近江源氏と大蛇の因縁“渡合淵”の伝説(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

性懲りもなく、また近江八幡市に舞い戻って参りました。以降当面訪れる予定はございませんので、何卒ご容赦を(笑)。

極端な解釈ですが・・・恐らく滋賀の大半のドライバーなら、或いはビワイチした人なら一度は通ったことがあるであろう場所に纏わるお話です。

近江八幡市の八幡(鶴翼)山系の北端、島町と北津田町の境界辺り。ここに琵琶湖と西の湖を結ぶ長命寺川が流れています。

渡合淵(長命寺川)

以前は今より半分の川幅で、かつて八幡山北麓に拡がっていた津田内湖の東部に注いでいましたが、周辺内湖の干拓事業のために放水路として活用するため、現在の姿となりました。

川と申しましても流れは緩慢で、時折航行する観光船やバスボート、または滋賀県立八幡商業高等学校ボート部の競技用ボートがさざ波を立てるのみで、至って静かな水面を呈しています。

しかしこの場所。一昔前は渡合淵(わたらいふち)と呼ばれ、それはそれは周辺の人々から大変怖れられていた難所だったのです。

渡合橋(渡合堰)

湖岸道路と県道26号(大津守山近江八幡線/通称:浜街道)が交差する地点に、長命寺川の水門(渡合堰)と一体となった渡合橋(わたらいばし)があります。

もともとの橋は約50m西側に架橋されていましたが、昭和38(1963)年に大中之湖地区国営琵琶湖干拓建設事業により、西の湖の水位を保持して周辺の広大な農地に供給する用水の確保を行う目的で水門が設置され、その管理橋も兼ねて現在の場所に架け替えられました。

平成6(1994)年には水門橋がリニューアルされ、今に至ります。

平安時代中期、宇多天皇(第15代天皇・867~931)の御代の頃のこと。当時長命寺山に連なる姨綺耶山系(いきやさんけい)周辺は奥津島と呼ばれる島で、渡合橋は舟を使わずに内地と連絡する唯一の手段でした。

しかしこの橋の下には一匹の大蛇が棲み、悪事を働いては往来する人々を悩まし、周辺の村人も大変困っていました。

ある日のこと。この橋の近くに住む一人暮らしの老人のあばら家に、一人の高貴な人物が立ち寄りました。その者の名は敦実親王(あつみしんのう・893~967 )。敦実親王は宇多天皇の第8皇子で、近江源氏の祖。早世の多かった宇多天皇の皇子の中で唯一長命を保ち、常に坂家宝剣(ばんけのほうけん/天皇家に相伝される朝廷守護の宝剣)を帯剣し、また和歌・管弦・音曲・蹴鞠にも通じ、内外から重んじられた才人でした。

皇子はこの老人から大蛇の退治を懇願されました。これを聞き入れ、当時小脇郷(おわきごう/現・東近江市旧八日市エリア)で勢力を誇っていた渡来人・狛の長者(こまのちょうじゃ)とともに佐佐木大明神(沙沙貴神社)に願を掛け、渡合の大蛇退治に挑み見事討ち果たします。

百々神社

その後、村人たちは大蛇の魂を橋の袂に祀り、百々神社(ももじんじゃ/通称:道祖さん)と命名しました。以来百々神社は風邪や喘息の全快などにご利益があるとされています。またこの神社の名を紙に書いて貼っておくと蛇除けになるとも言われ、今でも大切に祀られています。但し、百々神社の前を死人が通ると祟りが起きるとも言われています。

因みに当初は百々を『どど』と呼んでいました。しかし戦国時代に織田信長が安土城を築城した際、家臣たちの通用口として、また山中に建立された摠見寺の参道として設けられた城門(百々橋口)の前に百々橋(どどばし)が架橋されることを知るや否や、時の権力者に忖度して『もも』に改称。以降織豊政権崩壊後も、元に戻されることは無かったそうです。

現在は対岸にある大嶋神社奥津嶋神社(おおしまじんじゃ・おきつしまじんじゃ)の境内社となり、奥津島地区の守護神として人々を見守っています。

めでたしめでたし・・・と言いたいところですが、この物語はこれで終わりではなかったのです・・・

【参考文献】 水辺の記憶-近江八幡市・島学区の民俗誌-(近江八幡市市史編纂室 編)

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百々神社

・滋賀県近江八幡市北津田町2

【後篇へ続く】

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