Daily Archives: 2023年5月24日

大津百町漫歩(4)“関寺の牛塔”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

まだ5月の終盤というのに、いきなり真夏日となったと思いきや、はたまた10℃近く気温が下がったりと、世界情勢と気候変動はリンクしているという奇妙な日々が続いております。皆様お身体に障りはございませんでしょうか。

さて、今回も旧大津宿界隈漫ろ歩きの顛末でございます。

今回も引き続き小野小町に因んだお話となります。

先程の関蝉丸神社下社からまた同じ道を辿って、京阪電鉄京津線・上栄町駅まで戻って参ります。

長安寺 参道

すると山に向けて長安寺への参道の立派な案内石碑に出逢います。どうも今回の漫ろ歩きには『勾配』が憑き物のようでございます(泣)。

関蝉丸神社下社とこの長安寺。実は京阪京津線沿いに直線距離にして200m程度なのですが、残念なるかな直結並走する道が無く、迂回して倍以上の移動を強いられるのです。

傾斜のきつい参道をえっちらおっちら上った先に、時宗 長安寺(じしゅう ちょうあんじ)があります。時宗とは鎌倉時代中期に一遍(いっぺん/1239~1289)によって開創された宗派で、踊り念仏と念仏札で民衆を極楽浄土へと導くことを旨としていました。

県内で時宗の寺院として最も有名なのが長浜市の浄信寺(木之本地蔵)です。

長安寺 本堂

この長安寺はかつてこの地に存在した関寺(せきでら/世喜寺とも)の跡であると伝えられています。

関寺の創建年次は判然としませんが、奈良時代の日本三大仏(大和・東大寺の廬舎那仏/河内・智識寺の廬舎那仏/近江・関寺の弥勒仏)の1つに列し、その大きさは約10~15mに及ぶものであったとか。当時は『関寺大仏』と親しまれ、逢坂山を通る多くの旅人が参詣に訪れたそうです。

小野小町供養塔

また前回の章でも少し触れました通り、老衰零落した小野小町が晩年関寺の近くに庵を結んでいたとする伝説があります。小町の当時の様子を描いた謡曲『関寺小町』では、老いたるもなお優秀な歌人であり風雅で上品な気質を保っていたことを素直に描いています。

『関寺小町』にはこのようなエピソードが謡われています。

或る年の7月7日のこと。関寺の住職が稚児を連れて、寺近くの山影に住む老女の許へ歌物語を聞きに出掛けました。老女は住職の請われるままに歌物語を始めます。語りを聞くにつれ、その言葉の端々から彼女が『小野小町』であることに住職は気付きます。小町は我が詠歌を引いて昔の栄華を偲び、そして今の落魄振りを嘆くのです。寺の七夕祭に案内された小町は、稚児の舞に引かれて我を忘れて舞うのでした。

これを偲び、境内には小野小町供養塔が建立されています。

平安時代中期のこと。『扶桑略記』によれば、天延4(976)年6月18日に推定M6.7以上の大地震(山城・近江地震)に見舞われた関寺は、諸堂宇はことごとく倒壊。弥勒大仏は腰から上を著しく損壊したそうです。

その後ひどく荒廃していた関寺の状況を嘆き悲しんだ、比叡山延暦寺の僧にして天台宗恵心流の開祖・恵心僧都源信(えしんそうづげんしん/942~1017)の発願によって再興が進められることになります。

或る日のこと。三井寺五別所の1つ、近松寺(きんしょうじ)の僧・証阿(しょうあ)が、「先日の夜、夢の中で僧が現れ、『お前は関寺の弥勒仏を拝んだか?未だなれば御仏の怒りに触れるであろう。早々に参り拝むように』とのお告げがあったのでと言って参拝に訪れた。

また奇妙なことに、証阿が夢のお告げを受けたその日に京都・清水寺の僧・仁胤(にんいん)が関寺復興工事の手伝いを始めていた。仁胤は1頭の役牛(えきぎゅう/力仕事に使う牛)を連れてきて、何と6年間に渡り建築資材の運搬に協力しました。

この役牛、毛並みが誠に美しく、力は強く、土や木を運ぶ度に必ず本尊の周りを3回回ったのだとか。加えて手綱が無くとも決して遠くへは行くことのない、所謂『とてもお利口さん』な牛でした。この牛の所作が僧侶がの御堂を右回りに3巡して仏に額づく仏教儀礼にも通じることから、牛仏とも呼ばれていました。

長安寺石造宝塔(牛塔)

万寿元(1024)年のこと。この役牛の噂を聞き付けた時の領主・息長正則が使役させようとしたら、夢で「この牛は伽葉仏(かしょうぶつ/釈迦の十大弟子の1人、摩訶伽葉のこと)の化身で関寺の再興のためだけに遣わされた牛であるから他の使役に使ってはならない」「万寿2年6月2日で入滅する」と告げられたと言います。

この夢告の噂は瞬く間に巷に拡がり、5月16日には「この霊牛と結縁したい」と望む藤原道長・源倫子・藤原頼通・藤原教通を始め数万の人々が参詣したと言います。

5月30日。役牛は2~3回倒れ起きしながらもよたよたと完成した御堂の周りを3回巡り終えると、牛小屋に戻りました。そして6月2日。枕を北にして倒れ伏し、四肢を差し伸ばして眠るが如く亡くなったそうです。

その後、亡骸は関寺の裏山に埋葬され、その場所に藤原頼通によって供養塔が建立されました。それが現在の関寺の牛塔(牛塚とも)と伝えられています。

牛塔は鎌倉時代初期の造立とされ、三角形の基礎石に巨大な壺形の塔身を置き、その上に笠石を乗せた石造宝塔。高さは約3.3mで、石造宝塔としては国内最大にして他に類例のない特異な造形と言われています。彼の随筆家・白洲正子も、この塔をして日本一美しい石塔の1つと絶賛したそうです。昭和35(1960)年2月9日には長安寺石造宝塔として国指定重要文化財となりました。

因みに・・・この霊牛が「近江牛であったか否か」は定かではありません(笑)。

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関寺霊跡 時宗 長安寺

 滋賀県大津市逢坂2丁目3番地23
【TEL】077-522-5983

【次回、大津百町漫歩(5)をお愉しみに・・・】

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