天空の里山紀行(6) “河内中村集落”

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滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第6回は犬上郡多賀町の河内中村(かわちなかむら)集落をご案内致します。

 

河内中村集落011874(明治7)年に河内山女原村・河内宮前村・河内中村・河内下村の四ヶ村が合併して河内村に。

 

1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・甲頭倉・後谷・屏風・霊仙の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。そして最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合され、現在に至ります。

 

河内は霊仙山の南西より発する芹川の上流渓谷に隣接する、標高200~240mの農村です。田地は少なく、主に林業(木材・薪炭)で生計を立てていました。その他、茶や牛蒡も生産し京都に出荷していました。特にここでも『多賀ゴボウ』の生産が盛んで、香味の良い牛蒡であることから特に珍重されたそうです。4つの集落で形成され、最盛期には合わせて400人を超える人口を有しましたが、現在常時在住するのは30人を下回り、子供の姿が消えて久しく高齢化が急速に進んでいます。

 

河内中村集落02河内中村は河内集落の中央やや西方寄りに位置し、芹川渓谷に両岸に家屋が点在しています。まさに「渓谷の秘境村」の様相を呈しています。

 

芹谷ダム建設計画では、ここから下流の水谷(すいだに)に至る山岳地帯に2,700mに渡る導水トンネルを整備し、芹川の増水時にダムへ水流を回避させる予定でした。

 

昭和38年に起案されてから事業中止に至るまで、実に47年間地元住民を翻弄し続けてきたダム計画でした。

 

これは飽くまでも私見ですが、計画中止となって良かったと小生は考えています。高度成長期に潤沢だった県予算の時代ならいざ知らず、貯水を伴わない治水ダムとはいえ大規模な導水トンネルの整備を伴う県政創始以来前代未聞の大工事に、昨今の厳しい予算状況で県民の理解を得続けることは不可能であったと感じています。

 

安養寺この河内中村には特段これといったスポットが存在しないため、隣の河内宮前に属するものの、比較的河内中村近くに位置する安養寺(あんようじ)をご案内致します。

 

飛鳥時代後期に霊仙山には霊山寺が開山され、奈良時代後期にはその七支院が建立されました。

 

安養寺は現在所在が判明している数少ない七支院の1つで、多賀町でも最も古い寺院の部類に入ります。

 

霊仙三蔵慰霊の塚かつて日本人でただ1人、唐で『三蔵(法師)』の称号を与えられた僧・霊仙が、修行時代を霊山寺及びその七支院で過ごしていたとされています。

 

結局霊仙は唐の皇帝に帰国を許されず、国内の政変に巻き込まれ、天長4(827)年に中国五台山の南山霊境寺で暗殺されたと言われています。享年68歳。

 

後に霊仙三蔵顕彰会によって南山霊境寺の土が持ち帰られ、この地に埋められて霊仙三蔵慰霊の塚が建立されています。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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