戦国三覇者に愛された書家武将“建部傳内”の伝説

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今回は戦国三覇者(信長・秀吉・家康)に愛された書家武将、建部傳内(たてべでんない)についてのお話をいたしたいと存じます。本名は建部賢文(たてべかたぶみ)と称しましたが、残念ながら傳内に関する資料は余り残されていないのです。

 

青蓮院(青不動)傳内は日本三不動の1つである国宝・青不動で知られる京都・東山の青蓮院(しょうれんいん)の第46代門跡、尊鎮法親王(そんちんほうしんのう)の流れを汲む書家で、親王から“傳内流”を名乗ることを特別に許された実力の持ち主でもありました。青蓮院では当時、室町時代初期の第35代門跡・尊円法親王(そんえんほうしんのう)によって“青蓮院流”という書法が編み出され、書の世界での流儀の1つを形成していたのです。

 

建部傳内また傳内は現在の東近江市建部地区に住んでいたため、建部姓を名乗ったとも言われています。

 

当初は南近江の守護大名にして観音寺城城主の六角義賢(ろっかくよしかた)の家臣として仕えていました。

 

しかし六角氏が織田信長との戦いで没落すると、自ら蟄居してしまいます。

 

それを知った羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は彼を説得してヘッドハンティングし、織田信長に仕えることとなります。

 

摠見寺扁額安土城内に建立された摠見寺(そうけんじ)の扁額(へんがく/門戸や室内などに掲げる横に長い額)にある

 

遠景山

下漫々

摠見寺

 

という書は、傳内の揮毫であると言われています。

 

秀吉が天下を掌握すると傳内は祐筆(ゆうひつ/公文書や記録の作成を取り仕切る文官、右筆とも)となります。

 

聚楽第そして京都の聚楽第(じゅらくだい/秀吉の政庁兼邸宅)の揮毫や、豊臣秀次に献上するための「源氏物語」の書写などを手掛けます。

 

なお徳川家康も傳内の才能を認めていたと思われ、徳川実紀(とくがわじっき/江戸時代後期に編纂された江戸幕府の公式記録)には、慶長元(1596)年に傳内を祐筆に抜擢したと記録されています。

 

ただ傳内の没年と整合しないため、恐らく傳内の三男で傳内流を継承し、家康・秀忠二代に渡り仕えた昌興(まさおき)のことであることが推察されます。

 

東光寺建部傳内の墓は近江八幡市安土町西老蘇(にしおいそ)の中山道沿いにある東光寺(とうこうじ)にあるとされているのですが、今となってはどれなのか判然としないそうです。

 

ただこちらには傳内を祀る傳内堂があり、そこには建部傳内の木造が安置されています。

 

同じく西老蘇には、傳内の妹が嫁いだ井上家に傳内書の「百人一首」が残されているとも伝えられています。

 

建部傳内屋敷跡また東近江市五個荘木流町(ごかしょうきながせちょう)の法蓮寺(ほうれんじ)門前には、建部傳内屋敷跡があります。現在は遺徳を偲ぶ記念碑のみが残ります。

 

滋賀県庁文化財保護課城郭調査担当(旧滋賀県安土城郭調査研究所)の資料によりますと、ここは傳内の居城であった建部城が存在したのではないかとされています。

 

この後建部家は、4代100年に渡って江戸幕府の祐筆を務め、名実ともに書家としての地位を確立していったのです。

 

絵画の狩野家、茶道・建築の小堀家、そして書の建部家。“芸は身を助く”とはまさしくこのことですね。決して教科書には載ることのない、「筆で生き抜いた戦国武将」の物語でございました。

 

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