我が故郷の戦争遺産“戦時國内捕虜の闘い(1)”

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今回は我が故郷の戦争遺産第2弾としまして、大東亜戦争戦時下の國内捕虜に関連したお話を3回に渡りお届けいたしたいと存じます。

 

皆さんは捕虜という言葉をご存知ですか?

 

捕虜(ほりょ)とは戦時国際法に於いて、「戦争や内戦等の武力紛争下で敵対する勢力の権力下に陥った紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部を成す民兵隊又は義勇隊の構成員」を指します。ちなみに第2次世界大戦以前は俘虜(ふりょ)と呼ばれていました。

 

旧日本軍も大東亜戦争開戦当初は勝利を重ねていましたので、当然捕虜を収容していました。『戦場にかける橋』『戦場のメリークリスマス』といった映画をイメージ頂ければ結構なのですが、何れも占領地(外地)でのお話。国内にも各地に捕虜を収容する施設が設置されていたことは、意外と知られていないのです(無論教科書にも記載はありません)。

 

近畿地区には、昭和17(1942)年9月23日に大阪俘虜収容所(大阪市港区)が開設されました。阪神工業地帯に於ける工場での労働に従事させる捕虜を管理・監督していましたが、戦争末期になると本土決戦への防備と空襲回避のため、都市部の施設は近畿一円に分散疎開していきました。滋賀も例外ではなく、3箇所に分所が設けられています。

 

大阪俘虜収容所第10分所【捕虜収容所補給作戦 所載】JR米原駅から南に約1km。かつて米原市梅ヶ原(うめがはら)の国道8号(当時国道はありません)近くに、大阪俘虜収容所第25分所がありました。

 

神戸脇浜分所のアメリカ兵・オーストラリア兵を中心とする捕虜199人を事実上疎開させるために、昭和20(1945)年5月18日に開設されました(8月に第10分所に改称)。

 

使役者は滋賀県で、捕虜たちは入江内湖(いりえないこ)の干拓事業並びに同地での農作業に従事していました。収容所の立地は水捌けが悪いため宿舎は高床式になっており、そこに藁を敷いて生活していたとか。そのためか暖かい季節であったのにも関わらず、寒さに耐え忍んでいたという証言もあります。

 

干拓は開所の前年から国営事業として開始されていました。

 

入江内湖干拓地しかし入江内湖は東西約2km、南北約3km、周囲約8km、面積約3,300,000㎡(整備された農地は3,050,000㎡)と琵琶湖の内湖としては第2の規模を擁し、また戦時下の労働力並びに技術者不足という事情もあって、完成したのはスタートしてから6年後の昭和25年。

 

結果として意図されていた戦時中の食糧増産には間に合いませんでした。

 

ですが、彼等の干拓事業での過酷な労働は戦後日本の食糧事情改善に大きく貢献することとなります。終戦時、1人の死者も出ることなく解放されたのは幸いでした。

 

なお終戦直後、連合軍(アメリカ空軍)のボーイングB-17戦略爆撃機により、捕虜に対して補給物資のパラシュート投下が実施されたのですが、その一部を拾って隠し持っていた村民がいたと伝えられています。それだけ当時の國民は疲弊困窮していたということでしょう。

 

大阪俘虜収容所第10分所跡國内に抑留されていた捕虜の待遇は、周囲の住民の暮らしに比べれば未だ恵まれていたのかも知れません。

 

現在、米原駅前東側周辺は大規模な再開発が進められています。かつて収容所が設置されていた場所も宅地造成されてしまい、今や当時を偲ぶものは何ひとつ残ってはいません。

 

【参考文献】 捕虜収容所補給作戦~B-29部隊最後の作戦(奥住喜重・工藤洋三・福林徹 著)

 

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