Monthly Archives: 7月 2015

我が故郷の戦争遺産“戦時國内捕虜の闘い(1)”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は我が故郷の戦争遺産第2弾としまして、大東亜戦争戦時下の國内捕虜に関連したお話を3回に渡りお届けいたしたいと存じます。

 

皆さんは捕虜という言葉をご存知ですか?

 

捕虜(ほりょ)とは戦時国際法に於いて、「戦争や内戦等の武力紛争下で敵対する勢力の権力下に陥った紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部を成す民兵隊又は義勇隊の構成員」を指します。ちなみに第2次世界大戦以前は俘虜(ふりょ)と呼ばれていました。

 

旧日本軍も大東亜戦争開戦当初は勝利を重ねていましたので、当然捕虜を収容していました。『戦場にかける橋』『戦場のメリークリスマス』といった映画をイメージ頂ければ結構なのですが、何れも占領地(外地)でのお話。国内にも各地に捕虜を収容する施設が設置されていたことは、意外と知られていないのです(無論教科書にも記載はありません)。

 

近畿地区には、昭和17(1942)年9月23日に大阪俘虜収容所(大阪市港区)が開設されました。阪神工業地帯に於ける工場での労働に従事させる捕虜を管理・監督していましたが、戦争末期になると本土決戦への防備と空襲回避のため、都市部の施設は近畿一円に分散疎開していきました。滋賀も例外ではなく、3箇所に分所が設けられています。

 

大阪俘虜収容所第10分所【捕虜収容所補給作戦 所載】JR米原駅から南に約1km。かつて米原市梅ヶ原(うめがはら)の国道8号(当時国道はありません)近くに、大阪俘虜収容所第25分所がありました。

 

神戸脇浜分所のアメリカ兵・オーストラリア兵を中心とする捕虜199人を事実上疎開させるために、昭和20(1945)年5月18日に開設されました(8月に第10分所に改称)。

 

使役者は滋賀県で、捕虜たちは入江内湖(いりえないこ)の干拓事業並びに同地での農作業に従事していました。収容所の立地は水捌けが悪いため宿舎は高床式になっており、そこに藁を敷いて生活していたとか。そのためか暖かい季節であったのにも関わらず、寒さに耐え忍んでいたという証言もあります。

 

干拓は開所の前年から国営事業として開始されていました。

 

入江内湖干拓地しかし入江内湖は東西約2km、南北約3km、周囲約8km、面積約3,300,000㎡(整備された農地は3,050,000㎡)と琵琶湖の内湖としては第2の規模を擁し、また戦時下の労働力並びに技術者不足という事情もあって、完成したのはスタートしてから6年後の昭和25年。

 

結果として意図されていた戦時中の食糧増産には間に合いませんでした。

 

ですが、彼等の干拓事業での過酷な労働は戦後日本の食糧事情改善に大きく貢献することとなります。終戦時、1人の死者も出ることなく解放されたのは幸いでした。

 

なお終戦直後、連合軍(アメリカ空軍)のボーイングB-17戦略爆撃機により、捕虜に対して補給物資のパラシュート投下が実施されたのですが、その一部を拾って隠し持っていた村民がいたと伝えられています。それだけ当時の國民は疲弊困窮していたということでしょう。

 

大阪俘虜収容所第10分所跡國内に抑留されていた捕虜の待遇は、周囲の住民の暮らしに比べれば未だ恵まれていたのかも知れません。

 

現在、米原駅前東側周辺は大規模な再開発が進められています。かつて収容所が設置されていた場所も宅地造成されてしまい、今や当時を偲ぶものは何ひとつ残ってはいません。

 

【参考文献】 捕虜収容所補給作戦~B-29部隊最後の作戦(奥住喜重・工藤洋三・福林徹 著)

 

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中世当代一の色男秘話“泡子塚”の伝説

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今回は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した当代きっての色男(?)、西行(さい
ぎょう)にまつわるお話をいたしたいと存じます。

 

中山道六十九次の第61番宿場で湧水の郷としても名高い醒井(さめがい)。ここに泡子塚(あわ
こづか)と呼ばれる場所があります。

 

西行を色男と紹介しましたが、決して「軽薄な人物」ではございません。

 

西行(佐藤義清)もとは佐藤義清(さとうのりきよ)という武士で、大化の改新を成し遂げた功労者の1人である中臣(藤原)鎌足を祖とするバリバリのエリート。

 

また生命を深く見つめ花鳥風月をこよなく愛した大歌人としても知られ、文武両道・頭脳明晰・容姿端麗とはまさに彼のためにある言葉であると断言しても過言ではない程のスーパーウルトライケメンであったのです。

 

しかし彼の周囲で巻き起こった様々な出来事に世の無常を痛感し、約束されていたエリートの道を捨て、22歳の若さで出家するという、何とも破天荒な人生を送った人物なのです。

 

さてその西行が東国へ赴く際の途上(40歳代後半か?)のことです。

 

西行は醒井に立ち寄り、この泉の畔にある茶店で休憩をしていました。

 

泡子塚(西行水)案内出家していたとはいえ、そこはかとなく漂う妖艶な色男振りに茶店の娘がたちまち心惹かれ恋をし、西行の立ち去った後に飲み残した茶の泡を思わず口に含んでしまうのです。

 

すると不思議なことに娘は懐妊してしまい、やがて可愛い男の子を出産しました。

 

数か月後。東国からの帰途、再び西行はこの醒井を訪れます。

 

そして茶店の娘からことの一部始終を耳にするのです。

 

西行は男の子を熟視して、「今一滴の泡変じてこれ児なる、もし我が子ならば元の泡に還れ(本当に私が飲み残した茶の泡を口に含んで生まれた子であるなら、もとの泡に還れ)」と祈り、

 

水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢を すすぎてやみむ

 

と歌を詠みました。

 

泡子塚すると男の子はたちまち泡となってしまったのです。

 

 

あまりの不可思議な出来事に西行自身も大変驚きましたが、確かに我が子であると認め、湧き出る清水の畔に供養のための五輪塔を建立しました。

 

岩の上にあるこの五輪塔には「仁安三年子年立 一煎一服一期終即今端的雲脚泡」と刻まれています。また今でもこの辺りの地名(小字名)を“児醒井”と呼ぶそうです。

 

ちなみに・・・

 

泡子延命地蔵尊御遺跡実は近江八幡市西生来(にしょうらい)町の中山道沿いにも同じようなお話が語り継がれています。

 

沿道にある泡子延命地蔵尊御遺跡がそのお話の舞台ですが、主人公の名前が明らかでない(犯人不詳)こと以外はほぼ全く話の筋が同じなのです。

 

犯人はここも「西行」その人であるような気がしてならないのてすが・・・

 

そのような下世話なことを考えるのは私だけでしょうか・・・ねぇ?(^^)

 

アーカイブスサイト後藤奇壹の湖國浪漫風土記・淡海鏡では、『湖國納涼散歩』シリーズと題しまして、初秋に掛けを求める旅をご案内。スタートとして泡子塚ゆかりの湧水の郷・醒井をご紹介しておりますので、こちらも是非ご覧ください! 

 

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とある機関車の終焉、そして追憶の彼方へ

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三岐鉄道 保々車両区お隣の三重県にある地方私鉄、三岐(さんぎ)鉄道。その中核路線である三岐線に、保々(ほぼ)という駅があります。

 

同駅構内にはCTC(列車集中制御)センターを始め、車両区や施設区があり、三岐線の中枢的役割を担っています。

 

去る5月のことです。

 

この保々駅構内の片隅で、人知れずこの世に別れを告げた1輌の電気機関車がありました。その機関車の名はED500形502号機。またの名をいぶき500形502号機と称しました。

 

昭和27(1952)年6月。ライオン印の“ライオンセメント”で知られていた大阪窯業セメント(現在の住友大阪セメント)は、伊吹山に石灰石鉱山(伊吹鉱山)を操業。翌月、山麓にセメント加工プラント(伊吹工場)を新設しました。同時にバラセメントの大量輸送のため、国鉄(現JR)近江長岡駅に接続する全長3.7kmの貨物線(伊吹工場専用線)が整備されます。

 

伊吹工場専用線の車庫で休息する在りし日のいぶき501・502(1994年5月)昭和30(1955)年に東海道線・稲沢~米原間が電化。これに追随して翌年1月に同専用線も電化され、日立製作所製の自社発注電気機関車が2輌導入されました。

 

 

運転整備重量が50tであることと、導入路線に因み、いぶき500形(501・502号機)と命名されます。

 

上の写真は、まだ小生が社会人成り立ての頃、運転休止日に伊吹工場構内での撮影を特別に許可戴いた時のものです。製造から40年近く経過しているとは思えぬほどの“艶っぷり”。大変大事に扱われていたことが窺えました。

 

運用は平日のみの6往復で、長いセメント貨物列車を従えて地道に活躍。長年日本のインフラ整備の根幹の一端を担いました。しかしモータリゼーションと国内鉱山の需要低下の波には勝てず、平成11(1999)年6月28日をもって運行を終了。開業から47年の歴史に幕を下ろし、2輌の機関車もお役御免となりました。

 

セメント輸送はトラックに切り換えられ、専用線の鉄道設備は程なくして全て撤去されました。

 

住友大阪セメント伊吹工場専用線跡(2009年9月)現在同線跡は伊吹せんろみちと称するサイクリングロード&遊歩道として整備され、かつての線路跡を辿ることが出来ます。またトンネルや橋梁も一部が残されており、現役当時の面影を偲ばせます。

 

右写真の舗装道路がかつての路線跡です。ホームや待合室様の建築物は、公園設備として後から設置されたものです(レールと枕木は本来の場所から移設されていますがホンモノです)。

 

さて、廃線後も車庫に保管されていた機関車たち。平成11(1999)年8月に廃車となり、このまま専用線と運命を共にするかと思われました。しかし幸運にも遠く静岡は大井川鐵道に譲渡されることが決定。同年10月にトラックにて移送。殆ど原形を留めた状態で、翌年2月22日にED500形として竣工。3月18日より同社名物・SL列車の補機として第2の人生をスタートさせました。

 

大井川鐵道で活躍するいぶき501(2008年8月)しかし運命とは数奇なもの。

 

平成17(2005)年2月開港を目指す中部国際空港建設用埋立土砂輸送のために機関車不足となる三岐鉄道からの要請を受諾。501号機は貸与、502号機は売却という形で再び移送されることに。同社での運用に合わせた改造を受け、平成12(2000)年5月18日より運用を開始。大井川鐵道での活躍は僅か2ヶ月足らずでした。

 

いきなり訪れた第3の人生は勝手知ったる本来の姿。土砂輸送が完了するまでの約2年半、三岐鉄道の貨物輸送の一端を担いました。

 

しかしこれまで常に寄り添って活躍してきたこの2輌に今生の別れが訪れます。土砂輸送が終了した平成14(2002)年10月29日。余剰となった2輌はこの日をもって廃車。翌年3月18日に貸与扱いであった501号機は大井川鐵道へ返却。502号機は三岐線の終点・西藤原駅の構内で静態保存されることとなりました。かつて伊吹専用線で活躍し一足先に里帰りを果たしていたE101形蒸気機関車(102号機)と共に、この地で静かに余生を送るはずでした。

 

三岐鉄道で静態保存されていたいぶき502(2005年2月)しかし運命とは残酷なもの。

 

屋根下展示であったE101形と異なり、露天展示されていた502号機は老朽化が急速に進行。保存状態を維持することが困難となりました。平成26(2014)年8月には保々車両区へと回送。約9ヶ月の間雨晒しにされ、後に解体となりました。使用可能な部品は、501号機用のスペアとして大井川鐵道へ引き渡された模様です。

 

そして502号機がこの世を去った同時期。大井川鐵道は名古屋鉄道の傘下から離脱し、地域経済活性化支援機構の支援のもと、静岡銀行とエクリプス日高による事業再生を受け、厳しい経営改善への道を歩むこととなりました。既に老朽化した電機置換用として、西武鉄道からE31形3輌が譲渡されており、501号機も終生安泰とは言えない状況になっています。

 

今となってはどうしようもないことですが、502号機を何等かの形で滋賀に里帰りさせてやれれば良かったのにと、悔恨の念が募るばかりです。ただせめてこの502号機の尊い犠牲が、501号機のあと40年動態運用へ繋がってくれればと、祈らずにはいられないのです。

 

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