「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
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新型コロナウイルスの世界的な蔓延で、ちょっとした外出さえ躊躇される昨今。せめて当ブログを御覧になって、小さなバーチャルジャーニーをお愉しみ戴ければ幸甚です。
さて江戸時代。京の都と江戸を結ぶ陸の大動脈は、太平洋側を通る東海道と内陸部を縦断する中山道の2本の街道がありました。
近江國(滋賀県)はこの2本の街道の何れもが経路としていたのですから、如何に古くから交通の要衝として重要視されていたことが伺えます。
さて今回はかつてその大動脈の1つであった中山道屈指の霊験あらたかな景勝地として栄えていた、磨針峠(すりはりとうげ)についてのお話を致したいと存じます。

磨針は“摺針”とも表記されます。彦根市の鳥居本(とりいもと)町から米原市の番場(ばんば)へ抜ける途中に磨針峠はあります。峠へのアプローチには国道8号沿いに石碑が立っていますので直ぐに解ります。
その昔、諸国を修業行脚していた1人の若い僧がこの峠をトボトボと登ってきました。ようやくのことで若い僧は峠の頂上に辿りつき、神社の石段に腰を掛け一休みしました。
眼下にはさざ波きらめく琵琶湖が拡がります。その素晴らしい眺めに修業の苦しさもどこかへ消え、心が洗われるような気持ちになりました。
ふと横に目をやると、白髪の老婆が一所懸命に大きな斧(おの)を石に擦り付けて磨いています。若い僧はその老婆に、「お婆さん、いったい何をしているのですか」と尋ねました。

すると老婆は笑みを浮かべながら、「実は大切な針を折ってしまい、孫の着物も縫ってやれません。そこでこうして斧を磨って針にしようとしております」と答えました。
「そんな大きな斧は、そう容易く磨り減りませんよ」と若い僧は言いますが、「どうしても針が欲しいもので…」と言って手を止めようとはしません。何とも不思議なことだと思っていたら、いつしか老婆の姿は消え、誰も居ませんでした。
若い僧は「これは神が自分に悟りを開かせるために、斧を磨って針にしようとする老婆の姿を見せたに違いない」と悟りました。そして神社に向かって手を合わせると、再び修行の旅へと向かったのです。

後に数々の修行を終え立派になった若い僧は、いつしか弘法大師と呼ばれるようになりました。弘法大師とは皆さんご存じ、平安初期に高野山(金剛峯寺)を開山し、真言宗の開祖となった空海のことです。
その後弘法大師は再びこの地を訪れ、神社に沢山のお餅を供えました。そして神社の境内に杉の木を植え、あの時老婆に教えられたことを次のような和歌に詠みました。
道はなほ 学ぶることの 難(かた)からむ
斧を針とせし 人もこそあれ

以来この峠を磨針峠、神社は磨針明神と呼ばれるようになりました。
【後篇へ続く】

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