Monthly Archives: 10月 2015

我が故郷の戦争遺産“陸軍兵器補給廠 関ケ原火薬庫”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

前回で今年の我が故郷の戦争遺産シリーズは終了しましたが、伊吹山関連の取材・情報収集時に広大且つ希少な戦争遺産が直ぐ近くに存在するという情報を入手。追加取材して参りましたので、今回は番外篇をお届け致したいと存じます。


伊吹山麓の南東側に位置する岐阜県関ケ原町。徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が覇権を争った日本国内史上最大規模のバトルフィールド、関ケ原合戦の舞台であったことは余りにも有名です。

 

昨今の歴史並びに戦国武将ブームで俄かにまた注目を浴びている関ケ原ですが、その天下分け目の戦いから約300年後。日本陸軍によって、当時「東洋一の規模を誇る火薬庫」が整備されたことは意外に知られていません。その施設は名古屋陸軍兵器補給廠 関ケ原分廠と称しました。

 

所在地である玉地区の地名に因み通称・玉の火薬庫とも呼ばれたこの軍事施設は、地元住民(玉・関ケ原地区)の大半が建設の動員に従事し、大正元(1912)年に着工。周囲約6km、面積約270ha(東京ドーム約58個分)の広大な敷地に、洞窟式火薬庫5棟・半洞窟式火薬庫15棟・地上清涼火薬庫28棟・乾燥火薬庫1棟が整備され、大正3(1914)年に開設しました。建設当初は第三師団歩兵第五旅団第六十八聯隊(岐阜)が指揮を執り、後に歩兵第六旅団第十九聯隊(敦賀)に交代。完成後は第九師団歩兵第十九聯隊(同じく敦賀)の管理下となり、以降大東亜戦争終結迄の31年間に渡り使用されました。

 

正門(営門)跡伊吹山ドライブウェイ入口付近の国道365号・玉交差点。ここから県道229号を南下します。この道路はかつての軍用道に沿って整備されたものです。

 

交差点から約900mの地点の山間、道路沿いに2本の石柱が突如として現れます。これがかつての正門(営門)の石柱です。県道整備の際に位置がスライドしていますが、ここから軍用地であるという威厳は今に至っても示しています。

 

ここは施設の玄関口に当るため、当時は歩哨(監視兵)や憲兵(軍警察)たちが詰める管理事務所(営兵所・憲兵分廠)が設置されていました。


衛兵所・憲兵分廠施設群跡鬱蒼とした雑草や竹林の中に、現在でも建屋の一部を構成していたであろう煉瓦造の遺構の一部が残っています。

 

写真では判然としませんが、位置的に見て炊事場もしくは風呂跡ではないかと推察されます。今となっては、ほぼ自然へと還りつつある状態です。

 

正門跡から移動すること約650m。

 

道路の南側には岐阜県下屈指のアミューズメントパークであった関ケ原メナードラン(遊園地)及びメナード国際スケートセンター(スケート場)が、かつて存在した場所です。

 

半洞窟式火薬庫跡入場ゲート近辺には、当時可愛いキャラクターたちがカラフルに描かれていたであろう壁面が今でも残っています。

 

遊園地の名残りと思いきや、実はこれが半洞窟式火薬庫跡なのです。鉄筋コンクリート製の建屋に土を盛り植栽で擬装された構造になります。

 

各扉の上には棟番号が掲示されています。

 

実はこのアミューズメントパーク。半洞窟式火薬庫ゾーンの上にそのまま建設されたものなのです。幼少の頃何度か遊びに行きましたが、まさかこれが火薬庫などという物騒なものだったとは・・・当時は知る由もありませんでした。現在でも約半数の火薬庫が現存しますが、私有地のため公開はされていません。

 

立哨台道路を挟んで反対の北側には、草むらの中にひっそりと立哨台が残っています。立哨台とは歩哨の詰所のことです。この施設にはかつて7基の立哨台が存在しましたが、現存するのは3基のみ。

 

右上がアミューズメントパーク前にある地上清涼火薬庫誘導路入口のもの。右下は第一~二洞窟式火薬庫誘導路前、左が第三~五洞窟式火薬庫誘導路前のものになります。

 

一見同じように見えますが、微妙に形状が異なるのが興味深いところ。因みに第三~五洞窟式火薬庫誘導路前の立哨台は、(何故か)撮影スポットになっています。それにしても、この建屋自体は2m足らずの高さに内部も直径50cm程度のスペースしかありませんから、当時の日本人は本当に小さかったんだなぁと改めて思います。

 

火薬倉庫用土塁さて地上清涼火薬庫誘導路入口の立哨台に戻りまして、この先にはコンクリート製のトンネルが残っています。

 

これは山をくり抜いて造られたものでは無く、人工的に築かれた堤防状の設備に設置されたものです。火薬倉庫用土塁と呼ばれるもので、各火薬庫毎の周囲に設けられました。

 

万が一火災や爆発が発生した際、他の火薬庫に延焼や誘爆を防止するために設けられたもので、当時は用地境界線を示す鉄条網が張り巡らされ、更にその内側は樹木伐採による防火線が設置されるなど、管理並びに警備には厳重且つ万全を期していたようです。

 

また入口付近から各火薬庫には線路が敷設され、トロッコにて輸送が行われていました。よってこのトンネルはトロッコ線の通り道であったということなのです。なおこの奥にあったとされる地上清涼火薬庫跡は跡形もありません。

 

関ヶ原鍾乳洞入口案内さて更に進むこと約330m。これまで眼を凝らしていないと見過ごしてしまう遺構ばかりでしたが、ここでようやく施設の本丸にご対面です。この看板が目印(昔は火薬庫の案内板はありませんでしたけど・・・)。

 

関ケ原鍾乳洞は「穴場の心霊スポットだ」とか「出てくると原始人になる」とか「ある意味“寒い”」とか色々と逸話のあるスポットですが、興味のある方は是非チャレンジしてください(^^)

 

ここには山腹に掘られた洞窟式火薬庫5棟の全てが現存します。

 

洞窟式第一~四火薬庫小山を掘削し、内部にコンクリートを注入。上部を更に山土で覆い、植栽して山林のように擬装されました。

 

【左上】 第一火薬庫

【右上】 第二火薬庫

【左下】 第三火薬庫

【右下】 第四火薬庫

 

ポータル(玄関)付近の土が崩れているのは、盛土で造られたことの証明です。

 

洞窟式第五火薬庫これまで特に史蹟として整備されることもなく、荒れるに任せる状態でした。

 

今回一番奥にある第五火薬庫が終戦70年を機会として整備され、庫内の一部が一般公開されています。

 

公開時間は9時から17時までですが、11月末までの特別公開ですのでご注意ください。

 

どの洞窟式火薬庫も同様の間取り・構造です。

 

第五火薬庫内部(1)ポータルから入ると直ぐドーム状の小部屋があります。何とこの火薬庫は湿度や温度変化から火薬を守るため、魔法瓶のような二重構造になっているのです。

 

全方位火薬庫の周囲は空洞になっており、特に上部や側面はメインテナンスのために約1mの通路状になっています。写真奥の両側に見えるのがメインテナンス通路への入口です。

 

他の火薬庫もここまでは覗けるのですが、特別公開されている第五火薬庫はその奥の火薬保管庫も見ることが出来ます。

 

第五火薬庫内部(2)内部は当時国内では未だ希少だった鉄筋コンクリートを用いて、完全に気密処理が施されています。ここに当時、最大で重量80トンの火薬が保管出来ました。

 

こういった堅牢な火薬庫の他にも、緊急時の火薬疎開の為に露天掘りの素掘洞窟庫が、この広大な敷地内に何と170棟もあったそうです。流石に山中の奥深くにあり場所も特定出来ないので、訪問は見送りました(>_<)

 

最後に火薬庫エリアからは少し離れるのですが、関ヶ原町の中心部にある関ケ原町歴史民俗資料館には、施設設置時に整備された軍用道の為に架けられた橋の親柱が残っています。

 

旧藤古川橋梁親柱これが藤古川橋親柱です。新しい橋に架け替えられる際、こちらに移設、保存されました。上部にある星のマークが、陸軍主導で進められた建設工事であったことの証。火薬というデリケートな物資を搬出入するための重要な架橋であるということで、当時の最高の技術と莫大な建設費用が惜しみなく注がれたと言われています。

 

当時は積雪も比較的多く、湿度もある程度高い、また古くから勾配の険しい難所でもあったここ関ケ原エリアを選定した経緯は今となっては知る由もありません。しかし日本列島のほぼ中間点でもあり、太平洋側・日本海側ヘのアクセスも近く、また物資輸送の大動脈であった東海道線の沿線でもあったことから、物資供給のストックヤードの機能を果たすには最適の地であったのかも知れません。

 

伊吹山に隣接するこの一帯は乱気流が発生しやすく、航空機からの標的になりにくいとの理由も一説にはあるようです。しかしこの火薬庫が開設された同時期に、第一次世界大戦で日本海軍は中国・青島(チンタオ)会戦に於いて初めて2機の航空機(複葉水上機)を戦場に投入しました。当時未だ日本軍は航空機の有効性に懐疑的でしたから、この説は後に取って付けられたものでしょう。

 

進駐軍はこの火薬庫の存在を戦後になって初めて確認したようで、この規模の施設が無傷で残存していたことに驚愕したとか。火薬は全て進駐軍が接収・処分。地上の設備は全て戦災復興の為の資材として解体されます。

 

玉の火薬庫戦跡地図その後、残った洞窟式・半洞窟式の火薬庫は、地元民によって倉庫やキノコ栽培用のプラントとして活用されました。

 

高度成長期には遊園地・鍾乳洞とともに一大テーマパークとしてそれなりの来訪者があったそうですが、関ヶ原メナードランドが平成12(2000)年10月1日で休園(翌年1月31日に正式閉園)してからは、急速に忘れ去られた存在となったようです。

 

今年、関ケ原観光協会並びに関ケ原町歴史民俗資料館主導により一部の遺構の整備、並びに公開、パネル展示が行われています。自衛隊施設内を除き、滋賀にはこれ程の遺構を残す戦争遺産は存在しません。この事実を後世に残していくためにも、願わくは本格的な保存・修復に向けた事業へと繋がって欲しいと思う次第です。

 

なお見学・散策される際は、事前に下記施設までお問合せされることをお勧めいたします(^^♪

 

関ケ原観光協会

・岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原894-58
【TEL】  0584-43-1600
【受付時間】   9:00 ~17:00

関ケ原町歴史民俗資料館

・岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原894-28
【TEL】  0584-43-2665
【営業時間】   9:00 ~16:30(入館は15:50迄)
【休館日】  毎週月曜日/12月29日~1月3日
【入館料】  大人350円/ 小人200円

 

アーカイブスサイト後藤奇壹の湖國浪漫風土記・淡海鏡も是非ご覧ください! 

 

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


我が故郷の戦争遺産“海軍航空技術廠 伊吹山測候所航空機着氷観測所”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は我が故郷の戦争遺産第3弾としまして、霊峰・伊吹山にありました海軍航空技術廠 伊吹山測候所航空機着氷観測所に関するお話をお届けいたしたいと存じます。

 

伊吹山滋賀の自然で琵琶湖と同じくシンボリックな存在である伊吹山(標高1,377m)。

 

かつてここには気象観測の要とも言うべき測候所( そっこうしょ/観測した気象資料の 通報・報告を主業務とする気象庁管区気象台の下部組織)が設置されていました。

 

大正7(1918)年12月。当時の滋賀県知事であった森正隆が高層気象観測の必要性を提唱し、2代目・下郷伝平(長浜出身の実業家)と本山彦一(大阪毎日新聞社長)の寄付を得て竣工。

 

翌年1月1日より、滋賀県立彦根測候所付属伊吹山観測所として観測を開始しました。

 

2代目伊吹山測候所【写真でふりかえる伊吹山物語 所載】昭和4(1929)年5月には国営に移管され、中央気象台付属伊吹山測候所に。

 

以降厳しい環境の中、2度の施設更新を経て、平成13(2001)年3月31日に観測を終了するまで実に83年余りの長きに渡り、貴重な気象観測データを提供し続けてきました。

 

さて測候所のお話はまたの機会に致したいと存じます。

 

本題に戻りまして、大東亜戦争末期のこと。海軍航空技術廠は高高度並びに寒冷地での航空機運用に関する様々な影響のデータ収集のため、当時「雪の博士」として著名な北海道大学理学部教授・中谷宇吉郎の協力を得て、北海道・ニセコアンヌプリ(標高1,308m)山頂に実験施設(着氷観測所)の整備を計画します。戦後の混乱で長年その詳細がベールに包まれていましたが、平成11(1999)年8月に現地で零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の右主翼が発見され俄かに注目を浴びたのは記憶に新しいところです。


海軍航空機着氷実験施設跡【写真でふりかえる伊吹山物語 所載】ニセコ山頂着氷観測所の昭和18(1943)年本観測開始に先駆けて、海軍航空技術廠の要請を受け、中央気象台(気象庁の前身)主導による各種予備観測が実施されます。観測は富士山・岩手山・伊吹山にある各測候所が担当しました。

 

伊吹山測候所に設置された施設は、正式に海軍名古屋兵器廠航空機着氷実験施設と称しました。

 

ここでは主翼前縁部のゴム張処理や、薬品(エチレングリ コール・パインオイル等 )の循環・塗布・滲出(しんしゅつ/にじみ出ること)に関する実験等が行われたとされています。

 

しかし残念ながら、どの程度の期間、どの程度の規模でどのような実験を行い、どのような具体的成果が得られたかについては今現在資料が見つかっていません。


3代目伊吹山測候所(2010年8月当時)平成13年に気象観測を終えた伊吹山測候所ですが、山頂のシンボル的存在としてその後も建屋は残されました。

 

余り注目はされませんでしたが、当時の実験施設の一部として鉄塔とコンクリート土台もそのままになっていたのです。

 

しかし平成22(2010)年10月。

 

測候所は老朽化のため解体。同時に戦争遺産の痕跡も撤去されてしまいました。施設の痕跡を失ってからその存在が注目されたのは、実に皮肉なことです。

 

結局、伊吹山頂に発生する霧の如く、実態は未だ謎のベールに包まれたままなのです。

 

異なる視点でお届け致しました「我が故郷の戦争遺産」は如何でしたでしょうか。“戦争の事実”を後世に伝えていくためにも、また機会を見つけてご紹介していきたいと存じます。

 

【参考文献】 写真でふりかえる伊吹山物語(みんなが楽しい伊吹山プロジェクト 編)
          日本気象学会機関誌・天気 2006年12月号(日本気象学会 編)

 

アーカイブスサイト後藤奇壹の湖國浪漫風土記・淡海鏡も是非ご覧ください! 

 

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!