Monthly Archives: 7月 2018

琵琶湖に世界最大級の佛教遺蹟⁉ “沖の白石”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は日本屈指の世界最大級佛教遺蹟‼・・・かも知れない、沖の白石(おきのしらいし)についてのお話を致したいと存じます。

 

さてここで皆さん、琵琶湖にはいくつの“島”があるのかご存知ですか?
(※人工島を除く)

 

人が住む淡水湖の島としては日本唯一の沖島(おきしま/近江八幡市)。島全体が一大パワースポットの竹生島(ちくぶしま/長浜市)。眺める方向によって全く異なる景色となる多景島(たけしま/彦根市)。大半の方がこの3つの島しかご存知ないのではないでしょうか。

 

それも無理はありません。沖の白石には船舶の定期航路がありませんし、上陸が難しい岩礁状の小さな島ですので、恐らく県民ですら間近に見た人は少ないと思います。

 

沖の白石は高島市・安曇川河口(船木崎)から東方約5.5km、多景島から西方約5kmにあり、大小3つの岩礁から形成されています。

 

周回すると岩の数や色が変わることから化石(ばけいし)、琵琶湖西岸のどこからも3つの岩が見えることから船木三ッ石(ふなきみついし)とも呼ばれています。

 

一番大きな岩の高さは湖面から20m程度ですが、水深は約80mあるので、最低でも最深部から100m前後はあるのではと推定されています。

 

白石の名前の由来は二説あります。1つは日没時の太陽光に照らされて白く見えるからという説。もう1つは、(お食事中の方には大変恐縮ですが)飛来してくる水鳥の糞が長年に渡り付着・堆積して白く見えるからという説です。

 

後者の説には全く“浪漫”を感じませんねぇ(>_<)

 

この島には湖上交通の安全を祈願するために設けられたであろう祠の跡があり、今も昔も湖上船舶航行の方角の指標になっています。

 

但し灯台も何も設置されていませんので、現状夜間の航行ではとても危険な障害物です。

 

さて前置きはこの位に致しまして、本題であるこの島の伝説に移りましょう。

 

話は遥か昔に飛んでしまうの(内容もブッ飛び!!)ですが、今から約2200年前の紀元前200年代。まだ日本が弥生時代のど真ん中だった頃、インドにマウリア朝の第3代王でアショーカ王(阿育王とも)という人物がおりました。

 

生い立ちから、お釈迦さまが生前に予言した「自分が死んで100年後に現れる救世主」その人であるとも呼ばれておりました。

 

しかし実際は大変な暴君で、99人の兄弟を殺害したり、自身の意向に反する大臣を500人殺害したりするなど、その傍若無人ぶりは凄惨を窮めたそうです。

 

しかしカリンガという国を制圧した際、10万人もの捕虜とそれを上回る市民を死に追いやったことに後悔し、その後は仏教に帰依して善政を行ったそうです。

 

その「良い為政者」に生まれ変わったアショーカ王は、後にインドの8箇所に奉納されていた仏舎利(ぶっしゃり/お釈迦さまの遺骨)のうち7箇所を掘り当て、それを細かく粉砕して一粒一粒に分け、さらに微量ずつに小分けする作業を行い、最終的に8万4千の仏塔に納めてインド及び周辺国に再配布したのです。

 

勘の良い方はもうお解りですよね?

 

そうなんです、沖の白石の伝説というのはこの岩が仏塔の1つと伝えられているのです。

 

ちなみに伝承ではアショーカ王が鬼神に命じて空へ投げさせ、各地に落ちたうちの1つであるとされています。

 

つまりこれは、仏塔が“逆さま”に突き刺さっているらしいのです。

 

前文で触れました通り船舶の定期航路がありません。クルーザーかモーターボートでも駆使しない限り接舷することは困難です。

 

ジェットスキーでも航続距離が長駆でないと湖岸からの往復航行は困難ですし、況してカヤックや足漕ぎポートでは余程熟達且つ琵琶湖の環境に精通した方でないと遭難は必至です。

 

でも・・・実はたま~に地元の観光船会社主催で「琵琶湖の島巡り」ツアーが実施されているんです。滅多に行われませんので、告知を見つけたら是非参加してみてください。おまけにほとんど水の上の旅ですから、“暑気払い”にも最適です!

 

ご参考までに⇒⇒⇒ ぐるっとびわ湖島めぐり

 

因みに・・・暑い最中、島に近付いても然程「鳥のウ〇チ」臭くありませんのでご安心を(^^)

 

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“織姫・彦星”天の川伝説は史実だった!? 後篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

引き続き、七夕の織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)天の川伝説は史実だった(かも知れない)というお話について、今回はその真相に迫りたいと存じます。

 

天野川を隔てて朝妻筑摩の対岸、世継にある蛭子(ひるこ)神社ここには世継神社縁起之叟(よつぎじんじゃえんぎのこと)という文献が伝えられています。

 

それによりますと、彦星は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう/第21代天皇)の第四皇子、星河稚宮皇子(ほしのかわのわかみやおうじ)。

 

織姫は仁賢天皇(にんけんてんのう/第24代天皇)の第二皇女の朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)のことであるとしています。

 

叔父と姪の間柄にあった二人は天野川を隔てて仏道の修行を積んでいたが、いつしか恋に落ちた、しかし逢うこともままならず、悲しい恋に終わった・・・とのこと。

 

ちなみにこのお話が残る蛭子神社は、延暦年間(奈良時代末期~平安時代初期)に奈良・興福寺の仁秀僧正(にんしゅうそうじょう)が、この地に興福寺南都別院として法勝寺(ほうしょうじ)を造営する際に共に建てられました。

 

法勝寺は現在の米原市高溝(たかみぞ)付近に建立され、明治時代まではこの辺りに法性寺という地名が残っていました(JR坂田駅の前身は“法性寺駅”でした)。

 

なお近江国坂田郡誌によると星河稚宮皇子と朝嬬皇女の悲恋物語を“七夕伝説”になぞらえて広めたのはどうもこの仁秀のようで、かねてよりこの二人のことを信奉しており、法勝寺建立の際この地に守護神として祀ったようです。

 

史実!とは申しましたがなにやら胡散臭さも・・・まぁ古墳時代の(実在の真偽も不明瞭な)人物のお話ですし、昔のエロい・・・いやいや偉いお坊さんは、意外にもロマンチストだった・・・ということでしょうか^^)

 

さて蛭子神社の境内には朝嬬皇女の墓と称する自然石があり、別名七夕塚(七夕石)とも吾佐嬬石(あさづまいし)とも呼ばれています。

 

かつては境内にひっそりと鎮座していたこの石も、1996(平成8)年に世継神社縁起之叟が発見されてマスコミの注目を浴びたことでキレイに整備され、これを契機に旧暦7月に朝妻神社と合同で七夕祭も再開させたそうです。

 

伝説継承をミッションとする小生としては、こういう「流行り」に乗っかった動きは些か複雑な心境ではありますが・・・(>_<)

 

そしてこちらは対岸の朝妻神社境内にある星河稚宮皇子の墓と伝えられる彦星塚・・・と言いたいところですが、実はよく解らないのです。

 

境内には塚が2つあり、一般的には写真右の宝篋印塔(ほうきょういんとう/墓塔・供養塔等に使われる仏塔の一種)の方だと言われています。おまけに両方とも鎌倉時代後期に造立されたと推定されているため、ますます塚としての信憑性も怪しく・・・。

 

それにしましても、メモリアルのその後の整備の扱いが男女でこんなにも格差があるとは・・・今の時代をも象徴しているのでしょうか、一抹の悲哀を禁じ得ません(>_<)

 

この七夕伝説の他にも、奈良時代にこの地を朝妻王(あさづまのおおきみ/天武天皇の曾孫)が支配し、彦星塚は朝妻王の王廟、七夕塚は王女の墓であるとの説もあります。

 

さて最後に世継神社縁起之叟の一説をご紹介いたします。

 

七月一日から七日間、男性は姫宮に、女性は彦星宮にお祈りし、七日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び合わせて川に流すと、二人は結ばれる・・・云々

 

 

恋に悩む女子は彦星塚に、男子は七夕塚に。

いにしえの習いに従い祈念すべし!

さぁ、恋に悩む草食男子・肉食女子(フレーズ古っ!)の方々よ、ご検討をお祈り申し上げておりまする<(_ _)>

 

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