地方行政崩壊⁉“村ごと消えた村”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

2ヶ月振りの御無沙汰でございます。何分公私共に“激”多忙を窮めておりまして、なかなか記事取材&更新に着手出来ない有様です。週に1日、せめて休日だけは36時間欲しいものです(^^)

 

さて毎週水曜日の午後7時からフジテレビ系列で放送されている『世界の何だコレ⁉ミステリー』という番組をご存知でしょうか?

 

最近はグー〇ルアースで気になったオブジェクトを探索するというコーナーが定番化しており、企画的にもネタ探し的にも些か安易さを禁じ得ないのですが、どうもこれの影響(恩恵?)で水曜日の当ブログのアクセス数が急激に伸びるという怪現象が認められ、幾分複雑な心境にございます。

 

今回はその影響(恩恵?)に便乗しよう!という意図はさらさらございませんが・・・昨今は「過疎地」のことを限界集落などと言うのだそうです。何ともピンと来ないワードです。何が“限界”なのやら・・・世には実に解せぬファジーな言葉が溢れかえっております。

 

山村・農村・漁村の過疎化などは今に始まった訳ではなく、高度成長期の昭和40年代から既に深刻化しているのですが、一頃また何かと話題になっているようです。理由はよく解りませんが・・・。

 

日本のほぼド真ん中にある、比較的インフラには恵まれた滋賀ですが、ご多分に漏れず非常に多くの「限界集落」や「廃村」を抱えています。

 

ただその大半は最小単位の地域(第2次世界大戦後に制定された市町村内の町や字)といった限定的なレベルのものなのです。

 

「限界集落」「廃村」の主な理由としては、

 

■高齢化・挙家離村による人口の減少
■林業・農業・漁業の衰退並びに後継者不足
■ダム建設による移住
■鉱山の廃鉱
■大規模災害による移住

 

といった理由が挙げられます。そんな中、滋賀には全国的にも珍しいレアなケースがあるのです。今回はそのレアケースについてのお話をいたしたいと存じます。

 

かつて犬上郡には脇ヶ畑(わきがはた)という村がありました。1889(明治22)年の「明治の大合併」で、保月(ほうづき)・(すぎ)・五僧(ごそう)の3集落が合併して誕生した村です。

 

平均標高550mという県内屈指の高地の山村で、古くは美濃國(現・岐阜県)時山と中山道の高宮を結ぶ五僧越(ごそうごえ)の中継地として、ここを通商路としていた近江商人で賑わっていました。

 

しかし近代に入り、その地理的条件から『陸の孤島』と化し、戦後行政の集落再編成事業による離村勧奨もあり、1955(昭和30)年に町村合併促進法(昭和の大合併)によって多賀町に併合、昭和50年代前半には廃村となりました。

 

村という一つの行政区画ごと廃村となったのは、滋賀ではこの脇ヶ畑村が唯一の存在であり、全国的にも非常に稀なケースなのです。

 

当然当時ここには村役場があり、小学校・中学校(分校)・郵便局・駐在所、昭和初期までは旅館や商店もありました。

 

ただ最盛期でも人口が500人程度の村でしたのでインフラの整備は恐ろしく遅れ、電気が通じたのは県内で最も遅い1950(昭和25)年。

 

村内の中心を通る“県道上石津多賀線”の開通も1950(昭和25)年。舗装に至っては実に廃村後の1992(平成4)年の完成でした。

 

このような寒村ですが、日本の動乱期には必ず歴史の檜舞台に登場しています。

 

安土・桃山時代末期、関ヶ原合戦で西軍に加勢していた薩摩國の大名・島津義久は小早川秀秋らの裏切りにより一転して敗色濃厚とり、窮地に立たされます。

 

そこで義久は戦場に唯一残された自らの軍勢を脱出させるべく、敵陣を強行突破するという大胆な手段に打って出ます。

 

これが世に言う『島津の前退(まえのき)』で、島津軍は船で本国への脱出を果たすべく和泉國・堺(現在の大阪府堺市)へ向かう途中、五僧越を駆け抜けていきました。以来、五僧越を通称『島津越』とも呼ぶようになりました。

 

今年4月11日に放送されたNHK『歴史秘話ヒストリア』の“心そろえて生き抜いてこそ 島津義弘・奇跡の敵中突破”でも、このことが詳しく解説されました。

 

歴史にもしもは禁物ですが、この強行突破に失敗し島津家が滅亡していたら・・・明治維新は無かった!・・・かも知れません。

 

また幕末には、佐幕派であった伊勢國・桑名藩の動向(桑名騒動)を牽制すべく、勤皇派であった彦根藩は大砲を分解して搬出し、五僧峠に設置して警戒態勢を敷いたこともありました。結局桑名藩が官軍に対して無血開城したため、大砲が火を噴くことはありませんでした。

 

ここでも“もしも”は禁物ですが、桑名藩が徹底抗戦の構えを見せ無血開城に応じていなかったら・・・大河ドラマ『西郷どん』は無かった!・・・のかも知れません。

 

現在は冬季を除いた時期に数人程度の居住が認められるだけで、かつての栄華を偲ぶものは何一つありません。一時期「廃墟ブーム」があり、心ない人たちによる不法侵入や窃盗、破壊行為があったと聞いています。日本人として実に情けない限りです。

 

こちらの集落を訪問される際は、最低限の登山装備の準備と入念な事前計画をしたうえで赴かれることをおススメします。それだけ道のりはとても厳しいのです。あと事前準備には多賀町立図書館所蔵の『脇ヶ畑史話』に目を通されることもおススメします。これを読みますと、村のあらゆる背景が鮮やかに蘇ること請け合いです。

 

あっそうそう、この村は多賀大社の御祭神である伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)が地上に降臨したと伝えられる神聖なエリアで、現在でも厳かな祭礼が行われています(杉坂峠の御神木)。ですので、ナメてかかると有り難くない“ご利益”にあやかるかも・・・です(=_=)

 

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