「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
引き続き“北近江の奥座敷・須賀谷”を巡り歩きます。

さてもう一度、須賀谷への玄関口に戻ってみます。前篇では須賀谷温泉をご紹介致しましたが、案内板には片桐且元(かたぎりかつもと)の出生地とも併記されています。
歴史好きの方ならまだしも、『片桐且元って誰?』という諸氏もいらっしゃるでしょう。それにしましてもこの案内板、歴史に特段興味の無い方にも「へぇ~」と思って戴ける表記の工夫が必要ですよね。

この方が片桐且元です。どのような人物かを簡単にご説明致します。
もともと父ともども浅井長政に仕えていました。浅井氏滅亡後に湖北の領主となった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が地元で広く優秀な人材を募っていた際、石田三成と同じ様に仕官しました。織田信長亡き後、跡目争いをめぐって織田家臣団の勢力抗争が勃発。その後天下分け目の戦いとなった賤ヶ岳(しずがたけ)合戦で、福島正則や加藤清正らと共に活躍し、一番槍の功を認められて賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられます。以降秀吉の腹心の一人として活躍し、やがて秀吉の子・秀頼の傅役(もりやく)、関ケ原合戦後は豊臣家の家老にまで上り詰めます。最後まで豊臣家に忠義を尽くし、当時勢力を拡大しつつあった徳川家康との調整役をも担います。しかしこの調整役という立場が仇となり、秀頼の母・淀殿の側近たちに家康との内通を疑われ、大坂の陣を前に豊臣家を去ることとなります。以後は家康に仕え、大和竜田藩1万石の初代藩主となり、豊臣譜代の武将には珍しく後世に家名を残しました。
この須賀谷はそのような戦国武将の出生地と伝えられています。前説はこの程度にしまして、須賀谷温泉から先へ歩みを進めると致しましょう。

谷間の狭い場所に位置する須賀谷集落。1872(明治5)年は戸数9軒・人口40名、1979(昭和54)年には戸数8軒・人口32名。現在も然程規模に変化は無く、近世より限界集落の様相を呈していたように思われます。
江戸時代は彦根藩領となり、村高は江戸期を通して51石余(およそ7.7トン)。稲作を除いて他に産業は無かったようです。

小谷山を水源地とし、集落の中心を流れる須賀谷川。小さな川ながら相当の流量を呈します。
浅井氏は1570(元亀元)年、姉川合戦で織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、そのまま滅亡したように思われている節があります。でも実はその後3年間も信長と対峙し、最終局面となった小谷城合戦でも、約1ヶ月に渡り籠城戦を展開しています。その長期戦を耐えたのには、この豊富な水の存在が大きかったに違いありません。

集落の中央部には、長政の父・久政が1548(天文17)年に建立したと伝わる神明宮があります。西隣の集落・長浜市小谷郡上町(旧湖北町郡上)に鎮座する尾崎神社(明治8年に神明宮より改称)の末社で、イザナギノミコトを御祭神とします。
小谷郡上町は戦国時代、清水谷と呼ばれ、小谷城の武家屋敷エリアの中枢でした。しかし勢力拡大と共に新たに武家屋敷エリアの造成を迫られます。その場所として選定されたのが須賀谷で、この集落誕生の契機となりました。
尾崎神社は浅井氏に少なからず所縁があるため、新たな武家屋敷エリアに神明宮が分祀・建立されたのではないかと推察致します。なお写真には写ってはいませんが、境内には地蔵堂や鐘楼があり、神仏習合の名残とはいえ、とても奇異な印象を受けます。

集落から外れ、道は徐々に狭く傾斜もきつくなってきます。すると今にも自然へと還りそうな石積が忽然と出現します。ここは片桐且元に所縁のある観音堂跡です。
且元は父ともども、浅井氏滅亡のその時まで織田方を相手に死力を尽くしました。急速に勢力を拡大した浅井氏は、二代・久政の失政で混乱を生じ、譜代の家臣も少なかったことから、家臣団の結束は些か脆弱でした。
そのような中で片桐氏への信任は厚く、長政は浅井三代(亮政-久政・長政)の御守本尊であった仏像を落城の難から守るために、且元に命じてこの地に避難、安置したと伝えられています。

観音堂跡を過ぎると、昨今は人の手が入らなくなったためか、次第に道も荒れ、倒木で通行もままならなくなります。やがて山中には不自然な削平地に出逢います。ここが片桐且元公居館(須賀谷館)跡になります。
片桐且元公居館と言うよりも、父・片桐孫右衛門直貞が築いた居館と表現する方が妥当でしょう。且元はここで出生し、小谷城落城時の17歳まで過ごしたと思われます。
直貞が居を構える前は、浅井氏庶家の所領であったようです。それが久政による武家屋敷エリアの新規造成を機に直貞がこの地を治めることとなった模様です。

国道365号の分岐から約1.5km。須賀谷の北限に到達。しかも標高差は何と約46m。集落が一望出来る高さとなりました。道理で息が上がるハズです(笑)。
ここには片桐且元公頌徳(しょうとく)碑があります。頌徳とは徳を褒め称えること。数ある戦国武将の中では目立たない部類の且元ですが、ここ須賀谷では誇るべきヒーローなんでしょうね。

片桐且元公頌徳碑の向かいには、且元の父・片桐孫右衛門直貞の墓がひっそりと祀られています。
片桐氏は、もともと信濃源氏の名族で伊那在郷の御家人であった片切氏の流れを汲みます。本流が片切郷に残る一方、支流は鎌倉時代初期に美濃國や近江國に進出して「片桐」に改姓しました。浅井氏に仕え、配下の国人領主となったのは直貞の代からと言われています。
また直貞は小谷城落城の前日の日付で、長政から感状(戦功のあった者に対して主家や上官が与える賞状)を受けています(『浅井長政書状』)。浅井氏の家臣として最後まで忠義を貫いた直貞ですが、生没年、小谷城落城後の動静、且元への家督移譲時期等、不詳な部分が非常に多いのです。
加えて豊臣家の直参として重責を担った武将の父の墓所としては、余りにも扱いが粗略に感じます。敗者の側の末路としては致し方ないのかも知れませんが、小生はそれだけでは無いような気がします。これは飽くまでも私見ですが、浅井氏恩顧の直貞は、主家を滅亡へと追い遣った張本人である羽柴秀吉に仕官した且元を許せなかったのではないでしょうか。一方且元は敗者の浅井氏に何時までも義理立てする父に嫌気が差していた。そしてこれが契機となり、互いに父子の関係を断絶させた。それこそが且元の父・直貞に対する扱いに表れているように思うのです。
最後に実はここ須賀谷の地名の由来は、この直貞が大きく関係しています。
江戸時代中期の1734(享保19)年に完成した、近江國の自然や歴史等についてまとめた地誌『近江輿地志略』には、「相伝浅井下野守久政小谷山に城を築くの日、此地を家士の屋敷地とし其名を撰ぶ。浅井の家士片桐孫右衛門といふ者此谷に鷹の巣をかくる岩あるを以て巣ヶ谷と改む」と記述されています。
簡単に説明しますと「浅井久政の家臣・片桐孫右衛門が主君の命を受けて、谷に鷹の巣が掛かる岩を見たことに因み、この地を巣ヶ谷と名付けた」となります。この一文を見ただけでも、直貞が浅井氏の家臣の中でも特段信頼を得ていたことが伺えます。
さて今回、小谷山の麓、谷間の小さな寒村・須賀谷をそぞろ歩きました。“とある鄙びた温泉”“とある戦国武将の生まれ故郷”・・・共に観光振興の資源としてはとても弱いものです(実際に活かし切れているとは思えません)。でも色々と探求していくと、とても興味深い素材を内に秘めていることが解りました。こういった素材を地道に拾い集めて、より多くの方々にご紹介出来ればと思います。
近くにまた別の戦国武将の生誕地がありますので、機会を見つけて訪ねてみたいと思います。さてはて本丸の小谷城攻略は何時のことになるのやら・・・(笑)。

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