Monthly Archives: 2月 2017

天空の里山紀行(5) “河内下村集落”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第5回は犬上郡多賀町の河内下村(かわちしもむら)集落をご案内致します。

 

コカコーラホーロー板1874(明治7)年に河内山女原村・河内宮前村・河内中村・河内下村の四ヶ村が合併して河内村に。

 

1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・甲頭倉・後谷・屏風・霊仙の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。そして最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合され、現在に至ります。

 

河内は霊仙山の南西より発する芹川の上流渓谷に隣接する、標高200~240mの農村です。田地は少なく、主に林業(木材・薪炭)で生計を立てていました。その他、茶や牛蒡も生産し京都に出荷していました。特にここでも『多賀ゴボウ』の生産が盛んで、香味の良い牛蒡であることから特に珍重されたそうです。4つの集落で形成され、最盛期には合わせて400人を超える人口を有しましたが、現在常時在住するのは30人を下回り、子供の姿が消えて久しく高齢化が急速に進んでいます。


河内下村集落河内下村は河内集落の最西端に位置し、急峻な芹川渓谷に張り付くように家屋が点在しています。その地形から、古の御代より悪天候に見舞われる度に土石流(鉄砲水)や水害に悩まされてきました。

 

芹谷ダム建設計画の治水工事の一環として、この集落のみ県道の拡張工事が進められたため、予告無しに急に道が広くなるため、集落の場所が直ぐに解ります。

 

この河内下村には鯖大師(さぱだいし)と呼ばれる、古くから信仰を集める場所があります。河内の奥地にある権現谷へ『行者講』で訪れる参詣者が建立したとも伝えられています。


鯖大師四国地方には「弘法大師が馬の背に塩鯖を積んだ馬子に出会い、 塩鯖を乞うたが罵倒され断られた。馬子が坂に差し掛かった時、馬が急に腹痛で苦しみ倒れ込んだ。馬子は懺悔して大師に鯖を献じ、馬の病の治癒を懇願する。大師は馬に加持水を与えると元気になり、塩鯖を海中に放ち加持すると蘇り沖に泳いでいった。発心した馬子は出家して大師の弟子となった」という鯖大師の由来が伝えられています。

 

鯖を3年食さないことにより子宝成就、病気平癒の願いが叶うといわれています。何故このような滋賀の山奥で『鯖』なのかは定かではありませんが、古来より山には怨霊が棲み人々にとりつくとされ、旅に出掛ける際それらを鎮めるために少量の飯を取り分けておくことを「サバ」ともいうことから、旅人達が山越えをする前に旅の安全を祈願してここを訪れたのではないかと推測されます。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(4) “イワス物語”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第4回は昭和の激動期に甲頭倉・屏風・後谷の住人たちが、その栄枯盛衰に翻弄されたある鉱山をご案内致します。


イワス(後谷鉱山跡)彦根近辺から霊仙山系を望むと、一際荒れた岩肌の目立つ箇所があります。標高640mのイワス(岩巣)と呼ばれるこの山には、かつて石灰石を産出する後谷鉱山が存在しました。

 

1935(昭和10)年に彦根でセメント工場を操業させた昭和セメントの原石採掘地として開鉱。

 

イワスから彦根工場(住友大阪セメント彦根工場、現在跡地はイオンタウン彦根店)まで、約5kmの空中索道(ケーブル)で原石輸送を行っていました。

 

旧野沢石綿セメント彦根工場その後所有企業が二転三転し、1949(昭和24)年野沢石綿セメントとなった時に戦後需要で最盛期を迎えます。

 

甲頭倉・屏風・後谷の住人も大半がこの鉱山の採掘作業に従事し、また県外の鉱夫も多数流入したことから、当時はかなりの活況振りだったようです。特に後谷には社員寮も整備され、鉱山特需に沸いたとか。

 

しかし索道輸送の非効率さが急激な需要増に追いつけず、またベルトコンベア方式による原石輸送で操業を開始した同系企業の東亜セメント多賀工場に生産の主力が移行したため、1966(昭和41)年に両工場が住友セメントの傘下に入ると、程なくして廃鉱となりました。

 

今もって高さ約80mにも及ぶ石灰残土の無残な姿を晒し、完全に自然へ還ることを許さぬ様相を呈しています。山あいの寒村に降って湧いたような一迅の好況。果たして周辺住民にとって「真の幸せ」をもたらしたのか否か、今となっては定かではありません。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 甲頭倉創生会 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(3) “後谷集落”

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滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第3回は犬上郡多賀町の後谷(うしろだに)集落をご案内致します。

 

後谷集落011874(明治7)年に滋賀県に編入されて後谷村に。

 

1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・河内・霊仙・甲頭倉・屏風の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。

 

後谷は標高420mのカルスト(石灰岩地形)山地にある農村です。

 

後谷集落02田地は少なく、主に薪炭・茶・牛蒡の生産で生計を立てていました。

 

屏風同様、後谷でも『多賀ゴボウ』が生産されていたそうです。

 

1935(昭和10)年、村内のイワスに石灰石鉱山が開鉱した頃に人口のピークを迎えますが、廃鉱と同時に過疎化が急速に進行しました。

 

多賀町後谷出張所跡(平成15年当時)芹谷村が多賀町に併合された際、後谷出張所が設置されました(但し所在地は水谷/すいだに)。

 

しかし人口の減少と行政サービスの効率化の煽りを受け、ほどなくして閉鎖。

 

しばらくの間建屋も残っていましたが、芹谷ダム建設計画の一環で解体されました。

 

後谷集落(E70系カローラ廃車体)後谷集落は完全に残存する民家も減り、現在は1戸に住人が在住するのみとなっています。

 

ちなみに森へと還ろうとする集落跡の中に、懐かしいトヨタカローラ(E70系)の廃車体を見つけました。

 

鉱山で活況を呈した当時は、村の最新の自家用車として輝きを放っていたのかも知れません。

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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天空の里山紀行(2) “屏風集落”

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滋賀・犬上地区に点在する限界集落の魅力を12週連続でご紹介するシリーズ。第2回は犬上郡多賀町の屏風(びょうぶ)集落をご案内致します。

 

屏風集落011874(明治7)年に滋賀県に編入されて屏風村に、1889(明治22)年に水谷・桃原・向之倉・河内・霊仙・甲頭倉・後谷の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。

 

屏風は甲頭倉と後谷に挟まれた、標高400mのカルスト(石灰岩地形)山地にある農村です。

 

田地は少なく、主に薪炭・石灰焼・茶・牛蒡などの生産で生計を立てていました。江戸期、屏風で作る牛蒡は『多賀ゴボウ』と呼ばれ、特に京都で珍重されたそうです。

 

屏風集落02江戸期には156人居た人口も、明治には既に12戸50人に減少していました。1935(昭和10)年に開鉱した後谷(うしろだに)石灰鉱山に大半の住人が就業し、村は俄かに活況を呈しますが、約30年後の廃鉱と共に没落の一途を辿り、超限界集落へと追い込まれました。

 

集落は山間部の谷間にありますが、大半の民家が立派な石垣の上に建てられているのが特徴です。また瓦屋根が多く、鉱山による往時の隆盛振りが伺えます。


芹川沿いには、かつて多賀小学校芹谷分校が存在しました。

 

多賀小学校芹谷分校(平成12年当時)昭和40年代には児童数も多く分校としては随一の規模と施設を誇りましたが、周辺人口の減少に伴い1993(平成5)年3月に閉校。

 

その後何度も解体の話が浮上しますが、無残な姿を晒しつつも校舎は残されていました。

 

 

しかし芹谷ダム建設計画(平成21年事業中止)に伴う周辺整備の影響と老朽化、そして防犯的観点から遂に解体されてしまいました。

 

屏風岩さらに付近には石灰石の奇景・屏風岩もあり、上級ロッククライマーの穴場的存在となっていますが、近年崩落の危機に瀕していると聞き及びます。

 

なお屏風は廃村直前の過疎地であり、完全な廃村ではありませんのでご注意ください。

 

ちなみに・・・取材を終え帰路に就こうとしましたら、坂の下の民家のお婆ちゃんに郵便物の投函を頼まれてしまいました。

 

一番近いポストでも車で20分はかかるところにしかありませんから。お預かりした物は確かに彦根市内のポストに投函しましたからね、お婆ちゃん(^^)v

 

次回もお愉しみに(^^)

 

【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)

【取材協力】 MT TRADING

 

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