「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
少々回り道を致しましたが、今回は戦時國内捕虜の闘いの第3弾をお届けいたしたいと存じます。
野洲市北部。琵琶湖にも程近く、家棟川(やのむねがわ)に隣接する野田(のだ)の集落には、広大な田園地帯が広がります。
その中に周囲の風景には不似合いな、大きな規模の墓地があります。ここにはかつて大阪俘虜収容所第23分所がありました。
播磨分所(兵庫県相生市)のオランダ兵捕虜200人(大半がオランダ植民地下の徴用インドネシア人で本国兵は10人程度、後に4人転出)を事実上疎開させるために、昭和20(1945)年5月18日に開設(8月に第8分所に改称)。
使役者は滋賀県で、捕虜たちは野田沼(のだぬま)の干拓事業並びに干拓地の農作業に従事していました。なお事業自体は昭和18(1943)年より着手されています。
整備された農地は395,000㎡。3箇所の俘虜収容所の兵士たちが従事した干拓事業の中では、最も規模の小さいものでした。
しかし家棟川が天井川(川底が周辺の平面地よりも高い河川)ということもあり、内陸の沼地ではありましたが低地で出水も多かったことから、工事は決して容易なものでは無かったようです。
現在でも、当時野田沼から家棟川へ排水するための排水機場(ポンプ施設)が残っています。建物の中には排水機器もそのままになっており、往時を偲ぶ貴重な施設です。
こちらも戦時下の労働力並びに技術者不足という事情もあって、完成したのはスタートしてから8年後の昭和26年。
結果として意図されていた戦時中の食糧増産には間に合いませんでした。
ですが、彼等の干拓事業での過酷な労働は戦後日本の食糧事情改善に大きく貢献することとなります。終戦時、1人の死者も出ることなく解放されたのは幸いでした。
こちらの収容所は捕虜と監視兵並びに近隣住民が比較的良好な関係を保っていたためか、混乱もなく収容者は送還されていきました。
また終戦直後、連合軍(アメリカ空軍)のボーイングB-17戦略爆撃機により、捕虜に対して補給物資のパラシュート投下が実施された際にも、近隣住民に食料等が好意的に提供されたそうです。
役割を終えた収容所は破却され更地となりました。その後、サーカスや芝居小屋が招致され、一時期周辺地域の娯楽の拠点として機能していました。
しかし昭和28年に旧野田村の共同墓地へと転用されました。
現在墓地には当時使用されていた井戸が残っており、今でも水を湛えています。他の2施設が当時の面影を完全に消失しているのに対し、ここは排水機場跡も含め貴重な戦争遺産を今に伝える唯一の存在です。
ここにかつて灌漑や漁場として最適な湖沼が存在したとは到底思えませんが、今でもその片鱗を近辺で垣間見ることが出来ます。
右の写真は田舟(たぶね)というもので、湖沼や水郷などで乗用として、また農作物の運搬用として使用されたものです。
これらは既に御役御免となったものですが、干拓完了後も水気が多く、舟が必要不可欠であったことを物語っています。
【参考文献】 捕虜収容所補給作戦~B-29部隊最後の作戦(奥住喜重・工藤洋三・福林徹 著)
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