Monthly Archives: 8月 2018

戦国三覇者に愛された書家武将“建部傳内”の伝説

「後藤奇壹の湖國土記」浪漫風に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は戦国三覇者(信長・秀吉・家康)に愛された書家武将、建部傳内(たてべでんない)についてのお話をいたしたいと存じます。本名は建部賢文(たてべかたぶみ)と称しましたが、残念ながら傳内に関する資料は余り残されていないのです。

 

青蓮院(青不動)傳内は日本三不動の1つである国宝・青不動で知られる京都・東山の青蓮院(しょうれんいん)の第46代門跡、尊鎮法親王(そんちんほうしんのう)の流れを汲む書家で、親王から“傳内流”を名乗ることを特別に許された実力の持ち主でもありました。青蓮院では当時、室町時代初期の第35代門跡・尊円法親王(そんえんほうしんのう)によって“青蓮院流”という書法が編み出され、書の世界での流儀の1つを形成していたのです。

 

建部傳内また傳内は現在の東近江市建部地区に住んでいたため、建部姓を名乗ったとも言われています。

 

当初は南近江の守護大名にして観音寺城城主の六角義賢(ろっかくよしかた)の家臣として仕えていました。

 

しかし六角氏が織田信長との戦いで没落すると、自ら蟄居してしまいます。

 

それを知った羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は彼を説得してヘッドハンティングし、織田信長に仕えることとなります。

 

摠見寺扁額安土城内に建立された摠見寺(そうけんじ)の扁額(へんがく/門戸や室内などに掲げる横に長い額)にある

 

遠景山

下漫々

摠見寺

 

という書は、傳内の揮毫であると言われています。

 

秀吉が天下を掌握すると傳内は祐筆(ゆうひつ/公文書や記録の作成を取り仕切る文官、右筆とも)となります。

 

聚楽第そして京都の聚楽第(じゅらくだい/秀吉の政庁兼邸宅)の揮毫や、豊臣秀次に献上するための「源氏物語」の書写などを手掛けます。

 

なお徳川家康も傳内の才能を認めていたと思われ、徳川実紀(とくがわじっき/江戸時代後期に編纂された江戸幕府の公式記録)には、慶長元(1596)年に傳内を祐筆に抜擢したと記録されています。

 

ただ傳内の没年と整合しないため、恐らく傳内の三男で傳内流を継承し、家康・秀忠二代に渡り仕えた昌興(まさおき)のことであることが推察されます。

 

東光寺建部傳内の墓は近江八幡市安土町西老蘇(にしおいそ)の中山道沿いにある東光寺(とうこうじ)にあるとされているのですが、今となってはどれなのか判然としないそうです。

 

ただこちらには傳内を祀る傳内堂があり、そこには建部傳内の木造が安置されています。

 

同じく西老蘇には、傳内の妹が嫁いだ井上家に傳内書の「百人一首」が残されているとも伝えられています。

 

建部傳内屋敷跡また東近江市五個荘木流町(ごかしょうきながせちょう)の法蓮寺(ほうれんじ)門前には、建部傳内屋敷跡があります。現在は遺徳を偲ぶ記念碑のみが残ります。

 

滋賀県庁文化財保護課城郭調査担当(旧滋賀県安土城郭調査研究所)の資料によりますと、ここは傳内の居城であった建部城が存在したのではないかとされています。

 

この後建部家は、4代100年に渡って江戸幕府の祐筆を務め、名実ともに書家としての地位を確立していったのです。

 

絵画の狩野家、茶道・建築の小堀家、そして書の建部家。“芸は身を助く”とはまさしくこのことですね。決して教科書には載ることのない、「筆で生き抜いた戦国武将」の物語でございました。

 

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文豪・島崎藤村が愛した幻の銘酒“桑酒”とは?

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は久し振りに隠れ家ネタをお届け致したいと存じます(^^)

 

この桑酒の存在を知ったのは約8年半前の某東京キー局のバラエティ番組。それまでその販売店の前をクルマで何十回も通りながら、全くその存在に気付きませんでした。

 

今回8年半越しの想いを秘めて訪れることと致しました。

 

場所はもうほとんど福井県に程近い長浜市木之本町。この木之本はかつて近江國と北陸地方を結んでいた北國街道(ほっこくかいどう)の宿場町でした。

 

また日本三大地蔵の1つとされ、眼病平癒の地蔵として信仰を集めている木之本地蔵院(浄信寺)の門前町としても栄えていました。

 

私は幼少の頃より、祖父母の影響で常に“お地蔵さん”と寄り添って暮らしてきました。当然この木之本のお地蔵さんも数え切れない程お参りしています。だからでしょうか、敬虔に「お参り」していたが故に、他のことには全く興味を示さなかったのかも知れません。

 

旧北國街道沿いにある木之本地蔵院から更に街道を北上すること約200m。

 

そこに今回のお目当てである山路酒造(やまじしゅぞう)があります。

 

この山路酒造は、創業天文元(1532)年。

 

何と室町時代後期から480年も続く、日本でも5番目に古い老舗中の老舗の造り酒屋なのです。

 

お店によれば、酒米は有機質肥料を主体に、減農薬によって栽培された滋賀の環境こだわり農産物に認定された特別栽培米「玉栄」や、地元・長浜で無農薬栽培された「山田錦」を用いて、、安全・安心な日本酒づくりをモットーにされています。

 

店構えは昔ながらの造り酒屋の呈を色濃く残しています。

 

やはり軒先に杉玉は欠かせませんね(^^)

 

山路酒造の代表的な銘柄は辛口系の清酒『北國街道』なのですが、今回のお目当てはさにあらず!

 

「造り酒屋の代表的銘柄を素通りするとは何事!」と仰る向きはごもっともですが、まぁそこはご容赦を。

 

そうそうこれです、コレ!

 

こちらのもう1つの代表的なお酒、桑酒(くわざけ)です。

 

「桑酒とは何ぞや?」

 

ではご説明いたしましょう。

 

桑酒の起源は創業期に遡ります。

 

時の当主が「後園の桑を用いて酒をつくれ」との夢のお告げに従ったところ、甘く香ばしい酒が出来て皆に大変喜ばれたとの言い伝えが残っています。

 

そして安土桃山時代には、木之本の宿で京へ上る旅人が疲れて旅が続けられなくなった時、宿の人に勧められ桑酒を呑み、その後木之本地蔵に参拝したのだとか。

 

するとたちどころにして旅を続けられる程に元気を取り戻したのだそうです。その評判が評判を呼び、旅の安全を願ってわざわざここへ立ち寄り買い求める人が多くなったのだそうです。

 

左の写真は、明治・大正期の文豪で『破戒』『夜明け前』の作品で名高い島崎藤村が、桑酒購入のため東京麻布の自宅から寄せた直筆の注文書。

 

2通あり、差出人は何れも藤村の本名である“島崎春樹”。

 

日付は大正14年8月と同10月となっています。

 

定形封筒に藤村専用の透かし入りの便箋を使い、ペン筆で「桑酒一升をお送り下さい」という内容が書かれています。

 

当時の藤村は心臓に疾患を持っていたそうで、桑酒が滋養に良いとの話を聞きつけ、当時としては画期的(!?)な「通信販売」でもって購入していました。

 

ちなみに、江戸時代中期の儒学者で現在の長浜市高月町出身の雨森芳州も愛飲したとの話も伝わっています。

 

昔も今もこの辺りの名物として、お土産や贈答品としても喜ばれています。

 

桑酒は米どころ近江の糯米(もちごめ)と麹(こうじ)と桑の葉を独自の方法で焼酎に漬け込み、伝統みりんの製法に則って作られています。

 

ほのかな香りと口ざわりの良さが特徴で、アルコール度数は清酒よりやや低めの14.5度。リキュール類に分類され、琥珀色に輝く桑酒を冷やし氷を入れてオンザロックにするのが一番。また炭酸水を入れてカクテル調に楽しむのも“アリ”なのだそうです。

 

ちなみに訪問当日私は運転のため、妻に利き酒を依頼。

 

インプレッションとしては、梅酒に似た風味で甘くとても呑みやすいとのことでした。この甘味は梅酒のような砂糖によるものでなく麹由来の自然のものなので、カロリーも然程高くないのだとか。酒がやや苦手な妻が呑みやすいというのですから、女性には断然おススメでしょう(^^)

 

さて最後に、この方のご紹介なくして桑酒は語れません。

 

前述のバラエティ番組で一躍全国に「造り酒屋の美人若女将」として名を馳せられた山路祐子さんです(^^)

 

女将さんの軽妙な語り口に、訪れた誰しもがファンになること請け合いです。

 

なお例の某局バラエティ番組でのエピソードをちょっぴり語っていただきました。

 

そのバラエティ番組では、お店の名前が不倫騒動で一躍有名となった某国際ジャーナリストと同じ“苗字”というオチに使われていました。このことについてTV局からは事前事後共に一切説明はなく、とてもガッカリしたのだとか。

 

おまけにご親戚に同名の方がおられ、この扱いにとても立腹され、火消しに苦労されたのだそうです。TVには気を許しちゃいけませんね(>_<)

 

えっ!?紹介しただけならアンタも某TV局と変わらないだろって?

 

いえいえ、私はちゃ~んと買ってきましたよ。

 

こちら陶器入りの900mlです。他にもガラス瓶に入ったタイプもあります。

 

私は上の写真にある昔ながらの大きな徳利(とっくり)のものが欲しかったのですが、容器を製造されている窯元さんの都合により、現在は廃版となっておりました。

 

残念!(T_T)

 

そんな伝統に捉われない、気さくな雰囲気の造り酒屋さんに是非足をお運びください。

 

なお、お子さんも安心して召し上がれる米100%・甘味料不使用!正真正銘の「甘酒」も少量製造されているのですが・・・残念ながら販売されておられませんでした。

 

兎角木之本の日本酒と言えば『七本槍』がもてはやされていますが、歴史に彩られた伝統の銘品を次代に伝えるためにも、山路酒造さんを応援したいですね。

 

山路酒造

滋賀県長浜市木之本町木之本990
TEL.0749-82-3037
★Web/http://www.hokkokukaidou.com/

 

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『番町皿屋敷』は本当に“怪談噺”だったのか⁉

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は酷暑に於ける一服の清涼剤と致しまして、『怪談・番町皿屋敷』定説に一石を投じる真説(!?)についてお話を致したいと存じます。

 

毎度のことながらこの時期ともなりますと、やれ「怪談」だの「ホラー」だの「ミステリー」だの「心霊」だのをネタにしたTV番組や関連本が世間を賑わしますが・・・最近はそうでもないようで。

 

この種のネタの需要にも“時代の変遷”というものがあるのでしょうか(?_?)

 

それはさておき、皆さん『怪談・番町皿屋敷』はよくご存知ですよね?知らない良い子のために、話の概要をお“さら”いしてみましょう!

 

私たちがよく耳にする「お菊の亡霊が夜な夜な1ま~い、2ま~い・・・最終的になぜか18枚も皿を数えてしまう」というお話ですが、これはこの怪談噺をベースにした『お菊の皿(または皿屋敷)』という古典落語の演目なのです。

 

『皿屋敷』という怪談は日本各地で伝えられており、どこが“本家本元”の話であるのかは不明ですが、概ね「番町皿屋敷 (東京説)」と「播州皿屋敷(兵庫説)」の何れかの話の流れを汲むとされています。

 

お話の概要としましては、

●屋敷の主人が秘蔵する皿のセットのうち一枚を奉公人の娘が割ってしまう。
  またはその娘に恨みを持つ何者かによって皿が隠されてしまう。
●娘はその責任を問われ責め殺される、または娘が自殺する。
●夜な夜な娘の亡霊が現れて、恨めしげに皿を数える。
●娘の祟りによって屋敷の一家に様々な災厄が振りかかり、
  やがて没落してゆく。

というものです。思い出されましたでしょうか。

 

しかしこの皿屋敷の黄金律を覆す説が滋賀には伝えられているのです。それが彦根・長久寺(ちょうきゅうじ)のお菊伝説なのです。

 

今回は長久寺の檀家の方々のご協力を得て取材を敢行。以下は長久寺からご提供頂いた資料をもとに記述致します。

 

時は寛文4(1664)年、彦根藩3代当主・井伊直澄(いいなおずみ)の御代。井伊家で旗奉行を務める重臣・孕石(はらみいし)家には政之進という世継ぎがおり、孕石家に侍女“お菊”とは相思相愛の仲であった。

 

しかし政之進には亡き両親が取り決めた許嫁がおり、また後見人である叔母が結婚をせき立てるため、足軽の出で身分の異なるお菊は心中穏やかではなかった。

 

お菊は思案余って政之進の本心を確かめようと、孕石家に代々伝わる家宝の「白磁浜紋様皿10枚」のうちの1枚を故意に割ってしまった。

 

最初は単なる過失であると思い強く咎めなかった政之進であったが、お菊を糾問するうちにその真相を知り、自分の心を疑われたことを大層口惜しがった。政之進はお菊の面前で、残りの皿9枚を刀の柄頭(つかがしら)で打ち割り、お菊に対する自分の誠の心をかかる仕打ちで試そうとした心根に憤激し、武士の意地が立たぬとその場でお菊を手討ちにした。

 

その後、政之進はお菊を殺害してしまったことを後悔して出家し供養の旅を生涯続けるが、駿河で寂しく亡くなり孕石家(本家)は断絶した。

 

如何ですか、これまでの定説とは全く異なる内容であることがご理解頂けるかと存じます。

 

この伝説は1916(大正5)年、岡本綺堂によって戯曲(演劇上演のために執筆された脚本)化され、1963(昭和38)年には市川雷蔵主演により『手討』というタイトルで映画化されました。

 

実はこのお話には“後日談” があります。

 

手討ちにされたお菊の遺体と割られた皿は実家に引き渡されます。悲運の死を遂げた娘を哀れに思い、お菊の母親が割れた皿を継ぎ合わせて、橋向町(彦根市)にあった長久寺の末寺“養春院”に奉納しました。

 

その後明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく/仏教寺院・仏像・経巻を破毀し僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃する運動)により養春院が廃寺となったため、止む無く長久寺に移されることとなったのです。

 

現在でもそのお菊の皿は長久寺(彦根市後三条町)に安置されており、毎年8月9日の「千日法会」と8月10日の「地蔵会」の2日に限り、一般に公開されています。

 

なお当初は9枚あったのですが、大正期に行われた市内での展示で3枚を紛失し、現存するのは6枚だけとのことです。また国内各地の「お菊伝説」の中でも、“皿”が現存するのはここが唯一なのだそうです。

 

ちなみにこのお菊の皿こと、孕石家の家宝であった白磁浜紋様皿

 

これには確固たる由来がありまして、もともとは彦根藩の初代藩主である井伊直政が、関ヶ原合戦での戦功により徳川家康から拝領したものなのだとか。

 

その後、大坂夏の陣で戦死した政之進の祖父である“孕石源右衛門泰時”の武功を称え、2代藩主・井伊直孝から孕石家に与えられた由緒正しき歴史の証言者なのです。

 

またお菊の墓も長久寺に安置されています。荒廃していた養春院跡から長久寺の無縁塔へ移され、同じく毎年「千日法会」の際に供養が行われています。かれこれもう350年程前に造られた墓石ですが、お菊の法名である「江月妙心」が今でもハッキリと読み取れます。

 

さらにこの事件に接し、彦根藩の彦根屋敷並びに江戸の三屋敷に務める292人の奥方女中が法要を営んだという記録である「奥方供養寄進帳」も長久寺に安置されています(こちらは非公開)。

 

これらの話をまとめますと、冒頭私はお菊“伝説”と申し上げましたが、どうやら「史実」の可能性が非常に高いと感じます。

 

この“悲恋物語”は事件当時、特に江戸の街で支持されたとも伝えられていますので、これを元ネタとして“怪談・番町皿屋敷”が生まれたのかも知れません。

 

2009年3月に放送されたテレビ東京系番組『新説!?日本ミステリー』の中で紹介された際には一躍注目を集めましたが、現在はお菊の心根に共感した女性がちらほら参拝に訪れる程度と聞きます。かつて大河ドラマ『龍馬伝』で一躍世の女性達の共感を呼んだ清運寺(山梨県甲府市)にある千葉佐那(ちばさな)の墓は、番組終了と共にまるで水を打ったかの如く静まり返ってしまいました。“流行り廃れ”に乗っかった参拝は、願わくはご遠慮いただきたいものです。

 

今回の取材にとても親切にご協力頂きました長久寺の檀家の方々に、この場を借り改めて厚く御礼申し上げる次第です。

 

普門山 常心院 長久寺

・滋賀県彦根市後三条町59
【TEL】0749-22-0914

 

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