Monthly Archives: 3月 2018

園城寺夜話(10)“新羅三郎の伝説”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回の園城寺夜話は新羅三郎(しんらさぶろう)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

新羅善神堂参道大津市役所・大津消防局の西手裏山に新羅善神堂(しんらぜんしんどう)と呼ばれるお堂があります。

 

・・・といつものフレーズで始めましたが、この写真をご覧ください。

 

今回のテーマである新羅三郎に纏わるメモリアルを取材するために遊歩道を分け入ったのですが、このように荒れた山道が複雑に入り組んでおり、また現在の園城寺の境内に当たらないため正確な地図もなく、接近には困難を極めました。

 

2回目にして悲願の到達成功!

 

再度すんなり訪問出来る自信が、正直ございませぬ(T_T)

 

新羅善神堂こちらが新羅善神堂。この辺りはかつて新羅の森と呼ばれていたようです(迷って当然!)。

 

前回ご紹介致しました護法善神(鬼子母神)と同様、園城寺の守護神の1つ、新羅明神(しんらみょうじん)が祀られています。

 

そもそもはこの地域の地主神であったと言われてる新羅明神。

 

園城寺との所縁は、円珍が唐から帰国の際、その船の船首に出現した老人が自身を新羅国明神と名乗り、「仏法で日本の民衆を救うための先鋒となるように」と告げられたことによると伝えられています。

 

源義光(新羅三郎)さて今回のお話の主役、新羅三郎とは?

 

新羅三郎とは平安時代後期の武将、源義光(みなもとのよしみつ)のことです。

 

むしろこの方の兄が歴史的にとても有名で、八幡太郎とも称し、源氏の祖先として英雄視され様々な逸話に彩られた人物、源義家です。

 

当時は守護神と定めた神の御前で元服した際に別名を与えられるのが流行りであったようです。

 

義光は三男で、新羅明神の御前で元服したことから、新羅三郎とも呼ばれました。

 

義光は弓馬の名手として知られ、後三年の役の際、長兄の義家が清原武衡・家衡に苦戦しているのを聞きつけ、朝廷に自ら援軍に出向くことを申し出ますが認められず、何と官位を辞してこれに参戦。兄と共に見事な勝利を収めたという情に厚い猛将でした。

 

源義光(新羅三郎)墓しかし義家の死後、源氏の実権を握ろうと野心を起こし、暗殺に冤罪と様々な策謀を画策。遂にはこれが世に明るみにされ失脚。鎌倉幕府開府までの間、源氏の凋落を招いた張本人となってしまうのです。

 

義光の墓は新羅善神堂近くの山間にひっそりと佇んでいます。いまや訪れる人も殆ど居ません。

 

しかし義光が新羅明神の御前で元服したことは、その後の園城寺と源氏との関係を強固なものにしました。

 

以降、幾多の兵火で数多くの堂塔を失う園城寺でしたが、その度に源氏所縁の人々に復興を後押しされたのがその証拠です。

 

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園城寺夜話(9)“千団子の伝説”

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今回の園城寺夜話は千団子(せんだんご)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

護法善神堂園城寺境内の東側中央付近に護法善神堂(ごほうぜんしんどう)と呼ばれる小さなお堂があります。ここには園城寺の守護神である鬼子母神(きしもじん)が祀られています。

 

メインの観光ルートから外れているためか、普段はとてもひっそりとしており、人気もありません。

 

何故鬼子母神がここに祀られているのかと申しますと、開祖・円珍(智証大師)が8歳の頃、突如として目前に鬼子母神が姿を現し、「仏法とあなたを護ってあげましょう」と告げられます。

 

その後、唐に修業へ赴いた際にも遭遇したため、園城寺創建の際一堂を建て祀ったことに由来します。護法善神、つまり法(仏法)を護る善き神、すなわち守護神なのであります。

 

護法善神立像(鬼子母神)鬼子母神は一般に女性の安産を叶え、また子供の健やかな成長を見守る女神として信仰されています。しかしその名の一部にある「鬼」の文字が表すように、本来の姿は信仰のイメージとは真逆の存在であったのです。

 

昔々、今から約2600前のこと。北インドの建陀羅国(けんだらこく/ガンダーラのこと)に半支迦薬叉(はんしかやしゃ/バーンチカとも)という武将がおりました。

 

その妻は大夜叉女で、自らは千人(一説には五百人または1万人とも)の子の母親でありながら、常に人間の子を捕えては食べてしまうため、多くの人々から恐怖と憎悪の念を一身に浴びていました。

 

この狂気の沙汰を見かねた釈迦は、人々とこの女を共に救済するため、彼女が最も溺愛していた末子・ピンガーラを隠します。女は半狂乱となり、世界中を七日七晩探し回りますが、見つけることは出来ません。憔悴し切った女は、助けを求め釈迦に縋ります。

 

すると釈迦は「お前は我が子が千人も居ながら、たった1人姿を消しただけで狂ったように探し回っている。ましてや人間は2人や3人しか子を持たぬのに、これを奪われれば親の悲しみは如何ばかりであろう」と女に説きました。女は深く懺悔して、これまでの罪亡ぼしに仏法を守護し、子供のない人には子供を授け、病気を癒し、一切の障碍から子供を守ることを誓いました。釈迦はピンガーラを女のもとに返し、柘榴(ざくろ)を食物とすることを教えたと伝えられています。

 

千団子祭【HN.風来さん 提供】毎年5月中旬(16~17日)、護法善神堂では千団子祭が執り行われます。千の団子は千人の子の供養のため、そして鬼子母神への供養として柘榴が供えられます。

 

祭礼当日は子供の無事成長にちなみ、植木市・苗市が開かれます。

 

また堂前の放生池では、生きとし生きるもの全ての生命を慈しむ放生会(ほうしょうえ)が執り行われ、子供の無事成長の願いを込めて、その子の名前と年齢を亀の甲羅に書いて池に放します。

 

この時ばかりは普段閑散とした境内も、多くの参詣者で賑わいます。

 

今回の記事作成に際し、資料をご提供頂きましたHN.風来さん、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

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園城寺夜話(8)“弁慶の引摺鐘の伝説”

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今回の園城寺夜話は弁慶の引摺鐘(べんけいのひきずりがね)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 霊鐘堂金堂の西山手に霊鐘堂(れいしょうどう)と呼ばれるお堂があります。

 

ここには弁慶の引摺鐘と呼ばれる銅鐘が奉安されています。

 

無銘ですが奈良時代の作と言われ、国の重要文化財に指定されています。

 

弁慶とは皆さんご存知、源義経の忠臣・武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)のことです。

 

武蔵坊弁慶その昔、同じ天台宗の寺院であった延暦寺と園城寺はとても仲が悪く、何かにつけ争いが絶えませんでした。

 

当時延暦寺で乱暴者として名の知れていた弁慶は、園城寺で散々暴れまわった後、あろうことかこの銅鐘を奪い取り、引き摺りながら延暦寺の大講堂まで運び上げてしまいます。

 

弁慶が早速この鐘を撞きますが、何と「イノー、イノー(関西弁で“帰りたい、帰りたい”)」と響くのです。

 

「そんなに園城寺に帰りたいのか!」と怒った弁慶は、園城寺目掛けて鐘を谷底へ投げ捨ててしまいます。

 

弁慶の引摺鐘この銅鐘の乳(ち/梵鐘特有のイボ状の突起)の擦り切れや傷痕・破目(はめ/割れ)は、その際の痕跡であると伝えられています。

 

またこの鐘は寺に変事がある際、その前兆として不可思議な現象が生じるのだとか。

 

良くないことが起こる時には鐘が汗を掻いて撞いても鳴らず、また良いことが起こる時には自然に鳴るのだそうです。

 

京都の将軍塚と似たエピソードですね(^^)

 

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園城寺夜話(7)“くじ山の伝説”

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今回の園城寺夜話はくじ山の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

如意ヶ嶽(くじ山)子山カントリークラブの裏手、皇子山総合運動公園より西方に望む位置に標高472mの如意ヶ嶽(にょいがたけ)があります。

 

この山はもともと園城寺の寺領で、昔から山笹(クマザサ)が沢山自生していました。

 

 

同じく園城寺の寺領で隣接する南滋賀村と藤尾村ではこの山笹を水田の肥料に活用していましたが、いつも互いの取り分が原因で争いが絶えませんでした。

 

この状況に困り果てた園城寺は仲裁に入り、6月は藤尾村、後の11ヶ月は南滋賀村に伐採の権利を与えることに決めます。

 

山笹(クマザサ)しかし南滋賀村は繁茂期である6月を藤尾村に譲らねばならないことに猛反発。事態は一向に収拾する気配を見せません。

 

この状況にとうとう堪忍袋の緒が切れた園城寺は、伐採権を2村とも剥奪すると言い出します。

 

流石に伐採権を取り上げられてはかなわないと、互いに解決策を協議。

 

結果、くじによって伐採の権利を決め、それ以来この山のことをくじ山と呼ぶそうになったそうです。

 

さて、滋賀側から見たこの山は、これといった特徴のないどこにでもある容姿の山。

 

大文字山の送り火でも京都側ではその様相を一変させます。

 

そうこの山は五山の送り火で有名な大文字山なのです。

 

正確には如意ヶ嶽の西側支峰にあたりますが、同じ山でこうも趣が変わる山も珍しいと思います。

 

かつては京と大津を繋ぐ経路の1つとして重要な拠点として機能していましたが、現在はハイキングコースとして活用されています。

 

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