「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
今回の園城寺夜話は、閼伽井(あかい)の伝説についてご紹介したいと存じます。
園城寺のそもそものルーツは飛鳥時代後期に大津京を造営した天智天皇の孫にあたる大友与多王(おおとものよたのおおきみ)が、父・大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うため、資材を投げ打ち建立したものと伝えられています。
その園城寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井(みい)の寺と呼ばれ、それが転じて三井寺と呼ばれるようになったとされています。
一般的な寺院での本堂にあたる金堂(こんどう)。その西隣に三井寺の名の由来となった井戸の閼伽井屋(あかいのや)があります。
建屋が金堂と僅か数メートルしか離れていないので、残念ながら正面からの撮影が不可能となっています。何故こんなにも隣接して金堂が建造されているのかは皆目謎です。
ちなみに閼伽(あか)とは仏教において仏前などに供養される水のことで、天台寺門宗の宗祖である円珍(智証大師)によって三部灌頂が奉修されたので、閼伽井と呼ばれるようになりました。
現在でもコンコンと湧き出る井戸の水は、園城寺の様々な営みに供されています。
現在の建屋は後に豊臣秀吉の正室・北政所(おね)の命により建立されたもので、もともとは石庭の一部でした。
園城寺は大友与多王の邸跡に建立されたのではとの説もあり、閼伽井を中心とする石庭はそもそも大友氏邸の庭園とされ、現存する日本最古の石庭ではないかとも考えられています。
さてこの園城寺界隈には、この他にも霊泉と呼ばれる井戸の伝説が残っています。
園城寺大門より南東へ約300m。琵琶湖疏水に程近い場所に大練寺(だいれんじ)があります。ここに練貫井(れんがんのい)があります。
かつてここには大津京があり、この井戸の水で練った衣を宮中に献上し、その衣を天智天皇が着用されていたことからその名が付いたとされています。
また天智天皇が行幸されたと言われる古道がこの練貫井の前を通っていて、豊臣秀吉が京の聚楽第から毎日この井戸の水を汲みに来て、点茶(てんちゃ/抹茶をたてること)に用いたとの言い伝えも残っています。
園城寺の閼伽井、逢坂関の走井と並び大津三名水の1つに列せられる程の名水でしたが、明治20(1887)年、琵琶湖疏水の掘削工事で水脈が断たれ、残念ながら現在はその跡しか残っていません。
もう1つ。
園城寺から北方へ約3km、近江神宮の裏山手に宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)があります。
ここの境内に金殿井(かねどののい)があります。
大津京遷都直後、天智天皇が重い病気を患われます。当時天皇の側近の1人(右大臣)で中臣(藤原)鎌足の従兄弟でもあった中臣金(なかとみのかね/?~672年)は、夢で「都の西方にある大木の根本から湧き出る清水を汲んで献上せよ」とのお告げを受けます。
早速山中に分け入り泉を発見、この水を献上するとたちどころに平癒されたとか。
以降疾病に霊験あらたかな霊泉として守られてきましたが、宇佐八幡宮の創建(1065年)に際し、御神水として一般に公開。特に難病諸病に効果が顕著であると、次第に広くその効が伝えられました。 現在毎年8月上旬に霊泉祭が行なわれ、土用の日にこの水を頂くと特に効験があると言われています。
水都とも呼ばれる滋賀に相応しい、“水”にまつわるお話でした(^^)
◆泉涌山 大練寺 (練貫井)
・滋賀県大津市三井寺町9−3
【TEL】 077-522-0318
◆宇佐八幡宮 (金殿井)
・滋賀県大津市錦織1-15
【TEL】 077-522-6812
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