことは最高のはなむけではなかったでしょうか。

因みに、何故貞代の供養碑がここ大津に建立されたかについては未だ以て謎とのことです。

今回の取材で当方の趣旨にご賛同賜り全面的なご協力を戴きました或る“組織”とは・・・大津市歴史博物館さんです。突然のお願いに快く且つ迅速に調査と情報提供を賜りました。この場を借りまして厚く御礼申し上げます<(_ _)>

小町湯

兎に角、ここの取材が今回の大津漫ろ歩きで、現地取材・情報収集・体力消耗ともにハードルの高いスポットでした。「漫ろ歩き」どころか、これはもう「探検」レベルでした(笑)。

へとへとになって里に下りてきましたら偶然にも銭湯を発見!

「ここはひとっ風呂浴びて、スッキリしたい!」・・・という想いをグッと堪えて帰還の途に。残念ながら帰還阻止限界時間に到達してしまったのでした(泣)。

「それにしても、ナゼに“小町”湯?」との後ろ髪惹く疑問の答えは次回のお愉しみということで。

#高山寺霊園 #扇塚 #貞代  #塩小路光貫 #中山愛親 #鴨祐為 #大津案内記  #銭湯 #小町湯  #大津市歴史博物館

【次回、大津百町漫歩(3)をお愉しみに・・・】

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


大津百町漫歩(1)“犬塚の欅”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今年に入り、何となく運気が上向いてきたかなと喜んでいたのも束の間、遂ぞあの新型流行性感冒に罹患してしまいました(泣)。これまで十分感染対策には留意してきたつもりでしたが、ここまでくると感染経路すら思い当たりません。

ワクチンも4回接種済ですが、飽くまでも『感染抑止』ではなく『重症化予防』のためですし、これだけ市中感染が日常化していれば致し方ないのかも知れません。

どうやらこの春にも5類に分類される見込みとか。各種支援体制も廃止・軽減されることも想定されるならば、ある意味今のうちの罹患は“不幸中の幸い”と考えられるのかも。何はともあれ皆様、「色々な意味」でお気を付けください。

大津宿【東海道五十三次】

さて何時もの戯言はこれくらいにして、今回は久方振りに大津市を訪れています。

もともと滋賀自体が古より国内屈指の交通の要衝だったのですが、特に大津は東海道が横断するうえに、北は越前國(現・福井県)より北國街道(西近江路)。南は京・伏見より大津街道。そして琵琶湖の湖上舟運の最大拠点・大津湊を擁する一大インターセクションでした。

戦国時代より街は急速に発展し、江戸時代には東海道53番目の宿場町・大津宿が整備されます。最盛期には百ヶ町、人口約1万8千人の一大都市にまで成長。これは東海道沿道の宿場町としては最大の規模を誇りました。

その物流の拠点として栄華を極めていた街の様相は、当時大津百町と表現されました。今回はその『大津百町』にひっそりと佇む伝説を探しに漫歩(そぞろあるく)ことと致しました。

なお大津市は今現在に至っても都市整備や宅地開発の新陳代謝が激しいため、現況が取材時より大幅に変化している可能性があります。その点は予めご了承ください(取材もこの点が最大の苦労なのです)。

犬塚の欅

日本赤十字社大津赤十字病院の正面玄関前から南下すること約50m。住宅地の一角に忽然と大きな欅(けやき)の老木に出逢います。

地元では犬塚の欅(いぬづかのけやき)と呼ばれ親しまれています。この老木、枯死している訳ではございません。春から夏に掛けて今でも青々とした緑樹の姿を見せてくれます。

推定樹齢600年のこの欅は、昭和40(1965)年5月6日に大津市の天然記念物に指定されています。

蓮如

時は室町時代中期、文明年間(1469~1487)の頃のこと。本願寺(浄土真宗)中興の祖にして本願寺第8世宗主(門主とも)であった蓮如(れんにょ)は、他宗門からの迫害を受け京より逃れ、他力本願の念仏の教えを広めるため、当時この近辺に居を構えていました。

これを伝え聞いた近隣在郷の多くの善男善女が蓮如の下を訪れ、その教えに触れ次々と信者となっていきました。

しかしその人気振りを快く思わぬ人々がいました。比叡山に本山を擁する天台宗の僧侶たちです。浄土真宗の信者が日の出の勢いの如く増えていくのに対し、天台宗の信者は風前の灯火如き有様。己たちの足元を顧みずこの状況に怒りを覚え、その果てに蓮如の殺害計画を企てるまでに至ります。

さて、蓮如には日頃我が子のように可愛がっていた1匹の犬がおりました。

犬塚

或る日のこと。どうしたことかその犬が、この日に限って蓮如に用意された食膳の傍を一向に離れようとしません。それどころか、蓮如の袖をくわえて食膳から引き離そうとします。蓮如にはその動作が何を意味するのか、全く理解出来ませんでした。

「おかしなことをするものだ」と蓮如が箸を取ろうとしたその時、突然その犬が食膳をひっくり返してその御飯を食べてしまいました。

するとその犬はたちまち悶え苦しみ、何と血を吐いて死んでしまったのです。蓮如はそこで初めて、その犬が食膳に毒が盛られていることを知らせようとしていたことに気付くのです。

蓮如は自責の念に駆られ、自身の身代りになった犬を自宅近くの藪にねんごろに葬りました。そして埋めた墓の傍に欅の木を植えたと伝えられます。また犬塚の碑はそのエピソードを聞いた信者によって、犬の忠誠を偲んで建立されたと言われています。

忠犬の墓が建立された頃にあったとされる藪も、今は痕跡すら残っていません。また安全と保全のためと思しき柵も設置されています。いまや周囲の風景から浮いた存在・・・いや埋もれた存在となりつつあります。

もし『徒然草』の作者・卜部兼好(吉田兼好)が今の世に甦ったら、こう言うに違いありません。“この柵 無からましかばと 覚えしか”とね(笑)。

#大津百町 #大津宿 #犬塚  #犬塚の欅 #大津赤十字病院 #蓮如 #東海道  #吉田兼好 #徒然草  #忠犬

【次回、大津百町漫歩(2)をお愉しみに・・・】

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!