Daily Archives: 2022年10月31日

天空の里山 again “屏風”紀行(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

フジテレビのバラエティ番組『何だコレ!ミステリー』での現地紹介を契機として、爆発的に好評を博した『天空の里山紀行』シリーズ。

小生はかつてとある情報誌の編集兼法人営業を務めていた頃。滋賀の限界集落の特集を提案し、その取材にあたっていました。彦根や多賀の山奥に初めて赴いて、あれからもう23年の月日が経過しました(あの頃は仕事が楽しかった~)。

当初は県内全域の限界集落を取材する予定でしたが、様々な制約があり結局は実現しませんでした。また誌面での紹介が叶った村落も、限られた時間の中での取材で満足に見分出来なかったのもまた事実でした。

あれから約四半世紀の歳月が流れ、その様々な『縛り』も解け、くだらないモチベーションへの固執にも価値を見出さなくなった(笑)今、ふと我が子に『昭和の栄枯盛衰の実状』を見せてやりたいと思いました。編集者時代にじっくりと取材が叶わず、でも未だ印象に残る場所を再び訪れようと思い立ちました。

今回は多賀町北部に位置する村落・屏風(びょうぶ)を再び訪れ、3回に渡りその紀行をお届け致したいと存じます。なお編集者時代の記事も併せて御覧賜れば幸甚です。

>>>>天空の里山紀行(2)屏風集落”

まずは県道17号(多賀醒井線)を国道306号の交点からひたすら東進。因みに平成5(1993)年に当時の建設省から主要地方道に指定されますが、未だに霊仙山系越えの部分は未供用で車輛の通り抜けは不可能となっています。

屏風岩

国道306号の交点から4km余り。ここから集落の名称の由来ともなっている屏風岩(びょうぶいわ)を眺めることが出来ます。

標高差約50m、幅約200m、傾斜角約100度。滋賀・京都周辺では唯一の石灰岩の岩場で、中級者のクライマーには人気のスポットとか。ただ石灰質ということもあり、崩落の危険性をはらんでいるのは今も変わりないようです。

さてここからもと来た県道を300m程度戻ると、大量の盛土が置かれた広場に出逢います。

多賀小学校 芹谷分校跡

ここはかつて分校があった場所。平成16(2004)年3月に解体されるまで、僻地学校の雰囲気をよく留めていた建築物として名の知れた多賀小学校 芹谷(せりだに)分校がありました。

多賀小学校 芹谷分校(平成12年当時)

勿論、屏風集落に住まう子供たちもかつてはこの学校に通っていました。

平成2(1990)年には総児童数が7名にまで減少し、平成5(1993)年3月本校への統合に伴い閉校。子供たちの声が聞かれぬようになった後も、春には桜が咲き乱れ、いつでも子供たちを迎えられるような光景を私たちに魅せてくれていました。

11年待ち続けた校舎。然し終ぞその願いは叶いませんでした。

下ノ地蔵尊

今となってはこの下ノ地蔵尊だけが、この芹谷の歴史を知る唯一の生き証人といっても過言ではないでしょう。跡地には分校を偲ぶ石碑も案内板も一切なく、寂しい限りです。

さらにここから戻ること300m。建設会社の資材置場と僅かばかりの空地があります。

多賀小学校 後谷分校跡

ここはかつて芹谷分校の前身である多賀小学校 後谷(うしろだに)分校があった場所です。

驚きなのはこの猫の額の如く狭隘な土地に、昭和16(1941)年11月に発足した多賀町以前に存在した芹谷村の村役場(合併後は多賀町後谷支所)や駐在所も併設されていたことです。

この分校の歴史は古く、明治10(1877)年創立。明治22(1889)に発足した芹谷村の小学校に。明治42(1909)年に校舎が全焼し、翌年新校舎が落成。残念ながらそれまでの資料が全て焼失してしまったとか。

そして昭和16(1941)年には総児童数が141名を数えました。このような土地ですから運動場はなく、資料には「甲頭倉川原にて運動会開催」との記述もあり、芹川の河原をグラウンド代りにしていたようです。

桃原口の芹川

またこの周辺は桃原口(もばらぐち)と呼ばれ、芹川対岸の山地にあり『多賀牛蒡』の一大産地であった集落・桃原に車輛通行可能な道路が整備されるまで、芹川で分断された芹谷村内の人流の交点となっていたようです。

更に桃原には大東亜戦争後、冬季にスキー場も整備されたので、生活そして交易やレジャーで多くの人の行き交う姿が見られたように推察致します。

昭和33(1958)年のとある夜のこと。屏風岩近辺の裏山から重量100kgにも及ぶ大規模な落石が発生し校舎を直撃。幸いにも人的被害はなく、建物への被害も部分的なものに留めました。しかし学校関係者並びに保護者の被った心理的衝撃は殊の外大きく、繰り返し裏山の岩石の除去作業が行われました。然し根本的な解決には至らないということで、昭和37(1962)年12月に名称も変更されて現在の場所へ移転新築されました。

本校からは少し遠くなったものの、落石のリスクも軽減され、新たなスタートを迎えることとなった芹谷分校ですが、待っていたのは急速な過疎化の波であったなどと、当時は知る由も無かったでしょう。

さてここから、屏風集落の本丸へと舵を切ります。

【取材協力】 MT TRADING

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【中篇に続く】

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