Monthly Archives: 3月 2017

天空の里山紀行(10) “大佛次郎の足跡”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第10回は前回ご紹介致しました桃原集落に纏わる、ある文豪のエピソードについてご案内致します。

 

大佛次郎その文豪とは大佛次郎(おさらぎ・じろう)のこと。大正・昭和期に活躍した小説家です。

 

新聞小説・時代小説・現代小説・戯曲・ノンフィクション・童話などその類稀なる才能を余すところなく発揮。特に『鞍馬天狗』『赤穂浪士』『パリ燃ゆ』『天皇の世紀』などといった歴史小説は秀逸で、現在でも彼の作品には熱烈なファンが存在します。

 

その大佛次郎が折りに触れ執筆し、深い教養と批判精神に裏打ちされた彼の闊々とした人格の魅力を最もよく表現している随筆&歴史紀行集『大佛次郎随筆集』の「今日の雪」のくだりに、この桃原が登場するのです。

 

桃原集落04.1967(昭和42)年。新幹線に乗車していた彼は、ほんの気まぐれで米原駅を降り立ち、おもむろに多賀大社へと足を運びます。

 

その際利用したタクシーの運転手から『山奥の寒村』の話を耳にし、興味を持った彼はこの桃原を訪れます。

 

風光明媚な故郷・横浜の暮らしに慣れた彼にとって山奥の寒村は『桃源郷』のような幻想を抱いていたのですが、その現実とのギャップに大きなショックを受けます。

 

大佛次郎随筆集記念碑しかしある老婆との出逢いが、彼に様々な場所でのそれぞれの人生というものの持つ重みを痛切に感じさせたのです。

 

そんな大佛次郎の足跡をたどり、ここでの彼の心情に思いを馳せながら訪ねてみるのもまた一興ではないでしょうか。ちなみにこの記念碑は集落の入口にひっそりと佇んでいます。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(9) “桃原集落”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第9回は犬上郡多賀町の桃原(もばら)集落をご案内致します。


桃原集落011874(明治7)年に滋賀県に編入されて桃原村に。

 

1889(明治22)年町村の再編に伴い、芹谷村へ編入されます。

 

最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合され現在に至ります。

 

桃原は芹川上流南岸、標高約320mのカルスト(石灰岩地形)山地の北斜面にある山農村です。

 

桃原集落02田地は少なく、主に柿・茶・ゴボウ・繭・薪炭・杉板・麻布の絣(かすり)などを生産して生計を立てていました。

 

桃原の名は室町時代末期より文献に現れ、豪族・京極政高が南方の阿弥陀峰に桃原城を構えたとあります。

 

比較的大きな集落であったことから、1889(明治22)年に芹谷村の一部になった際にはここに村役場が設置されました。

 

桃原集落03しかし戦後過疎化が急速に進み、今となっては往時の隆盛の面影はありません。

 

ただ立派な民家が数多く残り、また村を離れたかつての住人が定期的に訪れることから、村は比較的良好な状態で保たれています。

 

 

さらにここには昭和10~30年代まで、県内のスキー場の草分け的存在であった多賀(桃原)スキー場がありました。

 

桃原集落(日吉神社)1933(昭和8)年に開設され、近江鉄道や地元によるヒュッテ(山小屋)や冬季のみの民宿が運営されていました。

 

往時は県内はもとより大阪や京都等からもスキー客が来訪。小学生のスキー教室にも活用され、県内屈指のウインタースポーツの拠点として隆盛を極めていました。

 

昭和30年代当時の多賀(桃原)スキー場戦後高度成長期に差し掛かると周囲にも大規模なスキー場が次々と整備され、また積雪量も年々減少の一途をたどり閉鎖を余儀なくされました。

 

跡地には杉が植林され当時を偲ぶよすがはなく、今となってはその存在すら人々の記憶からは失われてしまった感があります。

 

なお桃原は廃村直前の過疎地であり、完全な廃村ではありませんのでご注意ください。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 関西滑雪同友会 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(8) “河内山女原集落”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第8回は犬上郡多賀町の河内山女原(かわちあけびはら)集落をご案内致します。


河内山女原集落011874(明治7)年に河内山女原村・河内宮前村・河内中村・河内下村の四ヶ村が合併して河内村に。

 

1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・甲頭倉・後谷・屏風・霊仙の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。そして最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合され、現在に至ります。

 

河内は霊仙山の南西より発する芹川の上流渓谷に隣接する、標高200~240mの農村です。田地は少なく、主に林業(木材・薪炭)で生計を立てていました。その他、茶や牛蒡も生産し京都に出荷していました。特にここでも『多賀ゴボウ』の生産が盛んで、香味の良い牛蒡であることから特に珍重されたそうです。4つの集落で形成され、最盛期には合わせて400人を超える人口を有しましたが、現在常時在住するのは30人を下回り、子供の姿が消えて久しく高齢化が急速に進んでいます。

 

河内山女原集落02河内山女原は河内集落の最東端に位置し、芹川源流の1つ、権現谷(ごんげんだに)河畔にある集落。河内の中では唯一本川から外れています。山女原は妛原とも表記し、「あけんばら」とも称します。

 

他の集落に比べ平地が広く、また山が開けた地形ではありますが、最も標高が高いゆえ、冬季は積雪で「陸の孤島」と化したといいます。

 

この集落で特徴的なスポットと言えば、地元でも化石採集の場所としても有名な権現谷(ごんげんだに)です。

 

権現谷三重との県境近くにあるアサハギ谷・白谷が合流して、芹川に合流するまでの約3.5kmの渓谷が権現谷です。

 

霊仙山系付近や旧脇ヶ畑村(現・多賀町保月/杉/五僧)一帯に発達するカルスト山地の平坦面を開析する渓谷で、永年の激しい浸食作用により崩壊地形を形成したものです。

 

垂直にそそり立つ岩壁に挟まれ谷底には巨石が累積し、平水時に谷の水は巨礫の間を伏流しているなど、なかなか壮観な・・・というより『死の谷』の様相を呈しています。

 

権現谷の名は昔、修験者が権現様を祀ったことに由来し、現在でも住人により「口の権現」「奥の権現」が祀り継がれています。

 

元行者窟また関西圏でも有数の化石の産出地としても知られ、今までに三葉虫・ウミユリ・サンゴ・フズリナなどが発見されています。こんな山奥でも約2億8000万年前は、ここが海の底だったという証拠ですね。

 

さらにここは「犬戻り」の谷と呼ばれ、余りの険しさに犬も戻ってくると言われる程の難所でした。それが証拠に現在ここを通る権現谷林道は、1942(昭和17)年に起工され、完成するまで何と40年の歳月を費やしたとのことです。現在でも落石が激しく、除去作業が繰り返されています。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(7) “河内宮前集落” 

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滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第7回は犬上郡多賀町の河内宮前(かわちみやまえ)集落をご案内致します。

 

河内宮前集落011874(明治7)年に河内山女原村・河内宮前村・河内中村・河内下村の四ヶ村が合併して河内村に。

 

1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・甲頭倉・後谷・屏風・霊仙の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。

 

そして最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合され、現在に至ります。

 

河内宮前集落02河内は霊仙山の南西より発する芹川の上流渓谷に隣接する、標高200~240mの農村です。

 

田地は少なく、主に林業(木材・薪炭)で生計を立てていました。

 

その他、茶や牛蒡も生産し京都に出荷していました。

 

特にここでも『多賀ゴボウ』の生産が盛んで、香味の良い牛蒡であることから特に珍重されたそうです。

 

八幡神社4つの集落で形成され、最盛期には合わせて400人を超える人口を有しましたが、現在常時在住するのは30人を下回り、子供の姿が消えて久しく高齢化が急速に進んでいます。

 


河内宮前は河内集落の中心部に位置し、最も拓けた集落です。

 

集落の地名は河内の氏神様である八幡神社の門前ということに由来します。かつては彦根駅からここまで近江鉄道バス河内線が運行され、霊仙山登山のハイカーで賑わっていた時代もありました。


河内の風穴この集落随一の観光スポットと言えば、河内の風穴(かわちのふうけつ)です。

 

霊仙山系のカルスト地帯(鈴鹿山脈北部霊仙山山塊石灰岩地帯)に出来た石灰岩の洞穴で、古くは『河内の窟(いわや)』と呼ばれた関西圏はおろか国内でも屈指の鍾乳洞です。

 

4層構造で総延長は約10,020mで国内第3位の長さを誇ります。総面積は1,544m2。。その生成は約55万年前とされ、昭和34(1959)年には県の天然記念物にも指定されています。

 

エチガ谷またコバヤシミジンツボという僅か1mm程度の小さな巻き貝の世界で唯一の生息地として、環境省が定める『日本の重要湿地500』にも選定されています。風穴の内部の気温は摂氏11~13℃で、公開されているのは1・2層のみ。特に第1層は入口の狭さからは想像を絶する広大な洞内に感動を覚えること間違いなしです。かつて村人がここに犬を4匹放したら、うち3匹が三重県の伊勢で発見されたという逸話が残っています。

 

風穴への遊歩道の途中には滋賀でも屈指の湧水清流・エチガ谷が流れており、ここの景観に魅せられたプロの写真家が時折撮影に訪れるそうです。『心と身体の癒し』にはもってこいのスポットです。

 

ちなみに河内の風穴入口にある八幡神社の鳥居前に見慣れぬ物体を発見!!

 

芹谷二宮金次郎何とそこには二宮金次郎像。

 

何故こんなところに?・・・と首をかしげている小生にお声掛け頂いたのが河内観光協会の管理人さんでした。

 

管理人さんは代々の遺業を受け継いで、河内の風穴の管理をされているそうです。

 

この金次郎像はかつて河内の某有志が芹谷分校に寄贈されたものなのだとか。

 

しかし廃校によりここへ里帰りし、いつしか子供の学業成就を願う信仰の対象として、知る人ぞ知る存在になったそうです。

 

河内観光協会売店その他、河内にまつわる色々なお話をご教授頂きました。「夏場は非常に混雑しますが、9月以降は比較的ゆっくりと散策していただけます。残暑しのぎの節は是非どうぞ」とのことでした。

 

【入場料金】     大人500円  小人300円
【営業時間】     9:00~16:00
【休  業  日】     雨天・台風・積雪時
【駐  車  場】     40台 400円(2時間)
【お問合せ先】 TEL.0749-48–0552 

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 河内観光協会 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(6) “河内中村集落”

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滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第6回は犬上郡多賀町の河内中村(かわちなかむら)集落をご案内致します。

 

河内中村集落011874(明治7)年に河内山女原村・河内宮前村・河内中村・河内下村の四ヶ村が合併して河内村に。

 

1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・甲頭倉・後谷・屏風・霊仙の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。そして最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合され、現在に至ります。

 

河内は霊仙山の南西より発する芹川の上流渓谷に隣接する、標高200~240mの農村です。田地は少なく、主に林業(木材・薪炭)で生計を立てていました。その他、茶や牛蒡も生産し京都に出荷していました。特にここでも『多賀ゴボウ』の生産が盛んで、香味の良い牛蒡であることから特に珍重されたそうです。4つの集落で形成され、最盛期には合わせて400人を超える人口を有しましたが、現在常時在住するのは30人を下回り、子供の姿が消えて久しく高齢化が急速に進んでいます。

 

河内中村集落02河内中村は河内集落の中央やや西方寄りに位置し、芹川渓谷に両岸に家屋が点在しています。まさに「渓谷の秘境村」の様相を呈しています。

 

芹谷ダム建設計画では、ここから下流の水谷(すいだに)に至る山岳地帯に2,700mに渡る導水トンネルを整備し、芹川の増水時にダムへ水流を回避させる予定でした。

 

昭和38年に起案されてから事業中止に至るまで、実に47年間地元住民を翻弄し続けてきたダム計画でした。

 

これは飽くまでも私見ですが、計画中止となって良かったと小生は考えています。高度成長期に潤沢だった県予算の時代ならいざ知らず、貯水を伴わない治水ダムとはいえ大規模な導水トンネルの整備を伴う県政創始以来前代未聞の大工事に、昨今の厳しい予算状況で県民の理解を得続けることは不可能であったと感じています。

 

安養寺この河内中村には特段これといったスポットが存在しないため、隣の河内宮前に属するものの、比較的河内中村近くに位置する安養寺(あんようじ)をご案内致します。

 

飛鳥時代後期に霊仙山には霊山寺が開山され、奈良時代後期にはその七支院が建立されました。

 

安養寺は現在所在が判明している数少ない七支院の1つで、多賀町でも最も古い寺院の部類に入ります。

 

霊仙三蔵慰霊の塚かつて日本人でただ1人、唐で『三蔵(法師)』の称号を与えられた僧・霊仙が、修行時代を霊山寺及びその七支院で過ごしていたとされています。

 

結局霊仙は唐の皇帝に帰国を許されず、国内の政変に巻き込まれ、天長4(827)年に中国五台山の南山霊境寺で暗殺されたと言われています。享年68歳。

 

後に霊仙三蔵顕彰会によって南山霊境寺の土が持ち帰られ、この地に埋められて霊仙三蔵慰霊の塚が建立されています。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

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