知られざる滋賀近現代史“彦根自衛隊機墜落事故”



「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」
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今から50年前のこと。1970(昭和45)年9月2日午後2時10分頃。彦根市金剛寺町の市道に、突如として上空から4トン足らずの鉄塊が落下。轟音とともに猛炎が襲い、周囲は炎熱地獄と化す未曽有の大事故がありました。

彦根自衛隊機墜落事故。皆さん、この出来事をご存知でしょうか?

彦根自衛隊機墜落事故(当時の新聞記事)

先日偶然新聞でこの事故について触れた記事を目にしたのですが、当時小生は未だ乳児で。当然記憶などあろうはずがありません。母に確認してみますと「確かにそのような事故があったが詳しくは知らない」とのことでした。

近現代の滋賀に於いてこれほどの規模の航空事故は、現時点で他に記憶がありません。にもかかわらずその事実は忘却の彼方に押しやられている。小生のスタンスは『教科書に載らない歴史の継承』。早速当事者の方に当時のお話を伺って参りました。

航空自衛隊 三菱 MU-2S 救難捜索機(事故機と同型)

1970(昭和45)年9月2日午前10時08分 。航空自衛隊 新田原(にゅうたばる)救難隊所属の三菱MU-2S救難捜索機(機体番号03-3207)は、有視界による航法訓練のため、石川県にある小松基地へ向かうべく新田原基地(宮崎県)を離陸。

途中、機体の燃料補給と乗員の休息のため大阪の八尾空港に午前11時56分着陸。午後1時40分に八尾空港を発ち、一路小松を目指します。

離陸から間もない午後2時頃。米原付近の上空約3,500フィート(約1,070m)を飛行中、突然左側エンジンにトラブル発生。その後不安定な飛行を続け南下。何度も再始動を試みますが成功せず、徐々に高度が下がります。

現在の墜落事故現場付近

午後2時10分頃 、彦根市金剛寺町付近の上空で遂に高度が保てず降下。前方の家屋を避けるべく進路を変更するものの失速、回転状態となり、背面姿勢で民家の屋根に接触。機首下げ状態で市道に墜落、炎上。近隣の民家や倉庫3戸が全半焼。乗員4名(操縦士2名・機上無線員1名・整備員1名)が殉職するという大惨事となったのです。

大東亜戦争終結から25年しか経過しておらず、 未だ旧日本軍へのアレルギー感情も少なからず残ることから、今と異なりメディアも市民も『軍隊』としての自衛隊に対する風当たりは実に強いものでした。加えてMU-2Sが航空自衛隊に正式採用、配備されてから僅か3年で墜落事故を起こしたことで、関係者の苦悩も如何ばかりであったかと拝察します。

自衛隊員4名が殉職されたことは誠に残念至極ではありますが、民間人に犠牲者が出なかったことが唯一の救いです。

今回流石に取材で宮崎を訪れる訳にもいきませんので、当時中学生で自宅が全焼してしまった川村宏さんに色々とお話を伺うことが出来ました。

「当日は全員留守をしていたので助かった。学校から帰宅したら自宅は黒い骨組みだけ。周囲は流出した油(航空燃料)の臭いで凄かった。国からの補償の折衝はシビアで、記録として残していない家宝や家財に関してはほぼ認められなかった。また再発防止のため航路の変更も求めたが検討の余地もなかった。今と違って、当時は被害者といえども国に楯突くような雰囲気ではなかった。両親は同じ場所に自宅を再建したが、周囲から『補償金で棚から牡丹餅』的に好奇の目で見られ、とても嫌な思いをした」と語ってくださいました。

墜落事故慰霊地蔵尊

川村さんの父・清さんは、自宅再建時に殉職した隊員の慰霊のために地蔵尊を安置され、20年前に宏さんに代替わりされた後も、盆や正月の供物や日々の献花を続けておられます 。

清泰山誓念寺

また残念ながら遺族の高齢化で事故関係者との交流は約30年前に途絶してしまいましたが、現在でも事故の9月2日には集落の寺院・ 誓念寺と合同で慰霊の法要を行っておられます。

去る5月26日。新田原救難隊は隊長の河野敬人二佐以下3名が川村さんと誓念寺のもとを訪れ、長年に亘る慰霊を労い感謝状を贈呈されました。過去の事故に関する慰霊状況の調査を進めておられた救難隊総括班長の山口達也三佐は 、「機体の運用に教訓を遺した事故だった。長年の慰霊に感謝するとともに、今後はこの繋がりを大切に守っていく」と語っておられたそうです。

■ 航空救難団  新田原救難隊活動報告

新田原航空救難隊による事故検証報告書

事故の検証結果で搭乗員は最悪のコンディションの中、市街地を避けるべく墜落の瞬間まで必死の努力を続けていたそうです。米原付近を北上していた機体が片肺飛行でいきなり南下し始めた原因は判然としません。ですが両翼に装備された77ガロン(約285リットル) 増槽が満載状態であったことからも、片発では最大装備重量下でバランスを大きく崩し、正常飛行に耐えられなかったこと。もしかすると操縦系統にも異常を来していた可能性も推察されます。

この事故を教訓に、悪天候下での飛行時には燃料積載量の低減等の安全策が講じられたそうです。因みにこの事故以降、 MU-2Sが退役する2008(平成20)年10月22日までの間、航空自衛隊でこの機種は3度も墜落事故を発生させました。彦根の事故を含め、16名の尊い犠牲を払っています。

航空自衛隊 ブリティッシュ・エアロスペース U-125A 救難捜索機

現在MU-2Sの後継として、1994(平成6)年からブリティッシュ・エアロスペースU-125Aが運用されています。特に悪天候下では抜群の飛行性能を誇ることから、これまでの事故の教訓を十分に活かしての選択なのでしょう。

事故は加害者も被害者も、そして周囲にも『不幸』しかもたらしません。この件に限らず、小生も先人の尊い犠牲によって培われた教訓を真摯に受け止め、学び実践せねばならないと改めて痛感した次第です。

今回の取材に全面的にご協力戴きました川村宏氏に、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

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