「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
TBSのNスタさんに資料を提供しましたことを契機に、今回は平安末期に源平合戦で平家側の勇猛な武将として名を馳せた平景清(たいらのかげきよ)についてお話をいたしたいと存じます。
“名を馳せた”と前述しましたが、教科書に登場することはほとんどありません。
また一般には平氏に仕え戦ったため俗に“平姓”で呼ばれてはいますが、本来は藤原秀郷(ふじわらのひでさと/滋賀では三上山のムカデ退治に登場する“俵藤太”で知られる)の子孫の伊勢藤原氏であるので、正確には“藤原景清”なのです。
源平合戦で勇猛に戦った実在する武将であった割には彼に関する資料がほとんど残っていないため、とても謎多き人物とされています。肖像画も一般的に知られているのは景清を主題とした浄瑠璃に関連する挿絵(歌川國芳・画)くらいしかありま。
しかし今回景清に縁の深い旅庵寺(りょあんじ/近江八幡市)の特別なお計らいにより、寺宝の肖像画を公開いただきました。
そんな謎多き景清にまつわる伝説は全国各地に残っており(今回Nスタで取り上げられた山口県の秋芳洞もその1つ)、この滋賀にもあります。それが今回ご紹介いたします景清道(かげきよみち)のお話です。
近江八幡市内を、桑實寺(くわのみでら)から、旧安土町上豊浦/小中/慈恩寺を経て中村町の旅庵寺(一説には愛知県から京都・清水寺)に至る道を、地元では“景清道”と呼んでいます。
源平合戦に敗れた後も景清は逃亡し、源頼朝暗殺の機会を虎視眈々と狙っていました。無念にも捕縛されてしまいますが、かつての勇猛振りを惜しまれ頼朝により助命されます。
最終的には九州へ配流され波乱の生涯を終えますが、一時期尾張國(現在の愛知県)熱田に居住していました。
この道は、その時景清が平家再興を祈念するために、京都の清水寺の薬師如来へ参詣する際に通った道。
または一時的に身を寄せていた旅庵寺から桑實寺の薬師如来へ自らの眼病平癒のために百日参りを行った道だとも言われています。
では順を追って景清の足跡を辿ってみましょう。
近江八幡市中村町にあります天台宗の寺院です。景清は一時的にここへ身を寄せていたと伝えられています。
景清が安置したと伝えられる薬師如来を本尊とし、また景清の肖像画も寺宝として残されておりますが、共に非公開です。
同じく旅庵寺の境内にあります。
特に案内板がある訳でもなく、一見何の変哲もない大きな石にしか見えません。
以前は境内の片隅にありましたが、現在は門前に保存されています。
あ、手前のま~るいコンクリートの塊じゃあないですよ~(^^)
近江八幡市安土町慈恩寺の山本川に架かる、景清の名が伝えられる唯一の橋です。
橋本体は平成6年に竣工したものですが、近くにその名を刻む石標が残っており、ここが古くから「景清橋」であったことが窺えます。
この続きは後半で。次回の更新をお楽しみに!
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