「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
“挺身水泡に帰す、幻の彦根海軍飛行場”後篇をお届けいたします。
戦後施設は米軍の報復を恐れた地元民によって早々に破壊・焼却され、土地は全て地主に返却されました。後にGHQ主導による農地改革施策により集落所有の絵図類や地券図など地元が所有する資料に基づいて農地復旧の基本計画が策定され、それに従い昭和24(1949)年までに滑走路はもとの農地へと戻りました。現在は何の痕跡も残っていません。
2箇所の軍需工場ですが、そのうち西馬場(にしばんば)工場は再びオーミケンシ彦根工場として製糸事業を再開させ、日本の高度成長を支えることになります。
そして平成10(1998)年10月、遂にその役目を終え閉鎖。現在はカインズモール彦根となっています。
一方、外町(とまち)工場は閉鎖されオーミ造園の資材置場となります。
製品搬出用に敷設されていた近江鉄道の引込線跡のレールも部分的に残り、当時の面影を僅かながらにも保っていましたが、現在は分譲住宅地に姿を変え、当時を振り返るものは何も残っていません。
そんななか、唯一残る痕跡。
それは外町工場跡近くにあるJR/近江鉄道の踏切。
近江航空踏切という名称が残るのみです。
さて彦根海軍飛行場には後日談があります。
終戦直後、多賀の出身であった海軍のとある航空兵が「飛行禁止命令」の中をかいくぐり、鹿児島の鹿屋(かのや)飛行場からこの地へ帰還したという逸話が残っているのです。
周辺住民はこの機体がアメリカ軍に発見されることを恐れ、分解してリヤカーに載せ、滑走路から約1km離れた多賀土田池に廃棄したというのです。
帰還したという方も既にお亡くなりになっており、周辺住民の証言とはいえ当時子供であったことから記憶が曖昧で確固たる情報とはいえないのですが、この事実を検証しようという団体があります。それが多賀池旧海軍機保存会です。
あくまでも任意団体ですので、会員は全て一般の方々。活動資金も潤沢でなく、残念ながら実情は休眠状態にあります。しかし何とか結果を残そうと、燃えたぎる熱い情熱の灯だけは皆さん失っておられません。
ちなみに小生も“賛助会員”の1人でありまして、副会長さんとは懇意にしていただいております。
失われた痕跡は残すことが出来ませんが、せめて“記憶”だけでもしっかり後世に残していきたいと思います。
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