衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説・前篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は、日本三大地蔵の1つに列せられ、県内でも眼病・延命息災のお地蔵様としても名高い、木之本地蔵(きのもとじぞう)にまつわるお話を、2回に渡りお届け致したいと存じます。

 

木之本地蔵大縁日(地蔵坂)JR北陸線・木ノ本駅を下車して直ぐに、とても長い石畳の坂道に出逢います。通称・地蔵坂と呼ばれるこの坂道の先に遠く見える寺院に、木之本地蔵はおはします。

 

しかし、本来はこの坂道のスタート地点が寺院の入口。現在の門前町はもともとの参道に発展したものなのです。

 

(上写真は例年8月22~25日に勤修される木之本地蔵大縁日での地蔵坂の光景)

 

7世紀後半、飛鳥時代も終盤を迎えつつある頃。摂津國・難波浦(現在の大阪府)に、金色に輝く1体の仏像が流れ着きました。時を同じくして天武天皇(てんむてんのう/第40代天皇)はこの仏像の霊夢をご覧になり、「この御仏こそ龍樹(龍樹/2世紀のインドの高僧で日本では八宗の祖と言われる)菩薩が御作りになられた霊験あらたかなものである」として、すぐさま漂流の地に伽藍の建立を命じます。これが金光寺の起源であるとされています。

 

しかし帝はこの御仏を仏法の縁の深い場所でより多くの民衆の拠り所となって欲しいとの想いから、皇紀1335(675)年に薬師寺の開祖・祚蓮(それん)へ縁の深い地を探すよう勅命を出しました。早速祚蓮はこの尊像を奉持して、諸国行脚の旅に出ます。

 

木之本地蔵院(浄信寺)祚蓮は北国街道を下った時のこと、丁度柳の大木があったのでその下に尊像を下ろし、しばし休息をとりました。そして再び出発しようとしたのですが、尊像はその場から全く動かすことが出来ず、何と前にも増して金光を放ちました。

 

周囲は一面光明に包まれ、病に伏せる者はたちまち治癒し、災難に見舞われし者は立ちどころに難が消除しました。


祚蓮は「誠に地蔵菩薩は不可思議の霊像である。この光こそ衆生(民衆)の救済、諸難諸病を遁れ願い成就する光だ、この地こそ地蔵菩薩の有縁の地であるから、ここに安置して人々の暮らしを幸福へと導きたい」と語り、この地に伽藍の建設が始まります。これが木之本地蔵の草創と伝えられています。

 

この地での御縁を結んだ柳の木の下での出来事に因み、柳本山金光善寺と号して一寺を建立しました。後にこの地は「柳の本(やなぎのもと)」と呼ばれ、これが転じて「木之本(きのもと)」になったといいます。

 

さて、参拝される皆さんは「木之本のお地蔵さん」と親しげに話されるのですが、意外にも寺院の正式名称は余り知られていません。木之本地蔵院とも呼ばれますが、これは通称なのです。

 

昌泰元(898)年、醍醐天皇の勅旨により菅原道真が参拝。これを機会として長祈山浄信寺(ちょうきざんじょうしんじ)と改号されました。よって浄信寺が正しい名前になります。


木之本地蔵菩薩大銅像様々なエピソードに彩られた本尊の木造地蔵菩薩立像(但し現存するものは鎌倉期の作)は国指定重要文化財で、秘仏のため一般公開されていません。

 

そこでより多くの人々にお地蔵様のご加護を受けて貰いたいとの想いから、明治24(1891)年から27年にかけて、本尊のお写しとして約3倍の大きさに建立されたのが、日本最大の地蔵菩薩銅像であり浄信寺のシンボル的存在の木之本地蔵菩薩大銅像です。

 

造営当時は県内はもとより、愛知や岐阜や福井からも銅鏡を集め、それらを溶かして造られたのだとか。

 

また大東亜戦争中は軍需省より厳しい供出命令を受けましたが、「地蔵菩薩は信仰の対象である」として三十世住職其阿上人学樹足下はそれを拒否しました。真言宗阿闍梨・班目日仏や東條英機の妻である東条勝子などの援助もあって供出を免れました。

 

あの東京・渋谷駅前のハチ公銅像ですら、反対運動も空しく戦時中のどさくさに紛れて供出されてしまったのですから、木之本のお地蔵さんのパワーはスゴいですね。

 

最後に、木之本のお地蔵さんは眼病快癒にご利益があることでも有名です。

 

境内を見渡すと、無数の「蛙の陶器」が置かれていることに気づきます。

 

でもよ~~~く見ると、蛙の何かが違います。何と全ての蛙が片眼をつむっているのです(ウインクしている訳ではございません)。

 

身代わり蛙その昔、浄信寺の庭園には沢山の蛙が棲んでいました。連日、木之本のお地蔵さんには眼病を患った多くの参拝者が訪れます。蛙たちはその姿に接し大変心を痛め、「全ての人々の大切な眼が、お地蔵様の御加護を戴けますように」「全ての人々が健康な生活を営むことが出来ますように」と自ら身代わりの願を掛け、片方の眼をつむり暮らすようになったと言われています。

 


これが現在、身代わり蛙と呼ばれて眼病快癒の願掛けに用いられているのです。

 

地元の方々にとって木之本のお地蔵さんは日々の暮らしと密接に繋がっており、現在でも老若男女を問わず、門前を通る際に必ずお辞儀をしていく光景がとても印象的であり、日本人としての誇らしさを感じるのです。

 

(衆生に光明もたらす菩薩の慈悲“木之本地蔵”の伝説 後篇もお楽しみに・・・)

 

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