歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

前回に引き続き、歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説の後篇をお届け致します。

さて古(いにしえ)の御代より、一級の景勝地として名を馳せてきた水茎の岡でしたが、中世に入るとその立地条件からキナ臭い様相を呈してきます。

琵琶湖岸に迫り出した立地が天然の要害として適地であったことから、南北朝時代に入ると南近江の守護大名・六角氏の湖上警備の拠点として城砦が築かれました。

室町時代後期の永正5(1508)年8月。現在の近江八幡にあたる地域を治めていた土豪であり六角氏の被官(ひかん/守護大名に従属する独立した領主)でもあった九里信隆(くのりのぶたか)によって、本格的な城郭が整備されます。

水茎岡山城跡

これが水茎岡山城(すいけいおかやまじょう)です。また尾山を中心に縄張り(なわばり/城郭の配置・構成)が敷かれたことから、別名・尾山城とも呼ばれました。

時を同じくして、室町幕府第11代将軍・足利義澄(あしかがよしずみ)は、クーデターによって将軍職(10代)を追われた従兄弟の義尹(よしただ)が、周防國(現在の山口県)の戦国大名・大内義興の後ろ盾を得て勢力を再び拡大。上洛を企図していることを知り、保身のため逃亡を企てます。

義澄は自身の計らいで守護職に復帰した義父の六角高頼を頼りますが、後に信隆のもとへと逃れます。信隆は城内に御所を用意して義澄を迎え入れ、家臣・領民ぐるみで奉迎し、生涯不変の忠誠を尽しました。

義澄逃亡の後、将軍職に復した義尹改め義稙(よしたね)を何とか排すべく、京へ義澄派の軍勢を送り込んだり、義稙の暗殺を謀ったりしましたが、ことごとく失敗。

水茎岡山城合戦【NHK時代劇『塚原卜伝』より】

永正7(1510)年3月には義稙より義澄追討の命を受けた7千(一説には2万)の軍勢が水茎岡山城を包囲しました。城を守る手勢は僅か5百。多勢に無勢と思われましたが、地の利を活かした戦いが功を奏し、3千の敵を殲滅。大勝利を収めます。 これが世にいう水茎岡山城合戦 です。

翌年3月には待望の嫡男・亀王丸が生誕。そして再起を図るべく京への反攻の狼煙を上げた8月14日の朝、義澄は突然の病を得て亡くなります。享年30歳。余りにも早すぎる死でした(暗殺との説もあり、また亀王丸生誕並びに義澄逝去は現在の高島市朽木町との説もあります)。

義澄逝去の後、六角氏と九里氏は険悪な状態となり、永正11(1514)年に信隆は高頼により謀殺。六角氏はかつて敵対していた義稙への帰順を意志を表明するのです。信隆亡き後は嫡男の浄椿(じょうちん)が継ぎ、六角氏との抗争を繰り広げます。浄椿も父に違わぬ名将で、永正12(1515)年9月の六角氏による大攻勢を見事に撃退しています。

しかし長きに渡る六角氏との戦いにも、遂に終止符が打たれます。

名勝水茎岡碑

永正17(1520)年7月。浄椿は高頼より家督を継いだ次男の定頼(さだより/嫡男の氏綱は早逝)率いる軍勢による奇襲を受け、40日間籠城戦を展開しますが、数百人の餓死者を出し落城。浄椿は辛くも落ち延びます。

そして大永元(1521)年12月。義澄の遺児、亀王丸が12代将軍(義晴/よしはる)に就任したという知らせを聞いた浄椿は、己が使命を全うしたと悟り自害。実質的に九里氏は滅亡しました。13年に渡る水茎の岡を巡る激動の歴史は、静かに幕を閉じたのです。

ちなみにこの尾山の麓にある「水茎の岡」の碑から登山道がありますが、途中からかなり険しい道程となっており、また如何せん「中世の城」跡ですから土塁と堅堀中心の遺構となります。「ちょっと寄り道」といった探訪にはおススメ出来ませんのでご注意を!

なお頭山に存在した本丸の遺構は独立行政法人水資源機構による造成工事で、義澄の御所跡と想定される遺構は湖周道路の整備で残念ながら失われてしまいました。好景気の時代の開発は、実に節操がないものです(ー_ー)!!

最後に全く異なるエピソードを1つご紹介致しましょう。

水茎の岡全域は、近江八幡市牧町(まきちょう)に属します。

このという地名ですが、その昔、天智天皇がここに牧場を整備したのでその名が付いたと伝えられています。湖に島が浮かび、草原に馬たちが戯れている・・・そんな光景を想像してみると、やはりこの地は一級の景勝地であったに違いない・・・そう感じます。

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。