Monthly Archives: 10月 2018

源平合戦の隠れた猛将“平景清”が辿りし執念の道(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回も源平合戦悲運の猛将、平景清が辿った足跡についてお話をいたしたいと存じます。

 

袈裟切地蔵

 

近江八幡市安土町上豊浦のJR琵琶湖線の東側にある集落の一角に、首のないお地蔵様が祀られています。

 

景清が桑實寺に参拝の折、そのお地蔵様は景清の真意を探るため容姿端麗な女に化けて誘惑を試みました。

 

しかし景清は動じないどころか「さては妖怪の化身め!」と腰の太刀でその女を一刀両断、袈裟切りにしてしまいました。

 

以来、お地蔵様は「私の首を見付けた者は幸福になる」と言いつつ、未だにその首を探しているのだそうです。

 

景清身丈石(景清の背比べ石)

 

桑實寺の庭園の一角にあります。

 

武具を付けた景清が、身をもたせて休んだ石と伝えられています。

 

ちなみにこの身丈石、実は2代目なのだとか。

 

本来の身丈石は現在庭園内の池の石橋になっているそうです。

 

 

景清目洗い井戸

 

こちらも桑實寺の庭園の一角にあります。

 

景清が百日参りを行った際、眼病を患っていた目を清めたとされる井戸です。

 

今はすっかり枯れてしまったようです。

 

 

 

景清眼洗い井戸

 

こちらは所変わって彦根市芹川町、雨壺山(あまつぼやま/通称:平田山)の麓の公営団地の裏手にあります。

 

戦がもとで負傷した目が悪化し、旅の途中で目を清めるための名水を求めます。そして雨壺山の麓までやって来た時、小魚が群れ遊ぶ美しい水の小川がありました。

 

その小川を辿っていくと、五尺(約150cm)程の大きさの井戸から水がコンコンと湧き出ています。景清がその井戸の水で目を洗うと、体中の疲れが取れ爽快な気分になりました。さらに何度も目を洗うと、次第に痛みも治まってきました。

 

景清は近くに小屋を建て、しばらくこの地に逗留することにしました。その後毎日目を洗ったお陰ですっかりと回復し、また旅を続けたと伝えられています。昭和の高度成長期頃までは原形を留めていたそうですが、現在はコンクリートで整備されこのような姿となってしましました。

 

景清の晩年はかなり不遇であったと伝えられていますが、それ故に贔屓する人々も多かったようで、後の時代には「浄瑠璃」や「歌舞伎」、はたまた「古典落語」の世界でしばしば彼の波乱に満ちた人生が題材として採り上げられています。

 

それにしましても、源平合戦(屋島の戦い)では源氏方の無粋な行為に対して勇猛果敢に攻め立て、また壇ノ浦の戦いから敗走を続けるも平家の再興を願い、何と源頼朝の暗殺の機会を37回も狙ったという 忠臣中の忠臣なのですが、いくら資料に乏しい人物とはいえ現代人の彼に対する評価が余りにも低いと感じるのは私だけでしょうか。

 

さて最後に話題は180度回頭いたしまして・・・

 

まさかナムコが源平討魔伝というアーケードゲーム(後に様々な家庭用ゲーム機へコンシュマー化)の題材に、景清を抜擢していたとは知りませんでした。

 

これがそのゲームに登場する景清なのだそうです。う~ん、これじゃまるでカブキロックスですよねぇ(苦笑)。

 

 

今回は取材範囲がかなり広域に渡り、またとてもマイナーな題材であるため、情報収集に大変苦労しました。しかし多くの方々のお力添えにより、こうして纏め上げることが出来、感無量でございます。

 

情報提供いただきました彦根市芹川町の北川さん、近江八幡市安土町上豊浦の糠さん。情報収集にご協力いただきました彦根市・伊藤仏壇のスタッフの皆さん、安土観光案内所のスタッフの皆さん。また取材に全面協力いただきました旅庵寺の小嶋安寿様、桑實寺の北川住職様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。本当に有難うございました。

 

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源平合戦の隠れた猛将“平景清”が辿りし執念の道(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

TBSのNスタさんに資料を提供しましたことを契機に、今回は平安末期に源平合戦で平家側の勇猛な武将として名を馳せた平景清(たいらのかげきよ)についてお話をいたしたいと存じます。

 

“名を馳せた”と前述しましたが、教科書に登場することはほとんどありません。

 

また一般には平氏に仕え戦ったため俗に“平姓”で呼ばれてはいますが、本来は藤原秀郷(ふじわらのひでさと/滋賀では三上山のムカデ退治に登場する“俵藤太”で知られる)の子孫の伊勢藤原氏であるので、正確には“藤原景清”なのです。

 

源平合戦で勇猛に戦った実在する武将であった割には彼に関する資料がほとんど残っていないため、とても謎多き人物とされています。肖像画も一般的に知られているのは景清を主題とした浄瑠璃に関連する挿絵(歌川國芳・画)くらいしかありま。

 

しかし今回景清に縁の深い旅庵寺(りょあんじ/近江八幡市)の特別なお計らいにより、寺宝の肖像画を公開いただきました。

 

そんな謎多き景清にまつわる伝説は全国各地に残っており(今回Nスタで取り上げられた山口県の秋芳洞もその1つ)、この滋賀にもあります。それが今回ご紹介いたします景清道(かげきよみち)のお話です。

 

 

近江八幡市内を、桑實寺(くわのみでら)から、旧安土町上豊浦/小中/慈恩寺を経て中村町の旅庵寺(一説には愛知県から京都・清水寺)に至る道を、地元では“景清道”と呼んでいます。

 

源平合戦に敗れた後も景清は逃亡し、源頼朝暗殺の機会を虎視眈々と狙っていました。無念にも捕縛されてしまいますが、かつての勇猛振りを惜しまれ頼朝により助命されます。

 

最終的には九州へ配流され波乱の生涯を終えますが、一時期尾張國(現在の愛知県)熱田に居住していました。

 

この道は、その時景清が平家再興を祈念するために、京都の清水寺の薬師如来へ参詣する際に通った道。

 

または一時的に身を寄せていた旅庵寺から桑實寺の薬師如来へ自らの眼病平癒のために百日参りを行った道だとも言われています。

 

では順を追って景清の足跡を辿ってみましょう。

 

旅庵寺

 

近江八幡市中村町にあります天台宗の寺院です。景清は一時的にここへ身を寄せていたと伝えられています。

 

景清が安置したと伝えられる薬師如来を本尊とし、また景清の肖像画も寺宝として残されておりますが、共に非公開です。

 

景清腰掛石

 

同じく旅庵寺の境内にあります。

 

特に案内板がある訳でもなく、一見何の変哲もない大きな石にしか見えません。

 

以前は境内の片隅にありましたが、現在は門前に保存されています。

 

あ、手前のま~るいコンクリートの塊じゃあないですよ~(^^)

 

景清橋

 

近江八幡市安土町慈恩寺の山本川に架かる、景清の名が伝えられる唯一の橋です。

 

橋本体は平成6年に竣工したものですが、近くにその名を刻む石標が残っており、ここが古くから「景清橋」であったことが窺えます。

 

この続きは後半で。次回の更新をお楽しみに!

 

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