「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
去る11月16日のゴールデンタイムのこと。フジテレビの『世界の何だコレ!?ミステリー』というバラエティ情報番組を視聴しておりましたら、最後に“そこに辿り着く道がない!?樹海の中にある謎の村”なるタイトルが現れ、彦根市の廃村が紹介されました。
僅か14分の枠で(無理矢理?)興味を持たせようというのですから、民放特有の些か過剰な脚色や説明不足な点は否めませんなぁ・・・と思って視ておりました。
ところが番組終了後に県外の知人や当サイトの読者の方々から「どういうところなのか?」との問い合わせが殺到(未だテレビの影響は偉大なり!・・・といったところでしょうか)。
たまたま最近と過去に何度か取材を敢行しておりましたので、テレビ局のフォローという訳ではございませんが、折角興味をお持ち頂いたことに敬意を表し、番組取材の時系列に沿って、4週連続でご紹介致したいと存じます。
なお今回の記事掲載に際しまして、事前に幾つか注意事項をご案内させて頂きます。もし興味を持たれて来訪を試みられる場合は、以下の事項をお守りください。
(1)廃村とはいえ、どの建物・土地にも所有者がいらっしゃいます。みだりに内部(倒壊した建物も含む)に侵入することは、れっきとした犯罪行為となりますので絶対にお止めください。
(2)廃村に通じる林道は非常に幅が狭く、急な傾斜とヘアピンカーブの連続に加え、落石やウェットな路面状況が頻発する危険な道路です。自家用車での来訪は大変リスクを伴うことを予めご承知おきください(冬季は積雪で通行不能となります)。
(3)人の居ない山奥ですから、害獣・害虫(ツキノワグマ・ヤマビル・スズメバチetc)に遭遇する可能性は極めて高くなりますので、細心の注意を払ってください。
(4)公衆電話は当然ありませんし、携帯電話も圏外となります。最悪の事態を想定した装備を準備し、万全のプランを立てたうえで来訪してください。
因みに愛車プリウスでの進入は不可能なため、直近の取材では知り合いの貿易会社さんから「潰れても恨みっこ無し」の条件のもと、ご厚意で商用バンをお借り致しました。
さて先ずフジテレビ取材班が訪れたのは犬上郡多賀町霊仙(りょうぜん)という集落です。
1874(明治7)年に落合・入谷・今畑の三ヶ村が合併して霊仙村に、1889(明治22)年に水谷・桃原・屏風・後谷・向之倉・甲頭倉・河内の七ヶ村と合併して芹谷村の一部となります。そして最終的には1941(昭和16)年多賀町に併合されるという、実に多くの町村の再編を受けて現在に至ります。
多賀町の最東端にある霊仙山系に抱かれた山村で、昭和10年代の人口は200人強と比較的大きな集落でしたが、平成に入り挙家離村が目立ち、現在は廃村直前の状態までに追い込まれています。芹川源流の周辺にたたずむ静寂と緑に包まれた空間です(ただ集落の入口だけは些か不気味な空気感が漂っておりますが・・・)。
番組で「警察捜査中」という怪しげな看板が掲げられていたのは、霊仙三ヶ村の1つで落合(おちあい)という集落です。
あのような表記がされているのには訳が2つあります。
1つは限界集落を狙った不法侵入や窃盗行為が横行している現実。
もう1つは余り報道はされませんが、この周辺では何度か死体遺棄事件が発生しており、所轄の彦根警察署も要重点警戒区域に指定しているからなのです。
かく言う小生も、過去この近辺で職務質問を受けましたが・・・(苦笑)。
落合は霊仙三ヶ村の中で最も東に位置し、標高は約340m、幹道に接する唯一の集落です。
嘉吉元年に記された『興福寺官務牒疏』という文書には、栗太にある金勝寺の別院・観音寺が存在したという表記があります。
少なくとも室町時代初期には開けていたようです。
1874(明治7)年に霊仙村の大字となり、1889(明治22)年に芹谷村へ合併した際に大字霊仙の小字に、1941(昭和16)年多賀町に併合されて現在に至ります。
もともと田圃はなく、茶・牛蒡・薪・炭・繭を生産し、また樵(きこり)や炭焼きで生計を立てていたようです。
集落を通る道は多賀大社から河内(かわち)・霊仙を経て、汗ふき峠を越え醒ヶ井(さめがい)へと通じています。
明治時代までは尾張(愛知)や美濃(岐阜)方面から多賀大社へ参詣する人々がここを間道(抜け道)として利用し、当時はそれなりに賑わっていたようです。
また霊仙の中心の集落ともあって1877(明治10)年に学校が設置され、1947(昭和22)年にそれは多賀小学校霊仙分校となります。
しかし過疎化に伴う児童の急速な減少から1985(昭和60)年には休校、後に廃校となりました。
流石に校舎は残ってはおりませんが、風前の灯火ではあるものの当時の器具庫が未だ存在します。
「昔ここに学校があったんだなぁ」という雰囲気は今でも感じることが出来ます。
こちらは往時の多賀小学校霊仙分校の校舎。
最盛期でも30名前後の児童数の学校にしては、2階建の随分と立派な校舎でした。
但しここでの学びは4年生までで、高学年はここから5km西方にある芹谷分校への通学を強いられました。
いくら高学年とはいえ、往復10kmの山道通学は、相当辛いものであったと推察します。
集落の東端には蓮休寺があり、永年の風雪に晒された姿が痛々しいですが、本堂の内部は非常に美しく保たれており、檀家の信心振りがうかがえます。
数件の民家の軒先の洗い場では水が流れっぱなしになっており、まるでここだけ時が止まってしまったかのような雰囲気を醸し出しています。
なお落合は廃村直前の超限界集落ではでありますが、完全な廃村ではありませんのでご注意ください。
さてさて取材班を乗せたタクシーは、この道をさらに山中へ向かっています。
この先には一体何が待ち受けているのでしょうか(^^)
【参考文献】 角川日本地名大辞典・25滋賀県(角川書店)
【取材協力】 MT TRADING
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