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今回は戦時國内捕虜の闘いの第2弾をお届けいたしたいと存じます。
JR能登川(のとがわ)駅から西に約2kmの地点にある東近江市伊庭(いば)町。内湖に面し田園が広がる風光明媚なこの場所に、かつて大阪俘虜収容所第24分所がありました。
大阪本所と播磨分所(兵庫県相生市)の捕虜301人(アメリカ兵109人・オランダ兵69人・イギリス兵67人・オーストラリア兵55人・ニュージーランド軍医1人)を事実上疎開させるために、昭和20(1945)年5月18日に開設(8月に第9分所に改称)。
県下に設置された収容所の中では最大の規模でした。
使役者は滋賀県で、捕虜たちは小中湖(しょうなかのこ)の干拓事業に従事していました。なお事業自体は昭和17(1942)年に県営事業として計画が決定。昭和19(1944)年4月から農地開拓営団により着手されています。
小中湖は当時滋賀の内湖としては最大の規模を誇った大中湖(だいなかのこ)の南に位置し、西の湖・弁天内湖・伊庭内湖の3つを総称してそう呼ばれていました。
干拓の対象となったのは、弁天内湖と伊庭内湖の2箇所。整備された農地は3,421,000㎡に及びました(西の湖の干拓は小規模に止まり、現在県下最大の内湖として残っています)。
こちらも戦時下の労働力並びに技術者不足という事情もあって、完成したのはスタートしてから5年後の昭和22年。結果として意図されていた戦時中の食糧増産には間に合いませんでした。
ですが、彼等の干拓事業での過酷な労働は戦後日本の食糧事情改善に大きく貢献することとなります。終戦時、1人の死者も出ることなく解放されたのは幸いでした。
終戦直後、連合軍(アメリカ空軍)のボーイングB-17戦略爆撃機により、捕虜に対して補給物資のパラシュート投下が実施されました。
捕虜の数人が近隣の子供達を集めて、ガムやチョコレートを分け与えたとか。当時の子供達のおやつと言えばトマトや米菓といったものだったので、大変珍しがったそうです。
また監視兵による暴力も横行していたようで、戦後捕虜や進駐軍の報復を恐れて逃亡を図る者、アメリカ第8軍軍事法廷(横浜裁判)でBC級戦犯として有罪となった者もいたと伝えられています。
現在、僅かに残った伊庭内湖の一部(須田川)に隣接する金毘羅神社より東側の一帯に、かつて収容所が設置されていたとされています。
こちらも今や当時を偲ぶものは何ひとつ残ってはいません。
【参考文献】 捕虜収容所補給作戦~B-29部隊最後の作戦(奥住喜重・工藤洋三・福林徹 著)
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