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織姫・彦星お伽噺は史実なのか!? “近江七夕伝説”後篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)の七夕伝説は史実だった(かも知れない)というお話について、今回はその真相に迫りたいと存じます。

蛭子(世継)神社

天野川を隔てて朝妻筑摩の対岸、世継にある蛭子(ひるこ)神社ここには世継神社縁起之叟(よつぎじんじゃえんぎのこと)という文献が伝えられています。これは昭和62(1987)年に旧近江町役場による調査で発見された古文書です。

それによりますと、彦星は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう/第21代天皇)の第四皇子、星河稚宮皇子(ほしのかわのわかみやおうじ)。

織姫は仁賢天皇(にんけんてんのう/第24代天皇)の第二皇女の朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)のことであるとしています。

叔父と姪の間柄にあった二人は天野川を隔てて仏道の修行を積んでいたが、いつしか恋に落ちた、しかし逢うこともままならず、悲しい恋に終わった・・・とのこと。

法勝寺跡

ちなみにこのお話が残る蛭子神社は、延暦年間(奈良時代末期~平安時代初期)に奈良・興福寺の仁秀僧正(にんしゅうそうじょう)が、この地に興福寺南都別院として法勝寺(ほうしょうじ)を造営する際に共に建てられました。

法勝寺は現在の米原市高溝(たかみぞ)付近に建立され、明治時代まではこの辺りに法性寺という地名が残っていました(JR坂田駅の前身は“法性寺駅”でした)。

なお近江国坂田郡誌によると星河稚宮皇子と朝嬬皇女の悲恋物語を“七夕伝説”になぞらえて広めたのはどうもこの仁秀のようで、かねてよりこの二人のことを信奉しており、法勝寺建立の際この地に守護神として祀ったようです。

史実!とは申しましたがなにやら胡散臭さも・・・まぁ古墳時代の(実在の真偽も不明瞭な)人物のお話ですし、昔の偉いお坊さんは意外にもロマンチストだった・・・ということでしょうか

七夕塚

さて蛭子神社の境内には朝嬬皇女の墓と称する自然石があり、別名七夕塚(七夕石)とも吾佐嬬石(あさづまいし)とも呼ばれています。

かつては境内にひっそりと鎮座していたこの石も、1996(平成8)年に世継神社縁起之叟が発見されてマスコミの注目を浴びたことでキレイに整備され、これを契機に旧暦7月に朝妻神社と合同で七夕祭も再開させたそうです。

伝説継承をミッションとする小生としては、こういう「流行り」に乗っかった動きは些か複雑な心境ではありますが・・・

彦星塚

そしてこちらは対岸の朝妻神社境内にある星河稚宮皇子の墓と伝えられる彦星塚・・・と言いたいところですが、実はよく解らないのです。

境内には塚が2つあり、一般的には写真右の宝篋印塔(ほうきょういんとう/墓塔・供養塔等に使われる仏塔の一種)の方だと言われています。おまけに両方とも鎌倉時代後期に造立されたと推定されているため、ますます塚としての信憑性も怪しく・・・。

それにしましても、メモリアルのその後の整備の扱いが男女でこんなにも格差があるとは・・・今の時代をも象徴しているのでしょうか、一抹の悲哀を禁じ得ません

朝妻神社

この七夕伝説の他にも、奈良時代にこの地を朝妻王(あさづまのおおきみ/天武天皇の曾孫)が支配し、彦星塚は朝妻王の王廟、七夕塚は王女の墓であるとの説もあります。

さて令和3(2021)年8月、この伝説の根拠となる世継神社縁起之叟が江戸時代の研究者の著作(椿井文書/つばいもんじょ)で偽文書である可能性が高いと指摘される事件がありました。地元には衝撃が走りましたが、それでも地域に伝わる貴重な史料に変わりないと次世代を担う子供達への伝説継承に注力するとのこと。

の「信じるか信じないかは貴方次第です」的な世継神社縁起之叟から、最後にこの一説をご紹介致します。

七月一日から七日間、男性は姫宮に、女性は彦星宮にお祈りし、七日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び合わせて川に流すと、二人は結ばれる・・・云々

恋に悩む女子は彦星塚に、男子は七夕塚に。

さぁ恋に悩む草食男子・肉食女子の皆さん、いにしえの習いに従い祈念すべし!・・・と声高に叫びたいところですが、6月14日に内閣府が公表した『令和4年版男女共同参画白書』の結果を見てみれば、どれだけ興味を引くのかな?・・・と暗澹たる気持ちに苛まれる今日此頃です。

#七夕 #天の川 #織姫 #彦星 #蛭子神社 #世継神社縁起之叟 #七夕塚 #朝妻神社 #彦星塚 #朝妻神社 #朝妻王 #椿井文書 #男女共同参画白書

蛭子(世継)神社/七夕塚

・滋賀県米原市世継842

法勝寺跡

・滋賀県米原市高溝

朝妻神社/彦星塚

・滋賀県米原市朝妻筑摩1293

【おしまい】

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織姫・彦星お伽噺は史実なのか!? “近江七夕伝説”前篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

明日は七夕ですよね。皆さんはコロナの終息の他に何をお願いされますか?

さて今回は織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)の七夕伝説は史実だった(かも知れない)というお話をいたしたいと存じます。ではまず、ストーリーのおさらいから・・・

七夕伝説

むか~し昔、天の川の近くに天の神様が住んでおりました。

天の神様には一人娘がいて、名を織姫といいました。織姫は機(はた)を織って、神様たちの着物を仕立てていました。

織姫はやがて年頃となり、天の神様は娘に婿を迎えようと考えます。色々検討した結果、天の川の岸で天の牛を飼っている彦星という若者に白羽の矢を当てました。

彦星

彦星は素晴らしい男でしたし、織姫もとても美しい娘でした。二人は互いを一目見ただけで好意を抱き、すぐに結婚しました。

それはそれは毎日が楽しい日々でした。でも次第に二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになります。すると天の神様のもとへ、皆が不満の声を上げるようになりました。

「織姫が仕事をしないので、皆の着物がボロボロです」「彦星が世話をしないので、牛が皆病気になってしまいます」と。

織姫

天の神様は激怒して、「二人は天の川の東西に別れて暮らすがよい」と織姫と彦星を別れ別れにしたのです。

織姫があまりにも悲嘆にくれているのを見兼ねて、天の神様は「年に一度、7月7日の夜だけ彦星と会ってもよろしい」と言いました。

それから年に一度逢える日だけを楽しみにして、織姫は一所懸命機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出すようになりました。そして7月7日の夜にだけ、織姫は天の川を渡って彦星のもとへ逢いにいくようになったのです。 

こんなお話でしたよね、思い出して戴けましたでしょうか。

このおとぎ話、一般的には中国の民話が日本に伝わったものだといわれています。でもこと滋賀では、史実から生まれた民話ということになっているのです!(ちょっと言い過ぎかな・・・)

天野川

さて今回は米原市は旧米原町/旧近江町エリアを訪れております。

米原市を東西に横断し琵琶湖に注ぐ天野川(あまのがわ)。かつては朝妻川とも呼ばれていました。この川の名前だけでも、十分“七夕伝説”に相応しいですよね

その河口の南岸に朝妻筑摩(あさづまちくま)、北岸に世継(よつぎ)という集落があります。

朝妻湊址

さて朝妻筑摩にはかつて、朝妻湊という湖北地方屈指の湖上交通の要衝がありました。

その歴史は古く、奈良時代にはこの付近に大善府御厨(たいぜんふみくりや/朝廷の台所)が設置されていました。

北近江・美濃/飛騨國(現在の岐阜県)・信濃國(現在の長野県)から、朝廷に献上するための租税や物産・木材等を都に搬出するための拠点として、江戸時代初期に廃止となるまで大変賑わいました。

木曽義仲や織田信長も、都に向かうためここから船に乗ったと伝えられています。

また「朝妻千軒」とも言われ、当時は千軒以上の家屋が軒を連ねていたと伝えられています。今は往時の賑わいのよすがを知る術はなく、周囲はひっそりと静まり返っています。

朝妻湊址全景

なお平家の落人の女が春を売って生計を立て、船上で一晩だけ妻になったからこの地が“朝妻”と名付けられたとも伝えられていますが、真偽の程は定かではありません。

織姫・彦星七夕伝説は史実であったか否か・・・後篇にてその真相に迫ります!

#七夕 #天の川 #織姫 #彦星 #天野川 #朝妻湊 #朝妻千軒

朝妻湊址

・滋賀県米原市朝妻筑摩

【後篇に続く】

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