Monthly Archives: 10月 2022

天空の里山 again “屏風”紀行(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

フジテレビのバラエティ番組『何だコレ!ミステリー』での現地紹介を契機として、爆発的に好評を博した『天空の里山紀行』シリーズ。

小生はかつてとある情報誌の編集兼法人営業を務めていた頃。滋賀の限界集落の特集を提案し、その取材にあたっていました。彦根や多賀の山奥に初めて赴いて、あれからもう23年の月日が経過しました(あの頃は仕事が楽しかった~)。

当初は県内全域の限界集落を取材する予定でしたが、様々な制約があり結局は実現しませんでした。また誌面での紹介が叶った村落も、限られた時間の中での取材で満足に見分出来なかったのもまた事実でした。

あれから約四半世紀の歳月が流れ、その様々な『縛り』も解け、くだらないモチベーションへの固執にも価値を見出さなくなった(笑)今、ふと我が子に『昭和の栄枯盛衰の実状』を見せてやりたいと思いました。編集者時代にじっくりと取材が叶わず、でも未だ印象に残る場所を再び訪れようと思い立ちました。

今回は多賀町北部に位置する村落・屏風(びょうぶ)を再び訪れ、3回に渡りその紀行をお届け致したいと存じます。なお編集者時代の記事も併せて御覧賜れば幸甚です。

>>>>天空の里山紀行(2)屏風集落”

まずは県道17号(多賀醒井線)を国道306号の交点からひたすら東進。因みに平成5(1993)年に当時の建設省から主要地方道に指定されますが、未だに霊仙山系越えの部分は未供用で車輛の通り抜けは不可能となっています。

屏風岩

国道306号の交点から4km余り。ここから集落の名称の由来ともなっている屏風岩(びょうぶいわ)を眺めることが出来ます。

標高差約50m、幅約200m、傾斜角約100度。滋賀・京都周辺では唯一の石灰岩の岩場で、中級者のクライマーには人気のスポットとか。ただ石灰質ということもあり、崩落の危険性をはらんでいるのは今も変わりないようです。

さてここからもと来た県道を300m程度戻ると、大量の盛土が置かれた広場に出逢います。

多賀小学校 芹谷分校跡

ここはかつて分校があった場所。平成16(2004)年3月に解体されるまで、僻地学校の雰囲気をよく留めていた建築物として名の知れた多賀小学校 芹谷(せりだに)分校がありました。

多賀小学校 芹谷分校(平成12年当時)

勿論、屏風集落に住まう子供たちもかつてはこの学校に通っていました。

平成2(1990)年には総児童数が7名にまで減少し、平成5(1993)年3月本校への統合に伴い閉校。子供たちの声が聞かれぬようになった後も、春には桜が咲き乱れ、いつでも子供たちを迎えられるような光景を私たちに魅せてくれていました。

11年待ち続けた校舎。然し終ぞその願いは叶いませんでした。

下ノ地蔵尊

今となってはこの下ノ地蔵尊だけが、この芹谷の歴史を知る唯一の生き証人といっても過言ではないでしょう。跡地には分校を偲ぶ石碑も案内板も一切なく、寂しい限りです。

さらにここから戻ること300m。建設会社の資材置場と僅かばかりの空地があります。

多賀小学校 後谷分校跡

ここはかつて芹谷分校の前身である多賀小学校 後谷(うしろだに)分校があった場所です。

驚きなのはこの猫の額の如く狭隘な土地に、昭和16(1941)年11月に発足した多賀町以前に存在した芹谷村の村役場(合併後は多賀町後谷支所)や駐在所も併設されていたことです。

この分校の歴史は古く、明治10(1877)年創立。明治22(1889)に発足した芹谷村の小学校に。明治42(1909)年に校舎が全焼し、翌年新校舎が落成。残念ながらそれまでの資料が全て焼失してしまったとか。

そして昭和16(1941)年には総児童数が141名を数えました。このような土地ですから運動場はなく、資料には「甲頭倉川原にて運動会開催」との記述もあり、芹川の河原をグラウンド代りにしていたようです。

桃原口の芹川

またこの周辺は桃原口(もばらぐち)と呼ばれ、芹川対岸の山地にあり『多賀牛蒡』の一大産地であった集落・桃原に車輛通行可能な道路が整備されるまで、芹川で分断された芹谷村内の人流の交点となっていたようです。

更に桃原には大東亜戦争後、冬季にスキー場も整備されたので、生活そして交易やレジャーで多くの人の行き交う姿が見られたように推察致します。

昭和33(1958)年のとある夜のこと。屏風岩近辺の裏山から重量100kgにも及ぶ大規模な落石が発生し校舎を直撃。幸いにも人的被害はなく、建物への被害も部分的なものに留めました。しかし学校関係者並びに保護者の被った心理的衝撃は殊の外大きく、繰り返し裏山の岩石の除去作業が行われました。然し根本的な解決には至らないということで、昭和37(1962)年12月に名称も変更されて現在の場所へ移転新築されました。

本校からは少し遠くなったものの、落石のリスクも軽減され、新たなスタートを迎えることとなった芹谷分校ですが、待っていたのは急速な過疎化の波であったなどと、当時は知る由も無かったでしょう。

さてここから、屏風集落の本丸へと舵を切ります。

【取材協力】 MT TRADING

#屏風 #屏風岩 #芹谷分校 #芹谷村 #芹川 #後谷分校 #多賀牛蒡 #限界集落 #過疎 #多賀

【中篇に続く】

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悲哀と怨嗟・もう1つの羽衣天女“おこぼ”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

ようやく暑さも収まって参りましたね。とはいえ例年とはまた違った形で、台風や地震を始めとした自然災害が、日本はもとより、世界中で発生しています。実に辛いことです。

さて前回の木之本地蔵の巻で余呉湖の天女に触れましたので、普通ならこの流れでご紹介すべきなのですが、諸般の都合により現地調査が実現しておりませんので何卒ご容赦くださいませ。その代わりと言っては何ですが、別の天女伝説をご案内致したく存じます。

今回は地元の方の記憶も乏しいものになりつつある知られざる悲劇の羽衣天女(はごろもてんにょ)、おこぼについてのお話をいたしたいと存じます。

皆さん、羽衣伝説という昔ばなしを覚えておられますか?因みにツナの缶詰の某企業の伝説のことではありませんよ(^^)

天女(イメージ1)

羽衣によって天から降りてきた天女。そしてその天女に恋する男。そして悲しい別れの結末・・・おおまかに申し上げるとそのような内容です。

昔ばなしの羽衣伝説で最も有名なのが、静岡県静岡市清水区にあります三保の松原(みほのまつばら)。

また文献に残されている羽衣伝説は2つ。『近江國風土記(おうみのくにふどき)』に記載されている滋賀県長浜市にある余呉湖(よごこ)と、『丹後國風土記(たんごのくにふどき)』に記載されている京都府京丹後市にある磯砂山(いさなごさん)です。

実は一般的に知られている「男と結婚し子供を儲けるが、後に羽衣を見つけて天に帰ってしまう」というストーリーは、滋賀の余呉湖に伝わるお話がベースとなっているのです。

それならなおのこと、その有名どころを今回ご紹介すべきところなのですが・・・つくづくタイミングの悪い事です。

天女(イメージ2)

ちなみに天女の写真やイラストを探していたのですが・・・現代の天女のイメージはこんな感じなんですね(苦笑)。

では本題に戻ります。

今から約千年前、愛知川(えちがわ)のほとりに小椋郷(おぐらごう/現在の東近江市小倉町付近と推定)と呼ばれる地域がありました。

陰暦の7月6日(現在の8月上旬)のこと。この郷の領主であった鯰江犀之介友貞(なまずえさいのすけともさだ)は近くの池へ魚釣りに出掛けました。

すると池では何とも美しい女が水浴していて、傍らの松の枝には薄物の衣が掛けられ芳香を放っているではないですか。友貞はその女に声を掛けましたが、女は黙ったまま返事をしません。友貞はこの美しい女の姿に酔い、どうしてもこらえ切れなくて、何と衣を奪って帰ってしまいます。

女は衣を返してくれるよう泣いて訴えますが、友貞は「知らぬ存ぜぬ」を通し続け、返そうとはしませんでした。

天女(イメージ3)

それから程なくして女は友貞の妻となり、おこぼと呼ばれるようになりました。「衣を返せば逃げるかもしれない」と考えた友貞は、衣を隠したままにしていました。

7年の歳月が流れ、二人の間に6人の子供が出来ました。末の子の乳母は衣の隠し場所を知っていました。7年も経っているというのに夫に隠れてすすり泣く哀れなおこぼの姿を見る度に、乳母の胸は痛みます。

ねんねんころり、ねんころり

熟寝(うまい)する子は賢(さか)しい子

賢しい子にはお宝あげる

お宝屋根の破風(はふ)のなか

乳母は子守唄に歌い込んで衣のありかを教えました。

当時この地方では結婚して7年目の七夕の夜に、親類縁者を招いて酒宴を張る習慣がありました。友貞も習慣通り酒宴を開き、容色の衰えぬ妻をかたわらにして幸福の絶頂にありました。しかし突然、妻は鈴を振るような美しい声で歌を詠みました。

かりそめに なきしふすまの 七とせに 妹のかたみの たねおばのこす

友貞はハッとして傍らを振り返ると、何といままでそこにいた妻の姿がありません。妻は天の川を背に衣をまとい、中空に舞っているではありませんか。

「やっぱり天女だったのか」・・・友貞と6人の子ども達の嘆きは、居並ぶ人たちの涙を誘いました。

おこぼが水浴していたこの池は、それ以来誰言うことなくおこぼと呼ばれるようになりました。

おこぼ池跡

おこぼ池は現在の東近江市妹(いもと)町の田園地帯にありました。

しかし残念ながら昭和50年代に実施された土地改良に伴う圃場整備で埋め立てられてしまい、当時の面影はありません。

また出自の時期は不明ですが、藤原氏の流れを汲む鯰江(なまずえ)は古くからこの地域一帯を支配していたと言われています。

鯰江城跡

室町時代には現在の東近江市鯰江町に鯰江を築き、近江源氏で南近江の守護大名である六角氏と縁戚・主従関係になります。

しかし後に佐久間盛政・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家を中心とする織田信長の軍勢に攻められ落城。一族は各地に離散し、没落しました。

この事実が『おこぼの約500年を掛けての怨念』が成せる業であったとは、余り考えたくないですね(>_<)

今回の記事にあたり情報をご提供いただきました東近江観光協会様、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

#おこぼ #天女 #羽衣伝説 #小椋郷 #鯰江犀之介友貞 #おこぼ池 #鯰江氏 #六角氏 #鯰江城

鯰江城跡

・滋賀県長浜東近江市鯰江町1296番地

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