歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今回は水茎の岡(みずくきのおか)の伝説について、前後篇に渡ってご紹介したいと存じます。

近江八幡市西部の琵琶湖畔に岡山と呼ばれる小高い山があります。湖畔沿いにある山は、原則隧道(トンネル)貫通・開削・迂回で整備されている湖周道路にあって唯一「山越え」を強いられる箇所ですので、何となくご記憶があるかと存じます。

岡山

この岡山はパッと見た目は1つの山なのですが、琵琶湖畔に隣接する西端の頭山(左側)、最も高い中心部の尾山(標高187.7m)、東端の小山の3つの峰で構成されています。

かつては水茎内湖(すいけいないこ)の中にあり、四方を湖水で囲まれた小島でしたが、大東亜戦争後の干拓事業により現在の姿になったようです。

岡山はかつて水茎の岡と呼ばれていました。古くは飛鳥~奈良時代に編纂された萬葉集から、平安時代に編纂された古今並びに新古今和歌集に、この地を題材とした歌が四十有余残されています。ではその一部をご紹介しましょう。

水茎の岡 万葉歌碑

“秋風の 日にけに吹けば 水茎の 岡の木の葉も 色づきにけり” (萬葉集)

“雁がねの 寒く鳴きしゆ 水茎の 岡の葛葉は 色づきにけり” (萬葉集)

“水茎の 岡の葛葉も 色づきて 今朝うら悲し 秋の初風” (新古今和歌集)

この地は天皇・公卿・法師・文人・墨客達がこぞって歌の題材としており、当時は文芸史上随一の名勝であったことが窺われます。ちなみに2番目の歌は、岡山を山越えする湖周道路沿いに歌碑が建立されています。

またここが名勝であったことを裏付ける、そして水茎の岡の名のルーツとなった有名なエピソードがあります。

巨勢金岡

平安時代前期。日本画独自の様式を追求・深化させ、大和絵の様式を確立させた功労者とされる宮廷画家で巨勢金岡(こせのかなおか)という人物がおりました。時の権力者の恩寵を受け活躍し、また歌人としても才を発揮し、菅原道真などの知識人とも親交を結ぶ、所謂「世渡り上手さん」でした。

寛平年間(890年代)のこと。金岡は風景画を描くために、この地を訪れました。

いざ絵を描こうとしますが、余りの絶景雄大さに圧倒されてしまいます。そして遂には絵を描くことを諦めてしまい、水茎、即ち筆を折ってしまいました。このことからこの地を水茎の岡筆ヶ崎と呼ぶようになったと伝えられています(ただこの出来事以前に編纂された萬葉集には既に「水茎の岡」の名があることから、年代的に少し疑問が残ります)。

ちなみにこの金岡。これだけの功績の持ち主でありながら、現在本人の作品は何1つ残っていないとのこと。摩訶不思議なことです。

藤ヶ崎龍神

頭山の突端には藤ヶ崎神社があり、龍神様が祀られています。藤ヶ崎の名は恐らく、筆ヶ崎が転じたものと推察されます。滋賀は龍神信仰やアミニズム(自然崇拝)の対象としての磐座(いわくら)が県内各所に点在しています。

藤ヶ崎神社の由緒は定かではありませんが、その昔日野町にある綿向山に住まう龍神様が、竹生島の龍神様のもとへ足繁く通ったなどというお話もあることから、そのルート上に関連する信仰の一環であったのかも知れません(なお最近鳥居が重厚な石造りから朱塗りの鳥居へと変わりました)。

岡山からの琵琶湖の眺望

秋から冬にかけての夕景が特に美しく、頭山と尾山の2つの峰が湖面に影を落とす情景が、他に例を見ぬ美しさだったという水茎の岡。

現在の風景を眺めても、小生にはこれといって感動が沸き起こってきません。干拓の影響でその美しさが失われてしまったのか、それとも小生の感性の問題なのか・・・。

ただ古の人々にとって「特別な場所」であったことは、今でも仄かに感じ取ることが出来ます。

(歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説・後篇もお楽しみに・・・)

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ

ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。