「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
今回は我が故郷の戦争遺産第3弾としまして、霊峰・伊吹山にありました海軍航空技術廠 伊吹山測候所航空機着氷観測所に関するお話をお届けいたしたいと存じます。
滋賀の自然で琵琶湖と同じくシンボリックな存在である伊吹山(標高1,377m)。
かつてここには気象観測の要とも言うべき測候所( そっこうしょ/観測した気象資料の 通報・報告を主業務とする気象庁管区気象台の下部組織)が設置されていました。
大正7(1918)年12月。当時の滋賀県知事であった森正隆が高層気象観測の必要性を提唱し、2代目・下郷伝平(長浜出身の実業家)と本山彦一(大阪毎日新聞社長)の寄付を得て竣工。
翌年1月1日より、滋賀県立彦根測候所付属伊吹山観測所として観測を開始しました。
昭和4(1929)年5月には国営に移管され、中央気象台付属伊吹山測候所に。
以降厳しい環境の中、2度の施設更新を経て、平成13(2001)年3月31日に観測を終了するまで実に83年余りの長きに渡り、貴重な気象観測データを提供し続けてきました。
さて測候所のお話はまたの機会に致したいと存じます。
本題に戻りまして、大東亜戦争末期のこと。海軍航空技術廠は高高度並びに寒冷地での航空機運用に関する様々な影響のデータ収集のため、当時「雪の博士」として著名な北海道大学理学部教授・中谷宇吉郎の協力を得て、北海道・ニセコアンヌプリ(標高1,308m)山頂に実験施設(着氷観測所)の整備を計画します。戦後の混乱で長年その詳細がベールに包まれていましたが、平成11(1999)年8月に現地で零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の右主翼が発見され俄かに注目を浴びたのは記憶に新しいところです。
ニセコ山頂着氷観測所の昭和18(1943)年本観測開始に先駆けて、海軍航空技術廠の要請を受け、中央気象台(気象庁の前身)主導による各種予備観測が実施されます。観測は富士山・岩手山・伊吹山にある各測候所が担当しました。
伊吹山測候所に設置された施設は、正式に海軍名古屋兵器廠航空機着氷実験施設と称しました。
ここでは主翼前縁部のゴム張処理や、薬品(エチレングリ コール・パインオイル等 )の循環・塗布・滲出(しんしゅつ/にじみ出ること)に関する実験等が行われたとされています。
しかし残念ながら、どの程度の期間、どの程度の規模でどのような実験を行い、どのような具体的成果が得られたかについては今現在資料が見つかっていません。
平成13年に気象観測を終えた伊吹山測候所ですが、山頂のシンボル的存在としてその後も建屋は残されました。
余り注目はされませんでしたが、当時の実験施設の一部として鉄塔とコンクリート土台もそのままになっていたのです。
しかし平成22(2010)年10月。
測候所は老朽化のため解体。同時に戦争遺産の痕跡も撤去されてしまいました。施設の痕跡を失ってからその存在が注目されたのは、実に皮肉なことです。
結局、伊吹山頂に発生する霧の如く、実態は未だ謎のベールに包まれたままなのです。
異なる視点でお届け致しました「我が故郷の戦争遺産」は如何でしたでしょうか。“戦争の事実”を後世に伝えていくためにも、また機会を見つけてご紹介していきたいと存じます。
【参考文献】 写真でふりかえる伊吹山物語(みんなが楽しい伊吹山プロジェクト 編)
日本気象学会機関誌・天気 2006年12月号(日本気象学会 編)
★アーカイブスサイト「後藤奇壹の湖國浪漫風土記・淡海鏡」も是非ご覧ください!
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こんばんは。
いつも楽しみに拝読させていただいております。
失礼ですがブログの画面で気になっていることがありますのでコメントさせていただきます。
画面の右カラムで記事を画像付きでロールさせ露出を図っておられますが、他のブログを見るのと違い、
歴史書と同じように真剣に読んでいます。
歳もとり目も悪くなっているせいか、本文を読んでいる時のロールが気になります。
どうしてほしいというのではなく、個人的な意見としてコメントさせていただきました。
>爺爺の手習い 様
何時もご高覧戴きまして誠に有難うございます。
ご指摘の件、設置の初期にスクロールさせる時間の調整も実施しつつ色々と試みて
おりました。しかし当方も最近、RSSフィードサーバーの不具合やビジュアル
効果についても考えるところがあり思案していたところでした。ご意見に倣い、
本日付で停止しました。今後とも貴重な御意見を賜れば幸いに存じます。
有難うございました< (_ _)>