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中山道屈指の霊験と絶景“磨針峠”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き、中山道屈指の霊験と絶景“磨針峠”の伝説をお届け致します。

さて弘法大師が神社に供えたお餅は近隣の村の人々に受け継がれ、後に峠の茶屋として開かれた望湖堂(ぼうこどう)と臨湖堂(りんこどう)で、するはり餅として旅人たちに振る舞われたとのことです。

かつて物流の大動脈の1つとして大いに栄えた中山道ですが、時代の流れとともにその役割を終え、今ではひっそりとしています。

鳥居本宿【木曾街道六拾九次】

こちらの絵は江戸時代、歌川広重が描いた『木曽街道六十九次』の1枚、鳥居本宿 (とりいもとしゅく) です。

しかし“宿”とは名ばかりで、この絵には宿場の街並みではなく磨針峠が描かれています。それ程に当時はこの峠から眺める琵琶湖の絶景が全国的に有名だったのです。

またこの景勝の地にあった「望湖堂」「臨湖堂」の2つの茶屋は旅人に大変人気がありました(先程の絵の左側が 望湖堂、右側が臨湖堂です )。

特に望湖堂は参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、はたまた江戸に降嫁する和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう/江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室)や明治天皇も立ち寄りました。茶屋と言いながらも建物は本陣構えで、「御休止御本陣」を自称する程のモノでした。

現在の磨針峠と望湖堂

その繁栄ぶりに近隣の鳥居本宿と番場宿の本陣が寛政7(1795)年8月、道中奉行(江戸時代、五街道とその付属街道における宿場駅の取締りや公事訴訟、助郷の監督、道路・橋梁などの管理を取り仕切った役職)宛てに連署で、「望湖堂に本陣まがいの営業を慎むように」と訴えた程でした。いわゆる“ヤキモチ”“やっかみ”みたいなもんですな(^^)

因みに本陣とは、宿場で大名(お殿様)・旗本(幕府直属の武士)・幕府の役人・勅使(皇室の使者)・宮(皇族)・門跡(もんぜき/皇族・貴族出身の住職)などの宿泊所として指定された家のことで、原則一般の者が宿泊することは許されていませんでした。

後に臨湖堂は廃業し跡形も無くなってしまいましたが、望湖堂は残り、往時の姿をよく留めていました。

しかし残念ながら平成3(1991)年の失火で、参勤交代や朝鮮通信使に関する多数の資料とともに焼失してしまいました。

弘法大師のお手植と伝えられる杉(弘法杉)は幹周8m、枝の長さは実に40mにまで成長しました。

しかし、こちらも残念なことに昭和56(1981)年12月の大雪で倒れ、現在は切り株しか残っていません。でも流石は霊木、こんなエピソードが残っています。

望湖堂と弘法杉(1960年)【写真集・彦根 所載】

この杉が倒れる半年程前。望湖堂の奥さんの夢の中に1人の僧が現れ、次のような歌を詠みました。

愚海(ぐかい)の海は荒れるとも 乗せて必ず渡しける

「大嵐になり幾ら海が荒れるようなことがあっても、私が救ってやるから安心するがよい」という意味なのですが、半ば安心はしたものの、そのうち何か大変なことが起こるのではと心配されたそうです。

そして昭和56年12月15日早暁。大音響とともに、家中がまるで地震のように揺れました。慌てて外を見ると、杉の木が倒れ玄関が塞がれていました。これまで幾度となく風で枝が折れるようなことはありましたが、望湖堂の母屋の棟に当たったことは一度もありませんでした。あの歌の大嵐とはこのことかと思い、大惨事に至らなかったことにむしろ安堵されたそうです。

御神木ですから撤去してしまうことに反対意見もありましたが、結局撤去されることになりました。

弘法大師御手植杉跡

ところが驚いたことに杉は撤去費用以上に高額で売却され、おまけに「磨針明神」の改修費用も捻出出来たのです。また木を切ることになった2月はいつも北風が吹き付け大変寒いのですが、撤去に要した7日間だけは風も雲もない良い天候に恵まれたそうです。

更に望湖堂の屋根を改修した3月は、瓦屋が「3月にこんなによいお天気が続いたのは今までに一度もない」と驚くほど快晴だったとか。そんな不思議なことが続いたのだそうです。

夢に出てきた僧というのは、あの弘法大師だったのでしょうか…?

神明宮本殿

弘法大師がお餅を供えた磨針明神は、現在神明宮として望湖堂横の山腹に祀られています。

因みに観光案内やブログ記事などで、境内にある立派な杉の木を「弘法大師御手植杉」と表記されているのが散見されますが、これは誤った情報ですのでご注意ください。

ここで、おまけエピソードを1つ。源義経に美濃國青墓(現在の岐阜県大垣市)で成敗されたという伝説上の盗賊の頭領、熊坂長範(くまさかちょうはん)に磨針太郎という手下がいましたが、ここ磨針峠から名を盗った…いやいや、取ったと伝えられています。

中山道全盛期の賑わいの痕跡が、今でもそこはかと残る磨針峠。

望湖堂から琵琶湖を望む

現在は車道が通っていますが、かつての旧道も一部整備されて残っています。

そこを歩けば当時の“峠越え”の過酷さが肌身に感じ取れます(こんなところを大名行列が通ったなんて到底信じられません)。

体力と持久力に自信のある方は是非チャレンジしてみてください(^ ^)

それにしても名物・するはり餅。和洋問わずスイーツ好きの小生としては食してみたかったですねぇ。もち米100%の団子をこし餡で包んだ所謂“あんころ餅”で、特に大名たちに出すものには砂糖がまぶしてありました。

一般客でもトッピング料金を払えば、砂糖をまぶしてくれたのだそうですよ。まぁ当時、砂糖は貴重品でしたから致し方ないですね。

するはり餅(イメージ)

見た目は草津の銘菓「うばがもち」に比較的似ていたようです。 叶うことなら、町興しの一環として復刻してくれないかなぁ…そう思う“食いしん坊”な今日此頃です(^^)

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