「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
お陰様で例の新型流行性感冒罹患に伴う蟄居閉門が解かれました。ご心配戴きました諸兄方、またお見舞の電信文を頂戴致しました皆様方、誠に恐悦至極に存じます。この場を借りまして厚く御礼申し上げます<(_ _)>
蟄居閉門中には御神楽にもお越し頂き、我が家の残り邪気を根こそぎ一掃して貰いました。『風立ちぬ、いざ生きめやも』・・・今年も微速前進にて無理せず起動します(笑)。
今回も旧大津宿界隈を漫ろ歩いております。
・・・で、早速壁にぶつかりました(泣)。

何せ所在を示すキーワードは高山寺霊園(こうせんじれいえん)のみ。佛教史学・國文學者にして叡山学院名誉教授の渡邊守順(わたなべもりみち)先生の著書に記載されているヒントはこれしかないのです。
結局この石碑を発見するのに、国道1号の音羽台地区周辺を30分近くウロウロしておりました。まぁ京阪電鉄石山坂本線・びわ湖浜大津駅から距離約1.2km/高低差約40mの勾配行軍の果てでの徘徊でしたから・・・体力は限界値を示していました。
国道1号の逢坂1丁目東交差点から約50m京都方面へ進んだところに、山手に入る狭隘な坂道の入口にこの石碑を見付けました(因みに自家用車での探索であれば間違いなくスルーしています)。

消耗した身体を気合で気持ちを前に引きつつ坂道を登っていくと、奥には広大な墓苑が拡がります。その入口付近の墓石群に埋もれるように、今回の目的である扇塚(おおぎづか)がひっそりと佇んでいます。
さてここで第二の(とても大きな)壁にぶつかります。いつもは現地で資料の裏取り(証拠集め)を行うのですが、ここには由来碑はおろか、案内板1つ無いのです。墓苑ですから聞き込みもほぼ不可能。勿論、あのグーグルマップにも何一つ情報はありません。
実に困りました・・・そこで小生は或る“組織”にダメモトでお力添えを乞いました。

以下、その或る“組織”のご協力による扇塚由来の全貌です。
扇塚の碑文及び大正4(1915)年刊行の中村紅雨(著)『大津案内記』から判明した内容は以下の通り(※一部当方の資料の所載内容を交えて記述しています)。
江戸時代中期の頃、京都でのお話。
五摂家の一つ、九条家の諸大夫(しょだいぶ/九条家の家来のようなもの)である塩小路家出身の塩小路光貫(しおこうじみつつら)という人物が京の都におりました。
光貫には貞代(さだよ)という一人娘がおり、両親が「蝶よ花よ」と可愛がって育てた甲斐もあって大変美しく成長し、その美貌は京の町でも大変評判でした。さらに貞代は秦舞(扇を使用する舞)を好んで得意としており、その艶やかな舞い姿は有名で京の人々に知れ渡っていました。
しかし貞代は寛政7(1795)年6月9日に急な病で夭折。享年17歳。法名は瑞應院夏岳妙槿大姉。愛用していた扇と伝書を埋めてここに塚を建立しました。
当時貞代を愛妾としていた公卿(くぎょう/公家の中でも国政を担う最高幹部の職位)の中山愛親(なかやまなるちか)が扇塚の字を揮毫し、下鴨神社の神官にして和歌の名手であった鴨祐為(かものすけため)が和歌を詠み、これを碑に刻みました。
祐為の和歌 「在し世に このめる舞の 扇をや 志るしの塚の 名に残すらむ」
歴史書に名を遺す人物では無かったにせよ、17歳の少女への追善供養に当時これだけの権威者が名を連ねたことは最高のはなむけではなかったでしょうか。
因みに、何故貞代の供養碑がここ大津に建立されたかについては未だ以て謎とのことです。
今回の取材で当方の趣旨にご賛同賜り全面的なご協力を戴きました或る“組織”とは・・・大津市歴史博物館さんです。突然のお願いに快く且つ迅速に調査と情報提供を賜りました。この場を借りまして厚く御礼申し上げます<(_ _)>

兎に角、ここの取材が今回の大津漫ろ歩きで、現地取材・情報収集・体力消耗ともにハードルの高いスポットでした。「漫ろ歩き」どころか、これはもう「探検」レベルでした(笑)。
へとへとになって里に下りてきましたら偶然にも銭湯を発見!
「ここはひとっ風呂浴びて、スッキリしたい!」・・・という想いをグッと堪えて帰還の途に。残念ながら帰還阻止限界時間に到達してしまったのでした(泣)。
「それにしても、ナゼに“小町”湯?」との後ろ髪惹く疑問の答えは次回のお愉しみということで。
#高山寺霊園 #扇塚 #貞代 #塩小路光貫 #中山愛親 #鴨祐為 #大津案内記 #銭湯 #小町湯 #大津市歴史博物館
【次回、大津百町漫歩(3)をお愉しみに・・・】

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