「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第5回は犬上郡多賀町の河内下村(かわちしもむら)集落をご案内致します。
1874(明治7)年に河内山女原村・河内宮前村・河内中村・河内下村の四ヶ村が合併して河内村に。
1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・甲頭倉・後谷・屏風・霊仙の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。そして最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合され、現在に至ります。
河内は霊仙山の南西より発する芹川の上流渓谷に隣接する、標高200~240mの農村です。田地は少なく、主に林業(木材・薪炭)で生計を立てていました。その他、茶や牛蒡も生産し京都に出荷していました。特にここでも『多賀ゴボウ』の生産が盛んで、香味の良い牛蒡であることから特に珍重されたそうです。4つの集落で形成され、最盛期には合わせて400人を超える人口を有しましたが、現在常時在住するのは30人を下回り、子供の姿が消えて久しく高齢化が急速に進んでいます。
河内下村は河内集落の最西端に位置し、急峻な芹川渓谷に張り付くように家屋が点在しています。その地形から、古の御代より悪天候に見舞われる度に土石流(鉄砲水)や水害に悩まされてきました。
芹谷ダム建設計画の治水工事の一環として、この集落のみ県道の拡張工事が進められたため、予告無しに急に道が広くなるため、集落の場所が直ぐに解ります。
この河内下村には鯖大師(さぱだいし)と呼ばれる、古くから信仰を集める場所があります。河内の奥地にある権現谷へ『行者講』で訪れる参詣者が建立したとも伝えられています。
四国地方には「弘法大師が馬の背に塩鯖を積んだ馬子に出会い、 塩鯖を乞うたが罵倒され断られた。馬子が坂に差し掛かった時、馬が急に腹痛で苦しみ倒れ込んだ。馬子は懺悔して大師に鯖を献じ、馬の病の治癒を懇願する。大師は馬に加持水を与えると元気になり、塩鯖を海中に放ち加持すると蘇り沖に泳いでいった。発心した馬子は出家して大師の弟子となった」という鯖大師の由来が伝えられています。
鯖を3年食さないことにより子宝成就、病気平癒の願いが叶うといわれています。何故このような滋賀の山奥で『鯖』なのかは定かではありませんが、古来より山には怨霊が棲み人々にとりつくとされ、旅に出掛ける際それらを鎮めるために少量の飯を取り分けておくことを「サバ」ともいうことから、旅人達が山越えをする前に旅の安全を祈願してここを訪れたのではないかと推測されます。
次回もお愉しみに(^^)
【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)
【取材協力】 MT TRADING
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!