Author Archives: chaos510

大津百町漫歩(1)“犬塚の欅”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今年に入り、何となく運気が上向いてきたかなと喜んでいたのも束の間、遂ぞあの新型流行性感冒に罹患してしまいました(泣)。これまで十分感染対策には留意してきたつもりでしたが、ここまでくると感染経路すら思い当たりません。

ワクチンも4回接種済ですが、飽くまでも『感染抑止』ではなく『重症化予防』のためですし、これだけ市中感染が日常化していれば致し方ないのかも知れません。

どうやらこの春にも5類に分類される見込みとか。各種支援体制も廃止・軽減されることも想定されるならば、ある意味今のうちの罹患は“不幸中の幸い”と考えられるのかも。何はともあれ皆様、「色々な意味」でお気を付けください。

大津宿【東海道五十三次】

さて何時もの戯言はこれくらいにして、今回は久方振りに大津市を訪れています。

もともと滋賀自体が古より国内屈指の交通の要衝だったのですが、特に大津は東海道が横断するうえに、北は越前國(現・福井県)より北國街道(西近江路)。南は京・伏見より大津街道。そして琵琶湖の湖上舟運の最大拠点・大津湊を擁する一大インターセクションでした。

戦国時代より街は急速に発展し、江戸時代には東海道53番目の宿場町・大津宿が整備されます。最盛期には百ヶ町、人口約1万8千人の一大都市にまで成長。これは東海道沿道の宿場町としては最大の規模を誇りました。

その物流の拠点として栄華を極めていた街の様相は、当時大津百町と表現されました。今回はその『大津百町』にひっそりと佇む伝説を探しに漫歩(そぞろあるく)ことと致しました。

なお大津市は今現在に至っても都市整備や宅地開発の新陳代謝が激しいため、現況が取材時より大幅に変化している可能性があります。その点は予めご了承ください(取材もこの点が最大の苦労なのです)。

犬塚の欅

日本赤十字社大津赤十字病院の正面玄関前から南下すること約50m。住宅地の一角に忽然と大きな欅(けやき)の老木に出逢います。

地元では犬塚の欅(いぬづかのけやき)と呼ばれ親しまれています。この老木、枯死している訳ではございません。春から夏に掛けて今でも青々とした緑樹の姿を見せてくれます。

推定樹齢600年のこの欅は、昭和40(1965)年5月6日に大津市の天然記念物に指定されています。

蓮如

時は室町時代中期、文明年間(1469~1487)の頃のこと。本願寺(浄土真宗)中興の祖にして本願寺第8世宗主(門主とも)であった蓮如(れんにょ)は、他宗門からの迫害を受け京より逃れ、他力本願の念仏の教えを広めるため、当時この近辺に居を構えていました。

これを伝え聞いた近隣在郷の多くの善男善女が蓮如の下を訪れ、その教えに触れ次々と信者となっていきました。

しかしその人気振りを快く思わぬ人々がいました。比叡山に本山を擁する天台宗の僧侶たちです。浄土真宗の信者が日の出の勢いの如く増えていくのに対し、天台宗の信者は風前の灯火如き有様。己たちの足元を顧みずこの状況に怒りを覚え、その果てに蓮如の殺害計画を企てるまでに至ります。

さて、蓮如には日頃我が子のように可愛がっていた1匹の犬がおりました。

犬塚

或る日のこと。どうしたことかその犬が、この日に限って蓮如に用意された食膳の傍を一向に離れようとしません。それどころか、蓮如の袖をくわえて食膳から引き離そうとします。蓮如にはその動作が何を意味するのか、全く理解出来ませんでした。

「おかしなことをするものだ」と蓮如が箸を取ろうとしたその時、突然その犬が食膳をひっくり返してその御飯を食べてしまいました。

するとその犬はたちまち悶え苦しみ、何と血を吐いて死んでしまったのです。蓮如はそこで初めて、その犬が食膳に毒が盛られていることを知らせようとしていたことに気付くのです。

蓮如は自責の念に駆られ、自身の身代りになった犬を自宅近くの藪にねんごろに葬りました。そして埋めた墓の傍に欅の木を植えたと伝えられます。また犬塚の碑はそのエピソードを聞いた信者によって、犬の忠誠を偲んで建立されたと言われています。

忠犬の墓が建立された頃にあったとされる藪も、今は痕跡すら残っていません。また安全と保全のためと思しき柵も設置されています。いまや周囲の風景から浮いた存在・・・いや埋もれた存在となりつつあります。

もし『徒然草』の作者・卜部兼好(吉田兼好)が今の世に甦ったら、こう言うに違いありません。“この柵 無からましかばと 覚えしか”とね(笑)。

#大津百町 #大津宿 #犬塚  #犬塚の欅 #大津赤十字病院 #蓮如 #東海道  #吉田兼好 #徒然草  #忠犬

【次回、大津百町漫歩(2)をお愉しみに・・・】

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謹賀新年 天上天下唯我独尊 2023

、明けましておめでとうございます。

【湖國風土記寫眞】琵琶湖大橋からの夜明け

お陰様を持ちまして「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」は、本日で開設11周年を迎えました<(_ _)>

昨年は 虚心坦懐の1年 でございました。今年は捲土重来の1年として邁進いたす所存でございます。本年も相変わりませぬご贔屓、並びにご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます<(_ _)>

今頃極寒の中、地元氏神様の元旦祭に参賀している・・・ハズです。無論、今年も感染対策と“physical distance”を万全に整えて・・・デス(^^)v

#謹賀新年 #天上天下唯我独尊 #令和5年 #捲土重来  #開設11周年 #元旦祭 #physical distance

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令和肆年 感恩戴徳

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

令和の世となり4度目の1年が、まもなく終わりを迎えようとしています。

往く年来る年

本年の12月も日本海側から北海道に掛けて近年稀に見る強い寒気に襲われ、記録的な積雪とそれに伴う自然災害に見舞われました。昨年の今頃は小生も同じような思いをしただけに他人事とは思えません。被害に遭われた皆様に心からお見舞い申し上げます。

幸いにも積雪は未だ然程ではありませんが、その代わりに『底冷え』が凄まじく、このエネルギーの高騰の情勢も相俟って、様々な意味で非常にお寒い冬を過ごしております。

さて皆さんにとって今年はどのような1年でしたでしょうか。『新型コロナウイルス感染症』パンデミックに翻弄されて早4年。世界中がすっかりコロナ禍に疲弊してしまいました。

おまけに2月に勃発したロシアの侵攻によるウクライナ戦争。またこれを発端とした世界的政治混乱。物価と燃料の急激な高騰と円安。そして前例なき更なる気候変動と自然災害・・・。

神は一体、この地球を、この世界を、人類をどのような結末へ誘おうとしているのでしょうか・・・。

また今回も小難しい話に陥ってしまいました。では話題を変えましょう。小生の今年の三大事件(?)は・・・


①2月17日と4月1日に艱難辛苦な出来事が勃発し、現在でも心身ともに体調不良を来す事態に陥ることに。
②世界情勢の混沌によるスタグフレーションに伴い大幅に家計が圧迫。
➂二女が初等教育課程へと進學。


・・・といったところです。結局殆ど『不景気』な出来事ばかりでした。

でも何とか最悪の事態を逃れ、家族全員が愉しく健やかに、この世の片隅でひっそり大過なく暮らせたことは喜ばしい限りです。『全てに真摯、全てに奉仕、全てに感謝』の姿勢により、今年も多くの人に支えられ、守られ、助けられて生かされました。

この『戦』の一年、大変お世話になり誠に有難うございました。来年も何卒ご指導ご鞭撻、そしてご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。

#感恩戴徳 #往く年来る年 #新型コロナウイルス  #ウクライナ戦争 #物価高 #円安 #艱難辛苦  #スタグフレーション #戦   #全てに真摯全てに奉仕全てに感謝

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天空の里山 again “屏風”紀行(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、天空の里山 again “屏風”紀行をお届け致します。

編集者時代の下記の記事も併せて御覧賜れば幸甚です。

>>>>天空の里山紀行(2)屏風集落”

アップダウンの激しい町道屏風線を歩くこと約30分。ようやく景色が開けて、屏風の集落に到着。当初は気温も低く曇天の極みであった天候も、徐々に好転してきました。

屏風集落(1)

驚きのファーストインプレッション。最初の訪問から約四半世紀が経過していたのですが、当時の縁(よすが)をほぼ留めていました。「時が止まったよう」とは正しくこのこと。

かつて採薪・薪炭が主要産業であった様子も、令和に至っても十分過ぎる程伝わる情景が保たれていたのには誠に喜ばしく感じました。

集落の中心を通る道を歩いていると、明らかに通常のアサガオとは大きさの異なる、でもアサガオに似た見慣れぬ花を集落のあちこちで発見。

チョウセンアサガオ

おまけにハリセンボンの赤ちゃんのような種子もゴロゴロ。あとで調べましたら、チョウセンアサガオという名の外来植物でした。

インド原産で副交感神経に作用する毒性を持つこの植物。江戸時代に鎮痛薬の原料としてもたらされ、その後本州以南全域に帰化・野生化したようです。

なぜこのような山奥に自生しているのか。ここで薬種の産業が起こされたとは聞き及んでいませんので真相は不明です。

まずはともあれ、『知らないものには触らない』という普段の教訓だけは活かせたようです(笑)。

屏風集落(2)

集落はこの道を境界として、両側に住宅が点在しています。

無住集落ですから少なからず荒廃した箇所は認められますが、多賀・彦根周辺の廃村の中では比較的状態よく保たれています。

前回はこの界隈を訪れなかったのですが、恐らくその当時とそう大きく変わっていないと推察します。今でも人が出てきても何ら不思議はありません。

円徳寺

集落の中心部に位置する屏風唯一の寺院・円徳寺(えんとくじ)。

浄土真宗本願寺派の寺院で、創建は江戸時代初期の寛永4(1627)年。もとは彦根藩領の平田村(現在の彦根市平田町)に在する妙法山明照寺(みょうほうざん めんしょうじ)下にあった道場でした。しかし明照寺は円徳寺開山当時、まだ北面に隣接する集落の後谷にあったのです。

因みに小生も明照寺さんとは少なからず御縁がございます。

明治2(1869)年に集落を襲った大火によって円徳寺は全焼。その後再建されましたが、現在の堂宇は近年改修されたものと考えられます。

屏風地蔵尊

寺院の直ぐ西側に鎮座する地蔵堂。

円徳寺もそうですが、無住集落となった後でもかつての住民や檀家によって今なお大切に守られていることが窺えます。

明治の大火の際に全ての資料が焼失しているため、この集落の起源は全く解りません。ただ地名は中世から存在していることが確認されていることから、『落武者』や『隠棲貴族』の隠れ里ではないかとは容易に想像出来ます。

小生的には地蔵堂に合祀されている大黒天の存在がとても気になります。

屏風集落(3)

この道を進むと、東面の集落・甲頭倉(こうずくら)や旧芹谷村の役場や学校へと繋がります。当然のことながら自動車は通行出来ません。

実は屏風集落には興味深い謎が存在します。

それは他の集落に比して、①瓦屋根の家屋が多い②焼杉板で土壁が補強されている➂土台の石垣が強固で高いという特徴があるのです。

この周囲の山村の中でも規模が小さいにも関わらず、石灰鉱山という“昭和のゴールドラッシュ”というバブルがあったにせよ、寺院や家々の現状を見ても、そもそもここはとても裕福な村であったのではないかと思えます。

屏風集落からの湖東平野眺望

もう1つの謎。それはこの眺望にあります。

ここは集落の集団墓地がある高台。ここからは芹川渓谷を通して湖東平野への視界が開けるという、とても珍しい地形なのです。

また屏風は標高約400mの高地なのですが、他の集落の大半が山や川に貼り付く、または山の頂に位置するりに対し、ここだけは集落が小さな盆地になって外界から隔絶しているという特徴もあります。

ロマンティックに考えれば、中央を追われた人々が外界からの隔絶が必要であるものの、かつての栄華が忘れられず、過去に想いを馳せることが出来るこの地に居を構えた。

或いはこの高台を哨戒拠点とし、集落を守り且つ有事に打って出るための小規模な要塞都市であった。

兎も角、色々と考えを巡らせることが出来る場所であることは間違いないようです。

糸切餅ひしや

様々な可能性に愉しみを持ちながら、山を下りて参りました。

そして多賀を訪れたら必ずここに立ち寄っています。現在糸切餅を全て手作りで提供されている唯一の老舗、ひしやさんです。コロナ禍の影響でエクスパーサ多賀(下り線)から撤退されましたが、今でも細々とその素朴な味わいを守っておられます。

多賀は「変わって欲しくないものが変わらず残る町」として、小生の心を癒してくれています。

【取材協力】 MT TRADING

#屏風 #チョウセンアサガオ #円徳寺 #地蔵尊 #湖東平野 #糸切餅 #ひしや #限界集落 #過疎 #多賀

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天空の里山 again “屏風”紀行(中篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、天空の里山 again “屏風”紀行をお届け致します。

編集者時代の下記の記事も併せて御覧賜れば幸甚です。

>>>>天空の里山紀行(2)屏風集落”

ここで進路を180度回頭。桃原口を後にし、県道239号(水谷彦根線)との交点を目指して県道17号(多賀醒井線)をひたすら西進。

1.6kmも走れば合流出来る筈なのですが・・・行けども行けども中継点には到達せず、何やら見たような景色に再び出逢うことに。

多賀町役場 後谷出張所(平成15年当時)
多賀町役場 後谷出張所(平成15年当時)

交点の角地にはこの写真の建物があるので、これを視覚的目標としていたのですが・・・「芹谷ダムが実現していたらこの辺りの景観も大きく変化していただろうなぁ」などと景色を眺めながら運転していたためか、何と交点を通過し3kmもオーバーしていたことが発覚。皆様、「漫然運転」にはくれぐれもご注意を!

実はこの建物、旧芹谷村・旧脇ヶ畑村が多賀町に併合後、この地域の町民の行政サービス提供のために整備されたものなのです。然し急速な人口減少に伴い、業務縮小の一環として平成に入り程なくして閉鎖されてしまいました。

多賀町役場 後谷出張所跡
多賀町役場 後谷出張所跡

平成16(2004)年3月。当時本格的にスタートした芹谷ダムの整備事業の影響で芹谷分校と共に解体されたと風の噂には聞いていたのですが・・・まさかここまで周囲の光景が変わっていようとは思いもしませんでした。

20年の時代の移ろいで、益々人の営みの痕跡が薄らぎ、再び静かな自然へ還ろうとしています。

20分程のタイムロスを喫しましたが、即座に計画を練り直し、再びもと来た道を戻ります。何せ山間部での活動に於ける想定外のタイムロスは「命取り」ですから・・・。

スバル プレオバン
スバル プレオ バン (初代)

編集者時代の取材に使用していた愛機はカローラバンでした。軽量で汎用性の高い車輛でしたが、如何せん馬力もトルクも低く山岳路には全くと言っていい程不向きでした(当然と言えば当然ですが・・・)。

今回は当時もお世話になったMT TRADINGさんのご協力で、「小型・軽量・高トルク」の三拍子に加え、「高旋回性・低燃費・充実装備」を兼ね備えたスバル・プレオ バンを借用。以前の取材に比して、高いアドバンテージを得ることが出来ました。写真の車輛がそれですが、とても初年度登録から数えて20年・走行約11万kmのロートルとは思えぬ素晴らしい性能を発揮!!見事タイムロスをカバーしてくれました。

スバルがこのような素晴らしい技術力を持ち備えながら、軽自動車の自主開発から撤退したことは実に惜しいことです。

後谷・屏風分岐点
後谷・屏風分岐点

県道239号(水谷彦根線)に進入したのも束の間、約200mを走行して、ここから多賀町の町道水谷後谷線に入り、ここからドライビングテクニックを問われる山間の酷道に入ります。

「暗い・狭い・滑りやすい」に加え、「落石多数・対向箇所少・悪路盤」な約2.5kmを何とか駆け抜けると、町道後谷線と屏風線の分岐点に到着。

ここは以前と全く変わらぬ風景。少しホッとしました。因みに水谷は“すいだに”、後谷は“うしろだに”と読みます。

多賀町道屏風線起点
多賀町道屏風線起点

分岐点からヘアピンぎみに町道屏風線に進入して、おっと急ブレーキ!!!!!。

以前には存在しなかったチェーンによるバリケードが設置されているではありませんか。当時は東隣の集落である甲頭倉(こうずくら)に設置されていましたが、まさかここもとは・・・。

限界集落や過疎、廃村が昭和末期からの社会問題として取り上げられ出した頃からの弊害であった私有地並びに無住家屋への不法侵入。それに伴う窃盗や破壊活動が今でも行われている現実をこのような形で突き付けられようとは・・・日本人として実に嘆かわしいことです。

プレオを邪魔にならない場所に駐車し、装備を整え、ここからは徒歩で屏風集落へ向かうことと致しました。

屏風集落口
屏風集落口

集落まであと僅か550mの行程だったのですが・・・当日肌寒い天候であったのにも関わらず、全身から汗は噴き出すは、息は上がるは、眼は眩むはで、何と30分も要することに。自動車なら僅か3分で到着する距離なのですが・・・普段の運動不足を痛感。文明の利器に頼り切った生活に溺れている現実に反省しきりです(苦笑)。

集落まではずっと上り坂だと思っていたのですが、途中から下り坂に。徒歩で向かったことで、ここがとても小規模の盆地であったことに気付くことが出来ました。まさに鈍足の奇蹟!

そしてようやくあの懐かしの情景に、約20年振りの対面を果たすこととなるのです。

【取材協力】 MT TRADING

#屏風 #後谷出張所 #屏風線 #後谷線 #水谷後谷線 #スバル #プレオ #限界集落 #過疎 #多賀

【後篇に続く】

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天空の里山 again “屏風”紀行(前篇)

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フジテレビのバラエティ番組『何だコレ!ミステリー』での現地紹介を契機として、爆発的に好評を博した『天空の里山紀行』シリーズ。

小生はかつてとある情報誌の編集兼法人営業を務めていた頃。滋賀の限界集落の特集を提案し、その取材にあたっていました。彦根や多賀の山奥に初めて赴いて、あれからもう23年の月日が経過しました(あの頃は仕事が楽しかった~)。

当初は県内全域の限界集落を取材する予定でしたが、様々な制約があり結局は実現しませんでした。また誌面での紹介が叶った村落も、限られた時間の中での取材で満足に見分出来なかったのもまた事実でした。

あれから約四半世紀の歳月が流れ、その様々な『縛り』も解け、くだらないモチベーションへの固執にも価値を見出さなくなった(笑)今、ふと我が子に『昭和の栄枯盛衰の実状』を見せてやりたいと思いました。編集者時代にじっくりと取材が叶わず、でも未だ印象に残る場所を再び訪れようと思い立ちました。

今回は多賀町北部に位置する村落・屏風(びょうぶ)を再び訪れ、3回に渡りその紀行をお届け致したいと存じます。なお編集者時代の記事も併せて御覧賜れば幸甚です。

>>>>天空の里山紀行(2)屏風集落”

まずは県道17号(多賀醒井線)を国道306号の交点からひたすら東進。因みに平成5(1993)年に当時の建設省から主要地方道に指定されますが、未だに霊仙山系越えの部分は未供用で車輛の通り抜けは不可能となっています。

屏風岩

国道306号の交点から4km余り。ここから集落の名称の由来ともなっている屏風岩(びょうぶいわ)を眺めることが出来ます。

標高差約50m、幅約200m、傾斜角約100度。滋賀・京都周辺では唯一の石灰岩の岩場で、中級者のクライマーには人気のスポットとか。ただ石灰質ということもあり、崩落の危険性をはらんでいるのは今も変わりないようです。

さてここからもと来た県道を300m程度戻ると、大量の盛土が置かれた広場に出逢います。

多賀小学校 芹谷分校跡

ここはかつて分校があった場所。平成16(2004)年3月に解体されるまで、僻地学校の雰囲気をよく留めていた建築物として名の知れた多賀小学校 芹谷(せりだに)分校がありました。

多賀小学校 芹谷分校(平成12年当時)

勿論、屏風集落に住まう子供たちもかつてはこの学校に通っていました。

平成2(1990)年には総児童数が7名にまで減少し、平成5(1993)年3月本校への統合に伴い閉校。子供たちの声が聞かれぬようになった後も、春には桜が咲き乱れ、いつでも子供たちを迎えられるような光景を私たちに魅せてくれていました。

11年待ち続けた校舎。然し終ぞその願いは叶いませんでした。

下ノ地蔵尊

今となってはこの下ノ地蔵尊だけが、この芹谷の歴史を知る唯一の生き証人といっても過言ではないでしょう。跡地には分校を偲ぶ石碑も案内板も一切なく、寂しい限りです。

さらにここから戻ること300m。建設会社の資材置場と僅かばかりの空地があります。

多賀小学校 後谷分校跡

ここはかつて芹谷分校の前身である多賀小学校 後谷(うしろだに)分校があった場所です。

驚きなのはこの猫の額の如く狭隘な土地に、昭和16(1941)年11月に発足した多賀町以前に存在した芹谷村の村役場(合併後は多賀町後谷支所)や駐在所も併設されていたことです。

この分校の歴史は古く、明治10(1877)年創立。明治22(1889)に発足した芹谷村の小学校に。明治42(1909)年に校舎が全焼し、翌年新校舎が落成。残念ながらそれまでの資料が全て焼失してしまったとか。

そして昭和16(1941)年には総児童数が141名を数えました。このような土地ですから運動場はなく、資料には「甲頭倉川原にて運動会開催」との記述もあり、芹川の河原をグラウンド代りにしていたようです。

桃原口の芹川

またこの周辺は桃原口(もばらぐち)と呼ばれ、芹川対岸の山地にあり『多賀牛蒡』の一大産地であった集落・桃原に車輛通行可能な道路が整備されるまで、芹川で分断された芹谷村内の人流の交点となっていたようです。

更に桃原には大東亜戦争後、冬季にスキー場も整備されたので、生活そして交易やレジャーで多くの人の行き交う姿が見られたように推察致します。

昭和33(1958)年のとある夜のこと。屏風岩近辺の裏山から重量100kgにも及ぶ大規模な落石が発生し校舎を直撃。幸いにも人的被害はなく、建物への被害も部分的なものに留めました。しかし学校関係者並びに保護者の被った心理的衝撃は殊の外大きく、繰り返し裏山の岩石の除去作業が行われました。然し根本的な解決には至らないということで、昭和37(1962)年12月に名称も変更されて現在の場所へ移転新築されました。

本校からは少し遠くなったものの、落石のリスクも軽減され、新たなスタートを迎えることとなった芹谷分校ですが、待っていたのは急速な過疎化の波であったなどと、当時は知る由も無かったでしょう。

さてここから、屏風集落の本丸へと舵を切ります。

【取材協力】 MT TRADING

#屏風 #屏風岩 #芹谷分校 #芹谷村 #芹川 #後谷分校 #多賀牛蒡 #限界集落 #過疎 #多賀

【中篇に続く】

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悲哀と怨嗟・もう1つの羽衣天女“おこぼ”の伝説

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ようやく暑さも収まって参りましたね。とはいえ例年とはまた違った形で、台風や地震を始めとした自然災害が、日本はもとより、世界中で発生しています。実に辛いことです。

さて前回の木之本地蔵の巻で余呉湖の天女に触れましたので、普通ならこの流れでご紹介すべきなのですが、諸般の都合により現地調査が実現しておりませんので何卒ご容赦くださいませ。その代わりと言っては何ですが、別の天女伝説をご案内致したく存じます。

今回は地元の方の記憶も乏しいものになりつつある知られざる悲劇の羽衣天女(はごろもてんにょ)、おこぼについてのお話をいたしたいと存じます。

皆さん、羽衣伝説という昔ばなしを覚えておられますか?因みにツナの缶詰の某企業の伝説のことではありませんよ(^^)

天女(イメージ1)

羽衣によって天から降りてきた天女。そしてその天女に恋する男。そして悲しい別れの結末・・・おおまかに申し上げるとそのような内容です。

昔ばなしの羽衣伝説で最も有名なのが、静岡県静岡市清水区にあります三保の松原(みほのまつばら)。

また文献に残されている羽衣伝説は2つ。『近江國風土記(おうみのくにふどき)』に記載されている滋賀県長浜市にある余呉湖(よごこ)と、『丹後國風土記(たんごのくにふどき)』に記載されている京都府京丹後市にある磯砂山(いさなごさん)です。

実は一般的に知られている「男と結婚し子供を儲けるが、後に羽衣を見つけて天に帰ってしまう」というストーリーは、滋賀の余呉湖に伝わるお話がベースとなっているのです。

それならなおのこと、その有名どころを今回ご紹介すべきところなのですが・・・つくづくタイミングの悪い事です。

天女(イメージ2)

ちなみに天女の写真やイラストを探していたのですが・・・現代の天女のイメージはこんな感じなんですね(苦笑)。

では本題に戻ります。

今から約千年前、愛知川(えちがわ)のほとりに小椋郷(おぐらごう/現在の東近江市小倉町付近と推定)と呼ばれる地域がありました。

陰暦の7月6日(現在の8月上旬)のこと。この郷の領主であった鯰江犀之介友貞(なまずえさいのすけともさだ)は近くの池へ魚釣りに出掛けました。

すると池では何とも美しい女が水浴していて、傍らの松の枝には薄物の衣が掛けられ芳香を放っているではないですか。友貞はその女に声を掛けましたが、女は黙ったまま返事をしません。友貞はこの美しい女の姿に酔い、どうしてもこらえ切れなくて、何と衣を奪って帰ってしまいます。

女は衣を返してくれるよう泣いて訴えますが、友貞は「知らぬ存ぜぬ」を通し続け、返そうとはしませんでした。

天女(イメージ3)

それから程なくして女は友貞の妻となり、おこぼと呼ばれるようになりました。「衣を返せば逃げるかもしれない」と考えた友貞は、衣を隠したままにしていました。

7年の歳月が流れ、二人の間に6人の子供が出来ました。末の子の乳母は衣の隠し場所を知っていました。7年も経っているというのに夫に隠れてすすり泣く哀れなおこぼの姿を見る度に、乳母の胸は痛みます。

ねんねんころり、ねんころり

熟寝(うまい)する子は賢(さか)しい子

賢しい子にはお宝あげる

お宝屋根の破風(はふ)のなか

乳母は子守唄に歌い込んで衣のありかを教えました。

当時この地方では結婚して7年目の七夕の夜に、親類縁者を招いて酒宴を張る習慣がありました。友貞も習慣通り酒宴を開き、容色の衰えぬ妻をかたわらにして幸福の絶頂にありました。しかし突然、妻は鈴を振るような美しい声で歌を詠みました。

かりそめに なきしふすまの 七とせに 妹のかたみの たねおばのこす

友貞はハッとして傍らを振り返ると、何といままでそこにいた妻の姿がありません。妻は天の川を背に衣をまとい、中空に舞っているではありませんか。

「やっぱり天女だったのか」・・・友貞と6人の子ども達の嘆きは、居並ぶ人たちの涙を誘いました。

おこぼが水浴していたこの池は、それ以来誰言うことなくおこぼと呼ばれるようになりました。

おこぼ池跡

おこぼ池は現在の東近江市妹(いもと)町の田園地帯にありました。

しかし残念ながら昭和50年代に実施された土地改良に伴う圃場整備で埋め立てられてしまい、当時の面影はありません。

また出自の時期は不明ですが、藤原氏の流れを汲む鯰江(なまずえ)は古くからこの地域一帯を支配していたと言われています。

鯰江城跡

室町時代には現在の東近江市鯰江町に鯰江を築き、近江源氏で南近江の守護大名である六角氏と縁戚・主従関係になります。

しかし後に佐久間盛政・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家を中心とする織田信長の軍勢に攻められ落城。一族は各地に離散し、没落しました。

この事実が『おこぼの約500年を掛けての怨念』が成せる業であったとは、余り考えたくないですね(>_<)

今回の記事にあたり情報をご提供いただきました東近江観光協会様、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

#おこぼ #天女 #羽衣伝説 #小椋郷 #鯰江犀之介友貞 #おこぼ池 #鯰江氏 #六角氏 #鯰江城

鯰江城跡

・滋賀県長浜東近江市鯰江町1296番地

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衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説・後篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

引き続き、衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説をお届け致します。このコロナ禍の影響を受け3年振りに開催された木之本地蔵大縁日も無事終わり、これから湖國は徐々に秋の装いを呈していきます。

さて木之本地蔵院が創建されてから約140年後のこと。

弘仁3(812)年。全国修行行脚の途上、空海(弘法大師)がこの地を訪れました。

浄信寺 地蔵院

早速木之本のお地蔵さんを参詣したのですが、長い年月を経て著しく荒廃した姿に接し、大変心を痛めました。

そしてこの地蔵院の修復を申し出るのです。

この時空海は、閻魔王(えんまおう)と具生神(ぐしょうじん/人の善悪を記録して死後に閻魔王への報告を担う二神)を安置し、紺紙金泥(こんしこんでい/紺色に染色した紙に金粉をニカワに溶いた絵具で書いたもの)の地蔵本願経一部三巻を献納しました。

すると、ある夜のこと。空海は不思議な夢を見ます。

『堂前の湖に龍が棲んでおり人々に害をなしているのでこれを救え』とのお告げを受けるのです。

早速空海は湖の畔に立ち祈祷を行いました。すると湖から龍が表れて、

『私はこの湖に棲む龍で(しず)と申します。今後人々に危害を加えませんので、どうかお討ちにならずにお助けください』と懇願しました。

そこで空海はここでの修法(ずほう/壇を設けて行う加持祈禱)に参列するようにと申し付けます。龍は童女に姿を変え、修法に参列しました。

伊香具神社

龍の大変神妙且つ真剣な態度に感心した空海は、懲らしめずに伊香具神社(いかぐじんじゃ)の守護神として祀ることにしました。

長浜市木之本町大音(おおと)にある伊香具神社の祭神は伊香津臣命(いかつおみのみこと)ですが、『近江国風土記』に記載されている余呉湖の羽衣伝説に登場する天女・伊香刀美(いかとみ)と同一であるとされています。

余呉湖の龍神は「天女」であったのかも知れませんね。

賤ヶ岳


また童女・賤にちなんで、伊香具神社の後ろの山を賤ヶ岳(しずがたけ)と名付けたと言い伝えられています。

空海と龍神との出来事から約770年後の戦国時代のこと。

木之本地蔵院は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって本陣が置かれ、戦火により焼失。賤ヶ岳一帯も柴田勝家との激しい戦い(賤ヶ岳合戦)が繰り広げられ死屍累々の地と化したのは、実に因果なことです。

#木之本地蔵 #空海 #地蔵本願経 #伊香具神社 #近江風土記 #賤ヶ岳 #羽柴秀吉 #賤ヶ岳合戦

木之本地蔵院(長祈山 浄信寺)

・滋賀県長浜市木之本町木之本944番地
【TEL】0749-82-2106

伊香具神社

・滋賀県長浜市木之本町大音688番地
【TEL】0749-82-5554

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衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説・前篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

久々の更新、ご無沙汰致しております。大変ご心配をお掛け致しました。尋常じゃない暑さも去ることながら、史上最悪のコロナ禍の現況、幾分かの体調不振、お盆の準備や法要の対応等々・・・なかなかの『御用繁多』な日々でございました。

今回は、日本三大地蔵の1つに列せられ、県内でも眼病・延命息災のお地蔵様としても名高い、木之本地蔵(きのもとじぞう)にまつわるお話を、2回に渡りお届け致したいと存じます。

JR北陸線・木ノ本駅を下車して直ぐに、とても長い石畳の坂道に出逢います。通称・地蔵坂と呼ばれるこの坂道の先に遠く見える寺院に、木之本地蔵は御座します。

しかし、本来はこの坂道のスタート地点が寺院の入口。現在の門前町はもともとの参道に発展したものなのです。

木之本地蔵大縁日(地蔵坂)

写真は例年8月22~25日に勤修される木之本地蔵大縁日での地蔵坂の光景。新型コロナウイルスの市中感染が過去最大級の状況下、今年も明日から疫病平癒を願って開催されます。

7世紀後半、飛鳥時代も終盤を迎えつつある頃。摂津國・難波浦(現在の大阪府)に、金色に輝く1体の仏像が流れ着きました。時を同じくして天武天皇(てんむてんのう/第40代天皇)はこの仏像の霊夢をご覧になり、「この御仏こそ龍樹(龍樹/2世紀のインドの高僧で日本では八宗の祖と言われる)菩薩が御作りになられた霊験あらたかなものである」として、すぐさま漂流の地に伽藍の建立を命じます。これが金光寺の起源であるとされています。

しかし帝はこの御仏を仏法の縁の深い場所でより多くの民衆の拠り所となって欲しいとの想いから、皇紀1335(675)年に薬師寺の開祖・祚蓮(それん)へ縁の深い地を探すよう勅命を出しました。早速祚蓮はこの尊像を奉持して、諸国行脚の旅に出ます。

祚蓮は北国街道を下った時のこと、丁度柳の大木があったのでその下に尊像を下ろし、しばし休息をとりました。そして再び出発しようとしたのですが、尊像はその場から全く動かすことが出来ず、何と前にも増して金光を放ちました。

木之本地蔵院

周囲は一面光明に包まれ、病に伏せる者はたちまち治癒し、災難に見舞われし者は立ちどころに難が消除しました。


祚蓮は「誠に地蔵菩薩は不可思議の霊像である。この光こそ衆生(民衆)の救済、諸難諸病を遁れ願い成就する光だ、この地こそ地蔵菩薩の有縁の地であるから、ここに安置して人々の暮らしを幸福へと導きたい」と語り、この地に伽藍の建設が始まります。これが木之本地蔵の草創と伝えられています。

この地での御縁を結んだ柳の木の下での出来事に因み、柳本山 金光善寺と号して一寺を建立しました。後にこの地は「柳の本(やなぎのもと)」と呼ばれ、これが転じて「木之本(きのもと)」になったといいます。

さて、参拝される皆さんは「木之本のお地蔵さん」と親しげに話されるのですが、意外にも寺院の正式名称は余り知られていません。木之本地蔵院とも呼ばれますが、これは通称なのです。

昌泰元(898)年、醍醐天皇の勅旨により菅原道真が参拝。これを機会として長祈山 浄信寺(ちょうきざんじょうしんじ)と改号されました。よって浄信寺が正しい名前になります。


様々なエピソードに彩られた本尊の木造地蔵菩薩立像(但し現存するものは鎌倉期の作)は国指定重要文化財で、秘仏のため一般公開されていません。

木之本地蔵菩薩大銅像

そこでより多くの人々にお地蔵様のご加護を受けて貰いたいとの想いから、明治24(1891)年から27年にかけて、本尊のお写しとして約3倍の大きさに建立されたのが、日本最大の地蔵菩薩銅像であり浄信寺のシンボル的存在の木之本地蔵菩薩大銅像です。

造営当時は県内はもとより、愛知や岐阜や福井からも銅鏡を集め、それらを溶かして造られたのだとか。

また大東亜戦争中は軍需省より厳しい供出命令を受けましたが、「地蔵菩薩は信仰の対象である」として三十世住職其阿上人学樹足下はそれを拒否しました。真言宗阿闍梨・班目日仏や東條英機の妻である東条勝子などの援助もあって供出を免れました。

あの東京・渋谷駅前のハチ公銅像ですら、反対運動も空しく戦時中のどさくさに紛れて供出されてしまったのですから、木之本のお地蔵さんのパワーはスゴいですね。

最後に、木之本のお地蔵さんは眼病快癒にご利益があることでも有名です。

境内を見渡すと、無数の蛙の陶器が置かれていることに気づきます。

でもよ~~~く見ると、蛙の何かが違います。何と全ての蛙が片眼をつむっているのです(ウインクしている訳ではございません)。

身代わり蛙

その昔、浄信寺の庭園には沢山の蛙が棲んでいました。連日、木之本のお地蔵さんには眼病を患った多くの参拝者が訪れます。蛙たちはその姿に接し大変心を痛め、「全ての人々の大切な眼が、お地蔵様の御加護を戴けますように」「全ての人々が健康な生活を営むことが出来ますように」と自ら身代わりの願を掛け、片方の眼をつむり暮らすようになったと言われています。


これが現在、身代わり蛙と呼ばれて眼病快癒の願掛けに用いられているのです。

地元の方々にとって木之本のお地蔵さんは日々の暮らしと密接に繋がっており、現在でも老若男女を問わず、門前を通る際に必ずお辞儀をしていく光景がとても印象的であり、日本人としての誇らしさを感じるのです。

#木之本地蔵 #浄信寺 #地蔵坂 #木之本地蔵大縁日 #眼病 #身代わり蛙 #祚蓮 #時宗

木之本地蔵院(長祈山 浄信寺)

・滋賀県長浜市木之本町木之本944番地
【TEL】0749-82-2106

木之本地蔵大縁日(ふるさと夏まつり)

【開催期間】2022年8月22日(月)~25日(木)
【開催時間】午前9時~午後9時(22日は午後5時~)
【会  場】木之本地蔵院境内・北国街道および地蔵坂
【お問合先】0749-82-5900(ふるさと夏まつり実行委員会)

木之本大花火大会

【開催期間】2022年8月25日(木)
【開催時間】午後8時より20分程度(雨天延期)
【会  場】木之本スポーツ広場 木之本グラウンド

【後篇に続く】

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織姫・彦星お伽噺は史実なのか!? “近江七夕伝説”後篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)の七夕伝説は史実だった(かも知れない)というお話について、今回はその真相に迫りたいと存じます。

蛭子(世継)神社

天野川を隔てて朝妻筑摩の対岸、世継にある蛭子(ひるこ)神社ここには世継神社縁起之叟(よつぎじんじゃえんぎのこと)という文献が伝えられています。これは昭和62(1987)年に旧近江町役場による調査で発見された古文書です。

それによりますと、彦星は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう/第21代天皇)の第四皇子、星河稚宮皇子(ほしのかわのわかみやおうじ)。

織姫は仁賢天皇(にんけんてんのう/第24代天皇)の第二皇女の朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)のことであるとしています。

叔父と姪の間柄にあった二人は天野川を隔てて仏道の修行を積んでいたが、いつしか恋に落ちた、しかし逢うこともままならず、悲しい恋に終わった・・・とのこと。

法勝寺跡

ちなみにこのお話が残る蛭子神社は、延暦年間(奈良時代末期~平安時代初期)に奈良・興福寺の仁秀僧正(にんしゅうそうじょう)が、この地に興福寺南都別院として法勝寺(ほうしょうじ)を造営する際に共に建てられました。

法勝寺は現在の米原市高溝(たかみぞ)付近に建立され、明治時代まではこの辺りに法性寺という地名が残っていました(JR坂田駅の前身は“法性寺駅”でした)。

なお近江国坂田郡誌によると星河稚宮皇子と朝嬬皇女の悲恋物語を“七夕伝説”になぞらえて広めたのはどうもこの仁秀のようで、かねてよりこの二人のことを信奉しており、法勝寺建立の際この地に守護神として祀ったようです。

史実!とは申しましたがなにやら胡散臭さも・・・まぁ古墳時代の(実在の真偽も不明瞭な)人物のお話ですし、昔の偉いお坊さんは意外にもロマンチストだった・・・ということでしょうか

七夕塚

さて蛭子神社の境内には朝嬬皇女の墓と称する自然石があり、別名七夕塚(七夕石)とも吾佐嬬石(あさづまいし)とも呼ばれています。

かつては境内にひっそりと鎮座していたこの石も、1996(平成8)年に世継神社縁起之叟が発見されてマスコミの注目を浴びたことでキレイに整備され、これを契機に旧暦7月に朝妻神社と合同で七夕祭も再開させたそうです。

伝説継承をミッションとする小生としては、こういう「流行り」に乗っかった動きは些か複雑な心境ではありますが・・・

彦星塚

そしてこちらは対岸の朝妻神社境内にある星河稚宮皇子の墓と伝えられる彦星塚・・・と言いたいところですが、実はよく解らないのです。

境内には塚が2つあり、一般的には写真右の宝篋印塔(ほうきょういんとう/墓塔・供養塔等に使われる仏塔の一種)の方だと言われています。おまけに両方とも鎌倉時代後期に造立されたと推定されているため、ますます塚としての信憑性も怪しく・・・。

それにしましても、メモリアルのその後の整備の扱いが男女でこんなにも格差があるとは・・・今の時代をも象徴しているのでしょうか、一抹の悲哀を禁じ得ません

朝妻神社

この七夕伝説の他にも、奈良時代にこの地を朝妻王(あさづまのおおきみ/天武天皇の曾孫)が支配し、彦星塚は朝妻王の王廟、七夕塚は王女の墓であるとの説もあります。

さて令和3(2021)年8月、この伝説の根拠となる世継神社縁起之叟が江戸時代の研究者の著作(椿井文書/つばいもんじょ)で偽文書である可能性が高いと指摘される事件がありました。地元には衝撃が走りましたが、それでも地域に伝わる貴重な史料に変わりないと次世代を担う子供達への伝説継承に注力するとのこと。

の「信じるか信じないかは貴方次第です」的な世継神社縁起之叟から、最後にこの一説をご紹介致します。

七月一日から七日間、男性は姫宮に、女性は彦星宮にお祈りし、七日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び合わせて川に流すと、二人は結ばれる・・・云々

恋に悩む女子は彦星塚に、男子は七夕塚に。

さぁ恋に悩む草食男子・肉食女子の皆さん、いにしえの習いに従い祈念すべし!・・・と声高に叫びたいところですが、6月14日に内閣府が公表した『令和4年版男女共同参画白書』の結果を見てみれば、どれだけ興味を引くのかな?・・・と暗澹たる気持ちに苛まれる今日此頃です。

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蛭子(世継)神社/七夕塚

・滋賀県米原市世継842

法勝寺跡

・滋賀県米原市高溝

朝妻神社/彦星塚

・滋賀県米原市朝妻筑摩1293

【おしまい】

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